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6-1


時はさかのぼること約半年前-



暑さが響く8月、懸命に仕事に打ち込む一人の青年の姿がそこにはあった。
『彼』の名前は浅川一也。
不器用な性格ながらも、会社員として一人の24歳の男として、明るく素直に一生懸命に生きていた。



「浅川くん、あの例の書類はまだか!」
「はい、ただいまお持ちしますっ!」
会社のオフィスにて半袖のワイシャツにネクタイをしめる一也は、上司の催促に応えるように書類の束を持って歩く。
「課長、よろしくお願いします!」
一也は書類を課長と呼ばれる三十半ばくらいの男に提出すると、ササッと自分のデスクに戻り再びパソコンに向かい合う。

「ふぅー」
一也はかるく溜め息をつくと、再び気合いを入れるように仕事へと入る。

「浅川くん」
白髪頭の50代の男が、一也に話し掛ける。
「あっ、常務。お疲れ様です」
「お疲れ。どうだ、仕事の方は慣れてきたか?」
「はい!何とか」
常務と呼ばれた男に、一也は元気に答えた。

「そうか。私も君をお父上からお預かりしてる以上しっかり育てなければならないからな。しっかり、やってくれよ」
「はいっ!」
一也は常務にペコリと頭を下げると、再び気合いを入れるようにパソコンへと向かい合った。

「浅川くんはいいねぇ、常務に優しくしてもらえて」
向かいのデスクにいる社員の一人・岡本が一也にそう言った。

「いや、そんな……」
「さすがいずれはパパの会社を継ぐボンボンですもんねぇ」
岡本は、謙遜する一也の言葉を無視するかのように嫌みたらしく言い放った。
その顔はヘラヘラしながら一也の顔の方を向いている。

「……」
一也は内心ムッとしながらも、岡本のそんな言葉を気にしないようにパソコンへと向いた。
「そんなぁ無視しないでよぉ浅川くん♪」
ボンボン呼ばわりされ内心嫌がっている一也を見て楽しんでるかのように、岡本はそのむさ苦しい四角い顔でニヤニヤしながら話し掛けた。
それをよそに、一也は一所懸命に仕事へと打ち込んでいった。


一也は実家がとある商社を営む、いわゆる『御曹子』。
四年制の大学を卒業後、父の会社を継ぐために、その取引先である、ここ㈱KKへと二年間の武者修業へと出されていた。
社員として約一年半、一也は不器用ながらも持ち前の明るさと素直さで謙虚に会社での仕事をこなす毎日を過ごしていた。





「ふぅ」
一也は、夜遅くの残業の合間にコーヒーを片手に一息をついていた。

「一也っ、お疲れ様!」
グレーの制服に身を包んだ20代のOLらしき女性が、一也に話し掛けた。

「紗恵!」
「だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「あぁ」
一也は日々の残業や早出などの繰り返しで疲労がたまっていたものの、紗恵と呼ばれたその人物の前ということもあり、疲れを見せないように努めた。
だが、彼女にはその疲労や心労の度合いが彼の表情から読み取れていた。

「一也もやっと仕事に板がついてきてるころだろうだけど……無理はしないでね?ご両親だって心配されるから」
「うん、ありがとう」
紗恵の言葉に、一也は素直に頷いた。

「でも緊張するなぁ……。私、今度お会いしたときに一也のご両親に気に入っていただけるかしら?」
「大丈夫だよ、紗恵なら!」
「そうかなぁ。でも、一也がそう言うんなら大丈夫かな」
「あぁ、うちの家族も紗恵みたいな女の子なら絶対歓迎してくれるさ!」
「……うん、そうよね!ありがとう一也」
そう言うと、紗恵はオフィスに今は自分達以外がいないのをサッと確認すると、一也の唇にソッと自分の唇を重ねた。

「……!」
一也は突然なことに一瞬ビックリとしたが、そんな彼女の髪の毛を優しく撫でながら目を閉じた。
そして、スッと彼女の華奢な腰に手を回し抱き寄せる。
「ん……」
「う……ん……」
気がつくと、二人は激しくお互いを求め合うように抱き合い唇を重ね続けていた。

「一也……好き……」
「俺も……紗恵のこと大好きだよ」
一也は自分を抑え切れなくなったのか、紗恵とともにオフィスのデスクの上に静かに倒れていく。

「一也……ダメよ、ここ会社だから……」
「あっ……」
一也は我にかえったようにムクリと起き上がった。

「ご、ゴメン……ちょっと俺どうかしてる……」
そう言って一也が恥ずかしそうに背を向けると、紗恵はピタリとその背中に顔を埋める。
 

「紗恵……」
「終わるまで待ってるね……」
「あぁ」
すると紗恵は、顔を合わせることもなくオフィスを後にした。
「よし、仕事終わらせるか」
一也は気合いを入れ直すように再びデスクのパソコンへと向かい合い始めた。




数時間後-

一也と紗恵の二人は、彼のマンションの一室へと来ていた。

時間は深夜1時-
週末なのもあり、二人はベッドの上でお互いを確かめ合っていた。
「あっ……一也……」
「紗恵ぇ……」
着ていた衣服は乱れながらそこらじゅうに散乱し、二人は何も身につけていない状態のまま布団一枚の中で寄り添っていた。


「一也……」
「うん?」
「好き」
「うん……俺も」
二人は言葉も少ないが、お互いの確かなものを求め合うように抱き合い続けた。
唇や握った手は、そしてすべてが激しく重なり合い、それを何度となく繰り返していく。



「ねぇ一也」
「うん?」
「私、ご両親に認めてもらえるように……一也とずっと一緒になれるように頑張るね」
「紗恵、いいのか?俺なんかで…。俺、不器用だし仕事だってそんなに自信があるわけでもないし……それに……」
「?」
「お前が会社の中で変な目で見られないかって心配でな」
「私は一也がいいの。それじゃダメ?」
紗恵はそう言いながら、自分を腕枕してくれている一也の左頬に軽いキスをした。


