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バカが吼える

 

「バカが吠える!!」

 

 「テレビばかり見ているとバカになる」なんてのは昔からわりと多くの人が言っている言葉であって、下手をするとテレビ番組にコメンテーターとして出演しつつそんな発言をする「知識人」なる方までおられる。子供のころからテレビばかり見て育った自分は今現在、自他ともに認めるバカとして障害者たちとともに単純作業に従事して糊口をしのいでいる現実から見ると、彼らの指摘もあながち間違いじゃないような気がしないこともない。

 ただバカはバカなりに世の中の流れというか、いま社会で何が起きているのかなどの情報くらい知りたいという身分不相応な願望も持ち合わせているわけで、そういった願望を満たすためにまたテレビにかじりついてよりいっそう念の入ったバカに進化しつつあるのだけど、世の中を知るには別にテレビに限らなくても他のいろんなツールがある。

 ひとつには現代社会を生きる必須アイテムであるインターネットが挙げられると思う。しかしそれにはひとつ欠点があって、それは手に入る情報量があまりにも膨大である、という点だ。そもそも情報処理能力があまりに欠如しているからバカなわけであって、バカがネットでどんな膨大な情報を得たとしてもバカにそんな大量の情報を処理できるわけなどないのだからそれは何も情報を得ていないのに等しい、というか生半可な知識や自分でもほとんど咀嚼しきれない知識を周りに自慢気に話してニヤニヤする、誤った情報をもとに不可思議かつ不気味な行動をとるなどして、人をイライラさせるバカも発生したりする。バカにネットは扱いきれない。

 テレビもダメ、ネットもダメ、となるとどうすればいいのか?バカは世の中の流れから取り残され続けなければならないのか、というとそうでもない。先に述べたように世の中を知るためのツールなど腐るほどある。

 一人のバカとして現代を生きている僕が愛用するのは「雑誌」だ。新聞でもいいんだけど、新聞を「たけえよ」という理由だけでとっていない底辺をさまよう我が家にとってそれは現実的じゃない。その点雑誌なら全て立ち読みで済ますことができるし、ゴミもでることはない。エコ、マジでエコ。

 雑誌と一口にいってもやたら種類があるしどれを読むのかが問題なわけだけど、難しく考えることはない。適当に選べばいい。いろいろ読んでいくうちに自分が読んでいて「うわ、おもしろっ」と思えるものにめぐり合う。それをずっと読んでいれば自然と世の中の流れだの情報だのが頭に叩きこまれるはず。

 自分が最近愛読しているのは「女性自身」「週間女性」といったいわゆる女性誌とよばれるものだ。こんなもの読んでいるとそれこそ脳が腐るんじゃないか、と思わないこともなくはないけれどおもしろいんだからしょうがない。これらを読むことによって芸能人のゴシップ、今人気の韓流スターの素晴らしさ、更年期障害の乗り越え方、ご利益がやばいパワースポットについてなどの貴重な情報を得ることができている。女性誌とはいっても作っているのは中年のハゲ散らかしたオヤジたちであり、「読んでんのなんかどうせ頭悪いおばさんだろ?ああん?」といった作り手の声が聞こえるような知性の欠片もないほぼ女性蔑視としか思えない誌面作りがなされている点も大好きだ。

 そんな女性誌のなかで僕がとりわけ好きなのが皇室ネタの記事。歴史ある天皇家を記事にしているというのにあたかも親戚の家の人間関係を書いているかのような軽い筆致で書くあの感性。戦時中なら殺されてもおかしくないレベルの不敬さがたまらない。それも皇室が庶民に近くなったってことでそれがいいか悪いかはわからないけど、時代の流れなんですかね。秋篠宮様のところに男の子が生まれたからうやむやになったけど、皇室典範の改正でもめたときもまるでその辺の農家の跡取り問題のテンションで記事作ってるから「これ大丈夫か?」とドキドキしたのはいい思い出。ただそのころ愛子様が小さかったからわからなかったけど、あの子どうみてもちょっとアレっていうか、健常者っぽくないというか、まあはっきり言うとどっからどう見ても池沼としか思えないわけで‥。いじめ問題とかあったけど、そりゃあ小学生のガキのクラスに一人あんなの放り込まれたら当然いじめるだろう、と。ちなみに僕の知り合いは愛子様を「あの子絶対アスペだよっ」と断言していたけれど、あの子が天皇になる姿はちょっと見てみたかった。各国首脳を招いて「あう、あう、あうああっ!」とかいってパニックおこしてほしかった。この日本という国はもうすぐバカすぎて滅びる。そんな国の「象徴」としてはまさにぴったりだと思いませんか?

