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 エレスベン聖ユーリー修道院長アイリーン・ゼーベック猊下

 謹啓 向寒の候、大司教猊下におかれましては、ご健勝のことと存じ上げます。
 さて、サンリンデル教区司教猊下およびブラオフルス大聖堂院長殿から書状を頂いた件――去る白羊月一日、ブラオフルスにて発生した忌まわしき事件について、ご報告申し上げます。
 書状を受け取るや、拙僧は雪残るモンラビ峠を越え、アルフォーティアより馳せ参じた次第ですが、半年以上経った今でさえ、かの碧い都が、かくも浅ましき状況にあることは、遺憾の極みであります。
 我ら聖教会が神より預かりし言葉、聖陣サンクチュアリはことごとく破り捨てられ――猊下、頑強な聖ユーリー陣さえもです――、敬虔で聡明な祓魔師が天に召されたこと、慚愧に堪えませぬ。
 愚僧が調査した限りでは、魔女ウィッチの仕業に相違なく、我々の神を否定し、古き呪われた神々と契約せし者に間違いないでしょう。
 猊下。危惧していた事態が迫っておるように感じます。
 聖教を護るには、他人を殺すのではなく、自分を殺すことによって為されるべき――猊下ならば、そう仰るでしょう。それは重々承知しております。
 しかしながら、現に魔女は迷える子羊をいたぶり、嬲り、殺しているのです。汚らわしい呪術によって、無辜の民は苦しんでおるのです。
 民草を正しき世界へ導くのが、聖教会の役割でありますから、聖なる炎、聖アントニウスの浄火で忌まわしき者どもを滅するのが道理と言えましょう。
 唾棄すべき魔女は、呪いによる加害以前に、闇に沈んだ神々、地霊の王たるヴォーダ、オ・レインセル、ディンドロスの三霊と血の盟約を交わし、忌むべき三精、火蜥蜴ウルカナレス獅子鷲グリフォン一角獣ユニコーンらの眷属と、聞くもおぞましき儀式、吐き気を催す血液の交わりによって、正しき信仰から逸脱した異端者であります。如何なる身分も、如何なる場合も例外なく、死刑に処すべきなのです。この世界から魔女を駆逐できれば、身の毛もよだつ集会サバトで誘惑され、人の道を外れる者も無くなりましょう。呪われた血を根絶できましょう。
 さらに憂慮すべき事態が一つ。この件に関しましては、直接お耳に入れなければなりませぬが、十中八九、件の魔女によるものと思われます。あるいは、かの魔女は太陽十字サンホイール派のスパイかもしれませぬ。別添えの手配書をご高覧の上、各教区に転送頂ければ幸甚に存じます。
 祓魔師を総動員してでも、所在を突き止めるのが第一義でございますが、かの異端者が聖陣術パトロヌスを破る呪術をどのように行使したか、という疑義も『尋問』によって、明らかにせねばなりますまい。
 最後に、小さな希望の光を見出せたことを申し添えて、筆を置くことに致します。遅かれ速かれ、その者はエレスベンへ向かうことになりましょう。そのときは、よしなに取り計らって頂けますよう、お願い申し上げます。
 私はこれより帝都へ発ち、父上に報告してから、サンタルジュのクルゾワを経由して、エレスベンまでご機嫌伺いに参ります。伯母上様、どうぞご自愛の程を。
                         頓首
 帝暦一六三八年人馬月六日
 教皇庁聖霊会特務審問官 グリエルモ・ゼーベック


