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  「アカハラの犠牲者は、もう一人いたんだ」


   それが学部生の名だと常川は、アイスを頬張りながら言った。

  優奈も持参したアイスを口にしながら、補助椅子に座って

  常川の次に出てくる言葉を待る。


  昨日自分だけ5年前の事を知らなかったことが幾つかあることに

  拗ねた優奈は、今日は午前からずっと常川の部屋に居座っている。

  六人部屋に入院している優奈と比べて、金を持っているだけあって

  常川の個室はゆったりできるというのも理由の一つだ。

 

  「今の事件には関係ないことだ」と突っぱねていた常川だが、

  昨日の刑事との話で思い出したことがあると言って、出た言葉だ。


  孤立無援の土岐等の只一人の味方がいた。

  5年前アカハラを追求して、退学処分になった学生。

  彼はまだ当時学部生だったが、土岐等がアカハラにあったと

  最後まで学校側に訴え、自分自身も大学を追われることになった

  学生。


 「物理的なハラスメントを受けたのは、その学生だ」


 「その人も小田切先生たちを怨んでいるんでしょうね」


 「……不思議には思っていた。土岐等の弔い合戦というのなら、

  一番に名乗りを上げるはずのそいつがいない。俺も当時休学

  していたから、伝聞でしかないんだが。教えてくれた学生が

  言っていたよ。土岐等の味方がいてほっとしたと」


  常川も同感だった。

  孤立無援でアカハラの挙句、亡くなってしまったなんて後味が悪すぎる。

  その時は罪悪感が少しだけ薄まった気がした。

  当時の常川たちには、研究室の中枢部を敵に回して、自分の将来に

  リスクを背負ってまで、土岐等を助ける正義感はなかった。

  その時彼は確かに、常川たちにとっても、救世主だったのだ。


 「野坂さんが庇っているのは、その人なんでしょうか?」


 「だが野坂は当時ハラスメント相談室で、土岐等の事件をもみ消した

  側の人間だぞ。言ってみればそいつの敵だ」


  今回自分のハラスメントの解決に尽力してくれた審議会に感謝している

  優奈は、ハラスメント相談室は一番のハラスメント被害者の味方と考え

  ていた。そこが率先して火消しに回るなんて考えられない。

  ごく普通の判断だと思う優奈の考えは、常川に打ち消される。


 「それは建前だ。大学だと教育委員会が指導する訳でもない。

  ひどい刑事事件でも起きない限り外に漏れることもなければ、

  介入もできない。自浄に期待するしかないのは昔も今も同じだ。

  当時は今以上に表に出なければなかったことになると、とにかく

  隠蔽されていた」


  膿を出して適切に処分することで、学校の質を上げようとする方針は

  この大学ではつい最近のことだと、常川は言う。

  アカハラ自体が認識されてまだ間が無いことも指摘する。


 「当時は表立ってその件に触れられない分、裏で情報が錯綜して、

  いろいろなデマや噂が飛んでいた。妙な噂が増えると、その分真実

  から遠ざかる。もやもやとしたまま忘れ去られらていったんだ」


  曰く、土岐等が芹沢を一方的に好きになった上での三角関係だった。

  曰く、退学後、学部生は自殺した。芹沢はそのたたりで自殺した。

  曰く、行方不明になった塔堂が実は主犯である。

  曰く、むしろ塔堂は真実を知って恐ろしくなり逃亡した。

  曰く、土岐等あかりは殺された。


 「なんだか滅茶苦茶ですね。死者に口なしって、好き勝手な

  ことばかり」


 「ではもう一人の裁かれるべき人って誰ですか? 塔堂さんのことですか?」


