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夕ご飯の時間に、脈絡なく

夕ご飯の時間に、脈絡なく               安倉儀たたた

 
 
 
 
 
 
 
 夕ご飯の時間に、脈絡なく夏奈が「女の子になりたいなぁ」ってスプーンにカレーをのせたままでつぶやいたから、きっと私に何かいいたいことがあったんだろうなぁって思った。夏菜は私のたいせつなひとだから、私はきっとその謂いに答える義務がある。
 でも、私はタイミング悪く喘息の発作を起こしてしまったから、カレーとかスプーンとか、ツタヤにビデオ返すのとかを全部放棄して、夏奈は私に冷えピタをつけたりしなくちゃいけなかったみたいで、すごく悪いことをしちゃった。五月と、六月だけ、どうしてもだめなの。花粉とか季節とかじゃなくて、心の問題なのかもしれない。夏奈は翌日のお昼までずっと、私につきっきりで、手を握ってくれたり、レモネードを作ってくれたり、ちょっとだけ歌を歌ってくれたり、ジェンガを一人でやったりしてくれた。夏奈が謂いたかったことはそれでたぶん永遠に聞きそびれてしまった。
 一日休んだら咳がとまって、お昼ごはんが食べたい、って私がいったから、じゃあどこかに食べにいこうかって夏奈がやさしく配慮してくれた。どこにいきたい? って夏奈が聞いたから、すごく、不思議な場所って私は答えた。夏奈はじゃあ深川に行こうかって言ってくれた。
 清澄白河で降りてから深川めしを食べたんだった。東京都現代美術館ではフセイン・チャラヤンのファッション展をやっていて、そこでキプロスやイギリスの間にある、政治や文学の溝の間で、着れない服を着たまま歩き回ることを勧めていた。日本でのうのうと生きている私たちにはきっと受け止めきれない、重くて苦しいいろんなメッセージを込めた服が展示してあった。夏奈はその展示を見るたびに、ひとつ、ひとつ、おもたく頷きながら、何かをかみしめるような顔をする。
 でも正直、私には麻酔を象徴するたくさんの悲劇を写した映像や、盲人のように目をつぶって編んだワンピースの意味がよくわからなくて、ときどき困った子供のような表情で夏奈を見上げなくちゃいけなかった。
 常設展では、ものすごい鉄銅匂のする大きな花の中のみたいな場所で一休みした。天井から垂れ下がるたくさんの布の合間をぬって床に設置されたソファの上に、二人で手をつないで横になる。半透明のガラスからうっすらと日がさす天井をぼんやり眺めながら、人間って歩くと疲れるのはどうしてだろうねって聞いたり、手をつないだり離したりしながら、天井の高さと建ぺい率の話とか、夜に『呪怨』を見ながら、もし怖くて眠れなかったら一緒に風邪薬飲もうねとか、飯岡さんの悪口とかをいって過ごしていたのだった。すごい匂いが充満する空間に置かれたソファは、天界のどこかみたいに居心地がよかった。信じられないぐらい高い天井と、そこから垂れる布の花は、まるで宇宙みたいだね、って私が意味もなくいったら、夏奈はだって宇宙の中にいるじゃん、私たちってっていう。
 ……そっか。宇宙の中にいるんだ。
 現代美術館を出るとすぐに、夏奈がずっと遠くまでいきたいといったから、鉛筆を倒してそっちのほうに歩いていくことにした。ずうっとまっすぐ歩いていたはずなのに、なぜか東京駅に来ていて、夕方になった時に、じゃあ帰ろうよって私が言うと、不承不承っていう仕草で、うん、って夏奈はうなずいたんだった。不安なの? ううん。 何かあるの? ううん。ううん。ううん。ううん。なんでもない。私はそういうときの彼女がとても苦手で、聞いて欲しいことがたくさんあるはずなのにそのどれもを見せてくれない。それが傷なのか傷跡なのか。わがままなのか、悲しみなのかも区別がつかないままで、彼女に接するのはいつもそしてなんだか、とても怖かったのだった。
 それから、わたしは胸の奥になにかがひっかかるような感じをおぼえてつぶやく。「私、男の子だったりいいのに」「なに、それ?」「そしたら、いまと全然ちがってたのに」
 ぎゅむっと、唐突に頬を抓られて、痛いというよりも驚いた。ひょあい! って悲鳴をあげてしまったんだった。眉根を釣り上げるように寄せながら、目は悲しみで濁っていた。夏奈はそれだけで何も言わなかったけれど、そういう時の彼女は間違いなく怒ってる。怒らなくてもいいのに。でなければ、怒ってくれればいいのに。夏奈はいとおしいし大事な関係の人だけど、でも私は彼女のことがよくわからない。
 秋になったころに、富士山の麓のあたりにすごくキレイな薄の野原があるから、そこに行こうよっていう話をしたことがあった。夏奈はそれで、その時付き合っていた男性に車を運転してもらって、三人で六時間ぐらいかけてそこまで行ったのだった。ずうっと東京で生まれて東京で育ってきた私にとって、富士山に「麓」があるっていうことはその時でさえ新鮮なことだったし、そこに生えたススキの軍勢が見渡す限りの黄金になって波打つ姿は無邪気に感動するにたる出来事だったなあと思う。デリダやパースや、グリッサンの言葉は私に正義や平等や多様性の観念を教えてくれたけれど、人生において感性の存在を許されることは教えてくれなかったから。
 車中でセックスをしている二人から離れて、私は黄金の波へと入っていく。
 松尾直樹先生がずうっといたらよかったのになぁ。梅田さんや正志ともきっといまでもずっと仲良くやっていただろうし、私ももうちょっとだけ違う人生があったのかもしれない。そういうことを考えちゃいけないよ、って夏奈ならいうんだろうけれど、私はきっと首を振りながらこういうと思う。だめ。それでも怖いの。どこかのタイミングでそっと消えていくたくさんの思いや記憶があるなら、その中に私は絶対に含まれている。私にたくさんの意味を与えくれた人たちとの関係や未来が音をたてて、ぶつ、ぶつって切れることを何回も聞いたから、自分は綱渡りのようなリズムでしかこうやって生きていけない。だから、だからずっといてほしいの。夏奈にずっとそばにいてほしい。夏奈はそういわれたらものすごく困って、うん、わかったわかった。私はどこにもいかないし、どこかにいったとしても、君のそばにいるからねって曖昧に言うに違いない。そう言われるのが怖いから、私は何も言えない。
 夏奈が私のそばにずっといてくれる理由はよくわからないけれど、それはきっと運命か何かに近い力学なんだろうと、夏奈の彼氏はいってくれたことがあった。もともと、私が正志と恋人の関係だったころに正志の知り合いが夏奈に紹介した人だったから、私とは夏奈とつきあうより前にけっこう親しい関係ではあった。ほんの二年とちょっと前ぐらい、私は正志や彼の優しい知り合いたちと親しくならなければ生きていけないぐらいに深刻な状態だったから、その引け目があるのかもしれない。でも、そのことを夏奈には知られたくない。
 黄金の波をかき分けて進むと、自分も一本の薄になってしまったかのような錯覚にとらわれる。私たちが一本一本の薄だとしたら、ただ風にゆられてうごめくだけでもきっと大きな価値があるのだろう。波打つ薄を抜けると、何の脈絡もなく石だらけの空間があったりして、なんとなくおもしろいなぁと思う。
 
