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豺と鴉

小森瑞枝

 

 ときは、哀光帝の死後のこと。ところは、遥かむかしには中華、中原などと呼ばれていた地域――

 この時代、世は大いに乱れていた。
 盗賊たちは昼夜問わず跋扈し、都から人里離れた奥地まで、様々なところに根城を構えて我が物顔に振舞った。隙を窺って他人の持ち物を盗む掏りから、大きな徒党を組んで村々を襲う匪賊、美人局や山賊、海賊など数多くの悪党が各地に現れ、その所業は広く人口に膾炙した。
 さて、彼ら盗賊の中でも、一際その鮮やかな手口と残忍さで名高いのが、豺と鴉という通称で知られている盗賊だった。その名の通り豺は山犬のごとき冷酷さと狡猾さで知られ、鴉はその賢しさで知られていた。二人の所業はたちまちのうちに尾鰭がついて人々に伝わり、やがて彼らには、信じがたい不思議な出来事にまつわるいくつもの伝説が付きまとった。
 これは、その二人の盗賊にまつわる物語である。



 女がひとり、暗闇のなかを歩いている。
 墨を流したような、無明の闇である。
 そのなかを、淡い色の衣を着た女の姿だけが、ほの明るく浮かんでいる。
 女は素足だった。その柔らかな足が石畳を踏むたび、闇の中に眼を射るような白さがひらめく。
 女が歩いているのは、夜も更けた都の大路である。眠ることなき都と呼ばれるこの永京ではあっても、昼夜なく賑わしいのは一部のことだった。
 街はひっそりと、眠りについていた。
 辺りを包むのは、音さえ呑みこむような真の闇である。
 ひとり大路を歩く女の姿に鋭い誰何の声をあげる者も、その物狂おしい姿を見咎める者もいない。
 女は走っているようにも、歩いているようにも見えた。夢の中で足を動かすように、走っていても歩いていても、女の背は彼からつかず離れずの距離を保っている。
 韋達が女の姿を見かけたのは、北の宮門の傍の橋であった。それからずっと、女の白い背が月光よりも白く、彼の目の前に浮かび上がっている。
 彼は、知らず知らずのうちに女を追っていた。
 闇のなか、彼は女の背を追って歩いてゆく。
 視界に入るのは黒々とした闇と、女の白い姿のみである。だんだんと頭の芯がぼうっとなり、いま自分がどこを歩いているのかすら、夢のように覚束ないものとなっていく。
 女はどこに行くのだろうと、彼はぼんやり考えた。はじめは酒楼の立ち並ぶ西の大路に向かう妓女のたぐいだろうと思ったが、おそらくそれは違うだろうと思っていた。どこかの邸の女なのだろうか。いや、良家の女ならば、夜更けにただひとりで出歩くはずがない。
 ならば、女は一体誰なのか。
 彼は、女が本当は彼をどこかに導こうとしているのではないか、と思いはじめた。おそらく女は化生のもので、彼をどこか恐ろしい場所におびき寄せようとしているに違いない。 地獄だろうか。それともより恐ろしい異界のどこかであろうか。
 そう思ってなお、彼は女を追うのを止められなかった。目の前にある女の背中に比べれば、今までの自分の人生はすべてただの夢のようだった。本当は女の白い背を、どこともつかぬ闇の中に永遠に追いかけることだけが、彼の存在のすべてではなかったのだろうか?
 彼は、暗い産道のような道をただひたすらに駆け抜ける。
 頭の片隅では、これは夢に違いないと思っていた。足の痛みもねっとりと肌に絡みつくような闇の質感もただの幻で、目が覚めれば消えてしまうに違いない。
 ふと、女が足を止めた。
 彼はそっと立ち止まり、あらためて女の姿を眺めた。
 女の、なまめかしいとさえ思えた淡い色合いの薄衣は、よくよく見ればあちこち裂け破れ、その間からは白い肌がちらちらと覗いていた。豊かな黒髪は簪も付けずに乱れ、女の玉を彫ったようなうなじを覆っている。
 その柳のような細腰には、青い佩玉が絹の紐の先に垂れ下がっていた。
 見れば女の素足は石畳で傷つき、血が滲み出している。
 ふと、彼は女がまだ若いのではないかと感じた。何か痛々しい理由があって、このような夜更けに、常軌を逸した振る舞いをするに至ったのではないだろうか。
「もし……」
 声を聞いたのか、女がおもむろに振り返る。
 女の顔が、ゆっくりと彼に向けられた。

「それから先なのだが、実のところよく覚えていないのだ。女の顔も、全く思い出せぬ」
 そう云うと、韋達は話を終えた。
 隣で彼の話を聞いていた友が、ふむ、と唸った。
「それで、どうしたのだ?」
「よく覚えていない。おそらく、その場から一目散に逃げたのだと思うが」
「それはいつの話だ?」
「それが、わからんのだ。どんなに思い返してみても、いつそれを経験したとはっきり云うことが出来ないのだ、不思議なことに。それともあれは夢だとか、前世の記憶というものなのだろうか。自分の記憶とも思えぬのだが」
 韋達はそう云うと、盃の酒を飲み干した。店主に合図して、新しい酒瓶を持ってこさせる。
「旨いな」
 何が、ともなしに友は呟いた。
 酒は、友の言うとおりなかなかだった。黄酒特有の匂いがぷんと鼻につき、飲み干すと舌の上にほんのりと甘みが残る。このようなみすぼらしい店にしては、と彼は酒楼を見回した。
 店は、数ある永京の酒楼のなかではかなり手狭なほうだった。酒楼というと、彼は卓を置いた部屋をいくつも用意して、それぞれを客にあてがうものを想像していたが、ここではそこそこの広さの部屋に無造作に卓と椅子をいくつか置いただけである。彼と友は長い卓の端に並んで座り、舐めるように酒を飲んでいた。
 韋達の後ろの卓では、二人連れの商人が卓に座って酒を飲んでいる。また入り口付近の卓では、漁師であるのだろうか、日に焼けた赤黒い肌の男がひとりで羹の椀を啜っていた。他にも数人、店の中にいるらしいが、薄暗い明かりの中では定かではない。
 店主らしき老人は、ひとりで黙々と酒や小菜を載せた盆を手に、卓の間を歩き回っていた。どうやら、店を切り盛りしているのはこの老人だけらしい。小女の一人でも雇えばいいのに、と彼は思ったが、その余裕もないのかもしれなかった。
 いや、この店の常連というわけでもない自分が、わざわざ心配する必要などないのだろう。そもそも友に導かれてここを覗いたのは、今日がはじめてである。しかし、と彼は眉をよせた。なぜ酒にうるさいはずの友は、あえてこの店を選んだのだろうか。
 
