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 偶然? そうね、私の周りではずいぶんたくさんの人がそれを体験していると思うわ。しかも幸運な類の偶然を。聞きたい? いいでしょう、それならお話することにしましょう。私は画集。図書館の美術書コーナーの片隅で、あなたがたのためにいつもじっと待っているのよ――。

 

 思うに人は自分と似たものへ知らず知らずのうちに引き寄せられているのだわ。外面上ではなく何か核心的な部分において。幸か不幸か私に収録された絵の作者はあまり日本では知られていないの。だからここで私を借りていく場合のほとんどが、前もって予約していたのではなく、その場でたまたま目に付いて手に取ったからというものよ。私との出会いそのものが既に一つの幸運な偶然ということね。

 それを知ってか知らずか、私を手に取った人々は皆、久しぶりに思いもよらない所で旧友と再会したような、驚きと困惑の混じった歓喜の表情を浮かべる。その場でページをぱらぱらとめくって、大事そうに私を貸し出しカウンターや館内の閲覧用のテーブルまで抱えていく。

 

 あるとき私を画家志望の美大生が借りていったの。その彼は当時全く絵が描けなくなっていた。画家志望にもかかわらず……いえ、画家志望だからこそね。若くとも彼は野心と才能に溢れていた。毎分毎秒ごとにアイディアが閃いてそれを手帳やスケッチブックに書き留めることにも余念がなかった。けれどいざカンバスの前に立つと――頭の中は真っ白になり、手は一ミリも動かなかった。肌にこびり付いた「こんなはずじゃない」という絶望と屈辱がなかなかそこから去ることも許さないので、結局彼は毎日、何時間でもただまっさらなカンバスの前で蝋人形のようにしていざるを得なかった。そんな折に、「芸術」からあるいは自分自身からほんの少しの間逃れたくて、気晴らしに立ち寄った図書館で出会ったのが私だったのよ。

 表紙を見るなり彼は雷に打たれたような衝撃を受けたわ。なぜって、そこにある絵があまりにも隠し立てのない純粋な真実だったから。

「なんていう勇気だ!」

 思わず彼は叫んでしまった(周囲の人が一斉に彼を迷惑そうな目で見たわ)。彼に言わせれば、その絵は稚拙で、色彩的に不調和。それを「計算して」やっている痕跡もなく、ただただ知識の不足と技術的な未熟さに起因するものみたい。画家の筆は邪念や雑念に満ちていて、ちっとも清純じゃない。画面はとりとめがなく、したがって考えもきっと整理されていなく、けれど強烈なエゴとコンプレックスと苦悩だけはしっかりそこに見て取れる。そしてそれを驚くほどの、半ば諦めにも似た冷徹さでもって丁寧に描いている。

「とんでもない絵だ」

と彼は思ったわ(辛うじて今度は声に出さずに済んだの)。ページを勢いよくめくってはまためくり返して、絵という絵を食い入るように、それこそそのまま自分の体が中に入ってしまうのではないかというくらいに見つめたわ。そこには一人の人間の、恐ろしいくらいありのままの姿が一貫して描かれていた。そしてそれは驚くほど彼自身に似ていた。なぜ絵が描けなくなったのか、その問いと答えを一気に突きつけられるような思いだったわ。彼は気付いたの。

「自らを加工しようとしていたからだ」

芸術とはもっと高尚なものでなければいけないと彼は思っていたの。余計なものはそぎ落として、穢れたものは清らかにして、不合理な部分は考察し直し、不揃いな部分は並べ直さなければ、と。そうしてきちんと体系立ててから提示しなければ、と。きっと素晴らしい理念から始まったその思いが、いつからか反省を超えた自己否定に取って代わられていたのだわ。そのことを彼は今日まで見過ごしてしまっていたの。

 私は言ったわ。

「そのままのあなたでいいのよ。あなたさえあなたを認めてあげれば全てうまくいくわ」

 彼はうっすらと涙ぐんでさえいた。生まれて初めて自分が心の底、肺の底から呼吸しているような気分だった。手を取り合って、私たちは家路を急いだわ。そしてその日蝶が羽ばたくように、その羽を風へ預けるように――ごく自然に彼は再び絵筆をとることができたのよ。