 なだらかな稜線がうねるように続き、その遥か彼方に、万年雪をたたえた高峰が、雲間から険しい表情を覗かせている。葉を落とし寒気に耐えている樹林の中で、モミやトウヒの青々とした肢体は、彼らの存在を天に誇示しているかのようだ。
 石灰岩質の急峻な斜面から、雪解け水がこんこんと溢れ出る。幾筋もの水筋は絡まりあって、いつしか洪水のような乳白色の濁流を成した。
 その一際深い川の淀みの上で、柔らかい日の光が戯れている。山々を太古より形作ってきた大河ブラオフルスの春の色が輝いている。
 日差しが強い。濃紺色の革服では、陽気を吸い込んでしまって、かなり暑苦しい。担いだ弓矢が鬱陶しく感じる。日暮れまでには、この谷を抜けたいところだが、歩き疲れた体は、しばしの休息を要求していた。
 年季の入った羊皮の水筒を口から離し、ユィアン・トウキは昼下がりの空気を吸い込みながら、白髪交じりの長髪を無造作に束ね直した。
 大河はその体を森の懐に預け、渓谷を蛇行していく。丘の上には草原が広がり、所々に羊が群れている。その群れの中で、子馬ほどの体躯をした白い獣が草を食んでいて、牧羊犬が胡散臭そうに様子を窺っている。
 白い相棒への心配は無用だろう。だが、流石にそろそろ腰を上げなければ。
 ユィアンは唇に指を当てた。甲高い音が響き渡り、白い尾が揺れた。白い獣は前脚を器用に折りたたみ、後ろ脚で跳ねるように駆け上がってくる。
「セフ、お腹はいっぱいになったかい? もう少しでちゃんと休めるから」
 雪のような体毛をかき分けて、頭から尾の先まで茶色い縦縞が走っている。黒いつぶらな瞳を主へ向けて、セフは耳を伏せて鼻をひくつかせた。セフの耳の後ろを撫でながら、手早く荷物をくくりつける。
 ぬかるんだ小道は牧草地を縫うように大河と並んで延びてゆき、その先には緩やかに波打つ平原が霞んでいる。
 人里は恋しいが、人とあまり関わりを持つ気にはなれないし、またそうすべきとも思えない。少し歩けば集落に出るだろう。そこで一晩の宿を乞うのが無難だが、山師扱いにはうんざりだ。
 ユィアンは医師であり、薬師であり、時に錬金術師とも揶揄される。彼のような生業を歓待する奇特な村は、そうそうあるものではない。必要とされるのは、流行病の時か、盗賊に襲われた時くらいで、盗賊と同一視されることも、ままある話だ。
(それに……どうも気配が妙だ)
 切羽詰まった野ウサギや鹿が、藪から飛び出して来ては、ユィアンに驚いて逃げていく。可能性として最も高そうなのは、この森の主――地霊ゲニウス・ロキの虫の居所が悪い、だろうか。獣たちは、とばっちりに恐れをなして、色めきだっているのだろう。
 異様な気配がした。どうやらその矛先は、無関係なユィアンにも向けられたようだ。一羽の大梟が梢を飛び移りながら、こちらの一挙手一投足を見張っている。
 大梟の目が鬼灯色に爛々と輝いた。間違いなく、地霊だ。血の色を凝縮した赤い瞳こそ、地霊の証に他ならない。
 あくびをするように、大梟は嘴を開けた。灰色の嘴の間から、あどけない少年の顔がニュルリと這い出してきて、ケタケタと不快な笑い声が響く。背中に冷たい汗が流れた。
(――魅入られたか?)
 だとしたら厄介だが、地霊の大梟は襲いかかってくる素振りも見せずに、ただ様子を窺っているだけだ。ニタニタと笑っている。セフが小さく鳴いた。
(あの羽モノが本体なら、獅子鷲グリフォンの眷属か……でも、別の魔女ウィッチの使い魔かもしれない。向こうから仕掛けてこないなら、様子を見るしかないが……下手に手を出せば、返り討ちが関の山だ)
 見透かされないように、冷静を装うしかない。
 地霊はしばらく付いてきて、森を出たところで、ユィアンの頭上を二度旋回して飛び去った。
(牽制……だろうか)
 よしんば魅入られたとしても、この先の帝国六聖地の雑踏に紛れてしまえば、いくら地霊でも手は出せないだろう。気が変わった。ユィアンは貿易都市ブラオフルスを目的地に据えた。