「紗恵……!」
一也は再び求めるように、紗恵を抱きしめた。



紗恵は一也が後継ぎの修業として働いているKK㈱にOLとして勤める、一也のひとつ年上の容姿端麗な女性である。
栗色のストレートロングヘアが特徴で、その才色兼備ぶりは会社内でも評判だった。
年齢が近いのもあり、少しずつ話しているうちに一也と意気投合し、気がつくと会社の人間として以上に一人の男女としての付き合いをするようになり、将来を考えるような関係にまでなっていった。

辛い仕事の中、取引先の社長のボンボン息子と言われる中、一人の男性として自分を見てくれる紗恵との関係が今の一也にとって唯一安らぎだった。





8月半ば-



お盆にさしかかったとある真夏の猛暑の日、一也は紗恵を連れて実家の横浜へと来ていた。
「はぁ~……緊張するなぁ。一応綺麗めのカッコで来たつもりだけど大丈夫かなぁ」
張り詰めた面持ちで、グレーのフォーマルスーツ姿の紗恵はため息をつきながら呟いた。
「そんなに緊張するなって、いつもの紗恵らしくないぜ」
一也は緊張し続ける紗恵を和ませるように肩をポンと触る。
そう言いながら、二人は豪華な一也の実家のドアをくぐっていった。

「すっごく大きいおうちね」
紗恵は思わず声を漏らす。
「ただいま~!」
一也は元気のいい声で玄関から叫んだ。
すると奥から、40代後半くらいのショートカットの女性がトコトコ歩いてきた。

「一也……お帰りなさい」
「オフクロ、ただいまっ」
女性は一也の母であった。
すると彼女は一也の斜め後ろに立っている紗恵に視線をやった。
その視線に気が付いたのか、紗恵はペコリと頭を下げる。
 
「一也、その人は?」
母が一也に問いかけた。
「あぁ、こないだ電話でちょっと話したけど、この人がその……会社で知り合った飯山紗恵さん」
「飯山です。はじめまして」
はずかしげに母に説明する一也の後に続くように、紗恵は母に挨拶をした。

「あぁ、あなたが飯山さんね。はじめまして、一也の母です。いつも息子がお世話になっています」
母は優しい口調で紗恵に対して一礼をする。
「あっ、いえ」
紗恵も相槌をうつように、あらためてペコリとする。
その際に、母は紗恵を一瞬下から上まで眺めるように見ていた。

「親父は?」
「あぁ、奥で待ってるわよ。ちょっと行って挨拶してきなさい」
「わかったよ」
一也は母に促されるように、奥にあるリビングルームへと足を運んだ。
相変わらず緊張した面持ちの紗恵もも、彼の後に続く。


「親父、ただいま」
「一也か」
リビングに入った一也と紗恵を、彼の父である半ば白髪の人物がソファーに座りながら二人を迎える。
その際に、紗恵はさりげなく父に対してもスッと頭を下げる。それを父も見る。

「まぁ座りなさい」
父は二人に向かいのソファーへの着席を促す。
「失礼します」
一也が「あぁ」と返事して座る中、紗恵は一礼をしてからソファーへと腰をおろした。

「えっと……一也、そちらがお前が言っていた-」
「あぁ、飯山紗恵さんだ」
「はじめまして。一也さんとお付き合いさせていただいています、飯山と申します」
一也の言葉に誘導されるように、紗恵は彼の父へ挨拶の言葉を言った。

「どうも、息子がお世話になってますね。確か……KKさんで働かれてるんですよね?」
「はい」
「こいつはちゃんと仕事してますか」
「はい、とても毎日頑張っています。いつも夜遅くまで残業したり……とても一所懸命です」
父のいきなりの質疑応答に紗恵は緊張を隠しながらも答えていった。

6-2

 
「紗恵さん、だったね。しかし綺麗な方だ」
父は足元から顔まで舐めるように紗恵を見ながら言った。

「いえ」
「一也のどこに好意を持たれたのかはわからないが、こんな美人は息子にはもったいないな!」
「親父!」
「お父さん、失礼ですよ」
大声で話す父を、母が諌めるように言った。
その際に一也と紗恵にもお茶が注がれた湯呑みが配られる。

「おっと失礼。まぁ紗恵さん、そんな緊張せずにゆっくりしていきなさい」
「はいっ、ありがとうございます」
半ば和やかな雰囲気で挨拶を終えると、一也と紗恵は彼の部屋へと足を運んでいった。
部屋に入ると、二人はどっと疲れたようにベッドへと座る。


「はぁ~緊張したぁ」
紗恵が思いきったようなため息を吹き出した。
「悪いな、妙に気を使わせちゃって。それに親父が変なこと言ってさ」
「あ、ううん」
そう言うと、一也と紗恵は軽くキスをした。
「本当にいいのか?こんなとこに来てもらっても」
「いいわ。いいお家じゃない。それに私は一也とがいいんだから」
しんと静まり返るその部屋の中で、一也と紗恵は抱き合った。



その時だった。

突如部屋のドアがガチャリと音をたてた。
「わっ!」
一也は身体をビクッとしながら声を上げた。
それに伴い、紗恵も瞬間的に身体を硬直させる。
二人が視線を注いだ先には、ドアノブをつかんだままの一也の母がじっと二人を見ていた。

「な、何だよオフクロ!いきなり黙って入ってくるなよ!」
「……」
一也が声を大きくして言う中、紗恵はポカーンとしながら何も言えなかった。
「オフクロ!」
「あら……二人で何をしてたの?」
母は半ば開き直ったような口調である。
それを聞いた一也は、表情をキッとさせた。

「何じゃないだろう!紗恵だっているのに、ノックもせずに突然入ってくるなんてどうゆうことだよ!」
「心配になっちゃったのよ……。一也もお年頃だから……若い男女が部屋で二人っきりなんて何が起こるかわからないからねぇ」
母は本気で心配を訴えていたが、一也はそうはとらなかった。
 

