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駒とゴーヤーとカヌーと台風


 夏の始まりのある日、私は那覇空港に降り立った。

 皆様こんにちは、皆川です。今回は沖縄のある高校からご招待があったということで、私が行くことになったのよね。『駒.zone』初めての交流企画なんだけど、大丈夫かな。
 沖縄に来るにあたり、木田さんに色々聞いてきた。彼女は何回か沖縄旅行してるみたいで、私にお勧めのところとかも教えてくれたのよね。自由な時間も結構あるから、回ってみようと思う。

 空港は想像以上に大きかった。そして綺麗。外は思っていたより暑くない。湿気があまりないのかな。大きな旅行鞄を持った人たちがいっぱいいて、まあなんというか、カップルがやっぱり目立つわけで。予算の関係上とはいえ一人で来るのはやっぱりさびしい。
 モノレールの駅にやってきた。ここから中心街まではこれに乗る。「モノレールは渋滞しないから」とは木田さんの言葉。列車がやってきた。これも新しくてきれいだ。発車してからの車窓は、周りに高い建物もなく、気持ちいい。

 公園を通り過ぎ、街の中へ。美栄橋駅で下りる。ここをまっすぐ進むと国際通りなんだけど、そこは後回し。編集長も沖縄には詳しいらしく、「せっかくなのでみんなとは違う旅行記にしたい」なんて言うものだから那覇に宿を取らなかったのだ。そこまで言うならスケジュール作ってくれればよかったのに。
 地図を見ながら、狭い路地を進む。そして一軒のレンタカー店に入り、小さな車を借りた。事前に予約していたものの、びっくりするぐらい安かった。そう、今回の旅は自動車でする。私は普段折り紙つきのペーパードライバーだけど、木田さんいわく「沖縄は走りやすいよ」とのことだった。
 カーナビを起動して、目指すは北谷(チャタン、って読むんだって)。今日の宿はそこなのだ。

 ……迷ってなんかないからね。

 そんなわけで、北谷が近付いてきた。那覇市内でぐるぐる回ったりとか、斜め右に曲がるがわからなかったりとか、そんなことは全然なく順調に到着。本当に。
 少し天気が悪くなってきたみたい。目の前に現れた観覧者。ここはアメリカンビレッジと言って、都市型の大型リゾートらしい。目の前を金髪のお姉さんがベビーカーを押しながら走り去っていった。さすが沖縄。

 とりあえずホテルにチェックイン。部屋に入ると、窓から見えるのは広い海だった。これがオーシャンビューというのね。他人のお金で泊まるホテルっていいよね。


 荷物を部屋に置いて、ぶらぶらとすることに。ビーチにはたくさんの人、人、人。楽しそうね……
 なんか変なのみつけた。 いやあのね、水着を持ってこなかったわけではなくてさ、なんていうか、ほら、ねえ。
 スーパーに入ると、さすがの広さ。これも木田さんに教えてもらったのだけれど、「お土産はスーパーで買うといいよー」とのこと。地元の人が食べてるものを、地元の価格で手に入れられるから。そんなわけで沖縄独特の食材を物色。沖縄そばとかさんぴん茶とか、たしかにお手頃価格という気が。

 ……ただね、ゴーヤーはね。うん、ちょっと苦手。ただ、「沖縄行くんですか? じゃあ、ゴーヤー買ってきてくださいよ」って言ったやつがいるのよね。あいつのためにってわけじゃないけど、まあ買っていってもいいかな。 
「あ、東京の方じゃないですか?」
 突然声をかけられた。びっくりした。振り向くとそこには小顔で淵なしメガネの青年がいた。
「えっと……そうだけど」
「やっぱり。本当に失礼なんですけど、何かで見たことある気がして……どこかで会ったことありませんか?」
 ひょっとしてナンパ? いや、もちろん慣れてるけどね。
「ちょっとわからないなあ」
「お写真で見たのかも……あ、浴衣を着ていたような」
「それは……」
 おそらく将棋祭りか何かのものだ。恥ずかしい。
「人違いだと思う」
 そう言って私は、駆け出してしまった。逃げるが勝ち。
 旅というのは恐ろしい。年下っぽくてメガネとか、あんまり近くにいると気を惹かれてしまうじゃない。



 二日目の朝。宿を出た私は北へと向かう。天気は晴れ。
 海岸沿い、気持ちのいい道が続く。ええっと、今日もオフなのよね。でも「沖縄の魅力を取材ね!」って編集長から……これ、仕事だよね?
 しばらく走って、ハンドルを左に。ビーチを越えてたどり着いたのは、残波岬。車から下りたら、風が強い。人はあんまりいない。
 こんな所から落ちたらたまらないよね。別に高いところが怖いとかじゃないから。
 しばらく波の音を聞く。
 ひとつながりの海でも、いろんな表情を見せる。将棋もどこかではつながっているけれど、誰が指すかによって全く別のものになる。似てるのかもね。



 
 さてっ、ポジィティブにいこうかなっ。
 残波岬を出て、さらに北へ。木田さんは言ってなかったけど、ぜひ見たいと思ってたものがあるのよね。そんなわけで、着きました、万座毛。車を降りてびっくり、露店が並んでいたり。結構な観光地なんだね。
 岬と違い、風は穏やか。柵に仕切られた道を列になって進んでいく。遠くに見えてくる大きな岩。確かに、象の形をしている。
 きりんとかパンダとかの岩はないのかな。
 地元の人はいない気がする。確かに旅行に慣れた人は別のものを見たいかも。でも、一見の価値ありね。


 沖縄は、広い。土地じゃなくて、空と海が良く見えるから、世界が広く見える。いつもどれだけビルや山を見ていたのかが実感できる。

 今日の目的地はまだ先。まっすぐ北に伸びる沖縄本島が、ある地点で西にせり出し始める。そのあたりに名護がある。
 ガイドブックに書いてあった沖縄そばの店に入って昼食。思ったよりもさっぱりとしていた。海や空気のきれいな上澄みを一つの器に入れたような、そんな味。

 進路を西へと変える。今まで通ってきたところが左側に見える。随分と長い距離運転してきたなあ、と実感。ひょっとしたら私、うまいかも。ぐんぐんと進んで、皆と前の駐車場に車を預けた。ここからはフェリー。

 やたらと広い待合室だけれど、そんなに人はいない。チケットを買って、あたりをぶらぶらとする。目的の島は、すぐ近くに見えた。平べったいお好み焼きみたいな感じだけど、中心にごつごつとした山がにょっきり生えている。不思議な島だね。

 フェリーがこちらにやってくる。思ったよりも大きい。考えてみたら、今まで大きな船に乗ったことがないんだよね。ちょっとワクワクしながら乗り込んで、階段を上がっていく。壁の外にも席があって、風を感じながら座ることができた。

 動き始めた!

 白波を立ててフェリーは進んでいく。地元の人が多いのだろう、私みたいにはしゃいで外を眺めている人はほとんどいない。不思議と海を見ていると、将棋盤を思い出す。波と波の間に、駒を置いてみたくなる。何百年昔には、船が戦のために行き来していたかもしれない。そんなことを考えていたら、あっという間に島が近付いてきた。港と、その周囲に広がる集落。ああ、離島に来たんだな、と思う。

 着岸し、しばらくしてから下船の案内。ここが、今回の目的地。この島の民宿で、将棋合宿が行われる。そこに派遣されるゲスト棋士が私なのだ。まあ、沖縄には美少女が似合うという賢明な判断ね。

「皆川さん」
 突然声をかけられてびっくりした。そういえば、宿の人に迎えに来てもらうことになっていた。けれども振り返った私の前にいたのは、予想だにしない人で、私は荷物を落としそうになった。
 白く透き通った肌に、細い体。茶色い髪は肩のあたりで切りそろえられている。私は彼女を知っている。よく知っている。
「前川さん」
 前川蜜、元奨励会員。同世代の中で最も強い女性だった。木田さんは奨励会試験に落ち、私は受けることすらなかった。当時は金本さんの存在なんて誰も知らなかった。女流棋界で活躍することを期待されながら、将棋の世界そのものから前川さんは姿を消した。どこに行ったのか、何をしているのかまったく知らなかった。
「お久しぶり。たまに活躍は聞いてる」
「えっと……どうしてここに?」
「どうしてって、送迎頼んだじゃない。島烏で働いてるの」
「えっ」
 島烏は、将棋合宿が行われる予定の民宿だ。そこに二泊することになっている。詳しいことはあまり聞いていなかったのだけど、従業員が私より強かった人っていうのはどういうことだ。
「聞いてなかった? こっちの高校で将棋部に在籍したりしたの。そこから話が進んで今回の合宿につながったわけ」
 強い日差しの下、日常のことを語っているにもかかわらず前川さんは世界から浮いて見えた。とてもきれいなのだ。嘘のようにきれいだ。それは、小学生の時からだった。決して慌てず、常にマイペースに生きていた。けれども芯が強いとかではなく、自分を装うだけの技術を持っていなかったのだと思う。男の子たちの中で一人凛として、前川さんだけが別の時代に生きているようだった。だから周囲は彼女からちょっと距離を置いた。そして後から考えると、前川さんは別に距離を取りたくなかったんだと思う。将棋は順調に強くなっていたのに、突然奨励会をやめた。一度だけ私に、「みんな、はつらい」と言った。
「なんか、不思議な話」
「そう? けっこう、合ってるって評判」
 前川さんは私を手招きして、白いバンへと誘う。
「さ、行きましょ」
「行くって……前川さんが運転するの?」
「勿論。無事故無違反。二か月目」
 ハンドルを握ってにやりとする彼女は、やっぱり世界から少し分離しているように見えた。ただ、昔と比べたら随分と楽しそうだ。
「じゃあ、荷物載せるね」
「ふふ、変な感じ。皆川さん、プロなんだよね」
「そう。前川さんがプロじゃないのも……変な感じだけどね」
「そうかな」
 トランクに荷物を積み、私は後部座席へ。前川さんのうなじは、背骨が見えるんじゃないかと思うぐらい白かった。
「じゃ、行くよ」


