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「生きることは苦しみである」

「生きる事は苦しみである」

18歳の春。大学で講義を受けていた。その名も「宗教論a」。

いうまでもなく、仏教の教えである。

ここで補足すると、仏教の世界観はすなわち、「輪廻と解脱」にある。つまり「人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で苦しむことになる。その苦しみから抜け出すのが解脱であり、修行により、解脱を目指す」のが初期仏教である。

仏教の根底には「諦観」があることを知った私は何か切実に救いを求めていた。そこで手に取ったのがトルストイの「人生論」である。

 

「生きる事は苦しみである」

 

トルストイは苦しみについてこう語っている。

「苦痛を経験するのは、自分自身を世界全体の生活からきりはなしたうえ、この世の苦痛のもとになっている自分の罪を認めず、じぶんを罪のないものと考えている人間、そのため、また、この世の罪のために、自分のたえしのばなければならない苦痛にも、いたずらにさからっている人間だけなのである。

(中略)人の生活の半分は、たいてい、苦痛のうちに過ぎてゆくものだけれど、人はその苦痛を苦痛とせず、むしろ幸福と感じることのほうが多い。

(中略)愛が少なければ少ないほど、人の受ける苦痛は大きくなり、愛が多ければ多いほど、苦痛は小さくなるのである。

したがって、いっさいの活動が愛に満たされているような完全に理性にかなった生活には、苦痛などというものは、ぜんぜんありえないのだ。

苦痛のなやましさというのは、ほかでもない、祖先や子孫や同時代の人によせる愛――ひとりの人間の生命を世界じゅうの生命に結びつける愛、この愛のくさりをたち切ろうとするとき、人々が味わわずにはいない痛みなのである。」と。

 

一方で、満足できる苦痛についてこう語っている。

「苦痛の原因にも結果にもむけられ、過去にも未来にもむけられた活動だけが、苦しんでいる人間を満足させることのできるものなのである。」

このことで、人は死の恐怖からも救われると言っている。

「個人の生命は全体の生命のうちにとけこんで、永遠の生命を受けることができる」からである。

このように一貫して、トルストイは「人のため」に生きる事を提言している。

 

「人生論」において重要視されているのは「愛」である。しかし、愛とは些か抽象的である。では愛とは一体何なのか。

 

「愛とは、自分自身よりも他人をすぐれたものとして認める心である」

そのためには、

「自分自身を知ること」が必要である。自分自身を知るためには、他人を知ることは不可避である。人が自分を知るためには、他者とのコミュニケーションを通して相手と自らとの違いから、自分を知るしか方法はない。

他人を知ることは、「どの程度なにを好み、なにを好んでいないかという、この世界にたいする態度――関係を知ろうとする」ことだとトルストイは語る。

幼い子供が好き、嫌いでモノを判断するように、この好き、嫌いといった感情が自分を自分たらしめるものなのだ。

その違いを知った上で、相手の良いところ、優れているところを尊敬する心を持つ事が「愛」であると述べている。

私もそんな風に生きたいと思っている。

 

私の理解力の乏しさゆえ、仏教というものを誤解していた。

冒頭の話に戻るが、仏教の教えの「諦観」についてである。「諦観」とは仏教用語なのだが、そもそもの意味と現代的な意味には違いがあるという。

一般的に「諦観」とは読んで字のごとく「あきらめる」ということなのだが、仏教的にいうと「あきらかに真理をみる」ということだと言うのである。つまり無気力に投げ出すという意味のあきらめるではなく、努力をして向上してゆこうという意欲的な考えだったのだ。

「少欲知足」という言葉がある。苦しみを生む原因をそのままにしてまた新たな苦しみを生むのか、思うがままにならないものを思うがままにならないのだから諦めようと考えるか、つまり足るを知るのか、選ぶのは自分自身なのである。

しかしその一方で何か一つの宗教を信じるのに躊躇している自分もいる。これはキリストでいうところの「認識の木の実を食べてしまった」からに他ならないのである。

そんな私の気持ちを代弁してくれていると感じたトルストイの引用でこの文章を締めくくりたい。

「宗教の説く教えというものは、すべて、この偽りのない実際の幸福――人間に最もふさわしい幸福を求めてやまぬ欲求として、人生を定義したものに他ならない。」

 

 

引用

トルストイ 訳:米川和夫 『人生論(新版)』 角川文庫 1958年


この本の内容は以上です。


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