(初出 『月刊 オパーリン王国 2011年11月号』)

 

 

 


クリスッマスラブ

「クリスマスラブ」

 

 寒さも厳しくなり、2011年も終わりにさしかかろうとしている今日この頃、街は華やかなクリスマスのイルミネーションに華やかに彩られている。つい数ヶ月前までは節電だのエコだのと騒ぎ、普通に冷房を効かそうものなら非国民のような目で見られたのが今となっては嘘のようだ。それでも健気に暖房の設定温度を下げる、不要な電気を消す、などのたゆまぬ努力、我慢をなさっている方もおられるだろう。しかしそういう方々よりも暖房をがんがん効かし、部屋や家の周囲を不要な灯りでまばゆいばかりにピカピカさせてゲラゲラ笑いながら生活している人たちの方がどう見ても楽しそうであり、「節電?しらねえよ。」と思うようになるのも無理はないと思うし、明るく楽しく日々を過ごしたほうがいいに決まっている。節電とかめんどくさいし、もういいんじゃね?と誰もがおもっているんだろう。いくらそう口にしなくてもやってることはみんなもうすでにピカピカだし。でも一応「頑張ろうニッポン」とか「絆」とか言っちゃうのが今風でいい感じなんだと思う。

 さて、そんなクリスマスシーズンな時期であるわけだけれど、クリスマスといえば街がカップルであふれかえる時期である。新宿なんかだとそんなカップルたちに大音量で「イエスを信じないと地獄におちます!」的な辛気くさすぎることをがなりたててる香ばしい団体とかもいるわけだけど、街がこれだけ華やかな感じだとそりゃあ恋人たちも仲良くなるに決まっている。クリスマスは一年でもっとも恋が発展する時期だといっても過言ではないと思う。いいことだと思う。順調だと思う。

 しかしよく考えてみたらそんなに順調なことばかりでもない。物事にはなんでも表裏ってものがあるんだよ、というのは誰しも知っていることだと思う。たくさんの恋が発展するこの時期というのは裏を見てみるなら、一年でもっともHIV感染者が増える時期でもあるといえる。

 「あのさあ、花子。そういえばちょっと聞いてもらいたいことあんだけど。」「なあに、太郎?」「俺さあ、ぶっちゃけエイズなんだよね(笑)」「はっ??」

 こんな会話が数ヶ月後には日本全国いたるところでかわされることになるのだ。この恋人たちの行く末は考えたくもない。

 ちなみに真面目な話、エイズ感染の拡がりを防ぐために無料エイズ検診などを行っている自治体もすくなくない。いい活動だと思う。頑張ってほしいと思う。しかしこの検診、たいてい平日の昼間におこなっており、普通に勤めている会社員の方々は検診をうけることができない。じゃあっていって夜間でもやってる街の性病科とかいくと結構いい値段がとられたりする。性病検査には保険きかないからね。かかっているかどうかわからない病気にそんな金をはらうヤツはそうはいない。エイズ感染拡大をふせぐんだ!とか国は言うけどやってることを見たら「貧乏人と会社員がエイズ検査なんてうけてんじゃねえよバカが」って本音では思っているようにしか見えない。それでも無理に会社員が平日の無料検診にでかけるとしたらどうなるだろうか?

「山田君、明日の会議の件なんだけど」「あっ俺明日有給で休みなんっすよ」「あ、そうなの?なんか用事でもあるの?」「明日はエイズと梅毒と淋病の検査にいってきますが何か?」「あ‥そ、そう‥わかった」

これでは彼の今後の会社生活が危ぶまれる。上司もリアクションとれないだろう。

 ただ、HIV感染者数は確実にふえてきているとはいえ、現代医学の進歩でHIVに感染してもエイズ発症をかなりおくらせることはできるようになってきているらしい。だから今でこそHIV患者はそれをひたかくしにしているが今後、HIV患者であることを普通に公表し、普通に社会で生活するようになる人も出てくるのではないだろうか。社会の中でHIVが普通にあることのようになる世の中になるのだ。そういった社会の変化にもっとも影響を受けやすいのが子供たちである。昭和年代のアニメで子供たちの囃し言葉として「お前のかーちゃん、でーべーそーっ!」というのがあったが、これからのアニメでは「お前のかーちゃん、えーいーずーっ!」というのがでてくるかもしれない。

