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03

 夜が訪れる。
 その度に決まって神殿で待っている娘に、夜の盟主は何も言わなくなった。
 いつも途方に暮れた顔をして、膝を抱えて座り込んでいる娘は、夜の盟主が神殿に辿りつくと、安堵したように表情を緩める。時折、見てきた風景を話せば、イーデルト・クローデリアは相違の双眸を輝かせ、固唾を飲んで耳を澄ませているようだった。
 イーデルト・クローデリアは本を開く。ランプの頼りない光に目を凝らして、彼女は楽譜に書かれた旋律を指で辿った。たどたどしく、声が夜に沁み込む。木々すら葉を揺するのをやめ、あまり美しくはないかすれた歌声を森の中へ通した。
 相変わらずイーデルト・クローデリアは答えを見つけ出せはしなかった。
 屋敷と神殿を行き来し、夜の盟主とたわいもない話をする。それだけが彼女の生活のすべてであり、世界だった。優しい世界だった。


 
 日が沈むにつれて影はよりいっそう深い色をして広がっていく。やがてすっかり太陽が地表の向こうへ消えてしまうと、神殿の柱の根元からのびていた影は溶けだし、辺りに満ち始める暗がりとの見分けがつかなくなる。背を丸め膝を抱えていたイーデルト・クローデリアは、ぴんと背筋を伸ばした。姿勢を正して座りなおし、耳を澄ます。
「今日は何を読んできた?」
 のんびりとした羽音が神殿のすぐ脇に降り立つ。たたんだ羽が擦れたのか、地面の砂がざらりと鳴った。
「地図を持ってきました」
 イーデルト・クローデリアは、はずみそうになる息を意識して抑え込み、屋敷の額縁から外して持ってきた世界地図を広げた。地図の中央で弧を描いている大陸は、四方を海で囲まれている。海には帆船と共に奇妙な姿の動物が蠢いていた。
「これ」
 イーデルト・クローデリアは、手にしたランプで海上を照らし出す。
「ワーナリガラックと言うの」
 昆虫の胴体に魚の尾をくっつけたような気味の悪い赤茶の生物を指差して、イーデルト・クローデリアは首を傾いだ。
「本当にいるの?」
「さぁ。見たことはないね」
「海の泡を糧にするのですって。本に詳しく書いてあったの」
「ふぅん」
「信じていないのね」
「お前は、泡で腹が膨らむと思うのか」
「膨らみはしないけど……ワーナリガラックはそうなのかもしれないわ」
 イーデルト・クローデリアは、闇に向かって肩を竦めてみせる。
「ワーナリガラックに出会った船乗りは、決して陸に戻れはしないのですって。船が六本の脚で壊されて沈没してしまうから」
 顔の前で十指を曲げたイーデルト・クローデリアは、関節のある虫の脚を真似て、指をわしゃわしゃと蠢かせてみせる。夜の盟主はほひゅると溜息をついた。
「本当にそうならば、ワーナリガラックに遭遇した船乗りは誰一人として生きていないことになるだろう、イーデルト・クローデリア。一体誰がその奇妙な生き物を見たと言うんだ」
 夜の盟主の指摘に、イーデルト・クローデリアは息を呑む。あからさまに落胆を滲ませた娘に、夜の盟主は天を仰ぎたくなった。
「……昼に出ているのかもしれないよ。あるいは朝か。私が知らないだけだろう」
