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Belzébuth ~蝿の王~

 流れる雲の間から、輝く満月が夜の街を睨み付ける。
 強い風が吹き荒れ、鉄骨の塔に反響して不気味な呻き声をあげている。
 世界一高い建造物──エッフェル塔。高度276メートルの展望台。
 ここから見下ろすパリの街に、かつての華やかさは見る影もない。星のように輝いていた街灯は、空を覆う黒い渦にかき消されていた。
 その正体は、蝿の大群だ。
 市民(パリジャン)は蝿の軍に自由を奪われ、皆戸口を硬く閉ざすことしかできない。一歩外へ出れば、全身を瞬く間に蝿に覆われ、貪り喰われてしまうだろう。
 その様を想像するだけで、震えが止まらない。
「怖いのか?」
 傍らに立つ小さな女の子が、私を見上げる。
「べ、別に。今までも十分怖い思いはしてきたし……」
「ほほほ、安心せい。余が側におる」
 そう言って古風な語り口の少女は、冷え切った私の手を握る。伝わる温もりが、不安を和らげていく。
「……うん」
 強がってみても、いつもこの子には見透かされていた。
「それに……こやつらも、のう」
 彼女は後ろを見る。
 展望台は大小様々な獣達で溢れかえっていた。しかし彼らは微動だにせず、赤い目を光らせ、じっと何かを待っている。
「……そうね」
 本来なら恐れるべき彼らの存在を、私は心強く感じていた。
 先頭にいた獣が、一歩進んで吼える。
「陛下、ご決断を!」
「うむ!」
 少女が獣達に向かい、両手を挙げる。
「皆の者、出陣じゃ! 余に続け!」
 獣達はこの時を待ち望んでいたかのようにいっせいに吼え、鳴き、叫んだ。
 少女は私を見る。
「では、ゆくぞ!」
「ええ!」
 私にももはや、迷いはない。
 私達はどちらからともなく手を握り、そのまま展望台の柵を飛び越え──空に跳んだ。
 分厚い空気の壁が、私達を吹き飛ばすように当たってくる!
 それでも私は握った手を離さない。
 私達は重力に沿って、地上へと──蝿がひしめく死の街へと飛び込んで行く。「きゃああああああ!」
 蝿の大群が顔にぶつかってくる。
 そして──落ちて行くその中心には、凱旋門ほどもありそうな巨大な蝿が待ち構えていた!
「ひっ!」
 蝿は口を大きく開き、そのまま私達を飲み込み──
「い、いやあああああ!」

Passage ~パサージュ~

「ああああ……!」
 私の悲鳴が、空しく響き渡る。
 あれ……?
 そこは暗くもなく、恐ろしくもない。
 見慣れた私の寝室だった。
「……はあ……」
 なんか凄まじい夢を見ていたような気がする……。
 まったく、朝から疲れたわ。
「ホー、ホー」
 耳元で聞き慣れた鳴き声が聞こえる。頬をくすぐる、柔らかい羽毛の感触。大きな丸い目が、私を覗き込んでいた。
「おはよう、ストラス……」
 私の唯一の家族、フクロウのストラスだ。私の言葉が理解できるほど賢く、毎朝私を起こしたり、雑用を手伝ったりしてくれている。
 カーテンを開くと、眩しい朝の光が入ってきて、部屋の中を照らす。
「……よし」
 夢の残滓は、すっかり朝日にかき消された。いつも通りの一日を始めることにしよう。
 
 私の家は古本屋を営んでいる。
 父は魔術に詳しく、怪しい本の噂を聞いては、どんな遠い国だろうと仕入れに行く。気に入った本は手元に残し、不要なものは売り場に出すのだ。
 私がある程度大きくなってからは、近所の人に私のことを任せて、頻繁に母と共に「仕入れ」に出かけるようになった。
 二人が最後に旅立ったのは一週間前。その前の仕入れから帰ってきて、翌日のことだった。
 ……二人とももう、私のことなんてどうでもいいんだわ。
 でも、私は生活には何ら困っていない。何か問題が起きても、いつも近所の人が助けてくれた。
 今日もいつものように、何もない一日だろう。一日中、店番をしながら本を読んで過ごす。
 店番といっても、こんな寂れた古本屋には客なんてめったに来ないし。
 古の魔導書から流行の推理小説まで、私は本さえあれば退屈しなかった。
 それはそれで悪くないのだけれど、何かがものたりないような……。
 だけど、これ以上何かを求めるのは、贅沢というものだ。私より幼くても働いていたり、家がない子もたくさんいるのだから。
 素直に今日の糧に感謝することにしよう。
 固くなったパンと温かいカフェ・オ・レをテーブルに置き、私は今朝届いた新聞を開いた。
「またもパリに怪物出現! 悪魔の化身か!?」
 いかにも大衆の興味を引きそうな大見出しと、怪奇小説に添えられるような怪物の挿絵。
 最近パリのあちこちで、様々な動物が目撃されたり暴れたりしているという。
 最初はブローニュの森の動物園から逃げ出したのかと思ったけど、そうではないらしい。
 中には見たこともないような動物も目撃されていて、人々は怪物だの悪魔だのと噂している。
 確かに、本当に悪魔なら大変なことになるけど……悪魔の召喚というものは、誰でも出来ることではない。
 おそらくどこかのサーカス団が連れて来た、アフリカの珍しい動物達だろう。それが脱走して、あちこちで騒ぎになっているだけだ。
 