 クリスマス。この時期になるともう一年も終わり。今年もいろいろあったけれど来年はいい年になればいいなとねがっています。

 

オパーリンの感想)

 言文一致という言葉があるが、東町健太氏はまさしく言文一致な男である。会っても、殆ど会っている間中この文章に書かれている様な悪態をついている。彼は正直な男なのである。その分、世間一般にまかり通っている「嘘」に対する感度が非常に高い。

 節電、エイズ、人々が世の中で「大変だ大変だ」と騒いでおきながら、誰もそれを「自分たちの日常の延長線上にある問題」としてとらえない、行政の対応もまた然り。彼はそう言った「嘘」に怒っているのである。

 エイズの話で言えば、僕と東町氏はこの二年、新宿二丁目で行われているゲイの祭典「レインボー祭り」に参加している。誤解しないでいただきたいのだが、僕も彼もノン気である。そのレインボー祭りでは「風船募金」的な催しをおこなっていて、募金をすると風船をくれる。そこで集まった資金はエイズ対策のために使われる。で、お祭りのクライマックスではみんなでその風船を空に放るのである。また、祭りの間、通りでは(恐らく)ゲイバーの店員さん達がコンドームを配っている。

 ここから何が言いたいのか、というと上手く言えないのだが。僕や東町さんとゲイの人達は関係あるのかといえば、直接の関係はないかもしれない。でも、じゃあ何も知らなくていいのか、といわれればそうでもないんじゃないか。という事が言いたいのである。

 彼の様に、「嘘」に対して鋭く怒れる人の「視点」を見過ごしてしまうのはもったいない。来月は何に怒ってくれるのか、楽しみに待つ事にする。

(初出 『月刊 オパーリン王国 2011年12月号』)

 


生きてても無駄

「生きてても無駄」

 

 先日、いつものようにぬらぬらと仕事をしているときのことだった。仕事はいい感じだった。最低な仕事だけど最高に順調だった。全体的に見て総括するなら微妙だった。完膚なきまでに完全に微妙だった。たとえるなら「40年以内にマグニチュード7クラスの地震が起きる確立は45%」という予報くらいに微妙だった。そんないつも通りの、まるでV6における長野の存在感のように冴えない日にその事件は起きた。

 そのときの仕事内容は物を右から左に動かすだけの、脳の溶解をぐんぐん促す素敵な作業。もはやおかゆのようになってしまった脳をタプタプいわせながら「えいやっ」と物を持ち上げた時、首筋にかなりファンタスティックな痛みが走った。全力で走った。結構な重さの物を持ち上げたことで、首の筋というか何かを痛めてしまったのだと思う。「あむでゅううっっ!!」わけのわからない叫び声をあげつつ僕はその場で崩れ落ちた。崩落、というよりは崩壊、そんな感じだった。

 それからは今に至っても首の痛みと戦う日々が続いている。この痛み、痛めたその日に比べればかなりおさまったものの日常生活にかなりの支障をきたしている。首を動かすと痛いから、後ろから話しかけられたりするとなかなか困る。普通に体ごと後ろを向けばいいのだけど、ついつい首を動かしてしまう。人間だもの。確かに同じ人間だけど相田みつおなんかに一緒くたにまとめられるとなんかむかつくね。そうして首を動かすと、首がまたフレキシブルに痛む。痛みで全身が固まる。あう。

 そうして痛む首を抱えながらの仕事、首をもっとも痛まないように変な姿勢で変な体勢をとりつつの仕事。それは僕の腰を無情に破壊した。もともと腰は以前から悪いのだけど、それがより凶悪な感じになった。もうもはや服を着る、ラーメンをたべる、土下座をする、といった日常のことまでかなり困難な状況になっていった。

そうして痛む腰と首を抱えながらの仕事、腰と首をもっとも痛まな以下略、今度はひざにまで激痛が走ってきた。駆け下りてきた。満身創痍プレイの始まりである。

 そんな私を救ってくれたのは市販の頭痛薬でした。一日9錠、朝昼晩食後3錠ずつ飲むと不思議と痛みがやわらぐのです。もう私はイブAがないと生きていけません。イブAのおかげで人生が変わりました。ありがとうイブA!

