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 許されないと分かった上で、常川は土下座をして謝った。

 罵倒も非難も甘んじて受ける覚悟だった。

 それぐらいのことをした。


 その時の常川には、初めからなかったことにする厚かましさも、

 黙って罪を抱える覚悟もなかった。

 悪かったから謝る。

 思いつく償いの方法はそれだけしかなかった。


 「……いつか。いつか仕返しをしに来る者がいるかもしれない。

  その時には、そいつに、そいつの人生を返してやってくれ」


 その人は許すとも、許さないとも言わなかった。

 言えなかったのだ。

 常川がその復讐者にあるべきものを返すまでは。

 還らない魂を償うには、ただ役目を果たすしかないと常川は覚悟を決めた。

 

 「それで常川さんは」


 「加害者を反省させず、罰することもできず、ただ犯罪者として

 処罰されれば、そいつは一生加害者も世の中も憎むだけだ」


 「復讐に協力するつもりだったのですか?」


 「協力はしないが、犯罪者になることを防ぎたかった。

 正当な方法で加害者に思い知らせてやりたかった。

 俺は出来た人間ではないからな。迷うことの方が

 多かった」


この件が起こる前から、常川は人脈を活かして、当時の状況について

聞き込みをしていた。


  当時修士課程にも数人学生がいた。

  5年前の状況を聞く為に、奔走していると、一人が言った。

  員が進学せず、民間企業や官公庁に就職している。


 「あの時の雰囲気はかなり、異常でした。土岐等さんには本当に

  悪いことをしたと思っています。先輩なので、僕らも面と向かって

  失礼なことをしたりはしませんでしたが、細かなところで失礼を

  働いた覚えはあります」


  強要されたわけではないが、土岐等あかりを庇い立てできない

  雰囲気であったことは認めた。


 「研究室へは必要最小限しか行かないようにしていました。

  自分が何かされたわけではありません。先生が主導でやっていたこと

  ですから、注意なんてできる状態ではありませんでした。

  他方で土岐等さんを庇わなかった事にも、

  罪悪感があってとにかく関わらないようにするのが精一杯でした」


  もう一人のOBも言う。


 「雰囲気が最悪だったのは確かだった。常に土岐等さんの悪口を言って

  結束を固めているような雰囲気で。だから土岐等さんがいなくなると

  困った訳です。だからか 何かに付けて呼び出しては、いたぶっている。

  ある意味皆、土岐等さんに依存していたんです。そうでないと均衡が

  壊れてしまう。そんな脆さがあった」


  土岐等が恒常的にアカハラに遭っていたこと、加害者は複数いたこと、

  山瀬が主導していたことの証言はとれた。

  しかしこれは結局無意味だった。

  被害者として告発する人間がもういないのだから。

  遺族も大学側の態度にすっかり諦めて、諍いを望んではいない。

  そうこうしているうちに、訴訟可能な期間が過ぎてしまった。


 「俺も逃げた一人だ。土岐等が壊れて行くのを見ていられなかった。

  弱かったんだ。慰めることも、止めることもできなかった。

  土岐等でなりたっているその均衡を壊すことで、自分が代わりの

  生贄になるのが怖かったんだ」


  休学と言っても、その頃ビジネスに集中する為に節約のため、

  休学届を出していただけの常川。完全にノータッチだったわけではなく、

  少なくとも今よりも向上心のあった常川は、定期的に大学にいっては

  必要な業務をこなしていたようだ。


 「俺はその時まだ修士学生だったから、面と向かって批判することが

  できなかった。異様だったよ、あの雰囲気は。学部ゼミではあんな

  雰囲気ではなかったのに。目の前で明らかに無実の人が壊れて行く。

  無力感に耐えられなかった」


  常川は当時は大人しくて、他人事には我関せずの性格の学生だった。

  塔堂の所在を突き止める為に実家に電話した時にも、母親が随分変わった

  のねと電話越しに分かるくらいだ。相当の変化を遂げたのだろう。

  それがアカハラだとしたら、皮肉なことだ。

   

