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7-2

 
「紗恵っ!!」
「もぉイヤ……イヤっ!」
後から一也が追ってくる中、彼女はタオルケットで顔を全部覆いながら泣き声を漏らし……走った。










 「紗恵っ、危ない!!」










一也がそう叫んだ時は既に遅かった。
紗恵はある手すりのある場所を境に、下の方へと消えていった。
その際に『ガタガタ』という鈍い音が、何度となく続いた。
連続する音はしばらくすると止まった。
最後の音は下の階の方で止まった。


「紗恵ぇぇえ!!」
一也は消えた紗恵の行き先を血眼で追った。
自分がいる2階から1階におりる階段の最も下に、白い全裸にタオルケットをはだけさせた紗恵がピクリとも動かず横たわっていた。

「紗恵!紗恵ー!!」
一也は直ぐさま倒れている紗恵のもとに駆け付けた。

 


「紗恵、紗恵……大丈夫か……?」
一也は彼女を抱き起こし、軽く身体を揺さぶってみる。
しかし、彼女は動かない人形のように何も反応しなかった。
無造作に揺れる首がぶらんぶらんと動いているだけだった。
そして、乱れた髪の毛に俄かに隠れる彼女の額から深紅の液体が滴り落ちるのを見て、一也は眼球が飛び出そうなほど目を開いた。


「さ……え……」


紗恵はピクリとも反応しなかった。










「紗恵ーーーーー!!!」










一也の絶望感に充ちた悲痛な叫びが、家の中に虚しく響いた。











翌早朝-

あの後、救急車にて紗恵は病院へと運ばれ、緊急の集中治療を受けた。
無論、一也はずっと外で彼女のことを待っていた。
祈るように、何時間も、彼は額の前で両手を強く握りながら待っていた。



すると、集中治療室の扉がゆっくりと開いていく。
「紗恵っ!」
一也はじっと座っていた身体を無理矢理のように起こし、運ばれてくる仰向けの紗恵のもとに駆け寄った。
「紗恵……」
頭に包帯を巻かれながら目を閉じている紗恵を、一也は瞳を潤ませながら見つめた。

「先生、紗恵は!?」
一也が問い掛けると、医師は顔につけていたマスクを取りながら答えた。
「命に別状はありません。外傷も思ったよりひどくはありませんので、時期に目が覚めるでしょう。今日一日は様子を見るつもりで休ませてあげてください」
「はい……ありがとうございましたっ」
一也は医師にペコリと頭を下げる。
そのまま一般病棟に移された紗恵に付き添うために、彼はベットに横たわる彼女をずっと見守るようにそばにいた。










刻々と時間は経ち、時刻は既に夕方を迎えていた。
紗恵が病室に運ばれてから、一也は一睡もすることなく彼女が目を覚ますのを待ち続けた。
「紗恵……」
紗恵は生きている……それがわかっていても、彼の中ではいつ彼女が亡くなってしまうのではないかという不安もあった。


しかしその時だった。


「う……ん……」
午後7時、紗恵はその瞳をうっすらと見せながら声を漏らした。
「紗恵!」
一也は跳びはねそうな自分を必死でおさえながら紗恵のもとに寄った。
「紗恵大丈夫か-」
そう言いかけたとき、彼女の表情は一瞬にして豹変した。



  「キャアアア!!!」


「さ、紗恵?」
「イヤァ!あっちへ行ってぇ!!」
紗恵は突然鼓膜を破りそうなくらい大きな悲鳴を上げると、一也を見ながらベットの上で後ずさった。
一也は、そんな彼女を見て何がどうしたかわからず混乱していた。

「紗恵……どうした?」
「イヤァ来ないでっ!来ないで来ないで来ないでぇっ!!」
意味不明に自分に拒絶反応を示す紗恵に、一也は茫然とするしかなかった。
「飯山さん、どうしました!?」
悲鳴を聞いてか、そこに医師と看護士の二人が駆け付けた。
「イヤァあ!怖い……怖い!」
「怖……い?」
一也は思わず口にした。

「飯山さん~大丈夫ですよ、落ち着いて下さい」
医師はそう言って乱れる紗恵を諌めながら、チラリと一也を見て病室の外に出るようにと視線を送った。
「紗恵、どうしちゃったんだ……!?」
一也はハラハラしながら、病室から出ることにした。



数分後-

病室から医師と看護士が出てくる。

「先生……紗恵は
…?
目の下にすっかり黒い隈を作った一也が、医師に尋ねる。
「恐らくですが……」
一也は息を呑む。

「彼女の様子からすると、異常な恐怖体験か何かによる心的外傷……つまりトラウマを持ってしまったようです」
「トラ……ウマ?」
一也は今までにないくらい目を大きく見開く。
医師は頷きながら続けた。
「様子から見て、彼女は浅川さん……あなたを見て"何か"を思い出してあのような反応を示しているようなんです」
「ぼ、僕を見て??」
その時一也は、昨夜起こったことを真っ先に思い返した。



『まさか、まさか……!』



一也の顔色が一瞬にして蒼白になる。
医師はさらに続けた。
「あなたが直接そのトラウマに関係しているかはわかりませんが、彼女の反応では間違いなくあなたは関係しているようです」
「そんな……」
一也は肩を落とす。

「お気持ち察しますが……今はあなたは彼女に会わない方がいい。かえって彼女の精神をさらに混乱させてしまいますから……。ここは、私達に任せて下さい」
医師はそう言って頭を下げると、後ろにいる看護士とともにその場を後にした。










「そんな……」










「紗恵が、俺のせいで……?」









「そんな……」










一也は心の何かが外れたようにフラフラな状態で自宅マンションへと戻っていった。



『紗恵、俺は……俺は……』
心の中で何度も、何十回も、何百回も、彼は自分を責めことを繰り返した。
そのうち、睡眠不足とあらゆる疲労が影響し、彼は深い眠りについていた。
それから時間が経ち、一也がそのまま眠りこけている時に彼のケータイの着信音は鳴り続けていた。

「う……ん……」
一也は目を擦りながら着信音を鳴り続けさせているケータイを手に取る。
「はい……」
その着信に出ると、彼の耳元には怒りの声が鳴り響いた。
「おい浅川くん!今何時だと思っているんだ!?」
「……!?」
一也はハッとした。カーテンから差し込む日の光が著しいことに気がついた。時計を見ると、すでに午前10時をまわっていた。

