閉じる


ありふれた通勤電車と見慣れない職場の出来事

――どうしてそんなことになったのか、今でもわからない。僕が、あんな大きなものを操縦することになるなんて。平和であることは確かに大事な事だけど・・・。


「ちっ」
今日もまた、だ。
この人は毎朝毎朝飽きもせずに周囲とちょっとぶつかるだけで不機嫌な顔をする。そして小さく声を出す。そんなことをしても自分も含め誰も幸せにはならないだろうに。だいたい満員電車なのだからお互い様だ。嫌なら重役にでもなって出勤時間を変えるか、家でも仕事ができる物書きにでもなるか、あとは働かないかぐらいしかない。まあ、そんなこと絶対に言葉にはしないが。ドア脇にはこれまたいつもの、ヘッドホン青年がいる。そばかす頬にヘッドホン。夏は紺の襟付きシャツを第二ボタンまで開け、下はジーンズ。冬だと、これにダウンジャケットがつくぐらい。毎日違う格好はしているが、たぶん他の誰に聞いても同じような格好と言うにちがいない。たぶん大学生だが、顔はそんなに悪くないのだから、もっとそれなりの服を着れば良いのに。もちろん、そんなことも言葉にはしない。

静岡方面から東京に出るその電車は、毎朝毎晩混んでいる。
もうちょっとなんとかならないかとは思うが、たぶんどうしようもない。今でさえすでに数分間隔でダイヤが組まれている。これ以上増やしたら、もうその時間に走っている全部の電車を連結させることになる。それじゃあ、結局乗客は電車の中を歩くだけだ。国道1号を歩き続けるのと変わらない。昔の人じゃあるまいし。ただ・・・面白い。電車の中は毎日面白い。毎日同じ光景だから面白いし、毎日違う光景だから楽しい。いろんな人や景色を観察すればその人の向こうには自分と同じスケールのドラマがある。32歳の僕よりもう少し歳が上であろう不機嫌な彼も、家では奥さんに頭が上がらないのかもしれないし、逆に家でもあんな不機嫌な顔をしているのかもしれない。

この東海道線という電車は、静岡から神奈川を通り東京へつなぐ“東京の大型ベッドタウン総なめルート”を通る電車だ。よせばいいものをそんなに遠くから通うもんだから、ともかく乗車時間が長い。その往復だけでじゅうぶんにひと仕事できるだろうに。遠くから来ている電車だからなのか、3割程度はいつも同じ顔が同じ場所にいる。きっと彼らはかなりの遠方から、まだ満員になる前のその電車に乗って通勤通学をしているのだろう。ほら、今日もまたドア脇の青年、車両の一番奥の角にいる中年の他に、座席の一番端っこに座っている高校生、反対端に座っている中年の女性。この人はだいぶ化粧臭くて、座席の真ん中よりちょっと離れた側に立っている僕まで臭ってくる。あの人のためだけに消臭剤を置いて欲しいぐらいだ。そしてどうしてなのかわからないが、この長い座席の前に陣取る若いOLさんがいる。だいたい場所が決まっている人は、座っている以外はドア脇だったり車両の隅っこだったりと"人気の立ちスポット"にいるのだが、この女性はいつも中央にいる。確かに、ドア付近に比べると車両の中央当たりは実は空いていることが多いので、それを狙っているのだろうと思う。中央を陣取れるということは割と空いている時間ということになるが、それならもう少し早く家を出れば、おそらく座席はあいている。そこまでするほどには座席に執着がないのかもしれない(というより、ベッドが恋しいタイプなのだと思うが)。

僕はこうやって周囲を観察するのが好きだ。
たまには本も読むが、基本的に立っているので(というより座れないので)本は読めない。スマートフォンでネットを楽しむか、それ以外はこの観察。いろいろなことがわかるし、ITエンジニアとして、ユーザーに向けたシステムやプログラムを設計する時の糧になる。いろんな人の人生を見るというのは、そういう時に役に立つ。ただ、あんまりキョロキョロしていると時折目があってしまって気まずくなるのだけど。僕の視線に気づいてしまうのだろう。自分では意識してないがついつい、楽しくて凝視してしまうことがあるのかもしれない。