 「土岐等は、俺に救いを求めていたんだ。俺だけじゃない。修士の学生

  皆に求めていた」


  その時既に土岐等は学生相談所に提訴していて、その関係で証人が

  必要だったこともある。それでも誰も名乗りでなかった。


 「俺は見捨てたんだ。ビジネスは忙しかったけれど、自分が創業者

  なんだから時間の融通は工夫次第ではなんとかなったはずだ。

  学費もビジネスも後付けだ。俺は単にあそこから逃げたかった」


  そのことをずっと悔いているし、おそらく一生許されることではない。

  常川は自覚している。

  だからこそ初めから一貫して土岐等の味方に立っていた、人間を

  応援したいし、許しを請いたい。

  この罪悪感を埋める為ならばなんでもする。

  そう誓ったのだ。   


 「でも焔さんはもう」


 これまでの推理が正しければ、取り返しのつかない罪をいくつも

 犯している。

 どう助けることができるのか。どうすれば彼の気が済むのか。


 「まだ出来ることはあるはずだ。俺はもう静観し、やり過ごして後悔する

  ことだけは、絶対に嫌だ」


 常川の顔はいつもと同じに戻った。



1


 

 「僕は研究者生命を賭けて、この告発をします。学会から追放

  される覚悟は既にできております」


  焔は演壇で堂々と宣言をした。

  今日は山瀬が中心的役割を果たす学会。
  特に今日の学会は一月後の学会長選を前にした、
  貴重な場である。全ての発表の後には、会長候補者たちが
  会長選にあたっての抱負を話すのが恒例となっており、
  今日はいつも以上に重鎮が多い。その分発表者の緊張も
  高まっているようだ。

  他学部である焔は、懇意にしている教授二人の推薦をもらい、
  学会の趣旨に沿った題目の学会発表をする予定であった。
  直前まで常川と優奈も知らなかったので、学会会場で会って
  驚いた。焔は学科が異なるし、参加するにしても公聴するだけ
  だろうと思っていたら、講演者の発表者の名前にさりげなく
  混ざっていたので、そのチャレンジ精神には感服した。
  
  初めて聞く焔の発表に期待して、第一声がこんな不穏な始まり。
  これから焔が紡ぐ言葉に戦慄すると同時に、何が起きるのかと
  期待する。周囲もこの風変わりな始まりに、驚きを隠せない。

  
焔は続ける。

  自分は他の職に就くので、もう研究者の立場は不要だ。

  これはあくまで焔自身の意思であり、指導教官には何の責任もない

  ことを念を押すように強調した。

   

 「会長選投票直前のこの学会。私の発表を聞いてから、是非

  ご自分の投票を考えて頂きたい」


  この前置きはこのような学会発表の場ではあり得ない口上で、聴衆は

  顔を見合わせる。学会内部での選挙は、狭いコミュニティなので、

  投票と言ってもほぼ決定事項。投票はパフォーマンスのようなものだ。

  今回の学長選も立候補者は山瀬ともう一人の二人だけだが、ほぼ山瀬と

  決まっている。


   ざわめく聴衆。

  皆あれは誰だと顔を見合わせるが、発表者は事前の審査を経て認可

  された内容のはず。今になって拒否することは許されない。

  嵐の訪れを予感しながらも、聴衆には大人しく聞くことを選択した。

   