「久しいな、韋達」
 友が、彼にそう声を掛けてきたのは、つい先程のことだった。
 彼が呼び止められたのは、夕闇迫る、都の西の大路の真中である。
 都を貫く二つの大路の一方であるこの西の大路は、朝早くには多くの商人たちが行き交い、香料、琥珀、玉石、金銀、絹布や衣、草紙、薬草、野菜や家畜に至るまで多くのものが取引されている市であったが、今は軒を連ねた酒楼に多くの酔客と女たちが群がっていた。
 酔客ばかりと言っても、大路を歩く人々は上つ方から下つ方までさまざまであった。丹塗りの刀鞘を腰に帯びた貴族の子弟から無骨な兵士、商人、漁師、農夫、乞食や物売り、着飾った芸妓、黒い衣の僧侶や道士にいたるまで、実に様々な人種が街路に溢れていた。ちらほらと色の黒い天竺の異人や、蓬莱島から来た仙人のごとき容貌の老人さえ、彼らの傍らを何事もないかのように歩いている。
 韋達もまた、そのような酔客の集まる酒楼を求めてこの路を歩いていた。
「おお。誰かと思えば、友ではないか」
 そろそろ薄青い闇が、空を覆う頃合いである。西の空に没しかけた太陽の、熟れきった果実のような光が、道行く人の顔に複雑な陰影を投げかけていた。彼を呼び止めた人の顔は影に隠れてよく見えなかったが、その特徴的なまでの背の高さに、彼はそれが自らの友であると悟った。
「たしか、お主と最後に会ったのは、三月ほど前であろうか」
 韋達がそう云うと、友は頷いた。
「うむ。息災か」
「ああ」
「商いのほうはどうなのだ?」
 友の衒いのない問いに、彼は苦笑した。
「ぼちぼち、と云ったところか。損をしてもいないし、さりとて儲かっているわけでもない」
 彼の生業は、各地を旅して塩を売る商人であった。沿岸の都市で塩を買い付け、内陸の村や町を巡って塩を売る。塩の採れない内陸地でも塩なしに生活することはできないので、内陸の村々に持っていけばそれだけで売れるという、手堅い商売だった。ただし、塩の値段はどこでも同じであることが定められていたし、そもそも国からの許可がなければ売ることが出来ぬ。韋達の父は、その特許を買い取って幾許かの塩を売る権利を得たのだ。父が死ぬと、韋達はそれを受け継いで自らの生業とした。
「永京には、塩の買い付けに来たのか?」
「そんなところだ」
 友がどこへともなく歩き出したので、それに歩調をあわせながら彼は答えた。何も云わなくても、暗黙のうちにこれから酒楼に行くのだと判っていた。
 二人が知り合ったのも、酒楼でのことだった。飲んで話をしていくうちにだんだんと気が合うことがわかり、それからどちらから云うともなく示し合わせたように同じ時間、同じ酒楼に入って共に飲むようになった。今度旨い酒楼を見つけたとどちらかが言えば、二人でそこに入っていくこともしばしばである。
「お主のほうは、どうなのだ?」
 韋達がそう云うと、友は首を振った。
「まあまあかな」
 彼は、友が普段何をしているか全く知らなかった。さりげなく水を向けても、友は曖昧に応えるのみである。何か云いたくないことでもあるのだろうか、と考えたが、ただの飲み仲間である男をそこまで詮索するのも面倒なことである。
 二人は、酒楼の朱や藍や緑に塗られた窓や扉をちらちらと覗きつつ、漫然と歩を進めた。
 暗がりに開け放たれた窓や扉からは、華やかな光と音曲が溢れ出していた。またどこかの歌妓が、楼の上で月琴を奏でているのだろうかという調べが、薄暮の中をどこからともなく響いている。艶かしい妓女たちの軽羅やその下の玉肌が、ちらりと窓から垣間見えるのも心をそそった。
「最近、都は騒がしいな」
 ここなどよいのではないか、と酒楼のひとつを覗きこんでいた韋達は、友の言葉にちらりと振り返り、うむ、と同意するように唸った。
「易者などは世も末だなどと云っておる」
「なに、彼らがそうやって世を嘆くのはいつものことだろう」
 友の言葉に、彼は深く同意した。
「そうだなあ。とある易者などはたびたびこの世が終わるとまで云っているが、それで世界が終わったためしなどないしな」
「易者や占い師はいつも世が終わるだのなんだのと、大げさに騒ぎ立てるものだ。先日帝が崩御されたときも、彼らは帝の死と共に世が終わるだのと云っていたではないか。だが結局は、まだ天変地異のひとつも起こってはいない。あまり気にすることはなかろう。
 それより世も末といえば、最近は都の治安も悪いようだ。豺や鴉などと名乗る盗賊も跋扈しているようだが、大事はないか?」
「ああ。幸いそのような手合いに襲われたことはない。だがその盗賊とやら、一体いかなる者なのだ?」
「噂によれば、二人組の盗賊で、極めて狡猾残忍だと云われている。奇策で人を陥れ、金品をいつの間にか奪うこともあれば、屋敷を襲って中に住まう者を皆殺しにすることも厭わないそうだ。
 最近も一人この都で、身ぐるみ剥がれて殺されたらしい」
「それは恐ろしい」
 そうこう云っているうちに、彼らは路地を入ったところにひっそりと佇む、ほんの小さな酒楼の前に立っていた。今しも崩れかけそうな酒楼の戸口は、傷だらけの黒ずんだ木の扉を構えているのみであり、屋号も何もない。小さな窓から洩れる光のみが、ここが夜の間ずっと開いている酒楼であることを示していた。
「ここなのか」
 彼が思わずそう呟くと、友は彼をからかうような目で見た。
「そうだ。狭い店は嫌か?」
「そんなことはない」
 二人は、年季の入った扉を開けて酒楼に足を踏み入れた。