 本島よりも、空が広かった。高い建物はなく、信号すらほとんどない。畑や林の中に工場。今まで見たことのない静かな美しさだった。
 どこまでも平坦で、たった一つ山がそびえたっていて。絵に描いたような光景とはこのことだ。こんなところで将棋を指せるのは幸せだろうね。
「ここ」
 車が止まったのは、一見普通の民家かと思うような建物の前だった。木の看板に大きく「島烏」と書かれている。
「なんかすごく、民宿って感じ」
「元々おばあちゃんがやってたんだけど、引退したの。今は私とバイトの人でやってる」
「前川さんが女将さんってこと?」
「はは、言われたらそうだ」
 玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がる。廊下の向こうに防砂林、そしてその向こうに真っ青な海が見えた。沖縄では、海は誰もが手に入れられる宝物だった。
「もうすぐ人が来るから。なんだったら指しておいて」
「え、そんな適当なの?」
「ここは、そういうところ。あ、泡盛は飲みすぎないようにね。飲みやすいけど、結構酔うから」
「私、そんなに飲めないから……」
「そう。あ、女子部屋はここね」
 前川さんに案内されたのは、ごく普通の八畳間だった。部屋の中に夏の香りが貯まっていた。
「女の子が来るの?」
「何人か。島の人と、女子高生と、小学生。増えるかもしれないし、減るかもしれない」
「うーん」
 なんというか、適当なのは苦手。でもまあ、しょうがないか。
「あと、皆にご飯作ってもらうの手伝ってもらわなくちゃ。皆川さんにも頼める?」
「うん」
 部屋から出てくると、玄関から足音が聞こえてきた。
「蜜さーん」
「了君だ」
 入ってきたのは、小柄で端正な顔立ちをした青年だった。
「頼まれてたもの持ってきたよ」
「ありがとう。こちら、女流棋士の皆川さん」
「わ、本物の! こんにちは、今回お願いした高嶺了です!」
「こんにちは、皆川です。代表者?」
「あ、はい」
「彼氏なんだ」
 前川さんはそう言って高嶺君の方をつかんだ。青年は顔が真っ赤だ。
「へー。可愛い彼女で良かったね」
「そ……そうなんです」
 否定しないのかよ。何かとってもうらやましい。
 その後、続々と人がやってきた。部活の関係者が多い。そこでわかったのだが、高嶺君は年齢は下だが学年は前川さんより上のようだ。
 取材ということを思い出し、写真を撮ったりメモをしたり。そして豆腐を切ったり……?
「ゴーヤーチャンプルができましたよ」
 高嶺君がテーブルに持ってきたのは、緑のゴーヤーに豚肉に卵、そして豆腐の入った料理だった。
「ゴーヤー……」
「チャンプル。島で出来たゴーヤーを使ってますよ」
 実はゴーヤーを食べたことがない。苦いという話だけど大丈夫かな。
「カレーもできたよ」
「これ、ハンダマ」
 テーブルの上にどんどんと料理が乗っていく。人の出入りが多くていったい何人いるのかわからないが、いつの間にか来ていたおじさんがすでに泡盛を飲み始めていたり、子ども同士で将棋が始まっていたりと本当に自由だ。
「じゃ、食べましょう」
 前川さんの合図で、正式に食事が始まる。恐る恐るゴーヤーチャンプルに口を付けてみたが、おいしかった。苦味もあるのだけれど、それ以上に深いうまみが感じられた。他の料理もおいしい。
「あの……一局願いできませんか」
「いいけど、名前は?」
「光城です」
 おそらくこの場にいる中で最も普通っぽい青年。ただ、眼光はとても鋭い。
「手合いはどうする?」
「飛車落ちとかでいいですか」
「了解」
 旅先のせいか、久しぶりに駒に触るような気がする。誰かがジャンベを叩き始め、そして踊り始める人がいた。庭先に大きなヤドカリがやってきている。
「おっ、皆川さんに挑むとはやるねえ」
「せっかくですから」
 ゆったりとした時間が流れている。そして将棋の方は私の完勝だった。飛車落ちというのは、実は上手の気が楽な手合い。こちらは受けに専念するので、飛車がないことはあまり影響がない。だから下手が攻めばかりしようとすると、受けきられて反撃されてしまう。実は、ちゃんと囲って様子をうかがうのがコツ。
「あー、全然勝負になりませんでした……」
「途中歩の使い方は良かったんだけどね。終盤になってから急ぎすぎかな」
 そのあとも将棋を指したり歌ったり踊ったり。こんな合宿は本当に初めて。
「皆川さん、溶け込んでる」
 縁側に座っているところに、前川さんがやってきた。隣にちょこんと腰を掛ける。
「そう?」
「私はだいたい眺めてるだけ」
「それっぽい」
 だんだんと静かになっていく夜。特別な時間は、ゆっくりゆっくりと流れていった。


 三日目の朝。今日からはちゃんとしたスケジュールの元将棋をしていく……予定。
 居間に行くと、すでに朝食が並べられていた。そして見慣れない女性の顔が。さわやかな笑顔にポニーテールが印象的だ。手足がすらっと長く、それでいて筋肉質。ちょっと憧れる体型。
「あ、皆川さん、おはようございます」
「おはようございます。あなたは?」
「崎原って言います」
「崎原さん、よろしくお願いします」
 合宿と言いながら、地元の人がふらっと立ち寄ってくるみたいで、他にも昨晩観なかった顔がちらほら。
 朝食を終え、いよいよ本番。主催者の高嶺君が仕切り、リーグ戦や指導対局が始まった。その最中にも人数が増え、なぜか私の前に三人の予定が六人が並んでしまった。
「ちょっと、前川さん」
「なに」
「半分任せる」
「え、私が?」
「そう、お願い」
 前川さんは大会などには出ていないものの、普段から将棋は指しているという話だった。それならば子供に三面指しぐらいできるはずだ。
 ちょこん、と私の横に腰掛ける前川さん。小さなころは、私より強かった。ずっとずっと、強かった。 ちらちらと見ていると、今でも十分強かったし、駒落ちに慣れているようだった。おそらく部活動などで教えていたのだろう。
 前川君や崎原さんが運営に回り、進行はスムーズだった。突然リーグ戦優勝決定戦の解説を頼まれたり、優勝者を三線の演奏で称えたり。色々なことがすべて楽しい。


 「よし、将棋はひとまず終えよう。せっかく晴れてるしみんなで海行こう」
 高嶺君の一言でみんなで浜に向かった。透き通るような、突き抜けるような青が広がっている。
「皆川さん、こっち来て」
「何?」
 みんながはしゃぐ中、前川さんに手招きされて岩場の陰に行く。
「将棋、楽しい?」
「そうね……楽しいかな」
「良かった。私もね、いろいろあって辛かったけど、将棋は嫌いにならなかった。あと、皆川さんもいい顔してるな、と思った」
「いい顔?」
「いろいろと充実してるんだろうなって。私はそっちの道を選ばなかったけど……ね、わかるでしょ」
「まあね」
 足元を小さな蟹が横切っていく。よく見るとヤドカリや小さな虫がいっぱいいる。
「恋はしてる?」
「えっ」
「してるでしょ」
「なんで」
「きっと年下。私と同じ」
「ちょっと、なに決めつけてるのよっ」
「すごいお姉さんしてるもの。そこは私とちょっと違うかな」
 太陽が照らす真っ白な前川さんの顔は、確かにお姉さんという感じではなかった。彼女は、何かの役割を背負うというよりは、ただ漠然とそこにいるだけで存在感がある人間だ。もしプロになっていたら、とても美しい、最も気高い棋士になっていたかもしれない。
「恋、してるよ」
 私は言ってしまった。前川さんは、ゆっくり口を緩めて微笑んだ。


「あらら」
 相変わらずの騒がしい夕食の中、携帯の画面を見ながら崎原さんがつぶやいた。
「どうしたの」
 聞いたのは高嶺君。
「台風こっち来る」
「あ、予測と違うんだ」
「明日お昼頃からだね」
 と、丁度その時スピーカーのがーがーという音が鳴り響く。

「明日のフェリーですが……第一便のみ運行となります……8時の便は運行予定ですが10時の便以降は欠航になります……えー、繰り返しますが……」

 しばらくは静寂が続いた。そして、皆で顔を見合わせた。
「明日午前の予定は中止しなきゃいけないね」
「そうだね、帰れるうちに帰らないと」
 そんなわけで、急きょ予定が変わり、合宿三日目のスケジュールがなくなってしまった。しかも朝8時の便に乗らないといけなくなった。
「明後日は動かないかもしれないし。よくあることだから」
 前川さんは慣れた様子でまったく慌てていない。
「お客さんこれなくて大変じゃない?」
「そうね。でも、帰れなくなって何泊もしてもらうこともある」
「なるほど」
 決まってしまえばそれに従って動くしかない。というわけで相変わらずの宴会が、続いていくのだった。ただ、私は一つ気にしていることがあったのだけれど……


 四日目の朝。七時過ぎ、皆であわただしく動き始める。空模様もあわただしい。乗り遅れたら宿に缶詰めになってしまうのだ。
 前川さんと高嶺君が車を出し、フェリーに乗る人々をピストン輸送。港に着いたら、皆で別れのあいさつ。
「また、来てもいいんじゃない?」
「そうね」
 前川さんと、軽く握手をした。たぶん、同じ世界に居たらしなかったこと。
「じゃあ、気を付けて」
「うん。いろいろとありがとう」
 島の人々に手を振って、フェリーに乗り込む。島から、離れていく。


 本島に戻ってきても安心はできない。今日行く予定だったところに電話してみる。
「はい……はい、あ、そうですか……はい、わかりました」
 しょんぼりだ。今日行く予定だったカヌー体験教室は、やはり中止ということだった。楽しみにしてたのに。
 急に予定がぽっかり空いてしまった。そして明日には東京に帰らなければならない。考えていたら、携帯が鳴り始めた。体験教室からだった。
「はい」
「あ、今確認したらですね、カヌーは出せないんですけど、トレッキングコースだけは午前ならできそうなんですよね。で、一人だけ他のお客さんが参加予定なんですが、もしよろしければいかがですか」
「え……あ、はい、うかがいます」
 予定とは違ったけれど、せっかくなので行ってみることにした。カーナビに目的地を入れ、ハンドルを握る。風が少し強いものの、まだ雨脚は弱い。沖縄最後の目的地に、出発である。


「この下の方にガザミとかがいるんですよー」
 案内役のお兄さんが、朗らかに説明を続ける。私は耳を傾けながらも、居心地の悪さを感じていた。
「いやー、それにしても偶然ですね」
「は、はあ」
 なんと、もう一人のお客さんは北谷で会ったあの青年だったのだ。
「思い出しました、将棋の方ですよね」
「ええ、まあはい」
 何とも気まずい。ファンというならまだしも、何日かたってようやく思い出すレベルで知られているというのはとっても微妙。
「皆川……さんですよね」
「ええ、はい」
「俺、蔦原っていいますねよろしくお願いします」
「よろしく」
 相手の勢いに押されっぱなしだったけれど、トレッキング自体は楽しかった。沖縄でしか見られない植物や動物を、身近で観察することができた。
「皆川さんは、将棋のイベントとか出るんですか? また浴衣着たり?」
「え、えーと、まあそういうことも……」
「いやあ、いいなあ。俺も早く呼ばれたいなあ」
「え? 何に?」
「あ、俺囲碁棋士なんで」
「なっ……あ、えーと、そうなんですか」
「いやあ、将棋の人と沖縄で二回も会えるなんてびっくりだなあ」
 こっちがびっくりだよ。なんだろう、すごく複雑な気持ち。
 待合室に戻ってくると、お兄さんの一人が三線を弾いてくれた。とてもいい声だった。ただ、風の音が強くなってきている。
「あの、帰れるうちに那覇に戻ります」
「そっか、それがいいかもね。蔦原さんは?」
「俺はしばらく名護に泊まるんで」
 別れを告げて、車に乗る。色々あったけれど、楽しい一日だった。たぶん今から雨が強くなるし、ホテルに着いたらおとなしくしているのがいいだろう。明日は昼の出発までのんびりお土産でも見てすごそう。うん。


 五日目の朝。飛行機が欠航になった……
 外はひどい風雨。出かけるのはちょっときつそうだ。仕方ないのでノートパソコンを取り出し、今回の旅行記を書き始める。幸いネットも通じるているので調べ物やメールチェックもできる。
 ふと、気になって。「囲碁の蔦原」について調べた。
 関西所属の二段。特に目立った活躍をしているわけではないようだった。誕生日は12月2日……
「一緒じゃない……」
 なんと、生まれた年も同じだった。もやもやした気持ちがもっともやもやしてきた。


 六日目、夕方。東京に戻ってきた。色々あったけれど、帰ってきてみると単純に楽しかったと思える。出会いあり再会ありアクシデントあり。旅っていうのもいいものね。


 後日……
「え、これを俺にですか?」
「だって辻村、ゴーヤー欲しいって言ったじゃない」
「言ったかなあ……」
「言った。言ってなくても喜んだらどうなのよ」
「……ありがとうございます。で、どうやって調理すればいいんでしょうか」
「知らない」

 その後他の棋士に聞いたものの、ゴーヤーの調理方法を知っている人はいなかった。こんなことなら前川さんにチャンプルの作り方を聞いとけばよかった。
 なぜか辻村は持っていた布の上にゴーヤーを乗せて眺め始めた。インテリアにでもするつもりだろうか。じっと見つめて、何やら考え込んでいる。そこに、三東先生が入ってきた。先生は辻村とゴーヤーを交互に見詰め、こう言った。

「どうしたの、辻村君?」

 



将棋が好きな少年、将棋に捕われた少女と出会う。


 島にやってきた少女、蜜は将棋が強かった。ただ彼女は、とても弱かった。島の少年了は、そんな彼女にも、そして将棋にも惹かれている。高校生になった了と、島に残った蜜。そんな二人の行く末は……
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七割未満(五)