「しまった……!今日から夏休み明けの出勤だった!!」
一也は思いきりそう叫ぶと、電話の向こうの課長が再び怒声を上げる。
「何をやってるんだ!今日が大切な商談なのを忘れたのか!!」
「は、はい!今行きます!申し訳ありません!」
「もういいっ!!」
すると、課長からの電話はガチャリと大きな音をたてて切れた。

「大変だ……!」
一也はあわてふためきながら、通勤の準備をして家を出た。



1時間後-

「バカヤロウ!!」
デスクを猛烈に叩きながらの課長の怒声が一也を責める。
オフィス内がしんと静まり返る。
「すみません……」
「すみませんで済むか!今日が例の大切な商談だとあれほど念を押しただろう!お得意さんはもうカンカンだぞ!!」
「ホントに申し訳ありません……」
一也はただ…ただ頭を下げることしかできなかった。

「これだからボンボンは……」
謝る彼の後ろで、岡本が皮肉を込めた口調で言い放った。
一也はグッと歯を噛み締めた。
紗恵のことで頭がいっぱいだったとは言え、自分の仕事を失敗してしまったことに言い訳など効く余地などなかった。
その日、一也は肩を落としながら会社での一日を過ごした。

そして当然ながら、紗恵はその日会社に姿を現すことはなかった……。





数日後-

一也は紗恵を心配しながらも、仕事に励んだ。
面会謝絶である今は会えないとしても、数日たてば大丈夫だろう…そんな気持ちで日々を過ごしていた。
「ただ今戻りました」
夕方、一也が外回りから帰ってくると、オフィスにいるOLを含む社員全員が彼を冷たい目で見ていた。
「えっ?何ですか??」
一也がそう聞くと、社員達はスッと目をそらした。



『な……なんだ?』



そこへ深刻な顔をした常務と課長がやってくる。
「浅川くん、ちょっといいか」
「常務」
一也は給湯室へと連れていかれた。


「常務、課長……。一体みんなどうされたんですか?」
一也がそう尋ねると、常務はその重い口を開いた。



「昨夜に……飯山くんが病院で自殺未遂をはかった」
「えっ……??」
一也は固まった。
常務はそのまま続けた。

「ここ数日出社がしてなないので電話をかけてみたら、彼女は自宅も携帯電話にも出ない。おかしいと思いやむを得ず彼女の実家に連絡をしたら、病院にいることがわかってな」
一也の顔に少しずつ生気がなくなる。
「先程女子社員が見舞いに行ってきたらしいんだが、話によると彼女は君の話をすると、見たこともないような怖い顔になって怯えていたらしい。どうやら先日君の御実家に行った際に君と揉めて階段から落ちたのが原因らしいが」
「えっ?」
一也はおかしいことに気付いた。

「すみません、僕と揉めたって、彼女がそんなことを……!?」
「君のご両親に聞いたら、そう証言したそうだ」
隣にいた課長が答えた。

「そんな……そんなのおかしい!僕は、彼女を階段から落としてなんかない!本当は-」
「浅川くん!常務の前だぞ!!」
課長が興奮する一也をおさえた。
その先を常務が続けた。

「浅川くん……事実はどうであれ、今の飯山くんは君に対して何らかの拒絶反応を示しているそうだ。もう彼女に関わるのはやめるんだ。ご両親からの経済的なご厚意もあり、彼女は慰安退職してもらうことになった」
「……!そんな……じゃあ僕が……!」
「君はいずれお父上の後を継ぐために今ここにいるんだろう!……彼女のことは忘れるんだ」
常務はそう言うと、その場をスッと後にした。
すると、課長が口を開く。

「今さっき君が社内で変な視線を浴びていた理由がわかっただろう。もう社内の女と恋愛なんかするんじゃないぞ」
そう言うと、課長もそこからツカツカ歩いていなくなった。



『そんな……紗恵が俺のせいで……』



一也はヨロヨロとテーブルに寄り掛かった。
いきなり突き付けられた現実を、受け止められなかった。
「慰安退職だと??ただの手切れ金だろうが……!」
知らず知らずのうちに目から出てきた涙が、溢れて止まらなかった。

目を真っ赤にしながら、一也はオフィスへと戻った。デスクに座る社員達が、一斉に彼を見る。
落ち込む彼を励ますどころか、全員蔑んだ表情しか浮かべていない。
一也は無言で自らの席へとついた。

「浅川く~ん残念でしたねぇ♪」
岡本が四角い顔をニマニマさせながら一也に話しかけた。
「……?」
「飯山さん、入院しちゃった上にあんなことになっちゃって。あーあ残念」
「岡本さん……あんた何が言いたいんですか?」
一也はギロリと岡本を睨み付けた。

「いやぁね。結局飯山さんはお金欲しさであったのかな~と」
「なに……」
「飯山さん、仕事できるし顔やスタイルもいいから浅川くんにはもったいないな~ってずっと思ってたんですよぉ♪だってお金以外、彼女が浅川くんを選ぶ理由がないですからねぇ」
「だま……れ……」
「ホントは僕が彼女と付き合いたかったんだけど、さすが金持ちのボンボン!あんなにいい女を引き付けちゃうんですから♪ま、それだけが取り柄なのかもしれないですけどねぇ、アハハハハ♪♪」
「だまれ……」
「大丈夫大丈夫!ボンボンなんだからお金目当ての馬鹿女はいっぱい寄ってきますよ♪♪ね~、ボンボンくん☆アッハッハ♪♪」
「岡本くん言い過ぎだよ~」
岡本を筆頭に、一也の周りを囲んだ社員全員が笑い声を上げた。

7-3

 
 
 
その時、










一也の中の何かが音をたてて切れた。










気がつくと一也は










ボールペン片手にそこから飛び掛かっていた。











そこにいた全員が、嘲笑いを一瞬で硬直させたときには『グチャッ』という生々しい音が鳴り










気付いたときには、一也は既に手に握ったそれで岡本の四角い顔を突き刺していた。


「ギャアアァア!!痛い!やめてぇー!!」
岡本がその四角い顔を赤く染めながら歪ませた。
その赤く染めた塗料のようなものの出所は、一也が逆手で手にしたボールペンが突き刺さる鼻筋からであることが明らかだった。

