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序章 佐古、階段をのぼる

  本を作って、書店に流通させるのが出版社の仕事だ。ただそれだけのことなのに、なぜか仰々しい社名を背表紙に刻印する版元がおおい。
 かつて、言葉を本にまとめ公にする事は特別な所作であり、誰にでも可能という訳ではなく、選ばれた人のみが可能だった。また、一度本にしてしまえば、それを世間から消し去ることは難しく、痕跡が残ることを覚悟しなければならなかった。
 だからこそ本を作るために、人を見つけ、価値を見つけ、紙上に刷り、公に報せることを専門にする職が必要だった。それが編集者だ。ただし、編集者という存在はよくも悪しくも黒子である。この黒子を束ねるのが、編集長だったり、発行人だったりするのだが、いずれにしても著名人と違い、業界内で多少名前が知れ渡ったとしても、一般には無名であり、長となっても黒子の親玉ぐらいの存在でしかない。  とどのつまり、出版社の社名が重々しく威厳に満ちているのは、編集者を代表して、そこに編まれる情報の価値を保証する、重石のようなものであった。

 社名ばかりではない、編集者たちが集う、その箱にも意匠があった。
 佐古俊夫の目の前にある老舗出版社のこのビルは、表通りから二階まで階段を渡し、道ゆく人を見下ろすようにエントランスを建てつけていた。小規模なビルであったが、凝った設計であり、建築そのものまでもが文化的な価値を主張していた。
「ここが、そうなのか」
犯人の居所をつきとめた探偵のようにビルに掲げられた社名の看板を確かめ、佐古は緊張を振り払って勢いよく階段を駆けあがった。この日、佐古は入社試験を受けにきたのだった。
 ところが、階段を上ってみると受付がない。ホールの目の前は葡萄色のエレベーターで、左右にはオフィスに続く灰色の鉄扉があるだけだ。
「あの、入社面接を受けにきました佐古ともうしますが、受付はこちらでしょうか?」
右手の扉の奥に、小窓が見えた。壁沿いの廊下にはいくつか椅子と丸テーブルが並んでいる。
「ああ、受付は一階です。階段を降りて左側です」
親切そうな中年の女性が応対に出てくれて、少しホッとした。佐古が覗き込んだのは営業部の窓口であり、書店を通さず直接本を買いに来る読者の注文を受けるところだった。
 言われてみれば迷う余地はなかったのだが、正面玄関の前方ではなく、向かって右横に別室として囲われるようにある受付を、初訪問で緊張しきっていた佐古は通りすぎてしまったのだ。
 つまりは、少々おっちょこちょいで小度胸なありふれた青年、それが20代前半の佐古だった。
 ただ、後からわかったのだが、受付を間違える来客は、少なくなかった。それもそのはず、受付がある棟は、ベストセラーが続いて社業が隆盛なときに増築された別棟で、本棟からの導線がぎこちなかった。建ててから30年以上たっているビルの構造は古く、オフィスとしては使いにくいものになっていた。

作者註

序章、まだ続きます。もうちょっと書き足します。

第一章 佐古、出版部コミック課に配属される

 自分はいったい、何者で何をしようとしているのだろう。
 さしたる志もなく、計画もなく、ただ目のまえの毎日を平凡に生きる。いや、決して平凡に生きたいと願っていたわけではなかったが、手をのばしてさぐってみても、なにも手ごたえを返してくれるものはない、そんな不安定な現実の中に佐古はいた。

 それでも、生きてはいける。

 佐古が大学生のとき、父親は建設会社のサラリーマンとして収入があった。贅沢をする余裕などないサラリーマン家庭ではあったが、子どもの一人として、家計に加えてもらうぐらいはできた。日銭を稼ぐために、日々を費やす必要はなかった。

 父親は自分と同じように、佐古がサラリーマンになることすすめていた。

 「安定した大企業に入るためには、有名大学に入らなければならない」

高校生のころ、自分の進むべき方向を見定めようとしていた佐古が父親からうけたアドバイスは単純だった。

 「学歴、学閥で成り立っているのが社会だ」

佐古自身、何になりたいのかははっきりしなかったので、何かを達成しようにも大学受験の点数以外に目に見える尺度は何ひとつみつかっていなかったし、あたえられてもいなかった 

「サラリーマンの子はサラリーマンになる」ということだけが、薄ぼんやりしながらも見えている未来像だった。

 

 


この本の内容は以上です。


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