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第五章

(1)
ゴッドフリーの言う、明日はなかった。
前日の夜、疲れ切った体にパブで多めのアルコールを飲んだせいで、真は朝方に目覚めることができなかった。昼間近くになってどうにか目が覚めたのは、異様 な暑さのせいだった。
昨日までは寒くて、いつも朝方起きだしたときには毛布にくるまるようにしていたのに、今朝はベッドから毛布が落ちてしまっているのにシーツが湿るくらいに 汗をかいている。

ぼんやりした頭で起きだし、入口のドアのところまで行くと、ドアに手紙が挟んであるのに気づいた。
ゴッドフリーからのメモだった。読んでみると、一度来たのだが、寝ているようなので川に行ってコンディションをチェックしてから戻ってくると書いてあっ た。
真はいつものようにシッティング・ルームに入ってソファに腰を下ろした。
昨日までは直ぐに暖炉に火を入れないと寒くてたまらなかったのに、この日はまるでまた夏が戻ってきたような暑さだった。
体にはまだ昨夜のアルコールが残っていて、何かをするという意志の力よりも強い力で、ここにこうして座っていることを真に選ばせていた。

しばらく真はそうしていたが、思い出したように立ち上がると、シャワー・ルームの方に向かって、ふらふらと歩き始めた。

最初にそれを発見したのはゴッドフリーだった。
ゴッドフリーは、その日の昼間、川にいた。
起こしても起きてこない真のために、最後の一日のための最もコンディションの良さそうなプールをチェックしておこうと思ったからだ。優秀なギリーである ゴッドフリーとしては、何としてでもゲストにサーモンを釣らせたいと思っていた。
そして、これは前日の報告をゴッドフリーから聞いていたトニーの指示でもあった。
トニーは、ゴッドフリーに、真に対して最も可能性のありそうなプールを提供するために、早朝にプールをチェックすることを指示していたのだ。

中流域を過ぎ、下流のプールに差しかかったときだった。
ゴッドフリーは、釣り人がプリーストでサーモンの頭を殴りつける音を耳にした。
スコットランドではキープできるサーモンを釣り上げたときには、直ぐにプリーストと呼ばれる鹿の角や金属でできたこん棒で頭を殴りつけて即死させてしま う。
プリーストというのは司祭という意味だから、引導を渡すということになるのだろうか。だが、この時間にこの辺りに釣り人が入っていることは考えられなかっ た。
数年前、夜陰に乗じて川に毒が流され、大量のサーモンが殺されるという事件があり、大きなニュースとして新聞に出たことはあったが、許可を持たない釣り人 が無断で川に入ってきたことはかつて一度もなかった。

ゴッドフリーは音のした方に歩き始めた。
すると、今度はまた別の方から同じ音が聞こえた。
ゴッドフリーは訝しみながら脚を速めた。
音のした方に向かってゴッドフリーが近づいていくにつれ、その音は数を増していった。
頭を叩きつける音がそこここの岩陰から聞こえてきていた。
そして、サーモンが暴れるような水音も。
産卵床でサーモンの雄が雌を追うとき以外に、こんな激しい水音をゴッドフリーはそれまで聞いたことがなかった。だが、こんな下流でサーモンが産卵すること もないはずだ。
ゴッドフリーが首をひねりながら視界を遮っていた大岩から顔を覗かせたとき、水しぶきを上げて何かが飛び出してきた。そしてそれはゴッドフリーの右頬をか すめ、直ぐ後ろの岩に頭からぶつかっていき、さっき聞いたのと同じ鈍い音をたてた。
それは雌のサーモンだった。
頭の辺りにシー・ライスと呼ばれる海虱の白い痕を無数につけ、腹一杯に抱卵したサーモンだった。