  焔の報告は各研究グループの結果発表ではなく、個人の発表

  ではあるが、その内容の目新しさからか参加者は多い。

  焔の題目を事前に知らなかったのか、出席者の一人が前列から、

  出口へ向かおうとする。


 「……山瀬先生、どうしました? 聞いていかれないのですか?」


  報告者が、参加者の行動を直接咎めることは、ありえない。

  他の聴衆までもがざわめきだす。


 「他に用事がある」


 「聞いて下さい。この報告は他人事ではない。あなたは是非

  聞いていくべきだ」


 「時間がないんだ」


 「あなたの次の予定は学会長選の挨拶だけのことは確認済みです。

  言い訳は見苦しい。聞きなさい」


  一学生が教授に話す言葉供思えず、一気に会場の緊張が高まる。

  外国からの聴衆だけが、傍に居る通訳に事情を聞いている。


 「続けます。この事例は、教授が一女子学生に対して行ったハラスメント

  事例です。内容をリストアップしました」


  パワーポイントを使った詳細な事例に、聴衆からため息が出る。

  内容の悲惨さに「ひどい」「何これ、犯罪じゃない?」などと

  口々に呟く声がする。

  証拠を隠滅する周到さ、圧力でねじ伏せる傲慢なやり方は、聴衆に

  負のイメージを植え付けるのに成功したようだ。

  もちろん証拠の音声や写真、診断書も抜かりなく紹介する。


 「今日はこの場にいる主犯者の名前を、皆さまに公表します。

  これだけのことをしても大学構内で当時は無罪になったのです。

  皆さまもう一度思い出してください。今庫の発表で我々はアカデミック・

  ハラスメントに関しては、断固たる態度をとるべきことを確認しました。

  そこで私は、このハラスメント加害者の無期限追放、詳細な調査報告と

  その公表、その協力者に対する処罰を徹底することを提案します」


  この場に加害者が居ると明言され、会場内に動揺が走る。

  今までの流れから優奈は、まさかと悪い予感がした。

  予感と言うより、予測。

  おそらくこの予測は合っているが、認めたくない。

  横に居る常川は、「面白いことになってきたな」と目を輝かせ

  ながらペットボトルの茶を飲む。

 

  「そこで今回は、このハラスメントの加害者であり、現在当学会の

   学会長選に立候補している山瀬教授について、その資質を問う為

   過去に犯した罪を公表しました。その善悪の是非を皆様に委ねたい」


  堪らず学界当局側から、待ったがかかる。


  「ここは、学会であって、裁判の場ではありません。そういうことは

   会議の時に……」


 「それではあなたたちは、内々に物事を進めてしまうでしょう。

  いくら体系を整備しても、絵に書いた餅では無意味なのです」


  この学会にはハラスメント加害者に対する制裁措置がないので、

  時勢に合わせて議論が始められたばかりだ。つまり現時点では

  何の措置もないことになる。


  聴衆は当日参加費を払えば、基本的に制限はないので、他大学からも

  学生や教師人が来ており、今日の学会の態度如何によっては

  大きな波紋となるのは間違いなかった。

  もちろんその余波は、焔自身にも訪れることは間違いない。

  それでも焔は全く恐れていない。

  事務を制して、自分のペースに持って行く。


 「ここに私は、5年前の女子学生殺人未遂の真犯人、山瀬教授の罪状に

  ついての大学における公開審問を願い出ます。後日警察にも告発します。

  殺人未遂ですから、5年ではまだ時効にはなりませんよね」


  会場が和琴大学キャンパス内なので、スタッフから参加者まで

  この大学の人間が多い。

  今この瞬間の山瀬の行動を、反応に目を光らせる。


 「学内では一度判決の出た事案に、再審理は認められないはずだ」


  反論はでなかったが、やはり口で言い負かすつもりか。

  そんな反応など焔の想定内だとばかりに、すらすらと焔は反論する。


 「ええ。その悪しき習慣もいずれは廃れるでしょうが。犯罪が関わって

  いますからね。再審理は世論の力を使ってでも実現させます。

  そして何より、あなたには学会からの永久追放を申請します」


  ここで焔は、山瀬に向かって指を指す。

  これに釣られて聴衆は皆山瀬の方を向く。

  その視線に居たたまれず、山瀬はせめてもと更なる反駁を行う。


 「余所者のお前に、そんな権限はない。これは名誉毀損だ。こっちこそ

  訴えてやる」


  ここで焔は両腕をバンとデスクに置いて、身を乗り出すようにして

  言った。

 

 「権限ならあります。僕はその時の被害者の一人である、当時の学部生

  嘉納宥宗です」

 

