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イニシエーション





#将棋短歌


(ツイッターで「#将棋短歌」を付けてつぶやかれたものの中から掲載させていただきました。)

Life is lovely

Life is lovely

ジェームズ・千駄ヶ谷

 

0.プロローグ

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

6畳間の部屋に叫び声が響いた。

 

同時に食いかけの焼きそばを吹いた。ゲホッと喉につまらせて苦しむオレ。だがそれも仕方ないというものだ。オレが五体投地して応援していた女流棋士、見築(みつき)つかさ女流2級がおもいっきしひどい手を指したのだ。これは間違いなく敗着だろう。コップの水を飲み、呼吸を整えながらも食い入るように画面を見つめるオレ。だが、見築女流が投了するまでにそれほど時間はかからなかった。

「はあ、つかさたん・・・」

残念でならない。女流棋士としてデビューして2年目、初めてのテレビ棋戦だったのに。昨夜はこの対局を宣伝するために自分の知る限りありとあらゆるネット媒体を動員し、「つかさたんのNK杯初出場を応援するスレ」まで匿名掲示板に立てて不眠不休で応援していたのだ。

「序盤で時間使いすぎちゃったからな・・」

見築女流2級は一去年高校生プロとしてデビューし、若手の有望株として注目が集まっていたが、いい将棋と悪い将棋の差が激しく、今回のようにいい所なく負けてしまうことも珍しくなかった。去年まではまだ高校生だからということで大目に見られていた面もあったが、高校を卒業した今期、トーナメントを勝ち進むことに期待が寄せられている。

『お疲れ様でした、時間がありますので初手から・・』

テレビでは感想戦が始まっていた。見築女流の気落ちした様子が画面越しに伝わってくる。しんみりした気持ちで検討に耳を傾けるオレ。

だが、つらい感想戦が待っていたのは見築女流だけではなかったようだ。

第一に、オレの部屋は狭い。

第二に、窓を開けている

第三に、隣室に住むオバサンはうるさい音が大嫌いだ。

 

―ピンポーン―

 

やれやれ、こっちの検討も手こずりそうだ。

 

 

1.

休日の午後はネット将棋を指すのが習慣である。

オレは将棋オタクだが、ネットの世界では決して強い方ではない。何連敗もしてしまうこともよくある。

ピッ、ピッ、ピッ、カチッ

「ふんぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

オレは『投了』ボタンをクリックすると傍らにあった長○有希の抱きまくらにしがみつき、ベッドの上に倒れこんだ。最終盤、自玉は必死、相手玉はいかにも詰みがありそうな形。しかし、指し手が間違っていたのか、そもそもはじめから詰みはなかったのか、敵玉はたくみに包囲網から逃れ脱出を果たした。

うぐぐ。これで5連敗だ。どうも流れが悪い。少し気分転換した方が良さそうだ。オレは赤髪ツインテールの美少女が描かれたTシャツに着替えると、『ジャッジメントですの』と書かれたキャップをかぶり、外出の準備を整え外に出た。

 

外に出ると強烈な日差しが照りつけていて、オレはうかつに外出しようと思ったことをすぐに後悔した。暑い。暑すぎる。目的地までは自転車を使ってさほど遠くない距離だが、この暑さでは途中で干からびて死んでしまうかもしれない。

玉のような汗を流しながら自転車にまたがり向かった先は、私立H大学アニメ同好会の部室である。オレはアニメなんて子供じみた娯楽にはさほど興味もないからこんなサークルに入っている理由など本来ないのだが、まあキャンパス内に自由にネットが使えてお茶も飲めて昼寝もできるような場所があると便利だからとりあえず所属しているような感じである。今だって画面の大きなデスクトップPCを使ってネット将棋を指したいという一心で自転車をこいでいるが、それ以外には特にこれといった理由はないのだ。もしも、もしも万が一そのPCに新しい学園生活シミュレーションゲームなんぞがインストールされていたら誤って起動してしまうかもしれないが、それはオレの意志がどうというよりも巧妙に偽装されたショートカットアイコンの責任と言うべきなのである。

さて、このアニメ同好会には将棋を指せる奴がオレ以外にもう一人いる。名前をナカムラといって、オタクで変態で少々ロ○属性があることを除けば実にいいやつである。将棋の腕前もかなりのもので、オレとはいわば互いに切磋琢磨する将棋仲間といった関係なのだ。

 

アニメ同好会の部室がある学生会館のわきに自転車を停めると、オレは持っていたタオルで汗を拭きながら階段を昇った。

果たして目的の部室に着いてみると、中ではナカムラが扇子をパタパタと扇ぎながらお茶を飲んでいた。

「よう」とオレが声をかけると、

「やあタカハシ氏!この暑い中よく来られましたな!」とナカムラが応えた。相変わらずハイテンションな奴である。

「部室に冷房がついてて助かったよ」

「全くです。冷房の効いた部屋で熱いお茶を飲むのが、最高の贅沢ですな」

こいつ、そんな趣味があったのか。

実際の所、数年前まで部室にはエアコンが設置されていなかったそうで、そのときの部員たちのことを考えると同情を禁じ得ない。

「ちょっと気分転換したくなってね。今日は勝てなくて。」

「ネット将棋のことですかな?最近の調子はいかがで?」

「なんか最近調子悪いんだよなあ。この間、見築先生も負けちゃったしさ」

「タカハシ氏は見築先生のファンでありましたね」

「隣のオバサンにも怒鳴られるし。」

「オバサンに?」

「いや、なんでもない」

「そういえば見築先生といえば、今度の渋谷将棋祭りにでるらしいですぞ。わたくし、行くつもりなのだがご一緒にどうですかな?」

渋谷将棋祭りはプロ棋士などが参加するイベントで、毎年開かれている。オレも何度か行ったことはあるが、今年つかさたんが参加するとは知らなかった。もし本当ならファンとしてぜひとも行かねばなるまい。

「それ、絶対行くわ。いつ?」

「次の日曜日に。席上対局の聞き手とかするらしいですな」

「解説の聞き手かあ。生つかさたん、生つかさたん、生つかさたん・・」

「よだれが出ておりますぞ・・。では、ご都合が良いようならぜひ一緒に参りましょう」

「ああ、頼む。オレってほら、気が小さいからさ。一人じゃ緊張しちゃうと思うんだよな」

「いま気が小さいと申されましたか・・?」とナカムラが呆れたような口調で言った。いや、オレはごく普通のことを言ってるだけだと思うのだが。

「まあそれはさておきタカハシ氏、さきほどスズキ氏がなにやらPCにインスコしているみたいでしたぞ」

「なにいっ。それは本当か!部室のパソコンを私物化しようとは不謹慎なやつだな。同好会の運営に必要なものかどうかチェックしないと。」

「うむ、有用性に乏しいソフトを勝手に入れられては困りますからな。早速調べるとしましょうか」

こうしてオレたちは、一夏の高校生活のあんなことやこんなことを模擬的に体験するソフトウェアの有用性について、遅くまで検討を続けたのであった。

 

 

2.