「キャアアア!!」
「浅川くんっ!やめるんだ!」
その様子に社内は騒然な雰囲気へと化した。
そんな周囲をよそに、一也はその恐ろしい目付きで岡本を睨みつけ、右手に持つボールペンを『グチュッ』と抜き取り、再び別の箇所に突き刺した。

「イキャアアァア!!」
「クズ野郎が……人の気持ちも知らずに言いたい放題言いやがって!!」
すると一也は悲鳴を上げる岡本の襟首を掴み、今度は血で濡れたその右拳でその顔を殴打した。
「アァッ!!」
四角いせいか、ゴツゴツした感が彼の右手に伝わる。
しかし、一也はそんなことはお構い無しと言った具合で岡本の顔を殴り続けた。
三度、四度、五度……十度、溜めに溜めて着火した赤い炎のような感情を爆発させるかのように、一也は岡本へのやるせないほどの怒りをぶつけた。

「やめるんだ浅川くん!」
社員数人に抑えられ、一也は息を激しく切らせながらも仰向けになる岡本を睨み続けた。
「フー!!フー!!」
「これじゃご両親が……!」
「うっせぇんだよ!!どいつもこいつも、俺を坊ちゃんやら下っ端社員やら都合のいいように扱いやがって!!ストレス発散のサンドバッグみたいにしてきやがって!!」
一也は涙を流しながら、その場に悲痛な怒りをぶつけた。

「もう、たくさんだ……たくさんだぁっ!!」
「浅川くんっ!」










一也は、そこから逃げるように走り去った。










気がつくと、彼は自宅マンションにいた。
今はもう幻のような過去……つい数日前まで紗恵と何度も愛を誓い合った、シングルベットの上で、一人悲痛な涙を流していた。










「紗恵……紗恵ぇ……」
その時、着信音が彼のケータイを鳴らした。
うっすらとそれを確認すると、それは横浜の実家からのものだった。
一也はキッとした。


◇「もしもし……」
◆「あ、一也!お母さんだけど、あなたKKさんの会社で何てことをしてくれたのよ!常務さんから電話があったわよ!」
◇「……そんなことかよ」
◆「そんなことじゃないでしょ!あんなことしちゃダメでしょ!ちゃんとしなきゃダメって言ったでしょ!」
◇「でしょでしょじゃねぇだろ!お前ら紗恵に手切れ金渡しやがったな!あいつは……自殺未遂まで起こして……!しかも階段から落ちたのも全部俺のせいだと!?」
◆「あら、あなたのためよ。せっかく別れてくれたんだから、よかったわねぇ」











『よかった……?俺がこんなに嫌な思いしてんのに……怒りながらつらい思いをしてても……










『こいつは、それを喜んでるのか……?』










『俺ハ……コンナ人間ノ血ヲ引イテイルノカ……??』










「ハハハ……」
一也はうっすら笑うと、ケータイのスイッチを切り、電源を落とした。



それから数カ月の間-
『彼』は部屋にじっと閉じこもり、飲めない酒を浴びるように飲み、それまで一度も吸ったことのなかった煙草を大量に吸う……アルコールと煙にまみれたそんな毎日を送った。

無論、KK社は退職扱いとなった。

全てに絶望したかのように、彼の輝いていた瞳は明るく優しい面影を一切消し、どす黒い暗闇が乗り移ったものになっていった。










自分を含む全てのモノを憎むことで、『彼』は自分を支えることしかできなくなってしまっていた。



そして『彼』は、素直で明るい青年『浅川一也』であることを捨てた。













気がつくと、話し終えた翼の瞳からは一筋の涙が流れていた。
そんな彼を、隣にいる愛菜は神妙な表情でただ見つめていた。





                                                   第8章へ

8-1


「……こんな感じです」
翼は大まかに話し終えたのを示すかのように、涙で濡れた自分の頬をバスローブの袖で拭った。

「そんなことがあったのね」
「えぇ。あれほど何もかもが嫌になったことはなかった」
「その後……紗恵さんやご両親はどうなったの?」
愛菜の冷静なまでの質問に翼は一瞬躊躇したものの、ここまで話したんだとばかりに再び口を開いた。


「紗恵に関しては全くわかりません……。あれから会社にも全くコンタクトせずでしたし。親はもう……連絡は来るけど拒絶してますよ。俺のふがいなさもあるけど、あいつらの異常な束縛や詮索にはもう耐え切れなかった!」
翼はそれ以上は口にしたくなかったのか、口を閉じてしまった。


「家系……というものなのかしらね」
愛菜はポツリと言った。
翼もそれを理解していたのか、否定しなかった。

「とにかく、ホントに辛かった。俺を心配する振りをして結局は俺のことなんて何も考えてなかったんですよ、あいつらは。あんな人の皮かぶったみたいなやつらから作り出されたかと思うと、自分を呪いたくなります」

作り出された……愛菜はその言葉に、翼の中の激しいまでの負の感情の根源を見たような気がしていた。
そして彼女は再び口を開く。

「翼くんがそれまでに自分自身を評価してもらいたかったのも、そんな家庭環境や会社での扱いがあったからなのね。それで、ホストを?」
「はい」
翼は首を縦に振りながら答えた。
「俺は認めさせるために……ホストを始めました。俺を馬鹿にした奴ら全員に、大金たたき付けて見返してやるんだ……金がこの世のすべてなんだから!」
翼は床をじっと睨みつけながら憎しみを込めるように言った。
そんな彼を、愛菜はじっと見つめた。



『やっぱり、彼も同じなんだ。金や力に理不尽にねじふせられた今の世の中の犠牲者……』



愛菜は心の中でそうつぶやいた。
彼女の中で約3年前のある出来事が走馬灯のようによみがえる。
それは、翼のように心に痛い程の血を流し全てを憎みながらも、最後は愛すべき命のために自らの心を砕いた一人の少女の後ろ姿だった。
愛菜は、その少女と翼をずっと重ね合わせていた。
そして、意を決したように彼に問い掛けた。


