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七割未満

七割未満(五)



   七割未満(五)
清水らくは


 最初、知らない人かと思った。よく見るとどこかで見たことがあるのだが、どこで見たのかがわからなかった。
「あ、今日はかぶらせてもらうので、よろしくお願いします」
 爽やかな声でそう言われて、ようやく分かった。対戦相手の黍原さんだった。端正な顔つきに長く伸ばされたちりちりの髪。非常に格好いいのだが、髪の方は借り物である。イベントなどではよくふざけてかぶっているのは知っていたが、まさかテレビ対局でも装着するとは思わなかった。
 スタジオ全体に微妙な空気が流れているのがわかる。まあそれはそうだろう。黍原さんの見た目自体は決して変ではないのだ。ただ、いつもと違うからなんか変なのであって、果たしてこれがオンエアされるとどんな感じになるのかまったく予想がつかない。
 とはいえ、対局が始まってしまえば全く気にならなかった。盤が目の前にあれば、俺はその世界に集中することができるようだ。黍原さんも格好以外はまったく普通のままだった。かぶっている人は世間にいくらでもいるのだし、そういう人だと思ってしまえば問題ない。
 ただ、いつ脱ぐのか……は少し気になっている。以前普通のテレビに出たとき、いきなり脱ぎ捨てて走り出すところを見たことがある。対局の礼をしたところで滑り落ちる、なんていうハプニングは起こらなかったが、投了や感想戦を始めるタイミングで脱ぐんじゃないかな、と予想している。
 戦型は横歩取り。非常に難解な変化に突入している。研究していた局面からは外れていて、どちらが勝ちなのかはわからない。ただなんとなくだけれど、俺の方が苦労が少ない感じ。短い将棋では、これは大事だ。黍原さんは難しい顔をして、何度か頭を揺らした。落ちないか心配だ。
 心が落ち着いてくる。厳しく頭を回転させなければならないけど、心地良くもある。正解が、俺を導いている感覚がある。
 ぴーんと、一本の筋が通った。これは負けない。ネクタイを正して、背筋を伸ばした。せっかくなので、キレイに映りたい。
「負けました」
 黍原さんが頭を下げた。それでも落ちなかった。
「お時間が十分ほどございますので……」
 淡々とした感想戦が始まった。結局黍原さんは被ったままだった。
 そして、感想戦が終わり、締めの挨拶をした後に解説の鳥越先生がにこにことした顔で言った。
「それにしても辻村君、珍しいネクタイだねえ。なかなかないセンスだよ」
 かつらで対局する事に比べれば、ネクタイなんて全く無意味に思えるのだが、どうなんだろうか。


 こけた。誰も見ていないようで助かった。
 本当に何にもないところだったのだが、突然足に変なものが絡みついたような気がしたのだ。いや、何もないというのは嘘かもしれない。今は、退学届けを出した帰りなのだ。
 高校には何の思い入れもない。高校生棋士というのは重要なポイントだ、と偉い人に言われたのだけれど、そんなことのために在籍し続けるのはダサい。だからしばらくは、高校生のふりをしていようと思う。結局のところ、制服を着ていればいいのだ。おしゃれに制服を着こなすというのもなかなか乙かもしれない。
 とはいえ、今俺の制服は砂が付いてしまっている。あとでクリーニングに出そう。
 肩の荷の方は下りた。みんなが行くから行く、ただそんな感じで高校に入っただけだった。でも自分は、みんなと違う道を歩き始めている。たまたま才能があって棋士になったわけではない。気付いたときには、将棋に人生をかける覚悟ができていた。だから、将棋以外のことはすべておまけで、それに足を引っ張られる必要はない。
 とはいえ。俺ってまだ若いよな、と思うことはある。先輩たちは俺の知らないことをいろいろ知っている。勝負においても、「そんなのが有効なんだ」ってことを仕掛けてくる。かつらなんてのはお遊びの内だろうが、扇子とか飲み物とか、時には空気清浄機までが勝負を左右する。ああいうものは、まだ俺には使いこなせない。
 そんなわけで、自分にも使いこなせそうなものを買いに来た。水筒である。暑い季節は冷たいものを飲みたくなるが、対局の度にペットボトルを買っていくのもなんかかっこよくない。そこらへんこだわっている人は少ないので、バーンと見栄えのいいものを用意して、自分に最も合ったドリンクを持ち込もうという計画だ。
 ショッピングモールに着くと、平日昼間ということもあって若者の姿はあまりない。すでに学校をさぼっているわけではないのだけれど、制服なので少し罪悪感がある。あと、砂がちゃんと払いきれているかも気になっている。