   七割未満(五)
清水らくは


 最初、知らない人かと思った。よく見るとどこかで見たことがあるのだが、どこで見たのかがわからなかった。
「あ、今日はかぶらせてもらうので、よろしくお願いします」
 爽やかな声でそう言われて、ようやく分かった。対戦相手の黍原さんだった。端正な顔つきに長く伸ばされたちりちりの髪。非常に格好いいのだが、髪の方は借り物である。イベントなどではよくふざけてかぶっているのは知っていたが、まさかテレビ対局でも装着するとは思わなかった。
 スタジオ全体に微妙な空気が流れているのがわかる。まあそれはそうだろう。黍原さんの見た目自体は決して変ではないのだ。ただ、いつもと違うからなんか変なのであって、果たしてこれがオンエアされるとどんな感じになるのかまったく予想がつかない。
 とはいえ、対局が始まってしまえば全く気にならなかった。盤が目の前にあれば、俺はその世界に集中することができるようだ。黍原さんも格好以外はまったく普通のままだった。かぶっている人は世間にいくらでもいるのだし、そういう人だと思ってしまえば問題ない。
 ただ、いつ脱ぐのか……は少し気になっている。以前普通のテレビに出たとき、いきなり脱ぎ捨てて走り出すところを見たことがある。対局の礼をしたところで滑り落ちる、なんていうハプニングは起こらなかったが、投了や感想戦を始めるタイミングで脱ぐんじゃないかな、と予想している。
 戦型は横歩取り。非常に難解な変化に突入している。研究していた局面からは外れていて、どちらが勝ちなのかはわからない。ただなんとなくだけれど、俺の方が苦労が少ない感じ。短い将棋では、これは大事だ。黍原さんは難しい顔をして、何度か頭を揺らした。落ちないか心配だ。
 心が落ち着いてくる。厳しく頭を回転させなければならないけど、心地良くもある。正解が、俺を導いている感覚がある。
 ぴーんと、一本の筋が通った。これは負けない。ネクタイを正して、背筋を伸ばした。せっかくなので、キレイに映りたい。
「負けました」
 黍原さんが頭を下げた。それでも落ちなかった。
「お時間が十分ほどございますので……」
 淡々とした感想戦が始まった。結局黍原さんは被ったままだった。
 そして、感想戦が終わり、締めの挨拶をした後に解説の鳥越先生がにこにことした顔で言った。
「それにしても辻村君、珍しいネクタイだねえ。なかなかないセンスだよ」
 かつらで対局する事に比べれば、ネクタイなんて全く無意味に思えるのだが、どうなんだろうか。


 こけた。誰も見ていないようで助かった。
 本当に何にもないところだったのだが、突然足に変なものが絡みついたような気がしたのだ。いや、何もないというのは嘘かもしれない。今は、退学届けを出した帰りなのだ。
 高校には何の思い入れもない。高校生棋士というのは重要なポイントだ、と偉い人に言われたのだけれど、そんなことのために在籍し続けるのはダサい。だからしばらくは、高校生のふりをしていようと思う。結局のところ、制服を着ていればいいのだ。おしゃれに制服を着こなすというのもなかなか乙かもしれない。
 とはいえ、今俺の制服は砂が付いてしまっている。あとでクリーニングに出そう。
 肩の荷の方は下りた。みんなが行くから行く、ただそんな感じで高校に入っただけだった。でも自分は、みんなと違う道を歩き始めている。たまたま才能があって棋士になったわけではない。気付いたときには、将棋に人生をかける覚悟ができていた。だから、将棋以外のことはすべておまけで、それに足を引っ張られる必要はない。
 とはいえ。俺ってまだ若いよな、と思うことはある。先輩たちは俺の知らないことをいろいろ知っている。勝負においても、「そんなのが有効なんだ」ってことを仕掛けてくる。かつらなんてのはお遊びの内だろうが、扇子とか飲み物とか、時には空気清浄機までが勝負を左右する。ああいうものは、まだ俺には使いこなせない。
 そんなわけで、自分にも使いこなせそうなものを買いに来た。水筒である。暑い季節は冷たいものを飲みたくなるが、対局の度にペットボトルを買っていくのもなんかかっこよくない。そこらへんこだわっている人は少ないので、バーンと見栄えのいいものを用意して、自分に最も合ったドリンクを持ち込もうという計画だ。
 ショッピングモールに着くと、平日昼間ということもあって若者の姿はあまりない。すでに学校をさぼっているわけではないのだけれど、制服なので少し罪悪感がある。あと、砂がちゃんと払いきれているかも気になっている。
 スイーツやバッグや靴、入浴剤のお店などを横目にエスカレーターを上がっていく。目指すのは輸入雑貨の店だ。そこはおしゃれなだけでなく、使い勝手のいいものもたくさんあるので最近のお気に入りである。
「あれ、辻村?」
 突然声をかけられた。聞き覚えはないのだが、無視する理由もなかった。
「はい……えっと、誰?」
 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、おおよそ知り合いとは思えない女の子だった。髪の毛はツンツンに立っていて、耳には大きなピアスが光っている。口紅はべったり、眉毛もしゃっきり。首にもじやらじゃらとしたものがあり、スカートはとっても短い。一応高校の制服のようだが、見覚えはなかった。
「ちょっとー、忘れたの? 中学校の時一緒だったのに」
「中学校? うー」
 もはや忘却の彼方だ。学校の記憶はとても薄い。
「ひどい。私よ私、沖原」
「おき……はら……」
 記憶の扉をいろいろと開けてみるが、なかなか見つからない。だいたい俺は将棋以外の記憶力はたいして良くないのである。
「本当に覚えてないの?」
「ごめん」
「そっかぁ。ま、あんま喋ったこともなかったか」
「あんま……ってことはあるのか」
「あるよー、ドボルザークの話したじゃん」
「ドボルザーク……?」
 記憶の扉が、合図をしている。ドボルザークの話題をしたと言えば、中二の頃だ。まだクラシックなんてたいして聴いていなかったのに、突然「辻村君、ドボルザーク好きそうだよね」と聞かれたことがある。その時は「えっと……聞かないこともないけど」と答えたような。
「……え、でもあれ……沖原さん?」
「どーゆーことよ」
 記憶の中の彼女は、三つ編みに眼鏡の、音楽を聴きながら読書ばかりしている女の子だった。目の前にいるのはまるで正反対の人だが。
「きれいになったね、ってこと」
「何よそれ。ま、あの頃は学校ではおとなしくしてたからね」
「そういえば学校は?」
「……辻村こそ」
「俺は今日退学した」
「え、うそ。なんで」
「いや、特にいる理由もなくなったから」
「ふうん」
 だんだんと記憶がよみがえってきて、クラスの沖原さんと目の前の沖原さんの共通点がわかってきた。左頬のえくぼ、少し大きめの口、良く動く左手。そういうところは、前と一緒だ。
「じゃあ、沖原は単純にサボりなんだ」
「そうね、まあ……そうね。辻村は買い物?」
「ちょっとね」
「なになに」
「いや、水筒を」
「ここで水筒? いっがーい」
「そう?」
「私も見る」
「え」
 沖原さんはニコニコと俺のことを見つめるばかりだった。振り切るのも面倒なので、俺は歩き出した。ぴったりと横についてくる沖原さん。
「暇なの?」
「比較的。まー、あれだよ、家も学校も嫌いってとこかな」
 友達は、と聞こうとしてやめた。自分だって聞かれたくないことだから。
「あ、これかわいーよねー」
 店の入り口に着くなり、沖原さんはマグカップにくぎ付けになっいる。白地に赤いラインが入っているだけのもので、どこがどうかわいいのかよくはわからないが、女の子はこういうのが好きなのだろう。
 俺は適当に頷いて、目的のものへと向かった。立ち並ぶ水筒。普通の小さなもの、大きなもの、飲み口が独特な形のものなど豊富な品ぞろえだ。
「あ、これいいじゃん」
「え、かえる……」
 いつの間にか横に来ていた沖原さんが手にしたのは、飲み口がかえるの形になった緑の水筒だ。こんなものが中継ブログに載った日には何を言われるかわからない。
「家で使うんでしょ?」
「家でも使いたくないけど、仕事で使うんだよ」
「仕事? 就職決まったの?」
「将棋を指すのが仕事」
「……ショウギヲサス?」
「将棋。知らない?」
「将棋は知ってる。仕事になるのは知らなかったし、辻村がそういうの得意っていうことも知らなかった」
 中学生の頃は目立たない上に休みがちで、周囲にプロを目指していることなどはほとんど伝えていなかった。だから、知られていないのは仕方がない。とはいえ将棋界のこと自体はもっと知られていてもいいと思うけど。
「得意なんだ」
「意外。色々と投げ出しそうなやつだと思ってた」
「それは合ってる」
 結局は赤いラインが綺麗な、比較的シンプルなものを買うことにした。保温性に優れているうえに、洗いやすいということだ。
「おもしろくなーい」
「おもしろがるものじゃない」
 会計を済ませると、沖原さんは携帯を俺に向かって突き出してきた。
「ん?」
「ん、じゃなくて。交換」
「なんで」
「なんでって……再会を祝して」
「はあ」
 もうなんかどうでもよくなって俺も携帯を取り出した。ごめんねどうせメールを送られてきてもまめには返さないタイプなんです。
 連絡先を交換して、アドレス帳を確認したら「035沖原花蘭」がしっかり登録されていた。
「からん?」
「そーよ。知らなかったの?」
「知らないよ」
「私は知ってたのになー、みっちゃん」
「誰もそんな呼び方してないよ」
「そう? じゃ充君、私は今から予定あるけど、また今度呼び出すから」
「はいはい」
「じゃ、またね~」
 手を大きく振りながらエスカレーターを降りていく沖原さん。どう考えても俺の記憶の中の彼女とは違う。ただ、そんなことはどうでもいいことだ。今俺は、将棋に関係のない人と久々に話したな、と思っている。ひどく非日常的なことで、びっくりしている。自分のことを気にかけるような人間が、実在するんだ。
 誰だかわからない人たちが、通り過ぎていく。将棋を知らない人々が。


「おおっ」
 ファミリアが声を上げた。俺も上げたかった。
 目の前のつっこちゃんだけが表情を変えていない。読みぬけがないか、しっかりと確認しているようだった。その点に関しては俺が保証する。もう、逆転はない。
 自玉に詰みがないので、勝ちのつもりだった。しかし、角を二枚捨てる筋で詰めろ逃れの詰めろがかかってしまった。まったく予想していない手順で、逃れようがなくなっていた。
「負けました」
「あ……ありがとうございます」
 三回目の研究会にしての初めての黒星。もう少し時間がかかると思っていた。しっかりした内容だった。
「勉強してるね。わかるよ」
「あ、いや……はい」
 この将棋は、女性初のプロ棋士とかそう言った類のものではない。 いずれ、追いつかれるかもしれない存在だ。普通にすれば、活躍できる。そういう芯の太い才能だ。かわいい外見の奥には、様々な鋭いものが隠されていると思う。そういうものに対して、敬意を抱きたい。
 いつか、大きな場所で勝負をすることになるかもしれない。
 結局この日は、つっこちゃんが全勝でトップだった。
「でも、次はこうはいかないから」
「が……頑張ります」
 自分にとってこの研究会が身になるかどうかという不安は、解消されそうだ。後輩に追いつかれないこと、それも大事なこと。
 などと考えていたらポケットの中で携帯電話が震えた。沖原さんからだった。
<元気にしてる? 今度仕事場観に行くからね!>
 彼女はまだ俺の仕事がわかっていないらしい。それとも数少ない出場イベントを調べてくるつもりだろうか。
<あんまり仕事してないよ>
 返信して気が付いた。俺、普段はすぐにしない人じゃないか。
 沖原さんには返さなきゃ、そう思ったのだ。なぜだかはわからないけれど。
「皆川さんですか~?」
 せっきーがにやにやとした顔で聴いてくる。
「違うけど」
「なーんだ」
 その時またメールの着信が。なんと、皆川さんからだった。
<明日、土産があるから。たまたま欲しいって言ってたもの見つけたから買ってきた。>
 そういえば仕事で沖縄に行くと言っていた。 ただ、何かを要求した覚えはまったくない。
 皆川さんへの返信は少し保留。他の三人が注目の対局を検討し始めたので、それに加わった。


