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5-1

 
「ま、愛菜さんっ!おばんですぅ!」
突然姿を現した愛菜に、羽月は緊張した面持ちで言った。

「ふふ、そんなに緊張しないでよ。それよりこんなところでどうしたの?」
愛菜は羽月にそう問い掛けたが、彼の両手に抱えられている泥酔した翼を見て大まかなことは理解したようだった。

「相当飲まされたみたいね。しかも顔にまでアザを作っちゃって」
「えぇ……僕も何がどうなったかは詳しくはわからへんのやけど、さっき-」
羽月は自分が知ってる限りの一部始終を愛菜に話し始めた。



「……ふーん、あの光星にねぇ」
「はい、すごい剣幕やったんやけど」
愛菜は羽月からの説明でほぼ事情はつかんだようだった。

「で、羽月くんはどうしたいのよ」
「えっ?」
「翼くんよ。今の状態じゃあ店に戻すわけにもいかないでしょ」
「はい、光星さんにはああ言ったものの、もうどないしようか……」
羽月の言葉に、愛菜はフゥッとため息をつく。

「あなたって後先考えず口や手が出るタイプでしょ」
「そうかもしれへん」
愛菜のたしなめに、羽月は何かを自覚したかのように言った。

「まぁいいわ。ホントは店に行ってちょっと飲んでこうって思ったんだけどね」
すると愛菜は、偶然そこに通り掛かった空席のタクシーを止めようと手をあげた。
タクシーは愛菜のもとに流れるようにスッと止まり後部座席のドアを開ける。

「愛菜さんすんません、せっかくお店来てもらったのに」
「ん?羽月くん、早くっ」
愛菜は何かを羽月に促していた。
「えっ、何ですか愛菜さん」
「翼くんをよ。早く後部座席に乗せて」
「えぇっ??」
愛菜の一言に、羽月は目を丸くする。

「乗せるって……??」
「今日の彼は私が連れていくわ。天馬には私からTELしておくから、あなたはお店に戻りなさい」
「連れていくって……」
「別に変なことするわけじゃないわよ。今彼を店に戻してもまたごちゃごちゃするだけでしょ?」
「で、でも翼くんは-」
「ごちゃごちゃ言わない!あなたもホストならお客の言うことくらいスッと受け入れなさい!」
困りふためく羽月を愛菜が一喝した。

「……はい、すいませんでした」
「お願い、後で私もTELしとくけど天馬や佐伯さんにはうまく言っておいて。さっ、手伝って」
羽月と愛菜は、酔い潰れて意識が朦朧としている翼をタクシーの後部座席の奥へと押し込むように座らせた。
その隣に愛菜がスッと腰をおろす。
 

「じゃっ、お願いね羽月くん」
翼と愛菜を乗せたタクシーは、立ちすくむ羽月のもとを走り去っていった。


「……愛菜さん」
羽月はポツリと愛菜の名前を切なそうにつぶやいた。
「…アカン、店に戻って言ってこな…」
そう言うと、羽月は店へと戻るためにエレベーターへとかけていった。



「……そうか。愛菜さんが」
「ハイ。後で社長にも電話するってことみたいですわ」
「わかった、社長はまだ同業から帰ってきてないから、後で俺からも連絡しておく。羽月、お前も仕事に戻れ」
「ハイっ!」
羽月は佐伯との話を終えると、ホールの方へと元気に向かっていった。その元気の裏に、微かなわだかまりを抱えながら。





それから数時間後-


「うんん……」
あれから愛菜に連れられていった翼が、うなりながら目を覚ました。



『ここは……?何で俺がベッドに?』



翼は横になっていたベッドからムクリと体を起き上がらせ、周りや自分をキョロキョロと見渡した。
白を基調とした壁に茶色のテーブルや椅子、窓の外に広がる夜景、そして何より自分が今ぽつんといるダブルベッド。
そのベッドの上でワイシャツとパンツだけになっている自分自身。
突然のことに、翼は今の状況が半ば理解できずにいた。

「イテッ!」
激痛が走ったのか、翼は自らの右側頭部をパッと右手でおさえた。



『そっか……確か俺はあの席ですごく飲まされて-』



翼は少しずつだが、店からの記憶を呼び戻そうとしていた。
「しかし……ここはどこだ?」
翼はベッドからグレーのカーペットが敷いてある床に両足をおろすと、重い身体を起こすようにその場に立ち上がった。

「どこの部屋だ……んっ?」
すると、部屋のどこかから一定量の水が滴り落ちる音が翼の耳に入った。
「シャワー……誰かいるのか?」
すると、その水の滴る音はパッと止まる。翼は何かと思い、その音がしてきたバスルームらしきドアを見つめた。



『誰だ……こいつが俺をここに連れてきたのか』



30秒ほどたっただろうか、翼は構えるように心の中でつぶやいた。
するとそのドアは、呆気ないほどガチャリと開いた。


「ふぅぅ」
そのドアからは、湿気を帯びたシャンプーの香りとともに、白いバスローブに身を包んだ長身の美女が姿を現した。

「えっ!?」
翼は言葉を失った。そんな彼に、彼女は「おっ」と気がついたようだった。
 
 
「翼くん、目を覚ましたみたいね。気分は大丈夫?」
「……」
翼は絶句して固まったまま動かなかった。

「ちょっと、私のこと忘れた?前にお店で会ったでしょ?愛菜よ、マ・ナ!髪下ろしてるからわかんないかな」
「い……いや、はい……」
目の前にいるバスローブの美女が愛菜だということはわかったようだが、翼にとっては何故自分がここにいて、そして何故愛菜がいるのか……という突然の状況に頭の中の整理がついていけてなかった。
 

「あの、愛菜さん……俺は何故ここに?ってより、何故愛菜さんが??」
翼は今の自分が誰だかわからないと言ったようなそぶりで愛菜に尋ねた。
愛菜はフーッとため息をつく。