 そうだ。そのようにしてここに来たのだと、韋達はまるで夢から覚めた人間のような不思議な気持ちで狭い酒楼の中を見渡した。
 さっき入って酒を飲みはじめたばかりなのに、不思議とずっと、ここで時を過ごしていたような感覚さえある。はて、どれくらい時が経ったのかと思って目の前の小さな窓を見上げたが、そこからは窈窈たる闇が見えるばかりだ。
 すっかり暗くなってしまったな、と思った。おそらくまだ宵の口であろうが、賑やかな大路を離れたこの路地からは、歌妓の爪弾く楽の音ひとつ、酔客の笑い声ひとつ聞こえない。そのためもう誰もが眠りについた、深々とした夜更けのようにも思われる。
「それほど昔の話なのか」
 友の問いに、彼はううむと唸った。
「いや、昔の記憶のようにも思えないのだ。むしろ、つい先程経験したようでもある」
「では昨日のことか」
「それはあるまい。昨日は宿に泊まって、夜は室から一歩も出ていないはずだ」
「ふうん……」
 友は酒を口に含んだまま、考えこむように俯いた。
 韋達はふと、本当に自分は昨夜、一歩も外に出ていないのだろうかと考えた。昨日のことはまるで夢のようで、あまりよく覚えてはいない。だが外に出たという記憶もない以上、旅籠で夜を過ごしていたのだろう。
「不思議だな」
「何が不思議なのだ」
「昨日のことが、まるで遠い過去の記憶のようにぼんやりとしか思い出せないのだ。どこで何をしていたのか、誰と会ったのか……」
「だが、昨夜は宿に泊まっていたのだろう?」
「それは覚えている」
 彼は、都城の入り口のひとつである応安門を潜り、人通りの多い道をまっすぐ歩いて、市のそばの宿に向かっていったはずだ。宿の主人は五十がらみの肥り肉の男で、前金を渡したその掌の、子供のようにぽってりと肉厚なふくらみが、彼の記憶にはまだ鮮やかに残っている。
 よかった。まだ何もかも忘れたわけではないのだ。
「最近物忘れがひどくて、適わんな」
 韋達は苦笑して冗談交じりに云ったのだが、友は真面目な顔でそれに応えた。
「歳を経れば、みなそう云うものだ」
「俺はまだ歳ではない」
 彼はむっとした。冗談の通じない奴である。
 二人はふと黙って瓶子の酒を盃に注ぎ、そっと啜った。友は、不意にあっと声を上げた。
「困った。俺もお主と同じくらい、物覚えが悪くなっているようだ」
「どういうことだ」
「今ふっと、かつて路すがら、女の死体を見たことを思い出したのだ。おそらく朝、大勢の人だかりに取り囲まれていたのを見たのだと思う」
「ほう」
「素裸で、誰ぞに斬り殺されたのか血溜りの中で死んでいた。目をかっと見開いて死んでいたが、生きていればまだ若い娘だったのだろう。不思議なのは、どうしてだか俺は、その娘の顔に見覚えがあるということだ。だが、どこで会ったのかまでは思い出せぬ」
「可哀想に。最近は昼日中でも盗賊が跋扈しているからな」
 韋達は、最近都の近隣を跋扈している豺と鴉という通称の、名うての盗賊のことをふと思い返した。もしや、その娘は彼らに殺されたのではなかろうか。
 皇帝が崩御なされてから、この手の盗賊たちが大手を振って都を跋扈するようになったのだ。
「しかし、なぜ急にこのことを思い出したのだろうな」
 友は呟いた。
「死んだ女を見かけたのは、いつのことなのだ?」
「それよ。お前と同じく、女の屍を見たのがいつなのか、皆目見当がつかんのだ。まるで長い夢の中の出来事であるかのように」
「ではやはり、夢でそれを見ただけなのかも知れんな。俺とお主はそれぞれ奇妙な夢を見て、それを現実だと勘違いしたままなのだ」
 韋達がそう云うと、友は頷いた。
「かもしれぬ。だが分からぬことは、なぜ俺もお主も、ここに来るまでの記憶があやふやなのだろうということだ」
「お主も、そうなのか?」
 韋達は自分が今まで感じてきた違和感を言い当てられて、驚いた気持ちで友を見やった。
「ここでこうして酒を飲んでいるのは確かなことだ。だが、どうして自分がここに来たのだろうという記憶が、どうもはっきりしない」
 友はそう云うと、酒楼の中を不思議そうに見回した。
「まるで、今までの記憶全てが夢であるかのようだ。俺はもしかしたら、永い夢を見ていたのかもしれないな。韋達よ、お主はどうする? もし自分が本当はたった今生まれた存在であって、今まで過ごしてきたと思っていた数十年の人生全てが、ただの思い込みであったら」
 韋達は思わず苦笑した。
「お主は時折、荒唐無稽なことを考えるのだなあ。俺は郷里の両親から生まれたし、腕には幼い頃木の枝から落ちた傷が残っている。数年前にお主と酒楼で出会ったことは、お主も覚えているだろう。いかに狂人とはいえ、これら全てを無から思い込むことなど出来るはずもない」
「だから、たとえば三文文士のように乏しい想像力の神がいたとするとしよう。そやつがつい先程この世界を、何千年と続いてきたかのごとく造り上げたのだとしても、我々にはこの世界が万古の昔から続いてきたのか、それとも今さっき造り上げられたものでしかないのか、決して知ることはできないということだ。そうではないか? お主の両親についても、つい先程老いた姿のまま創造された男女に対して、誰かがお主にそのような記憶を植えつけたのだと考えることも出来る。数十年前についた傷も、いかにも数十年前についた傷のように無から創造されたのかもしれぬ。
 邯鄲の夢、というのを知っているだろう?」
「ああ」
「昔廬生という青年が、道士から枕を借りて寝ると、夢の中で彼はたちまちのうちに出世して、宰相になっては無辜の罪で投獄され、また信義を取り戻して天子の寵を得るなど運命の変転を極め、最後には幸福な往生を遂げた。
 ふと目が覚めると、煮ていた黄梁がまだ炊き上がっていない。一生を過ごしていたと思ったが、実際は黄梁が炊き上がるまでの時間にもならぬ、短い夢だったのだ。
 とまあ、こんな話なのだが、我々の生もこれと同じだ。宰相であった廬生は、己がただの夢であると気がつきはしないだろうし、夢の中に出てくる古い家は、今さっき無から生まれた物であっても、やはり古い家にしか見えぬものだ」
「まあな」
「それと同様に、この我々というのもまた、単なる夢の実体であると云われても、誰も否定は出来ないだろう」
「それはそうだが」
 しかし、友の云うことを突き詰めれば、今この酒楼で酒を飲んでいることも、いや自分が今こうして考えていることさえ、確かなことなど何もないということだ。一体自分は幻なのか。誰かが見る一片の夢でしかないのか……それを考えると、次第に頭がぐらぐらとしてくるような気がする。
 俺は一体誰なのだろうか。今まで何をしていたのだろうか。
 韋達は盃を口に運んだ。ごくりと酒を飲み干すと、香り高い酒は喉を灼きながら下っていく。これだけは、まさか幻ではあるまい。
 そうだ、このような生々しい感覚があるからには、これも夢ではあるまい。でなければ、何をして現と呼ぶというのだろうか。
 韋達が漫然とそのような思いにふけりつつ、手元にあった瓶子を掴んで盃を満たしていると、視界の隅で独り酒を飲んでいた赤黒い肌の男が身じろぎするのが見えた。
「お二人とも、実に不思議な話をしていますな」
 ざらざらとした低い声を掛けられて、韋達と友ははっと赤黒い肌の男の方に向きなおった。
「お主、我々の話を聞いていたのか」
 韋達がそう云うと、男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「聞き耳を立ててしまい、申し訳ない。だが実は私も、今脳裏から離れない不思議な体験があるのだ」
「ほう」
 二人が身を乗り出すと、男は尤と名乗り、おもむろに語り始めた。
「私がいつ、それを体験したのかは全く思いだせぬ。ただその思い出は苦しいぐらい鮮やかに、私の脳裏に居座り続けているのだ。
 記憶の中で、私は南の海で漁師をしていた……」