「え、これを俺にですか?」
「だって辻村、ゴーヤー欲しいって言ったじゃない」
「言ったかなあ……」
「言った。言ってなくても喜んだらどうなのよ」
「……ありがとうございます。で、どうやって調理すればいいんでしょうか」
「知らない」
 なぜか皆川さんからゴーヤーを貰った。それにしてもゴーヤーとは。以前気になると言った気もするけれど、あくまで「調理済み」のものに関してだったはずだ。
 でも、なんだろう、皆川さんはどこか嬉しそうだった。というより、なんか爽やかになった気がする。つんつんした感じは変わらないのだけれど、表情が柔らかくなって、余裕も感じられる。沖縄に行くとそうなるのだろうか。
 そのあと、控室に来た人に聞いてみたのだが、ゴーヤーの調理方法はわからないままだった。袋から取り出して、直接触ってみる。足ふみマットにこんなのあるよね。
 見ているうちに、その存在自体が面白くなってきた。この外観、そしてこの質感、なぜこんな風に進化したのだろう。そしてこれを食べてみようと思った人はどんな人だったのだろう。よく見るために、持っていた黒いバンダナの上に乗せてみる。緑色が鮮やかで、これなら部屋に飾ってもいい気すらしてくる。
「どうしたの、辻村君?」
 振り向くと、三東先生がいた。目を丸くして俺のことを見ている。
「いやなんか、変だけどきれいだな、と思って」
「ゴーヤーが?」
「ゴーヤーが」
 とはいえずっと見ているのも確かに変だ。そのままゴーヤーをバンダナに包んで、鞄の中に入れた。三東先生はちょっと覗きに来ただけだったようで、すぐにいなくなった。対局途中だったのかもしれない。
「そういえば皆川さん、来週対局じゃないですか」
「そうね……木田さんと」
「大一番じゃないですか」
「別に。いつもと同じ」
 そうは言うものの、意識しているはずだ。二人は同年代で、女流棋士を目指すうえでも同じようなペースで勝ってきた。他にもう一人、前川さんという強い女の子がいたけれど、彼女は奨励会に入った後段に上がる前にやめてしまった。木田さんは奨励会試験に落ちたものの、女流棋士になることを決意してからはぐんぐん強くなっている印象がある。つっこちゃんにも負け、同年代のライバルには一歩差が開けられた感のある皆川さん。このまま負けっぱなしだと、上を向くことをやめてしまうかもしれない。
「そんなことないでしょ、勝ちに行きましょうよ」
「辻村?」
「木田さんに勝って、いずれ峰塚さんにも勝ちましょうよ」
「峰塚さん……」
 現在女流のトップに立つ、峰塚女流四冠。かれこれ二十年近く、一番前を走り続けているのではないか。三冠になったり五冠になったり、時折変動はあるものの常に複数のタイトルを所持している。背筋がピンと伸びて、男性棋士を含めても最も対局姿勢がいいという評判だ。
「俺は、いつか定家さんに勝ちます」
 定家四冠は、男性棋界のトップに君臨する男だ。かつて七冠を達成したことがあり、やはりこちらも二十年近くトップなのである。最近は若手もちょくちょく勝てるようになってきたが、誰一人タイトルを奪うには至っていない。特徴は、とにかくよく喋る。
「辻村、なんかまっすぐだね」
 皆川さんの表情は、あまりいいものではなかった。ごまかすような微笑。少なくとも、トップに立つ人、トップを目指す人はしない笑み。
「まっすぐじゃない。常に近道を探してます」
「近道?」
「そうしないと、追い越せないから」
 研究をして最善手を探して、それも大事だろう。けれどもそれでは、同じスピードでしか前に進めない。だから自分に合った、自分だけの道を見つけないといけない。まだ若いからとか言い訳していたら、あっという間に集団の中に埋もれてしまうと思う。
「……私、頑張れば木田さんに、勝てると思う?」
「勝てますよ。まだ全然たいした距離じゃないです」
 今度は、普通の笑みを浮かべた皆川さん。
「いいこと言えるようになったなんて、辻村らしくないね」
 今日の皆川さんもちょっとらしくないですよ、という言葉は飲みこんだ。何がらしいとか、そんなこと本当はよくわからないからだ。
「あ、いたいた、辻村君と皆川さん。丁度良かった」
 今日はこんなことが多い。控室に入ってきたのは、いつも陽気なおじさん『将棋宇宙』編集部の橘さんだ。
「こんにちは。何かご用ですか」
 皆川さんの声のトーンが急に落ち着いた。大人である。
「いやね、実は今度プロ中心の団体戦を企画しようと思っていて、その関東若手チームに入ってもらえないかと」
「はあ」
「私もですか?」
「そうそう。男性二人、女性一人でチームを組むんだ。もう一人は川崎君に出てもらおうかと」
「川崎さん……ですか」
「やるならできるだけ最強にしたいからね」
「それ……私でいいんですか」
「はは、僕は皆川さんを推してるから」
 誌面用に見た目派手な人を選んだんじゃ……と思ったが口にしないことにした。確かにチームを組むなら、この三人には「意味」がある。
「それで、どのような形式になるんですか」
「四チームぐらいの総当たりで、3勝なら5点、2勝なら2点、1勝なら1点っていう風なのを考えてるよ。あとは関西若手チーム、ベテランチーム、奨励会チームを考えてるんだ」
「なるほど……俺はそれ、参加しますよ」
「……私も」
「そうかそうか、それはよかった。また詳細が決まったら連絡するから」
 橘さんはよかったよかったと言いながら部屋を後にした。いつも本当に楽しそうである。
「辻村、断るかと思った」
「なんでですか」
「川崎君と組みたくないんじゃないかって」
「そんなことないですよ。皆川さんこそ、どうなのかなって」
「……別に、楽しそうだからいいんじゃない」
 単純に棋力で選ぶなら、木田さんを始め強い人は何人かいる。 皆川さんだってそんなことはわかっているはずだ。それでも、受けた。だからきっと、前向きな気持ちはあるはずだ。そして俺が予想するに、奨励会チームの女性枠は――
「じゃあ、いつ始まるかわかりませんが、その時は頑張りましょうね」
「もちろん」
 雑誌にとっては企画の一つにすぎないだろう。けれども俺たちにとっては、こういうものが大きな転機になるのはよくあることだ。
 これから、俺たちの力関係に何かが起こる。この波を、うまく引き寄せなければならない。
 盤上に散らばった駒を、並べていく。しばらくして、皆川さんも駒を並べ始める。こうして、前進していけばいい。

イニシエーション





#将棋短歌


(ツイッターで「#将棋短歌」を付けてつぶやかれたものの中から掲載させていただきました。)

Life is lovely

Life is lovely

ジェームズ・千駄ヶ谷

 

0.プロローグ

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

6畳間の部屋に叫び声が響いた。

 

同時に食いかけの焼きそばを吹いた。ゲホッと喉につまらせて苦しむオレ。だがそれも仕方ないというものだ。オレが五体投地して応援していた女流棋士、見築(みつき)つかさ女流2級がおもいっきしひどい手を指したのだ。これは間違いなく敗着だろう。コップの水を飲み、呼吸を整えながらも食い入るように画面を見つめるオレ。だが、見築女流が投了するまでにそれほど時間はかからなかった。

「はあ、つかさたん・・・」

残念でならない。女流棋士としてデビューして2年目、初めてのテレビ棋戦だったのに。昨夜はこの対局を宣伝するために自分の知る限りありとあらゆるネット媒体を動員し、「つかさたんのNK杯初出場を応援するスレ」まで匿名掲示板に立てて不眠不休で応援していたのだ。

「序盤で時間使いすぎちゃったからな・・」

見築女流2級は一去年高校生プロとしてデビューし、若手の有望株として注目が集まっていたが、いい将棋と悪い将棋の差が激しく、今回のようにいい所なく負けてしまうことも珍しくなかった。去年まではまだ高校生だからということで大目に見られていた面もあったが、高校を卒業した今期、トーナメントを勝ち進むことに期待が寄せられている。

『お疲れ様でした、時間がありますので初手から・・』

テレビでは感想戦が始まっていた。見築女流の気落ちした様子が画面越しに伝わってくる。しんみりした気持ちで検討に耳を傾けるオレ。

だが、つらい感想戦が待っていたのは見築女流だけではなかったようだ。

第一に、オレの部屋は狭い。

第二に、窓を開けている

第三に、隣室に住むオバサンはうるさい音が大嫌いだ。

 

―ピンポーン―

 

やれやれ、こっちの検討も手こずりそうだ。

 

 

1.

休日の午後はネット将棋を指すのが習慣である。

オレは将棋オタクだが、ネットの世界では決して強い方ではない。何連敗もしてしまうこともよくある。

ピッ、ピッ、ピッ、カチッ

「ふんぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

オレは『投了』ボタンをクリックすると傍らにあった長○有希の抱きまくらにしがみつき、ベッドの上に倒れこんだ。最終盤、自玉は必死、相手玉はいかにも詰みがありそうな形。しかし、指し手が間違っていたのか、そもそもはじめから詰みはなかったのか、敵玉はたくみに包囲網から逃れ脱出を果たした。

うぐぐ。これで5連敗だ。どうも流れが悪い。少し気分転換した方が良さそうだ。オレは赤髪ツインテールの美少女が描かれたTシャツに着替えると、『ジャッジメントですの』と書かれたキャップをかぶり、外出の準備を整え外に出た。

 

外に出ると強烈な日差しが照りつけていて、オレはうかつに外出しようと思ったことをすぐに後悔した。暑い。暑すぎる。目的地までは自転車を使ってさほど遠くない距離だが、この暑さでは途中で干からびて死んでしまうかもしれない。

玉のような汗を流しながら自転車にまたがり向かった先は、私立H大学アニメ同好会の部室である。オレはアニメなんて子供じみた娯楽にはさほど興味もないからこんなサークルに入っている理由など本来ないのだが、まあキャンパス内に自由にネットが使えてお茶も飲めて昼寝もできるような場所があると便利だからとりあえず所属しているような感じである。今だって画面の大きなデスクトップPCを使ってネット将棋を指したいという一心で自転車をこいでいるが、それ以外には特にこれといった理由はないのだ。もしも、もしも万が一そのPCに新しい学園生活シミュレーションゲームなんぞがインストールされていたら誤って起動してしまうかもしれないが、それはオレの意志がどうというよりも巧妙に偽装されたショートカットアイコンの責任と言うべきなのである。

さて、このアニメ同好会には将棋を指せる奴がオレ以外にもう一人いる。名前をナカムラといって、オタクで変態で少々ロ○属性があることを除けば実にいいやつである。将棋の腕前もかなりのもので、オレとはいわば互いに切磋琢磨する将棋仲間といった関係なのだ。

 

アニメ同好会の部室がある学生会館のわきに自転車を停めると、オレは持っていたタオルで汗を拭きながら階段を昇った。

果たして目的の部室に着いてみると、中ではナカムラが扇子をパタパタと扇ぎながらお茶を飲んでいた。

「よう」とオレが声をかけると、

「やあタカハシ氏!この暑い中よく来られましたな!」とナカムラが応えた。相変わらずハイテンションな奴である。

「部室に冷房がついてて助かったよ」

「全くです。冷房の効いた部屋で熱いお茶を飲むのが、最高の贅沢ですな」

こいつ、そんな趣味があったのか。

実際の所、数年前まで部室にはエアコンが設置されていなかったそうで、そのときの部員たちのことを考えると同情を禁じ得ない。

「ちょっと気分転換したくなってね。今日は勝てなくて。」

「ネット将棋のことですかな?最近の調子はいかがで?」

「なんか最近調子悪いんだよなあ。この間、見築先生も負けちゃったしさ」

「タカハシ氏は見築先生のファンでありましたね」

「隣のオバサンにも怒鳴られるし。」

「オバサンに?」

「いや、なんでもない」

「そういえば見築先生といえば、今度の渋谷将棋祭りにでるらしいですぞ。わたくし、行くつもりなのだがご一緒にどうですかな?」

渋谷将棋祭りはプロ棋士などが参加するイベントで、毎年開かれている。オレも何度か行ったことはあるが、今年つかさたんが参加するとは知らなかった。もし本当ならファンとしてぜひとも行かねばなるまい。

「それ、絶対行くわ。いつ?」

「次の日曜日に。席上対局の聞き手とかするらしいですな」

「解説の聞き手かあ。生つかさたん、生つかさたん、生つかさたん・・」

「よだれが出ておりますぞ・・。では、ご都合が良いようならぜひ一緒に参りましょう」

「ああ、頼む。オレってほら、気が小さいからさ。一人じゃ緊張しちゃうと思うんだよな」

「いま気が小さいと申されましたか・・?」とナカムラが呆れたような口調で言った。いや、オレはごく普通のことを言ってるだけだと思うのだが。

「まあそれはさておきタカハシ氏、さきほどスズキ氏がなにやらPCにインスコしているみたいでしたぞ」

「なにいっ。それは本当か!部室のパソコンを私物化しようとは不謹慎なやつだな。同好会の運営に必要なものかどうかチェックしないと。」

「うむ、有用性に乏しいソフトを勝手に入れられては困りますからな。早速調べるとしましょうか」

こうしてオレたちは、一夏の高校生活のあんなことやこんなことを模擬的に体験するソフトウェアの有用性について、遅くまで検討を続けたのであった。

 

 

2.