「おやおや、元気のいい奴がいるものだ」

と呟きながら岩に両手をかけ、体を持ち上げたゴッドフリーはその瞬間、体を凍りつかせたまま動くことができなかった。

ゴッドフリーの視界の中で、無数のサーモンが水の流れをたどることなく、水中に配置された岩に向かってノッキングを繰り返していたのだ。
さらに下流に目をやると、岸辺に向けて死のサーフ・ライディングが行われていた。
岸辺にはすでに累々たるサーモンの死骸。
その死骸の上をまだ生きているサーモンがあたかも上流に向かって泳ぎ上るような動きで跳ね回り、這い回っていた。岸辺の灌木の奥に、ゴッドフリーの気配を 感じた小動物が逃げ込むのが見えた。
狐やイタチなどの肉食動物は夜行性のはずだが、人けがないのをいいことに、この降って湧いたようなサーモンの掴み取りのチャンスを見逃しはしなかった。

「毒だ」

とゴッドフリーは咄嗟に思った。ここしばらくはなかった毒流しがまたあったのだ。しかも、こんな昼日中に堂々と。ゴッドフリーは慌てて岩を乗り越えると、 下流に向かって走った。そして、少し下流のまだ生きているサーモンを川に戻し始めた。だが、いくら必死になってゴッドフリーが頑張ってみたところで、サー モンの数の多さには追いつかない。川に戻すスピードよりも、陸に乗り上げてくるサーモンの数の方が多すぎた。夢中になって川岸を走り回るゴッドフリーの足 元では、すでに暑さで腐敗し始めたサーモンが悪臭を放ち始めていた。何尾目かのサーモンを取り押さえようとしたとき、それは両手の中で身をくねらせると ゴッドフリーの分厚い胸に飛びついてきた。それを払い落とし、テイルを右手でしっかりと握り左手で頭を押さえ込んだとき、ゴッドフリーは小さく叫んでし まった。

「オー・マイ・ゴッド!眼がない!」




(2)
頭の部分には、海から戻ってきたばかりであることを示すシー・ライスがたっぷりと付いていた。

鼻の部分は繰り返した岩へのノッキングで傷つき、鼻の穴は潰れてしまっていた。そして、眼の回りには白い脂肪状のものが分厚く付着し、眼球が欠落してい た。
毒はすでに回ってしまっていた。
ゴッドフリーの膝元にまた別のサーモンが飛びついてきた。水晶体と水晶液を眼孔から溢れさせ、鼻孔から頭部にかけての皮と肉の一部とが剥がれ落ち、頭部は 真っ白に変色していた。
視線を上げると、後から後からサーモンが死骸を乗り越えて陸に這い上がってくるのが見えた。毒によって鼻と眼をやられて方向感覚を失ってしまっているの だった。
せっかく産卵のために遡上してきたというのに、途中、何処か河口の辺りで毒流しに遇ったに違いなかった。

ゴッドフリーは、近くの石を取り上げると、サーモンの頭に打ちつけた。
いつもの手応えはなかった。
サーモンの頭は、透明な飛沫を上げてゴッドフリーが打ち下ろした石をめり込ませた。 それでもゴッドフリーはその頭めがけて何度も何度も石を打ちつけた。 そのサーモンはテイルを震わせると、口を大きく開けて息絶えた。

何尾目かのサーモンの頭をそうして石で打ち砕いたとき、ゴッドフリーは両手が熱を帯びているのを感じた。
スコティッシュらしくごつごつと節くれだった自分の両手をそっと開いて見ると、両掌はまるで漂白剤で脱色されたような白い斑点が所々にできていた。
時間が経つに連れ、両掌はますます熱を帯びてくるようだった。 じっと見つめていると、白い斑点が隣の斑点とつながり、両掌一杯に広がっていこうとしているのが分かった。そして、斑点は、見る間に水泡状のものに変化し ていった。

「毒じゃない、これは。毒ならサーモンは水面に浮かんでくるだけだ。それに、毒流しの連中ならサーモンが売れなくなるような毒を使ったりはしないはずだ」

両手の熱に耐えきれなくなったゴッドフリーは立ち上がって川に向かって走った。
サーモンの死骸に脚を取られながら川岸に向かって走り、泳ぎ上ってくるサーモンを避けながら岸辺で手を洗った。
何度も何度も両手をすり合わせ、生まれてこの方やったことのないくらいに丁寧に手を洗った。
だが、両掌の白い斑点は一向に消えなかった。
消えないばかりか、川の水に触れた両手首から下の部分が、両掌と同じように白く変色していった。