 朝食を終えた私は、開店の準備を始めた。
 今日は少し寝坊したせいで開店が遅れそうだけど、開店時間なんてもともとあってないようなもの。
 外に出て見上げると、柔らかな光がガラス屋根を通して降り注いでいる。
 いつも通りの、静かな朝。街の喧騒もここには入ってこない。
 私の店は「パサージュ」と呼ばれる商店街の一角にあった。
 パサージュの通路はガラスの屋根で覆われており、道はタイルで舗装されていて、雨の日でも気軽に歩くことができる。
 半世紀位前までは賑わっていたけど、最近は百貨店に人が流れて、閉鎖に追い込まれる場所も後を絶たない。私が物心ついた頃には、既にこのパサージュも寂れていた。
 うちは儲からなくてもそれなりに蓄えがあるから困らないけど、近所の店は苦労しているところもあるようだ。
 私は店のショーウィンドウを外側から拭く。
 そのとき、急に何かが割れる音が静寂を打ち破った。
「え──?」

Malédiction ~呪い~

 うちの中からじゃない。他の店だ。
 私は音が聞こえた方の通路を見る。
 続いて女性の叫び声と、何かをひっくり返すような、けたたましい音。
 私は音源に、そっと近づいた。
 あれはいつもお世話になっている、マーゴおばさんのレストランからだ。だけど、一体何が起こっているのだろう。
 まさか、強盗か何かに襲われてるの──!?
 思わず足がすくむ。
 レストランの中から、激しい音がまだ聞こえている。
 我ながら情けないけど、怖くてとてもじゃないけどこれ以上近づけない。それに私が行っても、どうにもならない。
 それより誰か近所の人を呼んだほうが──
「ホー?」
 私について来たストラスが鳴いた。
「ストラス……どうしよう?」
 フクロウに聞いても仕方ないけど……。
 私が戸惑っていると、突然店から黒い影が飛び出した。
「え──!?」
 それは、鳥に見えた。
 しかし、普通の鳥ではない。その大きさは、小さな馬ほどもあった。
 そして一瞬──黒い羽の裏から、白い人間の腕が見えたような気がして、ぞっとした。
 巨大な鳥は私の反対方向に走っていき、やがて翼を広げ浮かび上がる。そしてそのまま、パサージュの出口から外へ飛んで行った。
「……な……何よあれ……」
 まさかあれが、新聞を騒がしている怪物なのだろうか?
 確かに普通の動物じゃなさそうだけど……。
 鳥が走った後に、ひらひらと何かが舞っている。手に取って見ると、それは20フラン紙幣だった。
「鳥が……お金……?」
 まさか、あの人間の手で、お金を盗んでいたとか……?
 私がしばし呆然としていると、レストランから呻き声が聞こえ、我に返った。
「お、おばさん!」
 私はストラスと共にレストランに飛び込む。
 店内は酷い有様だった。テーブルや椅子はひっくり返り、棚も倒されて、割れた食器が床に散乱している。
 そしてその奥で、おばさんがうずくまっていた。うわ言を繰り返しながら、辺りを見回し、両手を泳がせている。
 私はおばさんに駆け寄り、その手を握った。
「おばさん! マーゴおばさん! どうしたの!? 大丈夫!?」
「あ、ああ、その声は……」
「私よ、ミシュリーヌよ!」
「ああ、ミミ……!」
 おばさんは私にすがるようにしがみついた。
「どうしたの? 目が見えないの!?」
「ああ、何も見えないんだよ……困ったねえ……」
 私はおばさんの目を見て、言葉を失った。その瞳は、何の光も映していなかったのだ。
「……ねえ、さっきの鳥は何? あの鳥に何かされたの?」
「ああ、変な大きな鳥が店に入ってきてね……そいつを見て驚いてたら、急に周りが煙に包まれて真っ暗になってさ……」
「……!」
 そんな習性を持つ動物がいるはずがない。やはり、あの鳥は……。
「ミミ、店の中はどうなっちまったんだい?」
「え、ええ……荒らされてるわ。食器が割れてて危ないから、ここから動かないで」
 とにかく、おばさんを治さないと!
「ストラス、『火星の2』を持ってきて!」
「ホー!」
 ストラスは店を出て行き、すぐにメダルをくわえて帰ってきた。
 鉄のメダルに、図形が彫られた護符──「ペンタクル」だ。
 正しい素材、正しい手順をもって作成したペンタクルは、不思議な効力を持つ。
 父の蔵書で私もちょっとした魔術を学んだのだ。こうしたペンタクルを常に作って備えておくのが私の日課だった。
 ペンタクルをおばさんの額にそっと置き、精神を集中する。
「──言葉は命であった。命は人を照らす光であった──」
 ヨハネ福音書の一節を唱えると、護符が赤い光を放って輝く。
 この「火星の第2ペンタクル」は、病気や怪我を治すことができる。医者が何日もかけて治療するような症状でも、うまくいけばあっという間に完治する。
 実際、近所の人をこれで助けたことは何度もあった。
 もっとも私は、これで医者になるつもりも有名になるつもりもないから、親しい人にしか使ってないし、世間には口外しないように頼んである。
 そもそもルルドの泉のようなマリア様の奇跡ならともかく、私がやっているのはあくまで魔術。教会に睨まれても仕方がない類のものだ。
 19世紀は科学の時代と言われているけど、こういった魔術の原理は科学では解明できていない。もっとも、常人は知りえない領域の話だけど。
「あれ……?」
 しかし、しばらくこうしていても、おばさんの瞳が光を取り戻す気配はない。
 やがて、ペンタクルから光が消える。込められた魔力を使い果たしたのだ。こうなってしまうと、ペンタクルもただのメダルでしかない。
「……そんな……」
「ミミ……? だめだったのかい……?」
 私は愕然とした。これで治らないなんて、どうして……?
 考えられるのは、これはただの病気や怪我ではなく、何らかの魔術……言ってみれば「呪い」だということだ。
 これで確信したけど、あの鳥は何者かが呼び出した悪魔だろう。
「……ごめんなさい、おばさん……」
 私は顔を逸らして唇を噛む。
 何が魔術の心得だ。結局私はこの重要なときに、何もできなかったんだ。
「いいんだよ、ミミ……ありがとう……」
 こんなときでも私を気遣うおばさんの言葉に、胸が締め付けられた。
 