 とってつけたように慰めを口にした夜の盟主は、言葉が余計に空回りしていることに気付いて呻いた。
「イーデルト・クローデリア」
 風は娘の金色の髪を撫でながら、そよぎゆく。ひそり。夜の盟主は、風に任せて薄紅の花を娘の元に散らした。
「もう時期が終わるせいか、花は小さいが」
「素敵」
 イーデルト・クローデリアは膝の上に落ちた小花を指先で掬う。ひしゃげたまなこをほのかに崩し、彼女は口の端を緩めた。
 夜の盟主は、イーデルト・クローデリアを注視する。漏れた吐息は都合のよいことに、吹いた夜風に掻き消された。
「お前は、その目を恨むか」
 夜の沈む木々の合間に目を向けて、イーデルト・クローデリアは小首を傾げた。口を開く。
「ええ」
 瞬間、彼女にまとわりついていた花びらが、肩から零れ落ちた。
「こうでなかったら、あなたの話す世界の一片でも、私はもっと自由に歩きまわっていたでしょう」
 それこそごく当然のことのように、と娘が吐露したのは、夜の盟主から見ても違いようのない事実だった。「けれど」と娘は目を伏せることなく続ける。
「これほどにたくさんの本は読まなかったかもしれない。あなたから、本以上に広がっていた世界の話を聞けなかったかもしれない」
 だから、とイーデルト・クローデリアは困ったように微笑う。
 微かな名残を残してランプの火はふいに掻き消えた。暗転した神殿からは森との境目すら見当たらない。辺りを満たす夜の中で息づく気配だけが闇間を蠢いた。
 イーデルト・クローデリアは目を閉じる。静かに瞼に触れた何がしかが、やがて通り過ぎるのを、彼女は目を閉じたまま待った。諦観の滲む細い嘆息が、閉じた闇の中でやけに響く。
「お前の目は、いつも笑っているようでよい」
 夜の盟主は、平らかな声でささめいた。
「いつも泣いているようでよい。いつも何も感じていないようでよい」
 ほろ苦くうち笑う、娘の口角に添って、揺らめく暗がりはイーデルト・クローデリアの頬を撫ぜる。はい、とイーデルト・クローデリアは囁いた。目に映るものの何もない暗闇の中、彼女はいびつに歪んだ瞼を開く。そろり、と現れ出た銀と瑠璃の眼差しは、恐らく夜の盟主にしか見えるものではなかった。
「よく聞くんだ、イーデルト・クローデリア」
 固く声を低めて、夜の盟主は言った。
「明朝から三日三晩雨が降る。雨が上がった時間から先四日。この期間が過ぎてしまうまで、お前はここに来てはいけない」
 虫も鳥も息をひそめている夜の中で、木の葉だけが絶えず騒ぐ。ひときわ強くさざめいた木々の揺れに、イーデルト・クローデリアは知らず肌を泡立たせた。
「なぜなの、グラーチェ」
 暗闇が占める狭い世界の中で、唯一はっきりとしていた頬に触れる感触がイーデルト・クローデリアの元からするりと抜け落ちる。闇が引くにつれ、消えたと思っていたランプの灯りが再び辺りを照らし出した。今までの暗さが嘘だったかのように、ランプの火は煌々と朽ちかけた神殿を照らし出す。
「絶対に足を踏み入れてはいけない」
 問いに答えは与えぬまま、夜の盟主は色濃く警戒を滲ませ彼女に強く諭し含ませた。