 みるみる山瀬の顔が青ざめていった。

 


2


  思わぬ展開に絶句していた山瀬だが、すぐに気を取り戻した。
 
 「あれは院生が犯人だと調べて分かったはず。本人もそう言って

  いただろう。それを苦に自殺したのは可哀そうだが、自業自得だ」


 「確かにその学生も嫌がらせに加担しました。ですが主犯格が無罪放免

  など、許されることではないでしょう」


 「こんな屈辱は初めてだ。絶対にこのままでは済まさない。その時は

  お前の指導教官も道ずれにするからな」


  ヒートアップする論戦に、ここで待ったがかかった。

 

 「いい加減にしなさい!」


  後ろから威厳のある声が聞こえる。

  声と共に背筋をしっかりと伸ばした初老の紳士が、演台の方へ

  歩いて来る。年の頃は山瀬よりも一回り以上上だろう。

  年齢に遭わずしっかりとした物言いは、まさに紳士然としている。

  痩せた体躯はぴんと張った背中が、彼を大きく見せている。


 「お義父さん……」


  山瀬が信じられない物をみる目で、呟く。


 「私の教育が間違っていたようだ。焔君、君に送ってもらった研究書を

  読んで、省みた。もう遅いかもしれないが、私も教員時代にやってきた

  ことを、今になって反省している。多くの学生の前途を奪ってきた。

  言われるまでは気がつかなかったことを、大きく反省しているよ。

  それを当たり前のように見てきた山瀬君だから、自分の誤りを

  気付けないのだろう。これは私の責任でもある。申し訳なかった」


  老紳士はそこで焔に向かって、深々と頭を下げた。

  義理の父の登場に、山瀬は何とも居心地が悪そうにしている。


  優奈は、山瀬との会話を思い出す。

  山瀬の奥さんは、恩師の娘さんで、嫁実家には頭が上がらないと

  言っていたことを。

  ということは、あの老紳士は、この学会の重鎮ということになる。

  専攻分野なので彼の名前は、この学会に名を連ねる者なら誰でも

  知っている。確かこの学会の創設者の一人のはず。

  会場内の空気は一気に引き締まる。


  老紳士は十分すぎるほどに、頭を垂れると、向き直って山瀬の方を向く。


 「山瀬君、これはいい機会なんだ。私くらいの年齢になる前に

  気付いたことはラッキーだ。君ならまだやり直せる。間違いだと

  判断したら、直せばいい。まだ現役の君にしか出来ないことだ」


 「私は本当に何も……」


 「見苦しいぞ。君は、この状態でまさかとは思うが、まだ学会長選に

  出馬しようなどと思っている訳ではないだろうね。私が訳を話して、

  それは無効にしておいた。君はしっかり自分のした事の大きさを

  受け止めなければならない」


  助けを求めるように周囲を見るが、大重鎮の登場に逆らってまで

  山瀬に味方しようとする者はなく、山瀬は腹を括るしかなかった。


 「分かりました。学会の判断にお任せします……」


  義父であり、学会の重鎮である老紳士の言葉には逆らえず、

  山瀬は一礼すると、今度こそ会場を後にした。



3


 「山瀬先生……!」


 打ちひしがれ、会議場を後にした山瀬を追ってきたのは、優奈独りだった。

 

 「ああ、田中君か」


 心ここにあらずといった夢見るような目つきで、山瀬は優奈を振り返る。

 そこに自信にあふれた、昨日までの山瀬の姿はない。

 

 「先生」

 

 「いいよ。もういいんだ。君もあの男の話を信じるのだろう?」


 「信じ……たくなかったです」


 焔の証拠は完璧で、少なくとも5年前のアカデミック・ハラスメント

 事件を山瀬が主導していたこと。学生に責任を押しつけて、自分の

 処分を免れたこと。あかりへの殺人未遂と証拠隠滅。焔、いや嘉納への

 暴行傷害。全て優奈にとって、現実のものとは思えないものばかり。


 あかりの持病の薬を奪って、更に携帯電話を盗んでまで証拠を隠滅

 しようとした件については、衝撃的だった。

 相手が誰であろうと許せるものではない。

 

