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01

イーデルト・クローデリア。
それは神子の目を持つ異形の娘に与えられた名前。

 

 

 目が覚めると待っていたのは、とこしえの夜だった。



 イーデルト・クローデリアは暗い黄金色の睫毛に縁取られた瞼を持ちあげる。開ききるかに思われた瞼は、半分開いたところで不自然にひっかかり、とまった。
 銀と瑠璃。色違いの瞳が、歪な瞼から覗く。ちょうど昼と夜を分けて嵌め与えたかのような娘の双眸は、瞼が半分も覆いつくしている分、ちょうどそれぞれの時間帯の天空を逆さまにしたふうにも見えた。
 彼女の父は、娘の双眸をよく褒めそやしたものだった。左右で色の違う瞳を持って生まれてくる者など稀も稀。まして彼女が持ち合わせたのは美しい昼と夜の色である。
 神の使い子イーデルト。総じてそう呼ばれる色違いの瞳を持つ子どもたちは、人々の厚い信仰と共にあがめられ、尊ばれてきた。彼らの中でも、朝昼夜の三大神を象徴する金と銀、瑠璃は最も高貴とされる。くしくも彼女は、そのうちの二つも持ち合わせていた。
 神の使い子イーデルトの恩恵にあずかろうと彼女の屋敷を訪ねる人々の列は絶えなかった。しかし、いくら贈物を積まれようとも、彼女の父は決して娘を人目に触れさせはしなかった。はて、と人々は首を傾げた。
 彼女の母は、娘の双眸を見るたびに眉をひそめたものだった。腹を痛めて産んだ娘は、生まれ落ちた時から既に瞼が不自然だった。それでも目が開かぬうちは、そう気になるものではなかった。瞼の奇形が誰の目にも明らかになったのは、娘が目を開いたその瞬間からである。半分しか瞼を開けぬ娘の歪な容姿から、彼女の母はいつも苛立たし気に目を背けた。
 異界の迷い子クローデリア。総じてそう呼ばれる奇形の子どもたちを、人々は異界から迷い出てきた人ではないものと信じ、疎んでいた。異形は異界へ返さねばならぬ。信心深い人々にとってそれは責務であり、神へ示す忠誠であった。
 異界の迷い子クローデリアの世話を命じられた屋敷の召使たちは、彼女の母に異界返しをするようしきりに薦めた。しかし、どんなに諭されようと頑として首を縦に振らなかった彼女の母は、娘が決して人目に触れぬよう屋敷に閉じ込め続けた。はて、と召使たちは首を傾げた。
 神の使い子イーデルトであり、異界の迷い子クローデリアである色違いの双眸を持つ異形の娘。彼女が十五になったその年に、両親は娘を屋敷から出すことにした。はたして彼らの娘は神の使い子イーデルトであるのか、異界の迷い子クローデリアであるのか。伺いをたてておく必要があった。答えを出しておく必要があったのだ。


 イーデルト・クローデリアが目を覚ましたのは、ふと空気が傾いだ気がしたからだった。意外に大きな羽音がばさり、森の木立に染み渡る。イーデルト・クローデリアは冷たい石床から身を起こして、辺りを見渡した。相違の双眸に映るものは何もなく、いつの間にやら訪れていた夜に、闇が沈み込んでいる。
 イーデルト・クローデリアは、膝を引き寄せ身を縮めた。息を潜める。神殿の入口にいるはずだった。しかし、一寸先は闇が広がるばかりで、昼間見たはずの蔦が巻きつく支柱さえどこにあるのか見当がつかない。
「ここで何をしている」
 夜は突然口をきいた。
「お前は誰だ」
 イーデルト・クローデリアは、声のした方を仰ぎ見る。そこには確かに闇しかなかった。けれども、風が葉を揺らすのとは違う息づかいがあった。
「私は」
 ――イーデルト・クローデリア。
 彼女は震える声で言った。
「あなたが、夜の盟主?」
 夜は呼吸を続ける。ゆったりとした胸の躍動が見てとれるかのようだった。
 イーデルト・クローデリアの元には、肯定も否定も返りはしない。
「私は」
 こくりと唾を飲み込んで、イーデルト・クローデリアは貼りつく喉を溶かした。妙に渇きを覚える下唇を巻き込んで、ほんの少し舐めてみる。
「あなたに見定めていただくため、ここへ来ました」
 はたして神の使い子イーデルトであるのか、異界の迷い子クローデリアであるのか。身を寄せるべきは神の御許か、無の異界か。イーデルト・クローデリアは問う。
 つぶれた瞼、互いに違う色の瞳を持つ娘は、そこかしこに満ちる夜を見上げる。
「朝の盟主は『いらぬ』と私に仰いました。昼の盟主は目を伏せ私を映すことを厭われました」
 三大神の現身うつしみである各盟主が住まう神殿は全部で三つ。朝の盟主と昼の盟主を訪ね、最後にここへ来た。
「私は。夜の盟主、あなたにお仕えするに足るでしょうか」
 声音を落としてイーデルト・クローデリアは、最後の盟主に伺いをたてた。
「それとも異界へ返るべきでしょうか」
 これが最後。思いがけず泣き笑いのような表情になったやもしれなかった。イーデルト・クローデリアはそんな気がした。暗がりが自分の表情を相手に悟らせぬだろうことを承知してはいたけれど、意図にそぐわぬ表情となってしまったことに、彼女は少なからず落胆を覚えた。
 夜の盟主の答えを聞けば、ようやく身の置き場が定まる。神の使い子イーデルトであるべきなのか、異界の迷い子クローデリアであるべきなのか。たえず問われ続けた彼女自身が、最も判別をつけがたい事柄だった。神の使い子イーデルト異界の迷い子クローデリアは、確固とした答えを知らない。
「お前は」
 不快気な声が闇に吸い込まれた。
「異界が何かわかっているのか」
 問いの形を模された言葉は、過去を鑑みるような響きをしていた。イーデルト・クローデリアは、とこしえの夜を注視する。
「あれは無。あれは虚。すべての真であり、すべての偽。すべてを許容し、全てを否定する。今のお前のその身には、あれはそぐわぬ場所であろう」
「それでは私はどうすれば」
 夜の盟主の言葉は、イーデルト・クローデリアの理解に届くものではなかった。どちらにせよ、知りたいのは異界のことではない。夜の盟主に『そぐわぬ』と言われようがそれは大きな問題になろうはずがなかった。
「お前は異界へ返りたいのか、イーデルト・クローデリア」
「いいえ。夜の盟主」
「ならば自分で考えればよかろう」
「ですが。伺いは立てねばなりません」
「知らぬ」
 イーデルト・クローデリアは困惑した。てっきり回答を得られるものと思っていたのに、最後の最後でこのように突き放されるとは思いもよらなかった。ならば一体、両親へはなんと伝えればよいのか。イーデルト・クローデリアは言葉を失う。
 ほひゅると、呆れたような細い息が夜に吐かれてたなびいた。
「憐れな娘よ。自分で自分を定めることもできぬとは」
 大きな羽音が傍から飛びたつ。代わりに、離れた場所にある木が重みにたわんでざわめきたった。
「確かに人間にしては面妖な顔をしているが。どちらにせよ、お前はいずれここからいなくなるよ、イーデルト・クローデリア。それまででよいのなら答えを探す猶予くらいは授けよう」