「とりあえず簡単に教えてあげるわ。まずここは私がたまに気分転換に使ってるシティホテルよ」
「ホテル??」
部屋をキョロキョロと見回した翼は無理矢理ながらも納得したようだった。
「まぁそれはいいとして…聞いた話だけどあなたお店ですっごく飲まされて酔い潰れちゃったのよ?覚えてない?」
愛菜の言葉に翼は一瞬考え込むと、何かを思いだしたかのようにフッと顔を上げた。
「……!俺は確か光星さんに……」
「そうよ。店で大倒れしたあなたはその後-」
愛菜は自分が知ってる限りの事の顛末を翼に話した。

「そうだった……」
翼はなにもかもを思い出したようだった。酔いが少しずつ消え失せたその顔に、今度は苦渋の色が浮かび始める。

「光……星……」
翼は気が付くとその名前をじわりじわりとつぶやいていた。
彼の表情のそれは、怒りなのか悔しさなのか…わからないほどの歪みを見せていた。
「くっ……!」
翼は膝からガクンと崩れ落ち、上体をベッドに預けるようにうなだれた。そんな光景を、バスローブ姿の愛菜は黙って見つめる。

「くそっ……」



「ちくしょう……!」



翼はその二つの言葉を何度となく繰り返しながら、握り込んだ右手の拳でベッドに打ち付け続けた。
「バフッ」という柔らかい音の連続が、虚しく空を切るように響く。

「あいつ……あんなやつに……あいつ……」
前の二言の次に出た翼の言葉はそれだった。
声は時間を追うごとに弱々しくなり、終いには言葉になっていなかった。
その時、ベッドの白いシーツをじっと睨んでいる翼の顔からポタポタと滴り落ちる何かが、真っ白いそれをじんわりと濡らし始めていた。

「うぅ……うっ……くっ……」
翼は泣き崩れていた。
理不尽な光星への怒りか、いいように飲まされてただけの自分への悔しさか、はたまた情けない姿を愛菜の前で曝している今の自分への怒りか-。
様々な怒りと悔しさの積み重ねで、翼はベッドに拳と涙を打ち付けることしかできなかった。


しかしその時だった。
愛菜は翼の上体を無理矢理起こした。
その直後、「パン」と言う音が部屋の中を響き渡る。

「なっ……」
翼は自分の左頬をおさえながら、目を丸くして驚いていた。
彼の目の前には、右手を素振りしたかのような姿勢をとっている愛菜の姿があった。
彼女の瞳は鋭く、しかしどこか切ない光を放っていた。

「男がいつまでもウジウジ泣いてるんじゃないわよっ!!」
愛菜は強い眼差しで、翼にそう言い放った。

「愛菜さん……」
「水商売なんてのはね、やってれば嫌なことや辛いことなんて誰だっていくらでも出てくんのよ!そりゃ光星のしたことは理不尽だったかもしれない……でもね、男なら……ホストならちょっとは見返してやるくらいの根性出してみなさいよっ!!」
愛菜は、落ち込み続ける翼に対してさらに言い放った。
 
 
「男はね、どんなつらいことがあっても折れそうなときでも、絶対負けちゃいけないの!」
そう強く言い放った愛菜の瞳は、厳しさと同時にどこか悲しさを漂わせていた。
彼女のの激しい言葉に、翼は動こうともせず無言で彼女の瞳を見つめていた。

「自分を証明したいって、あなたそう天馬に言ったんでしょ?それともその言葉は嘘だったってこと?」
「……」
翼は言葉を失っていた。
男としてホストとして、突かれたくない痛いところを指摘されてしまった彼は、もはや何を言うこともできなかった。
ただ、言いようのない悔しさと憤りが彼の瞳から多量の涙を頬へと導いていた。

「翼くん、ホストを辞めるの?」
「……」
「まだ一ヶ月も経っていないのに、辞めてしまうの?」
「……」
「……そう」
無言の翼に、愛菜が諦めたように言った。
しかし、その時だった。

「……たくない」
「えっ?」
「辞めたくない……。俺はまだ、辞めたくない…」
「翼くん」
「もう、もう……あの時みたいな惨めな目に合うのはたくさんだ!」
そう言った翼の瞳を見て、愛菜はハッとした。

5-2


『あの写真のときと同じ瞳だ……。やっぱり似てる、あの子に……』



愛菜は、今目の前にいる翼をとある人物を再びオーバーラップさせていた。
悔しさや怒り、哀しさと言ったドス黒いほどの心の闇のすべてを映し出した彼のその瞳に、彼女はまるで吸い込まれていくように魅入っていた。



『似てるのはあの子だけじゃない……昔の私と-』



愛菜は翼とその人物だけでなく、加えて過去の自分自身をも重ね合わせていた。
そんなことも知らず、翼はその黒い瞳から流血にも似た痛々しい涙を流し続けている。
愛菜はハッとするように我に返り、再び口を開いた。

「あなたに昔何があったかはわからない。でも今は顔を拭きなさい、せっかくのルックスが台なしよ」
そう言って愛菜は、持っていたフェイスタオルをスッと翼へと差し出した。
「……すみません」
翼は受け取ったそれで顔を拭うと、一言力無く愛菜に返した。


「シャワー浴びてきなさいよ。スッキリするわ」
「はい」
翼は愛菜に促されるまま、体をよろつかせながらバスルームへと歩いていった。

「……」
そんな彼の姿がバスルームの中へと消えていくまで、愛菜は見守るようにそれを自らの視界の中へとらえていた。



服を脱ぎ全裸となった翼は、大理石を基調としたシャワーの中で湯浴みを始めていた。
先刻間もないときに愛菜が浴びていたのもあり、中はまだ残った蒸気と甘い香りが舞っていた。

「……」
翼は無言でシャワーから出る湯の霧を自らの頭に浴び続けた。
まるで自分の中の何かをすべて洗い流したいかのように……ただ、シャワーの湯が床とぶつかる無数の音だけが彼の耳を掠めていた。