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 年が開けて、なんの脈絡もなく――ないように見えた――夏奈が彼女の、そして私の母校だった場所の教師に就職した。あれほど人生に苦しみ、私に困り、すべてが投げやりだった一年の何もかもを嘘にするみたいに、夏奈は粛々と教師の職を遂行していった。インターネット越しに、クレジットカードで本を買うことが増え、寝て起きる時間が変わって、あまり顔を合わせなくなっていった。不在の発注主の代わりに私が受け取るアマゾンの箱が、夏奈以上に夏奈の存在を私に実感させた。まだ彼女が触れてもいないそれに、夏奈の残滓を吸い込もうと、抱きしめて匂いをかいだこともあった。一人で家にいると胸が苦しくなって喘息の発作が起きたこともあって、そんなときは一人きりで少しだけウイスキーを飲むのだった。一年中、いつでも。夏奈は呼び出せば来てくれるかもしれないと思いながら、そのようなできもしない妄想が私の体にさらなる虚弱や病気を持ち込んできたのかもしれない。二キロ痩せて、三キロ痩せて、痩せすぎのゾーンに入った。彼女が夏休みの時に私は一度大きな病気をして、すごく大変だったけれど、その短い期間に私の体重が一匹の鶏分ぐらい増えたことがうれしかった。
 松尾先生から暑中見舞いがきたときに、便せん五枚分の長い返信を書いた。今でもずっと勉強を続けています。たくさんの本を夏奈は買っています。だから、安心してくださいって。それに対していつもならすごく丁寧なコメントが返ってくるはずなのに、いま松尾先生の代わりにいるはずの飯岡から一言三言、読み取れないほど小さな、几帳面で神経質な字で拝領の知らせだけが書かれていて、ああ、本当に松尾先生はいなくなっちゃんだなぁと実感して、ホチキスで乱暴にとめたノートのメモのなかから松尾先生の短信をいくつか取り出して読んだ。綺麗な字だなって、私はただそのように思うだけだったけれど、もしかしたら包丁で手をきったのはそのせいだったかもしれない。夏奈は目に見えて神経質になっていた。仕事が大変なのかもしれない。私の切った手を見ると、絆創膏をはがしてそこをなめてから、きちんと消毒しなおして、また絆創膏を丁寧に巻いてくれた。
 「ありがとう」
 「どういたしまして」
 私たちは、こんな風に何年も過ぎて行くのかもしれない。私はそれを耐えられないといって泣いて、まちがいなく夏奈はその理由がわからなくて、すごく困ったのだろう。ああ、幸せになりたいなあ。幸せ。転がっていたらいいのに。『永遠と夜戦』を読みながら、私は梅田さんに電話をしたけれど、出てくれなかった。正志には怖くてかけられなかった。月曜日になる前に読み終えてしまいたくて、その日は300ページぐらいまで読んだのに、いつの間にか寝てしまっていた。
 