02

 夜の盟主はしばらく留まっていたようだったが、結局、それ以上は一言も発さずどこかへ行ってしまった。羽音が、たったのだ。
 考えあぐねたまま口を閉ざし続けていたからかもしれない、とイーデルト・クローデリアは思った。尋ねた方がよかったのだろう。『ならば、私はここに残ってもよいのですか』、と。けれども、尋ねたとて答えは得られそうになく、やもすると否定されそうな気がして、ついに口には出せなかった。
 朝が過ぎて、昼になった。夜の盟主が神殿に戻ってくる気配はない。
 ちちち、ちちちと鳴きながら、イーデルト・クローデリアのすぐ傍に小鳥が降り立った。木漏れ日が揺れる中、小鳥は石床のひびから生えた草の実を器用についばみはじめる。
 ちちち。ちちち。
 小鳥は愛らしく小首を傾げる。イーデルト・クローデリアは知らず目を綻ばせた。緊張していた心が緩んで日溜まりに溶けていく。すると今まで気にもしなかったひびが神殿の壁に走っているのがやたらと目についた。
 むやみに人が立ち入ることを禁じている神殿には人気がない。その分、手入れが行き届かないのか、床に限らず、神殿の壁や柱などいたるところが朽ちかけていた。
 日溜まりのあたたかさにイーデルト・クローデリアは強張った身体をそろそろと伸ばして力を抜く。息を吐いて、ゆっくりと天を仰いだ。
 屋根の内側に施された彫刻は消えかけている代わりに、絡みついた蔦が紋様を描いている。屋根の先端にのぞく空は青く凪いで、広がる木々に風を送っていた。
 草の実を食べ終えた小鳥が、満足そうに明るい空へ向かって飛びたっていく。小鳥の行方を見送るうちに、イーデルト・クローデリアは夜の盟主の姿を見なかったことにはじめて気がついた。
 イーデルト・クローデリアは立ち上がる。一度屋敷に戻らなければならなかった。