渋谷将棋まつりの会場は大勢の将棋ファンで賑わっている。メインステージの観客席もほぼ満員だ。オレとナカムラは会場中ほどに席を占め、目当ての席上対局が始まるのを今か今かと待っていた。将棋祭りに来るのは初めてではないが、憧れのつかさたんとついに対面できるかと思うと気もそぞろ、サイン会や指導対局ブースを見歩いている間も絶えずそわそわしている感じであった。普段はオレよりもテンションの高いナカムラにまで「タカハシ氏、少しは落ち着きましょう」と言われたほどである。

「いよいよですか。どきどきするっすなー」

ナカムラに言われてステージの方を見ると、係員が座布団の位置やペットボトルの配置に微妙な調整を加え、司会と思しき女性がマイクを持って準備している。

「なんか鳥肌がたってきたぜ・・。おっ、あれ富士伊九段じゃね?」

「富士伊先生ですな!こんな間近で見られるなんて」

ステージの方に気を取られていたが、解説の富士伊九段がさりげなく控え室のカーテンに隠れるように立っていた。ちなみに、ナカムラは富士伊九段の大ファンである。

「富士伊先生・・。生で見るとよりいっそう神々しい」

「そうだな」

富士伊九段も気になるところだったが、オレとしてはそれどころではない。オレの目的はあくまでつかさたんなのだ。

『お待たせいたしました、本日の席上対局です。両対局者のご登場です。そして解説して頂きますのは、富士伊毅九段、聞き手は見築つかさ女流2級です。どうぞ拍手でお迎えください』

アナウンスとともに控え室の黒いカーテンがさっと開き、対局者の二人と富士伊九段、見築女流がステージに向かってに歩いていく。

「ふおおおおおおおおおおおお、つかさたんだ!生のつかさたん!」

「落ち着きなされ」

「つかさた~んって叫んでいいかな?」

「本気でやめたほうがいいですぞ、タカハシ氏。出入り禁止になりかねない」

「冗談だよ、冗談」

大盤横の定位置で待機しているつかさたんは、白のブラウスに紺のプリーツスカートという格好で、ひときわ輝いて見えた。

 

「ほら、始まりますぞ」

『振り駒の結果、先手は佐藤義満王将に決定しました。それでは、よろしくお願いします』と棋譜読み上げの小松菜女流2級が言い、対局が始まる。程なくして、大盤解説も開始される。

『富士伊先生、今日はこのお二人の対局となりましたが、お二人の印象はいかがですか?』とつかさたん。

「始まったー、始まりましたな、タカハシ氏!」

「生つかさたんの生声、イイ・・・・」

「そういえばタカハシ氏は声にもこだわりをお持ちでしたな?」

「目の前で・・つかさたんが・・喋っている・・」

視野狭窄気味のオレに、

「どうやら別世界に行かれてるようですな」

ナカムラが呆れたようにつぶやいた。

 

対局は相居飛車の熱戦となり、終盤まで優劣不明な熱戦となった。オレにとって対局の内容など半ばどうでも良かったのだが、それでもプロの対局を間近で見ていると、自分まで思考の渦に引き込まれるような不思議な感覚があった。終盤ついに後手の王将が詰み筋に入ると、観客席のあちらこちらから悲嘆のようにも、安堵のようにも取れる溜息が聞こえた。やがて後手の大久保九段が投了を告げ、壇上は感想戦へと移っていった。

解説者を交えての感想戦の後、会場に予期しない局面が現れた。

『席上対局の方終了しましたが、ここでご来場の皆様に素敵なプレゼントがあります』

いつの間にか舞台に現れていた司会者がそう告げた。

『はい。私が揮毫した扇子を1名の方に差し上げます。』とつかさたん。

『センスのイイ扇子ですね』と富士伊九段。

『・・・・・・』無言のつかさたん。

『おや、少し分かりにくかったかな?今のはセンスがいいのセンスと、扇子の』

『富士伊先生、皆さん分かってますから』とつかさたんが抑揚を欠いた口調で言うと、会場から笑いが起こった。

『でもこれ、貴重なんですよ。見築さんの扇子はまだ連盟からも発売されてないですからね。ほぼ、世界にひとつだけの扇子ということになります』

めげない富士伊九段の説明に、観客席からおおっという歓声が起こる。

『何と揮毫してあるんですか?』と富士伊九段。

『日々是好日、と書いてあります』とつかさたん

『・・・・渋いですね』

『いえ、それほどでも』

『ではこの扇子を、1名の方に差し上げます』と富士伊九段が繰り返した。

 

「タカハシ氏、これはゲットせねば」

「しかし、抽選ってどうやるんだろう・・?」

二人でそわそわしていると、

『私とじゃんけんをして、勝った方にさし上げまーす』

つかさたんの声が響いた。

おおおじゃんけんかよ、苦手なんだよじゃんけん。小学生の時からじゃんけんで負けてトイレ掃除やらされたりとかさ・・だが今はそんな過去に縛られてる場合じゃないぜ。今こそオレの本気を出すとき、魂を燃やす時だ。オレは両手を顔の前で組み、精神を集中した。

「ふおおおおおおおおおおおっっ」

「タカハシ氏、隣のお客さんがおびえてますぞ・・」

隣の席のおじいさんがこちらと距離を置こうとしている気配がわかる。

だが、そんな瑣末なことに構っている場合ではない。つかさたんの扇子が賭かっているのだ。

『あいこは負けの扱いです。後出しはダメですよー。じゃ~んけ~ん』とつかさたん。

「つかさたんの扇子はオレが守る・・はぁっ!!」

つかさたん、パー、オレ、チョキ。まずは1回戦突破。

隣の中村はパーを出してあいこだったようだ。

「ふっ、愛が足りんな。愛が。」

「無念・・・後は頼みましたぞ、タカハシ氏」

すぐに次が始まる。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、グー、オレ、パー。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、チョキ、オレ、グー。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、チョキ、オレ、グー。

『えーっとぉ、人が少なくなったので、勝ち残った方どうしでじゃんけんしていただけますか?』

みれば勝ち残った客はオレともう一人、中年のおっさんだけになっている。

おっさんはオレに目配せするとスッとその場で立ち上がった。

こいつ、できるな・・。だが、扇子はわたさん。

オレも立ち上がると、腹に力を溜める。オレの方を見た客のざわめきが耳に入ったような気もしたが、そんなことは気にしない。場を制するためには自分から掛け声をかけることが大切だ。偽物語で火憐ちゃんが言ってたぜ。

「じゃ~んけ~ん」

これでどうだっ

「ぽいっ」

オレ、チョキ、おっさん、チョキ。

あいこだ。

「あ~いこ~で」

「しょっ」

オレ、パー、おっさん、グー。

「うおおおっし!!」

思わずガッツポーズを決めた。勝った。

周囲からの拍手を聞きながらオレは壇上へと歩いた。

「おめでとうございます。えーと、お名前を伺ってもいいですか?」と司会者。

「はっ!自分、タカハシと申します!」

「じゃんけんで勝たれたご感想は?」

「つかさた・・見築先生のファンなので、勝てて本当に嬉しいです。」

「おもしろいTシャツを着てますね?」と富士伊九段。

「あ、ありがとうございますっ!これは、あのっ、これは、コマゾン戦隊コマルンジャーのクマ使いかえでたん、あと、この帽子は、第12話でかえでたんが宿敵菅田屋キンジロウから勝利した証として手に入れたバンダナで・・」

「なるほど、素敵なお召し物ですね!では、さっそく賞品の贈呈に参りましょう!」

なんか今司会者が強引に話題を変えたような気がしたのは気のせいか?なんかお客さんも含み笑いしてるし・・

「ではタカハシさんこちらへ」

つかさたんの正面に誘導される。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

いや~、みんなの拍手が染みわたる。うれしい。それ以外に言いようがない。

「見築さんに何かメッセージはありませんか?何でもいいですよ。」と富士伊九段。

こ、これは大チャンスだ。で、でも何を言えばいい?急に言われても思いつかないぞ・・。くそ、どうする・・?うーむ、落ち着け、こういう時は心に浮かんだことを素直に言うんだ。それが結局一番いい。

「え、えーと、では、見築先生の好きなアニメキャラを教えて下さい。」

「・・・・・・」

後から聞いた話では、この時会場はある種異様な静寂に包まれたそうである。

「アニメのキャラクターですか?私、あまりアニメとか詳しくないんですよ。えーと、そうですね、クレヨンしんちゃんとかかなあ。」

いかにもその場で思いついた、といった感じの答えだった。もちろんオレが望んでいた展開ではない。

「クレヨンしんちゃんですか。いいですね。見築さん、アニメとか結構ご覧になられますか?」と富士伊先生がフォローを入れてくれた。が、

「えーと、私、アニメとか割りと苦手でぇ、あんまり見ないんですよね・・。はは。」

う・・・。そうだったのか。よく見るとつかさたんうっすら冷や汗をかいている。そんなにアニメ嫌いだったのか・・・。これはひょっとしてまずい展開だろうか。

「他に見築さんに何かおっしゃりたいことがありましたら」と富士伊先生。さすがお優しい。しかしオレは「あ、あの、応援してます。頑張ってください」と伝えるのがやっとだった。

客席に戻ると、ナカムラが駆け寄ってきた。

「タカハシ氏、何を質問するのかと思えば。見築先生ドン引きしてましたぞ」

「う、今は何も言わないでくれ。ほっといていてくれ・・」

時間が経つほどに恥ずかしさが増してくる感じで、オレはもういたたまれない気持ちになっていた。

「ナカムラ、悪いけどオレ、先に帰るわ」そう言うとオレはそっと席をたった。ナカムラは心配そうに「大丈夫なのですか?」と聞いてくれたが、実際の所かなり動揺していた。

千載一遇のチャンスだったのになあ。後の祭りという言葉の意味を実感しながら、オレはとぼとぼと会場を後にした。

 

 

3.

