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 最後に桜を見たいと思った。穏やかな春の夜にかけがえのない思い出のある、あの場所で――                                  

 毎日が全く面白くなかった。仕事をしていても、休みの日を過ごしていても、酒を飲んでみても、心が踊るようなことは何一つなかった。
 三十八歳独身。生命保険会社勤務。役職は主任。年収七百万。この御時世を考えれば、僕は充分なステータスをもっていた。
 でも、僕は孤独だった。中学二年の時、ある日突然、母が何の予告もなく家を出て行った。理由は職場の上司との不倫。その上司が大阪に転勤になったのを機に仕事を辞め、背中を追いかけて大阪に行き、水商売をしながら単身赴任となったその上司のマンションに足繁く通っていたらしいのだ。
 真面目で優しくて穏やかな性格の父は母の不貞に全く気付かず、突然いなくなった母のことを何かあったのではないかと心配し自分が裏切られ愛想を尽かされたなどとは全く想像しなかった。
 母の安否と行方を知る為に探偵事務所に依頼をした。それで始めて真実を知った父は愕然とし、魂を抜かれたようにうつろな目で下を向いた。
 次の日、僕が学校から帰ると玄関に仕事に出かけたはずの父の革靴がきれいにそろえて置いてあった。不思議に思い、居間に入ると……そこには変わり果てた顔をした父の体が宙に浮いていた。
 外は桜が満開で、人々が花見の席で談笑し、暖かい春を穏やかな日差しを心地よい空気を感じている。でも、帰ってきた我が家はまるで、自分の家の上にだけ黒い雲が乗っかり、雷が落ち、激しい雨が降っているような、そんな感じがした。
 僕はその時に思った。優しい人間は不幸になり生きる望みを失くし、欲望の赴くまま平気で裏切る人間がのうのうと生きてゆくのだと。
 その時から、僕は女性を信じられなくなった。中学三年の一年間、高校生活、大学生活、そして社会人になっても、僕は恋人などおらず、一人きりだった。
 両親を失った僕は父の弟にあたる親戚のおじさんに引き取られた。おじさん夫婦も僕が高校を卒業した時に離婚してしまった。その理由については興味がなかったのでよくわからないが、どうやら父の家系は幸せな結婚生活を送ることができない因縁があるようだった。
 つまりは父の血を引いている僕も誰かを愛しても、きっと結婚は失敗する。それならば、恋愛もしない方が良い。誰ともかかわらない方が良い。そう思ってこの歳まで孤独を貫き通してきた。
 ただ、過去にたった一人だけ……心を奪われそうになった女性がいた。その人を好きになってしまいそうになった。


 田中里美さん――。大学生の時のバイト先の仲間だった女性だ。その当時、彼女は二十九歳。僕と彼女は有楽町の駅前に新しく建設されたオフィスビルの中にあるカフェでバイトをしていた。僕は厨房でカフェのメニューの担当。オーストリアのウィーンの喫茶店からレシピを取り寄せたというその喫茶店のコーヒーやパフェはどれも本格的で、厨房での調理はコーヒーをカップに注ぐだけとか、ガラスの器にアイスや生クリームをただ積み重ねるというような簡単なものではなかった。
 お客様に提供する形も銀製のトレーに見栄えが良いようにぴったりと配置が決まっており、デッシャーと呼ばれるセットする担当も速さと見栄えの両方のクオリティを保たなくてはならず、なかなかのスキルが必要とされる仕事だった。
 彼女はそのデッシャーを担当することが多かった。彼女が一番、仕事をこなすことができたからだ。厨房とデッシャーの連携はとても重要で厨房側からは、次にどの商品が出るのかをデッシャーに伝え、デッシャーはそれに応じて迅速にセットをする。
 僕と彼女の連携は息がぴったりで、彼女と組む時はどんなに忙しくてもスムーズに注文が通り、お客様にもそれほど待たせることなく提供ができた。
 厨房から商品を出すときに幾度となく彼女と目があった。そこには僕が否定しつづけた信頼があるような気がした。目が合ったときに時折見せる彼女の笑顔に心を揺さぶられることもあった。
 
 三月の下旬のある日。桜の蕾も膨らみ始めて、もうすぐ春という時季に季節外れの寒波がやってきた。早朝から雪が降り東京都心も積雪を記録した。午前九時には十センチの積雪となり、電車は運転見合わせや遅れが相次いだ。その日に出勤するはずの従業員も足止めを食らい、まともに出勤できたのは僕と田中さんだけ。店長も開店の十分前になっても到着していない。
 あわてて店長の携帯電話に連絡をしてみる。 「店長、大谷です。今、どこにいらっしゃいますか?」
「ごめん、電車が動いていないのでタクシーでそっちに向かっている。でも、道路も渋滞していて車がなかなか進まないんだ」
「僕、鍵とかもってないのでお店開けられないですけど、どうしますか?」
「ビルの管理室に行って、事情を話せば鍵を渡してくれるはずだから、大谷君が店を開けてくれるかな? ほかに出勤しているスタッフはいないの?」
「あとは田中さんだけです」

