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旅立つにはあまり理由はいらない

 生まれた時からバカだった。

 靖男は過熟児だった。いわゆる未熟児の逆、母体で異常に成長してしまった、いわば生まれる前から彼の人生はすでに間違いだらけだったのかもしれない、母の胎内で肥大した体と脳髄をきしませながらその間違いを反芻していた、羊水とともに。未熟児ならまだ悲しく美しい生命の闘いとともに、生を勝ち取った人間の勝者としての人生がまだあったかもしれない。ただ彼の母親もご他聞にもれずバカだったから仕方がない。スナックのママで最初のダンナとは本人の不倫が原因で離婚、女でヒトツとかいうのは聞こえがいいが何のことはない、ただこれと思った男とすぐに寝るかどうかして援助を得て、無為無策に暮らしてきただけのことである。無学で無教養だが誰にでもとりえはあるもので、靖男の母は美しい容貌をしていた。だらしなく男を変えてきた女であったが、唯一受胎したのが靖男の父である。靖男が物心ついたときにはすでに離婚していたので今は顔も何もさだかではないが、絵に描いたような甲斐性なしで靖男の母とどっこいどっこいで頭が悪く、いいところは靖男の母より少し善良だったことだけだ。

 有名だから、と医大付属病院で靖男を産み落としたが、今から思えば主治医の誤診による成長しすぎであった靖男を産むだけでもえらい騒ぎなのに、母の産道で詰まった彼をひきずりだすのに、吸引機が四台つぶれた。膣だけでなく、肛門までが裂けて、靖男の母は後年いつも「おまえを産んだときにはウンコがどこからでてるのかわからないぐらい痛い思いをしたのに!!」と叫ばれたものだがそんなことは靖男には知ったことではない。靖男のほうが掃除機の親玉のような機械を総動員して引っ張られたおかげで、生まれた直後には、頭部はなすのように伸びきっていたらしい。そのせいで頭が悪いのに違いない、靖男はいつもそう思っていた。

 

 「兄さん」

 靖男の後ろから野太い声がする。借金の取り立てで追い込みをかけている一家が逃げ込んだ先がわかりわざわざ和歌山くんだりに行ったのに関わらず、一家は離散し、お馬で人生を棒に振った張本人の父親は首をくくって死んでいた。しかも金になりそうな妻と娘はとっくに行方をくらましている。もう少しねばれば、首くくりの親父の兄夫婦からでもいくばくかの金と女たちの行方を搾り出せるが、もう四十をすぎた靖男にはどうも粘りがなくなってしまっている。出直すか、と部下を連れてさきほどこの阿佐ヶ谷の事務所に戻ってきたところなのだ。疲れた。靖男はそんな思いを微塵もかくさずに、タバコを灰皿に押し付けて目だけで後ろを見た。

 「くく組長が呼んでます」

 はあ、と息だけで返事をして靖男は組員の皆にバカにされている大男を押しのけて、肩を鳴らしながら組長の部屋に向かった。

 生まれた時に伸びた脳はきっと治るもんじゃない、思えば学校の勉強ができないなどというのは当たり前でカッときやすいのも、手が出るのが早いのも、気がついたらもうまっとうな生き方ができない人生をずんずん進んでいたのも、そのせいだ。

 ふっと気がついたら近所の駄菓子屋から万引きをしていたし、体育館の裏で下級生をシメていたし、髪を染めて立てていたし、バイクも盗んで、近所のスーパーから金も盗んで、軽く人も殺して、またふっと気付いたら近郊の中小ヤクザの組の杯をいただいていた。

 何の迷いも寄り道もなく靖男は極道の道に入っていた。

 靖男は別に後悔もなく己の人生を十秒ほどで振り返った。中途半端というにふさわしい、今の自分の立場も今までの生き方にもその一言が似合うのが情けない。がそれを悲しむほど、若くもない今の自分がある。

 後藤組は某広域暴力団の主流から少し外れた分派の中でも中堅トコロに位置する弱小でもない、とはいえ巨大でもない、非常に中途半端な組である。その組において靖男の位置も若頭のヒトツ下、今ひとつぱっとしないものの、勤続年数は長いので組員の中では一目置かれるこれまた中途半端な位置にいる。

 おそらく一生この半端な思いは続くのだろう、靖男はなかばおざなりな気持ちでそれに甘んじている。組の中の派閥争いより今のご時世、不景気だからヤクザもあがったりで、組の存続のために無駄な出費は抑え、ささやかなアガリでも勤勉に吸い上げるのが大事であって、映画やビデオにあるような華やかな抗争などは全くない。あるのは資金集めの細かな仕事が待っているだけである。