 しかしそんな僕の幸せも長くつづかなかった。なんでも頭痛薬は飲みすぎてはいけないらしい。というか死ぬらしい。そんな情報を入手してしまった。死の恐怖におびえふるえつつ僕は泣く泣く頭痛薬の服用を一日6錠に減らすことにした。知らぬが仏だな。知らなけりゃホントにホトケになってたけれど。

 「頭痛薬とウイスキーを一緒に飲むとね、ふわってなっていい感じだよ」

 そう高校生当時の僕に教えてくれたT君は信念の人だ。T君とは小学校から大学までずっと同じ学校に通っていて、お互いに気心の知れた仲だ。T君は幼い頃に聞いた「無駄なものなんて世の中にはない。無駄だって思うものこそが人生を豊かにするんだ」という手垢のつきまくって悪臭放つふざけた人生訓に感銘をうけた。そしてT君はより無駄なことを追及し、無駄な人生を歩むことを決めた。そんな無駄な信念を貫く人だった。そんなT君は周囲から当然理解されず、さまざまな迫害をうけ痛みをこうむった。結果として奇抜な頭痛薬の服用法をするようになったのだろう。

 T君は小学生のとき、お菓子の袋にはいっている「食べてはいけません」「DON‘T EAT!」と書いてある袋の中身を食べたらどうなるか、そんな無駄な研究をしたくなった。ただ自分で食べるのは怖かったので、彼の弟にかなり暴力に比重をおいた説得をし、大量に食べさせてみた。弟は二週間ほど入院した。T君の人生はこれで豊かになったかもしれないが、弟くんの人生はその分まずしくなった。

 T君の家には一匹の犬がいた。今は残念ながら亡くなってしまったのだが、とても人懐っこくてかわいい犬だった。T君はその犬が初めて家に来たとき、「自分が名前をつける!」と言い、譲らなかった。彼がその犬につけた名前は「キャット」だった。僕がT君の家に遊びにいくと「ワンワン」と元気よくほえながらキャットは僕を出迎えてくれたものだ。T君は自分の愛犬の人生も無駄なものにしてしまいたかったのだ。

 「真のアブラゼミを造る」と宣言して捕まえてきたアブラゼミにサラダ油に浸していたときもあった。意味はわからなかったがその行為が無駄であることはよくわかった。その「真のアブラゼミ」をキャットがつかまえて食べていたりした。

 ほかにもバッタとカマキリをセロハンテープでくっつけて新生物「カマッタ」をつくりだしたり、当時小学校の授業で使っていた友達の30センチものさしをヤスリでけずって28センチものさしに改造したりしていた。すべてが無駄な行為だった。

 高校生になってT君は一度、タバコをもっていた、と教師に咎められ二週間の停学処分になったことがある。しかしそれは正確ではなかった。T君がもっていたのはタバコではなく錦糸町までいって買ってきた合法ドラッグだった。T君は語った。「タバコは20歳未満が吸ったらいけないって法律があるよね。だから高校生がもってたらそりゃ停学にもなるだろ。でも20歳未満は合法ドラッグをキメたらいけないなんて法律はないじゃん。だから俺が停学処分はおかしいと思うんだよね。」もっともな意見だとは思ったが、何かを根本的に間違えている気がした。それをT君に伝えるのはなんかいやだったから何もいわなかった。

 いろいろ書いたがT君は実は勉強はとてもよくできる人間だった。うそのような本当の話だ。とりわけ数学的な思考回路はすさまじいものがあり、教師に数学オリンピックの出場を打診されていたほどだ。数学の天才は問題を見た途端、まるでパズルのようにその問題の答えがわかってしまうらしい。T君は「答えはわかるけど、途中式の書き方がよくわかんない」とぼやいていたことがあった。それを聞いてこいつは本当に天才かもしれないと思った。しかしT君は文系コースを迷わず選択した。天才のT君は古文や日本史で赤点をとって補習を受けていた。

 そんなT君であるが無事大学も卒業し、大手の銀行に就職した。大学時代、いっさい勉強をせず、マリファナばかり吸っていたT君がなぜ就職できたかはわからない。二十歳をすぎて突然ポケモンにはまり、五反田だかどこかのポケモンセンターに通いつめていたT君。そこでヒントを得たのだろう、ピカチュウと幼女が熱くねっとりからみあう新しすぎるジャンルのマンガを書いて同人誌にのっけたりしていたT君。そんな獣‥じゃないかポケモン姦マニアの彼でも就職はできたのだ。

