閉じる


14.翼と愛菜

14-1

 
「愛菜、一体どうしたんだ?」

翼は通話を終えたケータイを見つめながら呟く。
ただ彼がいまわかっていることは、普段の彼女からは考えられないほど感情的な口調で「早く来て」と訴えかけていたことだった。

「すいません、ちょっと急いで下さい」
とにかく一刻も早く新宿に着かなければと思いたったのか、翼は現在乗っているタクシーの運転手に急ぐように促した。



『あの愛菜が一体どうしたって言うんだ』

そう胸に秘めながら、次々と移り行く車窓の眺めを置き去りにするように、新宿への道を進んでいった。





約1時間後-

翼は新宿の『西総合病院』へと降り立った。

「愛菜からのメールだと、確かここだよな。かなりでかい病院だ」
時刻は午後8時を過ぎ、病院の外や入口にかけては人気がもう無くなりかけていた頃だった。
翼は案内板の表示に導かれるまま、病院の入口へと向かって歩いていった。
入口に差し掛かると、自動ドアが左右に開き、彼は中をそのまま突き進んでいく。
病院特有の匂いが、ケータイの電源をオフにする彼の嗅覚を襲うのには、そう時間はいらなかった。

「愛菜はどこだ?確かこの辺りにいるって-」
彼女を探すのに、そう多くの時間はかからなかった。
入口からすぐの人気が掃けたロビーに、ただ一人座っている彼女の際立った外見は、わかりやすいほどすぐに翼の目に留まっていた。

ただ不思議だったのは、愛菜の服装が昨夜"楓"で食事したときと全く同じものだったのは、翼の目から見ても明らかだった。
彼はそれが気はなったものの、ずっと斜め下を虚ろに見つめている彼女のもとに近づいていった。

「愛菜っ!」
翼が声をかけると、愛菜はゆっくりと顔を上げる。

「翼……来てくれたのね」
「どうしたんだよ、急に」
「……」
愛菜は再び顔を俯く。

「ごめんなさい、翼。休みの日に急に呼び出したりして」
「いや、いいよそんなの」
翼自身、先の家族との衝突の一件があったためか、今改めて休日だったという事実に気が付いた。

「そんなことより、どうしたんだい?愛菜があんな風に電話してくるなんて思わなかったから」
「うん、それはね……」
愛菜が話そうとしたその時だった。
一人の男性医師が、話している二人のもとへと速足で寄ってきた。
愛菜はそれに気付くと、ハッとしたように立ち上がる。

「先生っ!!」
いつになく声の大きい愛菜。
医師は二人のもとに着くやら、翼に対して頭を下げて一礼した。
翼もそれにならう。

「おばあちゃんは、今……おばあちゃんはどうなんですか!?」
「……」
愛菜に対し医師は一瞬黙りこくると、何か意を決したように口を開いた。

「そのことですが……」
「えっ?」
「一緒に来て下さいますか?おばあさんの待つ病室に」
力無く答える医師の言葉に、愛菜はどこか意識が遠のくのを覚えた。
「まさか…」
愛菜がそう聞くと、医師は顔を伏せたままそれ以上は答えようとはしなかった。

「嘘でしょ……」
さらに力無く、か細い声で呟く愛菜。
そのままゆっくり頷いた彼女は、医師とともにその病室へと行くことにした。

「翼……一緒に来て」
そう言いながら、愛菜は翼の腕をその細く華奢な指でキュッと掴む。
その力の無さに、翼は彼女が明らかにいつもと違うことを確信せずにはいられなかった。


2階へと上がり歩いて間もないところに、その病室はあった。
「どうぞ、行ってあげて下さい」
医師に導かれるまま、翼と愛菜はそこのドアの前へと立ち止まる。
「なぁ、おばあちゃんて……?」
事情がまだ飲み込めていない翼がそう聞くと、愛菜はそれに答えようとはせず、ドアをゆっくりと開けた。
開かれたドアの向こうには、三~四十代の四人の男女がベッドで横になる一人の人物に悲しげな視線を送っていた。
ドアが開かれたことにより、彼らはやってきた愛菜たちの存在に気付く。

「アッちゃん……」
病室にいる一人の女性が、愛菜に向かってそう言った。
「おばあちゃんは?おばあちゃんは……??」
愛菜がそう問い掛けると、ベッドからか細くかすれた声が彼女の名をゆっくり呼んだ。