 それから私は近所の人を呼び、みんなで店内を片付け、おばさんを落ち着かせた。
 そして、そのときわかったことがある。店内の金庫が破られ、中のお金が持ち去られていたのだ。
 やはり、あの鳥が盗んでいったのだろう。悪魔ならそんなことをしてもおかしくない。
 そのうち誰かが呼んだ医者が来て、おばさんを診てもらったが、案の定お手上げのようだった。そもそも盲目になった原因が、「鳥を見たら暗闇に包まれた」では、対処のしようもないだろう。
 しばらくの間、おばさんには近所の人が付き添ってあげることになった。
 ……私にできることは、もう何もないのだろうか……?
 とりあえず家に戻って、考えを整理してみることにした。

Évocation ~召喚~

 私の知っているペンタクルには、悪魔を見つけたり、悪魔を捕まえる効力を持ったものはない。
 父なら何か手を打てるかも知れないけど……当分の間は帰ってこないだろうし、当てにはできない。
 私はとりあえず、あの悪魔について調べてみることにした。
 幸いこの家には、父が集めてきた様々な魔導書(グリモワール)がある。最近本屋で買った占い用の本から、中世に書かれたと思われる古ぼけた本まで様々。
 有名なものは、「ソロモン王の大きな鍵」や「ソロモン王の小さな鍵」。
 古代イスラエルの王ソロモンは、72柱の悪魔を自在に使役し、神殿や王宮を作らせたという。また、様々な魔術を記したグリモワールを書き残している。
 私のペンタクル魔術も、「大きな鍵」から学んだものだ。
 一方「小さな鍵」には、72柱の悪魔の特徴とその召喚方法が記されている。
「これって……!」
 その中にはあの鳥悪魔と姿や能力が一致する悪魔もいた。
 序列44番の悪魔──「シャックス」。
 間違いない、この悪魔だ。誰かが呼び出したんだ。
 だけど……悪魔の召喚なんて、誰でもできることではない。
 本人自体の魔力はもちろん、魔力を持ったグリモワールも必要だ。
 今では書店でも出回っていて、誰でも簡単にグリモワールを手に取ることができるけど、普通はそこに書いてある儀式を行ったところで、悪魔を呼び出せるわけじゃない。
 印刷されたグリモワールには何の魔力もないし、悪魔を呼び出せるほどの魔力を持つ人もめったにいない。
 グリモワールはそんな数少ない魔術師が書き残したものだけど、実際にそこに記された魔術を実行できる人はほとんどいないらしい。
 なのに様々な悪魔がパリに呼び出されているとしたら……よほどの大魔術師の仕業か。
 ともあれ、私だってまったくの素人じゃない。
 ここにある古ぼけた「ソロモン王の小さな鍵」も、200年は前のものだ。
 召喚が成功する条件はそれなりに揃っている。
「……よし」
 悪魔は悪魔をもって制すべきだ。
 うまく呼び出すことができれば、あのシャックスをどうにかしてもらえる。
 だけど、私は召喚魔術を行ったことがない。そもそも危険なので、父から禁止されていた。未熟な魔術師は、呼び出された悪魔に殺されてしまうこともあるからだ。
 私はなるべく召喚者に従順な悪魔を選ぶことにした。
 呼び出せることが確認できるだけでも構わない。危なかったら帰ってもらえばいいのだ。
 私は慎重に考えて呼び出す悪魔を決めると、さっそく召喚儀式の準備を始めた。
 一階から階段を降りると、パサージュの家々を繋いでいる地下通路に出る。
 その突き当りの扉を開くと──そこから先は、果てしない闇の空間が広がっている。
 パリの地下を覆う、広大な地下道(カリエール)の入り口だ。
 何も見えない、何も聞こえない、暗黒の深淵。
 その分集中する儀式などには最適なので、私はいつもここで、ペンタクルに魔力を込める儀式などを行っている。
 そんなに奥まで行かなければ、すぐに帰って来れるし。
 燭台に火を灯し、地面に魔法円を描くための布を敷く。
 円の外側の4隅に五芒星を、内側に4つの六芒星を。少し離れた東側に、円より小さめの三角形を描く。どちらにも神聖な文字やヘブライ語の文字を、規定通りの色で記しておく。
 形式に沿うほど魔術の成功率は上がるけど、今は急いでいるのでかなり手順は省いている。
 悪魔にはそれぞれ印章があり、命令するときにはその悪魔の印章を見せつけると、屈服させることができるらしい。
 本来ならば指定された金属で作るべきなんだけど、とりあえずは「小さな鍵」の印章が描かれているページを使えばいいだろう。
 儀式の際に着ているローブに着替え、帽子を被る。
 邪魔が入らないように店は閉店し、誰かが訪問しても追い返すように、ストラスに見張らせておいた。ここまで来る人もいないだろうけど……。
 昼間といえどこの地下道は真っ暗で、湿った冷たい空気が立ち込めている。
 辺りを照らすのは、燭台の揺れる炎のみ。
 私は魔法円の内側に立ち、「小さな鍵」を開き、そこに記された呪文を読み上げる。
 