「翼くん」
「何ですか?」
「あなたに決心はある?」
「決心?」
「そう。何があっても余計な感情はもたない、人を信じることなく全て蹴落とすくらいの決心はある?どんなに人に憎まれても、すべてを敵にまわしてもいいくらいの覚悟はある??」
愛菜は、今までにないくらい鋭い目つきで翼を見つめた。
いや、翼の瞳を見つめた。
すると、彼の瞳は彼女の視線をそらすことなくそれを真正面から受け止めていた。
翼の瞳には愛菜の瞳が、愛菜の瞳には翼の瞳が、お互いが瞳の中に宿す闇を映し出していた。

「決心も何も……」
翼が口を開いた。
「俺は既に一度死んだような人間だから、もう失うものなんてないから。だから-」
「だから?」
「俺はやります。ホストの世界で、一からてっぺんまで駆け上がってみたい。すべてを蹴落としても、他の何を犠牲にしてでも。どんな風に思われてもいい、どれだけ悪く言われようがかまわない。自分を……証明したい!」

『浅川一也』は死んだ……
それを意味するかのように、彼は過去の素直で優しい自分を一切捨て去り、ホスト『翼』としての新しい自分の道を歩んでいく決意を新たに固めた。
それを隣で見ていた愛菜の中にも、一つの決意が実っていた。


「これで決まりね」
愛菜は煙草に一本火をつけながら言った。
「決まり?」
翼が愛菜に聞き返すと、彼女はフーッと煙をふきながらその問いに答えた。
 
 


1時間後-

翼はスーツに着替え、部屋を出ようとしていた。
「じゃあ」
「えぇ、また明日昼に」
翼と愛菜はごく自然のごとくそう言葉を交わす。

「翼っ!」
ドアから出ようとする翼を、愛菜が呼び止めた。
「どうしたの?」
「あなたに一つ言い忘れたことがあるの」
「?」
「羽月くんのことよ。覚えてないだろうけど、今日酔い潰れて怒った光星からあなたをかばったのは彼なの」
「羽月……あいつが?」
翼は目を丸くした。

「そうよ。私も彼から聞いただけだし、あなたは彼をどう思ってるか知らないけどね」
「……」
「後で、一言お礼だけでもいいなさい」
「えぇ」
「かしこまらなくていいって」
「わかった」
翼は複雑な表情で愛菜に返事をした。

「酔いの方は大丈夫なの?」
「あぁ、もう大丈夫。ありがとう」
「じゃあ」
翼と愛菜は最後にそう言い交わした。


ホテルのエレベーターで降りる中、翼は一人今日起きた出来事を振り返りながらも、羽月のことを考えていた。
「あいつが俺を。何で……」
翼は小さな声でそうつぶやいた。
彼の中で特に好意的な存在ではなかった羽月からのその行動が、翼本人にとってはあまりにも意外だった。
ホテルを出てタクシーの中、翼はずっとそのことだけが頭に残っていた。



一方その頃、愛菜はホテルの部屋でケータイで電話をしていた。
「えぇ、そうするわ。……うぅん、心配しないで天馬、もう大丈夫よ。ちゃんと一人で帰ったわ。……うん、じゃあ明後日ね」
愛菜は天馬との通話を終えると、シャンパンの入ったフルートグラスを持ちながら部屋の窓際へと歩いた。
窓のハーフミラーには、彼女の美しすぎるまでの姿がぼんやりと映し出されている。
その向こうに広がる新宿の夜景を見つめながら、彼女は心の中で囁き始めた。



『見守ってみるよ私……あんたと同じ傷と瞳をもった人間が、この先どんな風になっていくのか……』



愛菜の瞳の中には、その少女の3年前の姿が再び蘇っていた。
それが、彼女の中で止まった何かを動かしているとは、彼女自身まだ気付いていなかった。










二日後-

休日である日曜日の明けた月曜日、【Club Pegasus】は再びその日の営業を始めようとしていた。
二日前の騒ぎが嘘かのように、開店準備に勤しんでいた。


「翼、もうこねーかな」
「来れねぇだろ、光星さんの前であんな粗相しちまったんだし」
ホスト達の間では、やはり二日前の翼の失態は記憶に新しかった。
一足先早く店に来ていた羽月は、それを近くで聞いていて心配でならなかった。



『翼くん、あれから大丈夫やろか。それに……』



羽月の中では翼の心配もあったが、あの時酔った彼を強引に連れていった愛菜とのことが気掛かりだった。
「はぁぁ……」
羽月は深いため息をついた。

「おい羽月」
羽月に声をかけたのは天馬だった。
「へっ?あ、社長っ。おはようございますっ!」
「おう、おはよう。ため息なんてらしくないぞ」
天馬は羽月をたしなめるように言った。
「あ、ハイ。すんません」
「翼のことだろ?」
「えっ、社長なんで」
「お前の顔にそう書いてある」
「えっ?」
羽月は慌てながら自分の顔を手でおさえた。
天馬はそんな彼を見ながら軽くフッと笑う。

「お前は本当にわかりやすいな羽月。まぁ、翼がああゆうことになったからだってのもわかるが、あんまりぼんやりして仕事に差し支えるなよ?」
「ハイっ、ホンマすんませんでした!」
羽月は天馬にペコリと頭を下げた。

「それと翼のことだが、あれから愛菜から電話が来て、数時間後に帰ったそうだ。心配するな」
「そうですか……」
「だからちゃんと仕事に励め、お前にはもうお前の客がいるんだ。わかったな」
天馬はそう言うと、羽月のもとから去っていった。

「そうか……翼くんちゃんと帰ったんやな。よかったわぁ」
羽月がそうつぶやいていたその時だった。


「おはようございます!」
エントランスの方から一人のホストの声が聞こえてきた。
店中にすでにいたホスト全員がそこを見つめると、一同が口を開けっ放しにしながらハッとしていた。
「おい……」
「マジかよ……」
「アレって……!」
皆が驚きながら、エントランスから一歩一歩歩いてくるその人物を見ていた。

「あ、アレは!」
その場にいた羽月も、驚きながらその『彼』を見ていた。
明るめの茶色に染められセットされた髪の毛、左耳のシルバーのピアス、その身に纏った高級ブランドのスーツと靴、そしてキリッとしつつも落ち着いた表情でその場に現れたのは、以前とは見違えるような変身を遂げた翼だった。