先日の将棋祭りですっかり意気消沈の俺が心を癒すために向かった先は、そう、秋葉原。歌い、踊り、舞い、コスプレし、アニメグッズと同人誌を買い漁るための聖地。心の故郷といっても過言ではない。

今日のお目当ては、天然美少女とひきこもり少年の切ない恋を描いた話題作『玉のパンツを脱がないで』の抱き枕カバーと、最新の同人誌チェックである。オレは自分で言うのもなんだが秋葉原に関しては相当の専門知識を有しており、他の追随を許さない秋葉原通を自負している。本日訪れる予定の店は10軒程度だが、各店を最短距離で巡回するルートはすでに頭の中で出来上がっている。あとはいかにスマートに、効率良く、それでいて気品あふれる買い物ができるか。

秋葉原巡りは時に孤独な戦いだが、決して飽きることはない。上級者となった今も、訪れるごとにディープな世界が見えてくる。秋葉原道に終わりはないのだ。

 

午後5時を前にして、すでに6店を回り終えた。7店目に選んだのは同人ショップの老舗、『とらの貴方4号店』である。まずは1階の平積みされた新刊を一瞥する。問題ない。最新刊はすべて購入済みだ。続いてよどみのない動作でフロアを周回する。もちろん、未チェックの作品があれば足を止め、購入を検討する。そして、これはと思ったものだけを持ってレジに向かう。この間も無駄な動作は一切ない。全ては高度に洗練された流れるような動作で行われる。そして速やかに次の階へと向かう。これの繰り返し。地味な作業だが、同人誌売り場のチェックを怠ってはならない。思わぬ掘り出し物が見つかることもあるし、一度在庫がなくなってしまうと入手が難しい本もあるからだ。道を極めるには日々の地道な努力が必要なのである。2階の探索を終え、3階に移ろうと階段を登りはじめたそのとき、

バサバサバサッ

不意になにかが上から落ちてくる音がした。視線を上げると、本やDVDのケースが階段の踊り場にちらばっている。

「すみません、袋が破れちゃって・・」

声の主は女性だった。とらの貴方といえば以前は男性客が多いイメージだったが、最近は女性も増えてきたのだろうか。「大丈夫ですか?」と声をかけながら、とりあえず足元に散らばっているDVDを拾い始める。やたらとイケメンな戦国武将が描かれているパッケージに思わず目が止まったが、それを注視するのは相手に失礼だろう。とくに気に留めた風もみせず、DVDと本を集める作業を淡々と続ける。最近こういった趣向の女性が増えているとは聞いていたが、実際にいるんだな。やっぱり。だがしかし、他人の趣味には干渉しない。それがアキバのルールだとオレは思っている。

「こっちの方に落ちてたのはこれで全部です」

そう言ってオレは集めた本とDVDを手渡した。

「あ、どうもすみません・・・って、あれ?」

「え?どうかされましたか?」

一度すれ違いそうになってから相手の声に振り返る。

今度はちゃんと目が合った。

『迂闊だった』その女性の顔には確かにそう書いてあった。

なぜなら

「見築先生?」

間違いなく見築つかさその人だった。

大盤解説の聞き手の時とは違って、ラフなジーンズにTシャツ姿だが、見間違えるはずはない。

「は、はあ・・えーっと」

その表情からは、なぜ自分から声をかけてしまったのか、という後悔が見て取れる。

「お買い物中でしたか」

オレはあくまで冷静な態度で話しかける。一度話しただけのオレのことを覚えていてくれたのはこの上ない名誉だが、おそらく好人物としての印象ではないだろう。

「はは、まあ、そのようなものです。ええ。」戸惑いながら答える見築先生。

「袋、破れちゃってますね」

「はあ」

「私がお持ちしましょうか。リュックサックもありますし」

いずれにせよ、困っている人を見過ごすわけにはいかない。助けられた相手がオレでは見築先生も不本意だろうが、少しの間辛抱していただこう。

「いえ、いえ、大丈夫です、一人で持てますから」見築先生は躊躇していたが、一人で抱えられる量ではないように見えた。

「まあまあ遠慮なさらず。困ったときはお互い様です。それに秋葉原は私の庭のようなものです。薄い本を入れるのにぴったりな手提げ袋を売っている場所も知ってますよ」

とオレが説明すると、「薄い本とかじゃないですけど」と抵抗をみせながらもオレが手を貸すことを許してくれた。

 

 

「で・・・どうしてこの店になったのか説明してもらえますか?」

「え、なにかおかしいですか?」

ドンッ、とテーブルを叩くつかさたん。

「どうして手提げ袋を買うためにメイド喫茶に連れてきたのかと訊いているんです」

「いや、だって売ってますよ、そこ」

オレが指さしたレジの隣にあるお土産売り場にはたしかに手提げ袋が陳列されていた。ただし、メイド服姿の美少女がばっちりプリントされているが。

「あれを持って街を歩けと・・・?」

目が、目が怖いよ、つかさたん・・

「あれ、見築先生フレンチはお好みじゃありませんでした?いやー、ブリティッシュ好きとは相当の通ですねえ。」

「突っ込んでるのはそこじゃない!あんなアニメ柄の手提げ持って人前歩けるかって言ってるんですよ!!!」

切れ味鋭いツッコミに思わず感心しながら、「まあまあ、そうおっしゃらず」とごまかしにかかるオレ。実際の所、メイド喫茶に連れてくるのが常識的でないことくらいオレもわかっている。だが、手提げ袋を販売していて、距離が近く、沈んだ気持ちが励まされる、という条件で脳内検索した結果、真っ先にヒットしたのがこのメイドカフェ「いもうとLOVE@アキバ」だったというわけだ。つまり、論理的な帰結なのだ。

 

程なくしてメイドさんが注文を取りにきた。

注文は決まった?お兄ちゃん、お姉ちゃん?えへ♡

小柄でかわいいメイドさんだ。

「え~と、お兄ちゃんは、ぃもうとのらぶらぶジュースで」とオレは注文を告げた。

ぃもうとのらぶらぶジュース”だね♡了解だよ♡お兄ちゃん♡

メイドさんは、セリフの最後にこちらの目をじっと見てニコッと微笑んでくれる。さすがプロのメイドさん。一味違う。

オレは常連だから注文するのも慣れているのだが、つかさたんの方を見ると目を丸くしている。

「(見築先生、メニューを選んでください)」と小声で見築先生に伝える。

「(いや、選んでって言われても、メニューの意味がよく・・・)」と見築先生。

「(直感でいいんですよ!直感で)」

何にするぅ?おねぇちゃん♡」と満面の笑顔でメイドさんが再び聞いた。

「え~と、じゃあ、この妖精さんが徹夜でつくったプリンをお願いします」と何だか決意を固めたような口調で見築先生が言った。

了解にょろ!おねーちゃん♡」とメイドさんがこたえた。「それから、わたしの名前はみおんです。みおみおって呼んでね♡

 

つかさたんの方を見ると、ぜいぜいと肩で息をしている。

「ずいぶんと呼吸が荒いようにお見受けしますが、今からそんな興奮なさっては最後まで持ちませんよ」

「興奮してるんじゃないです!心にダメージを受けたんですっ」

涙ぐみながら言われると少し悪かったかなという気もしてくるのだが、当然ここで疑問が浮上してくる。つまり、なんで秋葉原に来ていたのか、という疑問である。

「ところで見築先生、アニメ嫌いじゃなかったんですか」と問いかけると、見築先生はしばらく考え込んでいたが、

「あれは嘘です」と断言した。

「う、嘘ですか。随分あっさり認めますね。」とたじろぐオレ。

「別に隠してるわけじゃないですけど。アニメとかマンガは普通に好きですよ。ただ、イベントとかだと、ちょっとね」

なるほど。それは分からなくもない。

「プライベートではオープンなんですか。それじゃあ、薄い本も」と言いかけたオレに

「ストップ!それはまた別の話です。分かってもらえますよね?」とつかさたんは言い、こちらをじっと睨んだ。だが、本人は睨んでいるつもりでも、どちらかというと上目遣いで見つめられているようにも感じる睨み方で・・・つまり、オレにとっては萌えもだえたくなる表情でしかなかった。