『紗恵……』










翼の心の中でその名前が響いたとき、彼は滝のようなシャワーの中でガクンと崩れ落ちた。

「紗恵……紗恵……」
と、翼はある女性の名前を何度となく口にしていった。
まるで、過去に対する惨悔と現在の自分への嫌悪が、彼をさらに蝕んでいくように。





約30分後-
シャワーを浴び終えた翼は、バスローブを身にまとって愛菜が座っているベッドルームへと姿を現した。
「ずいぶん長かったね、シャワー。少しはサッパリしたかしら?」
「はい、おかげさまで」
愛菜の問いに、翼は頷きながら答える。
彼の体から出る冷めぬ蒸気と濡れた髪の毛が、長い入浴をしていたという事実を嫌がおうでも語っていた。

「そこに座って」
愛菜は翼をベッドの片隅へと座らせる。
「ハイっ、飲みなさい」
愛菜はそう言うと、ミネラルウォーターの注がれたグラスを翼へと差し出した。

「あっ、ありがとうございます」
やはり飲み過ぎで喉が渇いていたのか、翼はそれをクイッと飲み干した。
それを見てフッと微笑した愛菜は、彼の横隣へとスッと腰をおろした。

「ねぇ翼くん、一つ聞いてもいい?」
「はい?」
「あなたは何でホストになろうと思ったの?」
突然の愛菜からの質問に翼は一瞬キョトンとしたが、手に持ったグラスを脇に置きながら答えた。

「今しかできないってのもあるけど……自分が頑張ったことを、そのまま評価してくれることかな」
「そうね、お水をやってるならそれはみんな思うわよね」
「それに……」
翼は言いかけるように言葉を止めた。

「それに……なに?」
「いえ、何でもないです」
「何でもない??」
「えぇ……」
「何よ、そこまで言いかけて……気になるじゃない-」

しかしその時だった。
愛菜がそう言った瞬間、翼の表情が一瞬恐ろしいまでに豹変したのを彼女は見てしまった。
 
「……!」
愛菜はそれを見てからか、そのまま絶句した。『この人は想像を絶するような過去をくぐり抜けて今存在している』と瞬間で認知せざるを得なかった。
すると、翼の表情は再びもとの普通の様子にフッと戻った。
自分でもその一瞬の変化にハッとしたのか、翼は自分のこめかみに手を当てた。

「ごめんなさい翼くん……もしかして聞いてはいけなかったかしら」
「いえ……」
愛菜の謝りの言葉に翼はすぐに大丈夫だと返事をしたが、その一言はとても力がないものだった。
その後、10秒ほどか1分ほどか、長いような短いような沈黙の時間が二人の間に訪れる。

「……」

「……」

しかし、その沈黙を愛菜が破った。
「ご…ごめんね!変なこと突っ込んじゃって。誰でも聞いてほしくないことの一つや二つあるのは当然だし……私もどうかしてるかな……」
愛菜は、何かをごまかすように翼に言葉をかけた。
しかし、当の翼は斜め下に俯きながら重い沈黙を続けたままだった。

「ちょっと翼くん、あんまり黙り込まないでよ。まるで私が-」
「愛菜さん」
愛菜の言葉を遮るように、翼が口を開いた。

「お話します」
「えっ?」
愛菜はキョトンとした。
「愛菜さんは俺を助けてくれました……。それに-」
「?」
翼の突然の言葉に、愛菜は目を丸くした。
そんな言葉を言いながら自分を見る彼に、彼女自身妙な感覚を覚えていた。
しかし、そのまま翼は続けた。

「俺も、本当は誰かに言いたかったのかもしれない。理解してほしいのかもしれない。本当は隠したい、忘れたいはずの自分のことを」
「翼くん……」
「これをここであなたに言わなきゃ、俺はもうホストはできないような気がするんだ」
翼はそう言いながら、自分の着ているバスローブの裾を強く握った。

「わかったわ。あなたに負担が無ければ話して。今のあなたがいる理由」
自分の髪を軽く触りながら、愛菜は翼の瞳をまっすぐ見てそう言った。


「ただし、無理に言いたくないことは言わないで。私が必要以上に詮索したとは思ってもらいたくないし、あなたが話したいことを私は聞きたいの」
「わかりました」
愛菜の言葉に頷きながら、翼は語りを始めた。











本人ニトッテハ思イ出スダケデモ血ヘドヲ吐キソウナ、自ラノ過去ヲ-





        
                                               第6章へ

6-1


時はさかのぼること約半年前-



暑さが響く8月、懸命に仕事に打ち込む一人の青年の姿がそこにはあった。
『彼』の名前は浅川一也。
不器用な性格ながらも、会社員として一人の24歳の男として、明るく素直に一生懸命に生きていた。



「浅川くん、あの例の書類はまだか!」
「はい、ただいまお持ちしますっ!」
会社のオフィスにて半袖のワイシャツにネクタイをしめる一也は、上司の催促に応えるように書類の束を持って歩く。
「課長、よろしくお願いします!」
一也は書類を課長と呼ばれる三十半ばくらいの男に提出すると、ササッと自分のデスクに戻り再びパソコンに向かい合う。

「ふぅー」
一也はかるく溜め息をつくと、再び気合いを入れるように仕事へと入る。

「浅川くん」
白髪頭の50代の男が、一也に話し掛ける。
「あっ、常務。お疲れ様です」
「お疲れ。どうだ、仕事の方は慣れてきたか?」
「はい!何とか」
常務と呼ばれた男に、一也は元気に答えた。

「そうか。私も君をお父上からお預かりしてる以上しっかり育てなければならないからな。しっかり、やってくれよ」
「はいっ!」
一也は常務にペコリと頭を下げると、再び気合いを入れるようにパソコンへと向かい合った。

「浅川くんはいいねぇ、常務に優しくしてもらえて」
向かいのデスクにいる社員の一人・岡本が一也にそう言った。

「いや、そんな……」
「さすがいずれはパパの会社を継ぐボンボンですもんねぇ」
岡本は、謙遜する一也の言葉を無視するかのように嫌みたらしく言い放った。
その顔はヘラヘラしながら一也の顔の方を向いている。

