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目次

.zone vol.5

駒とゴーヤーとカヌーと台風 皆川許心

七割未満(五) 清水らくは

将棋短歌
 イニシエーション 清水らくは
 #将棋短歌 

Life is lovely ジェームズ・千駄ヶ谷

どうしたの? 辻村君
 作者による「辻村創造」 清水らくは
 敗戦後の形勢 上石三郎
 ~ツクモさん、五割一分以上七割未満な番外編です!~ 贅楽夢

コンピューター将棋における強さとスペックの関係 ikkn

ふれあう将棋2 ふりごま

オーダー論考 清水らくは

駒とペンギンとおむすび 半島

書評『ものぐさ将棋観戦ブログ集成』 清水らくは

編集後記

作者紹介




表紙イラスト まるぺけ

駒とゴーヤーとカヌーと台風


 夏の始まりのある日、私は那覇空港に降り立った。

 皆様こんにちは、皆川です。今回は沖縄のある高校からご招待があったということで、私が行くことになったのよね。『駒.zone』初めての交流企画なんだけど、大丈夫かな。
 沖縄に来るにあたり、木田さんに色々聞いてきた。彼女は何回か沖縄旅行してるみたいで、私にお勧めのところとかも教えてくれたのよね。自由な時間も結構あるから、回ってみようと思う。

 空港は想像以上に大きかった。そして綺麗。外は思っていたより暑くない。湿気があまりないのかな。大きな旅行鞄を持った人たちがいっぱいいて、まあなんというか、カップルがやっぱり目立つわけで。予算の関係上とはいえ一人で来るのはやっぱりさびしい。
 モノレールの駅にやってきた。ここから中心街まではこれに乗る。「モノレールは渋滞しないから」とは木田さんの言葉。列車がやってきた。これも新しくてきれいだ。発車してからの車窓は、周りに高い建物もなく、気持ちいい。

 公園を通り過ぎ、街の中へ。美栄橋駅で下りる。ここをまっすぐ進むと国際通りなんだけど、そこは後回し。編集長も沖縄には詳しいらしく、「せっかくなのでみんなとは違う旅行記にしたい」なんて言うものだから那覇に宿を取らなかったのだ。そこまで言うならスケジュール作ってくれればよかったのに。
 地図を見ながら、狭い路地を進む。そして一軒のレンタカー店に入り、小さな車を借りた。事前に予約していたものの、びっくりするぐらい安かった。そう、今回の旅は自動車でする。私は普段折り紙つきのペーパードライバーだけど、木田さんいわく「沖縄は走りやすいよ」とのことだった。
 カーナビを起動して、目指すは北谷(チャタン、って読むんだって)。今日の宿はそこなのだ。

 ……迷ってなんかないからね。

 そんなわけで、北谷が近付いてきた。那覇市内でぐるぐる回ったりとか、斜め右に曲がるがわからなかったりとか、そんなことは全然なく順調に到着。本当に。
 少し天気が悪くなってきたみたい。目の前に現れた観覧者。ここはアメリカンビレッジと言って、都市型の大型リゾートらしい。目の前を金髪のお姉さんがベビーカーを押しながら走り去っていった。さすが沖縄。

 とりあえずホテルにチェックイン。部屋に入ると、窓から見えるのは広い海だった。これがオーシャンビューというのね。他人のお金で泊まるホテルっていいよね。


 荷物を部屋に置いて、ぶらぶらとすることに。ビーチにはたくさんの人、人、人。楽しそうね……
 なんか変なのみつけた。 いやあのね、水着を持ってこなかったわけではなくてさ、なんていうか、ほら、ねえ。
 スーパーに入ると、さすがの広さ。これも木田さんに教えてもらったのだけれど、「お土産はスーパーで買うといいよー」とのこと。地元の人が食べてるものを、地元の価格で手に入れられるから。そんなわけで沖縄独特の食材を物色。沖縄そばとかさんぴん茶とか、たしかにお手頃価格という気が。

 ……ただね、ゴーヤーはね。うん、ちょっと苦手。ただ、「沖縄行くんですか? じゃあ、ゴーヤー買ってきてくださいよ」って言ったやつがいるのよね。あいつのためにってわけじゃないけど、まあ買っていってもいいかな。 
「あ、東京の方じゃないですか?」
 突然声をかけられた。びっくりした。振り向くとそこには小顔で淵なしメガネの青年がいた。
「えっと……そうだけど」
「やっぱり。本当に失礼なんですけど、何かで見たことある気がして……どこかで会ったことありませんか?」
 ひょっとしてナンパ? いや、もちろん慣れてるけどね。
「ちょっとわからないなあ」
「お写真で見たのかも……あ、浴衣を着ていたような」
「それは……」
 おそらく将棋祭りか何かのものだ。恥ずかしい。
「人違いだと思う」
 そう言って私は、駆け出してしまった。逃げるが勝ち。
 旅というのは恐ろしい。年下っぽくてメガネとか、あんまり近くにいると気を惹かれてしまうじゃない。



 二日目の朝。宿を出た私は北へと向かう。天気は晴れ。
 海岸沿い、気持ちのいい道が続く。ええっと、今日もオフなのよね。でも「沖縄の魅力を取材ね!」って編集長から……これ、仕事だよね?
 しばらく走って、ハンドルを左に。ビーチを越えてたどり着いたのは、残波岬。車から下りたら、風が強い。人はあんまりいない。
 こんな所から落ちたらたまらないよね。別に高いところが怖いとかじゃないから。
 しばらく波の音を聞く。
 ひとつながりの海でも、いろんな表情を見せる。将棋もどこかではつながっているけれど、誰が指すかによって全く別のものになる。似てるのかもね。