 スイーツやバッグや靴、入浴剤のお店などを横目にエスカレーターを上がっていく。目指すのは輸入雑貨の店だ。そこはおしゃれなだけでなく、使い勝手のいいものもたくさんあるので最近のお気に入りである。
「あれ、辻村?」
 突然声をかけられた。聞き覚えはないのだが、無視する理由もなかった。
「はい……えっと、誰?」
 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、おおよそ知り合いとは思えない女の子だった。髪の毛はツンツンに立っていて、耳には大きなピアスが光っている。口紅はべったり、眉毛もしゃっきり。首にもじやらじゃらとしたものがあり、スカートはとっても短い。一応高校の制服のようだが、見覚えはなかった。
「ちょっとー、忘れたの? 中学校の時一緒だったのに」
「中学校? うー」
 もはや忘却の彼方だ。学校の記憶はとても薄い。
「ひどい。私よ私、沖原」
「おき……はら……」
 記憶の扉をいろいろと開けてみるが、なかなか見つからない。だいたい俺は将棋以外の記憶力はたいして良くないのである。
「本当に覚えてないの?」
「ごめん」
「そっかぁ。ま、あんま喋ったこともなかったか」
「あんま……ってことはあるのか」
「あるよー、ドボルザークの話したじゃん」
「ドボルザーク……?」
 記憶の扉が、合図をしている。ドボルザークの話題をしたと言えば、中二の頃だ。まだクラシックなんてたいして聴いていなかったのに、突然「辻村君、ドボルザーク好きそうだよね」と聞かれたことがある。その時は「えっと……聞かないこともないけど」と答えたような。
「……え、でもあれ……沖原さん?」
「どーゆーことよ」
 記憶の中の彼女は、三つ編みに眼鏡の、音楽を聴きながら読書ばかりしている女の子だった。目の前にいるのはまるで正反対の人だが。
「きれいになったね、ってこと」
「何よそれ。ま、あの頃は学校ではおとなしくしてたからね」
「そういえば学校は?」
「……辻村こそ」
「俺は今日退学した」
「え、うそ。なんで」
「いや、特にいる理由もなくなったから」
「ふうん」
 だんだんと記憶がよみがえってきて、クラスの沖原さんと目の前の沖原さんの共通点がわかってきた。左頬のえくぼ、少し大きめの口、良く動く左手。そういうところは、前と一緒だ。
「じゃあ、沖原は単純にサボりなんだ」
「そうね、まあ……そうね。辻村は買い物?」
「ちょっとね」
「なになに」
「いや、水筒を」
「ここで水筒? いっがーい」
「そう?」
「私も見る」
「え」
 沖原さんはニコニコと俺のことを見つめるばかりだった。振り切るのも面倒なので、俺は歩き出した。ぴったりと横についてくる沖原さん。
「暇なの?」
「比較的。まー、あれだよ、家も学校も嫌いってとこかな」
 友達は、と聞こうとしてやめた。自分だって聞かれたくないことだから。
「あ、これかわいーよねー」
 店の入り口に着くなり、沖原さんはマグカップにくぎ付けになっいる。白地に赤いラインが入っているだけのもので、どこがどうかわいいのかよくはわからないが、女の子はこういうのが好きなのだろう。
 俺は適当に頷いて、目的のものへと向かった。立ち並ぶ水筒。普通の小さなもの、大きなもの、飲み口が独特な形のものなど豊富な品ぞろえだ。
「あ、これいいじゃん」
「え、かえる……」
 いつの間にか横に来ていた沖原さんが手にしたのは、飲み口がかえるの形になった緑の水筒だ。こんなものが中継ブログに載った日には何を言われるかわからない。
「家で使うんでしょ?」
「家でも使いたくないけど、仕事で使うんだよ」
「仕事? 就職決まったの?」
「将棋を指すのが仕事」
「……ショウギヲサス?」
「将棋。知らない?」
「将棋は知ってる。仕事になるのは知らなかったし、辻村がそういうの得意っていうことも知らなかった」
 中学生の頃は目立たない上に休みがちで、周囲にプロを目指していることなどはほとんど伝えていなかった。だから、知られていないのは仕方がない。とはいえ将棋界のこと自体はもっと知られていてもいいと思うけど。
「得意なんだ」
「意外。色々と投げ出しそうなやつだと思ってた」
「それは合ってる」
 結局は赤いラインが綺麗な、比較的シンプルなものを買うことにした。保温性に優れているうえに、洗いやすいということだ。
「おもしろくなーい」
「おもしろがるものじゃない」
 会計を済ませると、沖原さんは携帯を俺に向かって突き出してきた。
「ん?」
「ん、じゃなくて。交換」
「なんで」
「なんでって……再会を祝して」
「はあ」
 もうなんかどうでもよくなって俺も携帯を取り出した。ごめんねどうせメールを送られてきてもまめには返さないタイプなんです。