 「本当に野坂さんが全てしたことなら、この件はこれで終了だ。

  お前が気にすることじゃない」


 「でも、野坂さんがその人を庇って、代わりに自首したかもしれない。

  事件は終わっていません!」


 「……お前、焔を庇っているって推理していなかったか?」


 「ええ。二人でも構わないじゃないですか! とにかく野坂さんが

  単独で犯行をしたなんて思えません」


  優奈は拗ねた口調で付け加える。


 「それに常川さんは、焔さんのことを警察に言いませんでした。

  話すとまずいと判断したからではないのですか?5年前の事も

  いろいろ知っているみたいだし。常川さんだって怪しいと言えば

  怪しいんですからね」


 「余計な事は言わなかっただけだ。連絡が取れ次第、話合うつもりだ。

  それまでは口を噤んでいろ。で、お前は焔とは連絡取れたのか?」


 「いえ。ずっと圏外です……」


 「……治ったら二人を調べる必要があるな」


 「ええ。常川さんも含めて」


 冗談ぽく言ったつもりだったが、意外と優奈は本気だった。

 いきなり自分をCOEに入れたことだって、未だに応えを聞いていない。

 5年前の加害者に対しては憎しみを持っている一方で、

 事件を表沙汰にすることを厭う。

 

 人が一人亡くなったインパクトは呪いのように、

 無責任な関係者たちに等しく不幸を与えて行く。


 これが人の手によらないのであれば、この世には超自然的な力が

 いるのだろう。だが優奈にはそんなことは信じられない。


 (そんな訳がない。絶対に黒幕が居る)


 探して見せると決意した。  

 


10


「全部被る気なの、あの人?」


「らしいな」


「いいの、それで?そういうの一番嫌いだったはずでしょ?」


「……本人の意思だ。尊重すべきだろう」


「でも……!何とも思わないの?」


「所詮はあれも加害者だ。利用しただけのこと」


「本気でそう言っているの?見損なった。私だけでも助けに行くから。

 ……早く目を覚ましてよね」


 (騒々しい女だ)


 一方的に切られた電話をポケットにしまい、煙草に火を付ける。

 まだ怪我が痛むので、焔はここのところ自宅で静養している。

 店には顔を出しているが、研究は家でも出来るので、次の

 COE会議までは休むことにしてある。


 自分の選択は間違っていない筈だ。

 あの時のことを思い出しながら、焔は断言する。


  あの時、睡眠薬で常川と優奈が倒れて行く中。

  呼びだし方など不審な点を感じていた焔は、用心してお茶を飲まなかった。


  三十分しないうちに、その判断が正しいことが分かった。


  騙されたと分かり、怒りが湧いた。

  所詮あちら側の人間だったと言うことか。


  焔たち3人を昏睡させることで得られる物を考えると、口封じしかない。

  焔はトイレに移動し、次に起こることを待った。

 

  しばらくしてドアが開く音がする。

  そっと足音を忍ばせて入って来た人物が、ごそごそと何事かしている。

  水の音と、きな臭い臭い。


 (灯油をまいたのか!)


  その人物がドアを閉める音がしたのを確認すると、

 焔はすぐに寝室へ向かい常川と優奈を運び出す。

 火の回りは早く、火災警報装置はなぜか作動しない。

 とても消防やフロントに電話している時間はない。

 二人を救助しながらも、焔は大声で火事だと叫び続けた。

 気付いた宿泊客に一縷の望みをかけるしかない。


 煙に巻かれながら、なんとか二人をドアの外に運び出した時、

 他の宿泊客たちは既にホテル側に誘導されて逃げ始めていた。

 逃げる彼らと逆方向に、こちらに向かってくる人がいる。

 