そうこうしているうちに東京駅に到着する。ここでどっと疲れが出るのだが、僕の勤める会社は神田にあるので、ここからまた乗り換えてもう一駅ある。"よせばいいのにそんな遠いところから"は、間違いなく僕にも言えることだ。ただ、慣れてしまえばどうってことはない。たぶん、あの電車に乗っているひとみんながそうだろうが、通勤というのはそういうものだと思ってしまうと、ある程度は気にならなくなる。神奈川、いや湘南は住みやすいことこの上ないというのもあるが。

「おはようございまーす!」
僕は、必ず大きな声で朝の挨拶をすることにしている。人間というものは、複雑な思考をする割に、結構甘い勘定で相手を見たりするものだ。自分にとって損得があるか、快楽があるか、そんな程度のことでかなり左右される。挨拶も大きな声でしておくことで評価が結構良い方に傾く。バカにするつもりはないけれど、割と単純なもんなんだという意識は持っておくべきだと、僕は思うのだ。何より、"それなりに大きい声"という少ない労力にしてはリターンが大きいからこそ、抑えておきたいと思う。もちろん、実は自分が一番気持ちよかったりするので、たぶんそういう僕が一番単純なんだろうけど。

「牧村さん」

新卒二年目の斎藤雅紀(サイトウマサキ)。僕の部下だが、だいたい彼が僕に声をかけると・・・。

「お前なぁ、だからまず俺に声をかけろって言ってんだろ」

そう、だいたい6年目の薮田太輔(ヤブタタイスケ)が口を挟む。いつもこの調子で、二人でコントのようなやり取りを繰り広げる。

「斎藤さぁ、一応きみの上司は僕なんだけど、基本的には先輩の指示に従いなさいね」

へへ、すみません、と彼はニコニコしながら少し頭を下げる。この屈託の無い笑顔がこのチームで愛される所以だろうなと思う。

「マキさん、これから今日明日の作業を整理したので報告させてもらってもいいですか?」

僕は、この会社で"リーダー"というよくわからない役職をつけられている。やっていることは、数人のグループをまとめてプログラムを組んだりWebサービスを構築したりするという、いわゆるマネージャーに近い。

「うん、いいよ。ちょっとメール対応する時間があるから9時半からにしよう」

「わかりました。会議室おさえておきます」

「よろしく」


朝からPCを立ち上げてメールチェックをしていると、そのままPCを閉じて帰りたくなる気分になる。メールが多すぎるのだ。IT企業とはいえ2000人近い大所帯の会社だ。とにもかくにもメールが多い。これは読んでおいてね、これは読まないでいいよ、と書いて欲しいぐらい。そんなことするぐらいならきっと読まなくて良いメールは送らないのだろうけど、ちょっと本気でそう思ってしまうほどに多い。

そんなメールの山の中に一通、不思議なメールが来ていた。上司からだ。

ネットワークサービス系の部署が「サービス本部」としてたち、その下に僕が所属する「Webシステムサービス部」があるわけだが、部長を飛び越して本部長からじきじきにメールが来ている。上司からメールが来ることはもちろん不思議なことではないのだが、本部長からのメールというのはそうそうあることではないし、そしてCCに誰も入っていない僕宛てのメールというのは入社して10年、一度もない。自分の名前、「牧村健(マキムラタケル)」に「殿」がついた書き出しから始まるそのメールにはこう書いてあった。



本部長メールの恐怖

牧村健殿

お疲れ様。
峯岸です。

牧村君。君に至急で異動の辞令が出ています。
私は今日、名古屋出張から夕方頃本社に帰るので、
そこで打ち合わせを頼みます。

よろしくお願いします。


至急?人事に至急も何もないと思うが、懲戒処分でも受けるのだろうか。いや、心当たりがない。刑事罰に問われるようなことはしていないし、飲酒運転も、もちろん人殺しもした記憶がない。

峯岸本部長

牧村です。

打ち合わせの件、承知しました。
至急の辞令というのは、私に何か法律違反などの嫌疑がかかっているのでしょうか。
心当たりがありません。

取り急ぎ、16時から会議室をおさえました。
お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いいたします。