「だからってこんな風に入ってくるな!紗恵だってびっくりしてるじゃないかよ!!」
「あら……何か隠し事でもあるの?怪しいわねぇ」
「何も隠してねぇよ!いい加減にしろよな、オフクロ!!」
「いいえ、それは何か隠し事をしているわね」
疑い深く追求してくる母に対して、一也はついに堪忍袋の尾が切れた。

「もういい加減にしてくれっ!!」
「ちょっと…一也!隠してるわね、隠してるわね」
一也は、もうたまらないと言った感じで、無理矢理母を部屋から押し出しドアをバタンと強く閉めた。
 

「ハァ……ハァ」
思いきり怒鳴ったせいか、一也は著しく息を切らす。
そんな彼を見て、未だ言葉を発せない紗恵は何をしていいかわからず固まったままだった。
ひと呼吸置くと、一也は紗恵の方を向きながら口を開いた。

「紗恵ゴメンな……オフクロがいきなりこんなことして」
「あ……うぅん、きっとお母様も心配になっちゃったのよ。男の子を子供に持つ母親にはよくあることだわ。一也気にしないで」


『気にしないで』


彼女のその言葉が、現在の高ぶった自分の感情を諌める気遣いのものだと、一也は気付かずにはいられなかった。



数時間が経過したその夜-

一也・紗恵の二人は、彼の父と母を交えての夕食をとっていた。
「あぁ~うまいっ」
父はそこそこアルコールが入り、ほろ酔い程度に顔を紅潮させていた。
ただ、先程の母親と揉めたこともあり、一也の表情は未だ曇ったまま。
よって、その場の雰囲気はどこと無くギクシャクしていた。

「紗恵さん、お味はいかが?」
母が紗恵に尋ねた。
「あ……はいっ、とっても美味しいです」
「そう、よかったわ」
紗恵は母に対してごく普通に答えたが、やはり一也と母とのことが気になって正直夕食を味わうどころではなかった。
当の一也はなるべく顔には出さないと努めていたようだが、憤りに満ちた感情を全て押し殺すことまではできないでいた。


「一也」
父が一也に対し口を開いた。
「何だよ」
一也も久しぶりと言わんばかりに口を開く。
「お前、本当にKKさんに面倒なことをかけてないんだろうな」
「かけてないよ」
「本当か?紗恵さんはちゃんとやってると言っていたが、お前は昔から人一倍不器用だからなぁ」
「本当だよ」
「圭介は何をやらせても要領良くやっていたが、昔からお前はからっきしだったからなぁ」
「……」
父の煽るような言葉に一也はさらに別の憤りを覚えたが、彼は何とかそれらを飲み込むように黙っていた。
そんな彼の横顔に、さすがに紗恵も内心ハラハラがおさまらなかった。


「あなた言い過ぎよ紗恵さんの前で……」
母が横目で紗恵をチラ見しながら父に言った。
「あぁ~紗恵さんすまんねぇ、でも昔からこいつは勉強も運動も何やらせても本当に中途半端でねぇ。上の兄と比べると何でこんなに違うのか~って感じなんですがねぇ」
父は酒が入ったグラスをクイクイ口元に運びながら一也のことを続ける。
「あなたちょっと飲み過ぎですよ」
「いやね、こいつったら昔中学のとき-」
「やめろ……」
母の制止も聞かずに酔い任せな父に、一也がついに言葉を発した。

「えっ?何だよ、お前の昔のこと紗恵さんに話してやろうって言うのに」
「いいから、やめてくれ親父」
「何だ?お前紗恵さんに聞かれたくないことでもあるのか??それなら俺から話してやろうか」
「やめてくれよ頼むから……」
「何だお前……父親のせっかくの厚意を無駄にする気か~?」
「親父……飲み過ぎだ」
「紗恵さん実はこいつ中学のときに-」

その時、一也はものすごい勢いで両手の掌をテーブルに直撃させた。
その瞬間に伴い、凄まじいまでの音と振動がテーブルから発せられた。
酔っている父を含むそこに居合わせている一同が、ビクンと反応する。
父、母、そして紗恵の三人が、掌をテーブルにつけている一也に視線を合わせた。



「……」



約10秒ほどの長く感じさせる沈黙は、重い空気としてその場を支配していた。
しかし、その沈黙をまず最初に破ったのは息子の一也に威圧的に反抗された父であった。
父はその顔を怒りの形相に変え、ついにその満ちた感情を一也にぶつけ始めた。
「一也~……お前何だその態度は!!えぇっ!?」
その言葉に、一也も目付きを鋭利にさせながら返していく。

「そっちこそなんなんだよ!酔った勢いで俺が人に言われたくないような昔のこと紗恵に無理矢理しゃべろうとしやがって!!俺が嫌がってるのがそんなに楽しいのかよ!?」
「一也、やめなさい!」
憤る一也を母が制止するが、当の彼は全く聞く耳など持っていなかった。
すると一也はバンと席を立ち上がり、ツカツカとその場を後に自分の部屋の方に行ってしまった。

「一也っ!」
紗恵も立ち上がり声をかけたが、反応も虚しく彼が戻ってくることはなかった。
「……」
紗恵はそれ以上何も言えなかった。どうしていいかわからず、戸惑うことしかできなかった。

「紗恵さん、あんな馬鹿は放っておきなさい!あんなことで一々怒りおって」
父は少し呂律の崩れた口調でも怒りの言葉を発した。
「もう……圭介に比べて相変わらずわがままなんだから一也は」
母もどこかしょうがないと言った感じで呟いた。



『一也……あなた……』



紗恵は心の中で何かを確信しながら、複雑なほど切ない表情を浮かべていた。
すると、ガタンと音をたてながら席を立ち上がる。
そんな彼女に、父と母はキョトンとした顔をする。

「紗恵さん、どうしました?」
「……私、一也さんの様子を見てきます」
紗恵がそう言うと、母は明らかに遺憾を覚えた目付きになる。
「放っておきなさいと言ったでしょう。あの子は家だからってちょっと甘えてるんですよ」
「でも……」
「紗恵さん、あなたはさっき呼び捨てにするくらい一也を思ってるみたいだけど、あまり甘やかさないで」
「えっ?」
母の言葉に、紗恵の表情にも徐々に変化が訪れる。
 

