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髪型について

3月某日


髪を切りに行った。


私は髪が伸びるのが早いので、一か月に一回は髪を切りに行く。
大学時代は自分で切っていたのだが、社会人になってからは自分で切るのをあきらめてプロに任せている。
任せてはいるが、ちっとも思い通りの髪型にしてもらえずに大変遺憾である。


 思い返すと中学時代から思い通りの髪型になったことがなく、いつも妙な仕上がりの髪型で生活していた。
青春時代を変な髪形で過ごした私はすごくかわいそうな気がする。


もっと、きちんとした髪型ならそれにふさわしいオシャレヘアーの女子と付き合えて、一生の自慢になったかもしれないのにその機会を失ってしまった。


 当時、私を担当していた美容師に飛び蹴りしたい気分である。


しかし、まぁ、よく考えると青春時代に変な髪形の私が変な髪形の女子と付き合ったかというと、まったくそんなことはなかったので、髪型と恋人との因果関係は謎である。


謎は依然として謎のままだが、当時の美容師に飛び蹴りをしたい思いは相変わらずである。
そもそも自分で髪を切っていた理由は、金を払って頼んでも理想の髪型にしてくれないのだから、自分で切って思い通りにならないほうがまし、という後ろ向きなものだった。 自分で髪を切る、とかいうとたいそうオシャレに聞こえるかもしれないのだが、ただ単に美容師不信なだけである。


 私がそんなことを言うと友人は「伝え方が悪い」となぜか美容師をかばうのだが、むやみに技巧的な髪形にしたいわけではないのだから、そんなに難しいわけはない。


ヘアカタログを見せてもうまくはいかず、とうとう思い余って文章にして美容師に渡したのだが駄目だった。
伝える努力は最大限にしているのだが、最小限の結果しか出ずに悔しさでいっぱいである。


 もしかしたら、私がしたい髪型と私の髪質があっていないのかもしれないのだが、美容師からは一度もそんなことを言われたことがないので違うのかもしれない。


 原因はわからずただ変な髪形が残っているばかりである。

 


誠実とマフィン

3月某日

 

私より遅れて出社してきた女性が「作りすぎたんですけど、食べますか?」と言ってビニール袋に放り込まれたマフィンを山のように持ってきた。 「あぁ、ありがとう。小腹がすいていたんだ」と言ってしまってから、よくよくマフィンを観察するとマフィンは青紫色をしていて、ヌラヌラと不気味な光沢である。 ちっとも、食欲をそそられない。というか、率直に言ってまずそうだ。

 

あれ? マフィンってこういう状態の食べ物だっけ、と私は思う。 この見た目のことを突っ込みたいのだが、そもそもこういう食べ物だったらどうしよう、赤っ恥である。マフィンとはこのような見た目の食べ物だったような気もするし、まったく違う気もする。

 

こんな風に自信がないのは私が「マフィン」をよく知らないからである。 さすがに名前は知っているが、どういう食べ物でどんな味なのか、見た目のイメージもあいまいだ。 お菓子なのかパンなのか、それともまったく別のカテゴリーなのだろうか。 人生のどのタイミングで出会う食べ物なのか、まったく未知の物質である。

 

ちっとも、おいしくなさそうで、実際にそうであってもそういった味の食べ物かもしれない。 マフィンとはこういう味の食べ物なんです! と、開き直られたらもう何も言えなくなってしまう。変にイチャモンをつけたと思われるのだけは嫌だ。 美味いにしろ、マズイにしろ、それはマフィンとしてのおいしさの評価でなくてはいけない。

 

そういえば、この女性が以前に別の料理を持ってきたときはたいそう好評だったらしい。私は食べていなかったのだが、別の人間が絶賛していたのでよほど、うまかったのだろう。

 

マフィンの見た目とはまったく逆に彼女の料理の腕がさらに事態を複雑化させていた。 料理べたが作ってきたのなら私もある程度、強気に出ることができるのだがそうでないので自分を疑ってしまう。 まったく困ったことになった。

 