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 間のあいたある突然の日曜日に、映画にいこうよと夏奈が誘ってくれたのは、よっぽど私に余裕がなかったように見えたのかも知れない。『アリス・イン・ワンダーランド』を見に行って、なんだかあの黒いサングラスみたいなものをかけて、どこかのスパイか、お笑い芸人みたいだねって久しぶりに笑い合ったような気がする。
 ティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』は面白かったけれど、妙に生々しいCGや二十歳のアリスの姿にはどうしても馴染めなくてなんだかアリスのように強い想像力をもってがんばれと責められているようでなんとなくイヤだった。夏奈はアリスかわいかったね。とかいって私は中途半端な同意をするんだけど、コーラを飲みながらジャバウォッキーの舌なめづりに眉根を寄せていた彼女には映画なんてそもそもどうでもよかったのかもしれなくて、それも不安で全然集中できなかった。『アリス・イン・ワンダーランド』は先行する無数の『不思議の国のアリス』との競合を捨てて、アリスの物語的な強度や不条理感を、混沌からの秩序形成にすり替えてしまった。首をはねよと怒鳴り続ける赤の女王ではなく、実際に物語の中で他者の首をはねたのは――死を与えたのは――アリスただ一人だったということの批評性や、無数の「目潰し」が象徴する視覚の簒奪という伏流が渦巻く空間の中は、なんだか夢物語としてもあまりにも現実的な冷淡さに塗れていて、ジョン・ヘンダーソンが『鏡の国のアリス』で行ったようなクリアランスのあるポストモダン的な映像美が完結してしまった以上、それはどうしたってファンタジーに回帰するしかなかった、というのもわからなくはない。私は指をなめて、あ、でもチェシャ猫は超かわいかった。くるくる回りながら現れたり消えたりして、そういうチェシャは、やっぱりもっとニヤニヤしながら、もっと私たちを困らせてほしかったのに。って思う。猫たちはいつもいつも、私たちの世界と、私たちの世界ではない場所との間を行き来する。その自由さがほしかった。
 猫は犬よりも高貴な存在だったのだと正志は教えてくれたことがある。いまは何をしているかわからない正志はなんでか『枕草子』が大好きで、その中に「翁丸」という犬と「命婦」という猫がいて、犬が去った後に撲殺されてしまったという話をしてくれたことがある。ただ、私が読む限りそれは後日談があって、撲殺された犬の後にやってきた犬もいて、それが「翁丸」だったのだと清少納言は謂っているように思えた。でも、その記述は犬や猫に対する興味をかき立てるようなものではなくて、犬も猫も、結局はどうでもよさそうだなあって思ったんだった。
 映画について、それから猫や犬について、幾つかの精神分析的解釈や、傷が象徴する傷跡と傷をめぐる解釈が頭をよぎって、そういう言葉が口から漏れる前に、夏奈と明日の朝食の話をはじめた。
 帰り際に寄ったつぶれかけたのスーパーの総菜売り場で、あー、そろそろ結婚したいなって唐突に彼女がいったから、私も死ぬ準備をしなきゃいけないのかもしれないなぁって、唐揚げをカゴに入れながら思ったんだった。
 
