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序文

 「よう、元気か?」って会ったときによく言うけども、僕もよく言うけども、考えてみれば元気かどうかってそう簡単に判断できることじゃないよね。普段からテンション高い人とかは普段と比べて元気がなくても、他の人と比べれば普通くらいかもしれないし、その逆もまたしかりだしさ。なんて思ってみる。もう4月も終わりだねぇ。気づかないうちに桜も散ってたなあ、お花見は行かなかったよ。でも、お花見のシーズンあたりに何の関係もなく上野に行ったら、人でごった返してたなあ。喫茶店も満室だった。こういう種類の「ごった返し」ってさ、自分がそれに加担している時はそのウザさに気づかないけど、自分と何の関係もないイベントの時は途端に腹立たしくなるものである、という感じのエッセイ書く人って結構いるよね。入学試験の国語の問題文に出題されるようなやつ。僕はそれに加担している時でも周りの人がウザいけどなぁ。就活とかでもさぁ、人が多すぎてウンザリして「俺以外全員帰ればいいのに」って思うもの。

 就活って言えば、全然内定出ないなあ。その気配がない。こんなもん書いてないで履歴書を書けよ、って話なんだけどね。まあ、いいのさ。ゴールデンウィークだしさ。しっかり休んで気持ち切り替えて頑張ります!と「意識の高い学生」っぽいことを言ってみる。けっ、馬鹿馬鹿しい!

 とは言うものの、心はそれほど荒んでいない。驚くほど穏やかな気分ですらある。「野に下り、落ちぶれてみるのもまた芸の肥やしだなあ。」何て思ったりする自分がいる。こういう所が良くないんだろうな、必死じゃないところが見抜かれちゃうんだろうな。

 最近、稲垣足穂の「弥勒」っていう小説を読んだんだけどもさ。壮絶貧乏になっちゃって、でも働かなくて、「飯食いてえ」ってほざく小説なんだ。ああいうのってカッコイイな、って思っちゃうもんな。父ちゃん、母ちゃん、ごめんよ。

 さて、今月の月オパ(第7号ダゼ!)は、多良鼓氏と鶴首氏はお休みです。来月は書いてくれるかな、どうかな?という感じですが、まあ「勝手に」やっている雑誌ですので、頑張ることもなく好きなペースでやっていこうと思います。

 弦楽器イルカさんが3月号掲載の小説『四月に見る夢 Ⅰ』に続き、『四月に見る夢 Ⅱ』を寄稿してくださいました。また、「終わりを持たない文章のあとがきにかえて。」という題の文章も寄稿してくださったので、「エッセイ」に掲載しました。出すぎたマネだとは思いますが、素晴らしい小説を本誌に寄稿してくださったことへの精一杯の謝意を込めて、感想を書きました。こっちは別に読まなくてもいいよん。

 あと報告はね、東町健太氏が今まで月オパで書いてくれたエッセイをまとめた作品集を近々刊行する予定です。今東町氏にあとがきを書いてもらっているところです。今後もどんどん月オパで書かれたものを書籍化していきたいね。雑誌っぽいじゃん。

 では、月オパ4月号をお楽しみください。

(2012年4月29日)

 


第二回(完結)『四月に見る夢 Ⅱ』 弦楽器イルカ

不定期連載小説 第二回

『四月に見る夢 

執筆者 弦楽器イルカ

 

私はナイフを握り締め、深い眠気に誘われてゆっくりと目を閉じる。

クリック・

 

 

 朝、飛び起きたとき、イヤな夢をみたと思った・しばらく動けないほどイヤな夢だった・

 でもしばらくすると、それがどんな夢だったのか・思い出そうとしたけれど、まるでつるりと滑るノブのように・いったいどんな夢だったのか・そもそも、僕は本当にそんな夢を見たのだろうか? よくわからない……

 それでも、不安がまとわりつくような汗と胸騒ぎだけは今も消えずにあるから、僕はやはり夢をみたらしい・それに、イヤな夢をみるだけの十分な理由はあるのだ・十分すぎるほどだ・

 

 もうちょっと寝ていようかとも思ったのだけれど・あの物語の続きを書いてみようと思い、やはり起きることにした・カーテンを開けると、昨日と変わらない雪・白い世界の向こうに遠く・積み上がった瓦礫の頭が見えた・慣れ親しんだその光景になぜだか少しホッとした・まだ大丈夫だ・

 静かだった・あの日から何一つ変わっていないみたいだ・相変わらず人はいなかったけど、でも今は雪の朝なのだ・いつもだってこの時間には・時計を・見てから思い出した・そうだ・時計はもう止めてしまったのだ……

 うまく言えなかった・言えそうになかったし、試す気にもなれなかった・胸にせり上がってくる何かを目をつむってやり過ごして、もう一度だけ外に視線を・救いを求めるみたいに・でもムダだった・もう外には、何もなかった・何もかもが変わったのだ・世界の始まりを予感させる輝きが今では・殺伐とした静物画みたいな風景の中で色褪せて・何もかもが終わった・もう何一つ始まりはしない・いや・そんなもの初めからなかったのかもしれない・

 辛くなった・目眩みたいで、床に膝をついて・でも涙は出なかった・やっぱり出なかった・もっと、もっと本気で生きてきたなら、きっと泣けたんだ・僕は今まで、生きていることの大切さなんか、ひとっつも気づかなかったのだ・

 

 ただ思い出す・もしあの時・降り出した雪に危険を感じた人々と一緒に逃げていたら・僕は助かったのだろうか・それとも・あるいは・でも・

僕はあの日もぼんやりと雪を眺めていた・この町に留まりたいと思ったワケじゃない・逃げる理由と場所がなかっただけだ・そして雪が町を真っ白に染めた後では、逃げ出すにはもう遅すぎた・これまでもずっと・いつもそうだった・

 そこに山がある・僕はそこから何かを拾い出すチャンスが与えられる・そこには確実に、努力して探しさえすれば手に入る何かがあるのだとわかる・だが僕にはそれを見つけ出すことができない・周りにいる僕と同じ年恰好の子どもたちは次々に自分の山から何物かを掘り出しては、意気揚揚と引き上げて行く・僕はそれを横目に山を掘り続け、気づけば一人取り残され、遥か山裾に夕日が真赤に滲む・そして僕は瓦礫の一部となった自分を受け入れた・

ずっと長いこと、たくさんの物を畏れ、逃げ続けてきたと感じる・僕の手に入る物は残りカスみたいだと思った・寄せ集めのバラバラな断片を抱え・ちぐはぐに溶接された継ぎ目は脆く、一つ一つがいびつに膨らんだり縮んだりしている・誰かが整理し直さなければならないが、僕にはできそうもなかった・ただ繰り返す毎日に、僕はまた同じような僕を重ねるだけ・そうして諦めて佇む眼前で山は掘り返されぬまま、赤い夕日を受け奇妙な形の影を作った・

 それが、あの瓦礫だ・後回しにしてきた断片の関の山だ・

 

――地鳴りのようなその音はまるで、地球の終わりみたいに聴こえた・

地下から穴を開ける様な大きな音・驚いて一階へ駆け下りようとして・階段の途中で、眼下・ボコッ・玄関に巨大な穴が開いた・本当に穴を掘る音だったのだ・

「こんにちは」

 大きなゴーグルと、鼻の頭に小さな泥を付けた・キュートと形容されるような・ポニーテールの少女がこちらを見て微笑んでいる・こんにちは?