 「そうか、君と田中さんなら二人でも大丈夫そうだ。俺が行くまで、なんとか二人で頑張ってくれ」
「わかりました。やってみます」


 何とかいつもの時間に開店し、普段と同じようにお客様を迎える準備をするが、その日は日曜日で会社が休みということもあり、お客様は全く来ず開店休業のような状態だった。僕は厨房から出てホールで田中さんと外の様子をみていた。
 向かい側の建物は全面ガラス張りの多目的ホールになっている。その建物との間の通りは普段ならば多くの人が行き交い、ランチのお弁当などを販売するワゴン車が多く留まり、開店の準備をしているはずだった。しかし、さすがに今日は歩く人などほとんどおらず、弁当販売のワゴン車も一台も来ていなかった。
 チャコールグレイのアスファルトは雪が積もって真っ白になり、通りのあちらこちらに植えてある街路樹の枝には、うっすらと雪がまとわりついている。いつもは都会的な冷たい印象のモノクロの世界が今日は温かみのある水墨画のように見えた。
「綺麗……、雪って本当に綺麗だね」
 彼女の声はとても綺麗だった。綺麗? いや、なんだろう。なんて形容したらいいかわからない。ただそれは心にじんわり沁み込んで、何とも言えない心地よさがあった
「私、沖縄の出身だから雪ってほとんど見たことないの」 「田中さん、沖縄だったんですか」
 彼女が時折見せるおおらかな笑顔は沖縄で育った賜物なのだろうか。 「雪、あの日以来だな……」
 そうつぶやいた彼女の表情を見ると、大きく見開いた眼には薄い膜ができ、ほんの少しの厚みを帯びているような気がした。そこから一滴の水が流れ、薄い膜は壊れ、その厚みは消えた。
「……」
 僕は彼女の顔から眼をそらした。そのまま見てしまうと、自分の心に変化がおきてしまうのではないかと思った。今まで自分が頑なに閉ざしてきたものに変化が起きたとしたら、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。
 それでも僕は彼女を見つめたいという衝動に駆られ、店のガラス窓に映る、外の真っ白な光景に視線を落とす彼女の顔を窺った。そこに映った彼女の顔はあまりに美しくて現実のものとは思えなかった。
「大谷君、今日仕事終わった後、時間ある?」

 外に向けた視線を動かさずに彼女が言った。

 「はい」

 「一緒に食事でも行かない?」
「はい」
 いつもなら人からの誘いは断るのだけれど、僕はあっさりと返事をしてしまった。女性を信じられない。それなのに彼女だけは何か違った。仕事での信頼関係からくるものなのか、それとも……。
 開店から一時間が経ち、ようやく店長とほかのスタッフも出勤してきた。お昼ごろには雪は止み、電車が動き出すとまばらではあるがお客さんも来るようになった。いつもは戦場のような厨房も今日だけはゆったりとした時間が流れていた。
 オーダーが入っても、それほど急ぐ必要がないので注文が入ったヴィーナリーベと呼ばれるパフェをとにかく形よく、美しく作ることに専念してみる。アイスクリームをパフェグラスの上に置き、キウイ、アプリコット、オレンジなどのフルーツを乗せ、指先を集中し、生クリームを絞る。最後にキウイソースとロールクッキーを乗せて完成させた。
 なかなかの出来栄えだった。僕は満足気にそのパフェを眺めた後、デッシャーの彼女へ渡した。

  彼女はにっこりと微笑み「美味しそう」と言った。
 僕は何故か、その時の彼女の笑顔が、心に焼き付いて離れなかった。


 十八時になった。僕も彼女も上がりの時間だ。
「お疲れ様でした」店長に挨拶をすると「ご苦労様、今日は店を開けてくれてありがとう。助かったよ」と店長は笑みを浮かべて僕ら二人を見た。
 お互い更衣室で私服に着替えて、ビルの一階で落ち合い、有楽町の駅の方に歩いて行った。彼女は何も言わず、まっすぐに前を見つめ歩いて行く。歩道は雪が少し解けて、ぐちゃぐちゃになっているが、そんなことは何も気にせず早歩きで彼女は進んでいった。
 有楽町の駅を抜けて、銀座方面に出る。晴海通り沿いの歩道を歩き、四丁目の交差点までやってきた。
 上空を見上げると、和光の時計台が見えた。その針がさしているその時間はもう、二度とやってこないもので、そう考えると今見えているすべてのものが、かけがえのないもののように思えてきた。後ろから見る彼女の背中もまた、とてもいとおしく思えるような……。なんだか不思議な感覚だった。
 交差点を左に曲がり、二つめの角を左に入った。細い道を五十メートルほど歩いて彼女は立ち止った。 「ここでいい?」
 地下に続く、狭い階段があり“朧月”という看板が掲げてある。和食のお店だろうか?「はい、いいですよ」
 僕がそう答えると彼女は階段を下りて行った。僕はその後に続く。彼女が階段を降り切って左側の引き戸を開けると、いらっしゃいませという穏やかで温かい声が聞こえてきた。
 彼女の顔を見た和服を着た女性の店員は常連のお客様を迎えるような、安心した笑顔を浮かべた。そしてその後、僕にも穏やかな笑顔を向けた。
四人掛けのテーブル席が五席、カウンター席が六席のこぢんまりとした、落ち着きのある店だった。彼女は一番奥のテーブル席に座り、コートを脱いで、壁のハンガーにかけた。僕は向かい側の席に座り同じようにコートを脱ぐ。彼女は僕のコートを手に取りハンガーにかけてくれた。
 彼女にしてもらった何でもないことが、とても新鮮でいちいち心に響いてくる。今日の僕は何かおかしい。僕は彼女を、田中さんを女性として強く意識していた。
「何か嫌いなものとかある?」 「いや、大丈夫です」 「じゃあ、おまかせで二人分お願いします」
 彼女は笑顔で和服の店員さんに注文を告げた。 「どうしたの? なんだか緊張しているみたい」  やさしい笑顔で彼女が僕に向けて微笑む。 
「いや、あんまりこういうお店には来たことないので……」 「そうだよね。大学生だから彼女と食事だとイタリアンとかそういうお店に行くのかな?」
「彼女はいないです」 「本当? 大谷君、すごくもてそうなのに」 「いや、僕なんかぜんぜんもてないです。それに……」