「……」
一也は内心ムッとしながらも、岡本のそんな言葉を気にしないようにパソコンへと向いた。
「そんなぁ無視しないでよぉ浅川くん♪」
ボンボン呼ばわりされ内心嫌がっている一也を見て楽しんでるかのように、岡本はそのむさ苦しい四角い顔でニヤニヤしながら話し掛けた。
それをよそに、一也は一所懸命に仕事へと打ち込んでいった。


一也は実家がとある商社を営む、いわゆる『御曹子』。
四年制の大学を卒業後、父の会社を継ぐために、その取引先である、ここ㈱KKへと二年間の武者修業へと出されていた。
社員として約一年半、一也は不器用ながらも持ち前の明るさと素直さで謙虚に会社での仕事をこなす毎日を過ごしていた。





「ふぅ」
一也は、夜遅くの残業の合間にコーヒーを片手に一息をついていた。

「一也っ、お疲れ様!」
グレーの制服に身を包んだ20代のOLらしき女性が、一也に話し掛けた。

「紗恵!」
「だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「あぁ」
一也は日々の残業や早出などの繰り返しで疲労がたまっていたものの、紗恵と呼ばれたその人物の前ということもあり、疲れを見せないように努めた。
だが、彼女にはその疲労や心労の度合いが彼の表情から読み取れていた。

「一也もやっと仕事に板がついてきてるころだろうだけど……無理はしないでね?ご両親だって心配されるから」
「うん、ありがとう」
紗恵の言葉に、一也は素直に頷いた。

「でも緊張するなぁ……。私、今度お会いしたときに一也のご両親に気に入っていただけるかしら?」
「大丈夫だよ、紗恵なら!」
「そうかなぁ。でも、一也がそう言うんなら大丈夫かな」
「あぁ、うちの家族も紗恵みたいな女の子なら絶対歓迎してくれるさ!」
「……うん、そうよね!ありがとう一也」
そう言うと、紗恵はオフィスに今は自分達以外がいないのをサッと確認すると、一也の唇にソッと自分の唇を重ねた。

「……!」
一也は突然なことに一瞬ビックリとしたが、そんな彼女の髪の毛を優しく撫でながら目を閉じた。
そして、スッと彼女の華奢な腰に手を回し抱き寄せる。
「ん……」
「う……ん……」
気がつくと、二人は激しくお互いを求め合うように抱き合い唇を重ね続けていた。

「一也……好き……」
「俺も……紗恵のこと大好きだよ」
一也は自分を抑え切れなくなったのか、紗恵とともにオフィスのデスクの上に静かに倒れていく。

「一也……ダメよ、ここ会社だから……」
「あっ……」
一也は我にかえったようにムクリと起き上がった。

「ご、ゴメン……ちょっと俺どうかしてる……」
そう言って一也が恥ずかしそうに背を向けると、紗恵はピタリとその背中に顔を埋める。
 

「紗恵……」
「終わるまで待ってるね……」
「あぁ」
すると紗恵は、顔を合わせることもなくオフィスを後にした。
「よし、仕事終わらせるか」
一也は気合いを入れ直すように再びデスクのパソコンへと向かい合い始めた。




数時間後-

一也と紗恵の二人は、彼のマンションの一室へと来ていた。

時間は深夜1時-
週末なのもあり、二人はベッドの上でお互いを確かめ合っていた。
「あっ……一也……」
「紗恵ぇ……」
着ていた衣服は乱れながらそこらじゅうに散乱し、二人は何も身につけていない状態のまま布団一枚の中で寄り添っていた。


「一也……」
「うん?」
「好き」
「うん……俺も」
二人は言葉も少ないが、お互いの確かなものを求め合うように抱き合い続けた。
唇や握った手は、そしてすべてが激しく重なり合い、それを何度となく繰り返していく。



「ねぇ一也」
「うん?」
「私、ご両親に認めてもらえるように……一也とずっと一緒になれるように頑張るね」
「紗恵、いいのか?俺なんかで…。俺、不器用だし仕事だってそんなに自信があるわけでもないし……それに……」
「?」
「お前が会社の中で変な目で見られないかって心配でな」
「私は一也がいいの。それじゃダメ?」
紗恵はそう言いながら、自分を腕枕してくれている一也の左頬に軽いキスをした。


「紗恵……!」
一也は再び求めるように、紗恵を抱きしめた。



紗恵は一也が後継ぎの修業として働いているKK㈱にOLとして勤める、一也のひとつ年上の容姿端麗な女性である。
栗色のストレートロングヘアが特徴で、その才色兼備ぶりは会社内でも評判だった。
年齢が近いのもあり、少しずつ話しているうちに一也と意気投合し、気がつくと会社の人間として以上に一人の男女としての付き合いをするようになり、将来を考えるような関係にまでなっていった。

辛い仕事の中、取引先の社長のボンボン息子と言われる中、一人の男性として自分を見てくれる紗恵との関係が今の一也にとって唯一安らぎだった。





8月半ば-



お盆にさしかかったとある真夏の猛暑の日、一也は紗恵を連れて実家の横浜へと来ていた。
「はぁ~……緊張するなぁ。一応綺麗めのカッコで来たつもりだけど大丈夫かなぁ」
張り詰めた面持ちで、グレーのフォーマルスーツ姿の紗恵はため息をつきながら呟いた。
「そんなに緊張するなって、いつもの紗恵らしくないぜ」
一也は緊張し続ける紗恵を和ませるように肩をポンと触る。
そう言いながら、二人は豪華な一也の実家のドアをくぐっていった。

「すっごく大きいおうちね」
紗恵は思わず声を漏らす。
「ただいま~!」
一也は元気のいい声で玄関から叫んだ。
すると奥から、40代後半くらいのショートカットの女性がトコトコ歩いてきた。

「一也……お帰りなさい」
「オフクロ、ただいまっ」
女性は一也の母であった。
すると彼女は一也の斜め後ろに立っている紗恵に視線をやった。
その視線に気が付いたのか、紗恵はペコリと頭を下げる。
 