   *

 大河ブラオフルスは、ノーヴォフ山地から迸りながら、平原へと流れ込んでいく。帝都ヒルドブルクから下るクル川と合流し、大河は正に大河となって、ロラン=ツァーレン平原を蕩々と海を目指すのである。
 神聖ハイブロン帝国の古都ブラオフルスは、直轄領ノーヴォフ州の行政府として、大河を見下ろす丘の上に聳えている。
 街の中央から尖塔が突き出ている。夕暮れの橙色は、塔の背後に長い影を落とし込み、黒い槍は古都を貫いているかのようだ。
 塔の影を縁取るように、市壁は丘の頂上から六角形にぐるりと街を取り囲み、大河に向かって延びている。河岸に降りていく緩やかな斜面の途中で、市壁は南から北へ向きを変えた。壁の外側には港に向かって、スラム街が並んでいる。
 ユィアンが辿り着いたときには、既に市門は閉ざされていた。一介の薬師には、如何ともしがたい状況だ。紫から黒に移ろう街並みや、天を指向する尖塔の姿を眺めていても、腹がふくれる訳でもない。止め処もなく湧いてくるのは、空っぽの頭を駆け回る生理的な欲求。どうしようもなく腹が減った。
 体中に飢えと休息に対する痛みが渦巻いている。しかし、市門が閉ざされたとあっては、干し肉と硬くなったパン、そして凍てついた大地を寝床にして、それを満たすほかなかった。
 白い煙の下から、小さな炎が舌を覗かせるのを見届けて、ユィアンはパンをかじった。細い枝を爆ぜさせながら、小さな炎は、かじかんだ四肢に温もりを蘇らせていく。
 辺りには夜の帳が降り、雲の切れ間から星が瞬いていた。黒く縁取られた森は、どの闇よりも濃いように思え、不意に湧いてきた寒気から逃げるように、ユィアンはマントを被ってセフに体を預けた。

 どれだけの時間が過ぎただろうか。例え擦り切れるほど疲れ、肉体が休息していても、完全に眠れるほどユィアンは無神経ではない。旅が染みついた体は、わずかな物音をも聞き逃しはしない。
 セフも顔を上げ、しきりに鼻と耳をひくつかせている。物音は草を踏みしめて近づいてくる。
 火は消えている。さらに神経を研ぎ澄まし、気配を探った。腹を空かせた獣を呼び寄せてしまったか、という考えも脳裏を過ぎったが、どうやら人間の足音らしい。それが人間であったとしても……
(この状況では、飢えた獣と大差ないな)
 ユィアンは胸元の短剣をたぐった。足音は速度を変えずに頭上を過ぎていく。
 煙はまだくすぶっている。夜目の利く者ならば、見逃すはずがない。斜面の窪地で露を凌いでいたのが幸いだったか、ただの取り越し苦労か……
(過ぎたと思わせておいて、不意をついて襲う腹づもりか)
 いずれにしても、油断出来ない。
 ユィアンは意を決して、窪地から半分顔を上げ、足音の去った方を正視した。
 風が吹き始めていた。少し欠けた月に照らされ、ゆっくりとした歩調で独り、街の方へ去っていく影が見える。風に乗って何かが聞こえてくる。革袋を担いだ人影から流れて来るようだ。
 その影から目を離すことができない。次第に遠ざかっていくものの、その音は逆に強くなっていく。それが男の声だと分かったとき、一陣の風が吹き抜けた。フードがはだけて、月明かりにくっきりと銀髪と横顔が浮かび上がる。
 足の先まで血の気が引いた次の瞬間、鼓動を速めた心臓から、煮えたぎった血液が怒濤のように全身を駆け巡る。握りしめた短刀に、うっすら汗が滲む。目眩がした。追憶の彼方から甘い記憶が這い寄ってくる。
 暖かいスープ。透き通る少女の笑い声。厳つい手。優しい温もり。手を伸ばした瞬間、全てが血に染まり、汚泥に塗れる。長かった旅路の苦労が報われる光景が眼前に広がり、鈍い恍惚感がユィアンの胸を満たしていく――
 男は門の前で立ち止まった。何かを確かめているようだが、やがて市壁の角で消えた。その刹那、ユィアンは行動を起こしていた。理性は本能に組み敷かれた。
 壁に手を触れながらニヤリと口元を歪めて、男は吸い込まれるように忽然と消えた。消えた場所には穴もなければ、扉もない。ありきたりの壁しかない。
 変わりあるとすれば、そこに血の跡が残っていただけだ。夢うつつのようだが、手の中にある短刀の確かな重さ、それはまぎれもなく、今身を置いているのが現実だと語っている。同時に、男を完全に見失ったのも事実だった。
 目の端に青白い光が映った。門の壁だ。月明かりに照らされて尚、それ自体が光を放っている。
(……『我はあらゆる力の強大なる力なり。その力は一切の微細なるものを征服し、一切の固体に浸透する故なり。かくて世界は創造せられたり』……神聖古語ヒエログラムで書かれている。しかし、こんな聖詠ムジカが経典にあったろうか――)
 記憶を辿ってみても、思い当たる節はない。さらによく見てみると、どす黒く変色しているが、その詠は血文字によって刻まれていた。
(血文字を使うのは、魔女だけだが……)
 魔女の呪いウィッチクラフトは『血』によって為される。眼前の文字列は、某かの魔女がこの街に呪いを掛けた、と考えるのが妥当だ。
 しかし、神聖古語は聖教会が用いる言葉。聖教会を不倶戴天の敵と見なす魔女は、神聖古語を口にもしないし、ましてや自ら紡いだ呪いに使う道理がない。
 鶏卵から蛇が出る。あり得ない光景が目の前に積まれていて、ユィアンは呆然と立ち尽くした。