「ありがとう、つかさたん・・・」

「は?」

やべ、思わず心の声が漏れたか。

 

しばらくして、注文の品が運ばれてきた。

お持たせしました、お兄ちゃん♡ぃもうとのらぶらぶジュースだよ♡

らぶらぶジュースがおいしくなるおまじないをしま~す。お兄ちゃん、わたしと一緒に『おいしくな~れ☆』って言ってね♡

メイドカフェ恒例、おまじないタイムだ。

ちなみにこのおまじない、人差し指をくるくる回し、ジュースに向かってウインクするフリ付きである。

オレは何とかみおんちゃんの指示通り「おいしくな~れ☆」とおまじないを済ませ、次は見築先生の番となった。

お姉ちゃんも一緒におまじないしてね♡両手を頭の両側につけながら」とみおんちゃんが身振り手振りを加えながら説明する。「『かわいい妖精さん大好き~、萌え萌えぴょん♡』

「・・・・・・」

「・・・・・・」

オレも見築先生も思わず無言になった。こんなにハードルが高いおまじないがあるとは、正直な所オレも知らなかった。

みおんちゃんの説明によれば、『萌え萌え』のところで左右の手をパタパタさせ、『ぴょん』のところで小首をかしげるようにするのがポイントのようだった。

「・・・・それ、やらないといけないんですか」と静かに見築先生が聞いた。

はい♡」とみおんちゃんがとびきりの笑顔で答えた。

やや沈黙があって後、見築先生が決心したように「やります」と宣言した。覚悟の定まった表情だった。

それじゃあ、いきますね♡『かわいいかわいい妖精さん大好き~、萌え萌えぴょん♡』

みおんちゃんと一緒におまじないを唱える見築先生の姿を、オレは一生頭に焼き付けておこうと思った。

 

 

目的の手提げ袋をしっかりと購入してから店の外に出ると、「そろそろ帰ります。これ持って街歩くのも結構恥ずかしいので」とつかさたんが言った。

「そんなことないと思いますけどね」

とオレは返したが、つかさたんがこのデザインの手提げ袋を持っている姿はたしかに少しおかしな取り合わせに感じられた。

駅までの道を歩きながら、この出会いをなんとか次につなげる方法はないかとオレは頭を巡らせた。もう一度会って話ができるような、あわよくば、継続的な関係をつくれるような、そんな方法がないかと。しかしもちろん、そんなアイデアは浮かばなかった。

「タカハシさんは、このまま帰られるんですか?」と聞くつかさたんに、

「いや、もう少し買い物しようかと・・・」とオレは曖昧に答えた。駅につくまでに、なんとかして話の糸口を見つけたかった。

 

考慮の甲斐もなく気の利いた口実も思い浮かばぬまま、秋葉原駅が目前に迫ってきた。

行動を起こすなら今しかない。

「あ、あの!見築先生・・・」

オレは意を決して話しかけた。

「今度良かったら、食事でも行きませんか?」

「え?」

少し困惑した表情を浮かべるつかさたん。だが、この時俺はまだそれに気づいていない。

「実はオレ、ずっとまえから見築先生のファンで・・。その・・・その・・ずっと憧れてて、だから、見築先生ともっと仲良くなりたいんです!」

「・・・・・・」

しばらくの間沈黙が続いた。

恐る恐るつかさたんの表情をうかがう。少し考えているような、困っているような表情にも見える。

「あ、あの、別にいますぐ答えをいただかなくてもいいんです。何かまたお会いした時に」

「いえ、そういうことじゃないんです」

「・・・?」

つかさたんの返事は思いの外はっきりとした口調で告げられた。

「ごめんなさい、タカハシさんときちんとお話したのは今日が初めてだし、その・・・、ごめんなさい」

「・・・・・・!!」

ごめんなさい?どういうことだろう。文脈が分からない。なにか謝られるようなことをされただろうか?

だが――本当の所、意味はわかっている。ただ、理解したくないだけだ。心がそれを拒絶している。

「・・・・・・」

「こちらこそ、すみませんでした。」

オレは精一杯穏やかな表情をつくってそう言った。実際には泣きそうな顔に見えたかもしれないけれど。

そして、ゆっくりと後ろを向き、街灯に照らしだされた自分の影を見つめながら、今来た道を引き返した。オレがつかさたんの視界から消えるまでには随分と長い時間がかかったはずだが、引き止める声はなく、大通りからの喧騒だけがいつまでも聞こえていた。

 

 

4.

秋葉原を後にしたオレは、重たい足取りで行きつけの飲み屋に向かった。自宅の最寄駅の近くにある、いわゆる隠れ家的な小洒落たバーだ。『Bar 千駄ヶ谷』というのがその名前だが、店の所在は千駄ヶ谷ではない。マスターが将棋好きで、将棋会館のある千駄ヶ谷を屋号にしたのだそうだ。常連客にも将棋好きの人が多く、オレもその内の一人である。

店に入ると、マスターが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。おう、タカハシ君じゃないの」

「マスター、お久しぶりです」

ここのマスターは気のいい中年のオッサンで、いかにもバーのマスターといった感じの人である。いつも品のいい笑顔を浮かべ、客とよく話す。

今日は休日の夜にしては客はそう多くない。人が少ないほうが落ち着けるからオレ的には有難いのだが、つい経営は大丈夫かと心配になってしまう。

案内されるままにカウンター席に座ると、

「どうしたの、そんな泣きそうな顔して」

とマスターが心配そうに言った。オレはそんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。自分では平静を装っているつもりだが。

「いや、マスター。それが、今日はいろいろありまして・・」

「ほう、女の子絡みかい?」

マスターはことあるごとに「女の子」との関係を追求してくるのだが、基本的にオレには浮いた話などなく、代わりに購入したフィギュアの造形美などを語って笑いを取るのが大体のパターンであった。しかし、今回ばかりはマスターの質問が的をついていたので、オレは答えに窮することになった。

「いや、その、なんというか・・・」

「分かってるって!タカハシくんが現実の女の子と接点なんてあるわけないからね!さあ、何飲む?」

現実の女の子と接点がないと決めつけられると、それはそれで腑に落ちない部分もあるが、まあほとんど正しいのだからしょうがない。

「はぁ・・。じゃ、激辛三兄弟で。」

「はいよっ」

ここのメニューは少し変わっていて、「東海の鬼」とか、「受ける青春」とか、オリジナルカクテルに将棋にまつわる名前が付けられているのである。そのせいでカクテルの中身が何なのか分からなくなっているのが少し問題だが。

しばらく待っていると、

「はい、激辛三兄弟、おまたせ」

マスターがカクテルグラスをスッとカウンターの上に置いた。

「それで、今日はどうしたの?」

「まあ、いろいろと」と、適当な答えを返しておいてから、今日あったことをマスターに打ち明けるべきかどうか、オレは少し悩んだ。マスターなら親身になって話を聞いてくれるだろう。だけど、マスターに話したところで解決策が見つかるかどうかは分からない。

「実は、女の子にフラれちゃって」

小考の末、オレは今日あった出来事を打ち明けることにした。

「ええっ、君がかい?現実の女の子に?告白したの?」

とマスターはいかにも驚いたといったふうに聞き返した。

「そんなに驚かないでくださいよ」

「ほえ~、意外だねえ。君が。しかし、まあ、あれだ。若い頃はたくさん失恋していいんだよ。若者は失恋して成長するのさ。」

「そんな正論聞きたくないです」と格別にドライな酒を口に含みながらオレは言った。「若い頃は苦労するもの」とか「失恋が糧になる」とか、そういったフレーズは半ば聞き飽きているということもあるが、少なくとも今のオレに響く言葉ではないと思った。