 野坂だ。


 焔が「協力者」であることを知らない野坂は、

 ぎょっとして立ちすくむ焔を無視して、今来た部屋へ入って行く。

 中が火の海であることを悟ると、その場にへたりこんだ。


 館内の誘導をしているスタッフが、焔と野坂に気付いて

 早く外に出るよう促す。

 仕方なく共に外へ向かう野坂。

 二人分担いでいる焔には、優奈を引き受けましょうと担いでくれた。

 憔悴しつつも、野坂は今昏睡しているのが、優奈と常川だと知って、

 涙を流して喜んだ。


 すぐに二人を安全なところへ運び出す。

 ホテルには、あの部屋で何か異変が起こっているかもしれないから

 見て来て欲しいと言う匿名の電話があったとスタッフが言った。

 おかげで早めに火事に気付き、客たちの避難誘導が

 すみやかにおこなわれ、被害はほとんどなかった。


 面倒なことになりそうだ。

 焔は野次馬に紛れて、姿を消した。


 車に乗ってから、すぐに野坂にメールをする。

 こういう時、メールだけのやりとりはまどろっこしい。

 返事はなかなか返ってこなかった。

 やはりホテルで消防などに捕まっているのだろうか。


 「どういうつもりだ?」


 野坂はあっさり電話に出た。


 「あなたこそ私を騙していたのでしょう?あなたは塔堂なんかじゃない」


 「……」


 「責めているんじゃないの。これを機会に私もそろそろ罪を償うわ。

  5年前のことも含めて。あなたも私が恨めしいでしょう?」


 「自首するのか?」


 「私は放火犯ですもの。それにハラスメントの加害者でもある。

  償いをするわ。あなたもそれを望んでいるはず」


 「十分償ったと僕は認識している。今まで十分協力してくれた。

  それに今日の火事は……」


 言葉を被せるように、野坂は言う。


 「私がやりました」


 「なぜ?」


 「全てを無に帰すため。でも敵わなかった。だから潔く自首する。

  やっと決心がついたの。これが今まで目を背けていた自分への罰。

  ……もう決めたことなの。野暮なことはやめてよね」


 それが野坂との最後の交信となった。



11


 常川と優奈が退院して初日。


 野坂が逮捕されたことは、朋谷の自殺と関連付けられて

 研究室でも話題になっていた。

 例のブログに挙げられているらしき人物たちが、

 次々と亡くなっているらしいことは、既に学内でも噂に

 なっている。


 ブログを作成した人物に殺されたのではないか。

 5年前のハラスメント関係者が、今になって復讐を開始

 したのではないか。1つの研究室で行われたことでもあり、

 山瀬研究室には野次馬が押し寄せて、困惑している。  


 それともここ最近の厳しい審議会のここ最近の審議会の

 厳しい裁断が切っ掛けで何か道を踏み外したのではないかとも、

 学科内では憶測を呼んでいる。


 当然アカハラへの厳しい措置を提案した焔にも、風当たりが強く

 なっているようだ。肝心の焔は学校には出てきてないらしい。


 後悔して自分も自殺しているんじゃないか。

 恥ずかしくて、大学に顔を出せないんじゃないか。

 

 好き勝手な噂で、優奈は腹をたてる。


 「関係ないですよ。当人たちは、学生を自殺を思うほど痛めつけ

  てきたんですから。自分が少し痛い目を見たからと言って、

  自殺したところで何の同情もしません。どうして焔さんが怒られ

  なければならないのですか?」


 「まあまあ、そんなに怒るな。でもこいつらが皆自殺するって

  確かにおかしな話だよな?噂になったのが遅い位だ。

  そんな奴らじゃない」


  野坂の供述通りだと、野坂はただ手紙を送りつけて罪悪感を

  上付けただけで、殺してはいないと主張している。


 「……もし誰かが殺したのなら、やっぱり5年前の事件の被害者の

  関係者ということになりますよね。私なら殺してしまうよりも、

  ずっと生きて反省し続けて欲しいですけれど」


 「土岐等か、芹沢の家族か。会ったことあるけれど、とてもそんな感じで

  はなかったけれどなあ。土岐等の家族は、怒っていたけれど、あくまで

  法律で裁くことに拘っていたし、芹沢の家族も息子が加害者だって

  信じ込まされていたから」


 「真実を知ったらまた変わって来るんじゃないですか?