 夜の盟主の言う通り雨は夜が明ける少し前から降り始めた。
 イーデルト・クローデリアは、明かりを通す不透明なガラス窓に手をつける。白濁した青緑のガラスは雨粒が当たる音だけを彼女に伝えた。ひどく降っているわけではない。それどころか今にも上がってしまいそうなほどささやかな雨だった。娘が一人森の中に立ち入ることを、危ぶむようなものではない。ケープを頭からすっぽりかぶってしまえば気にもならないだろう。降り続く雨の音に耳を傾けながら、イーデルト・クローデリアはなぜなのだろうと思う。
 結露したガラス窓の表面は、外気の涼しさを掌に沁み込ませた。イーデルト・クローデリアが触れる場所から、雨垂れのように溜まった水滴がガラス窓を滑り落ちる。
 ふと、瞼をなぞる指の感触を思い出して、彼女は目を伏せた。イーデルト・クローデリアはひきつる醜い瞼を爪の先でそっとなぞる。温かかった。いたわるような優しさだった。それと同時に夜の盟主は存在するのだと、彼女は改めて実感した。胸に迫る衝撃だった。
 イーデルト・クローデリアは吐息する。目に触れられることを厭ってきたわけではない。
「だけど、私の前で口に出したのはあなただけだった」
 光を通す窓に額を押しつけて、彼女は銀と瑠璃の双眸を歪んだ瞼で押し隠す。
 歩いてみたいと思う。見てみたい。夜の盟主が見ている、広い世界を。
 けれども、ひとり離れて世界を歩く。そんな未来は彼女にとって現実味のない絵空事にしか思えなかった。
 雨は勢いを強めることなく三日間降り続けた。ようやく雨が上がった時、空は藍色に薄らぎ、夜明けを迎える準備をしていた。息を詰めてその瞬間を待ち望んでいたイーデルト・クローデリアは、皆が寝静まっている屋敷から抜け出して神殿の方角を見つめた。丹念に手入れされた庭を取り囲む壁は高く、神殿はおろか、そこへ至る道も見えない。靄がかかった早朝の空気は寒いくらいに澄んでいた。イーデルト・クローデリアは息を吸う。ここからあと四日。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主に指定された日を指折り数えた。
 イーデルト・クローデリアは書斎から取り出してきたいっとう分厚い本を開く。今度は何の話題にしたらよいだろうか。どんな話が聞けるだろうか。ぱらぱらと無造作にページをめくりながら、窓から差し込む光の眩しさに彼女は目を細めた。いつもなら夜に備えて読んだ本の内容を夢中で頭に叩きこむのに、雨が上がってからここ三日、光の加減が変わるたびにいちいち気が散ってしまい身が入らない。夜の盟主が言った期日までまだ半日もあった。浮き足立つような言いようのないもどかしさと共に、この日も確かな落胆を感じてイーデルト・クローデリアは息をつく。
 入ってはいけない、と夜の盟主自身が定めた期間にも夜は日々の決まり事としてやって来る。夜が訪れる。そのたびに、夜の盟主はあのくちかけた神殿に来ているのだろうか。あの暗闇の中にひとり、木々に溶け込むようにして。
 寂しくはないの、と聞いてしまったことがある。答えは是でも否でもなかった。イーデルト・クローデリアには感じられないだけで、森には生がいたるところに満ちている。それが、夜の盟主の答えだった。
 あの時、寂しいと答えてほしかったのだ、と彼女は本をめくりながら唐突に悟った。イーデルト・クローデリアは眉根を寄せる。どうしても自分で処遇を決め切れない彼女は、今のまま屋敷から神殿に通う理由を無意識に夜の盟主に求めていたことに気付いてしまった。
 それでも、ほどなく夜は訪れた。イーデルト・クローデリアは暗くなりはじめた外の気配に息をひそめる。あと少し。夜が明けて再び日が暮れてしまえば神殿に行くことが許される。早々に床に就いた彼女は、けれどもとうとう一睡もできないまま夜を過ごした。
 薄れ出した暗闇が空に細くたなびく雲だけを黒く浮き上がらせる。玄関先に座り込んで、イーデルト・クローデリアは藍色に輝きだした夜空を見上げた。もうすぐで夜が終わってしまう。ちょうど四日前、雨が上がった瞬間もこのような色をしていた。あれは、まだ夜が明ける前だった。ならば、もう約束の期日になったのではないか。あの日、雨が上がった正確な時間はわからない。けれども、雨を吸ってぬかるんでいた足元の地面は、もうこんなにも乾いていた。
 間に合うかもしれない。今なら、次の夜を待たずとも、夜の盟主に会えるかもしれない。思い立って、彼女は立ち上がった。惑いながら踏み出した歩が、やがて裏付けのない確信を伴って走り出す。息の上がる鼓動を押さえることもできず、イーデルト・クローデリアは神殿に向かった。



