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わが人生の遺産 その1

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わが人生の遺産 その1
 
 
やましたとしひろ
 
 
 人生50年、というが、すでにそれを越えて10年あまり。親類が後を追うように亡くなっていった年齢に近づいている。いまのわたしに、自分のものといえる何があるかといえば、それはエスペラントと、韓国語と、コンピュータである。
 
 エスペラントは1960年代なかばから始め、韓国語は1970年代のはじめの大学に入る直前に始めた。コンピュータを始めたのは、高校教師として赴任した奄美群島で、1970年代の終わりごろだった。いずれもずいぶん長いつきあいになる。高校教師の現場から退くと、わたしに残るものといえばこの3つであった。
 
 ではまず、エスペラントの話から聞いていただきましょう。
 
1 エスペラントにとりつかれ半世界を回る
 
 小さいときから言葉には敏感であったようで、見たことも聞いたこともない外国語にあこがれをもった。アメリカ人をそう見かけたわけではないが、傷痍軍人がまだ目についたころだ。遠い町の書店金善堂に自転車で出かけては、言語コーナーの書籍を手に取ってとはあれこれとめくっていた。なかでも気を引いたのが古典ギリシア語である。あのα、βなどを並べた文字の見た目がまずわたしを魅了し、それが記号ではなく、連続すると意味のある言葉になることに今さらながら驚き、時空を越えた遠い異国にいざなわれた。
 
 さて中学生になり、月30円の小遣いをやっとためて金善堂に行ったら、なんとその本はすでに売れていて、棚にはなかったのである。金を握りしめたまま呆然となった。
 
*
 
 さあ、いまからがエスペラントの話だ。親が小学生新聞をとってくれていて、ある日、エスペラント語で「ボーナン・ターゴンBonan Tagon」と外国人に流暢に話す小学生のことが紹介されていた。うらやましいと思った。「流暢」に話せたらいいなあと思った。「ああ、それは誰さんのことですよ」と知らされたのはつい去年、長崎での日本大会でのことである。
 
 中学生になって、春の遠足があったが(当時はほんとうに長い距離をえんえんと歩いたものだ)、その道すがら、ある医院のガラス扉に「エスペラント」と書いてあるのが目にとまった。思わず入ってみたくなった。もちろん遠足の隊列から抜け出すこともできず、そのまま通り過ぎたのであった。いつか訪ねてみようと思ったが、中学生にはその勇気が欠けていた。
 
 ここで話は金善堂にワープするのである。ギリシア語の本がなくて、金を握りしめたまま呆然と書棚を見つめていたわたしは、そこに『エスペラント四週間という本を見いだしたのである。小学生新聞と医院のドアの記憶がフラッシュバックして、緑のカバーのその本をただちに買い求めた。自転車をこぐ足ももどかしく家に戻り、さっそく真新しい本を開いた。その日から、エスペラント語の学習が始まった。中学2年生であった。
 
 もちろん、語学の独習だから、一進一退状態で、いつ果てるともわからない学習になった。英語をならい始めた1年半後のことで、エスペラントの単語が英語によく似ているのもあって、辞典を引かなくても一瞬にして意味がわかった、ということが何回もある。
 
 エスペラント語は、1887年ザメンホフが発表した人工語である。自然語の持つ一切の不規則を廃し、語尾によって品詞を決定し、規則的な造語法で単語を爆発的に増やせるので、膨大な辞書は必要としない、なんともすごい発想の言語である。
 
 しかしこの『四週間』がもたらしたものは、ただ語学だけではなかった。創始者ザメンホフは、毎日流血を見るような民族間の争いがあった環境の中で育った。そこから導かれた人間的な感性、人と人が仲良くすることへの熱き思い、そして平和への願い。このようなものが伝わってくる文例や文章・詩が、この本に満ちていた。
 
 さらに、北欧に住む少女と日本人の文通が例文として使われていた。簡単な自己紹介から始まり、いま感じていることを素直に、実に簡単なことばで表出する。一言一言を読み取っていくうちに、まだ見ぬ北欧世界を想像し、憧れるようになった。
 
 高校に入って、北欧への思いは抑えがたくなり、北欧発行のエスペラント月刊誌「ノルダ・プリスモ Norda Prismo」(北のプリズム)の存在を知ったとたん、これを購読するに至ったのである。
 
 フィンランドの英雄叙事詩「カレワラ」Kalevalaを思い切って購入したもの同時期である。「思い切って」というのは、当時のわたしにはあまりにも高価だったからである。白い、布張りの本が届いた。Helsinki 1964、この本ははるばるヘルシンキからわたしのもとにやってきたのだ。レッペコスキという人がフィンランド語からエスペラントに翻訳したもので、世界エスペラント協会の東西双書の一巻になっていた。
 
 なんとういう美しさであろう。読み始めたとたんに伝わる、強弱強弱のリズム。2万1千行も続く繰り返し。ひっきりなしに出現する頭韻。その中で語られる民族の歌。「さあ友よ、歌おうではないか、われらの祖先の歌を」。
 
 そして続く英雄伝説の予兆と固有名詞の魔力。「言葉はサンポを無力にし、ロウヒは魔術で滅び、ヴィプネンは歌の中に枯れ、レンミンケイネンは試合の中で」。
 
 高校時代のエスペラント熱は周りにも及んでいたらしく、ちょっと手ほどきをした同級生のK君は、授業中うしろの席からツンツンとわたしの背中をつつき、エスペラントのことを聞いてくるので、授業に集中できず、弱った。
 