  それにもう一人のハラスメント被害者は……? そうだ常川さん、

  その被害者の学生さんに会ったことはあるんですか?」


  この頃になると、常川がこの事件に関して独自の主張を持っている

  ことに気づいていた。芹沢家や土岐等家にも顔を出しているし、

  この被害者にも何らかのアクションを起こしたと考えてもおかしくない。

  

  自殺説など様々な憶測が流れているその学生。

  遺族が学内での話し合いで主張を退けられて以来、彼は姿を消した。

  あれほど大学当局側を怨んでいた彼の、沈黙。

  これが自殺説を裏付けたのだろう。


  「ない」


  「でも常川さん、この事件にはすごく反応するのに。もしかして

   この人も、行方不明か自殺したんですか?」


  「そうじゃない。怖かったんだ。そいつの行く末を知ってしまうのが。

   今とんでもなく悲惨な暮らしをしているとして、どうやって償えば

   いい?」


  「……もし人生が狂ってしまったとしたら、きっと小田切先生たちが

   何事もなく暮らしていたことが絶対許せないでしょうね。野坂さん

   からしたら、相談員として不正に加担したわけなんですから、罪悪

   感で協力したり、庇ったとは考えられませんか?」


  「一理あるな。昔に怨みがあることが、弱みに繋がることもある」


  「その学生さんを探しませんか?向きあう勇気があるのなら」


  「仕方ない。非常事態だ」


   そういうと常川は携帯メールを押し始めた。

 