 目撃者が自分だけだったので、焔は証拠を集めるのに骨が折れたようだ。

 初めからアカハラを疑っていた焔は、あかりの携帯電話の記録を盗難に

 遭う前にしっかりと自分の携帯に移動させていた。

 倒れている間に消された記録があるかもしれないので、データの復旧も

 試みた。


 あかりの入院先の看護師や、見て見ぬふりをした学生たちの証言を

 得るのにも時間が必要だったと言っていた。

 特に大学関係者の隠蔽体質は強固で、ありとあらゆる手を使って

 証言を出させた。


 事件から5年。

 焔はおそらく今日のこの瞬間だけの為に生きてきた。

 

 接客業で覚えた人との付き合い方も。

 努力して手に入れた盗聴器や、鍵開けの技術も。

 余所の大学を卒業して、再び和琴大学大学院に入学する為

 学び続けたことも。


 全部が今日の。今日だけの為。

 他を全て捨て去り、人生を捧げる程の情熱を全て復讐に

 使ってきたのだ。

 焔をそこまで追い詰めただけの理由を創り出したのは、

 他ならぬ山瀬たちだ。

 怨嗟を育てた者たちには、それだけの責任がある。 

  

 それでも。

 優奈は山瀬を信じたかった。

 許される訳はないけれど、山瀬なりに理由があると。

 

 誰かを庇っているのではないですか?

 脅されて止むを得ずしたことではないですか?


 止むに止まれぬ、高尚な理由が。

 それを堂々と反論してほしかった。


 無言で丘を下る小道を急ぐ、山瀬。

 その背中は、はっきりと優奈を。人を拒絶している。

 それでも。

 今日は小さく見える背中を支えたくて、優奈は追いかける。

 

 「理由が。何か大きな理由があるんじゃないですか?」


 「君の想像しているような、きれいな理屈ではないが。

  少し昔話に付き合ってもらえるか?」


 さすがの山瀬も、慰めが欲しかったのか、意外と素直に

 口を開いた。示されて、小道の脇のベンチに座る。

 今日は土曜日なので、道行く人もほとんどいない。


 雲が2,3個流れて行く静かな空を眺めながら、山瀬は

 苦い思い出が結晶となる物語を始めた。

 


4


 「先生、今度の飲み会なんですけど、趣向を変えてロシア

  レストランにしようかと思うんです。予算は1500円くらい

  だから、そんなに高くないし。それで初めてなので、下見に

  行こうと思うんです。一緒に付いてきてくれますよね?」


  二十年前、まだ助教授だった頃の山瀬は、社交的で若く

  独身ということもあって、当時は女子学生の間でも人気があった。

  几帳面な性格もあって身ぎれいな装いに、自信に満ちた講義は

  学内外からの評価も高かった。それに加え、元指導教官からも

  内外に後継者としてのお墨付きを半ば公認で与えられていた為、

  その権勢は学内で比類ないものであった。


  自信は傲慢さを、堂々たる態度に、軽薄な心根を親しみやすいと

  好意的に転換してもらえた。いずれも若者にはよくある症状であるし、

  妬む人々が口を極めても、ものともしない程の基盤もあった。


  まさにわが世の春。

  後は結婚のみが関心事項といったところ。

  当然玉の輿を目指す女子学生たちは血眼になってその座を

  競いあった。それを高見の見物している山瀬を、疎ましく思う

  男子学生も多数いたが、それすらも女子学生からしたら只の

  僻みと見なされるだけだった。


  とりわけ今山瀬を誘った女子学生、正射結衣は積極的だった。

  意思の強さを体現したように眉毛を濃い目に描いた大ぶりの瞳と、

  筋の通った整った小ぶりの鼻は、顔立ちを派手に魅せる。

  対照的に服装は清楚なお嬢さんというように、ワンピースを

  基調としている。

  