「オレも若い頃はよく失恋したよ。だからまあ、タカハシくんの気持ちはわからんでもない。」

「でも、マスターにはちゃんと奥さんがいるじゃないですか。はあ・・」

「ウチのはまあ、気づいたらいたって感じかな。君だっていずれは奥さんも子供もできるだろう」

「僕なんか結婚できるわけないです。妄想の世界の話ですよ」

結婚?結婚なんて考えたこともない。

「おかわり、どう?」

「あ、お願いします」

マスターがカクテルを作っている間、すっかり氷の溶けてしまったお冷のグラスを眺めながらオレは考えた。世の中のリア充と呼ばれている人たちは、オレとは決定的に違う何かを持っているのだろうか。それとも、単なる偶然によってその立場を手に入れただけなのだろうか。マスターに聞いたら笑って一蹴されるかもしれないが、今のオレにはそれすら分からなかった。

「はい、おまたせ」

「あ、どうも」

どちらにしても、オレが女の子と連れ立ってカフェに入ったり、手をつなぎながら夜道を歩いたりする様子は遠い世界の幻想のようで、想像することさえ難しかった。

「マスター、若い頃はさぞモテたんでしょうね」とオレは尋ねてみた。「そんなことないよ」とマスターは答えた。

「オレはね、遠くから見てるだけでいいんですよ」と独り言のようにオレはつぶやいた。そうなの?とマスターがカウンターの向こうから聞き返した。

 

3杯目のカクテルを飲み干したあたりから、徐々に酔いが深まってきた。酔っている自覚はあったが、なかなか止める気になれなかった。

結局、オレは記憶がなくなるまで飲み続けた。

 

 

5.

『お兄ちゃん、電話だよ~。早く出ないと切れちゃうぞ~。お兄ちゃん、電話だよ~』

カチリ

ケータイの画面を見ると、ナカムラからの着信である。

「タカハシ氏!タカハシ氏!今どこにおられるのですか?」

「ん・・すまん、今起きたとこだ」

寝ぼけ眼で答えるオレ。

「なんですと?今日は女流棋聖戦の大盤解説に行く予定のはずではありませんか!」

「すまん、自分で誘っておいて申し訳ないけど、オレはちょっと・・・」

「まーた、あなたという人は!朝の用事に弱すぎですぞ!」

ナカムラの声が耳の奥まで響く。

「いや、いいんだ、オレはもう。先に行っててくれ」

オレは逃避を試みたのだが、

「とにかく!あと10分で千駄ヶ谷駅に来てくだされ!頼みましたぞ!」

そう言うとナカムラは電話を切ってしまった。

 

秋葉原の一件からおよそ2週間後、女流棋聖戦の大盤解説にナカムラを誘ったのは、確かにこのオレである。つかさたんにどうやら嫌われてしまったらしいことは途方も無いショックだったが、つかさたんを応援したいという気持ちに変わりはなかった。今回の大盤解説ではつかさたんは対局者なので直接顔を合わせることはないし、純粋な気持ちで応援できると思ったのだ。

それにしても、オレは朝に弱すぎる。朝といっても待ち合わせ時刻は午前10時だったのだから、ナカムラに怒られても言い訳の余地は全くないのである。

あと10分で会場に着くのはどう考えても無理だったので、オレは半ば開き直ってのんびり行く事にした。のろのろとベッドから起き上がると、回らない頭で身支度を整え、会場へと向かった。

 

 

会場についてみると、やはりというべきか大盤解説場は多くの人で賑わっていた。女流棋聖戦2次予選は4局同時に行われており、解説者も聞き手も大忙しだ。

人ごみをかきわけナカムラと合流すると、オレたちはなんとか空席にたどり着き、解説に耳を傾けた。

今日の解説は末崎遊八段、聞き手は茨城涼子女流四段である。

 

『では見築-板橋戦に移りまして。どうやら数手進んだようですね』と茨城女流。

『先手の見築さんが美濃囲いの石田流に組んだのに対し、後手の板橋さんが居飛車穴熊になっていましたね。お互い駒組みはほぼ完成していますが、ここで4八金寄ですか』と末崎八段。

『まだ仕掛けのタイミングではないということですか?』

『6五歩と仕掛けてもいい勝負になると思いましたけどねえ。じっと金寄りましたね』

『この手はどういう意味でしょう?』

『後手は穴熊ですが、あまり良くない形ですね。一方、先手は石田流の理想形とも言える形です。見築さんは、じっくり指せば先手が良くなると見ているのでしょう』

『なるほど。では後手としてはどう指せばいいでしょうか?』

『後手の板橋さんは千日手でもいいわけですから。例えば9二飛として』

『先手は8八角ですか』

『ここで例えば7二飛車とかですねえ。それに再び9七角とすると』

『なるほど、こうなると千日手でしょうか』

ポンポンと指し手を進められて完全には理解できない部分もあったが、解説によると、どうやら千日手もあり得るようである。

「見築先生、先手番で千日手になってしまわれるのでしょうか」と言うナカムラに、

「大丈夫だ、心配ない。今日は勝ってくれるはずだ」と返したが、もちろん根拠などなかった。

 

対局は解説通り千日手含みの展開となったが、先手がリスクを省みず▲8五桂と桂馬を跳ねて千日手を打開した。続く先手からの▲7四歩△同歩▲6五歩という石田流の陣形を最大限に生かした仕掛けをきっかけにして、両者後に引けない本格的な戦いが始まった。

ほどなく解説は別の対局に移ってしまったので途中経過は分からなかったが、再び解説が見築-板橋戦に戻ってきた時には、どうやら先手の一手勝ちのようだと結論が出て、オレとナカムラは安堵の溜息をついた。

「見築先生、最後は腕力で押し切りましたな」

「パターンに入ると強いからな~。さすがだわ」

「でも、ドキドキしましたな~」

「オレは最初から見築先生の勝ちを信じてたけどね。うん。」

「それはどうですかな?ケータイを握りしめて将棋クラスタの形勢判断を必死に探していたではありませんか」

「うぐっ」

言葉に詰まるオレ。夢中になって解説を聴いている様子だったが、よく気づくものだ。

「ち、ちがうんだ。ケータイを見ていたのはサ○エさんとキュア○ースの勝敗予想をチェックしていたんだよ」

「はいはい」

 

解説は再び別の対局へと移っていたが、しばらくすると板橋女流が投了した旨の速報が入った。

ナカムラは解説会の最後まで残るとのことだったが、オレは一足先に帰ることにした。なにせ昼飯を食っていないので、いい加減腹が減った。それに、対局の勝者は大盤解説会場を訪れることになっているため、直接目に触れる場所には少し居づらいという思いもあった。

この時の心配は、あらゆる意味で的はずれだったのだが。

 

 

6.

我が家の最寄り駅に降りると、オレは直接ウチには帰らず『Bar 千駄ヶ谷』に向かった。この前店で深酔いしたことをマスターに謝りたいということもあったが、最近なんとなく一人暮らしの家に帰りたくない日が多いのだ。

 

店に入ると「いらっしゃいませ」とマスターがいつもと変わらぬダンディーな声で迎えてくれた。

いつものカウンター席につくと、

「この間はすみませんでした、迷惑かけちゃったみたいで」

とオレは可能な限り丁寧に頭を下げた。まずは直近の失敗を謝罪しておかねばならない。

「ふふ、タカハシ君があそこまで酔うなんて珍しいよね」

とマスターが相変わらずの余裕の笑みを浮かべていたので、少し安心しながら

「面目ないです・・」と再度頭を下げた。

後から聞いた話では、あまりの泥酔ぶりを見かねたマスターが、オレを強引にタクシーに放り込んでくれたらしい。オレは知らないカップル客に「彼女なんていなくても生きていけるんだよお!」と力説していたそうだ。どんだけ迷惑な客なんだ、オレは。

 

Bar千駄ヶ谷は午後から喫茶店としても営業しているのだが、バーのイメージが強いせいか、日中の客はあまり多くない。この日も午後6時前という中途半端な時間のせいか、オレ以外に客はいなかった。