 我は、汝、精霊マルコシアスを呼び起こさん。至高の名にかけて、我、汝に命ず。あらゆるものの造り主、その下にあらゆる生が跪く方の名にかけて、万物の主の威光にかけて! いと高き方の似姿によって生まれし、我が命に応じよ。神によって生まれ、神の意思を為す我が命に従い、現れよ」
 震えるような低い声を意識しながら、言葉を紡ぐ。
「アドニー エル エルオーヒーム エーヘイエー イーへイエー アーシャアー エーヘイエー ツアバオト エルオーン テトラグラマトン シャダイ」
 正面の三角形に意識を集中し、叫ぶ。
「いと高き、万能の主にかけて、汝、マルコシアスよ、
然るべき姿で、如何なる悪臭も音響も無く、速やかに現れよ!」
 私の声だけが、周りの石壁に反響して響いた。
「…………」
 私はそのまま、しばらくの間魔法円を見つめたまま待った。
 しかし……何も起こらない。
 私は緊張を解くように、ため息を吐いた。
「やっぱり、そんな簡単にはいかないか……」
 私は諦めて帽子を脱ごうとしたが、その時。
 三角形から眩しい光の柱が立ち昇った。
「え──!?」
 そしてその光の中から、何かの影が浮かび上がる。
「う、うそ!?」
 やがて光の柱が消えると──そこには一匹の動物がいた。
 ただしその姿は、どんな新しい生物の図鑑にも載っていないだろう。
 白い鳥の翼と、蛇の尾を持つ狼。一般的に伝わっている悪魔のような、恐怖をあおるような姿ではなく、むしろ天馬のような美しさを感じさせる。
 悪魔は翼を畳んだまま、私を見つめる。そして口を開いた。
「……私を呼んだのは、貴女ですか?」
「え……?」
 私は思わず唖然としてしまう。その声は、澄んだ女性の声だったのだ。
 確かに悪魔は喋るものだとは知っていたけど……まさか牝だったなんて。
「え、ええ、そうよ。私はミシュリーヌ・ジェルマン。あなたが序列35番の悪魔、『マルコシアス』ね?」
 しかし、あまりうろたえてはいけない。悪魔に対しては対等以上の姿勢で望まなければ、騙されたり逆らわれたりしてしまう。
「私の願いを聞いて欲しいの! あの──」
「ガルルルル……!」
「きゃ!」
 突然彼女は獣の唸り声をあげ、翼を広げて私を威嚇した。
「さては貴女ですね……? 我が同胞たちを、己のくだらぬ欲望のために呼び出していったのは……」
「え、え!? ち、ちが──」
 なんで怒っているの? この悪魔は、召喚者に対しては従順だって書いてあったのに!
 彼女は勝手に三角形から前足を出し、こちらに向かってきた。
 悪魔は魔方陣から出てしまうと、召喚者の言うことを聞かなくなる。
「こ、こら! か、勝手にそこから出ないで……」
 私はグリモワールに描かれた、マルコシアスの印章を見せ付けた。
 私の魔力とグリモワールの魔力が反応し、開かれたページが光り輝く。
 ……だが、マルコシアスはまったく動じない。
「その程度で私を抑える気ですか。まったく、かつては偉大なる王に仕えしこの身が、貴女のような未熟な魔術師に呼ばれるとは……」
 彼女はやれやれ、とばかりに首を振った。
「貴女が私を使役するというのなら、まずは私を御して、その力を示してみなさい」
「な、なんですって!?」
 そんな話、聞いたことない──!
「それができなければ……あなたはここで死ぬだけです、ミシュリーヌ!」
 彼女は咆哮と共に大きく口を開き、私に飛びかかってきた!
「きゃあっ!」
 私は為す術もなく地面に倒され、前足で押さえつけられた。
 大きく開かれた真っ暗な口の中。その深淵から、光がゆらめきながらこみ上げてくる。
 炎だ!
「ひ、ひっ──」
 私は思わず目を瞑る。
 そのとき──
「そこまでじゃ、マルコシアス!」
 場違いな幼い声が、地下道に響き渡った。
「!? ま、まさか……そのお声は!」
 マルコシアスはすぐに私から飛び降り、振り返る。
 暗闇の中に、いつのまにか何羽もの白い小鳥が舞っていた。
 その中心に、小さな影が立っている。
「ほっほっほっ、余の顔を見忘れたか?」
 地下室の中に、無邪気な笑い声が響き渡る。
 それは、声の通り幼い女の子だった。
 小さい王冠を頭に乗せ、袖が足元まである、ゆったりした服を身にまとっている。髪は黒く、私と比べると肌の色は濃い。アラビア人を思わせる顔立ちをしていた。