 水天一碧の光景である。
 遠くに黒々と見える岩がちな小島の影を除けば、空と海との他には何もない。
 茫々たる水の上を、一艘の小舟が浮かんでいる。
 古い小舟だった。
 視界がぐらつく。尤は、そのぐらぐら揺れる舟の中に乗っているのだ。
 見上げれば、ぎらつく正午の太陽が彼の頭上で真白く燃え上がっている。太陽の光は波に反射し、銀色の鱗のように煌めいて彼を取り巻いていた。
 海は、静かに凪いでいた。それはあたかも、万古の昔から永遠に凪いでいるかのようだった。
 尤は漁師である。岩だらけの小島があちこちに散らばるこの海で、素潜りをして貝や魚を採るのが生業であった。海の恵みのために飢える心配はなかったが、さりとて沿岸にある彼の村は、貧しいという他なかった。名だたる漁師町のように、豊かな漁場というほどの海でもないのだろう。
 だがこの遠浅の海で獲れる貝は、稀に美しい真珠を隠し持っていた。
 それを外の商人たちに売るのが、彼ら岩がちな沿岸の村に住む住民たちの、唯一の収入源であり夢であった。蒼ざめた月から滴り落ちる雫や麗しい人魚たちの涙にも例えられる真珠を見つければ、夢のような暮らしをすることができる――そう信じて、彼らはせっせと浅瀬に潜り、海底に転がる貝を集めては真珠を探す。だが千の貝を見つけても真珠のひとつも見つからないこともざらであり、すると漁師たちは不貞腐れて村に戻り、酒を浴びるように飲み始めるのだった。
 しかし、今日の彼は幸運だった。獲った貝のいくつかは大きな鮑などの真珠母貝であり、その中のひとつには、なんと小さな真珠が入っていたのである。
 彼は震える手で小さな真珠をつまみあげ、それを腰に提げる袋のなかに入れた。これを商人に売れば、一年は遊んで暮らせるだろう。いや、その金を持って都に上り、そこで新しい商売を始めてもいい。この貧しい漁村から抜け出そう。
 そうだ、岸に戻ろう。戻って仲間には知らせず、こっそり商人に真珠を見せよう。そう考えて彼は辺りを見回した。
 尤の目に入るのは、ただ彷彿たる水天の眺めである。遠くに小さな島がいくつか見えるだけで、普段一緒に漁をしているはずの仲間の舟も何も見つからない。
 はて、と彼は思った。貝を探しすぎて、仲間とはぐれてしまったのだろうか。
 由々しき事態であった。独りで潜水するのは危険な行為だし、最近ではこの近辺でも、盗賊たちが悪事を働いているらしい。この海で採れる真珠を狙い、漁師たちの舟を襲っているという話だった。一人で漁をしている自分など、彼らのいい獲物でしかない。
 見れば、視界の隅を見慣れぬ舟がふわふわと浮かんでいる。
 もしや、と彼は思った。あれが盗賊の舟ではあるまいか。
 彼は舟底に置いた櫂を握った。これで逃げよう。そう思って漕ぎはじめたが、舟は一向に岸辺には戻らない。
 潮の流れのせいだと気付いたときには、彼の舟はもう遠い沖合いまで流されてしまった後だった。凪いでいるかに思われた海は、実際には目に見えぬ流れを隠していたのだ。
 舟はあれよあれよといううちに、小さな岩ほどの大きさの島と島のあいだを漂った。小舟は波に高く持ち上げられ、また沈むように低く落とされ、波間に漂う一片の木の葉のようにゆらゆらと揺れた。島に衝突したらどうしようか、と彼は恐れたが、ぎりぎりのところで舟はすいと島を避ける。それはまことに奇妙な潮の流れだった。
 彼はふと、この多島海がかつては陸地だったという話を思い出した。
 その太古の陸地には壮麗な都市があり、多くの人々が住んでいた。彼らは神々のような知恵を持ち、王侯貴族さえも及びのつかない暮らしをしていたという。
 だがあるとき突然大地は陥没し、都市は海に沈んだ。
 都市の人々がどうなったかは定かではない。都市とともに海に沈んだとも、大地の陥没を予知して逃げてしまったともつかぬ。あるいは、大地が陥没するときにはもう、都市には誰も住んでいなかったのかもしれない。だが都市には住人が残した知恵と財宝が残っていると言われている。島々のどこかにある都市への入り口を探し出せば、その財宝が手に入るのだ。
 その噂を聞きつけて、多くの旅人がここを訪れた。年年歳歳、老いも若きも実に様々な旅人がこの海を訪れる。詐欺師にでたらめな地図と偽りの希望を吹き込まれた者たちがいて、長年の研究のもとに確信を持って訪れる者たちがいた。
 旅人の多くは儚い希望を胸に島々の間をむなしく彷徨い、やがて失望して帰っていく。だが、毎年幾人かは希望を捨てきることができず、一生をここで過ごすことになる。彼らは漁師となって村に住み、そこで子をなして死んだ。
 かくしてこの多島海沿いの岸辺には多くの漁村が生まれ、また年々大きくなっていくのである。事情を知らぬ者が見れば、なぜこのような醜い海が、多くの人々を惹きつけるのだろうかと不思議に思うだろう。
 思えば彼の父もまた、そのような旅人であった。
 漁村育ちの母を娶って漁師になった父は、あるとき海に潜ったまま、水面に戻ってこなかった。海底に潜み、音も立てず人を喰らう鱶に襲われたのだろうか。それとも、潜水しているうちに深みにはまって抜け出せなくなり、窒息してしまったのだろうか。
 ともあれ、彼の父は失われた夢のあかしである海のどこかで、むなしい一生を終えたのだった。あてどない夢のために一生を棒に振ったひとであった、と彼は考えた。
 尤自身は、島に隠された財宝を求めようとは思わなかった。ただ真珠を採り、金を貯めてこの島と、今までのうんざりするような人生を脱出することだけを考えていた。
 そのような物思いにふけっているうちに、舟はいつのまにか停まっていた。
 目の前に、小さな島がある。岩の塊の天辺に、青々とした草木が生えた島だった。
 舟はその島に衝突して、その動きを停めたのだった。奇跡的に、どこも破損してはいなかった。
 彼は海を眺めた。盗賊の舟は、今や遥か彼方に望む小さな影であった。
 尤はほっとした。
 島を眺めると、それは存外に大きかった。黒い小岩のような島々とは違い、この島の天辺には青々とした草木が生え、小さな白い花が咲いている。天辺へと続く岩壁はなだらかな傾斜であり、転々と足場になりそうな岩が続いていた。
 彼は誘われるように舟を降り、足場を伝って岩壁を登っていった。
 島の天辺には、たしかに数本の松と背の低い草花が繁っていた。だがそれだけの景色であり、誰かが住んでいる気配もない。
 尤はなぜだか落胆して、来た道を戻ろうとした。
 ふと、彼は目の前の岩壁に、狭い穴が開いていることに気がついた。人ひとりが辛うじて入れるくらいの大きさだろう。彼が穴に近寄って覗き込むと、茫漠たる闇が広がっているのみである。
 その闇に、ちかりと小さな青い光が灯ったような気がした。
 尤は首を穴のなかに突っ込んだ。下から吹き上がってくる冷たい風が、その顔を撫ぜた。
 彼はぞっとした。自分は今、途方もなく深い深淵の闇を覗いているのだ! もし何の考えもなく穴に入っていたら、どこともつかぬ地底へと墜落してしまっていただろう。
 この穴はどこまで続いているのだろうか。彼は魅入られるように闇を見つめた。もしや、海底に沈んだ都市への入り口とは、この穴のことではあるまいか。
 尤は父の顔を思い浮かべた。都で官吏の道を選ぶことを拒み、貧しい辺境の地で一生を費やした男。実のところ彼は今まで一度も、父の無念さに心を寄せたことはなかった。父がこの島を見つけていたら、一体何を思うだろうか。
 闇の中で、青い光がまたちかりちかりと瞬いた。
「誰かいるのか」
 彼の声は、大きな洞の中にいんいんと響いた。
――いるといえば、いる。
 小さく呟くような声だった。また、人間の喉から出たとも思えぬ奇妙な声であった。