 
 さてっ、ポジィティブにいこうかなっ。
 残波岬を出て、さらに北へ。木田さんは言ってなかったけど、ぜひ見たいと思ってたものがあるのよね。そんなわけで、着きました、万座毛。車を降りてびっくり、露店が並んでいたり。結構な観光地なんだね。
 岬と違い、風は穏やか。柵に仕切られた道を列になって進んでいく。遠くに見えてくる大きな岩。確かに、象の形をしている。
 きりんとかパンダとかの岩はないのかな。
 地元の人はいない気がする。確かに旅行に慣れた人は別のものを見たいかも。でも、一見の価値ありね。


 沖縄は、広い。土地じゃなくて、空と海が良く見えるから、世界が広く見える。いつもどれだけビルや山を見ていたのかが実感できる。

 今日の目的地はまだ先。まっすぐ北に伸びる沖縄本島が、ある地点で西にせり出し始める。そのあたりに名護がある。
 ガイドブックに書いてあった沖縄そばの店に入って昼食。思ったよりもさっぱりとしていた。海や空気のきれいな上澄みを一つの器に入れたような、そんな味。

 進路を西へと変える。今まで通ってきたところが左側に見える。随分と長い距離運転してきたなあ、と実感。ひょっとしたら私、うまいかも。ぐんぐんと進んで、皆と前の駐車場に車を預けた。ここからはフェリー。

 やたらと広い待合室だけれど、そんなに人はいない。チケットを買って、あたりをぶらぶらとする。目的の島は、すぐ近くに見えた。平べったいお好み焼きみたいな感じだけど、中心にごつごつとした山がにょっきり生えている。不思議な島だね。

 フェリーがこちらにやってくる。思ったよりも大きい。考えてみたら、今まで大きな船に乗ったことがないんだよね。ちょっとワクワクしながら乗り込んで、階段を上がっていく。壁の外にも席があって、風を感じながら座ることができた。

 動き始めた!

 白波を立ててフェリーは進んでいく。地元の人が多いのだろう、私みたいにはしゃいで外を眺めている人はほとんどいない。不思議と海を見ていると、将棋盤を思い出す。波と波の間に、駒を置いてみたくなる。何百年昔には、船が戦のために行き来していたかもしれない。そんなことを考えていたら、あっという間に島が近付いてきた。港と、その周囲に広がる集落。ああ、離島に来たんだな、と思う。

 着岸し、しばらくしてから下船の案内。ここが、今回の目的地。この島の民宿で、将棋合宿が行われる。そこに派遣されるゲスト棋士が私なのだ。まあ、沖縄には美少女が似合うという賢明な判断ね。

「皆川さん」
 突然声をかけられてびっくりした。そういえば、宿の人に迎えに来てもらうことになっていた。けれども振り返った私の前にいたのは、予想だにしない人で、私は荷物を落としそうになった。
 白く透き通った肌に、細い体。茶色い髪は肩のあたりで切りそろえられている。私は彼女を知っている。よく知っている。
「前川さん」
 前川蜜、元奨励会員。同世代の中で最も強い女性だった。木田さんは奨励会試験に落ち、私は受けることすらなかった。当時は金本さんの存在なんて誰も知らなかった。女流棋界で活躍することを期待されながら、将棋の世界そのものから前川さんは姿を消した。どこに行ったのか、何をしているのかまったく知らなかった。
「お久しぶり。たまに活躍は聞いてる」
「えっと……どうしてここに?」
「どうしてって、送迎頼んだじゃない。島烏で働いてるの」
「えっ」
 島烏は、将棋合宿が行われる予定の民宿だ。そこに二泊することになっている。詳しいことはあまり聞いていなかったのだけど、従業員が私より強かった人っていうのはどういうことだ。
「聞いてなかった? こっちの高校で将棋部に在籍したりしたの。そこから話が進んで今回の合宿につながったわけ」
 強い日差しの下、日常のことを語っているにもかかわらず前川さんは世界から浮いて見えた。とてもきれいなのだ。嘘のようにきれいだ。それは、小学生の時からだった。決して慌てず、常にマイペースに生きていた。けれども芯が強いとかではなく、自分を装うだけの技術を持っていなかったのだと思う。男の子たちの中で一人凛として、前川さんだけが別の時代に生きているようだった。だから周囲は彼女からちょっと距離を置いた。そして後から考えると、前川さんは別に距離を取りたくなかったんだと思う。将棋は順調に強くなっていたのに、突然奨励会をやめた。一度だけ私に、「みんな、はつらい」と言った。
「なんか、不思議な話」
「そう? けっこう、合ってるって評判」
 前川さんは私を手招きして、白いバンへと誘う。
「さ、行きましょ」
「行くって……前川さんが運転するの?」
「勿論。無事故無違反。二か月目」
 ハンドルを握ってにやりとする彼女は、やっぱり世界から少し分離しているように見えた。ただ、昔と比べたら随分と楽しそうだ。
「じゃあ、荷物載せるね」
「ふふ、変な感じ。皆川さん、プロなんだよね」
「そう。前川さんがプロじゃないのも……変な感じだけどね」
「そうかな」
 トランクに荷物を積み、私は後部座席へ。前川さんのうなじは、背骨が見えるんじゃないかと思うぐらい白かった。
「じゃ、行くよ」