店内のざわつきに気付いてか、天馬が翼のもとに歩み寄る。
さすがの天馬も、彼の急激なまでの変化に驚きを隠せなかった。
 
「翼……」
「社長、ご迷惑おかけして、すみませんでした」
翼は天馬に対して頭を深く下げた。
「お前わかってるんだな?今のお前はこの店で限りなく悪い立場にあるんだ。それに耐えられるか?」
天馬のその言葉の後、翼は頭を上げ彼の瞳を真っすぐに見ながら口を開いた。

「耐えるも何もありません」
「なにっ?」
「俺は成り上がります。この店のホスト全員ねじ伏せてでも、俺はいずれ成り上がります。もうここにも味方なんていないんですし、だから耐える必要なんてありません」
翼はその暗闇に包まれた瞳で冷静に天馬に向かって言い放った。



『こいつ、何て目をしてやがんだ』
天馬も翼の瞳にある暗黒の輝きと変化に気付いたようだった。

「おい、てめぇ!!」
翼の背後から声が聞こえてきた。
声の主は光星だ。
怒りに満ちた表情で、翼を睨み付ける。

「翼、てめぇノコノコ出てきただけじゃなく、今何て言いやがった!?」
「光星さん、おはようございます」
「おはようじゃねぇ!今何て言ったか聞いてんだよ!!」
光星は、怒り任せに怒鳴り散らす。
しかし翼は冷静に彼に言葉を返した。

「言った通りですよ。俺は必ず成り上がります」
すると、光星の怒りはますます増したようにその怒声も上がった。
「ふざけんな!!未だ客の一人もいないやつがザケたこと言ってんじゃねぇぞ!!しかも俺の客にまで不機嫌にしたくせによぉ!えぇ!?」
「光星、落ち着け!」
怒鳴り付ける光星を、横にいた天馬が一喝する。

「しゃ、社長。何でですか!何でこんなやつを-」
「確かに翼のしたことはスタッフとしてやってはいけない。だが、無理に飲ませたお前に全く非が無いと言えるのか?そこらへんに目を配るのも、上としてのお前の仕事だろう?」
天馬の鋭い言葉に、光星は言葉を詰まらせながら黙りこんだ。
その光景を見ていた羽月や他のホスト達もどこかホッとしていた。
光星は「チッ」と言いながら、その場から去っていった。

8-2

 
「社長」
「なんだ翼?」
「今日から一からやり直すつもりで頑張らせていただきます。よろしくお願いします」
翼は改めるように、天馬に深々と頭を下げた。

「あぁ。……それと味方なんていないと言ったが、それは違うぞ」
「?」
「お前を心配している奴も一人はいると思うがな」
「えっ?」
「後でちゃんと佐伯にも謝るんだぞ」
天馬はそう言うと、何も言わずにそこからキャッシャーの方へと歩いていった。



『社長……?』



翼はそう思いながら後ろを振り向いた。
すると、それを見ていた羽月が心配そうに立っていた。

「翼くん!」
羽月はトコトコ翼のもとに歩み寄った。
「おはよう、翼くん!」
「あ、あぁ。おはよう」
「ちゃんと今日来てくれたんやな。こないだ飲んだのとか大丈夫かいな??」
「あぁ」
翼は心配げな羽月にどこか詰まりながら言葉を返した。

「えっと……」
「ん、何や翼くん?」
「あの後聞いたんだけど、あの時俺をかばってくれたんだって?」
「えっ?あ、あぁ~あん時のことやね?翼くんそんな気にせんで-」
「……がとう」
「へっ?」
翼は羽月と最後にそう言葉を交わすと、彼から離れるように後ろを振り向いて歩いていった。

「えっ、翼くん何やー?最後何て言ったかわからへんてぇ~!」
羽月の訛った声が店中に響き渡る。
そのせいで、翼は顔を赤らめながら、無言でそこから歩き去った。
目つきや口元に、ちょっとした緩やかな変化を帯びながら-。



「今日も一日やるぞ!!」
天馬のその言葉を狼煙に、今日も【Club Pegasus】は営業を開始した。
「今日翔悟さんはまた同伴?」
「また早紀さんって太客とだってよ。やっぱりさすが、No.1はずば抜けてるよな」
ホスト達がそう話してるうちに、エントランスのドアが開いた。

「いらっしゃいませぇ!」
元気の良い声が、一組の同伴客を迎える。
No.1翔悟とその客の一人早紀である。
威風堂々とした翔悟の横には、彼の常連客である紅いワンピースを纏った早紀が腕を組んでいた。

「いらっしゃいませぇ!」
「いらっしゃいませ、早紀様」
エントランスに並んだホスト達と内勤の佐伯が、翔悟に連れられた早紀を迎える。
「いつもご丁寧にありがと、佐伯さん」
「恐れ入ります」
早紀は頭を下げる佐伯ににこやかな表情を見せる。
「おい、早紀さんを卓にご案内してくれ」
翔悟はヘルプのホストに早紀を案内させるように促す。
「ちょっと先に行ってて、すぐに行く」
翔悟がそう言うと、早紀はうんと頷いて指定のテーブルの方へヘルプのホストに案内されていった。

「……」
翔悟は、店に入ってからとある一人のホストの変化に気付いていた。
無論それは翼のことだった。
一方の翼も、彼からの視線に気付いていた。
翔悟はスッと翼のもとに歩み寄った。

「よう」
「おはようございます、翔悟さん」
「もう一昨日のあれから、店に出ないと思ってたが。意外と神経が図太いんだな」
「そうみたいですね」
翼の予想以上の冷静な反応に、翔悟は表情をピクッと鋭くさせた。

「あのリーマン上がりみたいなダサいスーツの印象が強かったからな。まだ客もいないどころか、ろくな接客もできないお前が、どうしてこんないきなり変わったのかな?」
翔悟は口をニヤリとさせながら、翼に言っ放った。
しかし翼は動じずに、冷静に言葉を返す。

「俺にもお客様ができました」
すると翔悟は吹き出しながら笑いを上げた。
「ハッハッハ!そうかお前……光星のとこであんな騒ぎを起こしたから、店へのお詫びがてらにどこぞのマダムでも引っ掛けてきたか!?そのスーツとかもその人に貢がせたものか……。翼、お前も中々やるじゃないか」
うすら笑いを浮かべながら嫌味な言葉を並べる翔悟だったが、翼は一切表情を変えていなかった。
しかしその時だった。
 