 数年前に高校卒業40周年パーティーが鹿児島市内で開かれ、その席で担任の先生にあいさつにいったら、「エスペラントはその後どうしてるかね?」と訪ねられて、大いに驚いた。担任までも知っていたのか、と。
 
 大学に入って、全国学生組織の影響を受けて、エスペラント研究会を学内に作り、市民講座なども盛んに行った。また組織活動で九州や関西の大学などもしきりに訪れ、若い「同志」たちと交流を深め、普及活動に邁進した。
 
 高校の教員となり地方めぐりをしていると、エスペラントに接する機会も時間もなくなっていった。
 
 しかし1994年にソウルで世界エスペラント大会があったので、近いし、めったにないチャンスだと思って、はじめて世界大会に参加した。昔いっしょに活動していた仲間たちもいて、「久しぶりにエスペラントを使うのにすらすらと言葉がでて自分で驚いた」。これはわたしの実感でもあった。
 
 ホテルのロビーではオランダ人のコックKokさん(これは名前)と3時間以上も話し続けた。彼が英語の教師だというので、オランダの言語政策や日本の方言のことなどについて語ったのである。そういったこむずかしい内容が語れるのか、理解できるのかと半信半疑であったが、できたのだ。それはわたしに驚異であり、エスペラントの実用性は確信となった。連れていた娘が飽きてロビーをごろんごろんしてどうしようもなくなって、話は終わった。
 
*
 
 さて、ここ数年のエスペラントとのかかわりを取り上げてみよう。
 
 一昨年は、モンゴルのウランバートルで開かれたアジア・エスペラント大会に初参加した。15か国より150人ほどが集まった。会場のチンギスカン・ホテルはとても高価だったので、ウランバートルの西にある安宿にとまって毎日、東の会場まで歩いた。
 
 手の届きそうな高さで綿雲が流れている。6月だというのに、まぢかの太陽がじりじりと肌を焼き、建物の陰に入るとこんどはひやっとする。汗がしとど流れるが、空気が乾燥しているので不快ではない。しかし暑さに耐えかねて、マーケットで帽子を買った。そのときに作った句:
Hej, nubo!
mi vin prenos
saltante!
  ヘイ ヌーボ
   ミー ヴィン プレーノス
   サルタンテ
 おい雲よ
 お前を跳んで
 取ってやる
 
 その宿には日本人や、シベリア鉄道に乗ってやってきた西欧や東欧の、何人ともわからないバックパッカーが多数いた。わたしがエスペランティストだとわかると、「なにか語ってみろ」という。いくつかの文を口にすると、かれ彼女らは「わかるわかる、お前の言っていることがだいたいわかる」というのだ。こちらが驚いた。
 
 昨年1月から、「さくら放送・さくら教育放送 Radio Ĉerizo, Radio Ĉerizo Eduka」としてエスペラントのインターネット放送、podcast放送を始めた。調べてみると、アジア・西欧・南米・北米など世界各地からアクセスがあり、とてもうれしくなって、創作する意欲がわいてきた。
 
 6月、九州エスペラント大会に参加。podcastの分科会を主催。
 
 8月には、東アジア教育者セミナーILEI-Seminario de Orienta Azioがあって、中国の天津外国語大学に行った。そこでは多数の中国人と韓国人3人、日本人2人で、食事をともにし、セミナーを行った。わたしも初めて、講義というかたちでプレゼンを行いながら話をした。主に大学教授らの講義を聞き続ける形であったが、なんとまあ、これも理解できるのだ。
 
 モンゴル大会で出会ったモンゴル人も数名参加していて、懐かしく、食事をともにしながら語らった。思えば、韓国人や中国人ともエスペラントで語ると、何らの隔たりも感じない。まるで旧知の間柄のごとし、である。
 
 10月、ソウルの南、ソンナム市で日韓共同開催エスペラント大会があって、500人が集った。受付を手伝い、頼まれていた開会式での記念講演を無事こなし、分科会を持ち、夜の部では韓国人フェリーチャFeliĉaといっしょに楽器を演奏し、「釜山港に帰れ」と「長崎の鐘」を披露した。大会後には東の雪岳山(ソラクサン)へ団体で旅行に行った。
 
 このときは韓国人の家にホームステイさせてもらい、大学の授業に連れて行ってもらって「ネイティブ・スピーカー」の役割をした。外国人の中にいる、という緊張感は全く消えていた。
 
 ことし20128月、ベトナムのハノイで世界大会が開かれる。すでに申込書は送った。久しぶりのアジアでの大会で、前回はただ参加しただけであったが、今回どんな役割を果たせるのか、いまからドキドキしている。
 
 あすには鹿児島に出て、ドラエもん『のび太と奇跡の島』という映画でも見ようか。ここにはエスペラントが使われているそうだ。ベレーガモンド島Belega Mondo(超美世界)や登場人物クラージョKuraĝo(勇気)が出てくる。東北を勇気づけようとクラージョという名前をつけたそうな。
 
*
 
 このようなエスペラントにどっぷり浸かった人生を与えてくれたきっかけとなったものは、大学書林刊『エスペラント四週間』である。ここからわがエスペラント人生は始まった。わたしは40年前にこの本を手にしたが、どうぞみなさま、書店でみかけたら、いちど手に取ってみてくだされ。
 

この本の内容は以上です。


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