「アッ……ちゃん……」
すると愛菜は、目の前にいる男女を掻き分けるようにベッドの方に駆け寄って膝をついた。

「おばあちゃん」
愛菜がそう言いながら見つめる先には、もう80超えているだろう老婆がベッドの上にて横たえていた。
彼女がキュッと手を握ることで、その老婆はスローモーション映像のようにゆっくり…ゆっくりと笑顔を見せる。

「アッ……ちゃん……」
「なに?どうしたのおばあちゃん?私、ずっとここにいるよ」
愛菜が手を握りながら必死に聞き返すも、もはや虫の息と言った状態の老婆の声は、ハッキリと聞き取れるものではなかった。
しかし、愛菜の耳にはしっかりと聞こえていた。


「こんなに……綺麗に……なっ……てくれ……て……」

「おばあちゃんもういいよ、それ以上しゃべらないで……おばあちゃん……」

「アッちゃん……に会え……て……おばあちゃ……うれ……し……かっ……」

「おばあちゃん……イヤ、そんなの……」


愛菜の声が力無く潤んでいるのが、後ろから見守る翼には痛いほど伝わってきていた。

やがて、心拍計のブザーが一定の音を鳴らし続ける。

それは、愛菜を初めそこにいた数人の男女が深く泣き崩れ始めるための、

辛く悲しい現実を突き付けられた合図だった。



「おばあちゃん、おばあちゃん……死んじゃイヤ!イヤ!死んじゃイヤぁあー!!」
なりふり構わず大きな声でベッドの白い掛け布団に顔を埋めながら泣きじゃくる愛菜。

そんな愛菜の肩を抱きながら一緒に声を上げて泣いている女性や、他の三人の男女。

そして、そんな見たこともない今の光景全てに絶句している翼。

その時翼にただわかっていたのは、



一人の人間の"死"という現実がもたらした、深すぎる悲しみだった。



今はただ、永く奏でるレクイエムのように止まることのない愛菜の泣き声を、



黙って聴きながらその場に佇むことしかできなかった。





約2時間後-

老婆の遺体は既に霊安室へと移され、愛菜は一人そこに座り込みながらピクリとも動かなかった。


「愛菜……」
翼はそんな彼女の後ろ姿を、ただずっと見つめていた。
「今は……ただ何も言わず一緒にいてあげて下さい」
医師は翼にそう言うと、ペコリと頭を下げそこから去っていった。



『愛菜が、あんなに取り乱すなんて』



すっかりやつれた背中が、愛菜の心労の度合いをわかりやすいほどに示していた。
ただ、今は医師の言う通り黙って見守るしかない……翼はそう思うことにした。


しかし、ずっと永く続くかと思われた彼女の沈黙は、意外にも早く破られた。

「翼……いる?」
「……うん、いるよ」

小さい声で自分を呼ぶ彼女の声は、ぐったり力が抜けたような聞き取りにくいものだったが、翼はただ懸命に話し、答えることに努めた。

「愛菜、大丈夫かい?」
「……うん」
「そうか」
明らかに彼女が大丈夫ではないのはわかっていたが、今はそっとしてやることが第一だと翼は自ずと言い聞かせる。

「ゴメンね、翼。こんなとこ見せちゃって」
「そんな、気にするなよ」
「いつものあたしじゃないし……こんなことになっちゃったから、引いたでしょ…」
「そんなことないって」
「無理しないで」
「愛菜!」
「……ゴメン」


"いつものあたしじゃない"


それは翼本人も十分にわかっていた。
しかし、今の人の"死"に直面し悲しみに打ちひしがれている彼女のことを考えれば、彼は無理矢理にでも仕方ないと納得しようと思った。

白い布で顔を覆った老婆の横たえる姿が、今彼女の心にどれだけのダメージを与えているか-
形は違えど、"大切な人"が自分の目の前から突然いなくなる痛みを嫌なほど理解していた翼には、それ以上何も言うことはできなかった。
 

「あのぉ……」
「?」
翼の背後から、先程老婆を看取っていたうちの一人の女性が話しかけてきた。
「失礼ですが、アッちゃん……彼女の彼氏さんか何かでしょうか?」
「あ……はい。彼女……病院で大切な人が大変だからってことで、それで」
"客とホスト"と言うわけにもいかないので、翼はうまくごまかしながら答えた。

「そうでしたか…」
「あの、お聞きしていいかわかりませんが、そちらは?」
今度は翼が聞き返す。


「私たちは、以前彼女が生活していた児童養護施設の者です」
「児童養護施設?」
翼が思わず口にすると、女性はコクッと頷いた。

「知らないのも無理はありません。あの子、自分の過去については一切語りたがりませんから。高校を卒業する18まで、あの子は私どものところにいたんですよ」
「そうだったんですか……。ちなみに、亡くなったあのおばあさんは?」
翼が問い掛けると、女性は一瞬躊躇してから答えた。