「ご注文は?」

「スパゲッティ・ミートソースお願いします。それと、ホットコーヒを。ミルク多めで」

「はいよっ」

オレはポケットからケータイを出して漫然と指を動かした。

特に何という理由もないが、ツイッタークライアントを起動して画面を眺める。

『つかさたん勝ったから、今ごろ祝杯あげてるかなタカハシ氏』

『すでに飲んでるだろ>タカハシ』

『すでに潰れてるだろ>タカハシ』

「・・・・・・」

こいつら、好き勝手言いやがって・・

あまりに自由奔放につぶやきすぎたせいか、オレのキャラ付けが随分と本人に即したものになっている気がする。ここまで来ると、少し問題かもしれないな。今になってみると本名の『タカハシ』名義でアカウントをつくってしまったことも仇になっていて、リアルでオレのことを知っている人なのかどうか区別もつきやしない。

「はい、コーヒーおまたせ」

「あ、ども」

オレはケータイを片手にコーヒーを飲みながら、スパゲッティが茹で上がるのを待った。画面を眺めていると、とりとめのない考えが頭に浮かんでは消えた。将棋のこと、大学のこと、部活のこと。しかし、一つとして考えはまとまらず、自分が今やっていること全てが中途半端に思えた。オレはひとまず考えることを中断し、ケータイの画面に向かってツイッターのリプライを返す作業に没頭した。こいつらを相手にしていると、不思議と心が穏やかになる。実際にはそうならない時もあるので多分オレの気のせいだが、今はそういうことにしておく。しょうもないツイートがほとんどだが、それがいいのだ。

やがてスパゲッティ・ミートソースが運ばれてきた。食ってみるとめちゃくちゃうまかった。

「マスター、これ絶品ですね!こんなコクのあるミートソース初めて食いましたよ!」と思わず叫んだ所、ちょうどジャガイモの皮むきを始めていたマスターに

「そのミートソース、缶詰だよ」とあっさり返された。

ズルッと椅子から滑り落ちるリアクションを取りながら「缶詰ですか・・」と言うと、「まあ、缶詰のミートソースもおいしいからね」とマスターは苦笑している。

なんだ、缶詰だったのか。言われなきゃ絶対気づかなかったのに。

 

マスターとくだらない世間話をしながらスパゲッティも食べ終わり、そろそろ帰ろうかと考えていたとき、

カランコロン、と店の扉が開く音がした。

客が来たのか?そろそろ7時だしな。

そう思って、後ろを振り返ったオレは、思わず目を見開いた。

ドクン、と自分の心臓の音が聞こえた。

見築つかさが、そこに立っていた。

 

 

7.

つかさたんはドアの前に立って店内を見渡すと、オレの座っているカウンター席まで歩を進めた。

「隣、いいですか?」とつかさたんが尋ねたので、オレは「はい」と答えた。もちろん、「いいえ」と答える選択肢はありえなかった。

つかさたんは対局中と同じいでたちで、膝丈の白いスカートが殊更にまぶしく見えた。

つかさたんが席につくと、テーブルを台拭きで拭いていたマスターがやってきて、

「こちら当店のメニューです。お決まりになりましたらお声掛け下さい」と恭しい仕草でメニュー表を示した。

「あの、メニューの意味がよくわからないんですけど」とつかさたん。

「当店のカクテルは全て将棋にちなんだオリジナルカクテルとなっております。はじめての方ですと、こちらや、このあたりのものがおすすめです。ソフトドリンクはこちらになります」とマスターが説明を加えた。

「え~と、じゃあこの千駄ヶ谷の受け師でお願いします」

「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

カウンターの隣席に座る女性を見つめながら、オレは何と声をかけていいかわからないでいた。つかさたんとの一連の出来事に対しては、すでに自分の中で一応の決着をつけていたし、再び顔を合わせることは想定していなかったのである。

見たところ初めてこの店に来たようだし、若者がカジュアルに利用するような雰囲気の店でもないから、もし偶然だとすればよほどの確率ではないだろうか。

「見築先生、今日はおめでとうございました」

と口を開いてから、オレは、少し後悔した。自分で言っていて随分間の抜けたセリフに思えたからだ。

つかさたんは小さな声で「どうも」と返した。そして再び沈黙が訪れた。

 

注文したカクテルが運ばれてくる頃になってようやく、つかさたんは口を開いた。

「この間は、すみませんでした」

「・・・・・・」

「あんなひどい言い方をすべきではありませんでした」

「・・・・・・」

つかさたんの言葉は、オレにとって少し意外なものだった。一度フッた男にわざわざそんなことを伝えるのは、なんというか、あまり一般的でない気がしたのだ。

三度目の沈黙が訪れそうな気配を感じて、オレはあえて違う話題を振ってみた。

「オレがここにいることは知っていたんですか?」

「タカハシさん、ツイッターでつぶやいてたでしょ」 

「!?」

一瞬、呼吸が止まった。

「タカハシさんのツイッター、業界では有名なんですよ。熱烈なファンがいるって。私も、フォローはしていなかったけど聞いたことはありましたし。将棋祭りのあと、スタッフの方が教えてくれたんですよ。タカハシさんのアカウント」

「オレのツイッター、見たんですか?」

狼狽を隠せないオレ。

「はい。正確に言うと、ついさきほども読んでいましたが」

「・・・・・・マジ、で?」

「はい、マジです」

頭がクラッとした。つぶやきを・・・見られている?しかも、かなり頻繁に?

「すまない、ちょっと待ってくれ。マスター、お冷を一杯お願いします」

少し状況を整理しよう。先々週の将棋祭りの後、オレのツイッターアカウントの存在がイベントスタッフによってつかさたんに伝えられた。その後、彼女はオレのつぶやきを何度かチェックしているようだ。オレ、なんかマズイこと書いたっけ?うん、書いてるよ。心当たりありまくりだよ。むしろすべての発言がレッドゾーンだよ。問題は、どのタイミングでツイートを読まれたか、だが・・・

「見築先生、オレのつぶやき、どのくらいチェックされました?」

恐る恐る聞いてみると

「ほとんど毎日ですけど」とサラッと答えるつかさたん。

「(ふおおおおおおおおおうわあああああああああ)」

混乱を極めるオレ。

「はい、お冷おまたせ」

「あ、ども」

まずは水飲んで落ち着こう。

「タカハシさん、この間の出来事以来、『早くオジサンになりたい』とか『爆発するオリオン座を眺めながら余生を送りたい』とかつぶやいてましたよね。さすがに私、悪い事したかなと思ったんです」

そんなことつぶやいたっけ?オレ・・・

「私、別にタカハシさんのこと嫌いだと思っていたわけじゃなくて、どういう人なのか知らなかったから、だから、あの時は・・・」

「・・・・・・」

「でも、これだけは言っときますけど、ツイッターで『つかさたんの触覚○○にゃんみたい』とかつぶやくの、やめてもらえませんか?意味分からないですし、ちょっと怖いので」

ゲホッ

思わず飲んでいた水を吹き出しそうになる

「次からは、控えます・・・」

もはや言い訳できる段階にないことを悟り、オレは素直に謝罪の意を示すことにした。今まで思い付くままにつぶやき、自由に振舞いすぎたことを、オレは素直に詫びた。

 

「追加の注文はよろしいですか?」とマスターがつかさたんに声をかけた。この人の客に話しかける間はいつも絶妙で、タイミングを外すことがない。必要以上にしゃべりすぎないし、客を飽きさせることもない。

「それじゃあ、直感精読をお願いします」メニューを見ながらつかさたんが注文した。

「少々お待ちください」

と言うと、マスターはシェーカーに液体を注ぎ始める。

「つかぬことをお伺いしますが、見築つかさ先生でいらっしゃいますか?」

「はい、そうです」と答えるつかさたんに、

「プロの棋士の先生にお越しいただけるとは、これ以上ない喜びです」

とマスターが深々と頭を下げた。

「いえいえ、そんな」と恐縮するつかさたん。

「今日は対局がおありだったのですか?」とマスター。

「はい。女流棋聖戦の一次予選だったんですけど」

「ほう」

「今日はなんとか勝てました」

「そうですか。それはよかった」

と言い、マスターはにっこりと微笑んだ。いかにもナイスミドルといった風な、感じのいい笑い方だ。

「将棋、お好きなんですか」とつかさたん。

「ええ、将棋は昔から好きなんですよ・・っと」

答えながらマスターはシェーカーにふたをすると、シャカシャカと振り始めた。小気味良く、洗練された仕草だ。

「どうも指す方は上達しないのですけどね。お客さんと将棋の話をするのは好きなんですよ」

「へえ。将棋好きな方が多いんですか?」と感心した表情をみせるつかさたん。

「ええ。この店は開店当初から、愛棋家の方によく集まっていただきましてね。昔は将棋大会なんかもよくやったものです」

へえー。ここで将棋大会をやってたなんてオレも全然知らなかった。このオシャレなバーで将棋大会が開かれるなんて今ではとても想像できないが、もう随分長くやってるみたいだし、店の雰囲気も昔とは変わったのかもしれない。