「一也、その人は?」
母が一也に問いかけた。
「あぁ、こないだ電話でちょっと話したけど、この人がその……会社で知り合った飯山紗恵さん」
「飯山です。はじめまして」
はずかしげに母に説明する一也の後に続くように、紗恵は母に挨拶をした。

「あぁ、あなたが飯山さんね。はじめまして、一也の母です。いつも息子がお世話になっています」
母は優しい口調で紗恵に対して一礼をする。
「あっ、いえ」
紗恵も相槌をうつように、あらためてペコリとする。
その際に、母は紗恵を一瞬下から上まで眺めるように見ていた。

「親父は?」
「あぁ、奥で待ってるわよ。ちょっと行って挨拶してきなさい」
「わかったよ」
一也は母に促されるように、奥にあるリビングルームへと足を運んだ。
相変わらず緊張した面持ちの紗恵もも、彼の後に続く。


「親父、ただいま」
「一也か」
リビングに入った一也と紗恵を、彼の父である半ば白髪の人物がソファーに座りながら二人を迎える。
その際に、紗恵はさりげなく父に対してもスッと頭を下げる。それを父も見る。

「まぁ座りなさい」
父は二人に向かいのソファーへの着席を促す。
「失礼します」
一也が「あぁ」と返事して座る中、紗恵は一礼をしてからソファーへと腰をおろした。

「えっと……一也、そちらがお前が言っていた-」
「あぁ、飯山紗恵さんだ」
「はじめまして。一也さんとお付き合いさせていただいています、飯山と申します」
一也の言葉に誘導されるように、紗恵は彼の父へ挨拶の言葉を言った。

「どうも、息子がお世話になってますね。確か……KKさんで働かれてるんですよね?」
「はい」
「こいつはちゃんと仕事してますか」
「はい、とても毎日頑張っています。いつも夜遅くまで残業したり……とても一所懸命です」
父のいきなりの質疑応答に紗恵は緊張を隠しながらも答えていった。

6-2

 
「紗恵さん、だったね。しかし綺麗な方だ」
父は足元から顔まで舐めるように紗恵を見ながら言った。

「いえ」
「一也のどこに好意を持たれたのかはわからないが、こんな美人は息子にはもったいないな!」
「親父!」
「お父さん、失礼ですよ」
大声で話す父を、母が諌めるように言った。
その際に一也と紗恵にもお茶が注がれた湯呑みが配られる。

「おっと失礼。まぁ紗恵さん、そんな緊張せずにゆっくりしていきなさい」
「はいっ、ありがとうございます」
半ば和やかな雰囲気で挨拶を終えると、一也と紗恵は彼の部屋へと足を運んでいった。
部屋に入ると、二人はどっと疲れたようにベッドへと座る。


「はぁ~緊張したぁ」
紗恵が思いきったようなため息を吹き出した。
「悪いな、妙に気を使わせちゃって。それに親父が変なこと言ってさ」
「あ、ううん」
そう言うと、一也と紗恵は軽くキスをした。
「本当にいいのか?こんなとこに来てもらっても」
「いいわ。いいお家じゃない。それに私は一也とがいいんだから」
しんと静まり返るその部屋の中で、一也と紗恵は抱き合った。



その時だった。

突如部屋のドアがガチャリと音をたてた。
「わっ!」
一也は身体をビクッとしながら声を上げた。
それに伴い、紗恵も瞬間的に身体を硬直させる。
二人が視線を注いだ先には、ドアノブをつかんだままの一也の母がじっと二人を見ていた。

「な、何だよオフクロ!いきなり黙って入ってくるなよ!」
「……」
一也が声を大きくして言う中、紗恵はポカーンとしながら何も言えなかった。
「オフクロ!」
「あら……二人で何をしてたの?」
母は半ば開き直ったような口調である。
それを聞いた一也は、表情をキッとさせた。

「何じゃないだろう!紗恵だっているのに、ノックもせずに突然入ってくるなんてどうゆうことだよ!」
「心配になっちゃったのよ……。一也もお年頃だから……若い男女が部屋で二人っきりなんて何が起こるかわからないからねぇ」
母は本気で心配を訴えていたが、一也はそうはとらなかった。
 

「だからってこんな風に入ってくるな!紗恵だってびっくりしてるじゃないかよ!!」
「あら……何か隠し事でもあるの?怪しいわねぇ」
「何も隠してねぇよ!いい加減にしろよな、オフクロ!!」
「いいえ、それは何か隠し事をしているわね」
疑い深く追求してくる母に対して、一也はついに堪忍袋の尾が切れた。

「もういい加減にしてくれっ!!」
「ちょっと…一也!隠してるわね、隠してるわね」
一也は、もうたまらないと言った感じで、無理矢理母を部屋から押し出しドアをバタンと強く閉めた。
 

「ハァ……ハァ」
思いきり怒鳴ったせいか、一也は著しく息を切らす。
そんな彼を見て、未だ言葉を発せない紗恵は何をしていいかわからず固まったままだった。
ひと呼吸置くと、一也は紗恵の方を向きながら口を開いた。

「紗恵ゴメンな……オフクロがいきなりこんなことして」
「あ……うぅん、きっとお母様も心配になっちゃったのよ。男の子を子供に持つ母親にはよくあることだわ。一也気にしないで」


『気にしないで』


彼女のその言葉が、現在の高ぶった自分の感情を諌める気遣いのものだと、一也は気付かずにはいられなかった。



数時間が経過したその夜-

一也・紗恵の二人は、彼の父と母を交えての夕食をとっていた。
「あぁ~うまいっ」
父はそこそこアルコールが入り、ほろ酔い程度に顔を紅潮させていた。
ただ、先程の母親と揉めたこともあり、一也の表情は未だ曇ったまま。
よって、その場の雰囲気はどこと無くギクシャクしていた。