変色した部分は掌と同じようにだんだんと熱を帯びはじめ、見る間に水泡状のものが幾つもできた。
水泡状のものは直ぐに腫れ上がり、軽く押しただけで中から透明な液体が溢れ出た。
ゴッドフリーは悲鳴を上げた。
真夏を思わせる太陽の光を受けて輝く灌木の間、サーモンの腐臭溢れる、水をなくした川の岸辺に、ゴッドフリーの大声が響き渡った。

ゴッドフリーはエディンバラの病院に入院することになった。
眼のないサーモンを最初に発見した真も同時に診察を受けることになった。診察の結果はただの裂傷だった。
結局あのサーモンを釣り上げることができなかったことが真にとっては幸いしたことになる。ゴッドフリーの傷のような症例は、今まで報告されていなかった。 最初は何らかの薬品による汚染が原因だろうという医者の話だった。
しかし、ゴッドフリーの傷の状態は一向に快復しているようには見えなかった。
一瞬にして皮膚を溶かしてしまう薬品といえば硫酸のようなものということになるが、海から遡上してきたサーモンを触っただけで一瞬の内に漂白されるという ような症例が残っているはずもなかった。

ここ数年の北海の汚染はひどく、イギリスの朝食に欠かせない、キッパーズをつくるためのニシンの水揚げは減少していたし、フィッシュ・アンド・チップス用 のオヒョウやタラなども北欧からの輸入に頼るようになっていたし、毎年のようにアオギと呼ばれる赤潮や青潮も頻繁に発生してはいた。
だが、魚の眼が消失したり、体が溶けたりしたという話は初めてのことだった。
医者は原因究明に頭を抱えていた。




(3)
数日後、真はドーンと一緒にゴッドフリーを病院に見舞った。医者から来てくれるようにと電話があったからだ。
病院に行くと、医者は真だけを別室に連れていって、数枚の写真を見せた。
その写真は、ゴッドフリーの傷の写真だった。ゴッドフリーの両肘から下は皮膚の色が真っ白に変色してしまっていた。たった数日の間に、ここまで悪化してい たのだ。
それは、ちょうど、貴婦人の白い長手袋をしているように見えた。 医者は、日本人である真に対して、ゴッドフリーの症状が放射能被曝の症状と似ているかどうかを確認したかったようだった。それは、真には初めて見る症状 だった。そのことを医者に伝えると、医者は黙ったまま真の目を見てうなづき、ゴッドフリーの傷の症状について手短かに説明すると、ゴッドフリーの病室に案 内した。

ガラス張りの部屋にゴッドフリーは隔離されていた。
両手には包帯が巻かれ、天井から吊り下げられていた。
病室には腐臭が漂っているように思えた。
ゴッドフリーは真の顔を見ると笑いかけ、両手を上げて照れ隠しをするような仕種を見せた。
医者は銀色の衣服に身を包むと、病室に入っていってゴッドフリーの包帯を解いた。
真は笑いかけるゴッドフリーの眼からその方向に視線を移すのにためらいを感じた。

そこには、写真で見たのと同じ、白い長手袋をしたゴッドフリーの両手があった。
病室に立ち込めているだろう薬品の臭いに混じって、ゴッドフリーの傷が発しているだろう微かな腐臭を、真はそのとき鼻孔に感じた。真は、喉の左右から滲み 出してくる酸っぱい液体を飲み込んだ。だが、直ぐに口の中一杯に込み上げてくるものが満たした。
思わず口に当てた右手の指の間から、黄色い液体が溢れ出てきて病室の床に滴り落ちた。真が上目遣いにガラス越しにゴッドフリーの方を見ると、真に向かって 微笑んでいるのが見えた。