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 深夜に死神がくると私は身を固くして暗闇の音を聞く。その音はじりじりと何かが焼けつくような不吉な階調で、人を苛む悪の音調だといつも思う。死神はずっとずっと昔、私にまだ母と父がいたころから不定期に私のところへ通うようになったのだった。
 私たちに残された時間や、残されなかった様々な遺産に目がくらんだ母が犯したいくつかの愚行のうち、最大のものがこの死神だったのだろうと思う。結局のところ、それほど強い人間ではなかった両親にとっては娘なんて安価な生け贄に過ぎなかったのだ。
 私はじぃっと身を潜めて、静かに息をする。大腿に触れる骨張った感覚は虫が這いずり回るようにいやらしく、上着のどれにも触れていないままで下着がはがされたことを知る。正志は私に死神がくると、不思議そうに目をつむる私に「大丈夫?」って曖昧で当惑した声で聞いてくれていたっけ。結局梅田さんは私の死神を見たことがなかったから、もしあのときに死神がきたらどうなっていたんだろう、とか思うことはないわけじゃない。
 死神に触られた箇所は少しずつ腐っていく気がする。胸はなくなり、腕は不健康にほそく、腹部は水ぶくれのように大きくなって餓鬼みたいで、肌もどんどん黒くなる。
 胸へ、腕へ、虫たちが這い回る。骨ばった全身が覆い被さると、私は耐えきれずに胃のものを吹き出した。
 死神はそれから、彼と私にしか通じない言葉で、恐ろしいことを言う。それをやめてもらうために、私はいろいろなものを差し出す。骨や腕、全身の皮膚、性器も。それを楽しむのか、それを何かに使ったのか、おぞましい匂いのする、ぐちゃぐちゃに混ざった液体を私にかけてから、死神は私を存分に楽しんだ。悲鳴を上げる。絶叫する。喉が枯れる。
 夜が開けると、夏奈が私を見つけくれる。饐えた匂いがする一室の中のなかで。そのとき私はきっと満足をしている。死神は誰のもとにでも等しく訪れる可能性があるのだけれど、私は、私の身をもって夏奈を守ったのだと信じている。
 夏奈は無表情で私を抱き起こす。まずはシャワーを浴びせてくれて、その間に布団を掃除するのだと思う。この汚れた衣類と布団をみてほしい。吐瀉物と血液、愛液と汗。人が出す液体のことごとくが詰まった繊維を、もっともっとよくよく見てほしい。あなたを守るための戦いの、その決戦の、血潮だったのだとわかってほしかった。
 でもそれは期待してなんかいない。もしかしたらいつか私は両親が死をもってそうしたように死神に打ち勝つかもしれにないし、死神が私を壊すかもしれない。でもどちらでもいい。大切なのはぜんぜん別のことなのだから。
 シャワーを浴びて、全身をくまなく洗った。シャンプーもする。
 「朝ごはん、なに?」
 夏奈は答えてくれない。でも知ってる。きっと夏奈は私のことをすごくすごく考えてくれている。私のために、私のことをすごく考えてくれているはずだ。
 