5分待ってみたが、峯岸本部長からの返事は来なかった。ケータイのメールではないのだから5分かそこらで返事が来ることのほうが稀なのだが、どうしても気になって待ってしまったのだ。しかし、もう9時半だ。これ以上は延ばせない。薮田との打ち合わせがある。とにかく切り替えよう。気にしてもしょうがない。心当たりがないのだから堂々としていれば良いのだし、仕事は仕事だ。ここでうろたえて仕事が甘くなればなおのこと立場が危うくなる。僕は悪いことはしていないのだ。今はちゃんと仕事をすることが一番大切なことだ。



「マキさん?」

「ん?あ、ああ、えーと、ごめんなんだっけ」

「いや、だから明日の残り作業の配分ですよ。自分と斎藤と派遣の武田さんではちょっと終わりそうもないと思うんですけど・・・っていう話です」

気がつくと、いつの間にか思考が止まっている。いや、正確には自分に出ている辞令のことを考えてしまって、他が疎かになってしまう。

「ああ、ああ、そうだったね、ごめん」

「らしくないですね、マキさん。大丈夫ですか?」

薮田は、きっと僕のあとを継いでリーダーになる人材だ。頭の回転は悪くないし観察力もある。マネジメントも向いていると思う。上司である僕のこともちゃんと気にかけて動いてくれているのがわかる。まあ、そういうと薮田はだいたい「マキさんを見てきたから」って言うんだけど。

「わかった。多少遅れるのはしょうがないよ。ただ、被害は最低限に食い止めよう。まずこの機能を後まわしにしよう。主要な機能さえテストできればあとは枝葉の機能だから、変わってもあとあと大きく影響することはないから」

「え?マキさんやらないんですか?いつもなら自分もやるといって手を出しちゃうのに。あ、いえ、いまのマキさんの判断に異論があるわけじゃないんですけど」

自分の部下ながら、鋭い。
どうしたものか。まだ辞令が僕のところへ情報として届いているわけではないし、正式に社内でリリースされるのがいつなのかわからない。その場合、筋としてはまだ他言するべきではない。僕は、基本的にそういう決まりは守っていくタイプだ。決まりやルールには意味があり、それはきっと誰かの権利や立場を守っていることが多い。そういうことが守れないひとが良いシステムやサービスをつくれるとは思えないから。
ただ、ルールが全てでないのもまた事実だし、ルールの効用もケースによる。ここで、僕は藪田の信頼を裏切るべきではない。というより、一人の人間として、仕事をする人として部下の信頼を裏切りたくない。もともと、突然の話だ。会社側も正式な手順を踏んで辞令を出しているわけじゃない。だったら、こちらもその事態に臨機応変に対応しても咎められはしないだろう。

「実は、どうやら僕は近々異動になるらしいんだ」

「は?」

案の定、薮田は驚いている。

「いや、ちょっと待ってくださいよ。え?どこに?っていうか今の案件はどうするんですか?!」

少し苛立っているようだった。無理もない、突然チームのトップがいなくなるというのだから、祝福するとかしないとかいう以前の問題だ。何がどうなるのかわからないのだから。