「あなたがKKさんのOLって聞いてから思ってたんですけど、どうせあなたはうちの後継ぎと聞いて一也に近づいたんでしょ?」
「……!」
「あなたの容姿を見てれば何となくわかるわ。最近の女の子はお金のあるところに平気で向いてくみたいだからねぇ」
「そんな……」
「どうせ一也にも色仕掛けでもして近づいたんでしょう?さっきも部屋で抱き合ってたの見たのよ?」
母から次々と出てくる言葉の連続に、紗恵は顔をしかめた。

「抱き合ってた?そうなのか紗恵さん」
父が興味津々と言った具合で言った。
「違います、あれは……!」
紗恵は必死に否定をしたが、二人は信用のかけらもその目に抱いてはいなかった。
「一也に何を吹き込んだの紗恵さん。言ってちょうだい」
母の最後のその台詞に、紗恵はキッと表情を変えた。

「私は何も吹き込んだりしてません!私は…一也さんを一人の男性として見ているんですっ!!」
紗恵は強くそう言うと、スッと頭を下げ一也の後を追うようにその場から出ていった。
「……」
父と母は黙り込みながら彼女が出ていったドアもとを見続けていた。



「一也!開けて一也っ!」
紗恵は一也の部屋のドアをノックしながら彼の名前を呼んだ。
「……紗恵?」
紗恵の正面にあるドアの向こうから、彼女の名をつぶやく一也の声が掠めた。
すると、ドアはすんなりと細く開く。

「一也…!」
紗恵は安堵の表情を浮かべる。
「一也、入っていいよね?」
「……うん」
一也は元気こそ失っていたものの、どこか安心したように彼女を部屋の中に招き入れた。
すぐにドアを閉めると、紗恵は一也にスッと抱き着いた。
 

「紗恵……」
一也はわずかな驚きを見せる。
「一也……大丈夫?」
「……あぁ。ゴメンな、紗恵」
「えっ?」
「うちの奴らが……って言うか、みっともないもの見せちゃって」
「……うぅん、一也は何にも悪くないよ。何も……」
一也と紗恵は強く抱きしめあった。

「明日……朝一番で帰ろう」
一也はそう囁いた。










しかし、その翌朝に二人が一緒に帰ることはなかった。









『彼』ノ運命ヲ分カツ夜ハ、ソノ後ノコトダッタ。





                                                第7章へ

7-1

 
「……」


かれこれ、話してどれほど時間がたっただろうか。
翼は一息を入れつつ急に黙り込んだ。
愛菜はそんな彼に何も言わず、何も詮索せず、ただじっと横で座りながら彼の口が開くのを待っていた。
そんな愛菜の気遣いが、翼にはどこか心地よかった。

「続けますね」
「えぇ」
愛菜が頷きながら答えると、翼は再び『その時』のことを語り始めた。










「一也っ!開けなさい!」
二人がいる部屋のドアの向こうから、一也の母がドンドンとノックしながら彼を呼ぶ。
「一也
…」
紗恵が一也の方を向くと、彼は鋭い目付きでただドアを見つめるだけだった。

「どうするの?お母様、このままじゃずっと
…」
「反応すればまた騒ぐだけだ
…放っておけばいなくなるさ」
一也の言葉は冷静を装ってはいたが、紗恵は一触即発のその雰囲気に、もうどうしてよいかと思うしかなかった。
それ以降、しばらく母からのノックや呼びかけは続いた。


10分、20分、30分…



しつこいと言う台詞がよく似合うように、母からのそれは果てしないかのように続いた。
しかし30分を過ぎた頃、それはピタリと止まった。

「…
諦めたか?」
一也は久々かもしれないぐらいに口を開いた。紗恵も、その現状にどこか安心する。
「一也
…」
紗恵は一也にきゅっと抱き着いた。
「紗恵…

「疲れたでしょ?少し休もう」
「…うん」
一也と紗恵は、ベッドに腰をおろした。
「はぁぁ…」
一也がこれ以上ないくらいの大きなため息をつく。
 
「一也ゴメン…
「えっ?」
突然の意外な言葉に、一也は驚きの表情を見せる。

「どうして紗恵が謝るんだよ?」
「私さっき一也のお父様達にちょっと強く言っちゃって
…」
「紗恵
…」
「ついカッとなっちゃったのもあるんだけど…
私、許せなかった。何で自分の子供が嫌がってるのにあんなにしつこくできるのかなって…」
「昔からそうだったよ」
「昔から?」
「あぁ」
一也はもう一度ため息をつくと、再び話し始めた。

「親父達が言うの見てもわかる通り、俺は小さい頃から何をやらせてもダメだった。その上兄貴は何をやらせてもできるから、よく比較されてきた……。昔からそれが苦痛だったよ」
「一也…
そうだったんだ」
「それに…
母親があんな……過保護な感じだから…」
「……」
「だからKKでの会社の仕事は頑張ろうと思ってたんだ。なのに-」
一也はひざ元をギュッと両手で握りしめる。

「わかっていたこととはその親の過保護なせいで会社でも『ボンボン』『お坊ちゃん』とかの扱いがずっと続いた……。紗恵も知ってるだろ?」
「…
うん」
「正直…
辛かったよ」

一也のその言葉と同時に、あの岡本の四角い顔が頭に卑しいほど浮かんでくる。
歯を食いしばる彼の横顔を見ながら、紗恵は黙って聞いていた。
「だから、紗恵との時間はとても安心してた。俺が入社したばかりの頃から『無理しないでがんばれ』って言ってくれたのは、紗恵だけだったから」
「一也……」
「俺は紗恵から色んなものをもらった。色んな思い出も作ることができた。だから、これからも……」
その言葉を交わしたのを最後に、二人は気がつくと抱き合っていた。