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 私と夏奈はそれから数ヶ月たって、一緒に海にいった。何百人ものビジネスマンがとまっている海岸沿いの大きなホテルで、でもそこは予約がうまくされていなくて追い出された。しかたなく近くにあった小さなホテルに宿をとって、私はその殺風景な六畳間に衣類をおいて水着に着替えた。パンツをぬぐ。
 「ちいさな体だね」
 私の体を見て、夏奈がつぶやいた。夜夜に戦う死闘にあけくれたこの体を見にくい、ではなくて小さい、といってくれたことがなんだかちょっとうれしかった。でも、私の裸をみる彼女の目が、いつものように優しいものでも、いつもよりももっと激しい時の興奮と欲望に満ちた熱いものでもないことに、私はものすごく戸惑った。戸惑って、うめいている内に彼女はさっと水着に着替えて、海岸へいこうと促した。
 オンシーズンでも平日の海は、なんだかびっくりするぐらい人が少なくて、潮風にぬれきった体を海の方へと向けている鳥のほうが多いように思う。風は信じられないぐらい強くて、その強風に向かうでもなく、乗るでもなく中途半端な旋回を繰り返すカラスの群れが、何かの暗黒を示しているのかもしれなかった。
 私はパラソルをもって適当な砂場に突き刺すと、その下で転がった。水をたっぷりと含んだ海岸の砂は舞い上がることもなく、花火の残骸がまつろわぬ神々への捧げ物のようにそばを転がっている。
 男は音もなく現れて、私を恐ろしい目でみた。軽く、おろかで、すぐに遊べるおもちゃを見るときの子供のような目で見てから、自分はずっと軍隊にいたのだ、と言った。
 たくさんのホテルのどれかをランダムに示したときにあるだろう、平凡なビジネスマンの平凡な人生とは違う、本当のほんとうに狂気が満ちあふれた場所にいたんだ。ケイリー・ディムルッドを知ってるか? 最強にもっとも近づいた鴎兵の一人で、俺の友人という友人はケイリーの銃弾で挽肉にされた。人という人を殺しきった男たちを相手に、俺たちは二時間も生き抜いたんだぜ? 二時間もだ。
死神を相手にそうしたんだ。でも二時間しか生きれなかった男がどうしてここにかえってこれたのか、聞きたいだろ?
 「バナナフィッシュだ」
 私ははっとして、男の顔を見た。透明な目をしていた。透き通った目は鏡よりもつよく相手を映し出すと聞いたことがある。バナナフィッシュをみたという男は生存している。
 バナナフィッシュがどんな魚であるか、どんな形状をしているか、男は蕩々とまくし立てた。その股間は勃起していて、全身の肌は赤く、目は血走っていて、私はそれを下から見上げている。パラソルの天井をさして、私はバナナフィッシュを見たといった。男は惚けた顔をした。
 しばらくしたら、きっと男は自殺するのだろう。死神は私に覆い被さりながらそういった。死神はいつも羊の頭蓋骨をかぶっていて、羊の頭蓋骨以外の顔はない。目の奥のようでもあり、ただの空虚でもある場所に吸い込まれていくような感覚があって、実際にそうなっていたのかもわからない。
 死神が消えてからしばらくして、ずどん、と大きな音がした。
 その音は大きな拳銃で男が一人、自分の頭蓋骨を打ち抜いた音で、その銃弾は隣の部屋を突き抜けて、別の男も殺したのだという。その男が、夏奈の恋人で、その日夏奈は私を海岸においたまま、彼と体の関係を重ねて、結婚して関西にゆく約束をしていたのだと、警察から教えてもらった。
 
