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 「密葬には参列したが、棺桶の中までは見られないようになっていたな。

  余程状態が悪いのかと、遠慮していたんだが。あれは遺体自体が

  なかったんだな」


 常川は当時を思い出して納得する。

 

 葬儀の時に死因を溺死と説明されたので、あまり顔を人に見せたい状態

 ではないと思っていた。参列者も好き好んでみたがる者はいないし、

 遺族の嘆きも一方ならず、場の空気を悪くしてまで詮索する者もいなかった。


 「自殺を偽装したということですか……。でも、それは芹沢さんが自分で

  やったことかもしれないじゃないですか?山瀬先生たちは知らなかった

  んじゃないですか?」

 

 縋るように優奈は、山瀬を見る。

 是か否か分からない目の泳ぎ方をする山瀬。


「証拠があるんです。小田切先生のパソコンから、その日のフェリーの

 チケットを塔堂の名前で購入した証拠のメールが出て来ました。

 あなたはこの期に及んでも、自分の手を汚さない。卑怯な人だ」


 焔が証拠らしきA4サイズの紙を見せるが、山瀬は観念しているのか

 じっくり見ようともしなかった。代わりに手に取った常川が言う。


 「そこまでして知らない訳が無いよな。小田切が塔堂に為りすまして、

  フェリーに同道したのか」


 軽く頷いて肯定を示すと、焔はチケットの赤丸の付いている箇所を

 見せるように、付きだす。


  「芹沢は徒歩で。小田切は塔堂の名を騙って、塔堂の車を運転して

  カーフェリーに乗りました。二人は示し合わせて自殺を演出して、

  カーフェリー用の通路から下船し、チェックの際には係員に

  見つからないように隠れていたのでしょう」


 チケットには確かに、塔堂の名前と電話番号、車検についての記載が

 残されていた。後は推して知るべしと、常川が続きを引き受ける。


 「歩行者の下船口には現れないから、チケットを確認した時に人数が

  足りなくてスタッフに捜索される。そこで演出された自殺現場を見て、

  海上巡視船に捜索を依頼するって寸法か!」


 それを焔が更に補強する。


 「探しても渦が強い海域だったら、巻き込まれたと断定されやすい

  ですからね。もちろんそれを期待した上での所業でしょう」


 「でも塔堂さんは、その時点で既に行方不明なんですよね。どうして

  小田切先生が塔堂さんの車検証を持っているんですか?もしかして」


 山瀬の方にくるりと優奈は向き直る。


 「もしかして、先生たちは塔堂さんも行方不明扱いにしただけで、

  本当は居場所を知っていたんですか?」


 澄んだ目で見つめられて、山瀬は思わず顔を背けて視線を逸らす。


 「あなたの口から話すべきだ。意味は分かりますよね?」


  意味が分かりすぎるのか、一層顔色を無くして、山瀬は震え始める。

  壊れたように下を向き「許してくれ」と幾度も繰り返す。

  せめて時間でもやろうと考えたのか、焔はそこは飛ばして、

  話を続ける。

 

 「この時に嫌な役を果たした小田切への見返りが、助手の地位です。

  ゆくゆくは教授職も視野に入れてのことでしょうね。そうでないと

  説明がつかないのです。同じくらいの業績で、どちらかと言えば

  他の三人よりも、「良い子」な分突出したところのなかった小田切が、

  抜擢される理由など。それにそこまでの秘密を共有するなら、

  手元に置いておかなければいつ手を噛まれるのか、分かりませんからね」


  ここで一旦切って、焔は山瀬の顔を見た。

  山瀬はまだ根本的な疑問に答えるだけの勇気が形成されていないようだ。


 「だからこそ小田切は絶対に、今回のことを知られたくなかったのか。

  芹沢が死んだように仕向ける決定的なことをしたのは、自分なのだから

  その後の芹沢の行動によっては犯罪の方棒を担いだことになる。

  それに能力もないのにポストをもらった自分が、その事件を上手く

  処理できていないことがバレたら、山瀬に失望されて、ポストも剥奪

  されてしまう。だからこそ弟子である佐々木と一緒に内々に解決

  しようとした」


   焔の説明でおおまかのことを理解した常川が、後を引き受ける。


 「それを見越して山瀬と朋谷との間を分断したんだな。自分が狙いでは

  ないと知れば、あえてこの連中が死地に飛び込む訳がない!」


  見事にその作戦は当たった訳で、協力してことに当たられては、全ての

  作戦も駄目だったのかもしれない。

  5年間「敵」を観察し尽くしてきたことだけはある。


  一旦動き出したら、どちらかが力尽きるまで止まらないのが復讐。

  失敗は許されない。それだけの覚悟の上での作戦に、不正の砂上で

  足元を塗り固めただけの加害者たちが、敵う訳が無いのだ。


  それでも直ぐに負けを認めるのが悔しいのか、山瀬はなおも抵抗する。


  焔の表情は変わらない。

  日常を淡々とこなすかのように、整った容貌は皺ひとつも変化は

  なかった。ただ歩を進める。

 