「悪い油であげちゃったから、匂いが悪いかも。でも、ブルーベリーが入っているからおいしいですよ」と彼女はなかなか食べようとしない私に追い打ちをかけてきた。 ここまで言われたらもう覚悟を決めて食べるしかない。

 思想も味の好みも私の誠実さもすべて振りきって、ただ「うまい」というのだ。うまいと言えば何の問題も起きないだろう。

 

そうして、私は「うまい」と言った。

 

マフィンはベタベタしていて、味がなかった。 それでも、3つも食べた私は偉いと思う。

後日、彼女が「あれは失敗したやつで、おいしくないはずなんだけど・・・。あれは絶対に嘘だよね」と言っていたことは、当時の私は知らない。

 

マズイと言えば笑い話になたかもしれないのに、むやみに信頼を失ってしまった。 やはり、誠実が一番である。

 


発見

3月某日

 

美しさとは滅びの中にある! と、なぜか突然に思いついてしまった。 

 

生命力がみなぎっている美しさよりも、かつての美しさを失いつつある状態・儚い美しさのほうが、何となく感じるものが多いような気がする。 比べるようなことではないのだが、朝日よりも夕日、源氏より平家、ヒマワリより桜なのだ。 桜などは「花は桜木、人は武士」という言葉があるくらいで、散り際を称賛されている。

 

こんな風に書くと「滅びの中の美」は日本人的な感覚だから、と言われてしまいそうだが世界にも「滅びの中の美」は存在するのだ。

 

世界でもっとも有名な彫刻である「ミロのビーナス」はまさにそれであろう。 ミロのビーナスとはあの腕のない女神の彫刻である。 自信たっぷりに世界でもっとも有名とか言ったのだが、単に私が知っている彫刻の数が少ないだけかもしれない。 それでも、ミロのビーナスは私の中での暫定一位の美しさと言える。

 

あと、私が知っている彫刻の中に「ニケ像」と呼ばれるものがあるが「ニケ像」はミロのビーナス以上に損傷が激しいく、腕もなければ首もないという彫刻である。

 

芸術学部に通う学生でもなければ、クリエーターでもない私が知っている彫刻がことごとく破損されている事実を考えれば、やはり「滅びの中の美」は世界に通用する価値観なのだろう。 仁王像もかなり有名どころだが、力強さは感じることができても美しさという点では少し弱い。

 

大昔と現代では「美」の価値基準が違うだろうと思われるが、今なお芸術として評価されているのは「滅びの中の美」が人間の本質的な価値基準に合致しているのだろう。

 

と、ここまで考えてもしかしたらこれはすごい発見なのではないかと自惚れた。 滅びというのは何もネガティブな意味合いではなくて、再生や創造の出発点なのだ。 滅びや破壊から感じるものがあるというのは、その先に無限に広がる創造を見据えているからに違いない。「滅びの中の美」は私たちの無限の想像力をもって自在に変化し時代や人に対応しているのだ。

 

うん。 我ながら含蓄が深いのではないか。 これは他人に言ったら見直されるのではないか。

 

そう思って、同僚の女性に電話することにした。 この同僚の女性は「手料理について」に登場してきた女性である。 私はこの女性のマフィンをうまいと言って嘘をついたばかりに、信頼を失ってしまったという痛恨の経緯があった。

今回は名誉挽回である。

 

電話をかけると彼女は驚いたような声を出した。 「どうしたんですか?」 「滅びの中にこそ美しさはある!」 私はやおらそう叫ぶと、できるだけわかりやすいようにそのロジックを伝えた。

 

彼女はひとしきり聞き終えると「暇だからそんなこと考え付くんですよ。早く彼女でも作ってください」と不機嫌である。 いや、暇だから考えたわけではなくて、思いついたんだからしょうがないのだが、彼女にしてみたら別に聞きたくない情報だったのだろう。

 

自分のひらめきは疑いようもない確信があって、素晴らしい思いつきのように思えるのだが実はたいしたことがない。

 

 そうわかったのだが、一応ブログにアップしてみる。

 


この本の内容は以上です。


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