 彼は洞のどこから、その声が響いてくるのかわからなかった。
「どこにいるのだ?」
――お前の目の前だ。
 彼はどきりとした。目の前はただ、茫洋と広がる闇ばかりである。
「ここは暗くて、よく見通せぬ」
――お前は光学的な視覚に頼っているのだな。ならば明かりをつけよう。
 ふっと、青い光が大きくなった。
 彼の目の前には、大きな金属の塔の天辺のようなものが聳え立っていた。塔のようだ、と彼が思ったのは、それが下に延々と伸びているからである。青白く光る金属の表面には、何か複雑な文様がびっしりと描かれていた。
 彼は呆然として目の前の塔を眺めた。だが、人影らしいものは見当たらない。
「お前は塔の中にいるのか?」
――塔とは何だ?
 声は不思議そうに聞き返してきた。
「俺の目の前にある、大きな建物だ」
 彼がそう云うと、不意の沈黙が訪れた。
――これが私だ。おそらくお前は私のことを建造物だと思っているだろうが、それは正しくもあり、間違ってもいる。
 尤は驚いて塔を見やった。声の言葉は、到底信じられなかった。
「どういうことだ?」
――つまり、私は機械なのだ。遥か昔に人間によって造られ、ここに置かれている。この巨大な金属の塊、それが私だ。もちろん私はただの金属塊ではなく、もっと精緻な構造のものなのだがね。
 とうてい信じがたい、嘘のような言葉であった。だが彼はなぜか、声が本当のことを喋っていると信じることが出来た。
「造られた? 何のために?」
 彼がそう訊くと、声は云った。
――お前のような原始的な存在には判らぬかもしれない。だが説明はしてみよう。
  宇宙がいかなるものであり、いかに終わるのか、という問いかけは、これまで多くの学者たちを悩ませてきた問題だ。ある者は宇宙に終わりはないと云い、またある者は宇宙はいずれ冷え切って、どんな生命も存在できぬようになるだろうと予想した。大方の予想では、宇宙は永遠に膨張し続け、その果てと同様終わりもない、というものだった。
 だがあるとき、永遠に膨張するかに見えた宇宙は、一転して収縮しはじめたのだ。宇宙の全存在がある一点めがけて引きあい、すべてがその特異点に収斂する……それが宇宙の終わりであると、誰もが認めざるを得なかった。
 問題になったのは、それがいつ、どのようにして起こるのか、ということだ。それが分かって何が出来るかは、私には分からぬ。単なる好奇心かもしれないし、あるいは人類の命運を分けることなのかもしれない。
 だが何であれ、主人はそのために人工知性である私を造ってここに置き、宇宙の終わりがいつであるかを予測するように、と命じた。程なくして主人は立ち去り、私はひとり命じられた仕事を遂行しているのだ……。
 声がとうとうと語るのを、尤はぼんやりと聞いていた。自分は、声の語る内容の半分も理解できていないのだろう。ただ夢を見ているような、不思議な気持ちで目の前の塔を眺めた。
「主人はいつ立ち去ったのだ?」
――わからぬ。私に正確な時計の機能はないからな。だが予測はとうに完成しているのだ。かなりの時間が経っているのだろう。
「主人はいつ戻ってくるのだろう」
――じきに、と云っていた。もうそろそろ帰ってきてもよい頃だろう。
 彼の耳には、機械の声がふと憧憬の色を滲ませたように聞こえた。彼は得体の知れぬ機械に同情した。
「お前はひとりなのだな」
――おそらくは。
 ふと、彼はこの機械は、海底に沈んだ都市に建てられたのではないだろうかと考えた。
「お前を造った人間とは、海に沈んだ都市の住人たちのことなのか?」
――海?
 彼が震える声で訊くと、声は不思議そうに返した。
「そうだ。ここは海の離れ小島だが、昔この一帯は陸地であったと云われている。そこには素晴らしい都市があり、沢山の人々が我々には想像もつかない暮らしをしていたのだ。だがある日突然大地は陥没し、小さな島々を残してすべて海底に沈んでしまった……」
 彼がそう説明すると、しばらくの間沈黙が生まれた。
――なんだって。
 声は、心もち動揺したようだった。
「お前は、今では海底に沈んだ都市に建てられた機械なのではないか?」
――お前の云うことが正しいならば、そうなのかもしれぬ。私は外界の様子を窺うことは出来ない。ただ私に話しかける声を認識するのみなのだ。
 声は悄然として続けた。
――道理で、主人は来ないはずだ。
「やはり、そうなのだな」
 彼は縦穴を覗いた。どこまでも続くその深淵の果てに、多くの旅人が野心を抱いた海底都市があるのだとしたら。
「もっと、明るくはできないのか? お前を伝って下に行きたいのだが」
 彼がそう云うと、塔の表面の光はより明るくなった。隅々まで照らされた縦穴を覗くと、洞は思ったより広く、そして彼と塔の間もかなりの距離があった。ここから跳んで塔にたどり着けないものか、と思ったが、この足場の悪さでは跳んでも途中でまっさかさまに墜落する可能性のほうが高かった。
 諦めるのか。彼は考えこんだ。多くの男たちの夢を。父親の無念を晴らす機会を?
――今思えば、私の予測結果など、主人にとっては無用の長物だったのかもしれぬ。おそらく人類は、ひとつの宇宙の終わりを危機とも思わぬ、高次の存在になったのだろう。
 機械の呟きに、彼はうすく笑った。
「大げさだな。彼らは大地が陥没すると共に、全員海に没してしまったのだろう。宇宙の終わりの前に、自らの都市の滅亡を予測できなかったのではないか?」
 その言葉に、機械は激しく反応した。
――それはない。彼らはお前たちのような、原始的な生物ではないのだ。あるいはいつか、主人が帰ってくる確率もないわけではない。宇宙が終わるその日までに……。
「そうか」
 強烈な徒労感が彼を襲っていた。苦労して降りた先には、どうせ大したものは残ってはいないだろう。捨てられた機械、無価値ながらくた……これが夢のあとさきなのだ。
 村に戻ろう。彼はそう心に決めた。そして真珠を売るのだ。
「そういえば、お前の予測では、宇宙はいつ終わるのだ?」
 彼は立ち去る前に、ふとそれが気になって尋ねた。
――私の計算によれば、あと十年。それまでに、主人は戻ってくるのだろうか。
「わからぬ」
 おそらく機械の主人は、二度と戻ってこないだろう。だがそれを告げることもあるまいと彼は考えた。
 彼は穴から顔を離した。燦燦と照りつける太陽の光が、おそろしく眩しい。世界はこんなにも眩しかったのだと、彼は驚いた。
――どこへ行くのだ?
「帰るのだ。おそらく、この島には二度と戻ってはこないだろう」
――そうか。
 彼は機械の呟きを背に、岩場を下って舟に戻った。吹きつける潮風の匂いが懐かしかった。洞の中で吹き上げてくる風からは、今思えば強烈な土の臭気がしていた。
 ふと、彼は腰に手をやった。腰の帯からは、真珠の入った袋が下がっているはずだった。
 だが、袋はどこにもなかった。帯からは袋を吊っていたはずの紐だけが、だらりと垂れ下がっている。
 海を眺めると、そう島から離れていないところに、一艘の見慣れぬ舟が漂っていた。
 彼ははっとした。
 やられた。彼が機械と話すのに夢中になっている間に、盗賊はこっそり彼の腰の袋を盗んでいったのだろう。
 聞いた話によれば、豺という盗賊は誰もが考えつかぬような奇策と鮮やかな手口で、人々から金品を奪っていくという。
 ではあの機械の声も、盗賊の仕掛けだったのではあるまいか――そう疑ってみれば、たしかにそれも考えられる。おそらく真珠を奪うために盗賊が仕掛けた、一席の芝居だったのだ。そうでなければ、あんな荒唐無稽な話などあるわけがない。
 すべては夢だったのだ。真珠も、機械の声も、すべてはみな。
 彼はため息をつき、岸に向かって舟を漕ぎ出した。