「いや、それが僕にもわからないんだ。さっき突然峯岸本部長からメールが来ててさ、異動の辞令が出てるって。理由も、異動先も、何をさせられるのかもわからない」


薮田は少し黙ったあと、再び口を開いた

「マキさん、なんかやったんですか」

おいおい、と思ったが、自分だってそう思ったんだ。他人ならそう思うのが自然だろう。

「いやいや、何もしてないよ。他人様に叩かれるようなことも警察のお世話になるようなことも」

「じゃあなんで」

「僕にもわからない。とにかく、峯岸さんから突然メールが来ただけなんだよ。それだけしか情報がない」

薮田は少し下を向いて、すぐにその顔を上げる。

「マキさん」

僕の視線を外さずに、まっすぐ見つめながら薮田は言った。

「俺は、マキさんのこと信じてますから。マキさんはそんな悪いことをする人じゃない。会社が何をしようとしているのか知らないですけど、理不尽な異動なら俺は戦います」

少し、泣きそうになったのを堪えた。事態が事態だけに仕方の無いことなんだが、でもやっぱりそれほど歳の離れていない部下の前で泣くのは恥ずかしい。

「うん。ありがとう。でも、大丈夫だよ。もちろん僕は悪いことはしてないし、理不尽な異動なら自分でもじゅうぶん戦える。それに、峯岸さんはそんなにひどい人じゃない」

自分の話でもないのに熱くなっていた薮田は、少し冷静さを取り戻したようだった。

「・・・それもそうですね。峯岸さんにかぎって、社員を捨てるようなことはしないですね」

「マキさん、GOOD LUCKですよ。グッドグッド」

「ああ、ラックラック」

システム開発という仕事は、何かとしんどいことが多い。そういうとき、下を向いていたって始まらない。だから、お互いがお互いをはげます。相手がGOODと言えばこちらはLUCK。逆もまた然り。気休めだが、これがなかなか元気が出る。仲間だ、と思えるからだろうか。


綾菱という人

じゃあ、何かあったら連絡ください、と言ってその打ち合わせを終えた。業務に戻れば、僕も薮田も斎藤も、普段と何ら変わりない日常だった。甘ったれた斎藤は今日も薮田に怒られて、それでもニコニコしながらPCに向かっている。武田さんはいつもどおり自分だけコーヒーを入れて、黙々と仕事をしているし、薮田はやっぱりいつもどおり忙しそうだ。まあ、周りに言わせれば僕が一番忙しそうにしているらしいが。
そんな日常的な光景のおかげで、僕も仕事に集中できた。チームのリソース管理、スケジュール把握、それぞれの機能のステータス管理とテスト要員のアサインと、やることはいくらでもある。仕事が大好きということではないが嫌いでもない。こういう時は集中させてくれる良い薬にもなる。

「牧村」

振り返ると、木ノ原部長がいた。
僕の直属の上司だ。今年で40代に入ってまる2年がたつその人は、ぽっこりと出たお腹と二重あごに天然パーマと髭面が特徴の、一度見たら忘れないタイプだ。バリバリのシステムエンジニアが現場を離れて管理職につきましたという、典型的なタイプでもある。本来、辞令などの話はこの人から来るはずなのだが、どうして今回に限って彼を飛び越して本部長からメールが来たのだろう。・・・と、部長の顔を見たらつい思い出してしまった。

「ちょっと、5分後に会議室に来てくれ」

振り向いた僕に木ノ原部長はそういってフロアーを出ていった。



コンコン、と会議室の扉をノックすると木ノ原部長の声がする。

「入ってくれ」

会議室に入ると6人がけのテーブルの向こう正面に部長が座っていた。

「おい、聞いたぞ。峯岸本部長から。お前、何かやったのか?」

なるほど、木ノ原部長にも一応連絡がいっていたのか。

「いや、何もしてないですよ。少なくとも僕の記憶では」

部長は少しほっとしたようだった。

「そうだよなぁ。突然峯岸本部長からお前に異動の辞令が出てるっていうから、何事かと思ってな。でも、お前にも心当たりがないのか」

「ええ、全く身に覚えがありません。いったいどこに異動になるのか・・・」

そうつぶやいた僕に、まるで喫茶店で待ち合わせた探偵のように木ノ原部長は言った。

「気をつけろ。こんなに急に辞令が出るというのは、あんまり良い話じゃないぞ。いろいろあると思うが、覚悟しとけ」


はい・・・と言った僕を確認すると、じゃあ、仕事に戻ろうと言ってそのまま二人とも会議室をあとにした。





時計が16時から5分前を指している。
あれから、木ノ原部長も普段と変わらず仕事をしている。社内の光景だけ見れば普段と何も変わらない。部長も薮田もきっと、心の中は普段通りではない部分が少しはあるはずだが、それを見せないのは僕への配慮だと思う。ありがたい。
そろそろ、峯岸本部長が帰社する頃だろうか。自分は悪いことはしてないと思っていても、やっぱり不安は消えない。胸の鼓動がどんどん強くなってくる。そろそろ、心の準備をと思いPCに目を向けたら、一通のメールが届いていた。