「ねえ、話は後よ、もちろん質問したい気持ちは分かるけど。今は時間がないの、現実に追いつかれてしまうから。物語の速度を緩めちゃダメ。いい? あたしについて来て」

「は?」

 思わず声が裏返って、それが一年ぶりの会話だと気づいて焦る・

「ねえ、あたしは未来から地下水路を辿ってあなたに会いに来たの。未来のあなたが、過去のあなたを瓦礫の町から救いたくて地下潜りのマスターに頼んだの。それであたしが派遣されたってワケ。地下水路の秘密をあたしに伝授した髭の長いマスター・コウ・レナイ曰く、全ての道はローマへ、全ての地下水路は未来へってことね。だからこの地下水路を抜ければ、未来のあなたが出口へ導いてくれるはずよ。さ、一緒に行きましょう?」

 その時、穴から勢いよく小さな塊が飛び出してきた・「ワン!」と一声吠えたそれは小型犬・ビーグル犬か何かだ・

「申し遅れたわね。あたしはルナ。この子はムゥよ。つまり、ちょっとしたスピンオフってワケ」

「え?」

「本当はあたし、『月』の後は『密室』に出る予定だったの。でもイマイチ気乗りがしなくてね、ゲームのスピードに。現実に追いつかれそうでさ。だからこっちへ出て来ることにしたの。それで密室にはお決まりの犬が出てこなくて、こっちには二度登場するってワケ、あたしがこの子をこっちに連れて来ちゃったから。ま、不在の在ってことよ。なんせ集大成だしさ、こっちは。犬が一匹増えたり減ったりするくらい多めに見ろって話じゃない?」

 彼女が何を言っているのか・僕には・

「いいのよ、大した話じゃないし。会話は現実に追いつかれるから。それよりもあなたをここから救いたいの。ねえ、時砂を避けて逃げましょう。未来のあなたがきっと導いてくれるから」

 なんだかよくわからなかった・僕は行く気になっているのだ・

「わかった。行くよ。ジャンパーを着るから待ってて」

 僕は慌ててジャンパーを羽織り、ボタンの金具を留めた・

 パチン。

 

 

その音で現実へ連れ戻されるように、私は夢の中で目を覚ます。

「ねえ。もうすぐ少年がやって来るわ。心の準備は出来た?」

 彼女の声は悪びれずに明るい。

「準備?」

「その右手のナイフで刺し殺すの。あなたは忘れてないわ」

 握りしめた右手の重みに私は気付いていた。だがそれで誰かを刺そうなど、しかも過去の自分を殺そうなどとは……。

考えられない。

「ねえ。人間は区別されているのよ。少し前に、偉い人や家族が瓦礫の町に移り住むって議論もあった。『風評』を払しょくするために。でももちろん、そんなのは鼻で一笑されるただの極論、実現なんてしなかった。つまりこの世界には、危険な場所に住み続けていい無名の人間と、安全な場所に隔離される有名な人間がいる。同じ人間でも名前によって、そういう区別がちゃんとあるのよ。

あの少年はだから、あなたに殺されていい人間なの。そしてあなたは、あの少年を殺していい人間なのよ。戦争と同じ。人を殺すことが称賛に値するのよ」

それこそ極論だ。あり得ない。

「いいえ、殺しなさい。未来を救うために。みんなそうやって過去を殺したんだから。あとはあなただけなの。自分だけ手を汚さないのは卑怯よ。あなたが殺さなかったら、みんなが迷惑するのよ。それが絆でしょ?」

違う。それは絆じゃない。

「いいのよ。ただのフィクション、嘘なんだから。あなたがあの少年を出会い頭に刺せば、あとはあの瓦礫の町に過去を封じ込めて時砂が全てを真っ白に染め上げるだけ。何もない白紙の世界へ還るわ。みんな見て見ぬフリをしている、この瞬間も。ホラ、わかってるでしょ? 誰もがやっていることなのよ」

 私にはわからない。握りしめたナイフがどんどん重くなり、持っていられなくなりそうだ。しかし指に吸いついたようなそれは手放すこともできず、私は重さに耐えきれずへたり込む。

「ねえ。あなたはただ目をつむって、そのナイフを構えるだけよ。そこに少年が飛び込んでくる。過去のあなたは、本当はもう苦しみに耐えきれなくて殺されたがっていた。そうでしょ?」

 そうかもしれない、と私は思う。しかし、そうだとしても……殺してどうなる?

「あなたは晴れてこの新しい世界の一員になれるわ。誰一人瓦礫にとらわれることのない、夢の未来が語られる世界」

だがそれでも、瓦礫が消えるワケじゃない。あの町に残り続ける。

「そうね。過去の遺体と一緒にね。でも過去を殺した新しい世界から遠巻きに見る瓦礫は、まっ白でとても綺麗よ。喪失から再生へと未来だけを見つめ、美しい復興のビジョンが語られる世界のいったい何が悪いの?」

わからない。ただ今でも覚えている。当時の私はひとり、窮屈な部屋の中で将来の自分に向かって、ここに閉じ込められていた日々を決して忘れるなと訴えかけていた。いつかこの部屋を出て今よりも日当たりの良い場所で暮らせるようになりたい。しかしそうなったら、今こうして苦痛を味わっている過去の自分はただの踏み台として将来に忘れ去られる。

瓦礫の町に横たわる多くの遺体から、同じ言葉が聴こえる気がする。私たちを忘れるな。お前の笑顔の裏に眠る亡霊の存在から決して眼を逸らすな、と。

「人はいずれ死ぬわ。生きている今をめいっぱい楽しむことが、そんなにいけないことかしら?」

 犠牲になった声はどうする?

「誰のせいでもない。もともと世界はそういうふうに出来ているから。だから、あなたはもう刺すしかないのよ。ねえ、はじめから知っていたでしょ? ホラ、足音が聴こえるわ。もうすぐよ。少年はもうすぐそこの曲がり角まで来ている。あなたは黙ってナイフを構えるだけ。だって、今までもあなたは見捨てて来たんだもの。この世界のたくさんの犠牲者たちを。穢れにまみれたその手を今さら引っ込めることはできない。さあ、立ちなさい。目をつむって、ナイフを掲げるのよ」

 そして私はゆっくりと立ち上がり、目を閉じる。ナイフを胸元に掲げ、切っ先を虚空に向ける。足音が二つ聴こえる気がする。なんて早いんだろう。この物語は。

 私が10代の末に考えていた物語は本来、こんな物ではなかった。だが今、私はこの物語の中であの頃の自分と対話している。少年の息遣いが聴こえる。私は、ゆっくりとナイフを前に突き出した。

クリック・

 

 

 僕は薄暗い地下水路を、ルナと名乗る少女の後ろについて走っている・その足元にはムゥと呼ばれるビーグル犬が、小さな体躯で激しく上下に跳ねながら・じゃれるみたいについていく・彼女のポニーテールと犬の尻尾がまるで、仲の良い双子みたいな揺れ方で・つい面白くて見とれてしまう・

「ねえ、教えてくれない?」

 後ろを振り返らず彼女が僕に尋ねる・

「え、何を?」

「あなたが今書いている物語。未来のあなたが、過去に書いていた物語のことを気にしていたの。ちょっと気になるのよ。もうあたしには読む時間がないから、今教えてほしいの」

「いや。大した物語じゃない。夢の話だよ」

「どんな夢?」

「父親が死んだ娘と旅に出る夢。部屋に帰ると一人娘がソファに横たわっていて、脈がなく死んでいる。慌てて玄関から飛び出すと、外で娘が待っている。父親は娘を抱きしめ、手をつないで旅に出る。しかし、一瞬で見失う。

 その後、黄色い象に救われて砂漠を歩く。そこは砂時計の中で、光る砂が降っている。やがて砂時計が大きな音を立てて回転し、父親と象はシェルターへと避難する。

 そのシェルターの中は過去の自分の家で、そこで父親は過去の自分、少年と出会う。少年はひどく絶望していて、いつか自分がその絶望に呑み込まれて巨大な怪獣になることを恐れている。そしてそうなる前に父親をナイフで殺そうとする。間一髪、象が父親をそこから助け出す。

 シェルターを出た父親は、象と砂漠を再び歩き出すと、何者かが迫る足音が聴こえる。それが何か象に尋ねると、象は逆に父親に尋ねる。私はいったい何のために生まれたのかと。父親には質問の趣旨が理解できない。だが象は質問を変えず、父親に再び問う。考えろ、私は何のために生まれたのか。父親は考える。そして、象が死ぬことに気付く。象は答える。私が希望の象徴としてこの夢の砂漠に生まれたのであれば、私はあなたのために死ぬのだろう。それならいい。見ていてほしい。そして象は巨大化して破裂し、心臓から血が飛び散り、光る砂の色が赤く染まる。

 赤い砂の降る砂漠で、足音の主である黒ヒョウの群れが現れる。しかし、黒ヒョウの群れは父親に挑みかかる前に紙片のように燃え上がってしまう。希望を含んだ血の砂が黒ヒョウの絶望を焼いたのだ。そして炎の中から二足歩行でマントをつけた黒ヒョウがゆっくりと現れる。無駄だ。私の絶望はお前の一部だ。私を焼くことはお前にはできない。