 踏み入れた森はいつもに増してひんやりとした冷気が肌に沁みた。イーデルト・クローデリアは首を巡らせ、辺りを見渡す。夜の盟主が近くにいる気配はない。それどころか、靄に包まれた夜の森のどこからも何の音も聴こえてこない。あまりにも不自然な静けさだった。
 一体いつからこうだったのだろう。以前はあちこちから鳥の鳴き声や虫の音が聞こえていたはずだ。今は自分の存在ばかりが、反り立つ木々の間で異様に浮き立っている。今にも暗がりに塗りつぶされてしまいそうな気味の悪さがそこにはあった。考えて、イーデルト・クローデリアは震えあがる。
 ――――絶対に足を踏み入れてはいけない。
 イーデルト・クローデリアは背後を振り仰ぐ。暗がりから倒れてきた巨木に彼女は悲鳴をあげた。


04

 鮮やかに輝き始めた明け方の空の下、ひときわ深い暗がりは周りの木々を黒々と塗りつぶして倒木の前に佇んだ。
「入るなと言った」
 声は、音が失われた木立に低く沈んだ。腐って折れた木の幹には苔がむし蔦が巻きついている。倒木の隙間からかろうじて覗く血の気の失せた娘の指先に夜の盟主は語りかけた。
「少し長くこちらに置き過ぎてしまった。一度崩れた均衡を元に戻すのは骨が折れる」
 夜の盟主は息を吐き出した。ほひゅるとなすすべもなく溶けた息はそのまま空高くに登る。とうとう端の空が白み始めた。ここにいられる時間は、もうあまり残されてはいない。夜の盟主は隙間から覗く白い指先を見据える。

「異界へ返るのか」

 倒木の下でイーデルト・クローデリアは力の入らない瞼を開いて、か細く息をついた。重く幹に押し潰された身体は痛みよりも息苦しさのほうがはるかに勝る。圧迫された胸が、余計に身体が動かせぬことを彼女に知らしめた。わずかに逃れた指先すら動かない。唇が震えた。
 薄明かりの中に圧倒的な暗がりが広がっているのが、木との隙間からおぼろげに窺えた。そこにいるのだ。けれども、かすんだ視界で夜の盟主の姿を捉えきることなどやはりできはしなかった。
 イーデルト・クローデリアは目を瞑って額を地面に押し付ける。
「いいえ」
 そんなつもりではなかった。
 夜の盟主は何も答えない。すぐそこまで朝は来ている。もう行ってしまう。うなだれながら彼女は必死に指先を震わせ、地面を掻いた。
「いいえ、グラーチェ」
「ならば、こちらに来るのか」
「あなたが赦してくれるのなら」
「自分で決めろ」
 夜の盟主は言い方は冷たく響いた。あまりにも平淡なその声は、イーデルト・クローデリアが初めて聞いた夜の盟主の声音によく似ている。
 イーデルト・クローデリアは胸に詰まった息を荒く咳き込んだ。零れた息には血の味が絡む。目を開けてもそこからはほとんど何も見えなかった。
「グラーチェ」
「認められたと言ってしまえばよかったのだ。それくらいのこと、お前にもわかっていたろう」
「グラーチェ、だけど」
 決められなかったのだ。どうしても。だから、世界に呑み込まれた。ほとりと涙が目から鼻先へ滴った。歩いて行けただろう。本当はどこへでだって。夜の盟主が諭した通り。
 授けられた猶予はとっくに切れていた。ただ、ぎりぎりのところで引き伸ばしてくれていたのだ。広げられていた多くの選択肢は、彼女自身の浅はかさのせいであまりにも少なくなってしまった。それでもなお残されたうちから選んでもよいと夜の盟主が言うのならば。
「いき、たい」
 イーデルト・クローデリアの色違いの双眸からは、涙が等しく溢れた。しゃくりあげるたび余計に息が詰まる。苦しくとも嗚咽は止まらなかった。
「もうどこへ行くこともできなくなる」
 夜の盟主は唸るように言った。
「私は」
 イーデルト・クローデリアは指先についた湿った土を柔らかに握りしめる。
「あなたを訪ねるまで、どこかに出たことはなかった」
 イーデルト・クローデリアは倒木の下、弱々しく微笑んだ。
「ずっと焦がれきたのは、あなたが見た景色だった。行くのなら、あなたが見る世界がいい」
 ――グラーチェ。
 イーデルト・クローデリアは答えへの答えを求めて呼びかけた。
 辺りで揺れていた自分とは違う呼吸が諦めたように不自然に詰まった。呆れられたかもしれない、と彼女は思う。仕草こそ見えはしなかったが、夜の盟主が寂しそうに肩を竦めたような気がした。
 暗闇が倒木の隙間から這い伸びてくる。イーデルト・クローデリアは、最期に細やかな息を吐きだした。何もかもが暗闇に覆われる。そうして、彼女の意識は深い闇の奥底に消えた。