 男が話し終えると、酒楼の中に水を打ったような静寂が広がった。
 いつのまにか、韋達らの後ろで酒を飲んでいた商人たちも、入り口近くの席に腰を下ろして男の話を熱心に聴いていた。
「それは不思議な話だな……」
 感慨深げに友が呟くと、男は恥ずかしそうに云った。
「しかし、これがいつ頃体験した記憶なのかは全くわからんのです。もしかしたら、前世の記憶というやつであるかもしれぬ。私には海で真珠を採った覚えなどないし、そもそも南の海で漁をした覚えもない」
「そうなのか」
 韋達は顎を撫でて考えこんだ。なぜだか漁師の話の中で機械が告げた、宇宙の終わりという言葉が気になっていた。あと十年だと。
 しかし、いつから数えてあと十年なのだろうか?
 韋達は、放心した体で呟いた。
「これもまた夢なのか、それとも現の記憶なのだろうか……」
 そのとき、彼の視界の隅で何かが動いた。ふとそちらに視線をやると、今までただの暗がりだと思っていた長い卓の隅で、一人の男が身を起こしかけていた。
 男は酷く動揺した雰囲気で、きょろきょろと酒楼の中を見渡した。
「どうかしたのか?」
 彼が尋ねると、男ははっとした表情になって韋達たちに視線を合わせた。
「奇妙なことを聞いて申し訳ありませんが、ここは一体何処なのだろうか」
「ここは永京の酒楼だ。酔いがさめぬのならば、水を一杯頼んでやろう」
 韋達は、男が酔いすぎて前後不覚になってしまったのだろうと思って店主を呼び、水を出すように頼んだ。
 男は差し出された椀の水を、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「ご親切いたみいる。では私は、まだ生きていたということか……」
 感慨深げな男の言葉に、彼は違和感を覚えた。
「どういうことだ」
「不可思議な話だが、私はつい先程まで、宇宙の終わりを見ていたような気がするのだ」
 そう云うと、男は滔々と語り始めた。