「俺…紗恵が好きなんだ。ホントにホントに好きなんだ」
「私も……一也をいっぱいいっぱい大好き」
「子供も……作りたい」
「うん……」
時は23時過ぎ……一也と紗恵は、激しくお互いを求め合い始めた。

「一也ぁ」
「うん」
二人は生まれたままの姿で、結ばれようとした-


その時だった。
一也の部屋のドアが、『バキン』と何かが外れたような激しい音をたてた。
「キャッ!」
「な、なんだ!?」
紗恵と一也は抱き合ったベット上で、一斉に音のした方を振り向く。
すると、鍵をかけたはずの部屋のドアはギィ……と音をたてながら、ゆっくりと廊下の明かりを部屋へと入れる。

「うっ……」
暗闇に慣れた一也達の目にまばゆいばかりの光が差し込む。
「何だ……?」
そう言って目が次第に慣れてくるど、一也は明るい廊下に照らされる一人の人影を確認する。

「えっ…」
一也と紗恵は絶句した。
暗闇の外の廊下でじっと自分達を凝視している人物がいたからだ。
150センチ半ばの高くない背丈、荒れる呼吸、両足にはどこかで見慣れたスリッパ。
そして右手に工具のような鋭利な物体を持ちながら、鬼女のようにギロリと二人を睨んだその人物は、一也の母だった。

「お、オフク……」
一也は驚愕のあまり、言葉にならなかった。
「な、なんで……いや……」
紗恵も思わずそう口にする。
すると母は、一枚のタオルケットに包まる二人の現在の状態を分析するように視線を左右させる。










そして、事は起こった。










「この女狐ぇぇえ!!!」
母は突然狂ったように二人のもとに飛び掛かった。

「うわぁああ!!」
「キャアアァァア!!」
母は一度一也をドンと突き飛ばすと、その恐ろしい視線を紗恵一人に向けた。
「お……おかあさ-」
「あんたみたいな淫乱女にお母様とか言われる筋合いなんか無い!!!」
すると母は、その左手で紗恵の髪の毛をグイっとわしづかみにした。

「イヤァァアぁ!!」
紗恵は恐怖と痛みで信じられないほどの悲鳴を上げた。
「痛いっ!やめてくださいぃ!!」
「痛いじゃないんだよこの馬鹿雌が……人の大事な息子をたぶらかしやがって」
母はまるで人格を一変させたような口調で紗恵に言い放った。

「た……たぶらかすだな……痛いっ!!やめてぇえっ!!」
「うるさい、うるさいうるさい!!」
母は紗恵の髪を掴んだ左手を執拗に引っ張り、平手にした右手を思いきり振り下ろした。

「キャアァっっ!!」
その右手は紗恵の顔面や頭と恐ろしい勢いで衝突し、鈍い音を上げる。
その際に紗恵の悲鳴はまたさっきとは異なった狂気のメロディを奏でた。
「うるさい!!このっ、このっ、このこのこのっっ!!!」
母は無抵抗で泣きながら悲鳴を上げる紗恵の顔を次々と平手打ちした。

「オフクロやめろ!!」
一也が狂った獣のような母を止めに入った。
「お前は黙ってろ!!」
母は、全裸の一也の股間に右足で蹴りを入れた。
「ぐっ……!!」
一也は一瞬で床に突っ伏して、苦悶の表情を見せる。
彼が伏せたのを確かめると、母は再び異常な泣き顔の紗恵にその視線を向けた。

「この女……初めて見たときから思ってたけど、こんないやらしい身体で……!」
母は露になっている紗恵の乳房をバチンと叩いた。
「イャアァアァ!!」
「うるさい!!騒ぐな!!この胸が、この尻が、うちの一也をたぶらかしたんだ!!!えぇ!??」
母は左手で掴んだ髪をグイグイと引っ張り続けながら、紗恵の身体の至る所を足蹴にした。

「イヤァァア!!何でこんな……!信じられないっ!!」
「信じられない!?この雌豚が……人様の家で平気で息子と交尾する雌豚が生意気なこと言うんじゃないよっ!!!」
母は紗恵への平手打ちと足蹴を、再び乱れるように繰り返した。
「いやっ!!やめてぇぇえ!!」
部屋を突き抜けるような紗恵の悲鳴が、伏せて動けない一也の耳に刺さる。

「紗恵ぇ!オフクロやめろ!やめてくれぇえ!!」
「うるさい!お前もボンボンのくせに親に逆らいやがって!!こんな女……こんな女こんな女こんな女こんな女こんな女ーーー!!!」
「イキャアァァアァァ!!」
母の止まることのない虐待のような行為に、紗恵の美しい顔は恐怖と痛みに見たことのないような醜い形相へと変化していた。
それに伴い、悲鳴も著しく動物の鳴き声のそれに近いようなものへとなっていた。

「紗恵……チクショウ!!やめろよオフクロ、やめろっ!!何でこんなことするんだ!!」
母はピタリと手を止め、床に突っ伏している一也に目を向けた。
そして、唾まみれのその口をゆっくり開く。

「あなたのためよ一也。こんな女はあなたには合わない」
「なんでオフクロがそんなこと決めるんだ!俺にとって紗恵は……」
「会社での安らぎだったんでしょう?無理しないで頑張ってって言ってくれたんでしょう?それだけでしょう?」
連続する異常なまでの『でしょう?』に、一也はハッとした。

「なんでそのことを……なんで俺達しか知らないことを知ってるんだよ!!」
「子供を作る?こんな汚い女と?ふざけるんじゃないわよ!!」
一也はさらにハッとした。紗恵も大きく目を見開いた。
二人とも、体中がブルブルと震え出していた。

「子供つくること……さっき初めて言ったばかりなのに……。静かに言ったから聞こえるはずもないのに……」
紗恵はボソッとそう言うと、何かに気付いたように母を見た。
 

「まさか…」
紗恵はその表情に映る恐怖の色をさらに濃くした。
「私と一也は……この部屋は盗聴されてた……!?」
紗恵が涙ながらにそう言うと、一也の目は一瞬にして大きく開いた。
「な、何だって?盗聴……??オフクロ、マジなのか?」
一也の声が震える中、母は何もなかったように答えた。