「いらっしゃいませぇ!」
ホスト達の元気な声が、エントランスからの一人の来客を告げた。
「おぉ……」
ホスト達は驚きの声を漏らした。
盛り上げられ巻かれた髪の毛、ハート形のピアス、際だった麗しい瞳、そして胸元の切れた淡いピンクのドレスに包まれた80センチを軽く超える股下。
佐伯は中世の貴族のように圧巻なその彼女を改まるように迎えた。

「いらっしゃいませ、愛菜様」
「こんばんは佐伯さん。天馬から話は聞いてるでしょ?」
「ハイ、本指名の件ですね?お伺いしております」

愛菜からの『本指名』……
それを聞いた翔悟を含む周りのホスト達は、一瞬で言葉を失った。

「愛菜さんからの本指名って……」
「誰だよ一体?翔悟さんか?」
ホスト達は声が漏れないように、こっそりと話していた。
しかし、驚きによる表情の変化までは隠せていなかった。
それに気付いた愛菜は、クスッと微笑む。

「では愛菜様、担当スタッフに案内させていただきます」
佐伯が愛菜にそう告げると、その場にいる全員が息を呑んだ。
そして、佐伯がその口を開いた。



「翼、お客様からの御指名だ。案内してさしあげなさい」
 


佐伯のその言葉に全員が一瞬絶句した。
「な、何だって……!?」
「あの翼が、初指名!」
「しかもそのお客が……」
その場にいたホスト達が全員驚いていた。
特にNo.1である翔悟は、珍しくも一際驚いた表情を示していた。
その口は、あんぐりと開きっぱなしになっている。

「なっ……。歌舞伎町で、あの【Club Mirror】でカリスマ嬢と言われたあの女を……ホスト歴たった半月程度の下っ端が……??」
翔悟は言葉を詰まらせながらそう呟いた。
そんな翔悟を見て、愛菜は再びクスッと笑った。
「愛菜さん!」
翔悟が愛菜に声をかけた。
「なに、翔悟?」
愛菜は何気ない口調で答える。
「どうして、どうして翼なんかを……!?」
「私が選んだ担当に『なんか』ってどうゆうこと?」
愛菜は鋭い口調で翔悟にそう言い返すと、プイッと彼から顔をそらした。
そうしてるうにち、翼はテーブルに案内するために愛菜の手を取っていた。
「今日からよろしくね、翼」
「こちらこそ、御指名ありがとうございます」
翼と愛菜はそう言い交わすと、佐伯に指定されたテーブルの方へと歩いていった。

「くっ…」
翔悟はその二人の後ろ姿を見ながら、苦渋の表情を浮かべた。

「愛菜さんが、翼くんを……」
当然その光景は、複雑にそれを見つめる羽月の瞳にも焼き付いていた。



「よっこいしょっと」
愛菜はそう言いながら、ソファーにその華奢な腰をおろす。
「ありがとう、愛菜」
翼は彼女のとなりに座りそう囁いた。
「いいのよ。私は自分が楽しむためにしてるんだからさ。みんな、驚いてたわね?笑っちゃったわよ」
「あぁ。何か飲もうか?」
「まずピンク入れて。今日は初めての記念だもの。飲むわよ~」
翼と愛菜がそんな会話を交わしている中、客を含めた店内全員が二人のいるテーブルを見つめていた。
あのダメホストと言われた翼と、カリスマキャバ嬢の愛菜との間に一体何があったのか?
そこにいる皆がその謎に大きな疑問と関心を抱いていた。


 

二日前のあの夜-

「決まりね」
愛菜は煙草を一本火をつけるとフーッと煙を吹いた。
「現役を退いた天馬の次のホストよ。翼くん……いえ翼、あなたを指名するわ」
「!?」
愛菜の突然の発言に、冷静だった翼もさすがに驚きを隠せなかった。

「俺を??」
「あら、ダメかしら?」
「いや、ダメとかじゃなくて……何でいきなり俺を?」
「そんなこと言ってる場合?あなたホストとして成り上がりたいんでしょ?客の要望は素直に聞き入れなさい」
愛菜はそう言いながら煙草をクシュッと消すと、再び口を開いた。

「私が、自分のすべてを叩きこんであなたを一流にしてあげるわ」
「愛菜さん」
「もう私はあなたの本指名客よ。さんづけと敬語はやめてね」
翼は愛菜をまっすぐに見つめながらうなずいた。
「よろしく、愛菜」
翼は気持ちを改まるように、愛菜にそう言った。

「愛菜、一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「言いたくないならいいんだけど、俺の……何がよかったの?」
「……」
愛菜は言葉を詰まらせた。しかし、すぐに言葉を返した。

「今は話せない……。時期が来たら教えてあげる」
愛菜はそれっきり、それに関して何も話そうとはしなかった。
 
 
 


翼は愛菜の指名理由が気にはなってはいたものの、必要以上に詮索せず、接客に専念することにした。

きっといつかそのうちわかる日が来るだろう、そう考えていた。

しかし、今はせっかく掴んだこのチャンスを生かそう……
彼の中ではその意思が大きく広がっていた。



『馬鹿にしてきた奴ら、俺のすべてを壊した奴ら、すべてねじふせてやる!』
この思いだけが、今の翼の唯一の真実だった。


この闇に包まれた世界で成り上がるため、羽ばたくため、そしてすべてを見返すため、



翼のホストとして、そして一人の人間として紡いでいく結末への狼煙が、今本当の意味で上がっていった。




                                                    第9章へ

9-1


「A卓、愛菜さんよりピンクもう一本いただきましたっ!!!」
店内に元気なマイクコールが響き渡る。
翼と愛菜のテーブルに入るドン・ペリニョンは、もうすでに3本目を迎えていた。
それ以上に、生まれ変わったように変貌した翼と彼の隣に座る愛菜姿は、他の女性客やホストからも注目の的だった。