 ランプを手にして森を進む娘は、慣れた足取りで神殿へ向かう。
 歩いているうちに日暮れは訪れた。近くの枝に降り立った鳥が呼吸に似た鳴き声を繰り返す。暗がりが濃くなっていくにつれ、草間からは賑やかに虫の音が響き始めた。木の葉が風に煽られてざわめき立つ。辺りが薄闇に溶け込んでゆくのに反して、娘の肌はほのやかに光を帯び始めた。
「グラーチェ」
 朽ちた神殿に向かって彼女は呼びかける。羽音を立てて地面に降り立った夜の盟主の気配に、娘は詰めていた息をほっと緩めた。表情を崩した彼女は夜の盟主に対し、ゆるやかに頭を下げる。
「ありがとうございました。おかげで最期に両親に別れを告げることができました」
「そうか」
「はい」
 銀と瑠璃の双眸を細めて、娘はすっきりした顔でうち笑う。昼の色を映していた金の髪は、娘自身が発する光に照らされて以前よりも淡く見えた。風が吹くと揺れる娘の髪は、暗闇の中、どこよりも光を帯びて辺りから浮かび上がる。
「今度こそ夜の盟主に許されたのだと言ってきたの。だから、もう二度と帰っては来れないと。心配しなくても大丈夫だと」
「遅すぎた」
 夜の盟主は咎めるようにほひゅると長い溜息を吐きだした。
 今では、異質さの中に溶け込んでしまった娘。世界に呑まれることを許容しながら、夜の盟主と繋がることで意思と身体を保った彼女は、異界に返ることがない代わりに、これまで通り人の中で暮らすにはあまりにも周りに影響を与え過ぎる。朝でも昼でもなく夜を選んだせいで、娘はこの時を境に日差しに照らされた明るい世界を見ることは叶わない。
 なぜ娘の身体が光を纏ったのか、夜の盟主には見当もつかなかった。しかし、その光こそが彼女の性質が変わってしまったことを顕著に示す最たるものでもある。
「お前は世界を見るべきだった。ここから離れなければならなかったんだよ、イーデルト・クローデリア」
「これでよかったの」
 イーデルト・クローデリアは、朗らかな声で答えた。
「私に選んでよいと言ったのはあなたよ、グラーチェ」
 時を追うごとに辺りは夜に沈んでいった。隙間のない暗闇が、心地よく肌に馴染み出す。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主がいるはずの一段と暗い闇へ歩を進めた。
「姿を見てはだめ?」
 イーデルト・クローデリアは底の見えない暗がりに向かって首を傾げる。
「だめなのではなく見えるものではないのだと前に言わなかったか」
 呆れたように言いながら、夜の盟主は娘がランプを手に近づくのを止めはしなかった。
 イーデルト・クローデリアはランプを掲げる。ランプの灯心についた炎が宿す鋭い光は、彼女に宿る淡い光に増して辺りを明るく照らし出す。それでも風に吹かれるたび、灯心の明かりはゆらり、心許なく揺らめいた。光の調子につられて照らし出された木の影が踊る。
 掲げたランプの光は、やはり木立を照らすばかりで、他には何も映しださない。しかし、たった一つの方向。ちょうどイーデルト・クローデリアの真向かいにあたる部分に、不自然に光が途切れる場所があった。イーデルト・クローデリアは銀と瑠璃の双眸を瞬かせる。何度目を凝らして確かめても、光の途切れる場所は変わらない。
 他には何も見えない空間。闇ばかりが広がる場所へイーデルト・クローデリアは歩を進めた。手にした光がぼんやりと揺らめく。光を遮る場所に、暗く影が形を浮き上がらせた。夜の盟主を見つけたイーデルト・クローデリアは、驚いている彼の顔へ腕を伸ばす。瞬間、彼女の手の内から零れ落ちたランプは、光を散らして夜にほどけた。
「グラーチェ」
 イーデルト・クローデリアは、すべらかな彼の頬を両手で包んだ。
「あなたは夜そのもの。あなたは世界そのもの」
 抱いた彼の顔に彼女は頬を擦り寄せた。息をつく。
「ようやくあなたに会えた気がする」
 歪な瞼を押し開き、娘は色違いの銀と瑠璃のまなこで夜の盟主の顔を覗きこんだ。ほのやかに暗がりを照らしながら、娘はこつりと夜の盟主と額をあわせ、嬉しそうに笑む。
「はじめまして。私はイーデルト・クローデリア。あなたの妻です。ずっと、いつまでも、あなたのそばに」