 そんなT君は先日、銀行を辞めた。銀行には無駄がないかららしい。今T君は障害を持つ子供のために働く職に就きたい、と目標をさだめ勉強にはげんでいるらしい。

 T君は語る。

 「障害者ってさ、世の中の無駄じゃん。いなくていいじゃん。だってそんなの埋めちゃえばいいわけでしょ?そんな奴らの世話する仕事ってマジで無駄だよね。その無駄な感じがいいの。いなくていい感じがいいの。無駄と無駄があわさってより強固な無駄になるよね。ちなみに俺の目標にしてる人物はね、まあ俺なんかにはなれないけど、前総理やってた鳩山だから。あんなに無駄のかたまりみたいなやついなかったよね。本気で尊敬してる。あっ頭痛薬飲む?」

 障害者のために働くという彼のやってることは素晴らしいと思ったが、彼の理念は激しく間違えているとおもったが、それをT君に伝えるのはなんかすごくいやだった。

なんか頭痛薬という単語から変なことを思い出してしまった。体中すでに痛いのに頭まで痛くなってきた。でも10代後半とかの時期に「自分探し」とかやりだして挙句「世の中のために役に立ちたいです」とか言っちゃうやつらも無駄さにおいてT君と変わんないなあとも思う。もう二十歳すぎてるのに自分のことを「~女子」「~男子」とかいっちゃうやつらの存在も無駄。そして電子書籍で雑誌とかつくっちゃうのも無駄。世の中なんでこんなに無駄が多いかなあと首をひねったら激痛で、あう。

 

(オパーリンの感想)

 「たばこほど無駄なものはないけれどもね。無駄のようにみえるものを、どこまで許容し得るか・・・それが文化でしょう」これは池波正太郎の言葉である(『グレート・スモーカー』より)。この社会のおいては「いかに無駄をなくすか」が非常に重要な命題として我々の頭の中に刷り込まれてる。みんな、無駄をなくすことに「しゃかりき」になっている。みんな。このしゃかりきの努力が実り、もしこの社会に無駄なものが何一つ無くなったら、みんな最適化され、一切の無駄のない究極の人間になる。つまり、みんな同じ一つの形体に至るということである。無駄のない人間、それはみんな同じ顔、同じバストサイズ、同じチンチンの長さ、という事である。

 違う部分、共通から外れる部分、そんな所にこそ「僕」であり「貴方」である所以が宿っているのである。だから、人が誰かを愛する時、彼、彼女はその人の「無駄な部分」をこそ愛しているのである。つまり、無駄が無くなれば愛も無くなり、僕と貴方の間には何の違いも無くなる。そんな世界はまっぴらごめんだ。

 だからこそ、僕が僕であるために、貴方が貴方であるために、無駄を愛し、無駄な事をしよう。東町氏の文章を読んでそう感じた。

(初出 『月刊 オパーリン王国 2012年1月号』)


寒天撲滅の日

「寒天撲滅の日」

 

 この記事を書いているのは2月16日である。この日は何の日かご存知の方はいるだろうか?この日はなんと!「寒天の日」なのである。だから普段は、「寒天の話はしたくないです。そのことについてはお願いだから触れないでいてください。もう私たちを放っておいて!」と泣く寒天にトラウマがある方も、「寒天?うるせえよぶっ殺す。さわんじゃねええっ」と怒るアンチ寒天派の人も、どんな人であってもこの日ばかりは寒天を貪り食わなければならないのである。いったいどこの誰が、いったいどんな権威をもって、いったい誰の許しを得て2月16日を寒天の日などという愚かで何の意味もない日に定めたかは知らないし、もはや知りたくもない。しかし今日は寒天を貪らなけれはならないのだ。のだのだのだのだ。野田死ねっ!とても残念なことだ。悲しいことだ。

 だから私は今日、必死になって寒天を貪った。豚のように。ぶうぶう。山のように皿に盛られた寒天を前に歯を食いしばり、嗚咽号泣しつつ、人の世の不条理を嘆きつつ、「うふふ。むこうでアヒルさんが警察官をばんばん撲殺しているよ。うふふ。」などとにたにたしながらつぶやく半ばアレな人になりつつ貪りましたよ。まるで豚のようにねっ!