 本島よりも、空が広かった。高い建物はなく、信号すらほとんどない。畑や林の中に工場。今まで見たことのない静かな美しさだった。
 どこまでも平坦で、たった一つ山がそびえたっていて。絵に描いたような光景とはこのことだ。こんなところで将棋を指せるのは幸せだろうね。
「ここ」
 車が止まったのは、一見普通の民家かと思うような建物の前だった。木の看板に大きく「島烏」と書かれている。
「なんかすごく、民宿って感じ」
「元々おばあちゃんがやってたんだけど、引退したの。今は私とバイトの人でやってる」
「前川さんが女将さんってこと?」
「はは、言われたらそうだ」
 玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がる。廊下の向こうに防砂林、そしてその向こうに真っ青な海が見えた。沖縄では、海は誰もが手に入れられる宝物だった。
「もうすぐ人が来るから。なんだったら指しておいて」
「え、そんな適当なの?」
「ここは、そういうところ。あ、泡盛は飲みすぎないようにね。飲みやすいけど、結構酔うから」
「私、そんなに飲めないから……」
「そう。あ、女子部屋はここね」
 前川さんに案内されたのは、ごく普通の八畳間だった。部屋の中に夏の香りが貯まっていた。
「女の子が来るの?」
「何人か。島の人と、女子高生と、小学生。増えるかもしれないし、減るかもしれない」
「うーん」
 なんというか、適当なのは苦手。でもまあ、しょうがないか。
「あと、皆にご飯作ってもらうの手伝ってもらわなくちゃ。皆川さんにも頼める?」
「うん」
 部屋から出てくると、玄関から足音が聞こえてきた。
「蜜さーん」
「了君だ」
 入ってきたのは、小柄で端正な顔立ちをした青年だった。
「頼まれてたもの持ってきたよ」
「ありがとう。こちら、女流棋士の皆川さん」
「わ、本物の! こんにちは、今回お願いした高嶺了です!」
「こんにちは、皆川です。代表者?」
「あ、はい」
「彼氏なんだ」
 前川さんはそう言って高嶺君の方をつかんだ。青年は顔が真っ赤だ。
「へー。可愛い彼女で良かったね」
「そ……そうなんです」
 否定しないのかよ。何かとってもうらやましい。
 その後、続々と人がやってきた。部活の関係者が多い。そこでわかったのだが、高嶺君は年齢は下だが学年は前川さんより上のようだ。
 取材ということを思い出し、写真を撮ったりメモをしたり。そして豆腐を切ったり……?
「ゴーヤーチャンプルができましたよ」
 高嶺君がテーブルに持ってきたのは、緑のゴーヤーに豚肉に卵、そして豆腐の入った料理だった。
「ゴーヤー……」
「チャンプル。島で出来たゴーヤーを使ってますよ」
 実はゴーヤーを食べたことがない。苦いという話だけど大丈夫かな。
「カレーもできたよ」
「これ、ハンダマ」
 テーブルの上にどんどんと料理が乗っていく。人の出入りが多くていったい何人いるのかわからないが、いつの間にか来ていたおじさんがすでに泡盛を飲み始めていたり、子ども同士で将棋が始まっていたりと本当に自由だ。
「じゃ、食べましょう」
 前川さんの合図で、正式に食事が始まる。恐る恐るゴーヤーチャンプルに口を付けてみたが、おいしかった。苦味もあるのだけれど、それ以上に深いうまみが感じられた。他の料理もおいしい。
「あの……一局願いできませんか」
「いいけど、名前は?」
「光城です」
 おそらくこの場にいる中で最も普通っぽい青年。ただ、眼光はとても鋭い。
「手合いはどうする?」
「飛車落ちとかでいいですか」
「了解」
 旅先のせいか、久しぶりに駒に触るような気がする。誰かがジャンベを叩き始め、そして踊り始める人がいた。庭先に大きなヤドカリがやってきている。
「おっ、皆川さんに挑むとはやるねえ」
「せっかくですから」
 ゆったりとした時間が流れている。そして将棋の方は私の完勝だった。飛車落ちというのは、実は上手の気が楽な手合い。こちらは受けに専念するので、飛車がないことはあまり影響がない。だから下手が攻めばかりしようとすると、受けきられて反撃されてしまう。実は、ちゃんと囲って様子をうかがうのがコツ。
「あー、全然勝負になりませんでした……」
「途中歩の使い方は良かったんだけどね。終盤になってから急ぎすぎかな」
 そのあとも将棋を指したり歌ったり踊ったり。こんな合宿は本当に初めて。
「皆川さん、溶け込んでる」
 縁側に座っているところに、前川さんがやってきた。隣にちょこんと腰を掛ける。
「そう?」
「私はだいたい眺めてるだけ」
「それっぽい」
 だんだんと静かになっていく夜。特別な時間は、ゆっくりゆっくりと流れていった。


 三日目の朝。今日からはちゃんとしたスケジュールの元将棋をしていく……予定。
 居間に行くと、すでに朝食が並べられていた。そして見慣れない女性の顔が。さわやかな笑顔にポニーテールが印象的だ。手足がすらっと長く、それでいて筋肉質。ちょっと憧れる体型。
「あ、皆川さん、おはようございます」
「おはようございます。あなたは?」
「崎原って言います」
「崎原さん、よろしくお願いします」
 合宿と言いながら、地元の人がふらっと立ち寄ってくるみたいで、他にも昨晩観なかった顔がちらほら。
 朝食を終え、いよいよ本番。主催者の高嶺君が仕切り、リーグ戦や指導対局が始まった。その最中にも人数が増え、なぜか私の前に三人の予定が六人が並んでしまった。
「ちょっと、前川さん」
「なに」
「半分任せる」
「え、私が?」
「そう、お願い」
 前川さんは大会などには出ていないものの、普段から将棋は指しているという話だった。それならば子供に三面指しぐらいできるはずだ。
 ちょこん、と私の横に腰掛ける前川さん。小さなころは、私より強かった。ずっとずっと、強かった。 ちらちらと見ていると、今でも十分強かったし、駒落ちに慣れているようだった。おそらく部活動などで教えていたのだろう。
 前川君や崎原さんが運営に回り、進行はスムーズだった。突然リーグ戦優勝決定戦の解説を頼まれたり、優勝者を三線の演奏で称えたり。色々なことがすべて楽しい。