「翼、愛菜さんの御指名をもらって見違えるように変わりましたね。一体あいつに何があったんでしょう?」
「さぁな」
目を丸くしながら尋ねる佐伯に、天馬は軽く笑いながら答える。
しかし、その光景を見つめる彼の瞳は真剣そのものだった。



『翼……ついにやりやがったな。愛菜の本指名を生かすも殺すもお前次第だ』



天馬は自分の見る目が間違ってなかったことを確信するかのように、心の中で呟いた。


一方の翼は-

「愛菜、大丈夫?ちょっと飲むペースが早過ぎるんじゃ」
「ちょっと翼何言ってるのよ。今日はあなたと私の記念日よ?私は大丈夫だから心配なんかしないの」
翼はかなりの勢いで飲むほろ酔いの愛菜をなだめようとしたが、彼女はそれを振り払った。

「お祝いごとなんだから、こんなときくらいシャンパンで騒ぎましょう?」
「あぁ、わかった。ゴメンよ、ちょっといつもより飛ばし気味だからさ」
「フフッ、大丈夫よ」
翼と愛菜は、互いに見つめ合って笑うと再びシャンパンを口の中に注いでいく。
『今日ヘルプは一切いらない』と言った愛菜の言葉通り、二人のテーブルには彼らを除いて誰一人としていなかった。
その光景を、翔悟をはじめとした他のホスト達が快く思わないのは言うまでもない。

「チッ」
翔悟は眉間に深いシワを寄せながら口を鳴らした。
「どうしたのよ翔悟?」
彼の指名客である早紀が尋ねる。
「何でもない」
「そうなの?何か機嫌悪いわよ、あなた」
「何でもないんだ」
「あの翼って子のことでしょ?」
「……!」
翔悟が不意を突かれた表情を示すと、早紀はフッと笑う。

「あの時席についた時と比べるとえらい変わり様ね。隣にいるあの女の子のせいかしら」
「さあね」
「翔悟、あのお客の子知ってるんでしょ?だれ?」
「……さあ。見ての通り、ただのキャバ嬢だろう」
翔悟はそう言うと、シャンパンを勢いよく飲み干した。
「ただのキャバ嬢、ね」
早紀はグラスに口をつけながら、離れたところにいる翼と愛菜を見つめた。



一方-

光星も、その光景に鋭い視線を送っていた。
「あの野郎……!」
指名客が隣にいるに関わらず、光星の眼は常に翼を捉えていた。
「調子にのりやがってよぉ!」
彼はそう言いながら突然席を立った。

「光星どこ行くのよ?」
「トイレだよ、トイレ。ちっと頼んだぞ」
指名の客に顔を合わせることもなく、光星はヘルプのホストに後を頼むと一人トイレへと歩いていった。

「あの野郎、急にどうして」
光星はトイレの鏡に映る自分自身に語りかけるようにつぶやいた。
「気になってるんだ?」
光星の斜め後ろからそう言ったのはNo.3の由宇だった。
相変わらず冷静ながらも明るい短髪が彼の特徴を物語っている。

「由宇」
「さすがに僕も気になったよ。翼くんがあの愛菜さんをねぇ。すごいじゃない」
由宇がそう言うと、光星は眉をクンと上に吊り上げた。
「おい由宇、これはただ事じゃねぇぞ。今まで社長以外……翔悟さんや俺らを含め誰も指名しようとしなかったあの女が、あのへぼいのを指名したんだぞ!しかもあんな騒ぎまで起こした奴がよぉ!」
光星は声を荒立てた。
しかし、由宇は至って冷静だった。

「光星さんしょうがないでしょ。どんな事情があるかは知らないけど、あの翼が彼女の指名をとったのは、もう変えようのない事実なんだから」
「由宇お前、あいつがこの店でのさばってもいいってのか!?」
「そんなんどーだっていいし。それを社長が認めていることならしょうがないんじゃ?」
「お前どっちの味方なんだ、由宇?」
「別に。僕は誰の味方とかどーでもいい。あくまで自分自身のペースで楽しく仕事できさえすればいいんでね。さて、翼の卓の様子でも見物に行こうかなっと」
そう言うと、由宇は光星のいるその場から歩き去った。

「……チッ、クソが!あの野郎!」
光星は、言いようのない苛立ちをぶつけるように鏡の中の自分自身を再び睨みつけた。



それから数時間が経過-。
【Club Pegasus】は間もなく閉店の時を迎えていた。
内勤の佐伯がマイクを通して店内に声を響かせた。

「さぁ~ラストソングを歌う今日一番輝いてた子は……」
BGMが流れる賑やかな中ですら、そこにいる全員が息を呑む。
佐伯は、一瞬言葉を止めたかと思うと、ラストソングを歌うそのホストの名前を高々に叫んだ。

「はい!新人ながら今日初めての本指名をいただきました、翼くんですっ!!おめでとう!!」
『翼』という誰も一度も聞いたことのないようなその名前が、店内にいるすべての人間の耳をを支配した。
 

「翼?誰それ??」

「ラッソン、トップの三人じゃないの?」

「新人でラッソン歌ったの?すごくない!?」

「ねぇ誰、翼って。どの子なの?」

指名フリー問わず、大多数の女性客が、彗星のごとく現れた『翼』という謎の存在に興味関心を示し始めていた。

「さぁ翼、歌え。今日の主役はお前だ」
翼の前に現れた天馬が、彼に一本のマイクを渡す。
彼のその行動が、翼の未知の正体を明るみにするまでにそう時間はかからなかった。
翼が希望したバラード曲のインストが流れ、そのメロディに沿って彼は歌い始めた。
その姿を、近くにいる愛菜と天馬は、笑って見つめた。

「翼、おめでとっ!」
手拍子に彩られたラストソングが終わる頃、隣にいる愛菜が、翼の左腕を掴みながら言った。
「そんな、愛菜のおかげだよ」
翼は謙遜をしながら言った。
「ううん、最初は記念とか言ってたけど、私も気がついたらあなたと二人でいることに何か浸っていたわ」
「そっか、それならよかった」
「それより翼って意外に歌が上手いのねっ」
「そうかい?」
「うん、歌だけなら天馬よりも上手かったわよ!」
「褒めすぎだって」
翼は冷静さを装いながらも、俄かに照れ笑いを浮かべた。