渋谷将棋まつりの会場は大勢の将棋ファンで賑わっている。メインステージの観客席もほぼ満員だ。オレとナカムラは会場中ほどに席を占め、目当ての席上対局が始まるのを今か今かと待っていた。将棋祭りに来るのは初めてではないが、憧れのつかさたんとついに対面できるかと思うと気もそぞろ、サイン会や指導対局ブースを見歩いている間も絶えずそわそわしている感じであった。普段はオレよりもテンションの高いナカムラにまで「タカハシ氏、少しは落ち着きましょう」と言われたほどである。

「いよいよですか。どきどきするっすなー」

ナカムラに言われてステージの方を見ると、係員が座布団の位置やペットボトルの配置に微妙な調整を加え、司会と思しき女性がマイクを持って準備している。

「なんか鳥肌がたってきたぜ・・。おっ、あれ富士伊九段じゃね?」

「富士伊先生ですな!こんな間近で見られるなんて」

ステージの方に気を取られていたが、解説の富士伊九段がさりげなく控え室のカーテンに隠れるように立っていた。ちなみに、ナカムラは富士伊九段の大ファンである。

「富士伊先生・・。生で見るとよりいっそう神々しい」

「そうだな」

富士伊九段も気になるところだったが、オレとしてはそれどころではない。オレの目的はあくまでつかさたんなのだ。

『お待たせいたしました、本日の席上対局です。両対局者のご登場です。そして解説して頂きますのは、富士伊毅九段、聞き手は見築つかさ女流2級です。どうぞ拍手でお迎えください』

アナウンスとともに控え室の黒いカーテンがさっと開き、対局者の二人と富士伊九段、見築女流がステージに向かってに歩いていく。

「ふおおおおおおおおおおおお、つかさたんだ!生のつかさたん!」

「落ち着きなされ」

「つかさた~んって叫んでいいかな?」

「本気でやめたほうがいいですぞ、タカハシ氏。出入り禁止になりかねない」

「冗談だよ、冗談」

大盤横の定位置で待機しているつかさたんは、白のブラウスに紺のプリーツスカートという格好で、ひときわ輝いて見えた。

 

「ほら、始まりますぞ」

『振り駒の結果、先手は佐藤義満王将に決定しました。それでは、よろしくお願いします』と棋譜読み上げの小松菜女流2級が言い、対局が始まる。程なくして、大盤解説も開始される。

『富士伊先生、今日はこのお二人の対局となりましたが、お二人の印象はいかがですか?』とつかさたん。

「始まったー、始まりましたな、タカハシ氏!」

「生つかさたんの生声、イイ・・・・」

「そういえばタカハシ氏は声にもこだわりをお持ちでしたな?」

「目の前で・・つかさたんが・・喋っている・・」

視野狭窄気味のオレに、

「どうやら別世界に行かれてるようですな」

ナカムラが呆れたようにつぶやいた。

 

対局は相居飛車の熱戦となり、終盤まで優劣不明な熱戦となった。オレにとって対局の内容など半ばどうでも良かったのだが、それでもプロの対局を間近で見ていると、自分まで思考の渦に引き込まれるような不思議な感覚があった。終盤ついに後手の王将が詰み筋に入ると、観客席のあちらこちらから悲嘆のようにも、安堵のようにも取れる溜息が聞こえた。やがて後手の大久保九段が投了を告げ、壇上は感想戦へと移っていった。

解説者を交えての感想戦の後、会場に予期しない局面が現れた。

『席上対局の方終了しましたが、ここでご来場の皆様に素敵なプレゼントがあります』

いつの間にか舞台に現れていた司会者がそう告げた。

『はい。私が揮毫した扇子を1名の方に差し上げます。』とつかさたん。

『センスのイイ扇子ですね』と富士伊九段。

『・・・・・・』無言のつかさたん。

『おや、少し分かりにくかったかな?今のはセンスがいいのセンスと、扇子の』

『富士伊先生、皆さん分かってますから』とつかさたんが抑揚を欠いた口調で言うと、会場から笑いが起こった。

『でもこれ、貴重なんですよ。見築さんの扇子はまだ連盟からも発売されてないですからね。ほぼ、世界にひとつだけの扇子ということになります』

めげない富士伊九段の説明に、観客席からおおっという歓声が起こる。

『何と揮毫してあるんですか?』と富士伊九段。

『日々是好日、と書いてあります』とつかさたん

『・・・・渋いですね』

『いえ、それほどでも』

『ではこの扇子を、1名の方に差し上げます』と富士伊九段が繰り返した。

 

「タカハシ氏、これはゲットせねば」

「しかし、抽選ってどうやるんだろう・・?」

二人でそわそわしていると、

『私とじゃんけんをして、勝った方にさし上げまーす』

つかさたんの声が響いた。

おおおじゃんけんかよ、苦手なんだよじゃんけん。小学生の時からじゃんけんで負けてトイレ掃除やらされたりとかさ・・だが今はそんな過去に縛られてる場合じゃないぜ。今こそオレの本気を出すとき、魂を燃やす時だ。オレは両手を顔の前で組み、精神を集中した。

「ふおおおおおおおおおおおっっ」

「タカハシ氏、隣のお客さんがおびえてますぞ・・」

隣の席のおじいさんがこちらと距離を置こうとしている気配がわかる。

だが、そんな瑣末なことに構っている場合ではない。つかさたんの扇子が賭かっているのだ。

『あいこは負けの扱いです。後出しはダメですよー。じゃ~んけ~ん』とつかさたん。

「つかさたんの扇子はオレが守る・・はぁっ!!」

つかさたん、パー、オレ、チョキ。まずは1回戦突破。

隣の中村はパーを出してあいこだったようだ。

「ふっ、愛が足りんな。愛が。」

「無念・・・後は頼みましたぞ、タカハシ氏」

すぐに次が始まる。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、グー、オレ、パー。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、チョキ、オレ、グー。

『じゃ~んけ~ん、ポイッ』

つかさたん、チョキ、オレ、グー。

『えーっとぉ、人が少なくなったので、勝ち残った方どうしでじゃんけんしていただけますか?』

みれば勝ち残った客はオレともう一人、中年のおっさんだけになっている。

おっさんはオレに目配せするとスッとその場で立ち上がった。

こいつ、できるな・・。だが、扇子はわたさん。

オレも立ち上がると、腹に力を溜める。オレの方を見た客のざわめきが耳に入ったような気もしたが、そんなことは気にしない。場を制するためには自分から掛け声をかけることが大切だ。偽物語で火憐ちゃんが言ってたぜ。

「じゃ~んけ~ん」

これでどうだっ

「ぽいっ」

オレ、チョキ、おっさん、チョキ。

あいこだ。

「あ~いこ~で」

「しょっ」

オレ、パー、おっさん、グー。

「うおおおっし!!」

思わずガッツポーズを決めた。勝った。

周囲からの拍手を聞きながらオレは壇上へと歩いた。

「おめでとうございます。えーと、お名前を伺ってもいいですか?」と司会者。

「はっ!自分、タカハシと申します!」

「じゃんけんで勝たれたご感想は?」

「つかさた・・見築先生のファンなので、勝てて本当に嬉しいです。」

「おもしろいTシャツを着てますね?」と富士伊九段。

「あ、ありがとうございますっ!これは、あのっ、これは、コマゾン戦隊コマルンジャーのクマ使いかえでたん、あと、この帽子は、第12話でかえでたんが宿敵菅田屋キンジロウから勝利した証として手に入れたバンダナで・・」

「なるほど、素敵なお召し物ですね!では、さっそく賞品の贈呈に参りましょう!」

なんか今司会者が強引に話題を変えたような気がしたのは気のせいか?なんかお客さんも含み笑いしてるし・・

「ではタカハシさんこちらへ」

つかさたんの正面に誘導される。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

いや~、みんなの拍手が染みわたる。うれしい。それ以外に言いようがない。

「見築さんに何かメッセージはありませんか?何でもいいですよ。」と富士伊九段。

こ、これは大チャンスだ。で、でも何を言えばいい?急に言われても思いつかないぞ・・。くそ、どうする・・?うーむ、落ち着け、こういう時は心に浮かんだことを素直に言うんだ。それが結局一番いい。

「え、えーと、では、見築先生の好きなアニメキャラを教えて下さい。」

「・・・・・・」

後から聞いた話では、この時会場はある種異様な静寂に包まれたそうである。

「アニメのキャラクターですか?私、あまりアニメとか詳しくないんですよ。えーと、そうですね、クレヨンしんちゃんとかかなあ。」

いかにもその場で思いついた、といった感じの答えだった。もちろんオレが望んでいた展開ではない。

「クレヨンしんちゃんですか。いいですね。見築さん、アニメとか結構ご覧になられますか?」と富士伊先生がフォローを入れてくれた。が、

「えーと、私、アニメとか割りと苦手でぇ、あんまり見ないんですよね・・。はは。」

う・・・。そうだったのか。よく見るとつかさたんうっすら冷や汗をかいている。そんなにアニメ嫌いだったのか・・・。これはひょっとしてまずい展開だろうか。

「他に見築さんに何かおっしゃりたいことがありましたら」と富士伊先生。さすがお優しい。しかしオレは「あ、あの、応援してます。頑張ってください」と伝えるのがやっとだった。

客席に戻ると、ナカムラが駆け寄ってきた。

「タカハシ氏、何を質問するのかと思えば。見築先生ドン引きしてましたぞ」

「う、今は何も言わないでくれ。ほっといていてくれ・・」

時間が経つほどに恥ずかしさが増してくる感じで、オレはもういたたまれない気持ちになっていた。

「ナカムラ、悪いけどオレ、先に帰るわ」そう言うとオレはそっと席をたった。ナカムラは心配そうに「大丈夫なのですか?」と聞いてくれたが、実際の所かなり動揺していた。

千載一遇のチャンスだったのになあ。後の祭りという言葉の意味を実感しながら、オレはとぼとぼと会場を後にした。

 

 

3.