牧村殿

峯岸です。
すでに会議室にいます。

仕事のキリが良い所で来てください。



メールで?
なぜだろう。同じフロアーにいるのだから直接僕に声をかけたほうが確実なのに、一度自分の席に戻ることもせずに会議室に直行している。僕と接触することすら周りにはバレてはいけないようなことなのだろうか。不安が大きくなっていくのが自分でもわかる。胸の音が周りに聞こえるのではないかというぐらいに。ただ、四の五の言っても始まらない。とにかく峯岸本部長に話を聞かないことには何もわからないし、仮に悪い内容だったとしても戦いようがない。

僕は席を立って会議室へ向かった。薮田も斎藤も、現場は何の変化もなかった。薮田は少しこちらを見た気がしたが、周りは何も気づいていない。トイレへ立つのと変わらない流れそのままで、フロアーを出た。
数時間前、木ノ原部長を訪ねたときと同じように僕はドアをノックし、そして部屋の中にいるその人からも数時間前と同様の返答が来て、僕は会議室に入った。

「いやぁ、すまないね、急に」

峯岸本部長はいつもどおりのしまった表情で僕を迎え入れた。
この人は、ITエンジニアというよりは典型的なビジネスマンという方が似合う。大学時代はラグビーで有名な選手だったらしいが確かに長身で体格も良い。物事をハッキリと述べて周囲を凍りつかせるところもあるが、信頼は厚い。僕も、この人だからちゃんと話を聞こうと思えることが多い。

「いえ」

僕は少し首を振りながら最低限の返事をした。
まあ、かけてくれという本部長の言葉に従い、僕はテーブルを挟んで向かいに座った

「突然の連絡で驚かせってしまったようだね。申し訳ない。まず、君がなにか不祥事を起こしたなどということではない。一切そういうことではない。心配をさせてしまったようなら、まずは安心して欲しい」

ほっとした。
まだほっとしてはいけないのに、どこに飛ばされるのか何をさせられるのかもわかっていないのに、それでもほっとした。とにかく、僕の責任が追求される、僕が何か悪いことをしたわけではないということが、嬉しかった。何も悪いことをしていないのに、何もされなければもともと何の不安もなかったのだからそちらの方が幸せだったろうに、なぜだか嬉しかった。こういう手法で詐欺は行われるのだろうか。

「では、なぜ異動することになったのですか?僕は何をすることになるのですか?」

峯岸本部長は口を真一文字に結び、鼻から一息吐いたあと、説明をはじめた。

「まず、君の異動先や仕事の話の前に説明しておきたいことがある。私は君の移動先しか聞いていない。他のことは一切聞いていない」

「へ?」

どういうことだ?
そんなはずはないだろう。人事の最終決定がもっと上の役職だったとしても、いま目の前にしているこの人に裁量がないはずがない。異動をするにしても他の部署からおいそれと求められて差し出せるものではない。そこには理由があるはずだし、何より本部長自身が納得しなければ許可はされないはずだ。隣の部署は外国より遠いとはよく言うが、それぞれの役回りを定めればある程度は仕方の無いことだ。ある意味、それは組織というものを動かすときの必要悪であって、そう簡単に取り払われて良いものでもない。その組織体の常識ともいえる経路を飛び越えてきたとは何事だ。全く話が読めない。いや、1つだけルートがある。それをなし得るルートが。しかし、それこそあり得ない。彼は僕の名前すら覚えていないはずだ。

「この異動には木ノ原も私も、無論他の部署も絡んでいない。現時点でわかっているのは社長が絡んでいるということだけだ」

まさか。いや、そう、それしかルートがない。この異動を決定できるルートは、本部長の権限すら無にすることのできる権力者にしか使うことができないものだ。しかし、僕は入社式こそ社長と顔を合わせたが、そのあとはほとんど個人レベルでは対面していない。いつでも彼は壇上の人であり僕はエキストラだ。

「私にもよくわからないのだ。説明を求めても答えてくれなかった。ともかく"Webサービス部の牧村を至急異動させろ。理由は聞くな。異動するという事実以外はすべて最高機密事項だ。"の一点張りで、それ以外には指示一つない」

余計話が見えなくなった。
自分が悪いことをしていなかった、その責任追及ではなかったとわかったさっきの安心はなんだったんだ。むしろ、それの方がまだ良かったかもしれない。異動の理由もわからず社長が直接指示を出すような事態で、そして最高機密であると。いったいぜんたい、何が起こっているのだろうか。ともかく、まずこの質問からはじめなければいけない。ここまで聞いた限りでは、この質問の答えより先に情報があるとは思えないが。