 

 ……こんな劇的な偶然がある一方で、もっとゆっくりと穏やかに作用する偶然もあるわ。

 

 この図書館に、休館日と日曜日以外ほとんど毎日のように通っていた少女がいるの。なぜなら彼女は数週間前から学校へ行くことができなくなっていたの。いじめられたわけではなくて、むしろクラスのどんな友達ともうまく付き合える方だった。授業についていけないどころか、学校で一、二を競う成績だった。でもそんな「良い子」の彼女だからこそ、いくつもの繊細な不安(例えば、いつか「悪い子」の側の自分が顔を覗かせて皆に嫌われてしまう、というような)が蜘蛛の巣みたいに心の中で絡み合って、捕らわれてしまっていたのだわ。そんな訳で漠然と、団体の空間を離れてひとりでいたいと思っていた。

さて、そんな彼女の日課はここへ来て本を読むことだった。毎日少しずつ、できるだけ多くを読み進めて、いつかこの図書館にある全ての本を読破してやろうというのが目下の野望だった。そんな中で私の番がまわってきたの。前述の彼と違って、この彼女は特別絵画や芸術に興味のある方ではなかったわ。読み終わったばかりの本を元あった棚に戻して、その隣の私を今度は引き抜いた。きっかけはただそれだけ。彼女の私に対する第一印象は「奇妙な本」というものだった(失礼しちゃうわね、まったく)。きっと収録された絵のせいね。彼女にはそれが美術の授業で習ったモネやピカソ、それからさっきの本にあったクレーやカンディンスキーなんかとは随分違って見えた。だから違和感と同時にちょっとした興味を抱いたの。二十分くらいかしら、物珍しそうに中のページを眺めていたわ。動物園に来た子供のような表情で。そうしているうちに七時の閉館のアナウンスが流れたので、彼女はページを閉じて、律儀にまた私を元の場所へ戻してその日は帰っていった。

けれどあくる日のこと。いつもと同じ時刻にいつもと同じスクールバッグを携えて図書館に姿を現した彼女は、入り口からこの棚の前へやって来ると、次の本を取ろうか少し迷った後で結局また私を選んだの(読まれるのを心待ちにしていたその本が、恨めしそうに私を睨んだわ)。どうして私のことがそんなに気になるのか、彼女にはよく分からなかった。棚の脇の空いている椅子に腰掛けて、一生懸命その理由を私の中に探ろうとしてみてもいまいち掴み切れない。

「だって特別『大好き!』ってわけじゃないんだもん」

困ったように彼女はそう漏らしたわ。そして私を軽く指で叩きながら、欠伸をした。

「あなただって、私に好かれたいとか、こう見られたいなんて全然思ってないんでしょ?」

面白いものね、この問いかけは彼女の中に質問の直接の答えのみならず、探しているはずの理由までもが既にあることを示唆していた。彼女はここでこうやって私と向き合うことで、私と、他人からの評価にこだわり過ぎている自分自身とを比較していたのよ。そしてそうではない自分の可能性、つまり評価や判断は全部相手に委ねてしまって、良い意味でもっと自由に振舞える自分の可能性を発見しつつあったの。だからこの時、ひょっとしたらまた学校へ行けるようになるかも知れないなんていう、どこから来たのかも分からない不思議な感覚に包まれていたのだわ。

私は笑って答えたわ。

「そうね、思ってないわ!」

 と、ただ一言だけ。だって他に何も言う必要がなかったもの。彼女が自分の中の小さな――けれど確かな変化に気付くのは、もう時間の問題だと分かっていたから。

 

どうかしら。こんな風にいつだって私の周りでは幸運な偶然が起きているの。このインタビューを終えてごらんなさい、次はきっとあなたが体験する番よ。

それとも今こうしている間にも、あなたはもう体験しているのかも知れないわね。


この本の内容は以上です。


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