先日の将棋祭りですっかり意気消沈の俺が心を癒すために向かった先は、そう、秋葉原。歌い、踊り、舞い、コスプレし、アニメグッズと同人誌を買い漁るための聖地。心の故郷といっても過言ではない。

今日のお目当ては、天然美少女とひきこもり少年の切ない恋を描いた話題作『玉のパンツを脱がないで』の抱き枕カバーと、最新の同人誌チェックである。オレは自分で言うのもなんだが秋葉原に関しては相当の専門知識を有しており、他の追随を許さない秋葉原通を自負している。本日訪れる予定の店は10軒程度だが、各店を最短距離で巡回するルートはすでに頭の中で出来上がっている。あとはいかにスマートに、効率良く、それでいて気品あふれる買い物ができるか。

秋葉原巡りは時に孤独な戦いだが、決して飽きることはない。上級者となった今も、訪れるごとにディープな世界が見えてくる。秋葉原道に終わりはないのだ。

 

午後5時を前にして、すでに6店を回り終えた。7店目に選んだのは同人ショップの老舗、『とらの貴方4号店』である。まずは1階の平積みされた新刊を一瞥する。問題ない。最新刊はすべて購入済みだ。続いてよどみのない動作でフロアを周回する。もちろん、未チェックの作品があれば足を止め、購入を検討する。そして、これはと思ったものだけを持ってレジに向かう。この間も無駄な動作は一切ない。全ては高度に洗練された流れるような動作で行われる。そして速やかに次の階へと向かう。これの繰り返し。地味な作業だが、同人誌売り場のチェックを怠ってはならない。思わぬ掘り出し物が見つかることもあるし、一度在庫がなくなってしまうと入手が難しい本もあるからだ。道を極めるには日々の地道な努力が必要なのである。2階の探索を終え、3階に移ろうと階段を登りはじめたそのとき、

バサバサバサッ

不意になにかが上から落ちてくる音がした。視線を上げると、本やDVDのケースが階段の踊り場にちらばっている。

「すみません、袋が破れちゃって・・」

声の主は女性だった。とらの貴方といえば以前は男性客が多いイメージだったが、最近は女性も増えてきたのだろうか。「大丈夫ですか?」と声をかけながら、とりあえず足元に散らばっているDVDを拾い始める。やたらとイケメンな戦国武将が描かれているパッケージに思わず目が止まったが、それを注視するのは相手に失礼だろう。とくに気に留めた風もみせず、DVDと本を集める作業を淡々と続ける。最近こういった趣向の女性が増えているとは聞いていたが、実際にいるんだな。やっぱり。だがしかし、他人の趣味には干渉しない。それがアキバのルールだとオレは思っている。

「こっちの方に落ちてたのはこれで全部です」

そう言ってオレは集めた本とDVDを手渡した。

「あ、どうもすみません・・・って、あれ?」

「え?どうかされましたか?」

一度すれ違いそうになってから相手の声に振り返る。

今度はちゃんと目が合った。

『迂闊だった』その女性の顔には確かにそう書いてあった。

なぜなら

「見築先生?」

間違いなく見築つかさその人だった。

大盤解説の聞き手の時とは違って、ラフなジーンズにTシャツ姿だが、見間違えるはずはない。

「は、はあ・・えーっと」

その表情からは、なぜ自分から声をかけてしまったのか、という後悔が見て取れる。

「お買い物中でしたか」

オレはあくまで冷静な態度で話しかける。一度話しただけのオレのことを覚えていてくれたのはこの上ない名誉だが、おそらく好人物としての印象ではないだろう。

「はは、まあ、そのようなものです。ええ。」戸惑いながら答える見築先生。

「袋、破れちゃってますね」

「はあ」

「私がお持ちしましょうか。リュックサックもありますし」

いずれにせよ、困っている人を見過ごすわけにはいかない。助けられた相手がオレでは見築先生も不本意だろうが、少しの間辛抱していただこう。

「いえ、いえ、大丈夫です、一人で持てますから」見築先生は躊躇していたが、一人で抱えられる量ではないように見えた。

「まあまあ遠慮なさらず。困ったときはお互い様です。それに秋葉原は私の庭のようなものです。薄い本を入れるのにぴったりな手提げ袋を売っている場所も知ってますよ」

とオレが説明すると、「薄い本とかじゃないですけど」と抵抗をみせながらもオレが手を貸すことを許してくれた。

 

 

「で・・・どうしてこの店になったのか説明してもらえますか?」

「え、なにかおかしいですか?」

ドンッ、とテーブルを叩くつかさたん。

「どうして手提げ袋を買うためにメイド喫茶に連れてきたのかと訊いているんです」

「いや、だって売ってますよ、そこ」

オレが指さしたレジの隣にあるお土産売り場にはたしかに手提げ袋が陳列されていた。ただし、メイド服姿の美少女がばっちりプリントされているが。

「あれを持って街を歩けと・・・?」

目が、目が怖いよ、つかさたん・・

「あれ、見築先生フレンチはお好みじゃありませんでした?いやー、ブリティッシュ好きとは相当の通ですねえ。」

「突っ込んでるのはそこじゃない!あんなアニメ柄の手提げ持って人前歩けるかって言ってるんですよ!!!」

切れ味鋭いツッコミに思わず感心しながら、「まあまあ、そうおっしゃらず」とごまかしにかかるオレ。実際の所、メイド喫茶に連れてくるのが常識的でないことくらいオレもわかっている。だが、手提げ袋を販売していて、距離が近く、沈んだ気持ちが励まされる、という条件で脳内検索した結果、真っ先にヒットしたのがこのメイドカフェ「いもうとLOVE@アキバ」だったというわけだ。つまり、論理的な帰結なのだ。

 

程なくしてメイドさんが注文を取りにきた。

注文は決まった?お兄ちゃん、お姉ちゃん?えへ♡

小柄でかわいいメイドさんだ。

「え~と、お兄ちゃんは、ぃもうとのらぶらぶジュースで」とオレは注文を告げた。

ぃもうとのらぶらぶジュース”だね♡了解だよ♡お兄ちゃん♡

メイドさんは、セリフの最後にこちらの目をじっと見てニコッと微笑んでくれる。さすがプロのメイドさん。一味違う。

オレは常連だから注文するのも慣れているのだが、つかさたんの方を見ると目を丸くしている。

「(見築先生、メニューを選んでください)」と小声で見築先生に伝える。

「(いや、選んでって言われても、メニューの意味がよく・・・)」と見築先生。

「(直感でいいんですよ!直感で)」

何にするぅ?おねぇちゃん♡」と満面の笑顔でメイドさんが再び聞いた。

「え~と、じゃあ、この妖精さんが徹夜でつくったプリンをお願いします」と何だか決意を固めたような口調で見築先生が言った。

了解にょろ!おねーちゃん♡」とメイドさんがこたえた。「それから、わたしの名前はみおんです。みおみおって呼んでね♡

 

つかさたんの方を見ると、ぜいぜいと肩で息をしている。

「ずいぶんと呼吸が荒いようにお見受けしますが、今からそんな興奮なさっては最後まで持ちませんよ」

「興奮してるんじゃないです!心にダメージを受けたんですっ」

涙ぐみながら言われると少し悪かったかなという気もしてくるのだが、当然ここで疑問が浮上してくる。つまり、なんで秋葉原に来ていたのか、という疑問である。

「ところで見築先生、アニメ嫌いじゃなかったんですか」と問いかけると、見築先生はしばらく考え込んでいたが、

「あれは嘘です」と断言した。

「う、嘘ですか。随分あっさり認めますね。」とたじろぐオレ。

「別に隠してるわけじゃないですけど。アニメとかマンガは普通に好きですよ。ただ、イベントとかだと、ちょっとね」

なるほど。それは分からなくもない。

「プライベートではオープンなんですか。それじゃあ、薄い本も」と言いかけたオレに

「ストップ!それはまた別の話です。分かってもらえますよね?」とつかさたんは言い、こちらをじっと睨んだ。だが、本人は睨んでいるつもりでも、どちらかというと上目遣いで見つめられているようにも感じる睨み方で・・・つまり、オレにとっては萌えもだえたくなる表情でしかなかった。

「ありがとう、つかさたん・・・」

「は?」

やべ、思わず心の声が漏れたか。

 

しばらくして、注文の品が運ばれてきた。

お持たせしました、お兄ちゃん♡ぃもうとのらぶらぶジュースだよ♡

らぶらぶジュースがおいしくなるおまじないをしま~す。お兄ちゃん、わたしと一緒に『おいしくな~れ☆』って言ってね♡

メイドカフェ恒例、おまじないタイムだ。

ちなみにこのおまじない、人差し指をくるくる回し、ジュースに向かってウインクするフリ付きである。

オレは何とかみおんちゃんの指示通り「おいしくな~れ☆」とおまじないを済ませ、次は見築先生の番となった。

お姉ちゃんも一緒におまじないしてね♡両手を頭の両側につけながら」とみおんちゃんが身振り手振りを加えながら説明する。「『かわいい妖精さん大好き~、萌え萌えぴょん♡』

「・・・・・・」

「・・・・・・」

オレも見築先生も思わず無言になった。こんなにハードルが高いおまじないがあるとは、正直な所オレも知らなかった。

みおんちゃんの説明によれば、『萌え萌え』のところで左右の手をパタパタさせ、『ぴょん』のところで小首をかしげるようにするのがポイントのようだった。

「・・・・それ、やらないといけないんですか」と静かに見築先生が聞いた。

はい♡」とみおんちゃんがとびきりの笑顔で答えた。

やや沈黙があって後、見築先生が決心したように「やります」と宣言した。覚悟の定まった表情だった。

それじゃあ、いきますね♡『かわいいかわいい妖精さん大好き~、萌え萌えぴょん♡』

みおんちゃんと一緒におまじないを唱える見築先生の姿を、オレは一生頭に焼き付けておこうと思った。

 

 

目的の手提げ袋をしっかりと購入してから店の外に出ると、「そろそろ帰ります。これ持って街歩くのも結構恥ずかしいので」とつかさたんが言った。

「そんなことないと思いますけどね」

とオレは返したが、つかさたんがこのデザインの手提げ袋を持っている姿はたしかに少しおかしな取り合わせに感じられた。

駅までの道を歩きながら、この出会いをなんとか次につなげる方法はないかとオレは頭を巡らせた。もう一度会って話ができるような、あわよくば、継続的な関係をつくれるような、そんな方法がないかと。しかしもちろん、そんなアイデアは浮かばなかった。

「タカハシさんは、このまま帰られるんですか?」と聞くつかさたんに、

「いや、もう少し買い物しようかと・・・」とオレは曖昧に答えた。駅につくまでに、なんとかして話の糸口を見つけたかった。

 

考慮の甲斐もなく気の利いた口実も思い浮かばぬまま、秋葉原駅が目前に迫ってきた。

行動を起こすなら今しかない。

「あ、あの!見築先生・・・」

オレは意を決して話しかけた。

「今度良かったら、食事でも行きませんか?」

「え?」

少し困惑した表情を浮かべるつかさたん。だが、この時俺はまだそれに気づいていない。

「実はオレ、ずっとまえから見築先生のファンで・・。その・・・その・・ずっと憧れてて、だから、見築先生ともっと仲良くなりたいんです!」

「・・・・・・」

しばらくの間沈黙が続いた。

恐る恐るつかさたんの表情をうかがう。少し考えているような、困っているような表情にも見える。

「あ、あの、別にいますぐ答えをいただかなくてもいいんです。何かまたお会いした時に」

「いえ、そういうことじゃないんです」

「・・・?」

つかさたんの返事は思いの外はっきりとした口調で告げられた。

「ごめんなさい、タカハシさんときちんとお話したのは今日が初めてだし、その・・・、ごめんなさい」

「・・・・・・!!」

ごめんなさい?どういうことだろう。文脈が分からない。なにか謝られるようなことをされただろうか?

だが――本当の所、意味はわかっている。ただ、理解したくないだけだ。心がそれを拒絶している。

「・・・・・・」

「こちらこそ、すみませんでした。」

オレは精一杯穏やかな表情をつくってそう言った。実際には泣きそうな顔に見えたかもしれないけれど。

そして、ゆっくりと後ろを向き、街灯に照らしだされた自分の影を見つめながら、今来た道を引き返した。オレがつかさたんの視界から消えるまでには随分と長い時間がかかったはずだが、引き止める声はなく、大通りからの喧騒だけがいつまでも聞こえていた。

 

 

4.