 鳴り響く鐘の音が、夜の終わりを告げた。不思議と体が軽い。眠りに就く前、あれほど高ぶっていた体の熱はもう消えていた。
 セフが白い四肢を震わせる。夜露を避けていた薪に火を灯し、ユィアンは水を一口含んだ。清冽な重みは、瞬く間に体に取り込まれていき、頭にくっきりとした思考の流れを行き渡らせていく。
 ブラオフルスの川面を朝日が柔らかく包み込み、朱の滲んだ靄の中を船が下っていく。次第に靄は薄まっていき、尖塔の屋根は朝日を浴びて、輝きを取り戻しだした。
 キャラバンが朝靄を掻き分けて、街へと進んでいく。どうやら、門は開いたらしい。
 不意に背中を何かが触れた。身構えて振り向くと、セフが物欲しそうに革袋を鼻先でつついている。ユィアンは腹を空かせた相棒に水を飲ませて、キャラバンの後を追いかけた。
 長い隊列の後ろに取り付くと、荷台から男が顔を覗かせた。ユィアンの身なりを珍しそうに眺めながら、男は急に手を振った。呼んでいるらしい。
「あんたも稼ぎに来たんだろ?」
 商人は人懐っこい笑顔を寄越した。言外の意味がよく飲み込めない。すると、商人は荷物の中から布地を取り出した。淡い紅色の光沢を放ち、布地は朝日を浴びて一層輝いて見える。
「いい革だな! どうだい? こいつと交換しないか?」
 寝起きでこれとは、商魂たくましいと言うべきか。確かに、羽織っている上着は、ノーヴォフ地方でおいそれと手に入る代物ではない。東の辺境にしか生息しない、ユキヒョウの皮だからだ。
(目が肥えてると言いたいが……)
 ユィアンは頭を振った。男はしつこく交渉してきたが、取り付く島がないと分かると、残念そうに布地を仕舞った。
 朝日に照らされた市門の凛々しい姿を前にして、この商人に昨夜の出来事を話して聞かせたとしても、笑い飛ばされるだけだろう。この街に刻まれた禍々しい呪いを信じるはずがない。しかし、痕跡は確かに残っている。
 昨夜目にしていなければ、絶対に気付かないだろう。それは日の光を拒むように、暗がりからじめついた敵意を、行き交う人々に注いでいる。
 門番の男が、ユィアンを値踏みするようになめ回してくる。疑われているのか、別の理由なのか、どちらも御免被りたくて、ユィアンは門の向こうに広がっている街並へ目を転じた。
 門番の背中越しに、黒衣を纏った女たちが無言で歩いてくる。彼女たちは、しずしずと彼の脇を通り過ぎていき、その後ろに、四人の少女が続いていく。少女たちは白い薄布で身を包み、大きな籠を背負っていた。朝の空気が彼女らの肌をよりいっそう白く際立たせる。
 一団がゆっくり去っていくのを見送って、ユィアンはもう一度自分の進むべき道を見据えた。商人が手を振って別れを告げてきたが、上の空でそれに応える。キャラバンが去っていく石畳の街路には、もう人の姿が見えた。



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