百三十年のサーモン・リバーの歴史が終わろうとしていた。
トニーがこの川の八代目のオーナーになってから、この川に上るサーモンもシー・トラウトも少しずつだがその数を増していっていた。
そして、愛情を込めてこの川をデザインしていったことによって、サーモン・フィッシャーたちの間でも評価が高まり、有数のサーモン・リバーとしての名声を 獲得しつつあった矢先の出来事だった。
眼のないサーモンは、トニーの川だけでなく、リバー・スペイ、リバー・テイ、リバー・ディー、リバー・ツイードにも上っていた。
スコットランドだけではなく、アメリカの東海岸でもそれは確認された。
サーモン・リバーが消滅しようとしていた。
アトランティック・サーモンがこの地球上からその姿を消そうとしていた。
大地を焦がすように照りつけていた真夏のような太陽はまたも厚い雲に覆われ、気温は急激に低下し、その雲の間からもれる数条の光だけが地上に届いていた。 雨はあれ以来降らなかったが、すでにハイ・ランドは初雪に覆われていた。
ゴッドフリーが入院してからすでに一週間が経っていた。

時間の経過は女性をして現実的な対応に向かわせる。
この一週間の間に、ドーンは冷静に事態を見極めていた。
命に別状はない。
最悪でも、両手首を切断するだけで助かる。
ドーンはそう読んでいた。
女性にとっての命の意味とは、どんな形であったとしても、生きている状態にあるということなのだ。まして、最愛の夫であるゴッドフリーとの間に育まれた愛 によって、自分の胎内にもう一つの生命を宿しているドーンにとっては、ゴッドフリーが生きて存在し続けることを望まないはずはなかった。

ゴッドフリーの症状はゆっくりだが快復していった。
そして、サーモン・リバーに対する施策は迅速に決定された。
全てのサーモン・リバーは河口を封鎖され、コンクリートで固められることになった。




(4)
いよいよコンクリート工事が開始されるという前日、ゴッドフリーは退院を許されて戻ってきた。
ゴッドフリーの退院を待ちわびていたトニーは、真と、二人のリバー・キーパーとゴッドフリーにその日の夜、ロッドを持って正装で川に集まるように言った。
真は両手の使えないゴッドフリーの代わりにゴッドフリーの車を運転して川に向かった。
集合場所は、トニーズ・ストリーム。
このプールだけは昔から名前のついていなかったところへトニーが自分で名前をつけたのだ。
このプールだけは、百三十年の歴史の中でもたったの一尾もサーモンが釣り上げられたことがないという、歴史的なプールだった。それもそのはずで、このプー ルはトニーの川の中でも最も浅く、釣り人がここを渡って川の反対側に出るための通り道にしていたのだった。
名前がついていないのもうなづける。だが、トニーがジョークとして、誰が釣ってもトニーのように釣れる凄いプールというつもりでつけた名前なのだ。

真とゴッドフリーが車から降りると、プールにはもう全員が揃っていた。
川の両岸に立っている灌木の向こうに、厚い雲から抜け出した夕日が沈み始めていた。暮れなずむ夕日は、細い線状に水平に延びた空を真紅に染め、雲に残照を 投げかけ、両岸の木々を黒くシルエットに浮かび上がらせ、流れの途絶えかけた川岸を同じ色に染め上げていった。
真が初めてシー・トラウトを掛けたいつかの夜のように、大きな月が右岸の灌木の間から昇り始めようとしていた。
トニー、真、ゴッドフリー、そして二人のリバー・キーパーの五人は、ちょうど二つの流れが合流するプールの辺りに下流を向いて腰を下ろした。 トニーは黙ったままウィスキーをスキットルから飲んでいた。 全員が思い思いのアルコールをスキットルから黙って飲んでいた。