12


 「嘉納君だ」


  それが学部生の名字だと老人は、大分小鳥に食われた

 木越しに遠い山を見ながら応えた。

 ここに至るまでの道のりは長かった。


 手始めに常川のメールによる、元院生たちへの調査を開始し、

 優奈は各研究室の名簿を調べた。


 院生と学部生の距離は思ったよりも大きい。

 何か特別な係をしていない限り、接触を持つこと自体ない。

 常川は後輩にも調査対象を広げた。

 途中で退学した学生は、名簿からひっそり削除されてしまうので

 名簿からは足跡を辿れない。

 大学内の事件は、多くの場合名前が公表されることはないので、

 新聞からも辿ることはできない。


 各教員に尋ねようとも、教師受けのすこぶる悪い常川が聞いても

 調査は捗らない。優奈も新入生なので、先生に質問する程の

 人脈が無い。調査は難局を極めた。


 「もう野坂さんに、直接聞いてみようぜ」


 「庇っているのは誰ですか、って聞いて素直に教えてくれると

  思いますか?」


 「そうじゃない。そいつもハラスメント相談室に行った可能性がある。

  だから記録があるんじゃないか?刑事さんでもいいけれど」


 「自首したんだから、拘置所にいるんですよ。どうやって連絡を

  とるんですか?どのみち刑事さんと連絡とらなければいけないなら、

  刑事さんに聞いたらどうですか?」


 「そいつとは、警察を介入させる前に会いたいんだ。それは困る」


  我がままだと困りつつ考えて、優奈は言った。


 「土岐等さんのご家族はご存じじゃないでしょうか?」


  退学処分を覚悟してまで、独りで土岐等の味方をした学部生だ。

  土岐等が入院している間に、一度も見舞いに来ていないとは

  考えられない。


  常川は難しい顔をする。


 「まだ命日は先なんだがな」


 渋っていた割には、すんなりと住所録を出してきた。



 土岐等あかりの祖父、浩輔と面会できたのは、それから3日後の事だった。

 車で2時間ほどかけて到着した土岐等家は、政令指定都市から1時間ほど

 離れた田園地帯で、土岐等家自体大きな田圃を持っていた。

 田圃の中にぽつんと建つ日本家屋の平屋建て。

 都市部で生活して来た優奈には、新鮮で思わず見惚れてしまう。


 「命日にはまだ早いのに、よく来てくれたね」


 「はい。言い辛いのですが、今日はお願いがありまして……」


 普段とは違う常川の丁寧語を聞いて、優奈が思わず目を見張る。

 最大限の礼を尽くした言葉で、もう一人の被害者についての情報を

 教えてくれないかと尋ねる。


 「何か大学であったのかい?」


 常川は5年前のアカハラ事件の関係者が3人も、不慮の死を遂げたことを

 話す。いずれも自殺して処理され、遺族の意向もあり、新聞には掲載

 されていない。祖父は大いに驚いた後、悲しげな顔をする。


 「野坂さんだけでなく、他に誰か背後にいると。そう君は思うのかい?」


 「確かではありません。でも万が一そうであるなら、今度こそ……」


 「君にまでそう力まれては、ミイラ取りがミイラになってしまう。

  しかし、そうか。まさかそこまで……」


  開け放した引き戸から、秋の風が吹いて来る。

  近所で草を焼く匂いが、どこか懐かしい。


 「それであかりさんの味方をしていた学部生の方の、今どこに

  いるのか御存じであれば、教えて頂けないでしょうか?」


 「……あの子にはもうこんなことに関わって欲しくない。

  そう思って今まで黙っていた。これからもそうであって欲しい」


 「では、知っているんですか?」


 初めて優奈が会話をした。


 「すまんが、今の居場所は知らない。あれから私たちの前からも

  姿を消してしまった。死ぬ前には会いたいと願っているんだが」


 「じゃあ、せめて名前だけでも」


 もうよせと常川が言う。


  「失礼しました。すみません。悲しいことを思い出させてしまって。

  帰る前に、仏壇に手を合わせても宜しいでしょうか?」


 「ああ、もちろん。ありがとう」


  別室にある仏壇は先祖代々を祭っているらしく、大きな檜塗りの

  大型のものだった。

  仏前には綺麗な仏花が供えられている。


 「きれいなお花ですね」


 「ああ。月命日には必ず墓に供えてある。たぶんあの子なんだろう。

  私が勝手にそう思っているだけだが。それでも嬉しくてな。

  まだあかりの事を思い出してくれる人がいることが。

  ……常川君。あんたも毎年来てくれる。ありがとうな」


 「いえ、加害者の俺にお参りさせて頂けるだけで感謝しています」


  優奈も仏前に座り手を合わせる。

  線香の立ち上る香りにどこか見覚えの感じた。


 「一つ聞きたい。もし野坂さんに協力していた人が、あの子だったら

  君たちはどうするつもりだ?」


 「分かりません。ただ謝って、一緒に考えたい。そう思っています」


 「それは贖罪の為か?」


 「いえ、自分の為です。ただそうしたいだけです」


 「そうか……」


 それきり二人は黙ってしまい、そのまま土岐等家の車庫に置いてある車

 まで送ってくれることとなった。


 その時にふいに歩みを止めた浩輔は、空を仰いで言った。


 「嘉納君だ」


 「土岐等さん……!」


 「嘉納君を宜しく頼む。田淵とかいう先生のところに所属していたはずだ。

  そしてどうか伝えて欲しい。私たち家族は今でも嘉納君を、家族のように

  思っているから、いつでも帰って来て欲しいと」


  そういうと浩輔は頭を下げた。

 

 「約束します」


  常川も負けじと頭を下げて、二人はこの美しい田園地帯を後にした。



13


 田淵研究室へ問い合わせると、住所録と集合写真を渡す代わりに、

 もう金輪際アカハラ関係では関わってくれるなと念を押された。

 共犯罰則規定が余程怖いのだろう。

 

 二人で行って見ると、その住所地に立っていたのは新築の和風建築だった。

 御殿のようにすら見える。

 

 表札は「嘉納」と出ているので、間違いはないとインターホーンを

 押してみる。中から出てきた女性に、探し人の名前を告げると

 「あんた誰?」と疑わしい顔で言い放つ。

 

 とっさに答えられないでいると、さっさと戸を閉めようとするので、

 脅迫されているかもしれないと訴えた。あれ以降外の世界と断絶して、

 それで自分達に危害を加えることだけを糧に生きてきたのかもしれない。

 十分成り立つ仮定だ。

 

 「あの子はここにはいませんよ。今どこに居るのかも分かりません。

  死んでるのかも生きているのかも」

 

 「あなたが母親じゃないんですか?」

 

