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 最近気になる女ができた。
 といっても、色恋沙汰に発展するような仲ではない。
 仲? いや、違うな。仲と言うならば、互いに何かしらの接点がなければいけないのだろうが、あちらは俺の事など全く知らないのだ。
 奇妙な女だった。
 俺は春の陽気が嫌いではない。生命力に溢れ、越冬した命が一斉に躍動する『生』の季節。悪くない。
 だがそれよりも、日が沈んだ後の静謐さの方が俺を惹き付ける。
 好きなのだ。昼に見る桜のハッとする美しさとは違い、妖しく艶めかしく、けれどそれが本来の姿にも見える、夜桜。そしてそんな桜の咲く春の夜が。
 だからなのか、ここ最近夜には、ただっ広いだけの公園にある一本の、咲きかけの桜の巨木を見に行く事が多い。
 人のいない公園で、花曇りの仄暗い月明かりに照らされた夜桜を下からじっと眺めるのが、俺の日課になっていた。
 だが、桜の下にはいつからか先客がいるようになった。
 月明かりに浮かぶシルエットは小柄な人物のもの。そっと近づいて見てみれば、毎夜毎夜、黒地に淡い桜の花弁を袖と裾とに散らした身の丈に反して大きい着物を身に纏い、一心不乱に踊っている女がいるのだ。
 舞なのかダンスなのか、はたまた別の何かなのかは無学な俺には分からなかった。だがその踊りは、蠱惑的な魅力を持ってこっそり見ている俺の心を掴み、離さなかった。
 驚いた。いつの間にか俺は、夜桜を見るためではなく、女の不思議な踊りを見るために公園に足を運ぶようになっていたのだ。
 女の踊りは毎回違った。時に能のようにゆるりと、時にタンゴのように情熱的に、コンクリートで固められた無機質な街の中に偶然生まれた、夜桜と月明かりのステージで、女は踊る、踊る。
 袖が長いところを見ると、どうやら着ているのは振り袖らしかった。
 女が舞うその度に、振り袖の裾と袖口の花模様も、風を受けた桜の枝を思わせるように花びらを舞わせ、翻る。
 桜の樹もそんな女の舞に応えるように、日に日に見事な花弁を開いていった。
 しかし女は、踊り切った後はいつも珠の汗を浮かべ、辛く哀しそうな顔で樹を見上げ、そして徐々に花開いていく夜桜を名残惜しそうに見上げながら帰って行くのだ。
 だが俺は観客。女にどんな陰があろうと、ステージで光を浴び続ける姿しか見ることは出来ない……この時はまだそう思っていた。
 そんなある日、唐突に桜が散った。
 朝から吹き荒れた春嵐によって、満開になった公園の花桜はその殆どをたった一日で散らしてしまったのだ。
 夜、しばし休憩と風も止んだ頃合いに俺が桜の樹の前まで来てみると、女は辺り一面にぶちまけられた薄桃色の絨毯に膝をつき、聖女が神に祈るように、両手を胸の前で組んで静かに花の散った樹を見上げていた。
 体型にそぐわない振り袖の裾がまるでフレアスカートのように広がり、時折雲間から覗く月の光が当たる度に鮮やかな花模様が闇に浮き立つ。
 女の周りだけ時間が止まっているように見えた。
 黒地に桜の着物を纏った女はまるで桜。月明かりを貪る妖艶な夜の桜そのもの。
 俺がすぐ側まで近寄っても、女は顔を上げようとはしない。
――
 思わず声を掛けてしまってから、我ながら無意味な行為だと呆れる。
 一介の観客でしかない俺がいくら叫んでも、舞台に立つ女には決して届かない。
 文字通り住む世界が違うのだ。
 しかし驚いたことに、女は首だけこちらを振り返りながら、泣きそうな顔で答えた。
「ええ。もう……散ってしまったから」
 初めて聞いた女の声は、掠れ、諦めが滲んだ弱々しいものだった。あの、命を燃やすかのように踊っていた女と同じ人間だとは到底思えない。
 体に合っていないからか微妙にはだけた胸元からは、着物には不釣合いなボタンで止めるタイプのパジャマと、真っ白な鎖骨が顔を出している。
 組み合わせたままの左右の手は、触れれば折れそうなくらい痩せて筋張っていた。帯はしていたが、ぞんざいな結びだった。
 そんな事にも今更ながらに気が付いた。
 『夢中』とは夢の中と書くのだ。
 ああ、これ以上この女に関わるべきではない。心の中ではそう思いながらも、俺は自然と一つの言葉を口にしていた。
――?」
 女はその問いには答えない。だが女のやつれた青白い顔が、驚いた表情から徐々に壊れそうな微笑みに変わると、女はゆっくりと縦にかぶりを振った。
「桜の……精が願うのなら……」
 女が何を思ってそう言ったのか、俺には多分永遠に分からない。
 女は立ち上がるなり踊り出し、今まで見た中で一番激しいリズムでステップを刻み始めた。
 途端にそれまで治まっていた風が我が意を得たりとばかりに吹き荒れ始め、散っていた花びらを巻き上げると、雲が散らされ月光が黒い生地に包まれた女を照らし出した。
 舞い上がる花びらでろくに目も開けていられないような花吹雪の中、暗色の振り袖に宿る自らの桜と共に女はステージに立つ。
 心から嬉しそうな表情で踊る女の姿は、忘れようと思っても忘れられない。
 俺からすれば、真贋両の花びらを身に纏い、月明かりの下で躍り続ける女の方が、余程桜の妖精のようだった。
 ――待っていて下さい。
 聴こえてきた声は、果たして気のせいだったのかもしれない。
 ――すぐに、私も行きますから。
 ……待っていろ? すぐに行く? それを俺に言うのか。
 その意味が分かって言っているのか。

 既に俺は死んでいるというのに――。

 奇妙な女だった。
 けれど、夜の桜のように妖しく美しく、そして儚かった。

  昔の話だ。

 骨が灰になるくらい、昔の話だ。

 

「月が綺麗ですね」

 言ったのは、どちらだったか。



 ~fin


この本の内容は以上です。


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