「そうよ。一也、あなたの部屋には盗聴器がしかけてあるの」
「な……何でこんな?何でこんなことしたんだ!」
「何って、あなたのことが心配だったからに決まっているでしょう?お母さんの気持ちもわからないのあなたは?」
母は、まるで『当たり前でしょう?』と言わんばかりに一也に言った。

「……俺の部屋……盗聴されてたなんて……!」
一也はもう喋れなかった。
いや言葉を発する気力をパッと失った。
「……」
一方の紗恵は、茫然としながらぽろぽろと大粒の涙を頬に流すだけだった。
母が傍若無人に暴れたのが嘘だったかのように、その場は不思議なほどの沈黙に覆われていた。



その時だった。
「一体何事だっ!」
壊れたドアもとから、バスローブ姿の一也の父がそこに怒鳴り声を発した。
一也・紗恵・母は、一斉にそっちを見る。
やはり驚いたのか、父はその状況を見て目を丸くする。
特に裸になっている紗恵姿を凝視していた。

「もう……イヤ」
紗恵はそう呟くと、父の視線もありってかタオルケットを身体に強引にかける。すると、目の前にいる母を突き飛ばしドアもとに走っていた。
「ギャッ」
母は思わずそう叫ぶ。
「さ、紗恵!」
一也は徐々に蹴られた下腹部が回復してきたのか、少しずつ立ち上がった。

「さ、紗恵さん」
そう言う父の前をダッと走り過ぎた紗恵は、廊下の方へと走り去っていった。
「紗恵ぇ!待ってくれ!」
全裸の一也は走り去っていく彼女のもとを追った。

7-2

 
「紗恵っ!!」
「もぉイヤ……イヤっ!」
後から一也が追ってくる中、彼女はタオルケットで顔を全部覆いながら泣き声を漏らし……走った。










 「紗恵っ、危ない!!」










一也がそう叫んだ時は既に遅かった。
紗恵はある手すりのある場所を境に、下の方へと消えていった。
その際に『ガタガタ』という鈍い音が、何度となく続いた。
連続する音はしばらくすると止まった。
最後の音は下の階の方で止まった。


「紗恵ぇぇえ!!」
一也は消えた紗恵の行き先を血眼で追った。
自分がいる2階から1階におりる階段の最も下に、白い全裸にタオルケットをはだけさせた紗恵がピクリとも動かず横たわっていた。

「紗恵!紗恵ー!!」
一也は直ぐさま倒れている紗恵のもとに駆け付けた。

 


「紗恵、紗恵……大丈夫か……?」
一也は彼女を抱き起こし、軽く身体を揺さぶってみる。
しかし、彼女は動かない人形のように何も反応しなかった。
無造作に揺れる首がぶらんぶらんと動いているだけだった。
そして、乱れた髪の毛に俄かに隠れる彼女の額から深紅の液体が滴り落ちるのを見て、一也は眼球が飛び出そうなほど目を開いた。


「さ……え……」


紗恵はピクリとも反応しなかった。










「紗恵ーーーーー!!!」










一也の絶望感に充ちた悲痛な叫びが、家の中に虚しく響いた。











翌早朝-

あの後、救急車にて紗恵は病院へと運ばれ、緊急の集中治療を受けた。
無論、一也はずっと外で彼女のことを待っていた。
祈るように、何時間も、彼は額の前で両手を強く握りながら待っていた。



すると、集中治療室の扉がゆっくりと開いていく。
「紗恵っ!」
一也はじっと座っていた身体を無理矢理のように起こし、運ばれてくる仰向けの紗恵のもとに駆け寄った。
「紗恵……」
頭に包帯を巻かれながら目を閉じている紗恵を、一也は瞳を潤ませながら見つめた。

「先生、紗恵は!?」
一也が問い掛けると、医師は顔につけていたマスクを取りながら答えた。
「命に別状はありません。外傷も思ったよりひどくはありませんので、時期に目が覚めるでしょう。今日一日は様子を見るつもりで休ませてあげてください」
「はい……ありがとうございましたっ」
一也は医師にペコリと頭を下げる。
そのまま一般病棟に移された紗恵に付き添うために、彼はベットに横たわる彼女をずっと見守るようにそばにいた。










刻々と時間は経ち、時刻は既に夕方を迎えていた。
紗恵が病室に運ばれてから、一也は一睡もすることなく彼女が目を覚ますのを待ち続けた。
「紗恵……」
紗恵は生きている……それがわかっていても、彼の中ではいつ彼女が亡くなってしまうのではないかという不安もあった。


しかしその時だった。


「う……ん……」
午後7時、紗恵はその瞳をうっすらと見せながら声を漏らした。
「紗恵!」
一也は跳びはねそうな自分を必死でおさえながら紗恵のもとに寄った。
「紗恵大丈夫か-」
そう言いかけたとき、彼女の表情は一瞬にして豹変した。



  「キャアアア!!!」


「さ、紗恵?」
「イヤァ!あっちへ行ってぇ!!」
紗恵は突然鼓膜を破りそうなくらい大きな悲鳴を上げると、一也を見ながらベットの上で後ずさった。
一也は、そんな彼女を見て何がどうしたかわからず混乱していた。

「紗恵……どうした?」
「イヤァ来ないでっ!来ないで来ないで来ないでぇっ!!」
意味不明に自分に拒絶反応を示す紗恵に、一也は茫然とするしかなかった。
「飯山さん、どうしました!?」
悲鳴を聞いてか、そこに医師と看護士の二人が駆け付けた。
「イヤァあ!怖い……怖い!」
「怖……い?」
一也は思わず口にした。

「飯山さん~大丈夫ですよ、落ち着いて下さい」
医師はそう言って乱れる紗恵を諌めながら、チラリと一也を見て病室の外に出るようにと視線を送った。
「紗恵、どうしちゃったんだ……!?」
一也はハラハラしながら、病室から出ることにした。