「また来たか」
 次にイーデルト・クローデリアが神殿を訪ねた時、夜の盟主は既に来ていたようだった。昨夜よりも随分遅い時間になってしまった。辺りは既に夜に閉ざされている。イーデルト・クローデリアは屋敷から持ってきたランプを掲げて神殿を照らした。油のよく染み込んだ灯心の先を火がじりじりと焼く。灯りはぼんやりと神殿の白壁に反射した。イーデルト・クローデリアはぐるりとランプを巡らせる。
「どこにいるの」
「どうせお前には見えぬよ、イーデルト・クローデリア」
 笑いを含んださざめきが神殿の壁に反響した。昨夜とは別の方向だ。イーデルト・クローデリアは、声のした方へランプを向ける。しかし、どこもかしこも広がるのは暗がりばかりだった。
 夜の盟主を探そうとイーデルト・クローデリアは躍起になってランプをあらゆる方向へかざす。聞こえるのは虫の音。浮かび上がるのは生い茂る木々と神殿の消えかけた彫刻のみだ。それ以外に、目に見えるものは何もない。
 やがてイーデルト・クローデリアは諦めてランプを石床に置いた。持ってきた毛布で身をくるみ、彼女はランプの傍に大人しく座り込む。ケーキとワインを籠から取り出した彼女は、腕を伸ばし、少し離れた位置にケーキとワインを順に並べた。
「存外おかしなことをする」
 意外そうな声が暗がりで木霊する。昨夜とは異なる気安げな口調にイーデルト・クローデリアが驚いていると、闇が動いた。ランプの明かりが照らしていたはずの石床のあたりまで、暗闇がぬっと伸びたかと思うとケーキとワインを巻き込んで、静かに元の位置まで引いていく。イーデルト・クローデリアは目を瞠りかけ――無理にひきつれた瞼が痛みを訴えたため、慌てて目を伏せることになった。
「礼だ」
 ケーキとワインを飲み込んだ暗闇から、今度はごろりごろりと林檎がいくつも転がり出る。神殿の石床から転がり落ちた林檎を、イーデルト・クローデリアは拾いにゆかねばならなかった。
「ちょうどビンビステの林檎が頃合いだった」
「ビンビステ? 海の向こうの山ではないのですか」
「ほぉ。ビンビステを知っているか」
「本で」
 イーデルト・クローデリアは拾い集めた林檎を籠に詰めながら答えた。籠に入り切らなかった大半は、仕方がないので籠の横に連ねておくことにする。
「本で読んだのです」
 感心したように夜の盟主は頷く。仕草こそ見えはしなかったが、イーデルト・クローデリアにはそう感じられた。
「ビンビステは土壌がよい。人も虫もよく働く。持ってこそ来れなかったが、今年のキーリの花酒は格別であった。すっきりとした飲み心地なのだ。キーリの花の香も、うまく酒にのっていた。おととしはだめだったが、今年はよい。本当によい」
 夜の盟主は上機嫌で語る。どうやらほろ酔い気味の夜の盟主は、くだんの花酒をつい今しがた飲んできたばかりらしい。どのようにしたらたった一日で海の向こうの大陸まで行って帰ってこれるのか。気になりはしたが、それは神のなせるわざなのだろう。それよりもイーデルト・クローデリアが気になったのはキーリの花についてだった。
「キーリの花は一日しか咲かないと本にはありました」
「あぁ。そうだ。その花が咲いてしまう前に酒につけるのだ」
「蕾のうちにつけてしまうのですか」
「でないと風味が逃げてしまうだろう」
 呆れたように夜の盟主は言った。当り前だ、と。そうなのかもしれない。それでもイーデルト・クローデリアは、『あんまりではないか』と思わずにはいられなかった。
「それでは花が咲くことはないのですか」
「花を咲かすのは酒の中であろうが。咲かせて風味を中へ溶かす、と。本で読んだのなら、そう書いてあったろう」
 イーデルト・クローデリアは黙り込む。そうだったかもしれない。残念ながら彼女の記憶には残っていなかった。
「では、酒の中でしか花は咲かない?」
「何を莫迦なことを。なんだ。お前は、キーリの花を見たこともないのか」
 夜の盟主の尋ね方には冷やかさがあった。本で見ました。そう答えたら、夜の盟主はまた呆れ返ったように息を吐くのだろうか、とイーデルト・クローデリアは思う。
「キーリの花すら見たことがないとは。ここらにだって咲いているだろうに」
 いや、ここではまだ早かったか、と夜の盟主は自問する。
「まぁ、探せば少しくらいは咲いておろう。どれ。ひとつとってきてやろうか」
 夜の盟主はこの思い付きをいたく気に入ったようだった。闇の気配が愉快そうに揺らぐ。イーデルト・クローデリアが声をかけるよりも早く弾かれて枝がしなり、木立ちの合間を羽音が遠のいていった。
 イーデルト・クローデリアは呆気にとられて、静かになった闇間を見つめる。
 りぃりぃ、りぃりぃと、鳴く虫の音が草の下から漏れてくる。溜息のような鳥の声を耳にして、イーデルト・クローデリアは息を詰め、辺りの闇を注意深く伺った。
 たえずあちらこちらから聞こえる囁かな音は、イーデルト・クローデリアを取り囲む。微かな音がどこまでも続く静けさを満たす分、イーデルト・クローデリアはこの神殿にいる自分の異質さがいっそう浮き立っているように感じた。
 あらゆるものを拒むことなく内包する夜は、豊かで、やさしく、それでいて寂しい。火を吹き消してしまえば、自分の指先さえ見えなくなってしまうのだろう。意識して感じられるのは、自分だけだ。けれど、世界に溶けだしてしまいそうな闇の中では、『イーデルト・クローデリア』がはたして本当に『イーデルト・クローデリア』自身なのかもわからなくなってしまいそうになる。
 たえまなく続く夜の静けさは変わらない。震えだしそうになったイーデルト・クローデリアは、傍で灯るランプの明かりを思い出してほっと息を吐いた。
 周囲にはびこる森の暗がりと、まるで見分けのつかない空を見上げる。
「明かりがあれば」
 少しは変わるだろうか。頼りなく灯心の先で揺れる炎が確かな安堵感をもたらしたように。毛布を引き寄せたイーデルト・クローデリアは、抱き込んだ膝頭に頬を載せた。ランプの灯を眺めて目を細める。夜の盟主が帰ってくる気配はない。うつらと彼女の瞼は落ちた。
 昨夜は気を詰めて一晩中起きていた。昼になり屋敷に戻ってからは両親にことのあらましをつたない言葉で説明し続け、夜が来る前にと急いで神殿に引き返して来たのだ。思っていたよりも身体は疲労を訴えている。
「さみしい」
 身じろいで、イーデルト・クローデリアは額を膝頭へ押し当てた。りぃ。響く虫の音が耳元で薄れ、ぼんやりと意識の奥に沈む。夜の盟主は、まだ帰って来ない。風が吹いて、ふつりとランプの火が消えたのにもイーデルト・クローデリアは気がつかなかった。


 背に染み込む光の暖かさで、イーデルト・クローデリアは目を覚ました。寝てしまったのだと気づいた彼女は、はっと顔をあげ、辺りを見渡す。見渡して、彼女は目を疑った。
 木々の隙間から目映い朝日が射し込む。光の筋を受けて反射する白石の床に、黄色い花は散らばっていた。幾重も連なる細い花弁は、花を珠にかたどっている。
「キーリの」
 たった一日しか咲かない花。それがイーデルト・クローデリアを中心に石床に転がり、どれも花開いていた。
 本で見た挿し絵と同じく、キーリの花は鮮やかな黄色を身に纏う。神殿を渡るそよ風に、散らばる花が床を転がる。ふくよかに広がった香りを、イーデルト・クローデリアは流れる風に合わせて吸い込んだ。