 が、ふと気づいた。今日は寒天の日と定められているにもかかわらず、僕の周りの愛すべきヒューマンたちは誰ひとり寒天を豚のように貪っていないのである。愛すべきヒューマンのみんなっ!一体どうしちゃったっていうんだい?!私は訝りながらも彼らを観察してみた。するとなんたることか、愛すべきヒューマンの馬鹿どもは寒天を貪るどころか、ポテトチップス、ほっけの煮付け、スパゲッチーナポリタンなどを放歌高吟、呵呵大笑しながら楽しげにハッピーに召し上がっていらっしゃいやがるのである。寒天などふみにじりながら。ながら。ナイアガラの滝って一回行ってみたいんだよね。私は混乱パニックした。何故あの愛すべきヒューマンの馬鹿連中は寒天を貪らないのか。虫なのか、やつらは虫なのか?そう思って私は彼らに聞いてみた。「何ゆえお前らは寒天を貪らないのですか?虫なんですか?」しかし彼らは虫ではないと言う。むしろ寒天を泣きながらにちゃにちゃ食っている私のことをみなでディスって笑っていた、と答えたのである。悲しかった。世をはかなんじゃった。今日は寒天の日だというのに誰一人として寒天を貪らない。こんなことがまかりとおっていいのだろうか?この世に正義はないのであろうか?私は今すぐ消えてなくなりたい。タイヤキ食べたい。

 そこで私は悟った。悟ったよ~でへへへへ。寒天の日もふくめて「~~の日」というものはみんなごみだ。無意味だ。ナンセンスだ。だってみんなそんなの無視してんじゃん。こんなことを書くと「いやキリスト教徒とかガチでクリスマスとかやってるよ。お前馬鹿じゃないの?今すぐニトログリセリンで粉々に爆死したらいいよ」と言われるかもしれないね。でもあいつらだって内心本当にガチかどうかなんてわかったもんじゃないし、まあ物には例外ってのがあるじゃないっすかあ~勘弁してくださいよ~って思ってるよっ!はは論破。2ちゃんねるとかで論破って単語使うやつはみんな馬鹿だよ。俺も馬鹿だよイエイ!!

 ここで「~~の日」に関してひとつ思い出話をしよう。「~~の日」っていうか「~~週間」の話なんだけどね。まあカテゴリーは一緒だからいいかなあって思ったんです。ついデキゴコロだったんです。それは私が小学生のころの話だ。「君たちには無限の可能性があるんだよ」とか教師だかだれだかに言われて目をキラキラさせていた小学生の頃の話だ。あのころの自分に今現在の一片の可能性すらもたずに最底辺人生を歩む俺の姿を見せてやりたいぜ。先には絶望だけしかないぜ。みんな俺のことを毛虫のように嫌っているぜ。実際俺はメシ食って寝て死ぬだけの、毛虫とおんなじような存在だぜ。見たら泣くだろうなあ。人生の幕すごい勢いで引くだろうなあ。それが幸せだったかもしれないけどなあ。私の通っていた小学校では、確か9月のおわりごろだったと思うんだけど、近隣のおまわりさんを招聘して交通安全について子供たちに指導してもらう、という時間をとっていた。9月の終わりには「交通安全週間」があるからである。鉄は熱いうちに打て、という言葉がある。子供のころから交通安全に対しての意識を持たせておけば大人になってから交通安全を遵守するナイスなやつになるんじゃねえの?という目的だったのだろう。ちなみに私の同級生でひき逃げ事件を起こして捕まったやつがいるよ。おまわりさんたちさあ、お前らの指導、無駄だったみたいだよっ!その時間に婦警のおばさんが私たちに言った。そのときは自転車の乗り方についてのお話をされていた。私はとても真面目に聞いていた。「あのね、自転車って漢字で書いてごらん。最後に車って漢字がつくでしょ。だから本当は自転車は車道を走らなければいけないの」それを聞いて私は言いましたよ。ちゃんと手を挙げて言いましたよ。「じゃあてめえ今すぐ車道で乳母車乗り回してこいよ。今すぐ乳母車で高速のって120キロで疾走してこいよ。体中に風を感じてこいよ。やれよさっさとやれよ。殺すぞ殺すぞあああああっっっ!!!」と半狂乱になって婦警さんに言いました。うん、いい思い出だ。夏が過ぎ風あざむ麗しき私の少年時代。お・も・ひ・で。婦警さんとしては、自転車は本来車道を走んなきゃだけどそれも危ないから歩道で乗るのもしゃあないけど歩道を走るのも危ないことだからめっさ注意してねって言いたかったのだろう。車がどうとか子供だまし言うから悪いんだな。そう、子供が相手だから子供向けな話になるのはしょうがないけど子供だましはいけないなあ。