 「まさか。あれの母親はとっくに死にましたよ。殺されてね」


  女は、さも迷惑だとばかりに「もういいでしょ」と言い捨て、

  音を立ててドアを閉めてしまった。


  そのまま学校の中央図書館に行って、過去の新聞のバックナンバーを

  漁る。


 「ありました!」


  二十三日午後十一時ごろ。……丁目の自宅リビングで、この家に住む

  嘉納薫さん(四二才)が、血を流して倒れているのを帰宅した長男が

   発見し、119番通報した。薫さんは搬送先の病院で出血多量による死亡が

   確認された。

  刃物のようなもので全身を数十か所を刺され倒れていた事から、

  殺人事件と断定し、捜査本部を設置。司法解剖をして、詳しい死因などを

  調べている。捜査本部によると、部屋に荒らされた様子はなく、凶器も

  見つかっていない。薫さんは長期間入院しており、当日は無断で帰宅した

  ところで、事件に巻き込まれた可能性がある。

 

 「この長男の人が、その学部生なんでしょうか?」


 「……これ続報あるのか?犯人は捕まったのか?」


  その後数時間費やしたが、結局続報は見つからなかった。


  犯人だとしたら同じ場所に住んでいる訳はなく、

  犯人ではないなら一層住み続けるのは気持ち悪いだろう。

  先程の様子も合わせて元の住所には、この学生は住んでいないと

  考えるのが普通だろう。

  あまり上手くいっているようには見えない、あの女性にもう一度

  聞くべきだろうか。結果が既に推察されて、見通しは暗い。


  既に外は暗く、物悲しい音楽が館内を流れる。


 「続きは明日にするか。今日はもうこれ以上何もない」


  グー。


  ここまで来て、夕御飯を食べていないことに気付いた。

  時刻は夜十時。

  空腹なのも当たり前だ。

 

 「豪快な音だな」


 「十時の時報ですよ」


  その日は、近所の定食屋で食べることにした。

 

  こうして食事をしていると、ここ最近の日常から遊離した出来事が

  本当にあったことか疑わしい。確かに関わった人たちは皆姿を消して

  いるが、それも日を過ぎればすぐ慣れる。

  自分がある日突然いなくなったとしても、こんなものなのかなと

  焼き鮭を食べながら、少しだけ優奈は無常感を感じる。


  一方常川は情緒の欠片もなく、かつ丼の大盛りに食らいついている。

  そこへ例のアニメの主題歌が流れる。

  周囲の学生やサラリーマンが一斉にこちらを見る。

  優奈は恥ずかしくて、他人のふりをする。

  常川は平然と「お、メールだ」などと言いながら、携帯をいじる。


 「これは……」


  画面を見て絶句している常川。

 

 「何なんですか?」


 「いや、お前は見なくていい」


  そう言いながら携帯を操作して、何かに気付いた。

 

 「あ、でもお前にも送られているのか。いいか、今日のメールの

  添付ファイルは全部消せ」


 「は?」


 「もうお前は巻き込まない。悪かったな、今まで」


  急に常川がそんなことを言うものだから、優奈は気が削がれてしまった。


 「どうしたんですか?今までの所業を反省したのなら、いいですよ。

  許してあげます」


  いつものふざけた調子で返しても、常川の顔は真剣なままだ。


 「俺はお前が、あちら側の人間だと思っていた。違うと分かった以上は、

  監視する必要もない。それだけだ」


 「あっち側って……」


  COEに引き入れたのも、アカハラ事件のことを話したのも、全部

  優奈の行動を見張る為だったと言う。


 「俺は、相手の怨みの深さを、絶望を力に変える力を分かっていなかった。

  二人も亡くなった今、お前は俺に付きあう必要はない」


 「そんな、ここまで来て!気持ち悪くて寝られません!」


 「お前、寝られないどころか、永眠するかもしれないんだぞ」


 「大丈夫です!たぶん……」


 「途中から気弱になるなよ。……まあ、巻き込んだのは俺だしな。

  その代わり危なくなりそうになったら、すぐに戦線離脱だ。分かったな?」


 「はい」

 



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