「ヘイ、シン。今夜はレディの夜会服でも着てくればよかったな」

ゴッドフリーが悲しいジョークを言う。

包帯に覆われたゴッドフリーの両手は、まだフライ・ロッドを握ることはできない。
だが、握ることができないのは真にとっても同じことだった。
サーモン・リバーは故障した原子力発電所のように、コンクリートで固められてしまうのだ。もう、サーモンが川を上ろうとしても上る川はなくなってしまうの だ。

サーモン・フィッシャーは釣るべき魚をなくそうとしていた。
サーモン・フィッシャーは、サーモンという、人生を賭して追いかけるに値する対象をなくそうとしていた。
サーモンが今、上るべき川を閉ざされようとしているように、真もまた、辿るべき路の行方がふっつりと断ち切られてしまったことを感じていた。

誰も何も喋らなかった。
夏の宵のこの時間は、上ってくるシー・トラウトがたてる大きな水音を聞きながら、酒をかたむけるレスト・タイムだった。
そして、オーナーのトニーにとっては、新しいアイデアを盛り込んだ川のレイアウトの構想を翌年に向けて練るための、人生において最も充実した時間であっ た。
サーモン・フィッシャーにとっては、今シーズンの釣果を顧みるとともに、来シーズンの再来を誓い、最後の別れを川に告げるときでもあった。

誰もが黙ったままスキットルを口に運び、それぞれの思いを込めてじっと川の水音に耳を傾けていた。
トニーは一息深い息をついて立ち上がると、自分のフライ・ロッドを持って川に下りて行った。残りの男たちもそれに従った。 トニーと残りの四人は岸辺に並び、川に向かってスキットルの酒を注いだ。

月の光がトニーの頬に伝う一条の流れに反射した。
月はますます高く昇り、夜空は紺色に沈み込んで行った。
頼りなげな水音をたてて、川は闇の中を流れていた。
やがて、いつの間にか水面に水滴が落ち始めた。月が出ているというのに、雨が降り始めたのだ。
雨は、川岸に佇む五人の肩に黒い染みをつくりながら雨足を速めていった。
雨は、月明かりの中に浮かぶトニーの頬の涙を覆い隠して降り続けた。
その雨は、トニーの顔も、ゴッドフリーの顔もすっかり濡らし、月明かりが反射するほどの強い雨だった。
真がゴッドフリーの顔をハンカチで拭いてやろうとしたそのとき、下流のプールで大きな水音が上がった。五人の誰もが自分の耳を疑った。

「サーモン?まさか」

誰もが心の中でそう思った。
河口はすでに厳重に魚網による封鎖が完了している。
一尾のサーモンもここまで上ってくることはできないはずだ。
五人は月明かりに透かすように、ほんの少しだけ水をたたえたトニーズ・ストリームを凝視した。

突然、少し下流の雨に叩かれて水しぶきを上げる水面が大きく割れた。その生き物は、朧月を背負い、真っ赤なスポーニング・カラーに染まった魚体を曝して ジャンプした。

間違いなかった。
間違いなくそれは、サーモンだった。
それは、五人の足元の微かな流れを遡上して産卵場所に向かおうとする雌のサーモンだった。月光に身を踊らせ、まるで一番乗りのサーモンのように、その魚は 五人の目の前でジャンプして見せたのだった。
河口の堰をくぐり抜けてここまで上ってきたサーモンがいたのだ。 その雌のサーモンは、その魚体を浮かべるには余りにも少ない、川床がむき出しになってしまった水の中を、必死に泳ぎ上って行こうとしていた。

真は咄嗟に一歩を踏み出していた。だが、それを制してトニーが言った。

「シン、行かせろ。最後の川上りだ。生かしてやれ、最後まで」

その雌のサーモンは、最後の力を振り絞り、五人の目の前を泳ぎ過ぎて行こうとしていた。
川床の石に体を擦りつける度に、魚体の一部が剥離していき、川の流れが皮と肉の一部をはぎ取っていった。川の流れはテイルを奪い、背骨の一部を露出させて いった。鰭をなくしたサーモンは、それでも、体をくねらせながら、上流の産卵場所を目指して泳ぎ上って行こうとしていた。


(完)


この本の内容は以上です。


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