「な……」
 何なの、この子は。
 その衣装も口調も、オペラから飛び出してきたようだ。
 どこからか地下道に迷い込んで来たのだろうか?
 女の子は袖から丸い壷を取り出すと、小鳥達はその中に帰っていった。
 マルコシアスは女の子に走り寄り、まじまじと見つめている。
「わ……忘れるはずもございませぬ……! この日をどんなに待ちわびたことか……貴女に再び見(まみ)える日を……!」
 前足で目を拭う。感涙しているのだろうか……?
 そして両翼を広げ、歓喜の雄叫びを上げた。
「我が主よ……偉大なる『ソロモン王』よ!」
 …………はい?
 今のは、私の聞き間違えだろうか。
 女の子はマルコシアスの頭を、飼犬のようになでる。
「ほほほ、元気そうで重畳じゃ、マルコシアス侯爵。またよろしく頼むぞ?」
「は、なんなりと! この身は我が主、ソロモン王のためにあります!」
「うむうむ、頼りになる奴じゃ。それに比べて他の連中ときたら、余が寝とる間に皆どこぞに行きよって」
 彼女は不満そうに頬を膨らませる。
 ……ソロモン王?
 この女の子が?
 いやいや、それはありえないでしょう。あのソロモン王が、こんな女の子のわけがない。
 そもそも、女だったら女王と伝えられているはずじゃ──
「およ? およよ?」
 彼女は私に気付いたようで、袖を引きずって走り寄ってきた。
「おお、おおお……!」
 そして何やら感嘆しながらわたしを上から下に眺めると、天を仰いで両腕を広げ、高らかに詠い出した。
「我が妹、我が花嫁よ、貴女は私の心を奪った。
 貴女はただひと目で、貴女の首飾のひと玉で、私の心を奪った。
 我が愛する者よ、貴女はことごとく美しく、少しの傷もない。
 我が花嫁よ、貴女の唇は甘露を滴らせ、貴女の舌の下には、蜜と乳とがある。
 貴女の衣の香りはレバノンの香りのようだ……!」
 この詩は確か……聖書の「雅歌」だったかな? なぜ今それを詠うのかわからないけど。
 そして彼女は改めて私を見つめ、
「そちは誰じゃ? 誰じゃ?」
 なぜか知らないけど、息を弾ませて目を輝かせている。
「え、え? わ、私は……」
「その娘は軽はずみにも、王の兵である私を呼び出した不届き者です」
「マルコシアスッ!」
 女の子はマルコシアスを一喝した。
「余はこの女子(おなご)に訊いているのじゃ! 犬は黙っとれッ!」
「はっ! し、失礼しました!」
 マルコシアスは焦って平伏した。
 さっきまで恐ろしい狼だったのに、今は哀れな子犬に見える。
「で、そちはこの街の魔術師か? 名をなんという?」
 私に向き直り、再び期待に満ちた眼差しを向ける。表情がころころ変わる子だ。
「え、えっと……私はミシュリーヌよ。魔術師ってほどでもないけど……」
「ほうほう、ミシュリーヌと申すのか。雅な響きじゃのう……」
 うっとりと頬を赤らめて、私を見つめている。
 私はなんか恥ずかしくなって、とっさに質問した。
「それで、そういうあなたは誰なの?」
 マルコシアスを従えたあたり、ただものじゃないのは確かだけど……。
「ほっほっほっ、聞いて驚け!」
 女の子は平たい胸を張って言った。
「我こそは、その名を後世まで轟かせし、魔術王ソロモンなりい!」
「…………」
 ああ、わかった。答えをはぐらかそうとしてるのね。魔術師は正体を隠すものだから、当然といえば当然だけど。
 ソロモンといえば、魔術師ならば誰もが憧れる存在。彼にあやかったつもりで、その格好をしているのだろうか。
「もう、そんなウソにはひっかからないわよ。本当のことを言いなさい」
 相手が年下のせいか、ようやく私も落ち着いて、強気な態度に出れた。
「な、何? 余の言うことが信じられぬのか?」
 女の子は迫真の演技でたじろぐ。
「ミシュリーヌ! それ以上我が主への侮辱は許しませんよ!」
 マルコシアスが女の子の足元に来て、私に向かって吠える。
 そういえば、さっきからのマルコシアスの態度はとても演技には見えない。
「え……? ま、まさか本当に、この女の子がソロモン王だっていうの……!?」
 唖然としている私の頭に、バイロンの言葉がよぎった。
 曰く、「事実は小説より奇なり」──。