『自分自身への評価』
ホストとして男として、翼自身が欲しかったものをついに実感し始めていた。



閉店後-

【Club Pegasus】の面々は営業終了後のミーティングに入っていた。
もちろん愛菜を含むすべての女性客はいなくなっている。

「お疲れいっ!!」
「お疲れ様っす!!」
天馬の声に、店内のホスト全員が声を合わせる。
「おーし、今日も一日お疲れ!今日はみんな一人一人がよく頑張ったな。客入りや売上も上々だ」
天馬は誇らしげに言った。

「まぁみんなもすでに知ってるだろうが……翼がついに初の指名をとった。そしてラストソングに行くまで売上を出したんだ」
天馬の話す声以外は静まり返っている中、どことなくざわめきが漂う。
翼をチラ見する者もいれば、彼に目を合わせない者もいるなどそれぞれだったが、やはり急激に存在感を増した彼のことを意識しない者は一人もいなかった。
それは、彼のすぐ後ろにいる羽月も例外ではなかった。

天馬は続けた。
「今まで翔悟・光星・由宇以外がラッソンしたことがなかった以上、これから翼はもちろんみんなのがんばりに期待しているぞ!」
「ハイッ!!」
「よし今日はもう以上、じゃあ解散!!」
「お疲れ様したぁ!!」
その最後の挨拶を機に、今日の【Club Pegasus】の営業及び仕事は終了した。


「んん~。疲れたなぁ」
翼はぐぐっと身体を伸ばした。



『でもこんな疲れ方、ホスト始めてからは初めてか』
翼は、やっとやり甲斐と充実感を手に入れた自分自身に少し驚いていた。


「翼くん」
「えっ?」
その時、羽月が翼のもとにやってきた。
「初指名と初ラスト、ホンマおめでとう!」
羽月は満面の……とは言い難い笑みで翼に祝いの言葉を言った。
「あ、あぁ。サンキュー」
「まさか、翼くんが愛菜さんの指名もらうとは思わんかったわぁ……」
「……」
「ホンマ、うらやましいなぁ」
翼はどこと無く切なそうな羽月の表情に気付いた。



『まさか』



翼は何となくそう思ったが、口にすることはしまいと思った。
「まぁ、そっちもがんばれよ」
翼は最後にそう言ってそこから立ち去ろうとした……その時だった。

「翼くん待って!」
羽月が翼を呼び止めた。
「何だ?」
「よかったらでえぇんやけど」
「?」
「もし腹減っとったら……これから一緒にメシ行かへん?」
羽月の突然の言葉に、翼はキョトンとした。
何とも言えない沈黙が、二人を数秒の間覆う。

「あぁ、嫌やったらえぇで。もうプライベートは仕事の相手とは会いとうないかも-」
「いいよ」
「へっ?」
「メシ、行くんだろ?」
翼は笑うことはなかったものの、羽月の目をまっすぐ見つめながら言った。
「ホンマ?えぇの??」
「簡単にだったらな」
「いや、簡単でもえぇよぉ!おおきに、ありがとう翼くん!」
本人にとっても意外だったのか、羽月はとても嬉しそうにはしゃいだ。

「そんなにはしゃぐなよ」
「あぁ!ゴメンゴメン!」
羽月はよっぽど嬉しいのか、テンションがどんどん高くなっていった。

「お疲れ、ちょっと取り込み中か?」
そこに天馬が話しかけてきた。
「社長、お疲れ様です」
「お疲れ様ですぅ!」
翼と羽月は、天馬に挨拶を返す。

「お疲れ。翼、今日はよくやったな!」
「えっ」
「だがお前にはまだ客は愛菜一人だ。これからもっと指名客増やしていけよな」
天馬はそう言いながら翼の肩をポンと叩いた。
「ハイッ!」
「それとな」
周りに聞かれたくないからか、天馬はいきなり翼に耳打ちをする。

「社長?」
「いつもは平静かもしれんが……愛菜は今とある事情で苦しんでいるんだ」
「えっ?」
翼は目を丸くした。

「いいか翼。詳しくは言えんが、きっといつか本人から話される時が来る。もし愛菜に何かあったら、その時はお前がホストとしてあいつを支えてやってくれ」
「……はい」
意味もわからずじまいだったが、真剣に話す天馬に対し翼は返事一つをすることしかなかった。
それを聞いて、天馬もどこか安心したようだった。

「もちろん羽月、お前もだ!翼に負けんなよ!?」
天馬は羽月の肩をパンッと叩きながら彼を激励した。
「は、ハイッ!がんばります!!」
羽月も元気よく天馬に言葉を返した。
天馬はフッと笑みを零す。
「じゃあお疲れさん!」
「お疲れ様でした!」
翼と羽月は最後に天馬と挨拶を交わすと、エレベーターでビルの1Fへとおりていった。

「さって何食べよ-」
羽月がそう言いかけた時だった。
「おい翼!」
横から誰かが翼に声をかけてきた。
「翔悟さん」
声をかけてきたのは翔悟だった。

「お前……どうやってあの女を」
鋭い眼差しの翔悟に対し、翼は冷静に答える。
「さぁ。僕もよくは知りませんが」
「そんなはずはないだろ。お前彼女に何をした?」
「何もしてません」
詰め寄る翔悟に、翼は冷静に返す。
だが、翔悟の詮索はそれだけでは終わらなかった。
「何もしてない?さてはお前、あの女と枕でもしたか?」
「マク……ラ……?何のことです??」
「くっ……ハハハ!こりゃウケるな、枕の意味も知らないでそうなるとは」
「……??」
『枕』という意味がわからなかったのか、翼は首を傾げたままだった。
しかし、横にいた羽月は、その意味を知った上で聞いてか表情を俄かに強張らせていた。
翔悟は続けた。

「まぁいい……お前みたいなドシロウトが、そうする以外にあの女を落とせるわけがないんだ。よっぽど相性がよかったのか、とんだ今日のヒーローだ……なぁ、羽月?」
「えっ??いや、どうなんやろ……」
話をふってきた翔悟に、羽月はたじろぐ。

「まぁいい。お前がどうゆうスタイルでこようが、あの女一人を客にした程度で上がれるほどこの世界は甘くないんだ。それを覚えておけ!」
そう言うと、翔悟は背中を向け翼達の前から去っていった。


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