数分後-

病室から医師と看護士が出てくる。

「先生……紗恵は
…?
目の下にすっかり黒い隈を作った一也が、医師に尋ねる。
「恐らくですが……」
一也は息を呑む。

「彼女の様子からすると、異常な恐怖体験か何かによる心的外傷……つまりトラウマを持ってしまったようです」
「トラ……ウマ?」
一也は今までにないくらい目を大きく見開く。
医師は頷きながら続けた。
「様子から見て、彼女は浅川さん……あなたを見て"何か"を思い出してあのような反応を示しているようなんです」
「ぼ、僕を見て??」
その時一也は、昨夜起こったことを真っ先に思い返した。



『まさか、まさか……!』



一也の顔色が一瞬にして蒼白になる。
医師はさらに続けた。
「あなたが直接そのトラウマに関係しているかはわかりませんが、彼女の反応では間違いなくあなたは関係しているようです」
「そんな……」
一也は肩を落とす。

「お気持ち察しますが……今はあなたは彼女に会わない方がいい。かえって彼女の精神をさらに混乱させてしまいますから……。ここは、私達に任せて下さい」
医師はそう言って頭を下げると、後ろにいる看護士とともにその場を後にした。










「そんな……」










「紗恵が、俺のせいで……?」









「そんな……」










一也は心の何かが外れたようにフラフラな状態で自宅マンションへと戻っていった。



『紗恵、俺は……俺は……』
心の中で何度も、何十回も、何百回も、彼は自分を責めことを繰り返した。
そのうち、睡眠不足とあらゆる疲労が影響し、彼は深い眠りについていた。
それから時間が経ち、一也がそのまま眠りこけている時に彼のケータイの着信音は鳴り続けていた。

「う……ん……」
一也は目を擦りながら着信音を鳴り続けさせているケータイを手に取る。
「はい……」
その着信に出ると、彼の耳元には怒りの声が鳴り響いた。
「おい浅川くん!今何時だと思っているんだ!?」
「……!?」
一也はハッとした。カーテンから差し込む日の光が著しいことに気がついた。時計を見ると、すでに午前10時をまわっていた。

「しまった……!今日から夏休み明けの出勤だった!!」
一也は思いきりそう叫ぶと、電話の向こうの課長が再び怒声を上げる。
「何をやってるんだ!今日が大切な商談なのを忘れたのか!!」
「は、はい!今行きます!申し訳ありません!」
「もういいっ!!」
すると、課長からの電話はガチャリと大きな音をたてて切れた。

「大変だ……!」
一也はあわてふためきながら、通勤の準備をして家を出た。



1時間後-

「バカヤロウ!!」
デスクを猛烈に叩きながらの課長の怒声が一也を責める。
オフィス内がしんと静まり返る。
「すみません……」
「すみませんで済むか!今日が例の大切な商談だとあれほど念を押しただろう!お得意さんはもうカンカンだぞ!!」
「ホントに申し訳ありません……」
一也はただ…ただ頭を下げることしかできなかった。

「これだからボンボンは……」
謝る彼の後ろで、岡本が皮肉を込めた口調で言い放った。
一也はグッと歯を噛み締めた。
紗恵のことで頭がいっぱいだったとは言え、自分の仕事を失敗してしまったことに言い訳など効く余地などなかった。
その日、一也は肩を落としながら会社での一日を過ごした。

そして当然ながら、紗恵はその日会社に姿を現すことはなかった……。





数日後-

一也は紗恵を心配しながらも、仕事に励んだ。
面会謝絶である今は会えないとしても、数日たてば大丈夫だろう…そんな気持ちで日々を過ごしていた。
「ただ今戻りました」
夕方、一也が外回りから帰ってくると、オフィスにいるOLを含む社員全員が彼を冷たい目で見ていた。
「えっ?何ですか??」
一也がそう聞くと、社員達はスッと目をそらした。



『な……なんだ?』



そこへ深刻な顔をした常務と課長がやってくる。
「浅川くん、ちょっといいか」
「常務」
一也は給湯室へと連れていかれた。


「常務、課長……。一体みんなどうされたんですか?」
一也がそう尋ねると、常務はその重い口を開いた。



「昨夜に……飯山くんが病院で自殺未遂をはかった」
「えっ……??」
一也は固まった。
常務はそのまま続けた。

「ここ数日出社がしてなないので電話をかけてみたら、彼女は自宅も携帯電話にも出ない。おかしいと思いやむを得ず彼女の実家に連絡をしたら、病院にいることがわかってな」
一也の顔に少しずつ生気がなくなる。
「先程女子社員が見舞いに行ってきたらしいんだが、話によると彼女は君の話をすると、見たこともないような怖い顔になって怯えていたらしい。どうやら先日君の御実家に行った際に君と揉めて階段から落ちたのが原因らしいが」
「えっ?」
一也はおかしいことに気付いた。

「すみません、僕と揉めたって、彼女がそんなことを……!?」
「君のご両親に聞いたら、そう証言したそうだ」
隣にいた課長が答えた。

「そんな……そんなのおかしい!僕は、彼女を階段から落としてなんかない!本当は-」
「浅川くん!常務の前だぞ!!」
課長が興奮する一也をおさえた。
その先を常務が続けた。

「浅川くん……事実はどうであれ、今の飯山くんは君に対して何らかの拒絶反応を示しているそうだ。もう彼女に関わるのはやめるんだ。ご両親からの経済的なご厚意もあり、彼女は慰安退職してもらうことになった」
「……!そんな……じゃあ僕が……!」
「君はいずれお父上の後を継ぐために今ここにいるんだろう!……彼女のことは忘れるんだ」
常務はそう言うと、その場をスッと後にした。
すると、課長が口を開く。

「今さっき君が社内で変な視線を浴びていた理由がわかっただろう。もう社内の女と恋愛なんかするんじゃないぞ」
そう言うと、課長もそこからツカツカ歩いていなくなった。



『そんな……紗恵が俺のせいで……』



一也はヨロヨロとテーブルに寄り掛かった。
いきなり突き付けられた現実を、受け止められなかった。
「慰安退職だと??ただの手切れ金だろうが……!」
知らず知らずのうちに目から出てきた涙が、溢れて止まらなかった。