 酒楼から一歩外に出ると、辺りは夜の闇に包まれていた。
 男の酔って火照った顔を、冷たい風が撫ぜる。それが心地よくて快い気分のまま、彼は家路に着いた。
 男の家は、都の門近くにある。酒楼からは一度西の大路に出て、それから角を曲がって運河に架かった大橋を渡り、まっすぐ行ったところであった。
 目を瞑っても家に帰れるぐらい、この酒楼には行きつけている。それゆえ彼は暗い路地を恐れることもなく歩いていた。最近は物騒だが、もし賊に襲われたなら、俺のような貧乏人ではなくもっと金持ちを襲えと諭せばいい。彼は酔って大きくなった気分でそう呟いた。
 ふと見ると、暗い闇のなかに誰かが立っている。
「申し……」
 そう声をかけると、人影は若い男の声で応えた。
「おお。お前も、宇宙の終わりを見に来たのか?」
 俺のことを酔っ払いだと思ってからかっているな。彼はそう思って男に云った。
「ああ、そうだ。どうせなら一緒に行かぬか?」
「勿論。私も一人で見るのは少し心淋しいと思っていたところだ。善は急げということで、すぐにでも出発しよう」
 そうまくし立てる若い男の声に、彼はふと違和感を覚えた。もしや、この男はふざけているのではなく、本気でこのようなことを云っているのだろうか? 俺は狂人に声を掛けてしまったのだろうか。宇宙の終わりとは、一体何の符号なのだろうか。
 若い男は彼を置いてすたすたと歩き始めていた。彼はえい、ままよと若い男に従って、夜の路地を進んでいった。
 闇に目が慣れると、男が実に奇妙な服装をしていることに気がついた。黒っぽい服には帯もなく、身体にぴったりした簡素な布といったふうである。衿の形も裾の形も、彼は似たようなものを見たことがなかった。足は庶民が着る胡服のようなものを履いていたが、それとも少し違っている。男の蓬髪には、冠ひとつ乗っていなかった。
 どこをどう歩いたのか、二人は真の闇の中を歩いていた。先を行く男の足どりは軽やかなものだったが、彼は次第に得体の知れない恐怖を感じはじめた。
 まっすぐ歩いていたら、もうそろそろ明かりの絶えない西の大路に出るはずである。それなのに、辺りには一筋の光明すら見えず、耳が痛いほどの静けさが彼を取り巻いていた。
「どこへ行くのだ」
 彼は恐ろしさに耐え切れず、先を行く男に訊いた。
「もう少しだ」
 その言葉を信じて歩いてゆくと、急に彼の目の前に、夥しい満天の星をたたえた夜空が広がった。
「この辺でいいだろう。のう、そこの御方。どうやって宇宙が終わるかは知っているだろう?」
 彼が知らぬと云うと、男は目を瞠って彼の顔を眺めた。
「それを知らずに宇宙の終焉を眺めるなんて、勿体無い」
 男はそう云うと、天の一角にある星ぼしの群れを指差した。
「かつて宇宙は一つの、広がりもなければ時間もない点だった。それがあるとき爆発的に膨張し、我々の住む宇宙になったのだ。宇宙はいつまでも膨張していくに見えたが、それは間違いだった。
 宇宙には膨張していく力の他に、引き合う重力というものがある。その力の釣り合いが我々の宇宙を保っていたのだが、あるときその均衡が破れ、宇宙は一転して収縮を始めたのだ」
「収縮?」
 彼の言葉に、男は頷いた。
「そうだ。宇宙は最初膨張していく様を逆回しにしたように、ある一点目がけて縮んでいき、最後にはまた広がりのない点に戻ってしまう。そして宇宙は消え、宇宙にある物質も力もすべては無に帰す」
「無に帰したものはどうなるのだ?」
 彼がそう訊くと、男は困ったように微笑んで首の後ろを掻いた。
「どうもならんよ。すべては、跡形もなく消えてしまう。宇宙はもう一度膨張を始めるかもしれない。だがそのときには、かつての宇宙の痕跡など何も残ってはいないだろう。……ほら、話している間にもう、宇宙の収縮の最終段階が始まったぞ」
 男に促されて空を見上げると、満天の星ぼしがふらふらと動きはじめていた。最初はゆっくりと、だが次第に速さを増して、天の一角目がけて寄り集まっているように見えた。
「星々が近づいて一つの塊になると、ある一点で質量が重力に打ち克てなくなるのだ。すると星は崩壊し、なにもかもを飲み込む黒い穴だけが残る」
 そう云われると確かに、寄り集まって輝きを増すかに思われた星々は、その数を次第に減らしていた。
「そして、我々の宇宙そのものもその黒い穴に飲み込まれる。何もかも、光さえもそこからは逃れられないだろう」
 彼の目の前に、黒い大きな闇が迫っていた。自分が今居る所でさえ、最後にはこの闇に飲み込まれるのだろうと彼は悟った。
 だが、自分は今、一体どこにいるのだろう?
 ついに闇が彼を覆った。
 彼は、自らの身体が激痛と共に粉微塵に引きちぎられるのを感じた。彼の血肉は粒子となるまでに引き裂かれ、どこかのある一点に飲み込まれていく。
 自分はもう死んだのだと彼は感じた。だが、身体は滅んだのにどうしてまだ、意識は残っているのだろうか。
 いまや彼の目の前に広がるのは、永遠の闇だった。これが宇宙が終わったあとの闇なのか、と彼は呆然と見渡した。隣に立っていたはずの男の姿は、もう影も形もない。
「おい。お前はどこにいる」
 彼の声は、闇の中に吸い込まれるようにか細く響いた。
 どこからともなく、声が聞こえた。
「ここだ。君の眼では、もう視えないだろう」
「ここはどこなのだ」
「これが、虚無さ」
 声は忍び笑いをしているようだった。彼の心に、途方もない寂しさが芽生えた。
「俺は死んだのか?」
「かもしれない。この虚無で生きていられる生命など、存在しないのだからな」
「では、そう云うお前は一体誰なのだ? 何故、宇宙の終わりを見ようなどとしたのだ?」
「私の祖先ははるか昔、宇宙が収縮を始めていることに気がついたのだ。彼らは研究を重ねた結果、別の宇宙に移住する方法を考え出した。そして種族を挙げて、より若い宇宙に移住したのだよ。私はその末裔だ」
「そんなことが、出来るのだろうか」
「そう、彼らは君たちには及びもつかない高度な知識を持っていたからな。それから私はこの宇宙に肉体を伴ってやって来たのではない。ある種の投影体というか、意識のある幻の姿で宇宙の終わりを観測していたのだ」
 声はそこで少し間をおき、再び話し始めた。
「何故終わりを観に来たか、と? それはおそらく、単に懐かしいからなのだろうな。誰だって、昔自分が住んでいた街が消えてしまうのを見るのは、辛いものだから」
「お前は神なのだろうか。それとも、人間もいずれはお前のような知恵を得ることが出来るのだろうか」
 彼が疑問を投げかけると、ふと沈黙が訪れた。
 ややあって、小さなため息の音がした。
「ひとつ、言い忘れていたな。我々ははるか昔にこの宇宙を捨てて新しい宇宙に向かい、そこに適応していった。だがもちろん、もろもろの進化を拒んでこの滅びゆく宇宙に留まった者たちもいる。それが、君たちの祖先なのだ」
「何だって」
 だが声は淡々と続けた。
「君たちは随分前から、滅びを選んでいたんだよ。誰にだって選択の自由はある。そして君たちはより高度な存在になる可能性を、自ら捨てたのだ」
「俺は選んでなどいない。滅びたくはない!」
 彼は声の限りに喚いた。これほどの理不尽なことはないと思った。俺は取り残されたのか。自ら未来を捨てた愚かな存在として、憐れまれていたのか。
「まあまあ、落ち着くんだ。私だって本当は、こんなことをわざわざ云いたくはないんだ。もう宇宙は終わってしまったし、君はとっくに死んでしまっているからな。私の宇宙に連れて帰ることもできない」
「俺をここで見捨てるのか」
 彼は恨みがましく云った。
 声は困ったように、それに応えた。
「私もいつまでも、ここに残ることはできないんだ。でも、宇宙の最後の瞬間に、君と話をすることが出来てよかったと思っている……多分、跡形もなく消えることも、それはそれで辛いことばかりではないだろうから」
「お前には、消えゆく俺の辛さなど分からないだろう!」
 彼はかっとなった。誰からも忘れ去られる苦しみや、自分という存在が跡形もなく消え去ってしまう恐怖を、どのように伝えたらいいだろうか? しかしこの神のような存在に、ちっぽけな彼の苦しみを伝えるすべなど全く思いつかなかった。彼は黙り込んだ。
 声は静かに云った。
「分からないな」
「分からなくていいさ」
「そうか。しかし、私はそろそろ行かなくてはいけない」
「ふん」
 沈黙が訪れた。
 もう、あの存在は行ってしまったのだろうかと彼は考えた。名前一つ聞いてはいなかった。聞けばよかった、と彼は思った。自分の名前も名乗らずに、別れてしまった。
「おおい! 戻ってきてくれ! 聞きたいことがひとつだけあるんだ!」
 だが、応えは永遠にやってこなかった。