Salomon ~魔術王~

「それで? そちはなぜマルコシアスを呼んだのじゃ?」
「え?」
 私が固まっていると、女の子──自称ソロモンが私に聞いてきた。
「え、ええ、それなんだけど……」
 彼女に対して疑問に思うことは山ほどあるけど、今は目的を優先しよう。
 私は、マーゴおばさんがシャックスと思われる悪魔に呪われてしまったこと、私のペンタクルも効かなかったことを話した。
「なるほど、それで困っておるのか」
「シャックスならやりかねません。彼は度々人間の召喚に応じては、馬や金品を手に入れていました」
 さすが同じソロモンの悪魔。同僚の動向については詳しいらしい。
「ふむ、底意地の悪さは相変わらずか……。ここは奴を捕まえて、呪いを解かせる他にないであろうな」
「やっぱり……。じゃあ、シャックスを捕まえて! 元はあなたの配下だったんでしょう? あなたなら簡単に──」
「うーむ、そうじゃのう……かつては大勢おった余の軍勢も、今ではなんとも心許ないしのう」
 ソロモンは腕を組んで考える。
「かつて余の配下だった者は、すべからく余の元に帰るべきじゃ……しかし」
 私の顔を見て、何やら薄笑いを浮かべた。
「な、何よ……?」
「ただでというわけにはいかんのう~」
「ま、まさか……お金でも欲しいの?」
 確かに助けてもらうのなら、こちらからも何か対価を支払わないといけない。
 でも……家にもそれなりに蓄えはあるけど、さすがに王様が喜ぶような金銀財宝は……。
「ほほほ、庶民にそんなものは期待せ~ぬ」
 ソロモンは小さい身体を、私にすり寄せてきた。
「余が望むものは唯一つ!」
 指輪をはめた人差し指を、私の眼前に突きつける。
「ミシュリーヌよ……」
 そして、私を真顔で見つめながら、言った。
「余のものになれ!」
「………は?」
 後ろでマルコシアスがため息をつく。
「余のもの」って……ああ、そういうことね。
 一瞬、意味がわからなかったけど……つまり、他の悪魔たちと同じように配下になれ、ということか。
「それって、どういう仕事するの?」
「ほほほ、仕事か。なあに、そちの人生を縛ることはせぬ。ただ、しばらくそちの家に厄介になるぞ」
 なんだ、それだけのことか。いくらなんでも、小さい女の子一人を食べさせるくらいの余裕はある。
「まあ、いいわよ? そのくらいなら」
「ひょほーう! よしよし、その言葉、忘れるでないぞ!」
 ソロモンは小躍りして喜んだ。
 うーん、部下が増えるのがそんなに嬉しいことなんだろうか? 私なんて悪魔たちに比べたら、大して役に立たないと思うけど……。
「さて、いい加減この洞窟も飽いたぞ。出口はどっちじゃ?」
「え、ええ……あの扉を開ければ、家の地下に出るわ」
「ほほう、どれどれ……」
 ソロモンは扉に向かっていった。私も撤収準備をしなきゃ。
「本当に良かったのですか?」
 振り返ると、マルコシアスが私を見上げていた。
「え? 何が?」
「貴女の人生ですからとやかくは言いませんが……もう少し考えてからでも……」
 そんな真剣に考えることだろうか?
「いいのよ。こうしてる間にも、おばさんは不安でしょうがないと思うから」
「……ミシュリーヌ……。どうやら、貴女の器を見誤っていたようです」
 マルコシアスは何やら改まり、私に跪く。
「この戦い、私も尽力致しましょう。これからはなんなりとご命令を!」
「あ、ありがとう……」
 どうしてこんなに褒められるのかわからないけど……まあ、悪い気はしないわね。
「お~い! この扉はどうやって開けるのじゃ~!?」
 ソロモンが扉を闇雲に叩いている。壊される前に向かったほうがよさそうだ。
 