「それで、僕はどこに異動になるんですか」

それがな―という言葉からはじまった本部長の返答は全く予想だにしていないものだった。

「箱根だ」

「は、箱根?いや、だって、え?」

「そうだ。この会社に箱根支社などない。営業所も、事業所も。だから、私にも何もわからんのだよ。社長がいったい何を考えているのか。もしかしたら、箱根に何らかの企業がありそこへ出向ということになるのかとも考えたのだが、しかし箱根にシステム開発をしに行くというのも・・・」

僕も一瞬そう考えた。しかし確かにそのとおり、箱根でわざわざシステム開発をするなんて聞いたこともない。大企業との取引が中心のこの会社ではなかなか考えられない。

「麓にあたる小田原には営業所がある。もしかしたらそことの繋がりなのかもしれん」

なるほど。それならあり得ない話ではない。しかしそれにしたって最高機密で突然の異動ということにはならない。

「それで、僕はどうしたら良いのですか?」

「社長からは、明日の13時に箱根峠の道の駅に行けと指示が出ている」

道の駅?次から次へと理解出来ない話が出てくる。

「道の駅って・・・どこかのオフィスに行くわけではないのですか?」

「いや、おそらくそこから移動するのだろう。そこに"綾菱"という人が迎えに来るそうだ」



非日常的な場所の、日常的な景色

明日の13時に箱根の道の駅に行き、綾菱という人に会う。そのあと質問をしても、それ以上の情報は出てこなかった。一応、社員にも拒否する権利はあるはずだがどうする、と問われたが、きっと無駄なことだと思って受け入れた。もう少し理由なり状況説明なりがあれば何か訴えることもできるがあまりに情報がなさすぎる。そして、本部長ですら何も知らないというのだから、ここで何かを訴えたところで本部長が返り討ちにあってくるだけだろう。なにせ社長の勅命なのだから。嫌なら会社をやめて転職するしか無いし、そうすればいい。そのためにはまず対応してみて、それでダメなら行動に移せばいい。幸い海外ではない。自宅からでも通えないことはないし、生活もそれほど困るわけでもない。


翌朝、僕は車で箱根へ向かった。
薮田や木ノ原部長には結局そのまま何も言わずに出てきてしまった。峯岸本部長にそう指示されたからだ。話は全て自分がつけておくから、何も説明しないで今日はこのまま帰宅してくれと。

箱根までは渋滞もなくスムーズについた。平日の通勤とは逆方向なのだから当然と言えば当然だ。車中、大切なことを聞き漏らしていたことに気づき、それを考えたまま道の駅についてしまった。

大切なのこと。それは、綾菱という人は男なのか、女なのか。
はたまた何歳ぐらいの人なのか。何も情報がない。そもそもこのご時世に携帯の連絡先も知らず当日の服装も知らないのに、どうやって見つけるだろう。相手の服装も容姿もわからなければ声のかけようがないし、それは相手も同じだろう。仮に僕の本名が伝わっていたとしても、外見だけでわかるわけがない。まさか、90年代のドラマのように僕の名前を書いたボードを高々と掲げているわけでもあるまいし。

12時40分。
少し早めに道の駅についた。仕事の商談であればこんなに早くついてしまっては相手の迷惑になるので、カフェでも探して入るところだが、ここにそんなものはない。というより、売店、レストハウスがあるこの道の駅こそむしろそれに一番近い。
僕は売店へ入った。箱根のおみやげが並んでいる。平日なので当然だが、賑わってはいない。とりあえずここでブラブラしながら待つことにしよう。それ以外にすることがないというのが本当のところだけれど。

店内には僕を含めて5人の客がいた。一人はライダースジャケットを来ている30代前後の男性。バイクでの一人旅だろうか。もう一人はウィンドブレーカーを来た中年男性。服装からして近くに住んでいる地元民だろうか。残りの二人は20代のカップルだった。有給をとって二人でドライブデートというところか。
この中に、綾菱という人がいるのだろうか。さすがにカップルは違うだろう。可能性があるとすればライダースジャケットの男性だが、それにしては仕事で訪れているという感じがしない。中年男性は服装からしてそうだが、そういう会社なのだろうか。可能性が無いこともない。いったいどんなシステムを開発するのだろうか。それとも、全く違う仕事をすることになるのか。いきなり言われても僕にはできない事のほうが多いと思うが。