 「よし、将棋はひとまず終えよう。せっかく晴れてるしみんなで海行こう」
 高嶺君の一言でみんなで浜に向かった。透き通るような、突き抜けるような青が広がっている。
「皆川さん、こっち来て」
「何?」
 みんながはしゃぐ中、前川さんに手招きされて岩場の陰に行く。
「将棋、楽しい?」
「そうね……楽しいかな」
「良かった。私もね、いろいろあって辛かったけど、将棋は嫌いにならなかった。あと、皆川さんもいい顔してるな、と思った」
「いい顔?」
「いろいろと充実してるんだろうなって。私はそっちの道を選ばなかったけど……ね、わかるでしょ」
「まあね」
 足元を小さな蟹が横切っていく。よく見るとヤドカリや小さな虫がいっぱいいる。
「恋はしてる?」
「えっ」
「してるでしょ」
「なんで」
「きっと年下。私と同じ」
「ちょっと、なに決めつけてるのよっ」
「すごいお姉さんしてるもの。そこは私とちょっと違うかな」
 太陽が照らす真っ白な前川さんの顔は、確かにお姉さんという感じではなかった。彼女は、何かの役割を背負うというよりは、ただ漠然とそこにいるだけで存在感がある人間だ。もしプロになっていたら、とても美しい、最も気高い棋士になっていたかもしれない。
「恋、してるよ」
 私は言ってしまった。前川さんは、ゆっくり口を緩めて微笑んだ。


「あらら」
 相変わらずの騒がしい夕食の中、携帯の画面を見ながら崎原さんがつぶやいた。
「どうしたの」
 聞いたのは高嶺君。
「台風こっち来る」
「あ、予測と違うんだ」
「明日お昼頃からだね」
 と、丁度その時スピーカーのがーがーという音が鳴り響く。

「明日のフェリーですが……第一便のみ運行となります……8時の便は運行予定ですが10時の便以降は欠航になります……えー、繰り返しますが……」

 しばらくは静寂が続いた。そして、皆で顔を見合わせた。
「明日午前の予定は中止しなきゃいけないね」
「そうだね、帰れるうちに帰らないと」
 そんなわけで、急きょ予定が変わり、合宿三日目のスケジュールがなくなってしまった。しかも朝8時の便に乗らないといけなくなった。
「明後日は動かないかもしれないし。よくあることだから」
 前川さんは慣れた様子でまったく慌てていない。
「お客さんこれなくて大変じゃない?」
「そうね。でも、帰れなくなって何泊もしてもらうこともある」
「なるほど」
 決まってしまえばそれに従って動くしかない。というわけで相変わらずの宴会が、続いていくのだった。ただ、私は一つ気にしていることがあったのだけれど……


 四日目の朝。七時過ぎ、皆であわただしく動き始める。空模様もあわただしい。乗り遅れたら宿に缶詰めになってしまうのだ。
 前川さんと高嶺君が車を出し、フェリーに乗る人々をピストン輸送。港に着いたら、皆で別れのあいさつ。
「また、来てもいいんじゃない?」
「そうね」
 前川さんと、軽く握手をした。たぶん、同じ世界に居たらしなかったこと。
「じゃあ、気を付けて」
「うん。いろいろとありがとう」
 島の人々に手を振って、フェリーに乗り込む。島から、離れていく。


 本島に戻ってきても安心はできない。今日行く予定だったところに電話してみる。
「はい……はい、あ、そうですか……はい、わかりました」
 しょんぼりだ。今日行く予定だったカヌー体験教室は、やはり中止ということだった。楽しみにしてたのに。
 急に予定がぽっかり空いてしまった。そして明日には東京に帰らなければならない。考えていたら、携帯が鳴り始めた。体験教室からだった。
「はい」
「あ、今確認したらですね、カヌーは出せないんですけど、トレッキングコースだけは午前ならできそうなんですよね。で、一人だけ他のお客さんが参加予定なんですが、もしよろしければいかがですか」
「え……あ、はい、うかがいます」
 予定とは違ったけれど、せっかくなので行ってみることにした。カーナビに目的地を入れ、ハンドルを握る。風が少し強いものの、まだ雨脚は弱い。沖縄最後の目的地に、出発である。