「紗恵さん、お味はいかが?」
母が紗恵に尋ねた。
「あ……はいっ、とっても美味しいです」
「そう、よかったわ」
紗恵は母に対してごく普通に答えたが、やはり一也と母とのことが気になって正直夕食を味わうどころではなかった。
当の一也はなるべく顔には出さないと努めていたようだが、憤りに満ちた感情を全て押し殺すことまではできないでいた。


「一也」
父が一也に対し口を開いた。
「何だよ」
一也も久しぶりと言わんばかりに口を開く。
「お前、本当にKKさんに面倒なことをかけてないんだろうな」
「かけてないよ」
「本当か?紗恵さんはちゃんとやってると言っていたが、お前は昔から人一倍不器用だからなぁ」
「本当だよ」
「圭介は何をやらせても要領良くやっていたが、昔からお前はからっきしだったからなぁ」
「……」
父の煽るような言葉に一也はさらに別の憤りを覚えたが、彼は何とかそれらを飲み込むように黙っていた。
そんな彼の横顔に、さすがに紗恵も内心ハラハラがおさまらなかった。


「あなた言い過ぎよ紗恵さんの前で……」
母が横目で紗恵をチラ見しながら父に言った。
「あぁ~紗恵さんすまんねぇ、でも昔からこいつは勉強も運動も何やらせても本当に中途半端でねぇ。上の兄と比べると何でこんなに違うのか~って感じなんですがねぇ」
父は酒が入ったグラスをクイクイ口元に運びながら一也のことを続ける。
「あなたちょっと飲み過ぎですよ」
「いやね、こいつったら昔中学のとき-」
「やめろ……」
母の制止も聞かずに酔い任せな父に、一也がついに言葉を発した。

「えっ?何だよ、お前の昔のこと紗恵さんに話してやろうって言うのに」
「いいから、やめてくれ親父」
「何だ?お前紗恵さんに聞かれたくないことでもあるのか??それなら俺から話してやろうか」
「やめてくれよ頼むから……」
「何だお前……父親のせっかくの厚意を無駄にする気か~?」
「親父……飲み過ぎだ」
「紗恵さん実はこいつ中学のときに-」

その時、一也はものすごい勢いで両手の掌をテーブルに直撃させた。
その瞬間に伴い、凄まじいまでの音と振動がテーブルから発せられた。
酔っている父を含むそこに居合わせている一同が、ビクンと反応する。
父、母、そして紗恵の三人が、掌をテーブルにつけている一也に視線を合わせた。



「……」



約10秒ほどの長く感じさせる沈黙は、重い空気としてその場を支配していた。
しかし、その沈黙をまず最初に破ったのは息子の一也に威圧的に反抗された父であった。
父はその顔を怒りの形相に変え、ついにその満ちた感情を一也にぶつけ始めた。
「一也~……お前何だその態度は!!えぇっ!?」
その言葉に、一也も目付きを鋭利にさせながら返していく。

「そっちこそなんなんだよ!酔った勢いで俺が人に言われたくないような昔のこと紗恵に無理矢理しゃべろうとしやがって!!俺が嫌がってるのがそんなに楽しいのかよ!?」
「一也、やめなさい!」
憤る一也を母が制止するが、当の彼は全く聞く耳など持っていなかった。
すると一也はバンと席を立ち上がり、ツカツカとその場を後に自分の部屋の方に行ってしまった。

「一也っ!」
紗恵も立ち上がり声をかけたが、反応も虚しく彼が戻ってくることはなかった。
「……」
紗恵はそれ以上何も言えなかった。どうしていいかわからず、戸惑うことしかできなかった。

「紗恵さん、あんな馬鹿は放っておきなさい!あんなことで一々怒りおって」
父は少し呂律の崩れた口調でも怒りの言葉を発した。
「もう……圭介に比べて相変わらずわがままなんだから一也は」
母もどこかしょうがないと言った感じで呟いた。



『一也……あなた……』



紗恵は心の中で何かを確信しながら、複雑なほど切ない表情を浮かべていた。
すると、ガタンと音をたてながら席を立ち上がる。
そんな彼女に、父と母はキョトンとした顔をする。

「紗恵さん、どうしました?」
「……私、一也さんの様子を見てきます」
紗恵がそう言うと、母は明らかに遺憾を覚えた目付きになる。
「放っておきなさいと言ったでしょう。あの子は家だからってちょっと甘えてるんですよ」
「でも……」
「紗恵さん、あなたはさっき呼び捨てにするくらい一也を思ってるみたいだけど、あまり甘やかさないで」
「えっ?」
母の言葉に、紗恵の表情にも徐々に変化が訪れる。
 

「あなたがKKさんのOLって聞いてから思ってたんですけど、どうせあなたはうちの後継ぎと聞いて一也に近づいたんでしょ?」
「……!」
「あなたの容姿を見てれば何となくわかるわ。最近の女の子はお金のあるところに平気で向いてくみたいだからねぇ」
「そんな……」
「どうせ一也にも色仕掛けでもして近づいたんでしょう?さっきも部屋で抱き合ってたの見たのよ?」
母から次々と出てくる言葉の連続に、紗恵は顔をしかめた。

「抱き合ってた?そうなのか紗恵さん」
父が興味津々と言った具合で言った。
「違います、あれは……!」
紗恵は必死に否定をしたが、二人は信用のかけらもその目に抱いてはいなかった。
「一也に何を吹き込んだの紗恵さん。言ってちょうだい」
母の最後のその台詞に、紗恵はキッと表情を変えた。

「私は何も吹き込んだりしてません!私は…一也さんを一人の男性として見ているんですっ!!」
紗恵は強くそう言うと、スッと頭を下げ一也の後を追うようにその場から出ていった。
「……」
父と母は黙り込みながら彼女が出ていったドアもとを見続けていた。



「一也!開けて一也っ!」
紗恵は一也の部屋のドアをノックしながら彼の名前を呼んだ。
「……紗恵?」
紗恵の正面にあるドアの向こうから、彼女の名をつぶやく一也の声が掠めた。
すると、ドアはすんなりと細く開く。