 「~~の日」とかいうのも全部子供だましだね。俺から見たらね。さっきクリスマスって単語でたけど12月25日にイエスが生まれたなんて聖書のどこにも書いてないし。そもそもそのへんの大工の息子の誕生日なんていちいち記録に残ってないし。「交通安全週間」なんてだめ。ぜんぜんだめ。だめっぷりがすごいよ。あんたチャンピオンだよ。だめ世界に君臨するだめチャンピオン。なんか交通安全週間だとやたら町でおまわりがうろうろしてちょっとした違反とかもガンガンにとりしまってる。ほとんどいちゃもんみたなってる。百歩譲ってまあそれはよしとしよう。それで交通事故がなくなるならめでたい。祭りなみにめでたい。わっしょいわっしょい。でもふと考える。交通安全週間じゃないときに家族を交通事故で失った人はこれを見てどう思うのかなあ。まあ思うだろう。「いっつもやっとけ。」

 12月1日はエイズの日。ある方がいっていた。この日が嫌いだと。なんかこの日になると思い出したように国のなんかの団体が「エイズ撲滅」とか言いつつ街中でコンドーム配るんだそうな。これにしても「いっつもやっとけ」って話である。エイズに感染した人にとっては毎日が「エイズの日」なわけである。年に一日だけどうこうやって、それでなんかいいことした、仕事した、みたいになってるやつらが嫌いなのだそうだ。とてもその気持ちはよくわかる。

 阪神淡路大震災から~年たちました、なくなられた方のご冥福をお祈りします、とか言うのも嫌だ。嫌っていうのとはまた違うかも。本心からその言葉がでてくるならいいけれど。ていうか本心からそう思っている人は毎日冥福を祈ってるんだけどね。テレビのキャスターとかこの言葉を発して5秒後に「さてさて次のニュースは~」とかほざいて満面の笑みを浮かべながら、事務所のごり押しだけで有名になっただけの何の才能もない馬鹿な女優とか歌手が、社会人として完全に終わってるけど芸能人(笑)として浮き草稼業を恥ずかしげもなくやってますみたいな男とくっついただの別れただのという、公共電波にのせて発信するのはほとんど犯罪なんじゃないかと思うような下らない事柄を報じたりする。震災のことなんてどうでもいいと思ってるようにしか見えないよね。むかつくよね。

 予言、というか断言する。数年後には3月11日も、言葉上でだけ適当に深刻にしゃべってそれで満足しちゃう馬鹿でこの国は溢れる。下手したらすでにあふれてる。深刻ぶって心にもないこと言って体裁を保ってそれでなにか自分をすばらしい人間みたいに錯覚する馬鹿。そんなやつらはもうしゃべるな。もう口を開くな。消えてなくなれ。

 さて今日2月16日寒天の日。山のように盛られていた寒天ももうもはやない。ごみにだしちゃったから。心が晴れ晴れとしている。天気は悪いけど。わろしだけど。はは、わろす。最後に書き記しておかねばならない。「~~の日」なんて無駄だと声高に主張しているのは別におとといのバレンタインデーでどの女性も誰一人としてチョコレートをくれないばかりか話しかけても一言の返事もしてくれない、という憂き目にあったからではない。ではない。2回も否定してしまうくらいそんなことはない。そもそもおとといに限らずいままで生きてきて経験したバレンタインデーすべてでそんな目にあっているからではない。まあバレンタインもただの子供だましだし無意味なんだけどなっ!何故だかちょっと泣けてきたけどなっ!!

(初出 『月刊 オパーリン王国 2012年2月号』)

 


昆虫バンジー

「昆虫バンジー」

 