 連絡先を交換して、アドレス帳を確認したら「035沖原花蘭」がしっかり登録されていた。
「からん?」
「そーよ。知らなかったの?」
「知らないよ」
「私は知ってたのになー、みっちゃん」
「誰もそんな呼び方してないよ」
「そう? じゃ充君、私は今から予定あるけど、また今度呼び出すから」
「はいはい」
「じゃ、またね~」
 手を大きく振りながらエスカレーターを降りていく沖原さん。どう考えても俺の記憶の中の彼女とは違う。ただ、そんなことはどうでもいいことだ。今俺は、将棋に関係のない人と久々に話したな、と思っている。ひどく非日常的なことで、びっくりしている。自分のことを気にかけるような人間が、実在するんだ。
 誰だかわからない人たちが、通り過ぎていく。将棋を知らない人々が。


「おおっ」
 ファミリアが声を上げた。俺も上げたかった。
 目の前のつっこちゃんだけが表情を変えていない。読みぬけがないか、しっかりと確認しているようだった。その点に関しては俺が保証する。もう、逆転はない。
 自玉に詰みがないので、勝ちのつもりだった。しかし、角を二枚捨てる筋で詰めろ逃れの詰めろがかかってしまった。まったく予想していない手順で、逃れようがなくなっていた。
「負けました」
「あ……ありがとうございます」
 三回目の研究会にしての初めての黒星。もう少し時間がかかると思っていた。しっかりした内容だった。
「勉強してるね。わかるよ」
「あ、いや……はい」
 この将棋は、女性初のプロ棋士とかそう言った類のものではない。 いずれ、追いつかれるかもしれない存在だ。普通にすれば、活躍できる。そういう芯の太い才能だ。かわいい外見の奥には、様々な鋭いものが隠されていると思う。そういうものに対して、敬意を抱きたい。
 いつか、大きな場所で勝負をすることになるかもしれない。
 結局この日は、つっこちゃんが全勝でトップだった。
「でも、次はこうはいかないから」
「が……頑張ります」
 自分にとってこの研究会が身になるかどうかという不安は、解消されそうだ。後輩に追いつかれないこと、それも大事なこと。
 などと考えていたらポケットの中で携帯電話が震えた。沖原さんからだった。
<元気にしてる? 今度仕事場観に行くからね!>
 彼女はまだ俺の仕事がわかっていないらしい。それとも数少ない出場イベントを調べてくるつもりだろうか。
<あんまり仕事してないよ>
 返信して気が付いた。俺、普段はすぐにしない人じゃないか。
 沖原さんには返さなきゃ、そう思ったのだ。なぜだかはわからないけれど。
「皆川さんですか~?」
 せっきーがにやにやとした顔で聴いてくる。
「違うけど」
「なーんだ」
 その時またメールの着信が。なんと、皆川さんからだった。
<明日、土産があるから。たまたま欲しいって言ってたもの見つけたから買ってきた。>
 そういえば仕事で沖縄に行くと言っていた。 ただ、何かを要求した覚えはまったくない。
 皆川さんへの返信は少し保留。他の三人が注目の対局を検討し始めたので、それに加わった。


「え、これを俺にですか?」
「だって辻村、ゴーヤー欲しいって言ったじゃない」
「言ったかなあ……」
「言った。言ってなくても喜んだらどうなのよ」
「……ありがとうございます。で、どうやって調理すればいいんでしょうか」
「知らない」
 なぜか皆川さんからゴーヤーを貰った。それにしてもゴーヤーとは。以前気になると言った気もするけれど、あくまで「調理済み」のものに関してだったはずだ。
 でも、なんだろう、皆川さんはどこか嬉しそうだった。というより、なんか爽やかになった気がする。つんつんした感じは変わらないのだけれど、表情が柔らかくなって、余裕も感じられる。沖縄に行くとそうなるのだろうか。
 そのあと、控室に来た人に聞いてみたのだが、ゴーヤーの調理方法はわからないままだった。袋から取り出して、直接触ってみる。足ふみマットにこんなのあるよね。
 見ているうちに、その存在自体が面白くなってきた。この外観、そしてこの質感、なぜこんな風に進化したのだろう。そしてこれを食べてみようと思った人はどんな人だったのだろう。よく見るために、持っていた黒いバンダナの上に乗せてみる。緑色が鮮やかで、これなら部屋に飾ってもいい気すらしてくる。
「どうしたの、辻村君?」
 振り向くと、三東先生がいた。目を丸くして俺のことを見ている。
「いやなんか、変だけどきれいだな、と思って」
「ゴーヤーが?」
「ゴーヤーが」
 とはいえずっと見ているのも確かに変だ。そのままゴーヤーをバンダナに包んで、鞄の中に入れた。三東先生はちょっと覗きに来ただけだったようで、すぐにいなくなった。対局途中だったのかもしれない。