「一也…!」
紗恵は安堵の表情を浮かべる。
「一也、入っていいよね?」
「……うん」
一也は元気こそ失っていたものの、どこか安心したように彼女を部屋の中に招き入れた。
すぐにドアを閉めると、紗恵は一也にスッと抱き着いた。
 

「紗恵……」
一也はわずかな驚きを見せる。
「一也……大丈夫?」
「……あぁ。ゴメンな、紗恵」
「えっ?」
「うちの奴らが……って言うか、みっともないもの見せちゃって」
「……うぅん、一也は何にも悪くないよ。何も……」
一也と紗恵は強く抱きしめあった。

「明日……朝一番で帰ろう」
一也はそう囁いた。










しかし、その翌朝に二人が一緒に帰ることはなかった。









『彼』ノ運命ヲ分カツ夜ハ、ソノ後ノコトダッタ。





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7-1

 
「……」


かれこれ、話してどれほど時間がたっただろうか。
翼は一息を入れつつ急に黙り込んだ。
愛菜はそんな彼に何も言わず、何も詮索せず、ただじっと横で座りながら彼の口が開くのを待っていた。
そんな愛菜の気遣いが、翼にはどこか心地よかった。

「続けますね」
「えぇ」
愛菜が頷きながら答えると、翼は再び『その時』のことを語り始めた。










「一也っ!開けなさい!」
二人がいる部屋のドアの向こうから、一也の母がドンドンとノックしながら彼を呼ぶ。
「一也
…」
紗恵が一也の方を向くと、彼は鋭い目付きでただドアを見つめるだけだった。

「どうするの?お母様、このままじゃずっと
…」
「反応すればまた騒ぐだけだ
…放っておけばいなくなるさ」
一也の言葉は冷静を装ってはいたが、紗恵は一触即発のその雰囲気に、もうどうしてよいかと思うしかなかった。
それ以降、しばらく母からのノックや呼びかけは続いた。


10分、20分、30分…



しつこいと言う台詞がよく似合うように、母からのそれは果てしないかのように続いた。
しかし30分を過ぎた頃、それはピタリと止まった。

「…
諦めたか?」
一也は久々かもしれないぐらいに口を開いた。紗恵も、その現状にどこか安心する。
「一也
…」
紗恵は一也にきゅっと抱き着いた。
「紗恵…

「疲れたでしょ?少し休もう」
「…うん」
一也と紗恵は、ベッドに腰をおろした。
「はぁぁ…」
一也がこれ以上ないくらいの大きなため息をつく。
 
「一也ゴメン…
「えっ?」
突然の意外な言葉に、一也は驚きの表情を見せる。

「どうして紗恵が謝るんだよ?」
「私さっき一也のお父様達にちょっと強く言っちゃって
…」
「紗恵
…」
「ついカッとなっちゃったのもあるんだけど…
私、許せなかった。何で自分の子供が嫌がってるのにあんなにしつこくできるのかなって…」
「昔からそうだったよ」
「昔から?」
「あぁ」
一也はもう一度ため息をつくと、再び話し始めた。

「親父達が言うの見てもわかる通り、俺は小さい頃から何をやらせてもダメだった。その上兄貴は何をやらせてもできるから、よく比較されてきた……。昔からそれが苦痛だったよ」
「一也…
そうだったんだ」
「それに…
母親があんな……過保護な感じだから…」
「……」
「だからKKでの会社の仕事は頑張ろうと思ってたんだ。なのに-」
一也はひざ元をギュッと両手で握りしめる。

「わかっていたこととはその親の過保護なせいで会社でも『ボンボン』『お坊ちゃん』とかの扱いがずっと続いた……。紗恵も知ってるだろ?」
「…
うん」
「正直…
辛かったよ」

一也のその言葉と同時に、あの岡本の四角い顔が頭に卑しいほど浮かんでくる。
歯を食いしばる彼の横顔を見ながら、紗恵は黙って聞いていた。
「だから、紗恵との時間はとても安心してた。俺が入社したばかりの頃から『無理しないでがんばれ』って言ってくれたのは、紗恵だけだったから」
「一也……」
「俺は紗恵から色んなものをもらった。色んな思い出も作ることができた。だから、これからも……」
その言葉を交わしたのを最後に、二人は気がつくと抱き合っていた。

「俺…紗恵が好きなんだ。ホントにホントに好きなんだ」
「私も……一也をいっぱいいっぱい大好き」
「子供も……作りたい」
「うん……」
時は23時過ぎ……一也と紗恵は、激しくお互いを求め合い始めた。

「一也ぁ」
「うん」
二人は生まれたままの姿で、結ばれようとした-


その時だった。
一也の部屋のドアが、『バキン』と何かが外れたような激しい音をたてた。
「キャッ!」
「な、なんだ!?」
紗恵と一也は抱き合ったベット上で、一斉に音のした方を振り向く。
すると、鍵をかけたはずの部屋のドアはギィ……と音をたてながら、ゆっくりと廊下の明かりを部屋へと入れる。

「うっ……」
暗闇に慣れた一也達の目にまばゆいばかりの光が差し込む。
「何だ……?」
そう言って目が次第に慣れてくるど、一也は明るい廊下に照らされる一人の人影を確認する。

「えっ…」
一也と紗恵は絶句した。
暗闇の外の廊下でじっと自分達を凝視している人物がいたからだ。
150センチ半ばの高くない背丈、荒れる呼吸、両足にはどこかで見慣れたスリッパ。
そして右手に工具のような鋭利な物体を持ちながら、鬼女のようにギロリと二人を睨んだその人物は、一也の母だった。

「お、オフク……」
一也は驚愕のあまり、言葉にならなかった。
「な、なんで……いや……」
紗恵も思わずそう口にする。
すると母は、一枚のタオルケットに包まる二人の現在の状態を分析するように視線を左右させる。