「ですが、当店もプロの先生がいらっしゃることは滅多にありません。ですから、見築先生は特別なお客様です」

そう言うとマスターは再び微笑んだ。スマートな笑い方だ。

つかさたんの方を見ると、「そんなことないですよぉ~」と言いながらも、まんざらでもなさそうな様子である。

このオヤジ、まさかつかさたんのこと狙ってやがるんじゃないだろうな・・、と余計なことを考えながらも、つかさたんの楽しげな様子にオレはほっとしていた。

 

その後、話題はつかさたんの対局へと移った。

「でも、最近は大事な試合で勝てないことも多くて」とつかさたん。

「ほう、そうなのですか?」とマスター。

「はい。だから最近は対局の前の日になると、なんでプロになったんだろうって、思うんです」

「見築先生ほどの方でも不安になったりするものなのですか」

「それはもう、しょっちゅうですよ。負けが続くと特に」

「ふむ」と小さく合いの手を入れるマスター。

「プロになってから分かったんですけど、研究の深さとかが全然違うんですよ。それに全然追いつけてないっていうか。でも、今は自分ができることを一つずつをやるしかないんです」

と勝負の裏側を語るつかさたんに、マスターはうんうんと頷いている。

 

その後も、(主にマスターのおかげで)楽しい会話が続いた。この時間がずっと続けばいいのにと心から思った。できることなら、今日の会話も、目に映る光景も、全てを記憶に残しておきたい。

やがて二人連れの客が来店し、マスターが注文を取りにカウンターを離れた。

ややあって、つかさたんが「あ、もうこんな時間」と言い、「時間も遅いし今日はそろそろ帰りましょうか」ということになった。

支払いを済ませ、帰ろうとするオレとつかさたんに、マスターは「またのお越しをお待ちしております」と深々と頭を下げ、「どうぞお気をつけてお帰りください」と言ってニッコリと笑った。

 

外に出るともうすっかり日は沈んでいた。

「見築先生、駅の方で大丈夫ですか?」

とオレは歩き出したが、

「あれ?ちょっと待ってください」

つかさたんはゴソゴソとバッグの中を何か探している。

「あれ?あれ?おかしいな」

見るからに焦っているけど、まさか鍵を無くしたとかじゃないだろうな。

「私、鍵なくしちゃったかも」

コケッ

古典的な動作でコケるオレ。

「こんな時間じゃたぶん不動産屋も閉まってますよ」と言うと、

「え、そうなんですか?」と不安そうな表情をみせるつかさたん。

「ええ、たぶん」

「一応大家さんに電話かけてみますから、ちょっと待っててください」

そう言うとつかさたんはケータイをポケットから取り出し、電話をかけ始めた。

と同時に、オレはあることに気づいた。

「そのストラップに付いてるの、カギじゃないんですか?」

「?ストラップ?」

「それですよ、それ」と指さすと、

「あ、昨日ここに付けたの忘れてました」とつかさたん。

「そんな大事なこと忘れないでください!!」と思わず突っ込むオレ。

つかさたん、ひょっとして本当は天然さんなのだろうか・・?

「ケータイにカギとか付けちゃ危ないですよ。ケータイなくしたらどうするんですか・・」

「あはは・・」と苦笑するつかさたん。

「私、今年の春から一人暮らししてるんです。だからこういうの、まだ慣れてなくて」

「今年の春ってつい最近じゃないですか。一人暮らし、どうですか?」

「そうですね、実家に比べると不便ですけど、一人暮らしもこれはこれでいいかなって思います。開放感があって」

「☓☓☓☓☓の薄い本も集めちゃったりして」とオレが言うと

「むっ」

とつかさたんは頬をふくらませた。

「もう遅いし、駅まで送っていきますよ」

オレが提案すると、

「いいですよ、実は私の家、ここから近いんです」

やんわり断られた。

「まあまあ、そう言わず」

「いいって言ってるでしょ、もう」

「予選突破のお祝いにケーキでも買って行きますか」

と悪ノリするオレ。

「ケーキって、それどこで食べるんですか」

困惑するつかさたん。

「そんなの買ってから考えればいいんですよ」

言ってオレは歩き出す。

「もう、タカハシさんの言ってること、どこまでが冗談なのか分からないです」

慌ててついてくる仕草がかわいい。

大通りまでの道をしばらく歩いていると、

「星、見えないですね」

ふいにつかさたんが言った。

空を見上げると、なるほど、厚い雲に覆われて星はひとつも見えなかった。

湿った灰色の空を眺めながら、オレは汗を拭った。

 

 


作者による「辻村創造」

   どうしたの? 辻村君

1.作者による「辻村創造」   
清水らくは


 今回は『七割未満』の主人公であり、『五割一分』にも登場する辻村君の素顔に迫ろうと思います。
 辻村君は最初、『五割一分』という小説に出てきました。この小説、主人公は冴えないプロ棋士、三東四段。そしてそこに天才少女、金本月子さんが転がり込んでくるという話でした。で、この二人とってもおとなしいんです。目立とうとしないし、静か。そこで対照的なキャラを創ろうとしたら、辻村君が出てきたんですね。若くて自信家で、それでいてどこか悲しげ。彼の方が月子さんに憧れる、それが物語のスパイスになればと思いました。
 ただ、『五割一分』では彼のことを書ききれなかったので、彼を主人公にした『七割未満』という話の設定を思いつきました。天才だけど一番じゃない、オシャレにこだわるけどなんか変、いい加減そうで実はちゃんとしてる。そんな男の子を書くのはとても楽しいです(笑)
 そんな辻村君には皆川さんという姉弟子がいますが、彼女は『五割一分』を最初に書いたときにはいなかったキャラなんです。某賞に応募した時に貰ったコメントをもとに、物語を膨らまそうとした時にちょっとだけ出てきたキャラでした。それがまさか表紙にまでなるなんて、作者としてもびっくりです。

 辻村君にはモデルがいるんですが、設定自体はかなりオリジナルが多いです。高校をさぼっているのは「月子さんができなかったことを自ら放棄する」という余裕の表れみたいなものですね。両親との関係にしても、彼はみずから断っているところがあります。川崎君というライバルがいるんですが、彼は『レイピア・ペンダント』という作品に出てきた、天才型のプロ棋士です。辻村君より一歳年上なんですが、将棋以外の点ではどこか幼くて、偏執的で、でも純粋。まだまだ彼の魅力は引き出せていないので、今後辻村君との絡みももっと書いていきたいです。
 実は作者も辻村君の容姿はよくわかっていなくて、「背は高くなくて、髪の量が多くて、目は細め」ぐらいのイメージしかありません。基本、男キャラの容姿は書いていない気がします(笑)ですから彼については、これから「創造」していく段階ですね。