 父親は思う。私の中に絶望があり、それが私を殺そうとしている。でも私はもう、殺されてもいいような気がしている。そのとき、娘の声が聴こえた気がする。

 娘は少年に会いに行く。少年はひとりで、誰かに会いたくて、恋をしたがっていることを娘は知っている。そして娘は、少年に好きだと告白する。少年はそれが嘘であることに気づく。ただ嘘でもその言葉の持つ甘さから逃れることができず、娘がその言葉で少年を孤独から救おうとしているのを感じる。そして、少年は娘の望みを叶えるために利用されることを受け入れ、巨大な絶望の怪獣となる。

 絶望の怪獣は、黒ヒョウをあっさりと踏みつぶす。そしてその脇で自分を見上げている黒い点、父親を踏みつぶさずに去って行く。

そこで紙芝居は終わり、最後に娘がおしまいと手を振っている。父親は現実の娘が一年前に死んでしまった事実をそこではじめて受け入れると、ゆっくりとその夢から目覚めるんだ」

「複雑な物語ね。でも、なんとなくいい話って思うわ。なんで完成しなかったの?」

「いや、違うよ。こんなふうにプロットを整理できなかったんだ。今まで書いたのは断片がもっとごちゃごちゃに入り混じって、そもそも物語の体をなしてなかった。自分でも驚いてる。初めて他人に話したせいだろうか。まさかこんなにプロットが整理されるとは思わなかった。すごく不思議だよ」

「それはね。未来のあなたが過去を塗り替えようとしているからよ」

「え?」

「そのプロットは未来のあなたが考えたの」

「どういうこと?」

「未来のあなたが今、過去に介入しているの」

「どうして?」

「過去の自分を殺すために」

「え?」

「もうすぐよ、その角を曲がったら。ホラ」

次の瞬間・不意に大きな衝撃を胸元に受け、僕は倒れた・

パチン

 

○●

 

 いつか私は、歩いている街角のど真ん中で突然、行き先を見失なうようになった。人の流れに立ち尽くし、どこにも行けずその場で座り込んでしまう挫折感を必死でこらえた。店の軒先には無数の自販機が並び、喉を通った瞬間に味も匂いも忘れていく食べ物は吐いて捨てるほどあるのに、ここには私が欲する本当はなかった。

 それは私のせいではない。この世界を一変させる本当が今はまだ見つけられないだけで、それはずっと誰のせいでもなかったんだ。

 ひとり、帰りついた部屋で灯りを点け、ベッドに腰を下ろし、疲れた身体を癒すように両手で顔を覆う直前に固まった。

 そんなことしてなんになる?

 遅かった。私は手を下ろそうと、だが下ろせず。

 そんなことしていったいどうなるんだ?

 その声がやってきて私をがんじがらめにした。眼前に浮かぶ手はそこから上げることも下ろすこともできず、ただワケのわからないままじっとりと汗が、まずい、こんな手の平を見つめたまま意味もなく固まる人間なんて。

必死で、手が震え、顔が歪み、喉の奥を塞ぐ重石のような息を吐き出そうとかすれる声が、あ、ぁあ、ぁ……それは声にならず、バカみたいに大口をあける自分がひどく恐ろしくて、必死になって。

「…ぁ、あぁあああ!!」

 

 それ以来、何かするたびに僕の中で問いかけが起こった・それは本当にしたかったことなのか? 何か感情を表に出そうとして、僕は何度も固まった・おい、お前は今本当に楽しいのか? お前は今本当に笑っているのか?

 僕には、自分が笑っているという事実を確認するだけで精いっぱいだった・何度も何度も確認した・笑っているから、僕はおかしいに違いないのだ・ただ僕はもう、感情に必要とされてはいないのだと思った・

 忘れてしまいたいことは忘れられるようになり、しかし覚えていたいことも同様だった・あらゆることを忘れていく中で、今度は記憶の出来事にも必要とされていないと気づいた・それはつまり、自分自身が必要ないのかもしれなかった・だが、だとしても、もちろん、自分を不必要とするその手段を試すことはできなかった・なんとなくだ・でも・しかし・

 

おそろしいほどはっきりとした手ごたえが、ナイフを握る手から伝わってきた。

ゆっくり目を開けると、眼前で胸から血を流し倒れているのは少女だった。

私が刺したのは少年ではなかった。後ろから来た少年は少女にぶつかって、その後方に倒れていた。痛みをこらえる少女のうめき声が、地下水路内に呪詛のように反響する。

 何も言えなかった。あのとき、フィクションだからと彼女は言った。これはしょせん文字列が生み出した殺人だ。それならば、クリック一つでデリートできるはずだ。私はゆっくり目を閉じる。眠気が全身を包み込む。もう一度起きた時、私は過去を刺し殺し、新しい未来を手に入れようと決意する。

クリック。

 

 

ゆっくり眼を開けると、眼前で胸から血を流し倒れているのは少女だった。

 いや、違う。それはさっきデリートした光景だ。これはフィクションで、ただの夢なんだ。

クリック。

 

 

ゆっくり眼を開けると、眼前で胸から血を流し倒れているのは少女だった。

 違う、少女じゃない。私が刺したのは少年だ! 私は過去を殺したいんだ!

「違うわ。あなたは過去を殺したいとは思ってない」

「違わない。私は過去を殺したいんだ。この少年を!」

 私はそう言って、血まみれのナイフを右手に、少年に向けて振りかざした。

「無理よ。あなたには殺せない。たとえフィクションでも、いいえ、あなたが書くフィクションだからこそ、理不尽な殺人を犯したいとあなたは思わない。過去の自分をナイフで刺し殺すなんてあなたにはできない」

 倒れている少年が驚いた顔で私を見つめている。私は見返すことができない。なぜこんなことを。私の疑問を見越したように、彼女がゆっくりと続ける。

「あたしは、あなたと少年を引き合わせたかったの。このままだとあなたも無自覚に過去を殺してしまうから。誰もがあなたと同じように、自覚もなく過去を殺そうとしている事実に気付いてほしかった」

 だが私は、確かに少年を刺し殺そうとした。どう償っても、許されることではない。

「死にたくない」

 少年の言葉に私はうつむく。少年が私を見上げたまま・僕はその人を見上げながら、本当に本心の言葉を・弱音がやっと口をついて出てくる・

「苦しいよ。生きることが、とても。でも死ぬのはイヤだ。だからどこにも逃げられない。助けて。殺さないで。過去に閉じ込めないで。未来に逃げたい。殺さないで。僕が本当に未来まで、あなたまで生きられるって教えてよ。いつかあの物語を完成させられるって。今はダメでも、将来ちゃんと夢は叶うって。約束してよ。僕は生きられるって。絶対大丈夫だって。約束してよ」

 私はこたえることができない。誰も、その問いにこたえることなどできるはずがないと思う。

 だがそこで、少女は笑った。まるで何ごとも起こらなかったかのような会心の笑みとそれに続くこたえに、私は目と耳を疑う。

「大丈夫よ。あたしが守るから。この物語が、あなたを殺さない。これからも無数の物語が、ここから続くたくさんの人々の祈りが、あなたたちを生かす。信じて。あなたたちの絶望を、私たちは知っているから。大丈夫。フィクションでも人はそう簡単に死なないのよ」

 そう言うと彼女はのっそりと、まるで亡霊のように立ち上がる。そして、胸元から何か、赤く濡れた厚い、辞書のような物を取り出した。真中にざっくりと切れ込みが入っている。

「ね、フィクションなの。嘘って言ったでしょ?」

そんな、古典的な……

「あたしが登場したってことは、そんなシリアスに物語は終わらないってことよ。ねえ、それよりも聴かせて。その声を。未来のあなたと過去のあなたに、一緒に語ってほしいの。過去を閉ざそうとする世界の人々に風穴を開けるために。外の世界へ通じるこの地下水路から、本当の想いを叫んで。ねえ、あなたに語ってほしいの。過去も未来も切り捨てることのない、新しい夢の物語を。

その音は決して終わりだけじゃなくて、始まりの音でもあるのよ。さあ、目を覚まして。黄色い象を平原に還すために、あなたはいったいどんな物語を描くの?」

 そして僕・私は、新しい物語の夢を描くためにワープロ・パソコンを再び立ち上げる。

パチン・

クリック。

 