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 母校に入ったとき、前に私の面倒をみてくれた美術の先生が校長先生になっていてすこしだけ驚いた。私のことは完全に忘れていたけれど、私だけが覚えている不均衡が不満で不安で、美術の先生にとってみたら私は「社会の先生」の夏奈の、なんなんだろう。
 私はたくさんの高校生や父兄に混じって、青いワンピースを来たままふらふらと見覚えのある場所をあるいて回った。途中で疲れはてて、ずっと昔にどうしても授業にでられなかったときに休んでいた非常階段の下でしばらく体育座りをしていたけれど、昔助けに来てくれた夏奈は、今教え子たちと一緒に崩れかけた大聖堂でバンドをやってるのだろう。
 いつまでそうしていたんだろう。日がくれて、誰もいない校舎を少し歩いて祭の後を感じた。気がつかないうちに私は少しだけ泣いていて、彼女が誰かを教えているはずの三年二組の教室にきた。四角い空間に折り目正しくイスと机が並んでいて、ずっと座っていたら頭がおかしくなりそうな安っぽさ。窓から見下ろす夕日の強い光のなかで、たくさんの低い家家が一軒ずつ、ゆっくりと光を灯し始めていた。眼下に広がる小さな都市の中に、紫色の区画が見えた。私は目がわるいからそれが何か見えなかったけれど、きっとすみれが群生して花を咲かせているんだろう。
 夏奈が駆け込んで教室に入ってきて、自分のステージを見てくれたかとか、あの曲はどうだったかとか、いつもとは違った赤ドレスを何箇所も色とりどりのテープやソーディングで短く結びあげた格好で、大ぶりのギブソンを抱えてはしゃいでるみたいに私に抱きついた。演奏の興奮やたくさんの拍手に囲まれた興奮が彼女の頬を赤く染め上げたままで、こんな幸せな、不思議な気持ちはないのっ。私はいまとてもうれしくて、なんだか、会いたかったよって。私の横を通り過ぎていった熱を帯びたそんな言葉が部屋にこもらないように、私は窓を開けてみた。アルミサッシが鈍い音をたてて開いて、思っていたよりもずっと強い風が入ってきた。夏奈はあまりの風の強さに数歩後退したけれど、ふわりと舞ったドレスがなびいて、ああまるでこれは支配を開始する王のようだ。ケセナキスの音楽みたいなもの。
 彼女はなんだかわけがわからないながら私にむかって、人生の素晴らしさをまくし立てた。彼女の言葉のいくつかはどうしようもないぐらいに残酷で冷酷で、いままでの私や私たちの関係を全て否定してみせたのだった。鮮やかなまでの改心と転向があって、私はただ昔に戻りたいなあと思うだけだった。彼女の言葉を私は遮る。「重くて、迷惑だった?」「違う」。即答の中にある迷いを断ち切るように、夏奈は決然といった。あなたがどんなになっても、私がいるから、大丈夫。
 それを聞いたから、もう大丈夫だなって、私は思う。ほんの二年前に、仏書と聖書と日本文学の全集が整然と並んだ小さな図書室の中で、ガラス戸の向かいに設置した古いパソコンに隠れながら、赤い太陽が沈むその時間まで酸素を求める炎のようにお互いを欲したあのときとは違うのだから。何冊もの本や情報や過去や因縁に押しつぶされる恐怖から逃れようとしていたときとは何もかもが違ってしまった。二人で沢山の幻想について話をしながら、その話の中にでてきたグリフォンやモック・タートルや鳳凰や腹に顔のある人と、龍や虎や、現実にはありえるはずのない幸福な幕引きの数々や物語の優しさに包まれていた、幸福な数日間が砂のように消えていってしまう。
 手招きをする暗闇が見える。遠くのほうで、近くにそばで。死は自由を与える。私にも、あなたたちにも自由を与えるはずだ。
 十五秒ぐらい彼女は沈黙して、肩が上下する呼吸を聞いた。
 「ひとつだけ聞きたいんだけど、いい?」
 「なんでも」
 私はゆっくりと、彼女の背後を指さした。ゆっくりと振り向こうとする彼女に、私は聞いた。
 「私は、いい子だったよね」
 夏奈がはっとして私がいた窓をみたら、もうそこに私はいなくて、彼女に吹き付ける強い風だけが残されていたと思う。スティーブン・ミルハウザーが夢想した落下の退屈に、私は泣きながらざまあみろって小さく抵抗した。(了)
 
 
 
夕ご飯の時間に、脈絡なく
二〇一二年五月六日発行
著 者  安倉儀たたた
発行者 梅田 径
発行所 左隣のラスプーチン
印刷所 俺の家
製本所 俺の家

この本の内容は以上です。


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