 あああ、頭さえ伸びなければ。

 伸びきった頭は元に戻ったものの、顔より頭自体が少し長い、靖男は年の割に多い髪の毛をたてて、それをごまかしている。

 

 ノックを軽くして中から「入れ」という声を聞いて、靖男は組長の部屋に入った。

 どうしていつもヤクザのインテリアはこうなのだろう、靖男は頭を下げながらぼんやりと思う。小学校の校長室のような部屋に下品などこの書家が書いたのだかよくわからん額や、どうせどこかの質流れだろう絵画のレプリカや、貧相なビルの一室を少しでも派手に見せようとイギリスで買ったという巨大な机と椅子、それが寒寒とした感触で靖男の視神経をなでる。

 ヤクザという点ではスタイリッシュなのだろうが、ヤクザである靖男にもこの部屋は「何かおかしい」と感じさせるものがある。一番よくわからないのが、どこかの小さな会社を借金のカタに抑えたときにそこの社長宅からかっぱいだ年代ものの骨董品である、蓄音機である。

 きっとこれが全ての諸悪の根源だな、と長い頭の隅で考えながら靖男は、「なんでしょうか」と言う顔で組長の後藤忠三を見た。

 「ま、すわれや」

 大きな場所ふさぎの机のヨコにこれまた場所ふさぎな来客用の応接セットの、いまどきレースがかかったソファに靖男は座った。

 後藤の見かけは細面で上品な、最もヤクザにふさわしくない容貌の男だ。すらりとしたしなやかな姿態、短く刈り込んだ髪、銀縁眼鏡、スーツひとつにしても派手なタイプのものを着ているところなど今まで靖男は見たことがない。いつも品のいい渋めな色合いでラインのソフトなスーツを着込んでいる。ヤクザというよりは正体不明のセールスマンといった風情で、なぜこんな優男が組長などという立場にあるのか靖男には不思議だが、親の跡を継いだのだから仕方が無い。ただ彼の若い頃を知る人は、後藤に「狂犬」という素敵なあだ名をつけている。靖男はまだ後藤の狂犬ぶりを見たことはないのだが。

 「ヤスよう、ヤスよう」

 少しいらだっているのか、後藤は震えた指先でタバコを箱ごとわしづかみにしたまま、靖男の真向かいに座った。後藤はいつも靖男を呼ぶときこう言う。

 「おまえ今体あいてねえか」

 靖男は少し眉をひそめた。

 「あけろといわれればいつでもあけますがね」

 後藤が口にくわえたタバコに火をつけながら、じっと靖男は後藤の様子を観察した。いつも至極冷静でいる男が妙にそわそわしている。

 「そうか、そうか、そうだな、うん、うん」

 ニ、三度タバコをふかして、後藤は灰皿にぎゅっと押し付けた。

 「何か急ぎの仕事でしょうか」

 しきりに顔をなでながら後藤は、空を仰いだ。

 「ハルミ知ってるだろ?」

 チッ、と舌打ちしそうになり、靖男はあわてて口をひきしめた。ハルミは後藤の愛人の一人だ。そしてもっとも靖男が近寄りたくない女であった。彼女がいつもぷんぷんさせている脂粉の匂いがしてくるようで、靖男はつい鼻をすすった。

 「あれなあ」

 そう言うとまた後藤は立ち上がり窓際で閉まったブラインドを指でだらだら触りながら他人事のようにつぶやいた。

 「殺してくんねえか」

 がくん、と靖男は膝においた左手のひじを落としてしまった。

 

今年の暦を買うのを忘れた。

 靖男は今最高にそれを悔やんでいた。きっと今見たら運勢が最高に悪いに違いない。そういえば、今年四十一だから厄年になるはずだ。ああ、忘れていた忘れていた、しまった俺は厄年だ、厄年だからこうなるのだ。靖男は心の中で大声で叫びながら、車のシートに体をうずめネオンまたたく夜を眺めていた。

 「兄さん、なんかあったんすか」

 車の運転をしている岬という男が後部座席の靖男を見ながらおそるおそるたずねる。

 「なんにもねえよ」

 おそらく今から厄払いに行っても遅すぎる。

 車は少しうらぶれた感じのする繁華街へと向かっていた。靖男はまた深い吐息をついた。

一体後藤はどういうつもりなのだろうか。ハルミは何人かいる後藤の愛人の中でも、一番の気に入りだったはずだ。

 それよりも何よりも、靖男は望んで人を殺したことがない。ケンカの末相手が死んだことはあるが、それも意図的に殺意をもって危害を加えたわけではない。十五の春に近所の不良同士のケンカで気がついたら殴っている相手が、当たり所が悪くぽくっと死んでしまったのだ。