 

 それはなんてことはないある春の晴れた昼下がりで、私はちょっとした用事から家に帰ってみるとソファの上で娘が死んでいた。

リビングの真ん中にある白い大きなソファを斜めに占拠して、私の一人娘がうつぶせに倒れていたのだ。白いカーテンからうっすらとまるで毛布のように、黄色い陽射しがその腰の辺りにかかっていた。

 急いで駆け寄ったが手首は驚くほど冷たく、持ち上げると指がだらりと垂れた。ごくりと唾を呑む音がまるで部屋全体を呑み込むように響いた。

「どうして……」

 娘はまだ六歳で、そんな簡単に死んでしまえるような歳ではなかった。持ち上げた指から伝わる冷えた骨をつまむような違和感が異様さを伴い、不安が鳥肌となって全身を駆け巡り私はその手をゆっくりと戻した。肌の白さが目から離れなかった。

娘はすぐに起きなければならなかった。すぐ起きるはずだ。私は待った。

眠そうな目を開けて私を見つめ、右手人さし指の腹で右目をこすりながら、その小さな鼻腔で新しい呼吸を始めるはずだ。すぐに小さな口が大げさに開き滑稽なほど大きなあくびをして、何事もなく満足げな視線で世界を見渡す瞬間を、私は待った。

だが、娘は起きなかった。眠ったように死んだまま、私が待っていることなど意に介さず、娘は死に続けた。

「ねえ、どうしたの?」

不意に背後から呼びかけられ、私は答えることができない。

「ねぇ、いったい何があったの?」

再び妻が私に問いかける。私は答えない。正確には、答える言葉を持たない。どのように答えようと、彼女は理解しないのだ。彼女はただ自分の現実を私に理解させようと、問い正しているにすぎないからだ。

どこで間違えたのだろう。いったい何が本当だったのだろう。どうしてこうなってしまったのだろうと自問自答する私に、妻はもう一度背後から、ゆっくりと尋ねる。

「ねぇ、どうしてこんなことにならなくちゃいけないの?」

 慌てて右手にジャケットをつかみ、靴を履くのももどかしく玄関のドアを開ける。

 ドアの外へ飛び出すと、数メートル先に自宅用の白いポストがある。いつもの風景だ。

その脇に、娘が立っていた。どこかで待っていてくれるだろうとは思っていたが、まさか目の前に立っているとは思いもかけず、私はしばし呆然と娘を見つめた。それはポニーテールを下げたいつもの上目づかいで、私は思わず笑みがこぼれた。

「やぁ、待ったかい?」

「ちょっとだけ、待った」娘はそう言って笑った。

「そうか」

「どうしたの?」

 どうしたの? というその問いに、私は言葉もなく、本当にどうしたのだろう。

答えのないまま、私は娘に駆け寄る。膝をつき、その両肩をできるだけやさしく、しっかりと抱く。娘は不思議そうな表情のまま、新しい息を吸う。娘は生きている。静かに息を吐く。彼女は呼吸していて、生きている。

 私は娘を両腕に抱いたまま、きつく目を閉じて祈るようにつぶやく。

「おかえり」

 

 


第二回「その「声」は「誰」の声?」 東町健太、オパーリン

第二回

「その「声」は「誰」の声?」

執筆者 東町健太、オパーリン

 

・企画趣旨

 とある大新聞に日がな寄せられる読者の「声」。その声は一体誰の声なのか?何を代弁しているのか?国民、労働者、女性、弱者、子供、はたまた単に「我々」という曖昧な共同体意識か?気になって読んでみれば、これまたびっくり、とんでもない・・・、いやいや思わず溜息がこぼれるほどのすばらしき投稿ばかり。

 ということで我々オパーリン王国では東町健太氏を委員長にすえ、「『その「声」は「誰」の声?』委員会」を結成した。当委員会では毎月、これらの投稿の中から特に秀でた投稿について勝手に表彰し、講評を行うこととする。

 

・『その「声」は「誰」の声?』委員会 メンバー紹介

 選考委員長 東町健太

 選考副委員長 オパーリン

 

・2012年4月度 結果発表

〈大賞〉

「駅ナカ保育園、人気というが」

(保育士 女性 48才)

 

 駅ナカ保育園が増えているという。子育て世代には便利で人気も高く、鉄道会社にとっても沿線住民へのサービスとして重要とか。

 わざわざ駅から遠い保育園に送り迎えするなんて時間の無駄。保育時間だってなるべく短い方が良い。鉄道会社だって駅利用者の確保にもなるし、ありきたりのテナントよりきっとイメージもいいだろう。お互いの利益が一致している。

 でも、何か引っ掛かる。子どもはそれでいいのかな?

 人が行き来する駅って落ち着かないんじゃないかな?近くに公園はあるのかな?太陽にあたり土や水に触れられるのかな?子どもの成長過程において無駄だと思えることが、後から影響が表れたり、大事な意味を持ったりするような気がする。あまり大人の都合で考えないでほしい。

 でもそんなこと言っても好環境の保育園はなかなか入れないし、共働きしないと生活できない。大人にきっと余裕がないんだね。

 

〈講評〉

・東町健太(選考委員長)

 この文章を読み終えてずいぶん長い間、溢れる涙を止めることができなかった。人の心に潜む悪や醜さを全て受け入れ、そして全てを許す。イエス・キリストはこんな人だったのではないかと思う。

 筆者は誰かを批判するようなことはしない。まるで自らが思い、感じたかのように文書をつづる。自らが裁かれることによって他者の罪をあがなおうとする姿勢はまさにキリストだ。

 限られた時間の中でそれでも子どもを保育園に通わせようとする親心。それに協力しようとする鉄道会社。その関係を「お互いの利益」と斬って捨てる冷酷さ。

 「人が行き来する」「落ち着かない」保育園で「近くに公園」がなく「太陽にあたり土や水に触れ」られない環境で育った子どもの将来は暗いとでも言いたげな論調。差別にすらつながりかねない思考回路。それをあたかも子どもの立場にたっているかのようにみせかける卑怯さ。

 まさしく全て「余裕のない」大人の考えだ。しかし筆者は誰かを批判するのではなく、自らを醜く描くことによって、密かにそのような考えを持つ者を悔い改めさせようとしているのだ。なんという愛に満ちた方なのだろうか。当然、大賞に選ばせていただく。

・オパーリン(選考副委員長)

 最後の一段落、そこに集約されていると思う。普段母親たちがよく口にする「子供のために」という言葉の虚妄を見事に引っぺがしてくれている。「要するにテメエの都合だろうが!」と言いたいのだろうに、そこをグッと堪え、やさしい口調で「余裕がないんだね」と、あくまでも自発的に気づいてくれるのを待っている。気づく筈もない母親達だからこそそうなってしまったのだということを百も承知で。

 

〈佳作〉

「自宅で楽しくそろばん3級に」

(小学生 女性 11才)

 

 私は自宅でそろばんを楽しく練習しています。お母さんに勧められて、8歳で10級の教本から始め、今では3級になりました。

 3級の試験は先月ありました。一ヶ月くらい前から毎日30分くらい練習し、そろばん塾に通っている子どもたちと一緒に受けました。結果は一発合格。塾に通ったことのない私が3級だなんて、信じられないほどうれしかったです。

 私はスイミングや英会話の教室、学習塾にも通っていません。でもクロールは25メートル泳げるし、英語も学校の授業でいくらかはしゃべれます。だから、習い事に行かなくてもできるようになることはたくさんあると思っています。

 たくさん習い事に通っている友達もいますが、あまり楽しそうではありません。いやいや通っていると聞いたこともあります。

 習い事は楽しんでやるものだと思います。私は毎日10分、そろばん2級と暗算の教本で楽しく練習しています。もっと上達したいです。

 

〈講評〉

・東町健太(選考委員長) 

 小学生にしてこれほどしっかりした文章を書くというのは驚きだ。まず基本がしっかりしている。二つの意見や考え方を対比させて検証する際、まず一方のいい面ばかり取り上げ、次に他方の悪い面ばかりを強調するというのはアジテーションの基本である。そのあたりが非常にしっかりしている。

