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プロローグ

 稲村組若頭である黒川征二がその補佐である大崎誠人と並んで長堀通りのはずれにある日本料理店『八代』を後にしたのは、夜の十時を回ろうかという頃だった。
「しもたなぁ。傘、持って来たらよかった」
 暖簾の前に立つ黒川が後ろの大崎を振り返りつつ、苦笑する。
『八代』と書かれた浅黄色の暖簾の向こうがぼんやりかすんで見えるのは、先ほどから降り 続けている雨のせいだ。マンションを出た時すでに降り始めてはいたが、食事をしている間にどうやら本格的な雨になっていたらしい。
『八代』は大通りから数本中に入った場所にあるため、流しのタクシーも拾えない。通りの 喧騒から隔離されたようなこの空間を好むからこそ、黒川はわざわざここに足繁く通うわけなのだが、こういう時に少し困ったことになる。
「タクシーを呼ぶか、高井に車を回させようか?」
 雨を眺める黒川の背に向かって、大崎が専属の運転手兼ボディガードも勤めている舎弟の名を出した。
 日本橋近くにある事務所から車を出させても、ここまでなら早ければ十分少々だろう。
だが黒川は少し考えてから「いや、いい」と小さく笑った。
「ちょっと濡れるかも知れへんけど、百メートルほど走れるか?」
「百メートル?」
 鸚鵡返しに訊ねた大崎に、黒川は微妙な笑みを浮かべる。
「ああ。ちょっと思い出したところがあってな。八年も前やからまだあるかどうかわからんけど、行ってみる価値はあるやろ」
 珍しく回りくどい言い方をした黒川は、一向に止む様子のない雨空を、なぜか懐かしいような目で眺めている。
 誰かを、何かを思い出しているような、懐かしく優しい目だった。
 それに違和感とも違う何かを感じた大崎は、胸の奥がちりっと痛んだような気がした。
 そういう目をする黒川を大崎は知らない。
 陽気でいつもふざけた口調で冗談を言う黒川は、時に非情なほどに残酷にもなる。稲村組若頭としての黒川と過ごす時間よりも、ただの男としての黒川と過ごす時間の方が長い大崎だったが、今のような目をして笑う黒川は初めてだった。
 黒川にこんな目をさせる大崎の知らない『誰か』とはいったい――。
「……とりあえず百メートル走ればいいんだな?」
 黒川が思い出している誰かに一瞬でも嫉妬を感じた自分が腹立たしく、大崎はわざとぶっきらぼうにそう問いかけた。
「ああ。このまま右に行って二つ目の角を右。五件目に変わった看板がある。そこまで走れ」
「わかった」
「競争やで。俺が勝ったら……そやな、帰ったら朝までがんばったるわ」
 振り返りざま唇を上げた黒川に、大崎は思わずかっと頬が赤くなるのを感じた。
 昼間の激しい情事を思い出させるような黒川の笑みが我知らず大崎の体を熱くする。
「別にがんばらなくてもいい!」
 そう叫んだ時には、すでに黒川は笑いながら裏通りに向かって走り始めていた。


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