「おぉおおお。頭が痛い」
 三日目、神殿にやって来た夜の盟主は開口一番、呻いた。
 日が暮れるのに合わせて、枝を組んだ焚き火の上に鉄皿を置き、湯を沸かして待っていたイーデルト・クローデリアはほんのりと笑みを浮かべる。
「キーリの花は人を酔わせ、同じその花で酔いの患いを和らげる」
 イーデルト・クローデリアは沸かした湯を杓子で掬い、キーリの花びらを沈めた湯のみに静かに注ぎ入れる。熱い湯の中で、黄色い花びらはくるくると舞った。夜に沈んだ神殿の隅々に花の香りが満ちる。
「あなたの言う通りでした、夜の盟主。今日、本で調べなおしました」
 どうぞ、とイーデルト・クローデリアが差し出した湯のみに、遠慮がちに夜の暗がりが伸びる。よほどきまりが悪いのか黙り込んだ夜の盟主は、キーリの話題には触れなかった。かわりにさもわざとらしく咳をする。しばらくして差し返された湯のみに、イーデルト・クローデリアはそろりと手を伸ばした。中身が空になっている。知って、彼女は安堵した。
「それで」
 夜の盟主は切りだす。
「どうするか決まったのか」
「いいえ」
 問われた言葉に、イーデルト・クローデリアは向き合った。首を振る。
「いいえ。夜の盟主」
「そうか」
「早く決めろとは仰らないのですね」
「猶予は授けると言った。そう長くはとれぬがな。その間であれば、決める時期を決めるのもまたお前だ。私ではない」
 夜風に吹かれた木の葉がざらりと震える。目を凝らしても、闇に紛れる夜の盟主の姿は見当たらない。イーデルト・クローデリアはひそやかに息を吸った。夜に向かって言葉を繰る。
「父と母はほっとしていました」
「だろうな」
 イーデルト・クローデリアは眉尻を落とした。
「あなたのおかげです、夜の盟主。私は両親の名誉を傷つけずにすみました」
 夜の盟主に付された猶予は、そのまま彼女が夜の神殿に留まる理由となった。行く当てをなくさなかった娘は、神の使い子イーデルトと認められたわけではなかったが、異界の迷い子クローデリアとして神に邪険にされたわけでもない。異界の迷い子クローデリアを出した家と両親が糾弾されることもなかった。
「感謝しています。この時間を」
 イーデルト・クローデリアは不格好な瞼を閉じて、闇の向こうへ深々と頭を下げた。焚き火の光を灯した娘の長い金の髪が、石床に細やかにこすれて広がる。
 ふん、と夜の盟主は鼻白んだ。
「夜の盟主?」
「グラーチェだ。その称号は、私には随分と荷が勝ちすぎる。かの神の名を預かるには、この身はあまりにも不相応だ」
 イーデルト・クローデリアは言葉を探して、静かな葉擦れのざわめきを纏う闇の内を見つめた。思考を巡らせるのもままならない。不思議な響きに、彼女には聞こえた。
「夜の盟主ではないのですか」
「言われはじめたのはここ数百年だ。夜しか渡れない。たったそれだけのことだよ、イーデルト・クローデリア。朝のと昼のが、どうかまでは知らないがな。少なくとも私は、お前たちが気にかけねばならない存在でもない」
「よく、わかりません」
 夜の盟主は大気を揺らしゆったりと笑う。
「それでいい、イーデルト・クローデリア。よい茶だった。いくらか痛みも和らいだ」
「グラーチェ」
 遠のこうとする気配を感じ、イーデルト・クローデリアは慌てて呼びかけた。揺らぎかけた暗がりが夜の静けさを取り戻す。
「私がここに来たら迷惑ですか」
「そう決めたのなら、そうしてもよい。だが、もしここに留まりたいと言うのなら、お前はお前そのもののままではいられなくなるよ。なんとなくお前にもわかっているのだろう。この場所は異界と同じくお前たちにとっては異質なところだ」
 娘の金の髪は所在なく夜風に吹かれた。銀と瑠璃の双眸が戸惑いに揺れる。瞼さえ歪でなければ完璧さを称えられただろう。夜の盟主はそろり、溜息をついた。
「朝昼夜とすべての色を一身に持ち合わせるとは希有なこと。もしもお前の姿がそうでなかったら、世界はもう少しお前に優しかったろう」
 宥めるように夜の盟主はイーデルト・クローデリアに言った。
「だが、決めきれないのは世界ではなくお前自身だよ、イーデルト・クローデリア。世界に答えを委ねてはいけない。急かしはしないが、いずれ決めねばならないことだ。でないと、世界そのものにお前は呑まれてしまう」
「どういう、意味?」
 イーデルト・クローデリアは震えを隠すように、広がる夜を縋り見た。纏わりつく空気が、ひんやりと肌をなぞる。
 夜の盟主は断言を避け、沈黙を保った。
 それどころか羽音を立てて無情にも遠ざかっていった夜の盟主に何も言えずに、イーデルト・クローデリアは肩を落とす。
 決める。決めなくては。わかっては、いる。
 それでも、夜の盟主に会いに来ることだけがイーデルト・クローデリアがここに存在していられる理由である以上、今はまだここに来るより他の何かなど、彼女には見当がつかなかった。


03

 夜が訪れる。
 その度に決まって神殿で待っている娘に、夜の盟主は何も言わなくなった。
 いつも途方に暮れた顔をして、膝を抱えて座り込んでいる娘は、夜の盟主が神殿に辿りつくと、安堵したように表情を緩める。時折、見てきた風景を話せば、イーデルト・クローデリアは相違の双眸を輝かせ、固唾を飲んで耳を澄ませているようだった。
 イーデルト・クローデリアは本を開く。ランプの頼りない光に目を凝らして、彼女は楽譜に書かれた旋律を指で辿った。たどたどしく、声が夜に沁み込む。木々すら葉を揺するのをやめ、あまり美しくはないかすれた歌声を森の中へ通した。
 相変わらずイーデルト・クローデリアは答えを見つけ出せはしなかった。
 屋敷と神殿を行き来し、夜の盟主とたわいもない話をする。それだけが彼女の生活のすべてであり、世界だった。優しい世界だった。