「あのおばあちゃんは、ボランティアで私どもの施設によく来て下さった方だったんです。とてもお優しい方でして、ご両親のいない彼女の母親がわりのような人でした」
「その人が、先程亡くなられて彼女はあんなに……?」
「えぇ……。子供たちにも大変慕われてて……。あんないい方でしたのに……」
女性はそう言って再び涙を流すと、それ以上は何も語らなかった。



『愛菜……』



翼は、深く沈んだ愛菜の後ろ姿を見つめた。
すると、彼女は突然スッと立ち上がる。

「お、おい」
翼は思わず声をかける。
「翼……行こう」
愛菜は思ったより冷静な口調で囁く。
「で、でも……」
「私は大丈夫。それと……先生」
愛菜は翼のとなりにいる施設の女性のことを呼ぶと、スッと振り返った。

「私、行くね」
「アッちゃん……」
思ったより健やかな表情の愛菜に、翼と女性は俄かに驚く。
「大丈夫なの……?」
「うん、もうたくさん泣いたし。これ以上泣いてたら、おばあちゃんに怒られちゃうよ」
「そう……そうね」
「北野さん、また来るね」
愛菜のその言葉に、女性は一筋の涙を流しながら首を縦に降った。

「翼、私たちは失礼するわよ」
「え?あ、あぁ。じゃあ、僕らは失礼します」
そう言うと、翼と愛菜は女性に頭を下げ、その場を後にした。

「愛菜、いいのか?」
「えぇ」
病院のエントランスに差し掛かったときまで、愛菜は翼の顔を一切見ようとしなかった。
しかし、彼女はふと翼の方を振り向き口を開く。

「翼」
「ん?」
「お願いがあるの」
「……何だい?」
「今日あなたが締日後の休みだってことはわかってるんだけど」
「うん」
「もうちょっと、一緒にいてもらってもいい……?」
「……あぁ」
「ゴメンね……ありがとう」
「遠慮なんてしなくていいよ」
「うん、ありがとう」

翼と愛菜は、病院のターミナルから一台のタクシーを拾い、それに乗り込む。

「新宿の西口で」
運転手に行き先を告げ、二人を乗せたそれは、暗い闇の中を街の光の明るさに向かって突き進む。
車内での会話を一切することなく、二人はただ目的地まで固い沈黙を守っていった。





約30分後-

二人を乗せたタクシーは、目的地に到着する。
「ここは……」
翼は思わず呟いた。
「そう、微妙に懐かしいでしょ?」
「うん」
二人が目の前にしているのは、新宿西口のオフィス街に堂々とその姿を構える、愛菜が御用達のシティホテルだった。

「さぁ、夜もふけてきたし行きましょう」
「あぁ」
翼と愛菜は、まるで普通のカップルのようにホテルのエントランスへと入っていった。

14-2

 
「俺が光星さんに酔い潰されたあの時以来だなぁ」
ホテルの一室に入ると、翼はどこか懐かしみを感じながら言った。

「そうね」
愛菜はスプリングコートを脱ぐと、それをソファに放るように置き、ベッドに吸い込まれるように腰をおろす。

「あの時に比べたら、翼はホントにホストらしくなったわ」
「愛菜のおかけだよ。俺がここまで成長できたのも」
「そんなことないわ。翼自身がちゃんと努力をして自分を証明してきてる証拠よ」
「あ、いや……。でもありがとう。愛菜には感謝してる」
精神的に疲れている愛菜を気遣ってか、翼はどこかいつもよりも優しい口調で言った。
彼女が凜と振る舞っていても、想像以上の悲しみと寂しさで落ち込んでいるのは、翼自身も夜遅くにここに自分を連れてくる時点で気付かざるを得なかった。


「愛菜、何か飲もうか?お酒でも。今日は俺におごらせてよ」
「……うん」
どこと無く力無い愛菜の返事を聞きつつ、翼はルームサービスでシャンパンと軽食をオーダーすることにした。

「ごめんなさい翼、仕事でもないのに気をつかわせちゃって」
「いいって。こんなときは飲もう」
「うん、ありがとう……」
 



約20分後-

翼たちは、部屋に届いたシャンパンを飲み始めていた。
「よし飲もう」
「うん」
人が亡くなったこともあり、二人は「乾杯」の合図はせずにそのままシャンパンが注がれたグラスを口に移す。

