閉じる


【story 1】Baby lattle - 目次

 時計の合唱隊が演奏をし始めた。アイネ・クライネ・ナハトムジークの単音オルゴールなんだけど、何か中途半端に希望を与えるような曲調が私は大嫌いだった。中途半端な希望がどれだけ人を虚しくさせると思ってんのさ…そう思うと私の意思とは関係なく右手が震えだした。
 またなの……左手で右手首を半ば無理矢理抑えつけて、震えが止まるの待った。こうしていると多少ではあるけど、落ち着ける。血管から伝わる脈拍がとても心地良い。こんなことでしか生きてるということを実感できない自分に心底嫌気をさしながらも、ゆっくり脈打つ感覚に酔いしれる自分。
 しばらくすると何事もなかったかのように震えは治まった。いつものことだ。些細なことに勝手に疑問を抱いては勝手に被害妄想に入り込んでは勝手に自分自身の不安を煽り、
勝手に体の震えを起こす──こんな堂々巡りをどうして私は毎日起こさなければならない…?
 そう考えだした途端、床に置きっぱなしにしてあったペットボトルのコーラを拾っては口に付けた。冷たいキレもなく、炭酸も抜けきっていて私がいつも飲んでいるコーラのイメージとはかなりかけ離れていた。が、あんな妄想を断ち切るにはあんなに甘ったるい味でもマシに思えた。
 ふと、ベッドの上にある時計に視線が入る。デジタルの液晶を見えにくかったが、何とか【14:30】と見えた。…そっか。最近時間なんて気にしたことがなかった。
 いつのものかわからないコンビニのレシートや脱ぎっぱなしの服も空っぽのペットボトルも一緒に散乱している仄暗い部屋。テレビはもちろん、CDコンポすらつけはしない。光も音も遮断した空間こそが私の『日常』だった。
 喉が渇いた…飲み物が都合良く転がってるはずはない。気だるい体を起こして冷蔵庫へと向かう。たった5・6歩のことなのに、それすら面倒くさい。何か残ってただろうか…そう思いながら冷蔵庫のドアを開けてみたが、中に入っていたのは使いさしのマーガリンと、いつのものかわからない卵が2個しか入ってなかった。
 「買いに行くしかないか…」半ば諦めに近いぼやきをすると、床に置きっ放しにしている服の山から着替えられそうなものを見繕い、着替えた。──あれっ、財布はどこにあったっけ…?
 ゴミとかで散乱しきった机の下から財布を見つけ出すと、足早に部屋を出た。何日ぶりかわかんないくらい久々の外は眩しかった。おまけに風も肌をパリパリに乾燥させるかのように冷たかった。今は4月の初めなのに、寒すぎる…セーターとジーンズだけというのは失敗だった、と言わざるを得なかった。
 コンビニはここから10分もかからない所にある。周りを見渡してもガキのくせに厚化粧バッチリでケータイの画面しか見ていない女子高生や今からスーパーへ買い物に向かうと思うおばさんのくらいしかない。比較的静かな町でいいのだが、所々に物足りなさを感じたりする──こんな化粧すらしない、女を捨てたような女に言われたくはないだろうけど。 コンビニへ行く途中に公園がある。私が小さい頃からある古い公園だが、私が外で唯一好きな場所である。ベンチしかない公園の真ん中に大きな桜の木があるのだが、まだ七分咲きといった感じで、まだつぼみのままのものも見えていた。フェンス越しに満開までもうすぐだなあ…と樹を遠目に見ていると、ベビーカーを押したのをお母さんらしい女性を見かけた。
 赤ん坊でもあやしているのだろうか。ゆっくりとベビーカーを前後に揺らしている。赤ん坊の姿はここからはよく見えないけど、お母さんの表情は春の陽気さに似合う穏やかな表情かおだった。カメラを持っていたら思わず撮りたくなるような画だった。
 しかし、その画も長くは続かなかった。お母さんはベビーカーを押していた手を止めると、ベビーカーの外ポケットからガラガラを取り出した。そして、ゆっくりと──
 
 カラン、カラン…
 
 お母さんはあの穏やかな表情のまま、ベビーカーの中の赤ん坊へ向けてガラガラをゆっくりと揺らし、その音色を聴かせてあげた。
 
 カラカラカラ…
 
 カラーン、カラカラ、カラーン…
 
 早く短い音色、ゆっくりと長い音色──いろんな音が交差する。私はその光景を食い入るように見ていた。自分が1~2歳の頃の記憶なんかほとんどあるわけもないのに、ここ最近すっかり忘れていた『懐かしい』感じ。ぎこちないけど、癒やされる音色。
 
──なんかいいな…
 
 私が童心に戻りかけてた時、お母さんはガラガラを振るのを止め、揺らすのも止めたベビーカーの外ポケットにしまいこんだ。赤ん坊はスヤスヤと眠っているようだった。
 終わっちゃった…そう思うと寂しくなってきた。ガラガラの音に癒やされた赤ん坊と私。でも、赤ん坊は気持ちよく眠れているのに、私は癒やされた後に空白を作られたような──。
 大人って嫌だな…赤ん坊だったら与えられたものに素直に好き嫌いを、笑ったり泣いたりすることで露わにできるのに、大人はそれが許されない。もし私がガラガラで癒やされたなんて他の大人が聞いたら鼻で笑われるのがオチだろう。何か装飾されたモノでないと良いモノと認めてくんない…
 私はそんな五線譜を何重で書かないと表現できない音よりも、ガラガラのシンプルな音色が好きだった。手作りじゃないと出せないのに、無垢で手つかずでしかも同じ音色は二度と出せない──
 私があれこれ思いを馳せてながら桜の木を見ているとあのお母さんと赤ん坊はすでに帰っていた…できたらもう少しあのガラガラの音を聞きたかった。
 いい音に巡り会えたな…それだけでも今日は良い日だったな──こんなことを思ったのは本当に久々だった。じゃ、ジュースでも買おうか──そう思った途端、私の肩に一枚の桜の花びらがそっとかかった。

この本の内容は以上です。


読者登録

零々さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について