敗戦後の形勢

2.敗戦後の形勢
第25回 辻村充四段 「優勝を知らない10代棋士の嫉妬」

上石三郎



 早熟であることは天才であることを意味しない。10代でプロ棋士になるものが、皆名人になるわけではないことは当然のことである。しかし。中学生棋士たちが皆タイトルを獲ってきたことを考えると、若くしてプロになった者はやはり特別な気もする。私たちは無邪気に10代棋士たちに同様の活躍を期待してしまうのだが、爆発的な輝きは最近見ることはできない。それどころか、最近の10代棋士は順位戦で負け越しさえしてしまう。このまま、「普通のプロ」で終わってしまうのではないか、と思うと少しさびしい。
 三段リーグは今でも過酷であり、そこを抜けることは厳しい。しかしそれゆえに、リーグで悔しい想いを経験した方がプロになってから通用するたくましさが身についているのではないか、とすら思えてくる。リーグをさっと抜けてしまった10代棋士は、先輩たちに対抗するだけの芯からの強さを持ち合わせぬままに戦いの場に出てしまっているのではないか。
 若者が様々な壁を才能だけで食い破っていく、そんな姿を見たい。ファンは無責任にもそのようなことを期待してしまうのである。
 そんな勝手な期待を実現してくれるかもしれない若者が、二人現れた。一人は川崎。デビュー以来何人もの強豪を倒し、一躍その名を広めた。残念ながらタイトル挑戦などには至っていないが、いつかは大舞台に行くだろうという声が多い。
 そしてもう一人、期待の新人がいる。辻村である。川崎より一歳若い彼は、川崎より先にプロになった。七割近い勝率を残し、圧勝する将棋も多くみられる。高校生棋士であり、最近はおしゃれにも凝っているようである。しかし、彼に関してはあまり先輩方の話題に上るということを聞かない。確かに強いのだが、超一流になるような圧倒的な何かが感じられないためであろう。確かに、将棋に関してはあまり印象がない。
 辻村四段自体もあまり多くを語るタイプではない。ただ、内に秘めた強い闘志は、感じられる気がしていた。そしてそんな彼が、若手奨励会員たちと研究会を始めた、との噂を聞いた。これまで研究会をしていなかったことも驚きだが、彼が後輩の面倒を見ているというのも予想外の出来事だった。孤独を愛し寡黙に研究する、そんなイメージを抱いていた。
 辻村充とはどんな棋士なのか。実態に迫ってみたいと思った。




優勝経験のない天才


 辻村は、確かに早熟だった。6歳で将棋を覚え、小学二年生の時に道場初段になった。その間特に苦労した覚えはないと言う。ただ、家族や友人が誰も将棋を指さないため、実戦数が少なかったかもしれない、と語っている。弱い時から強い人とばかり指していたため、子どもらしく将棋を楽しむという期間がなかった。そして常に上を目指していた辻村にとって、大きな出来事が訪れる。KKLY将棋大会である。彼は二年生の時、関東大会において、低学年の部決勝戦まで勝ち進む。当時三段になっていた辻村にとって、優勝は当たり前のことに思われた。しかし、そこに立ちはだかったのが川崎であった。公開対局の場で、辻村は完敗する。当時を振り返って彼は「泣くことすらできなかった。何が起こったのかわからなかった」と語ってくれた。
 その後様々な小学生大会に出場した辻村だが、優勝することはできなかった。その多くは、川崎によってはばまれた。辻村にとって当然妥当川崎が目標となったのだが、その川崎は先に奨励会に入る。そして辻村は、川崎のいない大会には出なかった。一年後、「当然のように」辻村も奨励会に入った。
 辻村はこのようにして、優勝経験のないままにプロの道を志すことになった。実力はあったものの、常に川崎に一歩遅れていたことは隠しようのない事実である。
 一歳年下とはいえ、同年代にまったく勝てない相手がいることは屈辱であったに違いない。実際辻村はことあるごとに「川崎さんに勝ちたい」と言っていたという。しかしそんな辻村は、三段リーグで川崎に追いつき、もう一人の天才、懸よりも早く四段に昇段した。本人も想定外だったという。「自分はまだまだだと思っていた。ただ、リーグ戦は自分に合っていたんだと思います」辻村自身はそう分析している。トーナメントで一度も優勝できなかった男が、リーグ戦で結果を残しプロになった。勝負の世界は本当に不思議なものである。
 こうして高校生棋士・辻村四段が誕生した。天才候補の10代棋士に、注目が集まったのである。




理念の研究


 辻村はコンスタントに勝ち続け、勝率は七割を超えた。しかしトーナメントではやはり勝ち進むことができず、新人戦でもベスト8に終わった。
 最近の若手はすべからく研究派で序盤に隙がない。辻村もその例にもれなかったが、研究会には一切所属していなかった。制服姿のまま控室に来ている姿は何度も見たが、ひたすらひとりで勉強している、といった感じだった。たまに姉弟子である皆川女流1級と話しているのは見たが、他の棋士とはあえて距離を取っているように感じた。孤高というわけではないが、群れることを嫌っている雰囲気は伝わってくる。
 そんな辻村の将棋は、どこか孤独さを感じさせる。一手一手細かく研究するというよりは、見捨てられた変化に光を当て、自分なりに意味を与えてやるような、そんな指し手が多い。
 印象に残っているのは図の局面である。善波四段との飛龍戦、後手が△7二飛としたところだ。少し懐かしい形になっている。この後▲3四角△同金▲同飛として8二金と2三歩を狙いとするのだが、△7一銀から飛車を2筋に持ってこられると歩切れが痛く、後手が指せると結論が出されている局面である。しかし辻村はこの局面に誘導した上で、▲3四飛という新手を放った。後手は△同金とするよりないが、▲同角とした後今度は8二金と4三角成の両狙いとなっている。
 結果は辻村が勝ったが、新手の是非はわからなかった。わからない、というのは、他の若手が興味を示さなかったということも意味する。最新形ならば皆で頭を突き合わせて検討するのだが、この対局は控室でもたいして人気がなかったという。私が感心したのは、そういう他の若手が興味のないところ、流行系ではないところに辻村が新手を用意していたことである。
 「最近流行している形は、軽すぎて好きじゃないんですよ」
 少し笑みを浮かべながら彼は言った。そしてこう付け加えた。
「誰にでも好手になる手というよりは、自分にとって最善の手を研究している感じなんです。手というよりは理念かな。自分の性格とか、まあもっと言えば終盤力とかに合わせた研究じゃないと意味がないんで」
 辻村は、誰にでも通用する一手、いわば「神の一手」とでもいうものを追い求めていない。彼は自分が勝つにはどうすればいいか、それを第一に考え、そのために研究会などにもほとんど参加しない。最近始めた研究会も、奨励会員たちに請われて何となく始めたものだという。彼を引っ張り出したうちの一人、魚田6級は次のように語ってくれた。
「辻村先生は、悪手について駄目だとは言わないんです。悪手を指すのがわかっていてなんで序盤に力を入れないんだ、そう指摘してくれます。今武器になっている終盤力は、上に行ったら皆持っていて当たり前の防具にしかならない。もっと他に武器を見つけないとプロにはなれないって」
 辻村は後輩たちに、天才としてではなく接しているのだな、と思った。彼は常に川崎という壁に挑み続け、一番ではないという自覚のもと戦ってきた。だからこそどうすれば自分より強い相手に立ち向かえるかを考えてきたのだろう。
  辻村は、手ではなく理念を研究する。彼が超一流になれるかどうかは、この点が成功するかどうかにかかっているだろう。




「常に嫉妬している」


 先日辻村は、プロになって初めて川崎と対局した。プロになる順番でこそ逆転したものの、奨励会でもほとんど勝てていなかった。辻村も「ここで一発入れとかないと、将来に関わると思った」と考えていた。しかし、勝負は完敗だった。
 「常に嫉妬していますよ。川崎さんはずっと二歩ぐらい前を走っている。いつでもタイトルを獲れるだけの力を持っていると思うんですよ。でも僕はまだ本当に強い人には勝てない。せめて勝てる将棋は落としちゃいけない、七割は絶対維持しなきゃいけないと思っています」
 嫉妬を告白し、勝率を目標とする。これまでそんな若手がいただろうか。彼はまだ高校生である。しかし川崎というライバルがいることにより、時間の足りなささえ実感しているようである。
  残酷なようだが、川崎に負け続けることにより辻村という棋士は成長を続けるだろう。川崎の影に隠れながらも、理念という武器を育て続ければ、きっと彼は超一流の天才になれる。
 そういえば、大事な質問を忘れていた。最近辻村は急におしゃれに凝り始めたように見える。スーツで対局する事も増え、髪型もどんどん目立つものになってきた。こちらに心境の変化はあったのだろうか。
「いや、それは……内緒でお願いできますか」
 少しもじもじと答える様子は、間違いなく10代男子の姿だった。私はいろいろな意味で、温かい気持ちにさせられた。



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