  友人同士で話す時には、高く柔らかな声を楽しげに張り上げて、

  常に人生を謳歌しているかのようだった。

  良くも悪くも今時のお嬢さんで、我慢するくらいなら、

  自己主張を通そうとするが、その愛嬌ゆえに誰からも悪くは

  言われない。

  そんな学生だった。


 他の女子学生もなんだかんだと理由を付けては繋がりを持とうと

 していたので、彼女だけが特別な訳ではない。その中には大人しい

 なりにアタックしてくる事務員もいれば、派手な交友関係をバックに

 繋がりを持とうとしようとする業者の女性もいた。


 山瀬自身この状況を楽しんでおり、気分しだいで適当に付き合う。

 ただ結衣の積極的な態度には、いささか辟易していた。

 余程自信があるのか、無理に機会を作っては、隠すどころかそれを

 アピールする。少し距離を取った方が良い。そう考えていた矢先の

 誘いだった。


 「そのレストランなら、帰路にある。自分で見てくるよ」


 「私も見てみたいんです。幹事なんだから、どんなところか把握しておく

  必要があります」


  それではどうしていつもの飲み屋から変えたのだと思うのだが、

  その辺の事情は後付けなのだろう。飲み屋を開拓したいというのが、

  結衣の表向きの理由だ。


 「でもなあ。女子学生と二人きりというのは誤解されると良くない」


 「いいですよ。誤解されても。というか誤解でなくすれば

  いいんじゃないですか?」


 「……困ったことを言うな、君は」


  女子学生に慕われて、満更でもなかったが、一線を超える勇気はなかった。

  遊びくらいなら良いが、当時の山瀬には交際に発展しそうな女性がいた。

  恩師の次女の芙美だ。

  度々自宅を訪問する内に、自然とそうなっていた。

 

  交際し始めたのはごく最近で、明確にお互いに意思表示をして

  なかったので、正直山瀬自身交際していると明言して良いのか、

  良く分からなかった。

  

  だが結婚を拒む理由もなかったし、むしろメリットしかない女性。

  漠然とこのまま結婚するのだろうと思っていた。余計な誤解は受けたくない。


  だが結局結衣に押されて、行くことになってしまった。

  自分が断られるなんて夢にも思っていない若い女は、とても積極的だ。

  それにゼミの学生の中心的人物となっている女を無碍に扱うことは、

  ゼミ運営の在り方にも関わる。止むを得ず仕事の一環と割り切る。


 「つまらなそうですね」


 「……そんなことはないよ」


  ここら辺は芙美の職場と近い。

  余計な詮索をされても面倒だと思ったのだ。

  視線が定まらない。結衣は目聡く山瀬の態度を評する。


 「何をそんなに気にしているんですか?」


 「気にしてないよ。ただ明日は早いから今日は早めに帰るよ。

  さっさと食べて帰ろう」


 「……先生、私、先生の事……」


 「ああ注文が来た。おいしそうだな」


  あえてその間を壊す。これ以上聞いてはいけない。

  かといってはっきりと断ってしまえば、面倒なことになる。

  とにかくもめごとは嫌だ。せっかく手に入れたこの輝かしい未来を

  詰まらないスキャンダルごときで、潰されてたまるか。


  とにかく相手に話をする隙を与えぬよう、山瀬はとにかく話し続けた。

 「じゃあ、気を付けて帰るんだよ」


 「送って行ってくれないんですか?」


  時刻は九時。遅いと言えば遅いが。それでも結衣は甘えていると感じた。

  先程の話を蒸し返されても困る。

  これ以上付きまとわれても困る。

  早めに諦めさせるのが良いのかもしれない。

  お互いに。


  翌日、登校した結衣を待ちうけていたのは、山瀬が結婚を前提に

  交際している女がいるという噂話だった。

  残念がる女子学生もいたが、そこまで真剣だったものは皆無だった

  ようで、ぶつくさ恨み事を言いながらも、現状を受け入れていた。


  結衣以外は‐。

 



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