 
 日が沈むにつれて影はよりいっそう深い色をして広がっていく。やがてすっかり太陽が地表の向こうへ消えてしまうと、神殿の柱の根元からのびていた影は溶けだし、辺りに満ち始める暗がりとの見分けがつかなくなる。背を丸め膝を抱えていたイーデルト・クローデリアは、ぴんと背筋を伸ばした。姿勢を正して座りなおし、耳を澄ます。
「今日は何を読んできた?」
 のんびりとした羽音が神殿のすぐ脇に降り立つ。たたんだ羽が擦れたのか、地面の砂がざらりと鳴った。
「地図を持ってきました」
 イーデルト・クローデリアは、はずみそうになる息を意識して抑え込み、屋敷の額縁から外して持ってきた世界地図を広げた。地図の中央で弧を描いている大陸は、四方を海で囲まれている。海には帆船と共に奇妙な姿の動物が蠢いていた。
「これ」
 イーデルト・クローデリアは、手にしたランプで海上を照らし出す。
「ワーナリガラックと言うの」
 昆虫の胴体に魚の尾をくっつけたような気味の悪い赤茶の生物を指差して、イーデルト・クローデリアは首を傾いだ。
「本当にいるの?」
「さぁ。見たことはないね」
「海の泡を糧にするのですって。本に詳しく書いてあったの」
「ふぅん」
「信じていないのね」
「お前は、泡で腹が膨らむと思うのか」
「膨らみはしないけど……ワーナリガラックはそうなのかもしれないわ」
 イーデルト・クローデリアは、闇に向かって肩を竦めてみせる。
「ワーナリガラックに出会った船乗りは、決して陸に戻れはしないのですって。船が六本の脚で壊されて沈没してしまうから」
 顔の前で十指を曲げたイーデルト・クローデリアは、関節のある虫の脚を真似て、指をわしゃわしゃと蠢かせてみせる。夜の盟主はほひゅると溜息をついた。
「本当にそうならば、ワーナリガラックに遭遇した船乗りは誰一人として生きていないことになるだろう、イーデルト・クローデリア。一体誰がその奇妙な生き物を見たと言うんだ」
 夜の盟主の指摘に、イーデルト・クローデリアは息を呑む。あからさまに落胆を滲ませた娘に、夜の盟主は天を仰ぎたくなった。
「……昼に出ているのかもしれないよ。あるいは朝か。私が知らないだけだろう」
 とってつけたように慰めを口にした夜の盟主は、言葉が余計に空回りしていることに気付いて呻いた。
「イーデルト・クローデリア」
 風は娘の金色の髪を撫でながら、そよぎゆく。ひそり。夜の盟主は、風に任せて薄紅の花を娘の元に散らした。
「もう時期が終わるせいか、花は小さいが」
「素敵」
 イーデルト・クローデリアは膝の上に落ちた小花を指先で掬う。ひしゃげたまなこをほのかに崩し、彼女は口の端を緩めた。
 夜の盟主は、イーデルト・クローデリアを注視する。漏れた吐息は都合のよいことに、吹いた夜風に掻き消された。
「お前は、その目を恨むか」
 夜の沈む木々の合間に目を向けて、イーデルト・クローデリアは小首を傾げた。口を開く。
「ええ」
 瞬間、彼女にまとわりついていた花びらが、肩から零れ落ちた。
「こうでなかったら、あなたの話す世界の一片でも、私はもっと自由に歩きまわっていたでしょう」
 それこそごく当然のことのように、と娘が吐露したのは、夜の盟主から見ても違いようのない事実だった。「けれど」と娘は目を伏せることなく続ける。
「これほどにたくさんの本は読まなかったかもしれない。あなたから、本以上に広がっていた世界の話を聞けなかったかもしれない」
 だから、とイーデルト・クローデリアは困ったように微笑う。
 微かな名残を残してランプの火はふいに掻き消えた。暗転した神殿からは森との境目すら見当たらない。辺りを満たす夜の中で息づく気配だけが闇間を蠢いた。
 イーデルト・クローデリアは目を閉じる。静かに瞼に触れた何がしかが、やがて通り過ぎるのを、彼女は目を閉じたまま待った。諦観の滲む細い嘆息が、閉じた闇の中でやけに響く。
「お前の目は、いつも笑っているようでよい」
 夜の盟主は、平らかな声でささめいた。
「いつも泣いているようでよい。いつも何も感じていないようでよい」
 ほろ苦くうち笑う、娘の口角に添って、揺らめく暗がりはイーデルト・クローデリアの頬を撫ぜる。はい、とイーデルト・クローデリアは囁いた。目に映るものの何もない暗闇の中、彼女はいびつに歪んだ瞼を開く。そろり、と現れ出た銀と瑠璃の眼差しは、恐らく夜の盟主にしか見えるものではなかった。
「よく聞くんだ、イーデルト・クローデリア」
 固く声を低めて、夜の盟主は言った。
「明朝から三日三晩雨が降る。雨が上がった時間から先四日。この期間が過ぎてしまうまで、お前はここに来てはいけない」
 虫も鳥も息をひそめている夜の中で、木の葉だけが絶えず騒ぐ。ひときわ強くさざめいた木々の揺れに、イーデルト・クローデリアは知らず肌を泡立たせた。
「なぜなの、グラーチェ」
 暗闇が占める狭い世界の中で、唯一はっきりとしていた頬に触れる感触がイーデルト・クローデリアの元からするりと抜け落ちる。闇が引くにつれ、消えたと思っていたランプの灯りが再び辺りを照らし出した。今までの暗さが嘘だったかのように、ランプの火は煌々と朽ちかけた神殿を照らし出す。
「絶対に足を踏み入れてはいけない」
 問いに答えは与えぬまま、夜の盟主は色濃く警戒を滲ませ彼女に強く諭し含ませた。