「この下の方にガザミとかがいるんですよー」
 案内役のお兄さんが、朗らかに説明を続ける。私は耳を傾けながらも、居心地の悪さを感じていた。
「いやー、それにしても偶然ですね」
「は、はあ」
 なんと、もう一人のお客さんは北谷で会ったあの青年だったのだ。
「思い出しました、将棋の方ですよね」
「ええ、まあはい」
 何とも気まずい。ファンというならまだしも、何日かたってようやく思い出すレベルで知られているというのはとっても微妙。
「皆川……さんですよね」
「ええ、はい」
「俺、蔦原っていいますねよろしくお願いします」
「よろしく」
 相手の勢いに押されっぱなしだったけれど、トレッキング自体は楽しかった。沖縄でしか見られない植物や動物を、身近で観察することができた。
「皆川さんは、将棋のイベントとか出るんですか? また浴衣着たり?」
「え、えーと、まあそういうことも……」
「いやあ、いいなあ。俺も早く呼ばれたいなあ」
「え? 何に?」
「あ、俺囲碁棋士なんで」
「なっ……あ、えーと、そうなんですか」
「いやあ、将棋の人と沖縄で二回も会えるなんてびっくりだなあ」
 こっちがびっくりだよ。なんだろう、すごく複雑な気持ち。
 待合室に戻ってくると、お兄さんの一人が三線を弾いてくれた。とてもいい声だった。ただ、風の音が強くなってきている。
「あの、帰れるうちに那覇に戻ります」
「そっか、それがいいかもね。蔦原さんは?」
「俺はしばらく名護に泊まるんで」
 別れを告げて、車に乗る。色々あったけれど、楽しい一日だった。たぶん今から雨が強くなるし、ホテルに着いたらおとなしくしているのがいいだろう。明日は昼の出発までのんびりお土産でも見てすごそう。うん。


 五日目の朝。飛行機が欠航になった……
 外はひどい風雨。出かけるのはちょっときつそうだ。仕方ないのでノートパソコンを取り出し、今回の旅行記を書き始める。幸いネットも通じるているので調べ物やメールチェックもできる。
 ふと、気になって。「囲碁の蔦原」について調べた。
 関西所属の二段。特に目立った活躍をしているわけではないようだった。誕生日は12月2日……
「一緒じゃない……」
 なんと、生まれた年も同じだった。もやもやした気持ちがもっともやもやしてきた。


 六日目、夕方。東京に戻ってきた。色々あったけれど、帰ってきてみると単純に楽しかったと思える。出会いあり再会ありアクシデントあり。旅っていうのもいいものね。


 後日……
「え、これを俺にですか?」
「だって辻村、ゴーヤー欲しいって言ったじゃない」
「言ったかなあ……」
「言った。言ってなくても喜んだらどうなのよ」
「……ありがとうございます。で、どうやって調理すればいいんでしょうか」
「知らない」

 その後他の棋士に聞いたものの、ゴーヤーの調理方法を知っている人はいなかった。こんなことなら前川さんにチャンプルの作り方を聞いとけばよかった。
 なぜか辻村は持っていた布の上にゴーヤーを乗せて眺め始めた。インテリアにでもするつもりだろうか。じっと見つめて、何やら考え込んでいる。そこに、三東先生が入ってきた。先生は辻村とゴーヤーを交互に見詰め、こう言った。

「どうしたの、辻村君?」

 



将棋が好きな少年、将棋に捕われた少女と出会う。


 島にやってきた少女、蜜は将棋が強かった。ただ彼女は、とても弱かった。島の少年了は、そんな彼女にも、そして将棋にも惹かれている。高校生になった了と、島に残った蜜。そんな二人の行く末は……
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七割未満(五)



   七割未満(五)
清水らくは


 最初、知らない人かと思った。よく見るとどこかで見たことがあるのだが、どこで見たのかがわからなかった。
「あ、今日はかぶらせてもらうので、よろしくお願いします」
 爽やかな声でそう言われて、ようやく分かった。対戦相手の黍原さんだった。端正な顔つきに長く伸ばされたちりちりの髪。非常に格好いいのだが、髪の方は借り物である。イベントなどではよくふざけてかぶっているのは知っていたが、まさかテレビ対局でも装着するとは思わなかった。
 スタジオ全体に微妙な空気が流れているのがわかる。まあそれはそうだろう。黍原さんの見た目自体は決して変ではないのだ。ただ、いつもと違うからなんか変なのであって、果たしてこれがオンエアされるとどんな感じになるのかまったく予想がつかない。
 とはいえ、対局が始まってしまえば全く気にならなかった。盤が目の前にあれば、俺はその世界に集中することができるようだ。黍原さんも格好以外はまったく普通のままだった。かぶっている人は世間にいくらでもいるのだし、そういう人だと思ってしまえば問題ない。
 ただ、いつ脱ぐのか……は少し気になっている。以前普通のテレビに出たとき、いきなり脱ぎ捨てて走り出すところを見たことがある。対局の礼をしたところで滑り落ちる、なんていうハプニングは起こらなかったが、投了や感想戦を始めるタイミングで脱ぐんじゃないかな、と予想している。
 戦型は横歩取り。非常に難解な変化に突入している。研究していた局面からは外れていて、どちらが勝ちなのかはわからない。ただなんとなくだけれど、俺の方が苦労が少ない感じ。短い将棋では、これは大事だ。黍原さんは難しい顔をして、何度か頭を揺らした。落ちないか心配だ。
 心が落ち着いてくる。厳しく頭を回転させなければならないけど、心地良くもある。正解が、俺を導いている感覚がある。
 ぴーんと、一本の筋が通った。これは負けない。ネクタイを正して、背筋を伸ばした。せっかくなので、キレイに映りたい。
「負けました」
 黍原さんが頭を下げた。それでも落ちなかった。
「お時間が十分ほどございますので……」
 淡々とした感想戦が始まった。結局黍原さんは被ったままだった。
 そして、感想戦が終わり、締めの挨拶をした後に解説の鳥越先生がにこにことした顔で言った。
「それにしても辻村君、珍しいネクタイだねえ。なかなかないセンスだよ」
 かつらで対局する事に比べれば、ネクタイなんて全く無意味に思えるのだが、どうなんだろうか。