「それに?」
「いや、なんでもないです」 「会話の最初に“いや”ってつけるのは口癖?」  彼女はまた微笑んだ
「あっ、そうなんですかね、気づかなかったです」 「お酒は飲む?」 「あっ、はい。じゃあ僕はビールで」
「わたしは日本酒にしようかな」  そういうと彼女はビールと日本酒を注文した。  前菜がテーブルに運ばれてきた。
「これはなんですか?」 「タケノコの木の芽和え。食べたことない?」 「はい、はじめてです」
 ちいさな山のように盛られたタケノコの上に鮮やかな緑の飾りの木の芽が乗っかっている。タケノコを一つ口に入れる。白みその甘みとだしの香りが口の中に広がる。少しだけ、緊張が解けたような気がした。


「あのね、わたし、なんか不思議なの」

 「はい?」

 「大谷君のこと」

 「……」
「八歳も年下なのにね、すごく頼りがいがあるっていうか、安心感があるっていうか。仕事でよく一緒に組むでしょ。厨房とデッシャーで。大谷君と組む時は本当に安心なの。絶対に失敗とかしなさそうって。大谷君が休みでほかの人と組む時は実はあんまり仕事がスムーズにいってないのよ。知らなかったでしょう」
 確かに自分が休みの日のことは知らなかった。ただ、もう一人いるカフェの担当のバイトも自分と同じぐらい仕事のできる人間だと思っていた。なので、きっとうまく仕事をこなしているのだろうと思った。
「それでね、わたし、大谷君のこともっと知りたいなあって思ったの」  彼女は恥ずかしそうに少しうつむき、再び顔をあげて、僕の目を見た。
「……」
 僕は何もしゃべれずにいた。なんて言っていいかわからなかった。彼女は僕に好意をもっているのだろうか? 恋人がいない男が彼女のような綺麗な人からこんなことを言われたら、素直にうれしく思い期待する。それが普通だろう。
 でも、僕は普通ではない。やはり信じられない。今までもずっとそうだった。ただ、彼女の言葉には彼女の笑顔には彼女の目には、今までの女性とは違う何かを感じていた。僕の心は混乱していた。綱引きのロープの真ん中についている赤いマーキングが中央のラインを行ったり来たりするように、彼女の魅力と僕のトラウマが力比べをしていた。 「僕も、田中さんと仕事で組む時はとても安心感があります」
 彼女は僕の返答に少し不満な様子だ。 「女性としてはどう思う? わたしのこと」  彼女はこう言うと、僕の目を見つめた。

 「……」
 綺麗な人だと思う。でも、積極的な彼女に対しての疑念もある。でも、心が吸い寄せられそうになる。
「僕、今まで一度も女性と付き合ったことがないんです。僕は女性を信じられないんです」
 僕は無意識のうちに口を開いてしまった。心の扉が開いた訳ではないが、窓に穴が開いてそこから本音が漏れてしまったようだった。僕はさらに続けた。
「母が父を裏切って、父は自殺しました。父は真面目で優しくて誠実な人間でした。母のことも本気で愛していたはずです。でも、母は十三年間、夫婦として人生を共にしてきた父をあっさりと、いとも簡単に裏切りました。なので、僕は……女性を信じられないんです」
 思わず、話してしまった。重いよな。こんなことを自分から誰かに話したのは初めてだった。 「……そう、悲しい思いをしたんだね」
 彼女は眉間に少ししわを寄せ悲しそうな表情をした。その後、わずかな沈黙が流れた。
「わたしもね、裏切られたんだ、好きな人に……もう三年前のことなんだけど、話聞いてくれる?」  僕は黙って頷いた。



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