「今日は振り回しちゃって、ホントにごめんね」
「いいって謝るのはさ。愛菜、さっきから謝ってばっかりだよ?俺にはそんな気遣いはいいからさ」
「うん……」
愛菜はそのまま無言でシャンパンを一気に飲み干す。
「ふぅ」
「大丈夫か?そんなに一気に飲んで」
「大丈夫……大丈夫よ」



『大丈夫なわけあるか』



翼はそう言いたかったが、以前自分にもショックで飲んだくれていた過去があることを思い返すと、とてもではないが言えなかった。
今は、愛菜が少しでも安心できる状態にしよう……翼はそれだけを考えていた。

その時だった。
「翼、あたしさっぱりしたいからちょっとシャワー浴びてくるね」
「え?うん、わかった」
「だから、ちょっと一人で飲んでて」
すると愛菜は、すぐにバスルームへと向かっていった。

「シャワーか…。ちょっとさっぱりしてもらった方がいいかもな」





約30分後-

愛菜はいつまでたっても、バスルームから出てくる気配はなかった。
おかしいと思った翼は、こっそりバスルームに近づきドアもとに耳を澄ませる。
すると、無尽蔵に流れるシャワーの音の中に、弱々しく崩れていくような女の声がするのを微かにだが彼の耳は捉えた。

「愛菜?いい加減遅いけどどうしたんだ?」
「……翼……」
心の中でもしものことを想像していた翼の中に、一つの安堵感が生まれる。
すると、バスルームの中の愛菜から、思いもよらない言葉が返ってきた。

「翼……」
「なに?」
「こっちに来て……」
「えっ?」

予想外のことに、翼は目を丸くする。
「だって愛菜、今シャワー浴びてるんだろ?」
「イヤ……?」
「いや、そんなことはないけど……」
「じゃあお願い……一緒にいて……」
次第に彼女の言葉に力が無くなっていくのを感じた翼は、やむを得ずシャワーの音が続いていくバスルームの中に入ることにした。



「入るよ?」
翼は一言断りを入れ、バスルームの中へと足を踏み入れた。
シャワーの音がよりハッキリすると同時に、蒸気に乗った石鹸の香りがフワッとその空間を舞う。
愛菜がいるバスタブは、白いシャワーカーテンで仕切られている。

「愛菜?」
「服を脱いでこっちに来て……」
翼が呼びかけると、愛菜は一言そう答えた。

「いいのか?俺が入っても」
「……」

愛菜はそれ以上は答えなかった。
翼は自らの服を脱ぎ、シャワーカーテンの向こう側に入ることにした。



『愛菜、やっぱり強がって気を張ってたんだな……』



そこらじゅうに雑に散らかされた愛菜の衣服を見て、翼はそう思った。
すると彼は、カットソー・ミニスカート・下着を丁寧にたたんで洗面台の脇にある籠に置き、自らの衣服を脱ぎ始めた。
どこか恥ずかしさはあったものの、全裸となった翼はカーテンの前に立った。

「愛菜、入るよ」
そう言って、呆気ないほどに軽いシャワーカーテンをするりと横に開いた。



「愛菜!」

バスタブの中にガクリとしゃがみ込む愛菜。


それを見つめる翼。


シャワーから容赦ない雨のように降り注ぐ温かい粒が、震えながら沈み込んでいる愛菜の美しく華奢なその身体を濡らしていた。


「おばあちゃん……うっ……えっ」
バスタブに激しく落ちるシャワーの音に雑じり、愛菜の弱々しい声が翼に伝わっていく。


「愛菜…」


翼は、彼女の名前を呼ぶと、それ以上は何も言わなかった。


ただ、何も言わず、


悲しみに臥せる愛菜の頭をギュッと抱きしめていた。


「翼……」



「今は、何も考えるな……」



「うん……」



愛菜は、ぐっしょり濡れたその身体を翼にピタリと埋めた。



翼は、その多量の涙で濡れ、今にも崩れていきそうな愛菜を、ただその腕で支えた。



ただの情か、恋心か、仕事だからかはわからなかった。



ただ、翼の心の中から沸き上がる一つの気持ちが、愛菜を放ってはおけなかった。



気がつけば、二人は互いの背中を両方の手でまさぐっていた。










「翼、お願い……」



「何だ……?」



「今日だけは……今夜だけでもいいから……客じゃなくて、あたしを一人の女でいさせて……!」





翼と愛菜は、重ね合わせる唇を合図に、激しく、どこか儚く、互いを求め合った。



無限に降り注ぐ温かい雨が深い悲しみを洗い流すかのように、



二人の身体を、濡らしていった。





                                                  第15章へ