 夜の盟主の言う通り雨は夜が明ける少し前から降り始めた。
 イーデルト・クローデリアは、明かりを通す不透明なガラス窓に手をつける。白濁した青緑のガラスは雨粒が当たる音だけを彼女に伝えた。ひどく降っているわけではない。それどころか今にも上がってしまいそうなほどささやかな雨だった。娘が一人森の中に立ち入ることを、危ぶむようなものではない。ケープを頭からすっぽりかぶってしまえば気にもならないだろう。降り続く雨の音に耳を傾けながら、イーデルト・クローデリアはなぜなのだろうと思う。
 結露したガラス窓の表面は、外気の涼しさを掌に沁み込ませた。イーデルト・クローデリアが触れる場所から、雨垂れのように溜まった水滴がガラス窓を滑り落ちる。
 ふと、瞼をなぞる指の感触を思い出して、彼女は目を伏せた。イーデルト・クローデリアはひきつる醜い瞼を爪の先でそっとなぞる。温かかった。いたわるような優しさだった。それと同時に夜の盟主は存在するのだと、彼女は改めて実感した。胸に迫る衝撃だった。
 イーデルト・クローデリアは吐息する。目に触れられることを厭ってきたわけではない。
「だけど、私の前で口に出したのはあなただけだった」
 光を通す窓に額を押しつけて、彼女は銀と瑠璃の双眸を歪んだ瞼で押し隠す。
 歩いてみたいと思う。見てみたい。夜の盟主が見ている、広い世界を。
 けれども、ひとり離れて世界を歩く。そんな未来は彼女にとって現実味のない絵空事にしか思えなかった。
 雨は勢いを強めることなく三日間降り続けた。ようやく雨が上がった時、空は藍色に薄らぎ、夜明けを迎える準備をしていた。息を詰めてその瞬間を待ち望んでいたイーデルト・クローデリアは、皆が寝静まっている屋敷から抜け出して神殿の方角を見つめた。丹念に手入れされた庭を取り囲む壁は高く、神殿はおろか、そこへ至る道も見えない。靄がかかった早朝の空気は寒いくらいに澄んでいた。イーデルト・クローデリアは息を吸う。ここからあと四日。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主に指定された日を指折り数えた。
 イーデルト・クローデリアは書斎から取り出してきたいっとう分厚い本を開く。今度は何の話題にしたらよいだろうか。どんな話が聞けるだろうか。ぱらぱらと無造作にページをめくりながら、窓から差し込む光の眩しさに彼女は目を細めた。いつもなら夜に備えて読んだ本の内容を夢中で頭に叩きこむのに、雨が上がってからここ三日、光の加減が変わるたびにいちいち気が散ってしまい身が入らない。夜の盟主が言った期日までまだ半日もあった。浮き足立つような言いようのないもどかしさと共に、この日も確かな落胆を感じてイーデルト・クローデリアは息をつく。
 入ってはいけない、と夜の盟主自身が定めた期間にも夜は日々の決まり事としてやって来る。夜が訪れる。そのたびに、夜の盟主はあのくちかけた神殿に来ているのだろうか。あの暗闇の中にひとり、木々に溶け込むようにして。
 寂しくはないの、と聞いてしまったことがある。答えは是でも否でもなかった。イーデルト・クローデリアには感じられないだけで、森には生がいたるところに満ちている。それが、夜の盟主の答えだった。
 あの時、寂しいと答えてほしかったのだ、と彼女は本をめくりながら唐突に悟った。イーデルト・クローデリアは眉根を寄せる。どうしても自分で処遇を決め切れない彼女は、今のまま屋敷から神殿に通う理由を無意識に夜の盟主に求めていたことに気付いてしまった。
 それでも、ほどなく夜は訪れた。イーデルト・クローデリアは暗くなりはじめた外の気配に息をひそめる。あと少し。夜が明けて再び日が暮れてしまえば神殿に行くことが許される。早々に床に就いた彼女は、けれどもとうとう一睡もできないまま夜を過ごした。
 薄れ出した暗闇が空に細くたなびく雲だけを黒く浮き上がらせる。玄関先に座り込んで、イーデルト・クローデリアは藍色に輝きだした夜空を見上げた。もうすぐで夜が終わってしまう。ちょうど四日前、雨が上がった瞬間もこのような色をしていた。あれは、まだ夜が明ける前だった。ならば、もう約束の期日になったのではないか。あの日、雨が上がった正確な時間はわからない。けれども、雨を吸ってぬかるんでいた足元の地面は、もうこんなにも乾いていた。
 間に合うかもしれない。今なら、次の夜を待たずとも、夜の盟主に会えるかもしれない。思い立って、彼女は立ち上がった。惑いながら踏み出した歩が、やがて裏付けのない確信を伴って走り出す。息の上がる鼓動を押さえることもできず、イーデルト・クローデリアは神殿に向かった。



 踏み入れた森はいつもに増してひんやりとした冷気が肌に沁みた。イーデルト・クローデリアは首を巡らせ、辺りを見渡す。夜の盟主が近くにいる気配はない。それどころか、靄に包まれた夜の森のどこからも何の音も聴こえてこない。あまりにも不自然な静けさだった。
 一体いつからこうだったのだろう。以前はあちこちから鳥の鳴き声や虫の音が聞こえていたはずだ。今は自分の存在ばかりが、反り立つ木々の間で異様に浮き立っている。今にも暗がりに塗りつぶされてしまいそうな気味の悪さがそこにはあった。考えて、イーデルト・クローデリアは震えあがる。
 ――――絶対に足を踏み入れてはいけない。
 イーデルト・クローデリアは背後を振り仰ぐ。暗がりから倒れてきた巨木に彼女は悲鳴をあげた。


04

 鮮やかに輝き始めた明け方の空の下、ひときわ深い暗がりは周りの木々を黒々と塗りつぶして倒木の前に佇んだ。
「入るなと言った」
 声は、音が失われた木立に低く沈んだ。腐って折れた木の幹には苔がむし蔦が巻きついている。倒木の隙間からかろうじて覗く血の気の失せた娘の指先に夜の盟主は語りかけた。
「少し長くこちらに置き過ぎてしまった。一度崩れた均衡を元に戻すのは骨が折れる」
 夜の盟主は息を吐き出した。ほひゅるとなすすべもなく溶けた息はそのまま空高くに登る。とうとう端の空が白み始めた。ここにいられる時間は、もうあまり残されてはいない。夜の盟主は隙間から覗く白い指先を見据える。