 塾や習い事に行かなくてもいろいろなことができる自分がいる一方、友達はいやいや塾や習い事に通っている。おそらくはそろばん塾に通っている子どもの中で3級の試験に落ちてしまった子もいるだろうし、スイミングに通っているにもかかわらず25メートルも泳げない子だっているかもしれない。スイミングにもそろばん塾にも通っていない筆者が彼らを見たときの優越感、爽快感というのは想像に難くない。このような文章を読めば誰だって習い事の無意味さ、滑稽さを悟るにちがいない。

 ちなみに私事だが、私も小学生のときそろばん塾に通っていた。自分が日に日に上達していくのがうれしく、とても楽しかった記憶がある。

・オパーリン(選考副委員長)

 「才能ない奴が幾ら金使っても無駄。」この誰もおおぴらには言わないが厳然たる事実を、11歳の少女が言ってのけた。成金の虚しさを斬る模範的なブルジョワ批判、「小さな活動家」の誕生である。人生は短い。自分の正しさだけが正しさではないかもしれない、などという自家撞着は全くもって無駄なことである、と私もこの頃に気づいていればと悔やまれる。

 猛烈活動家の輝く未来に心からの賛辞を送る。

 

〈佳作〉

「「政治家の家」へ行ってほしい」

(中学生 女性 14才)

 

 3月31日夕刊の「政治家の皆さん、福島を感じられますか?」を読んだ。山梨県の現代美術家の男性が、福島県南相馬市の警戒区域の少し外側に政治家専用の休憩所「政治家の家」をつくり、国会議員約100人に招待状を郵送したが、まあ返事はないという。

 私は昨年一月、ニュージーランドを旅行した。最も印象に残ったのはクライストチャーチ大聖堂だ。しかし帰国後、現地で地震が発生。損傷した大聖堂は解体されると聞き、悲しい気持ちになった。再建する時がくれば貢献したいと思う。

 ニュージーランド地震はもう世界的なニュースではないかもしれない。しかし、旅行で訪れ、住む人々や美しい街の景観を知る私にとって、ニュージーランドは忘れられない国となった。

 政治家の皆さんは「政治家の家」へ行ってほしい。そうすれば被災地への特別な思いが生まれ、被災者の皆さんの気持ちに寄り添った仕事ができるはずだから。

 

〈講評〉

・東町健太(選考委員長) 

 少女の「政治家の皆さん」への厚い信頼感にほのぼのとさせられる文章である。筆者は「政治家の皆さん」が「政治家の家」へ行きさえすれば、「被災地への特別な思いが生まれ、被災者の皆さんの気持ちに寄り添」うことができると心から信じているのがわかる。筆者本人は地震にあったニュージーランドにおいて最も印象に残っているのは現地の人々についてではなく「クライストチャーチ大聖堂」、つまりただの建物だといいきり、またどのように「被災者の皆さんの気持ち」に寄り添っているかというと「悲しい気持ちになった」「再建する時がくれば貢献したいと思う」程度にしか寄りそうことができていない。というかこれはほぼ寄り添っていない。このように、「被災者の皆さん」の気持ちにいっさい寄り添うことのできない自分を自虐的ともとれるような筆致で描きながら、それでも「政治家の皆さん」ならきっと、きっと寄り添うことができると筆者は語る。

 人を信じる。その素晴らしさを筆者の文章を読んで再認識させられた。筆者の純粋な主張に心が洗われた気さえする。筆者のひたむきな姿勢への賛辞を込めて、佳作とさせていただいた。

・オパーリン(選考副委員長)

 現代の『青春の蹉跌』だ。「政治家の家」に言っても何も感じないでいることのできる人間こそが、この日本においては政治家の資質があるとみなされているのだ。それではいけない、と誰もが分かっていながらも、そんなことがまかり通ってしまっている。

 筆者は近い将来、その事実に打ちのめされることになるかもしれない。その時、ただただ無垢であった筆者がどのよううに昇華するのか、私はそれに期待して本作を佳作に推した。

 

 


第四回『生き恥を、晒して足掻く、私かな』 オパーリン

 第四回

「生き恥を、晒して足掻く、私かな」

執筆者 オパーリン

 

・5「インポ。そして、生まれなかった水子達(とお詫び)」

 

 「さっきから黙って読んでいればダラダラ、ダラダラ、ダルダル、ダルダル、と。手前(てめえ)の事っていうか愚痴ばっかり書きやがって。まじでつまらないわ。こっちはお前のことなんてどうだっていいんじゃ。こんなもん小説じゃねだろ。早く話らしい話を書けや、ボケが!」という読者の声(クレーム)が聞こえてきそうな勢いである。そして僕自身が書いていて、そのような声が頭の片隅から聞こえてきている。が、本作『生き恥を、晒して足掻く、私かな』を書き始める契機、モーチブとなった側の僕(僕の頭の中には色々な人が住んでいて彼らはいつも喧しく喧嘩をしている)は落ち着き払っている。「慌てんな、全て計画通りさ。僕の壮大なプランは着実に遂行されている。」とのたまうている。そして今のところ、僕の中のメインの僕、つまりは意思行動決定権を持っている僕の中のボス的な僕も、本作の提案者である僕の言い分を信頼している。

 しかし僕とて、こんな代物をここまで読んでくれている物好き極まりない読者を愛しく思っていることは確かだ。愛している、マジで。だから、できうる事ならば読者のニーズと筆者の欲求とのギャップを埋めたいと思う。しかしながら、今回本作を書き始めるにあたってのテーマの一つとして、筆者の欲求を最優先する、つまりはマスターベーションを完遂する、ということに決めてしまっている。だから、愛しき読者へのせめてもの、せめてもの・・・。あれ。えーっとこんなときになんて言うんだっけ?言葉が出てこねーや。ま、仕方がない。愛しき読者へのせめてもの「アレ」として、先ほどのクレームに対して現段階での出来うる限りの対応をし、本作の今後の展望についても説明しようと思う。

 まず、「ダルダルしている、愚痴ばかり、つまらない」に対して。ごもっとも、その通りである。そして残念ながら、これについては現段階では筆者があなた達にして挙げられることは何一つない。精一杯書いており、これが現段階での僕の実力であるからである。が、希望を捨てないでほしい。本作は自身初の長編小説として始動しており、事が予定通りに進めば、かなり長い小説になるはずである。だから、書いているうちに少しは筆力が上達し、ダルダルせずしっかりと、面白くなるかもしれない。愚痴は、消えないだろう。

 次に「小説ではない」について。残念ながら、これは小説である。その理由については、前の章(4章)でも予告した「リアリティ」についての章で説明する。で、肝心なのはその「リアリティー」の章が一体第何章になるのか、ということである。現在までのところ、第五章まで書き進めているわけで、当然のことながらこの先はまだ書いておらず、したがってなんとも言えないのであるが、今のところの予定では「リアリティー」の章は第9章になるはずである。

 「おせーな、おい」という怒号が今確かに僕の耳にリアリティーを伴って聞こえてきたが、安心してほしい。その安心の理由は「話を書け、ボケ」というクレームにも関わってくるのだが、6章と7章はあなた方の言う「話」になる予定であるということである。つまり、次とその次ね。あなた方が期待するような「話」かどうかは分からんが、まあ、せめて楽しみにして、この章だけはダルダルな自己言及、戯言に耐えてくれ。

 

 と、読者への謝罪、言い訳はここまで。でね、何とかかんとかにでもこの章を書き終えなくては次の章にはいけないわけでね。話を戻すよ。

 二度の落選、同年代の学生による滅多打ち、そして実は実生活における大失恋(1年間の片思いの後、2週間に3度のプロポーズという愚行、マジで嫌われての失恋であった)によって、全人格を否定された気分になってしまった僕は、ただでさえ殆ど持ち合わせていなかった、なけなしの自信をすっかりと喪失し、人生へのヤル気を喪失し、執筆インポになってしまった。2010年、大学3年生の時である。

 失意のどん底にあって僕は何をしたのか。そう、それでも小説を書いたのである。マジで懲りないのである。しかしながら、僕が患ってしまった執筆インポという疾病の病状は非常に重篤であった。その結果、何作もの水子、つまりは未完の小説、途中で投げ出してしまった小説、が生まれてしまったのである。酷い、あまりにも酷すぎる。

 未完のわが子供たちも、このままでは浮かばれない。ということで、生まれ得なかったわが子へのせめてもの弔いとして、彼らを本作にてお披露目しようと思う。

 アーメン。

 