その罪で靖男は少年院行きになった、記念すべき初殺人だ。相手の顔は今でも覚えている。丸顔で目と目が離れた、魚に似た男だった。軽く何度か頭を殴ったら、すぐに倒れて死んでしまったのだ。ただ悲しいことに、いつもその男の名前が思い出せない。

 佐藤だったか、伊東だったか…。

 それで常に居心地の悪い、収まりの悪い気持ちになる。殺した罪の意識ではなく、ただ気持ちが悪いのだ。

 

 「ただとは言わんさ、なあ?そりゃあサツに見つかりゃ何年か臭い飯食らうからな。ただうまくやっちまってほしいのよ。うん。できりゃあ、事故にみせかけりゃそれにこしたこたないわ。そこいらはおまえにまかすわ。そうだなあ、強盗にでもあっちまってやられたとかいう風にしてくれたらな。」

 そうせわしなく言いながら後藤は机にいそいそと向い、机の後ろの金庫から新聞紙に包んだものを取り出した。

 ソファに座っている靖男の前に、どさりとそれは無造作に置かれた。靖男は、新聞紙を指で少し広げた。

 ざっと見て五百万ほどの札束とその奥に拳銃と見える白い包みが入れられている。

 「それとな、できたら痛くないようにしてやってくんねえか。」

 靖男は白い包みからゆっくり拳銃を取り出して弾を確かめる。

 「しかし組長、これじゃあ痛いに決まってんじゃないですか。」

 後藤は顔をくしゃりとゆがめた。少し悲しげにしたが、すぐいらつき頭をかきむしって叫んだ。

 「だから何とかしろっつってんだよ!!」

 靖男は無表情で拳銃を包みにしまって、きれいに新聞紙で札束もしまった。こういうときに暴力団の構成員が何も組長に言えるはずもなく、ただ黙った。少し落ち着いたか後藤はまたタバコに火をつけて、せわしなくふかした。大きな吐息をつくと、また頭をくしゃくしゃにした。

 「しゃべりすぎたなあ…、あの女には…。」

「組長には悪いですが、理由てな聞いちゃいけねえですかね。」

ぶふうーと深く息を吐き出して、後藤はまた苦しい顔をした。

「お前最近うちのシノギが何中心か知ってるか?」

「あんま詳しくは…。ただ飲み屋、キャバクラ、風俗がもう頭打ちでしょ。あれですかね。株…っすか?」

ふん、と鼻を鳴らして後藤は靖男を試すように見た。

「そこいらはまだバカじゃねえなお前も。シノギも水商売は最近とんとダメでな。うちの先生いてるだろ、弁護士の。あれが最近経理と相談してやってるのが、株だわ。ただ株ってな売ったり買ったりだけでばかすか儲かるわきゃねえのよ。勝手知ったるなんとやらで企業の情報売りたい奴から仕入れたモンで、株を売り買いしてるってことだ。」

「イン、インサイなんとかって奴ですね」

「インサイダー、だよバカ。最近はいろいろ上げられちまった連中が多いからサツもこっちにまで手を伸ばしてきてる。先月、大手の企業のえらいさんと官僚を呼んで料亭で一発打ち合わせをシャンシャンとやってそっからハルミの店に行ったら:。まあ酔った連中がべらべら喋ったわけだ。あの女にな。もともとハルミんちにヤバイ通帳、印鑑、有価証券類は全部金庫で預けてたんだが、あれはああいう女だから内情は知ったこっちゃなかったのさ。あの晩話を聞くまでな。」

「しかし姐さんは喋らねえでしょう。」

「お前賭けたかったら賭けていいんだぜ。」

靖男も負ける賭けには興味がないので丁重に断った。なるほどそういうことか。靖男はそれでもう事情を察知し、黙って新聞紙の包みをかかえて立ち上がった。

 「ヤス、あれにはしばらく旅行に出てろと言ってるんだよ。おまえがついてな。俺が後から行くことになってる。」

 「場所は」

 「決めてねえ、そこらへんも頼むわ」

 丸投げかよ、と毒づきたいところだが、それもまた呑み込んで静かに頷いて靖男は部屋を後にした。できる男は無駄なことを口にしないものだ。

 


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