 アフリカのある部族では一定の年齢に達した者は長いひもを腰に巻きつけ、高いがけの上から飛び降りる、いわゆるバンジージャンプのようなことをしなくてはいけないらしい。今日本に暮らす私たちがバンジージャンプと聞けば「スリル満点じゃん。いいじゃん」と思うかもしれないがそうではない。これは成人になるための儀式であって、「俺無理っす。マジこわいっす。」などとほざく者はもう成人として認められない。「人と成る」と書いて成人である。成人として認められないものは人未満、簡単に言えば虫である。このバンジーをクリアできない虫はその部族の中でつまはじきにされ、何か発言しようものなら「虫のくせにうるせえよ」「くせえよ、虫はくせえんだよ」などと言われて殴る蹴るの暴行をくわえられたりする。家に火をつけられたりする。だれしも虫でなく人間になりたいから皆そのバンジーをクリアするために幼きころから精神面を鍛え、鍛錬を積む。その鍛錬の結果として立派に鍛えあがった強靭な精神力をもつことができ、バンジーをクリアしてその者は成人になれるのである。

 日本ではどうだろうか。日本では二十歳になった時点で誰であっても成人として認められる。バンジーなんかする必要はない。やっほう!近代国家ニッポン万歳!と喜びたいところだがすこし考えてみたい。本当にいいのだろうか?

 自分の周りにいる「成人」の皆さんを思い浮かべてみた。勤務中に仕事そっちのけで私に「勤行はいいよ~勤行したら心がすうってなるよ~」と得体の知れないものを勧めてくるばあさん。「ちょっとチベットいってくる」といいのこしてそのまま消息不明になった友人。大学七年生になっていまだに卒業に必要な単位を取れていない高校のクラスメート。自分で自分の食い扶持も稼いだこともないくせに何故かわかったようなツラをして自信満々に社会を語ってるやつ、就職活動中の学生とかに多いけど。こいつらは本当に「人」に「成って」いると言えるのだろうか?虫なのではないだろうか?極端な例ばかり挙げたけれども、テレビをつけて国会中継を見ていると、どうも虫にしか見えないような先生方もちらほら見受けられる。しかも総理大臣だったりもする。ワイドショーで誰と誰が熱愛中でどうのこうのと嬉々としてしゃべっているのは完全な虫である。もはやハエである。まあそういう私もまた虫だったりするのだけど。このようにとうてい成人にはなれていない、すなわち虫である連中が成人面して選挙で投票したりするのである。これはちょっとヤバイんじゃないの?と思う。

 じゃあどうすんだよ、という話になるわけだが、そこはやっぱり教育なのかな、と思う。ちゃんと人に成れるよう、虫たちを教育するのだ。それには学校もそうだが、なによりも家庭での教育が大切だと思う。

 親の愛は海より深い、みたいな言葉もある。親としては自分の子供を虫ではなく人にしたいと願うからどうにかして子供に教育を施そうとする。しかし、親による虐待、また親に突然の不幸があったりして、家族とともに暮らせない子供なんかもいると聞く。痛ましいことである。残念なことである。しかし、この日本という国はそんな彼らのために「里親制度」という素晴らしい制度をつくった。すなわち裕福な立場にいる富豪に家族とともに暮らせない子供たちを引き取ってもらい、彼らに家庭での教育を担ってもらおうという制度である。なんて素晴らしい制度だろうか。ナイスなことこのうえない。いろんな新興宗教団体がこの制度をバンバン悪用して、幼い子供たちをガチガチに洗脳しているという事実もあるが、とにかく最高だ!

 現実問題、今この社会のかなりの割合を人ではなく虫が占めている。そして虫なので群れたりする。右と左に分かれて群れている。群れからはぐれると何もできないくせに自分だけはいっぱしの人間だと思ってる。そんなしょうもない虫たちの集団の中で、他の虫より優位に立つためだけに足を引っ張り合って貶めあっている。居酒屋なんかで虫同士の会話を聞いているとおもしろい。延々自分たちの所属している群れへの不平不満、群れの中にいる弱者へのあざけり、根拠のない虫けららしい噂話、そんなのばかり。自分が虫けらだと気づく、それこそが「人」に「成る」ための第一歩なのに、「自分だけは正しい人間だ」と思い込むバカが多すぎる。自分の「正しさ」を確信した瞬間、過ちが生まれるということがわかってないやつはもう害悪を通り越して哀れだ。例を挙げるとA日新聞に投書とかしてるじいさんは哀れだ。捕鯨船に嫌がらせするのを生きがいにしてるやつ。「環境保護」だの「人権」だの、綺麗っぽく聞こえるお題目をとなえているけれど実態はただ活動するためだけに活動してるやつ。こんなやつらは無残としか言いようがない。こいつらに言いたい。「虫のくせにうるせえよ」「くせえよ、虫はくせえんだよ。」

(初出 『月刊 オパーリン王国 2012年2月号』)

 



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