「おおお、こうなっておるのか~」
 ソロモンはパサージュの通路に出て、物珍しそうに辺りを見回した。
 この珍客を誰かに見られやしないかと思ったけど、相変わらずパサージュには誰もいなかった。
「ここは一体、どういうところなのじゃ? 店がくっついて並んでおるようじゃが、道の上に屋根がついておるぞ?」
「ええ、パサージュっていう、一種の商店街よ」
「ほ~う。それにしては、人を見かけないのう。今日はどこも休みなのか?」
「いいえ。まあ、昔は賑わっていたらしいけど……時代の流れには逆らえないってことね。百貨店(グラン・マガザン)ができてからは、そっちに客が流れてしまったの」
「ほほほ、では余がこの界隈に活気を戻してしんぜようか? これでも商売は得意なのじゃが」
「交易で国を繁栄させるのとは、わけが違うと思うんだけど……」
 彼女は常識を知らなさそうだし、その魔術で何をしでかすかわからない恐ろしさがある。
 できるだけ目立たないように、騒ぎにならないように事件を解決したいところだ。
「それより、どうやってシャックスを捕まえるつもりなの?」
「ふふ、案ずるな。この魔術王ソロモンに抜かりはないわ」
 ソロモンはそう言って、袖から何かを出した。
「壷……?」
 それはさっきも見た、丸い真鍮製の壷だった。表面に呪文のような文字が刻まれている。
「さよう。余が72柱の悪魔を封じておいた壷じゃ」
 そして彼女は右手の壷を前に構えたまま、左手を高く上げ、叫んだ。
「出でよ! 序列69番の悪魔──デカラビア!」
 その左手の指輪から、印章を象った光が回りながら宙に広がる。
 次の瞬間、右手の壷からボンッと煙が広がった。
「きゃ──!?」
 そしてその煙の中から、回転している何かが浮かび上がる。
 これはなんだろう? 五芒星の形をしているけど……?
「こやつはデカラビア侯爵じゃ。こう見えても生きておる」
「ふ、不思議ね……」
 ヒトデに似ているけど、それにしては無機質な感じがする。
「デカラビア、シャックスの居場所を探るのじゃ!」
 ソロモンが命じると、デカラビアは回転を止める。そして身体の中央にある、口のような部分が開く。
 そこから何かが飛び出した。
「え!?」
 鳥だ。小さく白い鳥が、デカラビアの口から羽ばたいていった。
 続いて二羽目、三羽目と、次々に鳥が飛び出していく。
 地下道でソロモンと一緒にいたのは、この小鳥達だったのだろう。
 デカラビアの小さい体の中に、どうやってこんなに鳥が入っているのか、まったくわからない。
「まるで手品だわ……」
「ほほほ、デカラビアは鳥の姿をした使い魔を操ることができるのじゃ」
 ということは、この鳥はデカラビアの魔力で作られているのかもしれない。
 鳥達は部屋の窓からそれぞれ様々な方角の空へと飛んで行く。
「あの鳥らはデカラビアの目となり……必ずや彼奴の姿を見つけてくれよう」
「なるほどね……」
「後は、報告を待つばかりじゃ。ところで、余は喉が乾いたぞ。酒を持ってきてたもれ」
「あ、あのねえ……」
 これから大切な仕事をしてもらうのに、酔っ払ってもらっては困る。
 ここはカフェ・オ・レで我慢してもらおう。
 