「異界へ返るのか」

 倒木の下でイーデルト・クローデリアは力の入らない瞼を開いて、か細く息をついた。重く幹に押し潰された身体は痛みよりも息苦しさのほうがはるかに勝る。圧迫された胸が、余計に身体が動かせぬことを彼女に知らしめた。わずかに逃れた指先すら動かない。唇が震えた。
 薄明かりの中に圧倒的な暗がりが広がっているのが、木との隙間からおぼろげに窺えた。そこにいるのだ。けれども、かすんだ視界で夜の盟主の姿を捉えきることなどやはりできはしなかった。
 イーデルト・クローデリアは目を瞑って額を地面に押し付ける。
「いいえ」
 そんなつもりではなかった。
 夜の盟主は何も答えない。すぐそこまで朝は来ている。もう行ってしまう。うなだれながら彼女は必死に指先を震わせ、地面を掻いた。
「いいえ、グラーチェ」
「ならば、こちらに来るのか」
「あなたが赦してくれるのなら」
「自分で決めろ」
 夜の盟主は言い方は冷たく響いた。あまりにも平淡なその声は、イーデルト・クローデリアが初めて聞いた夜の盟主の声音によく似ている。
 イーデルト・クローデリアは胸に詰まった息を荒く咳き込んだ。零れた息には血の味が絡む。目を開けてもそこからはほとんど何も見えなかった。
「グラーチェ」
「認められたと言ってしまえばよかったのだ。それくらいのこと、お前にもわかっていたろう」
「グラーチェ、だけど」
 決められなかったのだ。どうしても。だから、世界に呑み込まれた。ほとりと涙が目から鼻先へ滴った。歩いて行けただろう。本当はどこへでだって。夜の盟主が諭した通り。
 授けられた猶予はとっくに切れていた。ただ、ぎりぎりのところで引き伸ばしてくれていたのだ。広げられていた多くの選択肢は、彼女自身の浅はかさのせいであまりにも少なくなってしまった。それでもなお残されたうちから選んでもよいと夜の盟主が言うのならば。
「いき、たい」
 イーデルト・クローデリアの色違いの双眸からは、涙が等しく溢れた。しゃくりあげるたび余計に息が詰まる。苦しくとも嗚咽は止まらなかった。
「もうどこへ行くこともできなくなる」
 夜の盟主は唸るように言った。
「私は」
 イーデルト・クローデリアは指先についた湿った土を柔らかに握りしめる。
「あなたを訪ねるまで、どこかに出たことはなかった」
 イーデルト・クローデリアは倒木の下、弱々しく微笑んだ。
「ずっと焦がれきたのは、あなたが見た景色だった。行くのなら、あなたが見る世界がいい」
 ――グラーチェ。
 イーデルト・クローデリアは答えへの答えを求めて呼びかけた。
 辺りで揺れていた自分とは違う呼吸が諦めたように不自然に詰まった。呆れられたかもしれない、と彼女は思う。仕草こそ見えはしなかったが、夜の盟主が寂しそうに肩を竦めたような気がした。
 暗闇が倒木の隙間から這い伸びてくる。イーデルト・クローデリアは、最期に細やかな息を吐きだした。何もかもが暗闇に覆われる。そうして、彼女の意識は深い闇の奥底に消えた。





 ランプを手にして森を進む娘は、慣れた足取りで神殿へ向かう。
 歩いているうちに日暮れは訪れた。近くの枝に降り立った鳥が呼吸に似た鳴き声を繰り返す。暗がりが濃くなっていくにつれ、草間からは賑やかに虫の音が響き始めた。木の葉が風に煽られてざわめき立つ。辺りが薄闇に溶け込んでゆくのに反して、娘の肌はほのやかに光を帯び始めた。
「グラーチェ」
 朽ちた神殿に向かって彼女は呼びかける。羽音を立てて地面に降り立った夜の盟主の気配に、娘は詰めていた息をほっと緩めた。表情を崩した彼女は夜の盟主に対し、ゆるやかに頭を下げる。
「ありがとうございました。おかげで最期に両親に別れを告げることができました」
「そうか」
「はい」
 銀と瑠璃の双眸を細めて、娘はすっきりした顔でうち笑う。昼の色を映していた金の髪は、娘自身が発する光に照らされて以前よりも淡く見えた。風が吹くと揺れる娘の髪は、暗闇の中、どこよりも光を帯びて辺りから浮かび上がる。
「今度こそ夜の盟主に許されたのだと言ってきたの。だから、もう二度と帰っては来れないと。心配しなくても大丈夫だと」
「遅すぎた」
 夜の盟主は咎めるようにほひゅると長い溜息を吐きだした。
 今では、異質さの中に溶け込んでしまった娘。世界に呑まれることを許容しながら、夜の盟主と繋がることで意思と身体を保った彼女は、異界に返ることがない代わりに、これまで通り人の中で暮らすにはあまりにも周りに影響を与え過ぎる。朝でも昼でもなく夜を選んだせいで、娘はこの時を境に日差しに照らされた明るい世界を見ることは叶わない。
 なぜ娘の身体が光を纏ったのか、夜の盟主には見当もつかなかった。しかし、その光こそが彼女の性質が変わってしまったことを顕著に示す最たるものでもある。
「お前は世界を見るべきだった。ここから離れなければならなかったんだよ、イーデルト・クローデリア」
「これでよかったの」
 イーデルト・クローデリアは、朗らかな声で答えた。
「私に選んでよいと言ったのはあなたよ、グラーチェ」
 時を追うごとに辺りは夜に沈んでいった。隙間のない暗闇が、心地よく肌に馴染み出す。イーデルト・クローデリアは、夜の盟主がいるはずの一段と暗い闇へ歩を進めた。
「姿を見てはだめ?」
 イーデルト・クローデリアは底の見えない暗がりに向かって首を傾げる。
「だめなのではなく見えるものではないのだと前に言わなかったか」
 呆れたように言いながら、夜の盟主は娘がランプを手に近づくのを止めはしなかった。
 イーデルト・クローデリアはランプを掲げる。ランプの灯心についた炎が宿す鋭い光は、彼女に宿る淡い光に増して辺りを明るく照らし出す。それでも風に吹かれるたび、灯心の明かりはゆらり、心許なく揺らめいた。光の調子につられて照らし出された木の影が踊る。
 掲げたランプの光は、やはり木立を照らすばかりで、他には何も映しださない。しかし、たった一つの方向。ちょうどイーデルト・クローデリアの真向かいにあたる部分に、不自然に光が途切れる場所があった。イーデルト・クローデリアは銀と瑠璃の双眸を瞬かせる。何度目を凝らして確かめても、光の途切れる場所は変わらない。
 他には何も見えない空間。闇ばかりが広がる場所へイーデルト・クローデリアは歩を進めた。手にした光がぼんやりと揺らめく。光を遮る場所に、暗く影が形を浮き上がらせた。夜の盟主を見つけたイーデルト・クローデリアは、驚いている彼の顔へ腕を伸ばす。瞬間、彼女の手の内から零れ落ちたランプは、光を散らして夜にほどけた。
「グラーチェ」
 イーデルト・クローデリアは、すべらかな彼の頬を両手で包んだ。
「あなたは夜そのもの。あなたは世界そのもの」
 抱いた彼の顔に彼女は頬を擦り寄せた。息をつく。
「ようやくあなたに会えた気がする」
 歪な瞼を押し開き、娘は色違いの銀と瑠璃のまなこで夜の盟主の顔を覗きこんだ。ほのやかに暗がりを照らしながら、娘はこつりと夜の盟主と額をあわせ、嬉しそうに笑む。
「はじめまして。私はイーデルト・クローデリア。あなたの妻です。ずっと、いつまでも、あなたのそばに」