・6『焦燥、乱痴気』

 

 口。今、彼の目の前には無数の口があって、それらの口達は同時に、開いたり閉じたりを繰り返している。パクパクと、同時に、同じ音を出している。揃いも揃った口々から飛び出した同調の音達は、ただ同調である様にと目論まれて発せられ、それでもその個々の響きに差異を持つ。その結果として音達の集合体であるところの音の塊は、揺らめき、歪み、うねり、空間に響き渡る。

 賛美の声々がチャペルに響き渡って、その「場」を満たし、一同揃いも揃って昂ぶっていく。その独特の音に包まれた空間にいると、皆自分の発した声に浄化され、頭の中が空っぽになって、唯唯、褒め称える対象であるところの神と自分が一体になって、おまけに歌っている他の皆さんとも一体になって、何だかこう、たまらなく恍惚となるんだそうな。

 そんな、百人はいようかと思われる会衆が同時に一体となって恍惚となっている礼拝堂の中にあって、おそらくは唯一人彼だけは、己の肉体を駆け巡るどす黒い、ぬらぬらとした違和感、不快感、あるいは拭い去れない焦燥感というような類の感情に身を苛まれていた。体中に芋虫がぞわぞわと這い上がってきて、自分の身体を食い尽くされてしまう様な気がして、打ちひしがれ、彼は今にも叫びだしてしまいそうだった。この福音に満ち満ちたチャペルを、神の慈愛に酔いしれる会衆を、彼らによって発せられているこの賛美の音を、彼は滅茶苦茶に引き裂いてしまいたくて、とても堪らなかった。

「こんなの、う、嘘だぁ。全部ウソだぁー!」

 彼はそう心の中で叫んだ。確かにそう叫んだのだが、力の限りに叫び、繰り返したのだが、その合間合間に絶えることなく発せられる会衆の賛美の声が彼の中に入り込んできて、危うく取り込まれそうになる。言ってしまえば、目の前にある快楽、無我の共振という誘惑に身を委ねてしまいそうになるのだ。

「ああ、そうすればどんなにか楽だろう。もう、何もかもどうでもいいじゃないか。なぁ。」

 彼の中の一部分がそう言って彼を誘う。彼は今すぐにでも、その声の通りにしたいと思う。ああ、ああ、と涎が垂れてしまう程にそうしたい。皆と一緒ににこやかな笑顔で歌い、頭がパッパラパーになって気持ち良くなってしまいたい。

 ただ、そう思えば思う程に、それとは逆の方向に、それとは拮抗した力で彼の手を引っ張るもう一人の自分がいる。

「やめとけ。こんなのは全く持っておかしい、ってちょっと考えればわかるでしょうが。目先の快楽に惑わされちゃいかんよ。いつもいつも言ってるじゃないか、そんなものに救われるくらいなら、死ね、死んじまえって。」

 双方から手を引かれる形になって、彼は引き裂かれそうになる。いや、もはや引き裂かれてしまっていると言っても差し支えはないのかもしれない。もう痛くて痛くて、彼は何も決める事ができない。ただ待つしかない、裂けて真二つになるその瞬間を。その時に自分がどんな行動をするのか、それ自体はもうどうでもいい、と彼は思う。決断よりも引っ張り合いによって生じているこの耐え難い痛みの方が早急に解決すべき課題になってしまっていて、完全に趣旨を穿き違えてしまって、

「あー、もう早く終われ。」

 彼はもはや唯それだけを強く願っている。「痛み」それだけがあって、俺は今ここにいると実感できるのかもしれないが、もうもしかしたらいなくても良いのかもしれない、と彼は思っている。

 

 サンサンと光り輝く太陽、その下には青々と映える木々、クッキリと晴れ上がった空にさわやかな微風。これらが一緒くたになって、気持ちの良い春の陽気とでも言うのだろうか。まあいい。とにもかくも、天気の良い春の日差しの中、午前中の礼拝の終わったチャペルからは人がゾロゾロと出てきている。大抵の者は誰かと連れ立って、おしゃべりに興じながら出てくる。ニコニコと、朗らかに、この心地よい春の日にはまさにうってつけ、お似合い、というような表情をしている。

 そんな中、この陽気とも、慈愛に満ちた会衆とも、まったく持ってそぐわない陰鬱な表情をした表情の男が一人、うつろな目をして下を向き、足元はふらつき、息も絶え絶えになりながら、それでも何かブツクサと独り言を喋りながらチャペルから出てきた。会衆の微笑みと対になって、まさに絶望を体現しているかのようである。先ほどの礼拝中に唯一人、言いしれぬ不快感に苦悶していた彼である。

 彼の名は佐伯一真という。ただ此処では皆からヘレシーと呼ばれていた。名前の由来などは彼には分からない。此処に来た初めの日に祭司バルガイ様がそう名づけたのだ。しかし彼、佐伯一真は自分につけられたこのヘレシーという妙ちくりんな名前を一切受け入れる気になれなかった。佐伯一真というしっかりとした名前を持っているのにも関わらず、ある日突然頼んでもいないのにヘレシーなどという訳の分からない名前を勝手に押し付けられたのだから当然と言えば当然である。祭司バルガイ様だけがありがたい事をしてやったと思って勝手にご満悦、したり顔をしているのである。

 そのため、彼は此処にいる数少ない親しい者には、自分の事を「一真」もしくは「カズ」あるいは「カーくん」などと呼ばせていた。人によって呼び方は色々ではあったが、とにかくこの不本意に押し付けられた「ヘレシー」などという無茶な名前では呼ばせることをしなかった。

 名前に限らず、一真は此処に存在するありとあらゆる物が気に食わなかった。嫌いだった。意にそぐわなかった。いや、「ありとあらゆる」などという表現では生ぬるい、は数少ない友人を除いた全ての物が憎くて溜まらなかった。その為に彼は四六時中、目が覚めているときは殆どいつも、いや、寝ているときでさえ、先ほどのチャペルでそうであった様に、イライラ悶々と不快感に身悶えしていなければならなかった。

「何故こんなにも不快で仕方が無いのか。」

 彼は常々考えていた。しかし、一向に分からなかった。一つ一つの具体的な不快な物に対しては、それぞれそれなりの理由がある。けれども、要約し、それを一つの答えに収束することができない。この場所に漂う胡散臭さ、それは間違いもなくこの肌で感じることができるのだが、一体それは何故なのか、そう考えると上手く言葉にすることができないのであった。

 ただ一つはっきりと言えることは、此処にある全ての物は彼が自分の意志で選択した物ではなかった。全ては何者かによって無理やりに押し付けられた物なのであった。

 そもそも始まりからしてまさにそうであった。彼は此処が何処なのか知らなかった。どうして今自分が此処にいるのかさえも全く分からなかった。「全く馬鹿げている、そんな事があるものか」と思われるかもしれないが、彼の場合はそうなのである。

 ある日突然、気がつけば、此処に「いた」のであった。こんな説明では釈然としないだろう。彼自身も釈然としていなかった。だから彼はことある度に、可能な限りの記憶を掘り起こして、自分が此処に「いる」もしくは「来た」理由を思い出そうと試みていた。

 彼が思い出すことのできた此処に来るまでの、正確に言うならば来る直前までの自分に関する記憶は以下の通りである。

 

 此処に来る以前、彼は会社で働いていた。その会社は主に健康食品を扱っている会社で、彼はその会社の新規開拓の営業マンをしていたのだった。新規開拓の営業マンとは、言ってしまえば訪問販売の人である。

 来る日も来る日も見知らぬ家のチャイムを押して、無理をしていることが丸分かりのニコニコ営業スマイルを作って、

「美容と健康にとっても良いサプリメントなんです。市販の製品と比較すると有効成分が十倍も入っているんです。ただいまキャンペーンを行っておりまして、こんなすばらしいサプリメントがなんと通常価格の十パーセント引きでお買い求めになれるんです。ぜひこの機会にと思いまして伺わせていただきました。いかがでしょうか?」

 とか何とか口からでまかせをまくし立てて、馬鹿高い毒にも薬にもならないような紛い物を売って歩くのが彼の仕事であった。売れても売れなくても精神的に辛い仕事ではあったが、その上殆ど売れなかったのだが、一応は自分で入社試験を受けて入った会社であったのだし、彼は仕事に対してこれと言った不満は感じていなかった。寧ろ、ささやかではあるがある種のやりがいのような物を彼はこの仕事に感じてさえいた。