目を真っ赤にしながら、一也はオフィスへと戻った。デスクに座る社員達が、一斉に彼を見る。
落ち込む彼を励ますどころか、全員蔑んだ表情しか浮かべていない。
一也は無言で自らの席へとついた。

「浅川く~ん残念でしたねぇ♪」
岡本が四角い顔をニマニマさせながら一也に話しかけた。
「……?」
「飯山さん、入院しちゃった上にあんなことになっちゃって。あーあ残念」
「岡本さん……あんた何が言いたいんですか?」
一也はギロリと岡本を睨み付けた。

「いやぁね。結局飯山さんはお金欲しさであったのかな~と」
「なに……」
「飯山さん、仕事できるし顔やスタイルもいいから浅川くんにはもったいないな~ってずっと思ってたんですよぉ♪だってお金以外、彼女が浅川くんを選ぶ理由がないですからねぇ」
「だま……れ……」
「ホントは僕が彼女と付き合いたかったんだけど、さすが金持ちのボンボン!あんなにいい女を引き付けちゃうんですから♪ま、それだけが取り柄なのかもしれないですけどねぇ、アハハハハ♪♪」
「だまれ……」
「大丈夫大丈夫!ボンボンなんだからお金目当ての馬鹿女はいっぱい寄ってきますよ♪♪ね~、ボンボンくん☆アッハッハ♪♪」
「岡本くん言い過ぎだよ~」
岡本を筆頭に、一也の周りを囲んだ社員全員が笑い声を上げた。

7-3

 
 
 
その時、










一也の中の何かが音をたてて切れた。










気がつくと一也は










ボールペン片手にそこから飛び掛かっていた。











そこにいた全員が、嘲笑いを一瞬で硬直させたときには『グチャッ』という生々しい音が鳴り










気付いたときには、一也は既に手に握ったそれで岡本の四角い顔を突き刺していた。


「ギャアアァア!!痛い!やめてぇー!!」
岡本がその四角い顔を赤く染めながら歪ませた。
その赤く染めた塗料のようなものの出所は、一也が逆手で手にしたボールペンが突き刺さる鼻筋からであることが明らかだった。

「キャアアア!!」
「浅川くんっ!やめるんだ!」
その様子に社内は騒然な雰囲気へと化した。
そんな周囲をよそに、一也はその恐ろしい目付きで岡本を睨みつけ、右手に持つボールペンを『グチュッ』と抜き取り、再び別の箇所に突き刺した。

「イキャアアァア!!」
「クズ野郎が……人の気持ちも知らずに言いたい放題言いやがって!!」
すると一也は悲鳴を上げる岡本の襟首を掴み、今度は血で濡れたその右拳でその顔を殴打した。
「アァッ!!」
四角いせいか、ゴツゴツした感が彼の右手に伝わる。
しかし、一也はそんなことはお構い無しと言った具合で岡本の顔を殴り続けた。
三度、四度、五度……十度、溜めに溜めて着火した赤い炎のような感情を爆発させるかのように、一也は岡本へのやるせないほどの怒りをぶつけた。

「やめるんだ浅川くん!」
社員数人に抑えられ、一也は息を激しく切らせながらも仰向けになる岡本を睨み続けた。
「フー!!フー!!」
「これじゃご両親が……!」
「うっせぇんだよ!!どいつもこいつも、俺を坊ちゃんやら下っ端社員やら都合のいいように扱いやがって!!ストレス発散のサンドバッグみたいにしてきやがって!!」
一也は涙を流しながら、その場に悲痛な怒りをぶつけた。

「もう、たくさんだ……たくさんだぁっ!!」
「浅川くんっ!」










一也は、そこから逃げるように走り去った。










気がつくと、彼は自宅マンションにいた。
今はもう幻のような過去……つい数日前まで紗恵と何度も愛を誓い合った、シングルベットの上で、一人悲痛な涙を流していた。










「紗恵……紗恵ぇ……」
その時、着信音が彼のケータイを鳴らした。
うっすらとそれを確認すると、それは横浜の実家からのものだった。
一也はキッとした。


◇「もしもし……」
◆「あ、一也!お母さんだけど、あなたKKさんの会社で何てことをしてくれたのよ!常務さんから電話があったわよ!」
◇「……そんなことかよ」
◆「そんなことじゃないでしょ!あんなことしちゃダメでしょ!ちゃんとしなきゃダメって言ったでしょ!」
◇「でしょでしょじゃねぇだろ!お前ら紗恵に手切れ金渡しやがったな!あいつは……自殺未遂まで起こして……!しかも階段から落ちたのも全部俺のせいだと!?」
◆「あら、あなたのためよ。せっかく別れてくれたんだから、よかったわねぇ」











『よかった……?俺がこんなに嫌な思いしてんのに……怒りながらつらい思いをしてても……










『こいつは、それを喜んでるのか……?』










『俺ハ……コンナ人間ノ血ヲ引イテイルノカ……??』










「ハハハ……」
一也はうっすら笑うと、ケータイのスイッチを切り、電源を落とした。



それから数カ月の間-
『彼』は部屋にじっと閉じこもり、飲めない酒を浴びるように飲み、それまで一度も吸ったことのなかった煙草を大量に吸う……アルコールと煙にまみれたそんな毎日を送った。

無論、KK社は退職扱いとなった。

全てに絶望したかのように、彼の輝いていた瞳は明るく優しい面影を一切消し、どす黒い暗闇が乗り移ったものになっていった。










自分を含む全てのモノを憎むことで、『彼』は自分を支えることしかできなくなってしまっていた。



そして『彼』は、素直で明るい青年『浅川一也』であることを捨てた。













気がつくと、話し終えた翼の瞳からは一筋の涙が流れていた。
そんな彼を、隣にいる愛菜は神妙な表情でただ見つめていた。





                                                   第8章へ


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