 こけた。誰も見ていないようで助かった。
 本当に何にもないところだったのだが、突然足に変なものが絡みついたような気がしたのだ。いや、何もないというのは嘘かもしれない。今は、退学届けを出した帰りなのだ。
 高校には何の思い入れもない。高校生棋士というのは重要なポイントだ、と偉い人に言われたのだけれど、そんなことのために在籍し続けるのはダサい。だからしばらくは、高校生のふりをしていようと思う。結局のところ、制服を着ていればいいのだ。おしゃれに制服を着こなすというのもなかなか乙かもしれない。
 とはいえ、今俺の制服は砂が付いてしまっている。あとでクリーニングに出そう。
 肩の荷の方は下りた。みんなが行くから行く、ただそんな感じで高校に入っただけだった。でも自分は、みんなと違う道を歩き始めている。たまたま才能があって棋士になったわけではない。気付いたときには、将棋に人生をかける覚悟ができていた。だから、将棋以外のことはすべておまけで、それに足を引っ張られる必要はない。
 とはいえ。俺ってまだ若いよな、と思うことはある。先輩たちは俺の知らないことをいろいろ知っている。勝負においても、「そんなのが有効なんだ」ってことを仕掛けてくる。かつらなんてのはお遊びの内だろうが、扇子とか飲み物とか、時には空気清浄機までが勝負を左右する。ああいうものは、まだ俺には使いこなせない。
 そんなわけで、自分にも使いこなせそうなものを買いに来た。水筒である。暑い季節は冷たいものを飲みたくなるが、対局の度にペットボトルを買っていくのもなんかかっこよくない。そこらへんこだわっている人は少ないので、バーンと見栄えのいいものを用意して、自分に最も合ったドリンクを持ち込もうという計画だ。
 ショッピングモールに着くと、平日昼間ということもあって若者の姿はあまりない。すでに学校をさぼっているわけではないのだけれど、制服なので少し罪悪感がある。あと、砂がちゃんと払いきれているかも気になっている。
 スイーツやバッグや靴、入浴剤のお店などを横目にエスカレーターを上がっていく。目指すのは輸入雑貨の店だ。そこはおしゃれなだけでなく、使い勝手のいいものもたくさんあるので最近のお気に入りである。
「あれ、辻村?」
 突然声をかけられた。聞き覚えはないのだが、無視する理由もなかった。
「はい……えっと、誰?」
 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、おおよそ知り合いとは思えない女の子だった。髪の毛はツンツンに立っていて、耳には大きなピアスが光っている。口紅はべったり、眉毛もしゃっきり。首にもじやらじゃらとしたものがあり、スカートはとっても短い。一応高校の制服のようだが、見覚えはなかった。
「ちょっとー、忘れたの? 中学校の時一緒だったのに」
「中学校? うー」
 もはや忘却の彼方だ。学校の記憶はとても薄い。
「ひどい。私よ私、沖原」
「おき……はら……」
 記憶の扉をいろいろと開けてみるが、なかなか見つからない。だいたい俺は将棋以外の記憶力はたいして良くないのである。
「本当に覚えてないの?」
「ごめん」
「そっかぁ。ま、あんま喋ったこともなかったか」
「あんま……ってことはあるのか」
「あるよー、ドボルザークの話したじゃん」
「ドボルザーク……?」
 記憶の扉が、合図をしている。ドボルザークの話題をしたと言えば、中二の頃だ。まだクラシックなんてたいして聴いていなかったのに、突然「辻村君、ドボルザーク好きそうだよね」と聞かれたことがある。その時は「えっと……聞かないこともないけど」と答えたような。
「……え、でもあれ……沖原さん?」
「どーゆーことよ」
 記憶の中の彼女は、三つ編みに眼鏡の、音楽を聴きながら読書ばかりしている女の子だった。目の前にいるのはまるで正反対の人だが。
「きれいになったね、ってこと」
「何よそれ。ま、あの頃は学校ではおとなしくしてたからね」
「そういえば学校は?」
「……辻村こそ」
「俺は今日退学した」
「え、うそ。なんで」
「いや、特にいる理由もなくなったから」
「ふうん」
 だんだんと記憶がよみがえってきて、クラスの沖原さんと目の前の沖原さんの共通点がわかってきた。左頬のえくぼ、少し大きめの口、良く動く左手。そういうところは、前と一緒だ。
「じゃあ、沖原は単純にサボりなんだ」
「そうね、まあ……そうね。辻村は買い物?」
「ちょっとね」
「なになに」
「いや、水筒を」
「ここで水筒? いっがーい」
「そう?」
「私も見る」
「え」
 沖原さんはニコニコと俺のことを見つめるばかりだった。振り切るのも面倒なので、俺は歩き出した。ぴったりと横についてくる沖原さん。
「暇なの?」
「比較的。まー、あれだよ、家も学校も嫌いってとこかな」
 友達は、と聞こうとしてやめた。自分だって聞かれたくないことだから。
「あ、これかわいーよねー」
 店の入り口に着くなり、沖原さんはマグカップにくぎ付けになっいる。白地に赤いラインが入っているだけのもので、どこがどうかわいいのかよくはわからないが、女の子はこういうのが好きなのだろう。
 俺は適当に頷いて、目的のものへと向かった。立ち並ぶ水筒。普通の小さなもの、大きなもの、飲み口が独特な形のものなど豊富な品ぞろえだ。
「あ、これいいじゃん」
「え、かえる……」
 いつの間にか横に来ていた沖原さんが手にしたのは、飲み口がかえるの形になった緑の水筒だ。こんなものが中継ブログに載った日には何を言われるかわからない。
「家で使うんでしょ?」
「家でも使いたくないけど、仕事で使うんだよ」
「仕事? 就職決まったの?」
「将棋を指すのが仕事」
「……ショウギヲサス?」
「将棋。知らない?」
「将棋は知ってる。仕事になるのは知らなかったし、辻村がそういうの得意っていうことも知らなかった」
 中学生の頃は目立たない上に休みがちで、周囲にプロを目指していることなどはほとんど伝えていなかった。だから、知られていないのは仕方がない。とはいえ将棋界のこと自体はもっと知られていてもいいと思うけど。
「得意なんだ」
「意外。色々と投げ出しそうなやつだと思ってた」
「それは合ってる」
 結局は赤いラインが綺麗な、比較的シンプルなものを買うことにした。保温性に優れているうえに、洗いやすいということだ。
「おもしろくなーい」
「おもしろがるものじゃない」
 会計を済ませると、沖原さんは携帯を俺に向かって突き出してきた。
「ん?」
「ん、じゃなくて。交換」
「なんで」
「なんでって……再会を祝して」
「はあ」
 もうなんかどうでもよくなって俺も携帯を取り出した。ごめんねどうせメールを送られてきてもまめには返さないタイプなんです。
 連絡先を交換して、アドレス帳を確認したら「035沖原花蘭」がしっかり登録されていた。
「からん?」
「そーよ。知らなかったの?」
「知らないよ」
「私は知ってたのになー、みっちゃん」
「誰もそんな呼び方してないよ」
「そう? じゃ充君、私は今から予定あるけど、また今度呼び出すから」
「はいはい」
「じゃ、またね~」
 手を大きく振りながらエスカレーターを降りていく沖原さん。どう考えても俺の記憶の中の彼女とは違う。ただ、そんなことはどうでもいいことだ。今俺は、将棋に関係のない人と久々に話したな、と思っている。ひどく非日常的なことで、びっくりしている。自分のことを気にかけるような人間が、実在するんだ。
 誰だかわからない人たちが、通り過ぎていく。将棋を知らない人々が。