そして、事は起こった。










「この女狐ぇぇえ!!!」
母は突然狂ったように二人のもとに飛び掛かった。

「うわぁああ!!」
「キャアアァァア!!」
母は一度一也をドンと突き飛ばすと、その恐ろしい視線を紗恵一人に向けた。
「お……おかあさ-」
「あんたみたいな淫乱女にお母様とか言われる筋合いなんか無い!!!」
すると母は、その左手で紗恵の髪の毛をグイっとわしづかみにした。

「イヤァァアぁ!!」
紗恵は恐怖と痛みで信じられないほどの悲鳴を上げた。
「痛いっ!やめてくださいぃ!!」
「痛いじゃないんだよこの馬鹿雌が……人の大事な息子をたぶらかしやがって」
母はまるで人格を一変させたような口調で紗恵に言い放った。

「た……たぶらかすだな……痛いっ!!やめてぇえっ!!」
「うるさい、うるさいうるさい!!」
母は紗恵の髪を掴んだ左手を執拗に引っ張り、平手にした右手を思いきり振り下ろした。

「キャアァっっ!!」
その右手は紗恵の顔面や頭と恐ろしい勢いで衝突し、鈍い音を上げる。
その際に紗恵の悲鳴はまたさっきとは異なった狂気のメロディを奏でた。
「うるさい!!このっ、このっ、このこのこのっっ!!!」
母は無抵抗で泣きながら悲鳴を上げる紗恵の顔を次々と平手打ちした。

「オフクロやめろ!!」
一也が狂った獣のような母を止めに入った。
「お前は黙ってろ!!」
母は、全裸の一也の股間に右足で蹴りを入れた。
「ぐっ……!!」
一也は一瞬で床に突っ伏して、苦悶の表情を見せる。
彼が伏せたのを確かめると、母は再び異常な泣き顔の紗恵にその視線を向けた。

「この女……初めて見たときから思ってたけど、こんないやらしい身体で……!」
母は露になっている紗恵の乳房をバチンと叩いた。
「イャアァアァ!!」
「うるさい!!騒ぐな!!この胸が、この尻が、うちの一也をたぶらかしたんだ!!!えぇ!??」
母は左手で掴んだ髪をグイグイと引っ張り続けながら、紗恵の身体の至る所を足蹴にした。

「イヤァァア!!何でこんな……!信じられないっ!!」
「信じられない!?この雌豚が……人様の家で平気で息子と交尾する雌豚が生意気なこと言うんじゃないよっ!!!」
母は紗恵への平手打ちと足蹴を、再び乱れるように繰り返した。
「いやっ!!やめてぇぇえ!!」
部屋を突き抜けるような紗恵の悲鳴が、伏せて動けない一也の耳に刺さる。

「紗恵ぇ!オフクロやめろ!やめてくれぇえ!!」
「うるさい!お前もボンボンのくせに親に逆らいやがって!!こんな女……こんな女こんな女こんな女こんな女こんな女ーーー!!!」
「イキャアァァアァァ!!」
母の止まることのない虐待のような行為に、紗恵の美しい顔は恐怖と痛みに見たことのないような醜い形相へと変化していた。
それに伴い、悲鳴も著しく動物の鳴き声のそれに近いようなものへとなっていた。

「紗恵……チクショウ!!やめろよオフクロ、やめろっ!!何でこんなことするんだ!!」
母はピタリと手を止め、床に突っ伏している一也に目を向けた。
そして、唾まみれのその口をゆっくり開く。

「あなたのためよ一也。こんな女はあなたには合わない」
「なんでオフクロがそんなこと決めるんだ!俺にとって紗恵は……」
「会社での安らぎだったんでしょう?無理しないで頑張ってって言ってくれたんでしょう?それだけでしょう?」
連続する異常なまでの『でしょう?』に、一也はハッとした。

「なんでそのことを……なんで俺達しか知らないことを知ってるんだよ!!」
「子供を作る?こんな汚い女と?ふざけるんじゃないわよ!!」
一也はさらにハッとした。紗恵も大きく目を見開いた。
二人とも、体中がブルブルと震え出していた。

「子供つくること……さっき初めて言ったばかりなのに……。静かに言ったから聞こえるはずもないのに……」
紗恵はボソッとそう言うと、何かに気付いたように母を見た。
 

「まさか…」
紗恵はその表情に映る恐怖の色をさらに濃くした。
「私と一也は……この部屋は盗聴されてた……!?」
紗恵が涙ながらにそう言うと、一也の目は一瞬にして大きく開いた。
「な、何だって?盗聴……??オフクロ、マジなのか?」
一也の声が震える中、母は何もなかったように答えた。


「そうよ。一也、あなたの部屋には盗聴器がしかけてあるの」
「な……何でこんな?何でこんなことしたんだ!」
「何って、あなたのことが心配だったからに決まっているでしょう?お母さんの気持ちもわからないのあなたは?」
母は、まるで『当たり前でしょう?』と言わんばかりに一也に言った。

「……俺の部屋……盗聴されてたなんて……!」
一也はもう喋れなかった。
いや言葉を発する気力をパッと失った。
「……」
一方の紗恵は、茫然としながらぽろぽろと大粒の涙を頬に流すだけだった。
母が傍若無人に暴れたのが嘘だったかのように、その場は不思議なほどの沈黙に覆われていた。



その時だった。
「一体何事だっ!」
壊れたドアもとから、バスローブ姿の一也の父がそこに怒鳴り声を発した。
一也・紗恵・母は、一斉にそっちを見る。
やはり驚いたのか、父はその状況を見て目を丸くする。
特に裸になっている紗恵姿を凝視していた。

「もう……イヤ」
紗恵はそう呟くと、父の視線もありってかタオルケットを身体に強引にかける。すると、目の前にいる母を突き飛ばしドアもとに走っていた。
「ギャッ」
母は思わずそう叫ぶ。
「さ、紗恵!」
一也は徐々に蹴られた下腹部が回復してきたのか、少しずつ立ち上がった。

「さ、紗恵さん」
そう言う父の前をダッと走り過ぎた紗恵は、廊下の方へと走り去っていった。
「紗恵ぇ!待ってくれ!」
全裸の一也は走り去っていく彼女のもとを追った。


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