 自分という存在の価値が全て、自分とは何の関係もないような売り上げという数字に変換されること。それは剥き出しの彼自身を、社会という外部から、自分に向けられる多くの見知らぬ者達の目線から隠してくれている様で、彼はそのことに安心感を感じていた。

 此処に来る前の最後の日の記憶、それはいつも通りの営業廻りの日の記憶であった。暑い夏の日だった。これを回想している今は春なのだから、秋、冬、ともう二つの季節を此処で過ごしたことになる。我ながらよくもったものだ、と彼は思う。

 話を戻すと、その暑い夏の日の昼下がり、その日彼は一個も売ることができず、廻る家廻る家ろくに話も聞いてもらえず、玄関のドアを「ピシャリ」、その繰り返し。まあそんな事は別に目面しいことでも何でもない、だからとりたてて落ち込んでいたと言う訳ではなかった。しかし、それにしても不調ではある。今月(たしか八月だったろうか)も半ばを過ぎたのにまだ一個も売れていない。今月の売り上げのノルマは三十万円だから、このサプリメント(聞いたこともない国に生えているらしい高原野菜から抽出した美容成分がタップリと入っているらしい)が一セット二万円だから、あと十五個は売らなくちゃならない。一日に一個以上は売らないとノルマ達成できないなぁ。ノルマが達成できないと余った分は買い取らなきゃいけないんだから、仮に今月一個も売れないとすると二十万の基本給から三十万引かれるんだから、十万の請求か、困ったな。

 などとぼんやり考えながら、ブラブラと歩くうち、住宅街を抜けて駅前の商店街まで来ていた。仕事の性質上、彼は見知らぬ土地を歩くことが多い。この日も、昨日まで廻っていたエリアを諦めてその隣のエリアを廻っていたので、彼にとっては初めて訪れたエリアであった。営業の為の移動費用が自費負担ということもあり、あまり遠出はできないのだが、売らなければそもそも会社にお金を支払わなければならないのだからそうも言っていられない。

 世間一般から見ればとんでもない会社なのだろうが実際彼もそう思うが、何より自由であるという所が彼は気に入っていた。商品を取りに行く月初め以外は会社に行く必要はないし、当然出勤時間も退社時間もない。彼にとって入社の決め手となったのはまさにその点であった。

 昼下がりと言っても、この駅前の商店街は人影はまばらであった。どちらかと言えば、いや言うまでもなく寂れている。平日の昼下がりなんて何処もこんなものなのかもしれないが、買い物帰り風のオバサンや、杖を突いて歩くおじいちゃん、紺色のバックが取り付けられたキャリーのような物を押して歩くおばあちゃん、そんなのがチラホラといるだけ、町全体にまるで破棄というものが感じられない。いや、生気すら感じられないのだ。まあいい、俺だってそんな風景の構成要素の一つになってしまっているのだし。でもな、売れるわけねぇな、こんな街じゃ。そもそも生きる気力すら感じられない人たちが美容やら健康やらに興味を持つとは思えないもんな。はあ。

 

 そう、彼はこの寂れた商店街同様に暑さにやられてぐだっとして、覇気も生気もなくしてぼんやりとよしなし事を考えるともなく考え、歩いていたのである。ときめきや希望、そういった類のものとは全く無縁ではある。しかし彼は、こんなグダリな感じもまあそんなに悪くはないかなあ、というような気分だった。人生これ前向きといったような人から見れば敗北に違いない状況ではあったのだろうが、そんなに深刻に思いつめてはいなかったのである。

 暑くてそんなに腹も減ってないけど、このまま廻っても売れそうにないし、飯でも食うかなぁ。そう思い彼はパッと目に付いた喫茶店に入った。特に何の変哲もない喫茶店であった。商店街の寂れた雰囲気から外れることなく、なんだか諦めてしまったような、不潔という程ではないが中途半端に古びた喫茶店だった。

カランカラン。

「いらっしゃいませ。」

 店に入るとウェイトレス(というにはいささか古びてしまっているおばさんの店員)に席に通された。このおばさんもまた、店の雰囲気と同様にやる気なく、かったるそうで、かといって別に不満気と言う訳ではない、というような感じであった。

「どうでもいいんだけどね、全部」

という様なてい、といった所だろうか。

 店の奥の方のテーブル席に通された。店内には彼の他に客はいない。散々悪く言ったけれど、こんな喫茶店はダメか、と言われるとそうでもない。例えば、店の日にさらされて黄色くなったクーラーは年月を経ても健在な様で、寒くなく涼しい。それに古い空調独特の図書館のような臭いがして、彼はその匂いが好きだったので、なんとなく落ち着き、好ましい心持にすらなった程だ。都心にあるおしゃれなチェーンの喫茶店などは若い女どもが群がるようにして集まり、キャーキャーと騒ぎ立てていて、まるで居酒屋のような様相を呈しているのに比べれば、この古びていてお客様に快適な休息のひと時を提供しようなどというサービス精神のかけらもない喫茶店の方がよっぽどいいかもしれない。静寂で、それどころか図書館様の臭気によって知性まがいのものまで感じられる。そんなこと言ってるから女の子から見向きもされないのかもな。まあいいさ、どうせ俺はダサい奴だもの。このオンボロで無愛想な喫茶店がお似合いだよ。

 とかなんとか考える時間があったほど暫くしてから、あの仏頂面の太ったオバサン店員が本来は瓶ビールを飲むときに使うコップに入った水を運んできた。コップにビール会社のロゴが印刷されていたので分かった。

「お決まりになりましたらお呼びください。」

「日替わりランチで。」

 そそくさと立ち去ろうとするおばさんの背中に間髪いれずにそう言ってやった。水を持ってくるのが遅かったことへの皮肉の意もこめて言ってやったのだが、おばさんは意に介さない様子で、「かしこまりました」も言わずにレジの方に戻っていった。オーダー通ったかな、と心配になるじゃねぇか。レジに戻ってから伝票になにやら書き込んでいたので、まあ大丈夫だろうと思うことにした。

 注文した日替わりランチがくるまでの間、特にすることもなく暇なので、テーブルの隅の醤油やらソースやら楊枝やらが置いてある長方形のトレーの脇に立てかけてあったメニューを手にとり、見るともなしに眺める。眺めながらもビールコップに入った水を一気に飲み干す。外が暑かったので喉が渇いていたのだ。古い水道管特有の錆の味、強いカルキの臭い、その後に微かな甘みがした。

 メニューの表面(黄ばんだビニールファイルに紙が二枚入れてあるだけなのでどちらが表かは分からんが)には通常のメニューが書かれている。飲み物はコーヒー(ホットorアイス)、紅茶(ホットorアイス)、オレンジジュース、コーラ‥。食べ物はトースト、スクランブルエッグ、ナポリタン、ハンバーグ、オムライス‥。一通りそろっているが代わり映えもしない。裏面には本日の日替わりランチの内容が手書きで書かれている。今日は唐揚げランチだそうだ。中華じゃねぇか。

 メニューも読み終わり、二回繰り返して読んだけれども、唐揚げランチはまだこない。やることが何もなくなってしまった。唐揚げって上げるのにそんなに時間がかかるだろうか。

 やることがなくなってぼおっとしていると、なんだか眠くなってきた。昨日夜遅かったからな、レンタルビデオの返却日だったから。今日は飯食ってちょっと廻ったら早めに終わりにしよ、どうせ売れねぇし。ふぁあ、ホント売れねえな、才能ないのかもな俺。辞めよっかな、会社‥‥。

 

 ここで彼の記憶は終わっている。この場所に来る直前までの記憶は唐揚げランチを食べることなく終わっているのである。その次の記憶は彼が目覚めたところから始まっている。果たして喫茶店で眠ってしまったのかどうか、定かではない。あの無愛想なおばさん店員もランチを持ってきた時に客が寝ていればさすがに起こすはずである。ただ、彼にはその先の記憶がない。五百八十円のお代を支払ったかどうかも分からない。この場所に来て半年以上がたってしまった今では、そのことももう確かめようが無い。

 