「おおっ」
 ファミリアが声を上げた。俺も上げたかった。
 目の前のつっこちゃんだけが表情を変えていない。読みぬけがないか、しっかりと確認しているようだった。その点に関しては俺が保証する。もう、逆転はない。
 自玉に詰みがないので、勝ちのつもりだった。しかし、角を二枚捨てる筋で詰めろ逃れの詰めろがかかってしまった。まったく予想していない手順で、逃れようがなくなっていた。
「負けました」
「あ……ありがとうございます」
 三回目の研究会にしての初めての黒星。もう少し時間がかかると思っていた。しっかりした内容だった。
「勉強してるね。わかるよ」
「あ、いや……はい」
 この将棋は、女性初のプロ棋士とかそう言った類のものではない。 いずれ、追いつかれるかもしれない存在だ。普通にすれば、活躍できる。そういう芯の太い才能だ。かわいい外見の奥には、様々な鋭いものが隠されていると思う。そういうものに対して、敬意を抱きたい。
 いつか、大きな場所で勝負をすることになるかもしれない。
 結局この日は、つっこちゃんが全勝でトップだった。
「でも、次はこうはいかないから」
「が……頑張ります」
 自分にとってこの研究会が身になるかどうかという不安は、解消されそうだ。後輩に追いつかれないこと、それも大事なこと。
 などと考えていたらポケットの中で携帯電話が震えた。沖原さんからだった。
<元気にしてる? 今度仕事場観に行くからね!>
 彼女はまだ俺の仕事がわかっていないらしい。それとも数少ない出場イベントを調べてくるつもりだろうか。
<あんまり仕事してないよ>
 返信して気が付いた。俺、普段はすぐにしない人じゃないか。
 沖原さんには返さなきゃ、そう思ったのだ。なぜだかはわからないけれど。
「皆川さんですか~?」
 せっきーがにやにやとした顔で聴いてくる。
「違うけど」
「なーんだ」
 その時またメールの着信が。なんと、皆川さんからだった。
<明日、土産があるから。たまたま欲しいって言ってたもの見つけたから買ってきた。>
 そういえば仕事で沖縄に行くと言っていた。 ただ、何かを要求した覚えはまったくない。
 皆川さんへの返信は少し保留。他の三人が注目の対局を検討し始めたので、それに加わった。