秋葉原を後にしたオレは、重たい足取りで行きつけの飲み屋に向かった。自宅の最寄駅の近くにある、いわゆる隠れ家的な小洒落たバーだ。『Bar 千駄ヶ谷』というのがその名前だが、店の所在は千駄ヶ谷ではない。マスターが将棋好きで、将棋会館のある千駄ヶ谷を屋号にしたのだそうだ。常連客にも将棋好きの人が多く、オレもその内の一人である。

店に入ると、マスターが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。おう、タカハシ君じゃないの」

「マスター、お久しぶりです」

ここのマスターは気のいい中年のオッサンで、いかにもバーのマスターといった感じの人である。いつも品のいい笑顔を浮かべ、客とよく話す。

今日は休日の夜にしては客はそう多くない。人が少ないほうが落ち着けるからオレ的には有難いのだが、つい経営は大丈夫かと心配になってしまう。

案内されるままにカウンター席に座ると、

「どうしたの、そんな泣きそうな顔して」

とマスターが心配そうに言った。オレはそんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。自分では平静を装っているつもりだが。

「いや、マスター。それが、今日はいろいろありまして・・」

「ほう、女の子絡みかい?」

マスターはことあるごとに「女の子」との関係を追求してくるのだが、基本的にオレには浮いた話などなく、代わりに購入したフィギュアの造形美などを語って笑いを取るのが大体のパターンであった。しかし、今回ばかりはマスターの質問が的をついていたので、オレは答えに窮することになった。

「いや、その、なんというか・・・」

「分かってるって!タカハシくんが現実の女の子と接点なんてあるわけないからね!さあ、何飲む?」

現実の女の子と接点がないと決めつけられると、それはそれで腑に落ちない部分もあるが、まあほとんど正しいのだからしょうがない。

「はぁ・・。じゃ、激辛三兄弟で。」

「はいよっ」

ここのメニューは少し変わっていて、「東海の鬼」とか、「受ける青春」とか、オリジナルカクテルに将棋にまつわる名前が付けられているのである。そのせいでカクテルの中身が何なのか分からなくなっているのが少し問題だが。

しばらく待っていると、

「はい、激辛三兄弟、おまたせ」

マスターがカクテルグラスをスッとカウンターの上に置いた。

「それで、今日はどうしたの?」

「まあ、いろいろと」と、適当な答えを返しておいてから、今日あったことをマスターに打ち明けるべきかどうか、オレは少し悩んだ。マスターなら親身になって話を聞いてくれるだろう。だけど、マスターに話したところで解決策が見つかるかどうかは分からない。

「実は、女の子にフラれちゃって」

小考の末、オレは今日あった出来事を打ち明けることにした。

「ええっ、君がかい?現実の女の子に?告白したの?」

とマスターはいかにも驚いたといったふうに聞き返した。

「そんなに驚かないでくださいよ」

「ほえ~、意外だねえ。君が。しかし、まあ、あれだ。若い頃はたくさん失恋していいんだよ。若者は失恋して成長するのさ。」

「そんな正論聞きたくないです」と格別にドライな酒を口に含みながらオレは言った。「若い頃は苦労するもの」とか「失恋が糧になる」とか、そういったフレーズは半ば聞き飽きているということもあるが、少なくとも今のオレに響く言葉ではないと思った。

「オレも若い頃はよく失恋したよ。だからまあ、タカハシくんの気持ちはわからんでもない。」

「でも、マスターにはちゃんと奥さんがいるじゃないですか。はあ・・」

「ウチのはまあ、気づいたらいたって感じかな。君だっていずれは奥さんも子供もできるだろう」

「僕なんか結婚できるわけないです。妄想の世界の話ですよ」

結婚?結婚なんて考えたこともない。

「おかわり、どう?」

「あ、お願いします」

マスターがカクテルを作っている間、すっかり氷の溶けてしまったお冷のグラスを眺めながらオレは考えた。世の中のリア充と呼ばれている人たちは、オレとは決定的に違う何かを持っているのだろうか。それとも、単なる偶然によってその立場を手に入れただけなのだろうか。マスターに聞いたら笑って一蹴されるかもしれないが、今のオレにはそれすら分からなかった。

「はい、おまたせ」

「あ、どうも」

どちらにしても、オレが女の子と連れ立ってカフェに入ったり、手をつなぎながら夜道を歩いたりする様子は遠い世界の幻想のようで、想像することさえ難しかった。

「マスター、若い頃はさぞモテたんでしょうね」とオレは尋ねてみた。「そんなことないよ」とマスターは答えた。

「オレはね、遠くから見てるだけでいいんですよ」と独り言のようにオレはつぶやいた。そうなの?とマスターがカウンターの向こうから聞き返した。

 

3杯目のカクテルを飲み干したあたりから、徐々に酔いが深まってきた。酔っている自覚はあったが、なかなか止める気になれなかった。

結局、オレは記憶がなくなるまで飲み続けた。

 

 

5.

『お兄ちゃん、電話だよ~。早く出ないと切れちゃうぞ~。お兄ちゃん、電話だよ~』

カチリ

ケータイの画面を見ると、ナカムラからの着信である。

「タカハシ氏!タカハシ氏!今どこにおられるのですか?」

「ん・・すまん、今起きたとこだ」

寝ぼけ眼で答えるオレ。

「なんですと?今日は女流棋聖戦の大盤解説に行く予定のはずではありませんか!」

「すまん、自分で誘っておいて申し訳ないけど、オレはちょっと・・・」

「まーた、あなたという人は!朝の用事に弱すぎですぞ!」

ナカムラの声が耳の奥まで響く。

「いや、いいんだ、オレはもう。先に行っててくれ」

オレは逃避を試みたのだが、

「とにかく!あと10分で千駄ヶ谷駅に来てくだされ!頼みましたぞ!」

そう言うとナカムラは電話を切ってしまった。

 

秋葉原の一件からおよそ2週間後、女流棋聖戦の大盤解説にナカムラを誘ったのは、確かにこのオレである。つかさたんにどうやら嫌われてしまったらしいことは途方も無いショックだったが、つかさたんを応援したいという気持ちに変わりはなかった。今回の大盤解説ではつかさたんは対局者なので直接顔を合わせることはないし、純粋な気持ちで応援できると思ったのだ。

それにしても、オレは朝に弱すぎる。朝といっても待ち合わせ時刻は午前10時だったのだから、ナカムラに怒られても言い訳の余地は全くないのである。

あと10分で会場に着くのはどう考えても無理だったので、オレは半ば開き直ってのんびり行く事にした。のろのろとベッドから起き上がると、回らない頭で身支度を整え、会場へと向かった。

 

 

会場についてみると、やはりというべきか大盤解説場は多くの人で賑わっていた。女流棋聖戦2次予選は4局同時に行われており、解説者も聞き手も大忙しだ。

人ごみをかきわけナカムラと合流すると、オレたちはなんとか空席にたどり着き、解説に耳を傾けた。

今日の解説は末崎遊八段、聞き手は茨城涼子女流四段である。

 

『では見築-板橋戦に移りまして。どうやら数手進んだようですね』と茨城女流。

『先手の見築さんが美濃囲いの石田流に組んだのに対し、後手の板橋さんが居飛車穴熊になっていましたね。お互い駒組みはほぼ完成していますが、ここで4八金寄ですか』と末崎八段。

『まだ仕掛けのタイミングではないということですか?』

『6五歩と仕掛けてもいい勝負になると思いましたけどねえ。じっと金寄りましたね』

『この手はどういう意味でしょう?』

『後手は穴熊ですが、あまり良くない形ですね。一方、先手は石田流の理想形とも言える形です。見築さんは、じっくり指せば先手が良くなると見ているのでしょう』

『なるほど。では後手としてはどう指せばいいでしょうか?』

『後手の板橋さんは千日手でもいいわけですから。例えば9二飛として』

『先手は8八角ですか』

『ここで例えば7二飛車とかですねえ。それに再び9七角とすると』

『なるほど、こうなると千日手でしょうか』

ポンポンと指し手を進められて完全には理解できない部分もあったが、解説によると、どうやら千日手もあり得るようである。

「見築先生、先手番で千日手になってしまわれるのでしょうか」と言うナカムラに、

「大丈夫だ、心配ない。今日は勝ってくれるはずだ」と返したが、もちろん根拠などなかった。

 

対局は解説通り千日手含みの展開となったが、先手がリスクを省みず▲8五桂と桂馬を跳ねて千日手を打開した。続く先手からの▲7四歩△同歩▲6五歩という石田流の陣形を最大限に生かした仕掛けをきっかけにして、両者後に引けない本格的な戦いが始まった。

ほどなく解説は別の対局に移ってしまったので途中経過は分からなかったが、再び解説が見築-板橋戦に戻ってきた時には、どうやら先手の一手勝ちのようだと結論が出て、オレとナカムラは安堵の溜息をついた。

「見築先生、最後は腕力で押し切りましたな」

「パターンに入ると強いからな~。さすがだわ」

「でも、ドキドキしましたな~」

「オレは最初から見築先生の勝ちを信じてたけどね。うん。」

「それはどうですかな?ケータイを握りしめて将棋クラスタの形勢判断を必死に探していたではありませんか」

「うぐっ」

言葉に詰まるオレ。夢中になって解説を聴いている様子だったが、よく気づくものだ。

「ち、ちがうんだ。ケータイを見ていたのはサ○エさんとキュア○ースの勝敗予想をチェックしていたんだよ」

「はいはい」

 

解説は再び別の対局へと移っていたが、しばらくすると板橋女流が投了した旨の速報が入った。

ナカムラは解説会の最後まで残るとのことだったが、オレは一足先に帰ることにした。なにせ昼飯を食っていないので、いい加減腹が減った。それに、対局の勝者は大盤解説会場を訪れることになっているため、直接目に触れる場所には少し居づらいという思いもあった。

この時の心配は、あらゆる意味で的はずれだったのだが。

 

 

6.

我が家の最寄り駅に降りると、オレは直接ウチには帰らず『Bar 千駄ヶ谷』に向かった。この前店で深酔いしたことをマスターに謝りたいということもあったが、最近なんとなく一人暮らしの家に帰りたくない日が多いのだ。

 

店に入ると「いらっしゃいませ」とマスターがいつもと変わらぬダンディーな声で迎えてくれた。

いつものカウンター席につくと、

「この間はすみませんでした、迷惑かけちゃったみたいで」

とオレは可能な限り丁寧に頭を下げた。まずは直近の失敗を謝罪しておかねばならない。

「ふふ、タカハシ君があそこまで酔うなんて珍しいよね」

とマスターが相変わらずの余裕の笑みを浮かべていたので、少し安心しながら

「面目ないです・・」と再度頭を下げた。

後から聞いた話では、あまりの泥酔ぶりを見かねたマスターが、オレを強引にタクシーに放り込んでくれたらしい。オレは知らないカップル客に「彼女なんていなくても生きていけるんだよお!」と力説していたそうだ。どんだけ迷惑な客なんだ、オレは。

 

Bar千駄ヶ谷は午後から喫茶店としても営業しているのだが、バーのイメージが強いせいか、日中の客はあまり多くない。この日も午後6時前という中途半端な時間のせいか、オレ以外に客はいなかった。

「ご注文は?」

「スパゲッティ・ミートソースお願いします。それと、ホットコーヒを。ミルク多めで」

「はいよっ」

オレはポケットからケータイを出して漫然と指を動かした。

特に何という理由もないが、ツイッタークライアントを起動して画面を眺める。

『つかさたん勝ったから、今ごろ祝杯あげてるかなタカハシ氏』

『すでに飲んでるだろ>タカハシ』

『すでに潰れてるだろ>タカハシ』

「・・・・・・」

こいつら、好き勝手言いやがって・・

あまりに自由奔放につぶやきすぎたせいか、オレのキャラ付けが随分と本人に即したものになっている気がする。ここまで来ると、少し問題かもしれないな。今になってみると本名の『タカハシ』名義でアカウントをつくってしまったことも仇になっていて、リアルでオレのことを知っている人なのかどうか区別もつきやしない。

「はい、コーヒーおまたせ」

「あ、ども」

オレはケータイを片手にコーヒーを飲みながら、スパゲッティが茹で上がるのを待った。画面を眺めていると、とりとめのない考えが頭に浮かんでは消えた。将棋のこと、大学のこと、部活のこと。しかし、一つとして考えはまとまらず、自分が今やっていること全てが中途半端に思えた。オレはひとまず考えることを中断し、ケータイの画面に向かってツイッターのリプライを返す作業に没頭した。こいつらを相手にしていると、不思議と心が穏やかになる。実際にはそうならない時もあるので多分オレの気のせいだが、今はそういうことにしておく。しょうもないツイートがほとんどだが、それがいいのだ。

やがてスパゲッティ・ミートソースが運ばれてきた。食ってみるとめちゃくちゃうまかった。

「マスター、これ絶品ですね!こんなコクのあるミートソース初めて食いましたよ!」と思わず叫んだ所、ちょうどジャガイモの皮むきを始めていたマスターに

「そのミートソース、缶詰だよ」とあっさり返された。

ズルッと椅子から滑り落ちるリアクションを取りながら「缶詰ですか・・」と言うと、「まあ、缶詰のミートソースもおいしいからね」とマスターは苦笑している。

なんだ、缶詰だったのか。言われなきゃ絶対気づかなかったのに。

 

マスターとくだらない世間話をしながらスパゲッティも食べ終わり、そろそろ帰ろうかと考えていたとき、

カランコロン、と店の扉が開く音がした。

客が来たのか?そろそろ7時だしな。

そう思って、後ろを振り返ったオレは、思わず目を見開いた。

ドクン、と自分の心臓の音が聞こえた。

見築つかさが、そこに立っていた。

 

 

7.