  貴重な青春時代の5年間を犠牲にして復讐に全てを捧げた男。

  ここまで来ても山瀬に改悛の気持はなかった。
  問題が表面化したのは、やり方がまずかっただけ。
  問題を複雑化させた、土岐等と焔には純粋に憎しみしかない。

 

 「上手く周りに合わせることが出来ない方も悪いだろう。
  病気がちなのに、無理して研究室に入られても迷惑だ。

  こちらはもっと大きな問題を抱えているのに、問題を

  複雑にしたのも、元はと言えば……」


  子どもが悪事が露見して開き直ったような態度。

  人前で断罪された経験のない山瀬は、学会以降止める間もなく

  批判された鬱憤をここぞとばかりぶつける。

  だが焔は、そんな不快な文言を最後まで言わせない。

 

  「当たり前の事をせずに、詰まらない隠蔽に終始しているからだ。

   逆切れせずに、真摯に反省すべきだ


 言い訳も切れてきたのか、突如山瀬は殴りかかって来た。

 あっさりとかわす焔。

 5年前に階段から突き落とされたひ弱な体躯は、見違えるほどに

 鍛え上げられ、反対に焔はその手を交わすと、素早い動作で

 喉元を掴み、ベンチに押し付けた。



9


 あの時、山瀬は進退きわまっていた。正直土岐等あかりになど、

 構っている余裕はなかった。それぐらい簡単に片を付けられる。

 土岐等は体が弱い。思いきった行動などできまい。

 

 生意気にも権利を振りかざしハラスメントと訴えてくるが、

 学生達も証人になってやる訳が無い。恐れるに足りない存在だ。

 思いもかけず、粘るものだから、面倒なだけで。

 微細な問題に過ぎなかったのだ。


 それよりも頭を悩ませる大きな問題があった。

 保管庫からの、劇薬の盗難‐。

 一度ではなく定期的に。少量ずつ盗まれている。

 本来は発覚次第、すぐに保健所に届けなければならない。

 同じころに頻発していた連続殺人事件と、関連付けられれば面倒だ。

 山瀬は監督責任を問われるのではないかと、気が気ではなかった。


 それなのに。

 土岐等があんなことを言いだすものだから。

 

 「先生が公にしないと言うのであれば、劇薬の件は大学本部に

  告発します。……私に対するハラスメントも外部へ訴えます。

  覚悟してください」


 いつになく強気で断言されて、山瀬は土岐等を前にして初めて狼狽する。

 土岐等に対する自分の接し方が不適切であると、山瀬が自省したことは

 この時点まで一度としてなかった。

 確かに気に喰わないのが先立つことは認める。

 だが、これくらいのことをしている教員はいくらでも見てきた。

 訴えるなどいちいち大げさだ。面倒くさい。今まで籍を置いてやったのに。

 第一誰も山瀬に対して意見をしなかったではないか。

 なぜ山瀬だけ反撃を食らわねばならない。


 気に入らないのにいつまでたっても大学に居続ける、

 放逐することはできないのに、いつまでも目の前から消えない。

 そもそも他教室から教員の都合で移動してくるのでなければ、

 入門すら許さなかった。目障りだが、思い切った行動を

 とるつもりはなかったのだ。自滅していくのをただ待っていた。

 それなのに‐。


 劇薬の事さえなければ。

 ハラスメントなど口封じをしてしまえば良い。

 どうせ証拠などない。

 

 土岐等に思い切った行動をとらざるを得なくなったのは、

 ひとえに彼女が劇薬がなくなったことに気付いたことにある。

 

 普段は厳重に管理されている劇物保管庫。特別な実験でない限り、

 普段は使うこともない。その為薬品の点検は、使用する度にするのが

 慣例となっていた。

 それで大事には至らなかったし、問題は一切なかった。


 手続きは一括して、年度初めに管理責任者である山瀬が研究員

 全体に許可とカードキーを渡し、使用した後に使用量と、氏名、

 用途等を記入することになり、それに基づき月に一度確認する

 ことになっていた。


 内新面白くはないが、その劇薬の使用無くしては、土岐等の実験は

 全く進まなくなることが明確であり、それまで拒絶しては実験そのものを

 拒否することになる。

 数名だが他の研究室からの使用者も存在するので、土岐等を

 あまり邪険に扱って、面倒なことになってもつまらない。

 それこそアカハラのレッテルを張られてしまうので、さすがに

 そこまではできない。山瀬は渋々許可を出していた。


 そこであかりは見つけてしまった。


 劇物が一定量ずつ減少していること。

 そしてそれは少量ずつだが、全て合わせれば何十人をも殺せる

 だけの量であることを。

 