「そういえば皆川さん、来週対局じゃないですか」
「そうね……木田さんと」
「大一番じゃないですか」
「別に。いつもと同じ」
 そうは言うものの、意識しているはずだ。二人は同年代で、女流棋士を目指すうえでも同じようなペースで勝ってきた。他にもう一人、前川さんという強い女の子がいたけれど、彼女は奨励会に入った後段に上がる前にやめてしまった。木田さんは奨励会試験に落ちたものの、女流棋士になることを決意してからはぐんぐん強くなっている印象がある。つっこちゃんにも負け、同年代のライバルには一歩差が開けられた感のある皆川さん。このまま負けっぱなしだと、上を向くことをやめてしまうかもしれない。
「そんなことないでしょ、勝ちに行きましょうよ」
「辻村?」
「木田さんに勝って、いずれ峰塚さんにも勝ちましょうよ」
「峰塚さん……」
 現在女流のトップに立つ、峰塚女流四冠。かれこれ二十年近く、一番前を走り続けているのではないか。三冠になったり五冠になったり、時折変動はあるものの常に複数のタイトルを所持している。背筋がピンと伸びて、男性棋士を含めても最も対局姿勢がいいという評判だ。
「俺は、いつか定家さんに勝ちます」
 定家四冠は、男性棋界のトップに君臨する男だ。かつて七冠を達成したことがあり、やはりこちらも二十年近くトップなのである。最近は若手もちょくちょく勝てるようになってきたが、誰一人タイトルを奪うには至っていない。特徴は、とにかくよく喋る。
「辻村、なんかまっすぐだね」
 皆川さんの表情は、あまりいいものではなかった。ごまかすような微笑。少なくとも、トップに立つ人、トップを目指す人はしない笑み。
「まっすぐじゃない。常に近道を探してます」
「近道?」
「そうしないと、追い越せないから」
 研究をして最善手を探して、それも大事だろう。けれどもそれでは、同じスピードでしか前に進めない。だから自分に合った、自分だけの道を見つけないといけない。まだ若いからとか言い訳していたら、あっという間に集団の中に埋もれてしまうと思う。
「……私、頑張れば木田さんに、勝てると思う?」
「勝てますよ。まだ全然たいした距離じゃないです」
 今度は、普通の笑みを浮かべた皆川さん。
「いいこと言えるようになったなんて、辻村らしくないね」
 今日の皆川さんもちょっとらしくないですよ、という言葉は飲みこんだ。何がらしいとか、そんなこと本当はよくわからないからだ。
「あ、いたいた、辻村君と皆川さん。丁度良かった」
 今日はこんなことが多い。控室に入ってきたのは、いつも陽気なおじさん『将棋宇宙』編集部の橘さんだ。
「こんにちは。何かご用ですか」
 皆川さんの声のトーンが急に落ち着いた。大人である。
「いやね、実は今度プロ中心の団体戦を企画しようと思っていて、その関東若手チームに入ってもらえないかと」
「はあ」
「私もですか?」
「そうそう。男性二人、女性一人でチームを組むんだ。もう一人は川崎君に出てもらおうかと」
「川崎さん……ですか」
「やるならできるだけ最強にしたいからね」
「それ……私でいいんですか」
「はは、僕は皆川さんを推してるから」
 誌面用に見た目派手な人を選んだんじゃ……と思ったが口にしないことにした。確かにチームを組むなら、この三人には「意味」がある。
「それで、どのような形式になるんですか」
「四チームぐらいの総当たりで、3勝なら5点、2勝なら2点、1勝なら1点っていう風なのを考えてるよ。あとは関西若手チーム、ベテランチーム、奨励会チームを考えてるんだ」
「なるほど……俺はそれ、参加しますよ」
「……私も」
「そうかそうか、それはよかった。また詳細が決まったら連絡するから」
 橘さんはよかったよかったと言いながら部屋を後にした。いつも本当に楽しそうである。
「辻村、断るかと思った」
「なんでですか」
「川崎君と組みたくないんじゃないかって」
「そんなことないですよ。皆川さんこそ、どうなのかなって」
「……別に、楽しそうだからいいんじゃない」
 単純に棋力で選ぶなら、木田さんを始め強い人は何人かいる。 皆川さんだってそんなことはわかっているはずだ。それでも、受けた。だからきっと、前向きな気持ちはあるはずだ。そして俺が予想するに、奨励会チームの女性枠は――
「じゃあ、いつ始まるかわかりませんが、その時は頑張りましょうね」
「もちろん」
 雑誌にとっては企画の一つにすぎないだろう。けれども俺たちにとっては、こういうものが大きな転機になるのはよくあることだ。
 これから、俺たちの力関係に何かが起こる。この波を、うまく引き寄せなければならない。
 盤上に散らばった駒を、並べていく。しばらくして、皆川さんも駒を並べ始める。こうして、前進していけばいい。