 イーデルト・クローデリア。
 それは夜の盟主に愛された娘の名前。
 ほのりと彼女が照らした光は、やがて散らばり星となり、夜の盟主の傍らにありつづけた娘の名は、ほどなく夜の妻神として祀られる。闇夜にいだかれる清き光。いまは神話に語られる貴き月の名前である。


おまけ

 森の木の先端にひっかかっていた夕暮れの切れ端も、もうまもなく地平に隠れてしまうころ。
 イーデルト・クローデリアは、夫である夜の盟主よりも一足先に、その地へ降り立った。
 ほのやかに輝きはじめた指先で、帰り損ねた者たちの足元を照らし出す。
 夜を待ちわびていた者たちが、そこかしこの草むらから跳ね出てきた。
 イーデルト・クローデリアは夜を歌って、懐かしの、ひび割れた、白い神殿で、くるりと回る。
 薄い裾の連なりを踊るままに翻し、床の割れ目から芽吹いた草に足を取られ、つまずく。
 その勢いのまま、イーデルト・クローデリアは硬い床を蹴った。
「グラーチェ!」
 イーデルト・クローデリアは愛おしさに胸を震わせて、現れた闇にしがみつく。
 羽を畳んだ夜の盟主は、頬ずりをしてくる妻に居心地が悪そうに身じろいだ。
 夜の盟主は、ほひゅると息を吐き出して、イーデルト・クローデリアの身体を手繰り寄せる。
「今度こそ、消えてしまったかと思ったよ、イーデルト・クローデリア」
「ええ。私も消えてしまうのかと思った」
 その身の、髪の先まで、光を宿した娘は、日を追うごとに輝きを増し、その輝きが頂点に達した期を境に、日を追うごとに衰えていった。
 それは、命のつきかけた人間を無理にこの世にとどめた代償か。
 昨夜、ついに跡形もなく世界に呑まれた妻に、夜の盟主は成す術も知らず、途方に暮れた。
 イーデルト・クローデリアは、夫の首にしがみついたまま、彼の肩に額を寄せる。
「神様に会ったの」
「神に?」
「ええ、たぶん。三人いらっしゃった」
 朝と昼と、そして夜の神様、と話すイーデルト・クローデリアに、夜の盟主は目を瞠る。
「グラーチェも会ったことがあるのでしょう?」
「……夜の神には、な」
 お前が衰えるにつれ、そろそろ呼び出されるかとは覚悟していた、と夜の盟主は懺悔をするように瞑目する。
「だけど、消えるのはお前ではなく私の方だと思っていたんだよ」
「なぜ?」
「時間がなかったとは言え、異界に返りかけていたお前を、神に伺いもたてずに留めるのは賭けだったから。
 結果的にこちらに残せたから許されたと思ったんだ。まったく大丈夫じゃなかったわけだが。
 決めるのが遅すぎたのは私も同じだった。異界に返ることもできずに、世界に溶けたお前を見て、後悔した。
 断罪されるべきは、イーデルト・クローデリア、お前ではなく私の方だったのだよ」
 苦しげに吐き出された声に、イーデルト・クローデリアは目を閉じる。
 震える羽をそっとなでて、イーデルト・クローデリアは囁いた。
「“あれは少し生真面目すぎる”」
 夜の神様がそう仰っていたわよ、とイーデルト・クローデリアは、くすりと笑う。
「ねぇ、聞いて。ちゃんとここにいるじゃない。大丈夫。ずっとここにいて、いいって言われてきたの。
 許す許さないではなくて、おもしろいから合格ですって」
「……おもしろい?」
 ええ、とイーデルト・クローデリアは嬉しそうに頬を上気させて頷いた。
「“身近な他人の不器用な恋路ほど、見ていて気楽な娯楽はない”って。
 “人間の娘に振り回されては、やきもきしたり、いそいそと土産を集めて回るあいつがおかしくてしかたがなかった”って」
「…………」
「あとは、あなたの顔が見たいという理由だけで、光を帯びることを望んだ私がおもしろかったから、今回呼んでみたのだ、と。
 私が落としたランプで星を作ってみたのも、なるほど夜が華やかになるのもよいと思ったからだと言われたわ。
 “だからそう何度も許しを請わずとも妻は返すし、うっとうしいからもうやめろ”、と」
「……イーデルト・クローデリア」
 気が抜けたように、夜の盟主は妻を見上げる。
 イーデルト・クローデリアは、夜の盟主の手を取って、にっこりと微笑んだ。