その時、自動ドアが開いた。
濃いグレーのパンツスーツ姿をした20代半ばと思われる女性だ。OL風、と言ってしまった方が早い。顔は童顔であどけなさが残り、つぶらな瞳に150cmギリギリのミニマムなサイズは容姿だけなら新卒の新入社員にも見えるのだが、きびきびとしてこなれた動きがそれを感じさせない。明らかにここには似つかわしくない格好だが、もしかしてこの人だろうか。それを証明するかのように、入るなりきょろきょろしている。こんなところで物ではなく人を探しているとしたら相手は僕ぐらいなものだろう。OL風のその人が気づきやすいように、僕はそのまま視線を動かさずにいた。

すると、彼女がこちらに気づいて近づいてきた。
なぜか、不思議と見ていると落ち着く顔をしている人だ。どこが、ということではないのだが、なんとなく。きっとこれは女性には失礼な表現になるのだろうけど。いや、決して容姿が悪いわけではなく、むしろ美人に該当する人なのだろうが、なぜか落ち着くのだ。
彼女が近づくにつれ、自分の観察ぐせもやれやれと思ったのも一瞬、心がざわめいた。

なぜだ。
なぜ僕はこの人にそんな感情を抱いた。
表情で落ち着いたわけではない。見慣れた風景だった気がしたから落ち着いたのだ。こんな非日常的なところにもかかわらず、知らない人に会うにもかかわらず。なぜか。それがわかったとき、僕は落ち着きを失った。冷静ではいられなかった。

「牧村健さんですね。お待たせいたしました」

冷静でいられるはずがない。
眼の前にいるその人は、毎朝見ていた顔だったのだから。
そう、満員電車の、長い座席の前で。
毎朝、人ごみをさけて中央で立っていたあのOLさん。


変な人

「え?いや、えっと・・・え?あなたが綾菱さんですか?」

「はい。綾菱優子と申します。いつも、通勤の電車でお会いしていますね」

ふふ、といった感じで少し笑いながらその人は答えた。

「アヤビシユウコ・・・さん。えっと、あなたは今日は通勤は・・・」

「あはは(笑)いまそこが大事ですか?やっぱり牧村さんは面白い人ですね。私の今日の業務はあなたを迎えに来ることです。つまり、いま、ここに通勤しました」

何を言ってるんだこの人は・・・。いや、そう言われてみれば確かに僕の質問はおかしかったが、そういう問題じゃない。・・・やっぱり?やっぱりって言った。何がやっぱりなんだ。僕はこの人と話したことはないはずだ。

「いや、あの、」

「細かいことは行きながら説明します。とりあえず私の車に乗って一緒に来てください」

彼女は僕の言葉を遮りながら言った。

「え、いや、でも僕も車で来ているので・・・」

「牧村さんの車は別の者が運転して同行します。組織の人間でなければ入れないので。ですから、鍵を貸していただけますか?」

「え?あ、あ、はい・・・」

もう何が何だかわからない。どこに連れて行かれるんだ。僕は部外者という扱いで、部外者単独では入れないところということか。どれだけ機密漏洩に厳しいところなんだ。
彼女と一緒に売店を出ると、スーツ姿の男が立っていた。年の頃は30代半ばぐらいか。

「お疲れ様です。綾菱中佐」

直立不動の姿勢から、その男は彼女に一礼した。

「牧村さんの車はどれですか?」

彼女のその問いに対し、僕は指を指して「あれです」と答えた。

「よろしく」

彼女は僕の鍵をその男に渡し、男は僕の車に向かっていった。

「では、私たちも参りましょう」

彼女は、おそらく彼女が乗ってきた車があるであろう方向に歩き出した。どこへ連れてかれるのだろう?いや、ちょっと待て。


・・・中佐?
およそ一般企業の役職名じゃない。一般的にいえば、その呼び名は軍隊に属している人間のものだろう。この国では軍隊は存在しないことになっているが、実質的にその機能を果たしている自衛隊ぐらいしか思い浮かばない。
彼女は車の運転席側にまわってドアを開けようとしていた。