 イーデルト・クローデリア。
 それは夜の盟主に愛された娘の名前。
 ほのりと彼女が照らした光は、やがて散らばり星となり、夜の盟主の傍らにありつづけた娘の名は、ほどなく夜の妻神として祀られる。闇夜にいだかれる清き光。いまは神話に語られる貴き月の名前である。


おまけ

 森の木の先端にひっかかっていた夕暮れの切れ端も、もうまもなく地平に隠れてしまうころ。
 イーデルト・クローデリアは、夫である夜の盟主よりも一足先に、その地へ降り立った。
 ほのやかに輝きはじめた指先で、帰り損ねた者たちの足元を照らし出す。
 夜を待ちわびていた者たちが、そこかしこの草むらから跳ね出てきた。
 イーデルト・クローデリアは夜を歌って、懐かしの、ひび割れた、白い神殿で、くるりと回る。
 薄い裾の連なりを踊るままに翻し、床の割れ目から芽吹いた草に足を取られ、つまずく。
 その勢いのまま、イーデルト・クローデリアは硬い床を蹴った。
「グラーチェ!」
 イーデルト・クローデリアは愛おしさに胸を震わせて、現れた闇にしがみつく。
 羽を畳んだ夜の盟主は、頬ずりをしてくる妻に居心地が悪そうに身じろいだ。
 夜の盟主は、ほひゅると息を吐き出して、イーデルト・クローデリアの身体を手繰り寄せる。
「今度こそ、消えてしまったかと思ったよ、イーデルト・クローデリア」
「ええ。私も消えてしまうのかと思った」
 その身の、髪の先まで、光を宿した娘は、日を追うごとに輝きを増し、その輝きが頂点に達した期を境に、日を追うごとに衰えていった。
 それは、命のつきかけた人間を無理にこの世にとどめた代償か。
 昨夜、ついに跡形もなく世界に呑まれた妻に、夜の盟主は成す術も知らず、途方に暮れた。
 イーデルト・クローデリアは、夫の首にしがみついたまま、彼の肩に額を寄せる。
「神様に会ったの」
「神に?」
「ええ、たぶん。三人いらっしゃった」
 朝と昼と、そして夜の神様、と話すイーデルト・クローデリアに、夜の盟主は目を瞠る。
「グラーチェも会ったことがあるのでしょう?」
「……夜の神には、な」
 お前が衰えるにつれ、そろそろ呼び出されるかとは覚悟していた、と夜の盟主は懺悔をするように瞑目する。
「だけど、消えるのはお前ではなく私の方だと思っていたんだよ」
「なぜ?」
「時間がなかったとは言え、異界に返りかけていたお前を、神に伺いもたてずに留めるのは賭けだったから。
 結果的にこちらに残せたから許されたと思ったんだ。まったく大丈夫じゃなかったわけだが。
 決めるのが遅すぎたのは私も同じだった。異界に返ることもできずに、世界に溶けたお前を見て、後悔した。
 断罪されるべきは、イーデルト・クローデリア、お前ではなく私の方だったのだよ」
 苦しげに吐き出された声に、イーデルト・クローデリアは目を閉じる。
 震える羽をそっとなでて、イーデルト・クローデリアは囁いた。
「“あれは少し生真面目すぎる”」
 夜の神様がそう仰っていたわよ、とイーデルト・クローデリアは、くすりと笑う。
「ねぇ、聞いて。ちゃんとここにいるじゃない。大丈夫。ずっとここにいて、いいって言われてきたの。
 許す許さないではなくて、おもしろいから合格ですって」
「……おもしろい?」
 ええ、とイーデルト・クローデリアは嬉しそうに頬を上気させて頷いた。
「“身近な他人の不器用な恋路ほど、見ていて気楽な娯楽はない”って。
 “人間の娘に振り回されては、やきもきしたり、いそいそと土産を集めて回るあいつがおかしくてしかたがなかった”って」
「…………」
「あとは、あなたの顔が見たいという理由だけで、光を帯びることを望んだ私がおもしろかったから、今回呼んでみたのだ、と。
 私が落としたランプで星を作ってみたのも、なるほど夜が華やかになるのもよいと思ったからだと言われたわ。
 “だからそう何度も許しを請わずとも妻は返すし、うっとうしいからもうやめろ”、と」
「……イーデルト・クローデリア」
 気が抜けたように、夜の盟主は妻を見上げる。
 イーデルト・クローデリアは、夜の盟主の手を取って、にっこりと微笑んだ。



イーデルト・クローデリア。
神の使い子であり、異界の迷い子と呼ばれた娘。
今日呼んだのは、他でもない。
あれが、お前のことを、とにかく気に病んでしかたがないから。……いや、単刀直入に言おう。
お前を元いた場所に帰してやろう。
容姿も望むままに。そのひしゃげた瞼は治して、……ああ、そうだ。我々の加護の印をもう一つつけてあげようか。

 神の間に立たされ、きょとんと彼らの申し出を聞いていたイーデルト・クローデリアは「どうだ?」と問われた瞬間、きっぱりと首を振った。
 一月後、妻が神と交した内容を詳しく聞いた夜の盟主は、呆れから立ち直るやいなや、くどくどと小言を並びたてることになる。
 長々と繰り返される小言は、しかし、イーデルト・クローデリアの姿がうっすらとほどけはじめたことでようやく終わりを告げた。

だけれど、金の髪を持ち、銀と瑠璃の瞳を持つ娘。
異界に近くありながら、私たちの恩恵を全て身に纏う娘。
私たちは遠くからしか、私たちの世を見渡すことしかできないから、……月に一度だけでいい。
あの愛すべき堅物の側を離れて、また地上のことを話に来てくれないだろうか。

 請われた内容に、イーデルト・クローデリアは、迷うことなく頷いた。
 ――はい、喜んで、と。
 それは彼女が夜の盟主の隣にあって、ようやく知れたものによく似たものでもあったから。
「だから、グラーチェ、私はまたあなたの傍を離れるけれど、きちんと帰ってきますから」
 押し黙る夜の盟主の頬に口付けて、イーデルト・クローデリアは夜に溶ける。
 ちゃんと迎えに来てくださいね、と言い残された言葉に、夜の盟主はほひゅると息を吐き出して、返事に変えた。



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