 フクロウのストラスも加えて、私たちはテーブルを囲む。
「ほほお、これは酒ではないようじゃが、甘くて美味じゃのお~」
 ソロモンは両手でカップを掴み、私が入れたカフェ・オ・レを飲んでいた。
 マルコシアスはソロモンの足元に、おとなしくお座りしている。
「……う~ん……」
 いつも一人で過ごしている部屋に、こうして見知らぬ来客が座っているのは、実に奇妙な光景だった。
 まさに、マッド・ティーパーティー状態だ。頭が痛い。
「それにしても、ストラスまでおったとはのう」
 ソロモンはストラスの頭を撫でる。
「え、この子を知ってるの?」
 ストラスは父が旅行の土産に買ってきたはずだけど……?
「うむ、我が配下の一人にして序列36番の悪魔、ストラス王子じゃ。のう?」
「ホー」
 ストラスは嬉しそうに首を体にうずめる。
「そ、そんな……この子も悪魔だっていうの?」
 ただのフクロウだと思ってたのに! どうりで賢いはずだわ。
 こんな身近なところに、既にソロモンの悪魔がいたなんて。
 でも、魔術に詳しい父のことだ。ただのフクロウではなくてもおかしくはない。
 というか、どこの「王子」なんだろう? 悪魔の肩書きにどんな意味があるのか、謎だ。
「……まあ、悪魔達の反応からして、あなたがあのソロモン王だってことはわかったけど」
 私は彼女を、じっと見る。
「三千年前から、ずっと生きているっていうの?」
「ほほ、まさか。天寿を全うした余の魂は死後、ある悪魔の元で復活のための力を蓄えるため、眠りについておった。ついこの間目覚めるまでな」
「ふ、復活って……」
 さすがは魔術王、考えることが違う。
「でもその悪魔って……あなたの配下の?」
「いや……まあ、三千年前からの腐れ縁じゃ……」
 ソロモンはなぜか目を逸らし、顔をしかめた。
 旧約聖書によるとソロモン王は晩年、異教の神……つまり悪魔を崇拝していたらしいけど、関係があるのだろうか?
「しかし彼奴の仕事が遅いせいで、復活が予想より遥かに遅れてしもうてのう。おかげで壷の中に閉じ込めておいた悪魔共は脱走するわ、余の魔術が人々の手に渡るわ……まったく由々しき事態じゃ。ほほほ」
 そう言う割には、ソロモンはこの状況を楽しんでいるかのようだ。
「でも、なんであのとき地下道に?」
「うむ……彼奴はこの国の大使をしているらしくてのう、この街に住んでおるのじゃ」
「た、大使……!?」
 もう何があっても驚かないが、一体パリはどうなってしまっているのだろう。
「余は自由を求めて彼奴の館の地下から脱走し、あの地下道に入った。印章の光を明かりにして進んでおったが、迷ったのでデカラビアに道を探らせたところ、マルコシアスを見つけたというわけじゃ」
「ふうん……まあだいたいのことはわかったわ」
 とりあえず納得していると、一羽の白い小鳥がテーブルに止まり、チュンと鳴いた。
「お、見つかったようじゃな」
 悪魔の大使も気になるけど、今はシャックスを追う方が先決だろう。
 窓から次々と小鳥が入ってきて、デカラビアの口の中に帰還していく。
「それで、彼奴はどこにおったのじゃ?」
 小鳥の一羽が、ソロモンの前でピイピイと鳴いた。
「ほう、なるほどのう」
「って、あなた鳥と話せるの!?」
 ソロモンは左手の指輪を見せた。
「この指輪には、あらゆる生き物の言葉を理解する力があるのじゃ」
「それじゃあ、私とフランス語で話せるのも……?」
「ほほほ、わざわざ余がこの国の言葉を一から学ぶとでも思うたか?」
 ソロモンは手を腰に当てて笑った。
「威張ることじゃないでしょ……」
 確かに、普通の外国人ならうまくフランス語をしゃべっても、訛りは抜けないはず。彼女は最初から流暢にフランス語を喋っていた。
「それで、シャックスはどこに?」
「うむ、ここから北西の方角にある宮殿に入っていったそうじゃ」
「え……宮殿……!?」
「心当たりはあるかの? ここからだいたい2000キュビトらしいのじゃが」
「それって何メートルよ……」
 古代の単位で言われてもピンと来ないんですけど。
「そもそも、そっちに宮殿なんてあったかしら?」
 引きこもりがちとはいえ、私だって一応パリジェンヌだ。パリの地形は大まかには頭に入ってるつもりだけど……。
 念のため、私はパリの地図を広げてみる。
「ほうほう、真ん中を川が流れておるのか」
「ええ、セーヌ川よ。うちのパサージュは……ここね」
 私は指を指して示す。パリのほぼ中心に位置するルーブル美術館から、北に進んだところだ。
「……でも、やっぱりそっちには宮殿なんてないわ。エリゼ宮殿は西だし、リュクサンブール宮殿は南、ブルボン宮殿は南西だもの」
 ソロモンはデカラビアに向き直り、
「このうつけがッ! 何を見ておるのじゃ。もう一度探して来い!」
 この子って悪魔には容赦ないわね……。
 それにしても……宮殿か……。
「あ、待って!」
 私はようやく、その意味に気づいた。
「そもそも宮殿かどうかなんて、見た目じゃわからないわ。パリには宮殿のように大きくて美しい建物がたくさんあるもの」
 自慢じゃないけど。
「それは困ったのう。おい、何かその宮殿の特徴はないのか?」
 鳥はソロモンにピーチクと鳴いて何かを伝える。
「ふむふむ。どうやら上から中が覗けるらしいのう」
「それって……このパサージュみたく、ガラスの屋根ってことかしら?」
 私は地図に乗せた指を、北東の方角になぞりながら考える。オペラ座は宮殿のように壮麗だけど、上から中は覗けないはず。
「──あ!」
 だけどその奥には、条件を揃えた建物が確かにあった。
 ここにあの悪魔が入ったというのなら……状況は極めてまずい。
「ミシュリーヌよ、そこには何があるのじゃ?」
「……百貨店(グラン・マガザン)よ……!」


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