「いや、ちょ、ちょっと待って下さい」

彼女がサッとこちらに顔を向ける。
いちいち動きが機敏で無駄がない。

「いったいどこに連れて行かれるんですか?僕にもそれぐらいの知る権利はあっても良いと思います。僕は一人のエンジニアとして、職人として、自分がどんな仕事をするのかわからないままで行動したくはありません」

「あなたらしいですね。ご心配なさらず。あやしい者ではありませんし、きちんと説明もします。そして最終的にはあなたに選択権のあることです。ですから・・・悪いようにはしませんからとりあえず乗ってください」

現時点でじゅうぶんあやしいというか、あやしくない点を探すほうが苦労するだろ・・・とツッコミたいぐらいだが、言っても始まらない。聞く限り真面目に言っているようだし、とりあえずは従うしかなさそうだ。渋々、僕は助手席に乗った。

「良い天気ですね」

走りだした車のなかで綾菱優子という人は言った。

「ええ、そうですね。ドライブ日和」

いや、そんなことを言いたいわけではないしもちろん聞きたいわけでもない。ないのに、ついその場その場で会話に対応してしまう。自分の悲しい性というかなんというか・・・。

「いつも、通勤の電車でお会いしていましたよね」

ハンドルを握り視線を前方に向けたまま、ほんのり笑みを浮かべて綾菱は言った。

「え、あ、はい。そうですね、はい・・・」

どうしても相手のペースになってしまう。これではいけない。このままじゃ相手の思うつぼだ。思うつぼ?いや、僕をはめようとしているようには見えないから、それはおかしいか。錯乱が止まらない。思考を整理できない自分が情けない。ともかく、冷静になろう。

「いや、あの、あやび」

「私は政府の人間です」

僕の質問を予測していたかのように、遮って答えた。

「政府??」

「はい。正確には政府ではなく、政府から出資されて誕生した独立した組織ですが。名前を"ピヴォーテ"と言います。ぴー・ぶい・おー・てぃー・いーで"ピヴォーテ"です」

ピヴォーテ。どこかで聞いた名前だ。たしか・・・そうだ。

「スペイン語?たしか旋回軸という意味の・・・」

「はい、そうです。中心を司るという意味を込めてつけられた名前です。さすが、よくご存知。サッカーファンは伊達じゃないですね」

「え、はぁ」

そう、確か日本でいうところの「ボランチ」のポジションや役割のことをスペイン語でピヴォーテという。古くはバルセロナの象徴的選手がその代名詞だと言われたポジションだ。

いや・・・ちょっと待て。
なぜだ。おかしい。僕はこの女性と会話をしたことはない。お互いに面識があることは認める。両者が意識していれば、毎日会っていたのだから顔を覚えるのは自然なことだ。しかし、それにしては僕の情報が多すぎる。

なぜ、僕がサッカーファンだということを知っているんだ。

いったいどこから切り崩せば良いのか、入り口さえ見つからない。しかし、この女性が言うことが本当ならば命を奪われるようなことは無いだろう。ともかく冷静になろう。ともかく、ともかく。ひとつひとつ聞いていくしかあるまい。

「えーと、その"ピヴォーテ"という組織はなんのための組織なんですか?」

綾菱は少し黙り、何かを少し考えたような仕草をしてから返答をくれた。

「そうですね。それは、着いてからご説明します。おそらくそれの方が理解しやすいと思うので」

「そうですか。謎ばかりで困惑しています」

ぷっと笑い出した。

「あははっ。牧村さんて本当に面白い人ですよね。そんなことを正直に言っちゃうなんて」

「え・・・そうですか?率直に述べただけなんですけど・・・」

「普通、そういう感情的なことは胸の中にしまっておく人がほとんどだと思いますよ。良くも、悪くも」

まだ笑っている。僕のことがそんなに面白いのだろうか。
車は高速道路の料金所に入っていった。山道の高速道路はいつでも空いているが、とくに平日は閑散としている。ここからもっと山奥に行くのか、県境を超えて静岡県に行くのか。それすらわからない。



読者登録

清永啓司さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について