 彼が目覚めた時、そこは夜中だった。辺りは真っ暗、目覚めた時は大抵誰もがそうなのだろうが、彼は何がどうなっているのか全く持って分からなかった。ただ暗い、何も見えない、だから夜なんだろう、それぐらいしか思いつかない。

 

 未完

 

・7『仮面の国』

 

 玄関前に掛けてあった真っ黒な手袋を装着し、これまた真っ黒なマスクを被り、武は慎重にドアノブを回した。ドアを開けた途端に急いで外に飛び出し、即座にドアを閉め、鍵を掛けた。この一連の動作を終えるのにものの1秒とかかってはいないだろう。

 戸締まりを終えた武はキョロキョロと周囲を見渡し、誰もいる気配が無いのを確認して、やっと一安心したようにほっと息をついた。

 この極度の警戒ぶりから、彼が指名手配犯か何かなのではないかと思われるかもしれないが、何のことはない彼はただのフリーターである。そして、今彼が住んでいるオンボロのアパートから外に出てきたのは、バイト先である徒歩二分のコンビニに働きに行くためである。

 たかだかバイト先に行くだけなのにマスクだの手袋だのをつけるだなんて、この男はちょいとおかしいんじゃないのか、と思われる方が大半であろう。しかし、武の住む国ではこの程度の「自己防衛」はもはや常識となっている。 大々的に「言葉狩り」が行われるようになってから、もう何年も経つ。少しでも「おかしな」言動をした者は即座に抹殺されてしまうのだ。。

 しかしながら、今述べた「おかしな」という言葉は、その判断基準が非常に曖昧、個人的、かつ感情的な言葉である。したがって、「おかしな」と言う場合には、「誰にとって」おかしいのかという判断の主体についてはっきりと認識しなければならないのは当然のことであるはずだ。しかしながら、現在武の住む国で行われている「言葉狩り」は、それが「誰の」基準によって行われているのかもはや「誰にも」分からない、という全く持ってわけの分からない状態に陥っていた。

 だから先程武がそうしていたように、ほんの少しの間でも「公」の空間に出歩く際には、自分が何者であるのかという手がかりを絶対に晒してはならないのだ。

 

 ガシャン。

 武がバイトを終えて、自宅の扉を閉めた音である。それから武は、いくつ取り付けられているのか分からない程の数の扉の鍵を一つずつ順番に掛け、マスクと手袋を玄関のホックに掛けて、部屋に入った。

 ジュポッ。

 武は一人掛けのソッファに腰掛け、机の上に置かれていたハイライトのメンソールの箱から一本取り出し、それにに火をつけてゆっくりと吸い込み、これまたゆっくりと煙を吐き出した。

 フゥー。

 武は久方ぶりにリラックスし、自分の吐き出した煙が即座に空気清浄機に吸い込まれてゆくのを見るともなしに眺めながら、極度の緊張によって体中に疲れが溜まっていたのを感じた。

 今日もまた一人狩られるのを武は勤務中に目撃した。狩られた者は雑誌を立ち読みしていた。もちろん黒ずくめだったので、その者がどんな人間だったのかは分からない。背格好からすれば男だったのではないかと思われるが、体格のいい女だったのかもしれない。

 とにかく、そいつは雑誌を立ち読みしていた。それ以外に特に何か「あやしい」言動をしていたようには見えなかった。しかし、突然、店の入り口からこれまた黒ずくめの人間が数人入ってきて、そいつを連行していった。その間、連行されたそいつも含め全員、終始無言であった。連行された奴が無言だったのは、下手に騒ぐと後々「余罪」と見なされるかもしれないという恐れが働いていたのかもしれない。

 いずれにせよ、いったい何故そいつが連行されたのかは全く分からなかった。「雑誌を読んでいた」ということが「危険思想を持っている」と判断されたのかもしれない。

 

未完

つづく

 

 


「木嶋佳苗さいたま地裁公判傍聴未遂」 オパーリン

「木嶋佳苗さいたま地裁公判傍聴未遂」

執筆者 オパーリン

 

 2012年4月14日(土)、木嶋佳苗の地裁の判決が出るということで傍聴するためにさいたま地裁まで行ってきた。しかし、傍聴といっても聞きたい人全員が聞けるわけではなく、40席ちょっとしかないのに1300人以上が聞きたかったそうで、抽選が行われた。世間的に注目が集まる裁判の場合、その規模は別としていつもこんな感じで抽選が行われるそうだ。で、大手のメディアはシルバー人材センターとかで何百人も人を集めて席の確保に奔走するわけだ。

 で、今回抽選が朝の8時に行われるということで、5時半つくば駅発の電車に乗って浦和駅にある埼玉地裁まで行ってきた。7時ちょい過ぎに地裁に着いたのだけれども、すでにかなりの人数が待っていたね。それから8時に近づくにつれてどんどん人が増えていって、抽選開始のころにはもう、本当に黒山の人だかりだった。

 抽選券代わりのリストバンドをもらって、発表は九時。あっさりと落ちた。事実としてはこれでお終いなんだけれども、これだけじゃルポになりやしない。ということで、当日の会場の様子やなんかも書いていくかな。

 まずは、客層というか並んでいる人の構成について。よくニュースとか週刊誌とかの記事では「若い女性が沢山います」みたいな報道がされている。間違いじゃないんだろう、確かに若い女性のグループみたいなのが結構いた。でもそれ以上に印象的だったのは「じいさんばあさんの大群」だ。数十人単位のグループで、観光ツアーみたいに旗持った係員みたいな人が「はい、こっちでーす」的な感じで抽選場に誘導していく。冒頭にも書いたが、大手メディアシルバー人材センターを使って動因した抽選要員である。若い女性よりもこっちの方がよっぽど目を引く光景だったけどもな、初傍聴抽選の僕としては。大体において、傍聴の趣旨って「一般市民に裁判の様子を公開する」っていうものだったのだと思うのだが、実態はその趣旨からはかけ離れてしまっているのだね。

 あと、「行った甲斐があったなぁー」と思った出来事は、大川工業の裁判傍聴芸人、阿曽山大噴火さんがいたことだね。「うぉー、本当にいる!!」っていう感じ。テンション上がりまくり。で、そもそも今回傍聴抽選に行ったのは創出版の就活メーリスに「興味ある人は見に来れば?」見たいなメールが届いたのがきっかけなんだけど、途中で創出版の人が阿曽山大噴火さんを紹介してくれて(阿曽山大噴火さんは月刊「創」に連載をもっている)、一緒に写真を撮ってもらうことができた。で、僕は図に乗って、「僕、同人誌やってるんですけど、それに載せてもいいですか?」って阿曽山大噴火さんにお願いしたら「どうぞどうぞ。」って快諾してくださった。めっちゃいい人だ。ということで掲載する。

 あとは、抽選が外れて裁判所から出てきたところで、カメラマンを引き連れためっちゃ美人の女が僕に話しかけてきた「テレビ東○です、お話聞かせてください!」と。で、僕はくじに外れたこと、それもコレもお前らメディアが押しかけるせいだということを話し、「何で来たんですか」と聞かれたので、裁判傍聴に並ぶ女達がどんな奴らなのか見に来たんだ、つまりは人間観察さ(ニヒリスティックに)的な受け答えをした。で、そのインタビューの途中に小汚い爺さんが乱入しようとしてきた。「おーう、俺も外れちまったんだよ!!一番違いだったんだぜ。惜しいだろ?な?だろ?」と美人キャスターに大声でまくし立て、詰め寄り、カメラの枠内に入ってこようとする。僕はこういうジイさんは大好きだったので「面白い展開になったなあ」とニヤついていたんだけれども、美人キャスターは「マジ迷惑です」という表情を露骨に出し、しかしそんな婉曲表現がジジイに通じるはずもなく、ジジイは相変わらずキャスターに絡みまくっていた。で、僕もジジイに協力し、キャスターに追い込みをかけるため「じゃ、もう終わりでいいですね?」と言って立ち去った。確認していないけれど、あのキャスター、ジジイにケツの一つでも触られてりゃいいのに、と思った。メディアは自ら雇ったシルバーによって仕事を邪魔されたのである。とても皮肉に満ちていて面白い出来事であったし、何よりいい気味であった。

 

↑さいたま地裁前で阿曽山大噴火さんと記念撮影。何記念かはよう分からんけど。

 

 



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