つかさたんはドアの前に立って店内を見渡すと、オレの座っているカウンター席まで歩を進めた。

「隣、いいですか?」とつかさたんが尋ねたので、オレは「はい」と答えた。もちろん、「いいえ」と答える選択肢はありえなかった。

つかさたんは対局中と同じいでたちで、膝丈の白いスカートが殊更にまぶしく見えた。

つかさたんが席につくと、テーブルを台拭きで拭いていたマスターがやってきて、

「こちら当店のメニューです。お決まりになりましたらお声掛け下さい」と恭しい仕草でメニュー表を示した。

「あの、メニューの意味がよくわからないんですけど」とつかさたん。

「当店のカクテルは全て将棋にちなんだオリジナルカクテルとなっております。はじめての方ですと、こちらや、このあたりのものがおすすめです。ソフトドリンクはこちらになります」とマスターが説明を加えた。

「え~と、じゃあこの千駄ヶ谷の受け師でお願いします」

「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

カウンターの隣席に座る女性を見つめながら、オレは何と声をかけていいかわからないでいた。つかさたんとの一連の出来事に対しては、すでに自分の中で一応の決着をつけていたし、再び顔を合わせることは想定していなかったのである。

見たところ初めてこの店に来たようだし、若者がカジュアルに利用するような雰囲気の店でもないから、もし偶然だとすればよほどの確率ではないだろうか。

「見築先生、今日はおめでとうございました」

と口を開いてから、オレは、少し後悔した。自分で言っていて随分間の抜けたセリフに思えたからだ。

つかさたんは小さな声で「どうも」と返した。そして再び沈黙が訪れた。

 

注文したカクテルが運ばれてくる頃になってようやく、つかさたんは口を開いた。

「この間は、すみませんでした」

「・・・・・・」

「あんなひどい言い方をすべきではありませんでした」

「・・・・・・」

つかさたんの言葉は、オレにとって少し意外なものだった。一度フッた男にわざわざそんなことを伝えるのは、なんというか、あまり一般的でない気がしたのだ。

三度目の沈黙が訪れそうな気配を感じて、オレはあえて違う話題を振ってみた。

「オレがここにいることは知っていたんですか?」

「タカハシさん、ツイッターでつぶやいてたでしょ」 

「!?」

一瞬、呼吸が止まった。

「タカハシさんのツイッター、業界では有名なんですよ。熱烈なファンがいるって。私も、フォローはしていなかったけど聞いたことはありましたし。将棋祭りのあと、スタッフの方が教えてくれたんですよ。タカハシさんのアカウント」

「オレのツイッター、見たんですか?」

狼狽を隠せないオレ。

「はい。正確に言うと、ついさきほども読んでいましたが」

「・・・・・・マジ、で?」

「はい、マジです」

頭がクラッとした。つぶやきを・・・見られている?しかも、かなり頻繁に?

「すまない、ちょっと待ってくれ。マスター、お冷を一杯お願いします」

少し状況を整理しよう。先々週の将棋祭りの後、オレのツイッターアカウントの存在がイベントスタッフによってつかさたんに伝えられた。その後、彼女はオレのつぶやきを何度かチェックしているようだ。オレ、なんかマズイこと書いたっけ?うん、書いてるよ。心当たりありまくりだよ。むしろすべての発言がレッドゾーンだよ。問題は、どのタイミングでツイートを読まれたか、だが・・・

「見築先生、オレのつぶやき、どのくらいチェックされました?」

恐る恐る聞いてみると

「ほとんど毎日ですけど」とサラッと答えるつかさたん。

「(ふおおおおおおおおおうわあああああああああ)」

混乱を極めるオレ。

「はい、お冷おまたせ」

「あ、ども」

まずは水飲んで落ち着こう。

「タカハシさん、この間の出来事以来、『早くオジサンになりたい』とか『爆発するオリオン座を眺めながら余生を送りたい』とかつぶやいてましたよね。さすがに私、悪い事したかなと思ったんです」

そんなことつぶやいたっけ?オレ・・・

「私、別にタカハシさんのこと嫌いだと思っていたわけじゃなくて、どういう人なのか知らなかったから、だから、あの時は・・・」

「・・・・・・」

「でも、これだけは言っときますけど、ツイッターで『つかさたんの触覚○○にゃんみたい』とかつぶやくの、やめてもらえませんか?意味分からないですし、ちょっと怖いので」

ゲホッ

思わず飲んでいた水を吹き出しそうになる

「次からは、控えます・・・」

もはや言い訳できる段階にないことを悟り、オレは素直に謝罪の意を示すことにした。今まで思い付くままにつぶやき、自由に振舞いすぎたことを、オレは素直に詫びた。

 

「追加の注文はよろしいですか?」とマスターがつかさたんに声をかけた。この人の客に話しかける間はいつも絶妙で、タイミングを外すことがない。必要以上にしゃべりすぎないし、客を飽きさせることもない。

「それじゃあ、直感精読をお願いします」メニューを見ながらつかさたんが注文した。

「少々お待ちください」

と言うと、マスターはシェーカーに液体を注ぎ始める。

「つかぬことをお伺いしますが、見築つかさ先生でいらっしゃいますか?」

「はい、そうです」と答えるつかさたんに、

「プロの棋士の先生にお越しいただけるとは、これ以上ない喜びです」

とマスターが深々と頭を下げた。

「いえいえ、そんな」と恐縮するつかさたん。

「今日は対局がおありだったのですか?」とマスター。

「はい。女流棋聖戦の一次予選だったんですけど」

「ほう」

「今日はなんとか勝てました」

「そうですか。それはよかった」

と言い、マスターはにっこりと微笑んだ。いかにもナイスミドルといった風な、感じのいい笑い方だ。

「将棋、お好きなんですか」とつかさたん。

「ええ、将棋は昔から好きなんですよ・・っと」

答えながらマスターはシェーカーにふたをすると、シャカシャカと振り始めた。小気味良く、洗練された仕草だ。

「どうも指す方は上達しないのですけどね。お客さんと将棋の話をするのは好きなんですよ」

「へえ。将棋好きな方が多いんですか?」と感心した表情をみせるつかさたん。

「ええ。この店は開店当初から、愛棋家の方によく集まっていただきましてね。昔は将棋大会なんかもよくやったものです」

へえー。ここで将棋大会をやってたなんてオレも全然知らなかった。このオシャレなバーで将棋大会が開かれるなんて今ではとても想像できないが、もう随分長くやってるみたいだし、店の雰囲気も昔とは変わったのかもしれない。

「ですが、当店もプロの先生がいらっしゃることは滅多にありません。ですから、見築先生は特別なお客様です」

そう言うとマスターは再び微笑んだ。スマートな笑い方だ。

つかさたんの方を見ると、「そんなことないですよぉ~」と言いながらも、まんざらでもなさそうな様子である。

このオヤジ、まさかつかさたんのこと狙ってやがるんじゃないだろうな・・、と余計なことを考えながらも、つかさたんの楽しげな様子にオレはほっとしていた。

 

その後、話題はつかさたんの対局へと移った。

「でも、最近は大事な試合で勝てないことも多くて」とつかさたん。

「ほう、そうなのですか?」とマスター。

「はい。だから最近は対局の前の日になると、なんでプロになったんだろうって、思うんです」

「見築先生ほどの方でも不安になったりするものなのですか」

「それはもう、しょっちゅうですよ。負けが続くと特に」

「ふむ」と小さく合いの手を入れるマスター。

「プロになってから分かったんですけど、研究の深さとかが全然違うんですよ。それに全然追いつけてないっていうか。でも、今は自分ができることを一つずつをやるしかないんです」

と勝負の裏側を語るつかさたんに、マスターはうんうんと頷いている。

 

その後も、(主にマスターのおかげで)楽しい会話が続いた。この時間がずっと続けばいいのにと心から思った。できることなら、今日の会話も、目に映る光景も、全てを記憶に残しておきたい。

やがて二人連れの客が来店し、マスターが注文を取りにカウンターを離れた。

ややあって、つかさたんが「あ、もうこんな時間」と言い、「時間も遅いし今日はそろそろ帰りましょうか」ということになった。

支払いを済ませ、帰ろうとするオレとつかさたんに、マスターは「またのお越しをお待ちしております」と深々と頭を下げ、「どうぞお気をつけてお帰りください」と言ってニッコリと笑った。

 

外に出るともうすっかり日は沈んでいた。

「見築先生、駅の方で大丈夫ですか?」

とオレは歩き出したが、

「あれ?ちょっと待ってください」

つかさたんはゴソゴソとバッグの中を何か探している。

「あれ?あれ?おかしいな」

見るからに焦っているけど、まさか鍵を無くしたとかじゃないだろうな。

「私、鍵なくしちゃったかも」

コケッ

古典的な動作でコケるオレ。

「こんな時間じゃたぶん不動産屋も閉まってますよ」と言うと、

「え、そうなんですか?」と不安そうな表情をみせるつかさたん。

「ええ、たぶん」

「一応大家さんに電話かけてみますから、ちょっと待っててください」

そう言うとつかさたんはケータイをポケットから取り出し、電話をかけ始めた。

と同時に、オレはあることに気づいた。

「そのストラップに付いてるの、カギじゃないんですか?」

「?ストラップ?」

「それですよ、それ」と指さすと、

「あ、昨日ここに付けたの忘れてました」とつかさたん。

「そんな大事なこと忘れないでください!!」と思わず突っ込むオレ。

つかさたん、ひょっとして本当は天然さんなのだろうか・・?

「ケータイにカギとか付けちゃ危ないですよ。ケータイなくしたらどうするんですか・・」

「あはは・・」と苦笑するつかさたん。

「私、今年の春から一人暮らししてるんです。だからこういうの、まだ慣れてなくて」

「今年の春ってつい最近じゃないですか。一人暮らし、どうですか?」

「そうですね、実家に比べると不便ですけど、一人暮らしもこれはこれでいいかなって思います。開放感があって」

「☓☓☓☓☓の薄い本も集めちゃったりして」とオレが言うと

「むっ」

とつかさたんは頬をふくらませた。

「もう遅いし、駅まで送っていきますよ」

オレが提案すると、

「いいですよ、実は私の家、ここから近いんです」

やんわり断られた。

「まあまあ、そう言わず」

「いいって言ってるでしょ、もう」

「予選突破のお祝いにケーキでも買って行きますか」

と悪ノリするオレ。

「ケーキって、それどこで食べるんですか」

困惑するつかさたん。

「そんなの買ってから考えればいいんですよ」

言ってオレは歩き出す。

「もう、タカハシさんの言ってること、どこまでが冗談なのか分からないです」

慌ててついてくる仕草がかわいい。

大通りまでの道をしばらく歩いていると、

「星、見えないですね」

ふいにつかさたんが言った。

空を見上げると、なるほど、厚い雲に覆われて星はひとつも見えなかった。

湿った灰色の空を眺めながら、オレは汗を拭った。

 

 



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