「しかし私がはたと目覚めると、そこは永遠の虚無ではなくてこの酒楼でした。あれは夢だったのでしょうか。それとも、あれも一つの現実だったのか……」
 男はそう云って、彼の話を聞き入る聴衆を見渡した。
「しかし現実だとしたら、どうにも恐ろしい話だな」
 韋達の言葉に、友は頷いた。
「だが無意味な夢にしては筋が通りすぎている。なんとも不思議だな」
「そうですね。夢にしてはあまりに生々しい」
 男は卓から身を起こしつつそう云った。男は席を立ち、店主に勘定を払うと酒楼の戸を開けた。
「それではお暇いたします」
 男はそう言って戸を閉めると、ふらつく足どりで家に帰っていった。その引きずるような足音は、すぐに夜の闇の中に吸い込まれた。
 後には空になった席がひとつ、あるだけだった。
 韋達は盃に新しい酒を注いで、ちびりと舐めた。
「のう、友よ」
「何だ」
 彼と同様に、ちびりちびりと酒を舐めながら、友は応えた。
「あの話は、本当だったのだろうか」
「わからぬ」
「だが、妙に漁師の話と通じ合っているような気もする」
「そうだなあ。だが、真相はわからぬよ」
「そうか」
 二人は黙りこくって酒を飲み、塩漬けの魚を箸でつついた。
 誰も何も云わず、ただ物思いにふけるばかりであった。
 若い商人が、あっと声を上げた。
「財布がない。懐にあったはずなのだが」
 彼らは顔を見合わせた。
「どうしたのだ。どこかに置き忘れていたのではないか」
 商人は首を振った。
「ここに来てから、一度も取り出していないはずだ。さては、さっき話をしていたあの男……」
「皆を荒唐無稽な話で煙に巻いている間に、財布を掏ったということか」
「かもしれない。寝たふりをしつつ様子を窺い、巧みな話術で油断させて金品を奪うなど、並みの盗賊にできるものではないぞ」
「もしや、あれが鴉という盗賊であったのだろうか」
 人々は口々にそう云うと、商人に慰めの言葉をかけて席に戻っていった。韋達も気の毒に、と若い商人をちらりと見やった。
 不意に、友が口を開いた。
「韋達よ。お前はここがどこで、今がいつだか分かるか?」
「どういうことだ?」
 友の唐突な問いかけに、彼はぼんやりと訊き返した。
「今わかった。この宇宙はもう、とっくのとうに終わっているのだ」
「何だって?」
 韋達には、友が突然狂ってしまったかのように思われた。
「宇宙は無に帰り、時間は終わってしまったと云っているのだ」
 鬼気迫る友の様子に、彼はぞっとした。
「ではこの我々は、一体何なのだ?」
「もちろん、宇宙が終われば我々も生きてはいけない。だとすれば我々はもはや亡霊なのだ」
「そんな莫迦な話があるものか」
 韋達は激しく頭を振って、酒楼を見渡した。
「それでは、我々が今過ごしているこの時と、この店は一体何なのだ?」
「我々が今いるこの時間とは、時間の最後の瞬間なのだ。時間はもうこれ以上進むこともなければ、逆戻りすることもない一点で停止した。我々は今やこの、これ以上分割しえない瞬間の中だけに、存在しているのさ」
「つまり、今が宇宙の終わりであるのか?」
「今であり、かつてであるのかもしれない。時間が終わってしまった以上、そう云うしかなかろう。だがおそらく宇宙は、とっくの昔に終わってしまったのだ。我々はその最後の瞬間に焼きついて残った亡霊というべきか。絵巻物がついに最後の絵で終わるように、我々の時間も終わって最後の瞬間が残った。それが今だ」
「友よ、お前の云うことは荒唐無稽すぎるぞ」
 韋達の冷ややかな言葉を、友は気にも留めなかった。
「だが、その残像も非常に不安定なものなのだろう。我々の記憶は薄れ、もはや自分が誰であったかも覚えていない。酒楼の外を見てみろ。この店の外には、ただ虚無ばかりが広がっているはずだ」
 彼は立ち上がり、恐る恐る窓の外を覗き込んだ。墨で塗りつぶしたような闇に眼を凝らしても、何ひとつ見通すことは出来なかったが、それが虚無であると言い切ることも出来なかった。
「我々はもう、この酒楼に至るまでの記憶と、人生の中で強烈に印象に残った記憶を除けば、かなりの部分を忘れてしまったのだよ。お主の夢もまた、人生のどこかで経験した記憶であるはずだ」
「お主の言うことは、よくわからぬ」
 韋達は首を振って、友の滔々とした言葉を遮った。
「だがまだ分からないのは、俺の夢はいったい何だったのだろうということだ」
 友は彼をじっと見つめた。
「お主はなぜ、女を追いかけていたのだ?」
「それが分かっていたら苦労はしない」
「お主は、まだ自分が誰だか思い出していないようだな」
 友は彼の顔の前に指を一本、突き出した。
「お主の通称は豺。都にその人ありと謳われた、名うての盗賊だ。夢でお前が追っていた女を殺したのは、お主自身だ。そう、お主は夜の都で女を追い回し、殺して身包み奪い取った。俺はその一部始終を目撃し、翌朝その女の死体を見かけた……」
 淡々と語っていく友の言葉を、彼は青い顔で遮った。
「そんなこと、あるはずがない!」
「それが、あるのだ」
 友はそう云うと、懐から青い見事な佩玉を取り出した。それは友にそぐわぬ女物の、華奢な佩玉だった。
 彼はあっと驚いた。それは、夢の中で女が着けていた佩玉そっくりだったからだ。
「これに見覚えはないか?」
「ある」
 彼はそう云いつつ、今までのあらゆる記憶が彼の中に蘇ってくるのを感じた。
 たしかに、俺は豺と呼ばれていた。
 そうだ、俺は、盗賊だったのだ。
 今までどうして忘れていたのだろうか。
「しかし、どうしてお前は、俺の正体をこんなにも詳しく知っているのだ……?」
 ゆるゆると、別の記憶が彼の脳裏に浮かびあがる。
「そうだったのか」
「何だ」
「お主の名は鴉だ。違うか?」
 友はそれには答えなかった。ただ黙ってうっすらと微笑み、手にした盃に口をつけた。
 二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
 韋達はうう、と唸って席を立ち、酒楼の戸に手をかけようとした。外に出よう。出て頭を冷やすのだ。
「韋達!」
 友の鋭い声に、彼は振り向いた。
「何だ?」
「気をつけろ。あまり動き回ると滑り落ちるぞ」
 その時、彼の目の前で何もかもがふっと消えた。
 薄暗い酒楼の壁も、目の前に座っていたはずの友も、卓も酒も、踏みしめていたはずの床さえどこにもなかった。かわりに、茫々とした闇ばかりが彼を取り巻いていた。
 まるで嘘のような光景だ、と彼は思った。先程までは友の言葉を信じてはいなかったが、しかし……。
 これが虚無か。彼はふとそれを悟った。
 ああ。宇宙はもう、終わってしまっていたのだな。
 何もかも、すべては幻であったのだろうか? 彼は眼を閉じようとしたが、その前に眼を閉じるべき肉体を、もう持っていなかったことに気付いた。
 肉体? 彼は、肉体を持った自分の姿をもう思いだせなかった。
 俺は、一体何をしていたのだろう。
 俺は、何なのだろう。
 彼の意識を、闇が覆いつくした。


おわり

この本の内容は以上です。


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