「え、これを俺にですか?」
「だって辻村、ゴーヤー欲しいって言ったじゃない」
「言ったかなあ……」
「言った。言ってなくても喜んだらどうなのよ」
「……ありがとうございます。で、どうやって調理すればいいんでしょうか」
「知らない」
 なぜか皆川さんからゴーヤーを貰った。それにしてもゴーヤーとは。以前気になると言った気もするけれど、あくまで「調理済み」のものに関してだったはずだ。
 でも、なんだろう、皆川さんはどこか嬉しそうだった。というより、なんか爽やかになった気がする。つんつんした感じは変わらないのだけれど、表情が柔らかくなって、余裕も感じられる。沖縄に行くとそうなるのだろうか。
 そのあと、控室に来た人に聞いてみたのだが、ゴーヤーの調理方法はわからないままだった。袋から取り出して、直接触ってみる。足ふみマットにこんなのあるよね。
 見ているうちに、その存在自体が面白くなってきた。この外観、そしてこの質感、なぜこんな風に進化したのだろう。そしてこれを食べてみようと思った人はどんな人だったのだろう。よく見るために、持っていた黒いバンダナの上に乗せてみる。緑色が鮮やかで、これなら部屋に飾ってもいい気すらしてくる。
「どうしたの、辻村君?」
 振り向くと、三東先生がいた。目を丸くして俺のことを見ている。
「いやなんか、変だけどきれいだな、と思って」
「ゴーヤーが?」
「ゴーヤーが」
 とはいえずっと見ているのも確かに変だ。そのままゴーヤーをバンダナに包んで、鞄の中に入れた。三東先生はちょっと覗きに来ただけだったようで、すぐにいなくなった。対局途中だったのかもしれない。
「そういえば皆川さん、来週対局じゃないですか」
「そうね……木田さんと」
「大一番じゃないですか」
「別に。いつもと同じ」
 そうは言うものの、意識しているはずだ。二人は同年代で、女流棋士を目指すうえでも同じようなペースで勝ってきた。他にもう一人、前川さんという強い女の子がいたけれど、彼女は奨励会に入った後段に上がる前にやめてしまった。木田さんは奨励会試験に落ちたものの、女流棋士になることを決意してからはぐんぐん強くなっている印象がある。つっこちゃんにも負け、同年代のライバルには一歩差が開けられた感のある皆川さん。このまま負けっぱなしだと、上を向くことをやめてしまうかもしれない。
「そんなことないでしょ、勝ちに行きましょうよ」
「辻村?」
「木田さんに勝って、いずれ峰塚さんにも勝ちましょうよ」
「峰塚さん……」
 現在女流のトップに立つ、峰塚女流四冠。かれこれ二十年近く、一番前を走り続けているのではないか。三冠になったり五冠になったり、時折変動はあるものの常に複数のタイトルを所持している。背筋がピンと伸びて、男性棋士を含めても最も対局姿勢がいいという評判だ。
「俺は、いつか定家さんに勝ちます」
 定家四冠は、男性棋界のトップに君臨する男だ。かつて七冠を達成したことがあり、やはりこちらも二十年近くトップなのである。最近は若手もちょくちょく勝てるようになってきたが、誰一人タイトルを奪うには至っていない。特徴は、とにかくよく喋る。
「辻村、なんかまっすぐだね」
 皆川さんの表情は、あまりいいものではなかった。ごまかすような微笑。少なくとも、トップに立つ人、トップを目指す人はしない笑み。
「まっすぐじゃない。常に近道を探してます」
「近道?」
「そうしないと、追い越せないから」
 研究をして最善手を探して、それも大事だろう。けれどもそれでは、同じスピードでしか前に進めない。だから自分に合った、自分だけの道を見つけないといけない。まだ若いからとか言い訳していたら、あっという間に集団の中に埋もれてしまうと思う。
「……私、頑張れば木田さんに、勝てると思う?」
「勝てますよ。まだ全然たいした距離じゃないです」
 今度は、普通の笑みを浮かべた皆川さん。
「いいこと言えるようになったなんて、辻村らしくないね」
 今日の皆川さんもちょっとらしくないですよ、という言葉は飲みこんだ。何がらしいとか、そんなこと本当はよくわからないからだ。
「あ、いたいた、辻村君と皆川さん。丁度良かった」
 今日はこんなことが多い。控室に入ってきたのは、いつも陽気なおじさん『将棋宇宙』編集部の橘さんだ。
「こんにちは。何かご用ですか」
 皆川さんの声のトーンが急に落ち着いた。大人である。
「いやね、実は今度プロ中心の団体戦を企画しようと思っていて、その関東若手チームに入ってもらえないかと」
「はあ」
「私もですか?」
「そうそう。男性二人、女性一人でチームを組むんだ。もう一人は川崎君に出てもらおうかと」
「川崎さん……ですか」
「やるならできるだけ最強にしたいからね」
「それ……私でいいんですか」
「はは、僕は皆川さんを推してるから」
 誌面用に見た目派手な人を選んだんじゃ……と思ったが口にしないことにした。確かにチームを組むなら、この三人には「意味」がある。
「それで、どのような形式になるんですか」
「四チームぐらいの総当たりで、3勝なら5点、2勝なら2点、1勝なら1点っていう風なのを考えてるよ。あとは関西若手チーム、ベテランチーム、奨励会チームを考えてるんだ」
「なるほど……俺はそれ、参加しますよ」
「……私も」
「そうかそうか、それはよかった。また詳細が決まったら連絡するから」
 橘さんはよかったよかったと言いながら部屋を後にした。いつも本当に楽しそうである。
「辻村、断るかと思った」
「なんでですか」
「川崎君と組みたくないんじゃないかって」
「そんなことないですよ。皆川さんこそ、どうなのかなって」
「……別に、楽しそうだからいいんじゃない」
 単純に棋力で選ぶなら、木田さんを始め強い人は何人かいる。 皆川さんだってそんなことはわかっているはずだ。それでも、受けた。だからきっと、前向きな気持ちはあるはずだ。そして俺が予想するに、奨励会チームの女性枠は――
「じゃあ、いつ始まるかわかりませんが、その時は頑張りましょうね」
「もちろん」
 雑誌にとっては企画の一つにすぎないだろう。けれども俺たちにとっては、こういうものが大きな転機になるのはよくあることだ。
 これから、俺たちの力関係に何かが起こる。この波を、うまく引き寄せなければならない。
 盤上に散らばった駒を、並べていく。しばらくして、皆川さんも駒を並べ始める。こうして、前進していけばいい。

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