イーデルト・クローデリア。
神の使い子であり、異界の迷い子と呼ばれた娘。
今日呼んだのは、他でもない。
あれが、お前のことを、とにかく気に病んでしかたがないから。……いや、単刀直入に言おう。
お前を元いた場所に帰してやろう。
容姿も望むままに。そのひしゃげた瞼は治して、……ああ、そうだ。我々の加護の印をもう一つつけてあげようか。

 神の間に立たされ、きょとんと彼らの申し出を聞いていたイーデルト・クローデリアは「どうだ?」と問われた瞬間、きっぱりと首を振った。
 一月後、妻が神と交した内容を詳しく聞いた夜の盟主は、呆れから立ち直るやいなや、くどくどと小言を並びたてることになる。
 長々と繰り返される小言は、しかし、イーデルト・クローデリアの姿がうっすらとほどけはじめたことでようやく終わりを告げた。

だけれど、金の髪を持ち、銀と瑠璃の瞳を持つ娘。
異界に近くありながら、私たちの恩恵を全て身に纏う娘。
私たちは遠くからしか、私たちの世を見渡すことしかできないから、……月に一度だけでいい。
あの愛すべき堅物の側を離れて、また地上のことを話に来てくれないだろうか。

 請われた内容に、イーデルト・クローデリアは、迷うことなく頷いた。
 ――はい、喜んで、と。
 それは彼女が夜の盟主の隣にあって、ようやく知れたものによく似たものでもあったから。
「だから、グラーチェ、私はまたあなたの傍を離れるけれど、きちんと帰ってきますから」
 押し黙る夜の盟主の頬に口付けて、イーデルト・クローデリアは夜に溶ける。
 ちゃんと迎えに来てくださいね、と言い残された言葉に、夜の盟主はほひゅると息を吐き出して、返事に変えた。


奥付



イーデルト・クローデリアと夜のおはなし


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著者 : ihura
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