 いつもは自分が山瀬の気に障っていることを感じてか、近づこうとも

 しない土岐等だが、こればかりは報告せずにはいられないのか

 メールでその件を訴えてきた。他の学生にも訴えたのかもしれない。


 だが山瀬の普段の行動の賜物か、学生達が劇物のことを気にかけている

 ようすは一切ない。いつも通り土岐等に対しては無視を繰り返している。

 とても訴えられる状態ではないだろう。

 そのまま捨て置けばよいものの、山瀬に訴えてきた。

 それどころか他の教員にも訴えるかもしれない。

 

 仕方なく、後日呼び出すことにした。実際にその薬品は少しずつ

 無くなっていた。確実に一定量ずつ。

 規定により、基本的に劇物保管庫の鍵は、山瀬研究室が管理している。

 保管庫を使用したいものは、研究室にある使用許可証に記入し、

 山瀬と事務の承認を経て、初めて使用することが出来る。


 土岐等の話では、毎日のように劇薬を使用する実験をし、使用者の

 劇物使用量をチェックしてもおかしなところはなく、外部の第三者が

 使用許可証もなしに、無断で劇薬を使用している可能性が高いと

 指摘した。


 「これは盗難です。すぐに警察に届け出をするべきです」


 誰にも口外しないことを約束させようと言ったにもかかわらず、

 土岐等は劇薬の盗難だけでなく、今までのハラスメントの事実も含めて

 届け出ると明言した。


 薬品の紛失が、何らかの事件に発展するかもしれないのだから、届ける

 べきだと言って譲らなかった。確かに一定期間内に届け出るのは義務だ。

 

 だがその時山瀬には、それが出来ないだけの理由があった。

 数年後に行われる学会長選。

 それに向けて、わずかでも不利益になることは排除しなければ

 ならない。その布石として、ハラスメント室長にも立候補した。

 学会長には実績だけではなく、人格も求められる。

 面倒事などアカハラなんてもっての他だ。

 こんな些事で挫折するわけには。


 だから山瀬は‐。



10

 

 遡ること、5年と少し前。

 

 県全域に渡って、殺人事件が散見するようになった。

 被害者の年齢。性別。職業。発見場所。

 全て統一性がなく、それぞれ別件で捜査されていた。

 それをこの頃から警察は、関連性があることも視野に入れ、

 同一犯の通り魔的犯行の可能性を示唆して治安強化に勤めていた。


 同一犯だと仮定した場合、なにしろ犯人には「拘り」がない。

 怨恨、動機、嗜好が見当たらない。

 ただ殺したいから殺した。

 ある意味純粋過ぎる程の理由で、犯行を重ねている。


 象徴的なのが一年前に起こった、別荘での一家心中事件。

 当初は心中と考えられたが、心中の動機がない。

 不審者が侵入した形跡はないものの、付近では連続殺人が頻発している。

 違和感を感じた警察の調べで、遺体から毒物が発見されたことが、

 報道された。人体には殆ど骨になる程の激しく燃え、そこにも第三者

 による介入が示唆された。


 土岐等が山瀬に毒物のことに気付いた時点でも、警察は一件の

 殺人事件を追っていた。

 いつものごとく、被害者に怨恨の線は見られない。

 

 この事件を受け、あかりは真っ先に山瀬に劇薬の盗難として届けるべき

 だと促した。

 学内、いや研究室内に犯人がいる可能性もあると。


 山瀬は躊躇した。


 あの実験室に入るにはカードキーが必要だ。

 それを持っているのは山瀬の研究室だけ。

 万が一その劇物が保管庫から持ち出されたものであるなら、とんでもない

 責任問題となる。

 新聞には未だその毒物の入手ルートが特定されていない。

 大学街でも入手できないことはないものだが、時期と場所を考えると

 関連付けるのが普通だ。

 

 「うちの研究室に殺人鬼がいるのかもしれない。それでも

  放っておくんですか?もしかしたら捜査に大きな進展が見込めるかも

  しれないのに」


 「それを判断するのは私だ」


  そう告げると、土岐等は心底あきれ果てた顔をして言った。


 「明日までに警察に行かないというのであれば、私はハラスメント案件と

  共に、このことも告発します。これはさすがに無視することはできない

  でしょう。マスコミにも伝えます。今までと同じだと思ったら大間違いです」


  今までにないあかりの強気にたじろぐ。

 

 (小生意気な)


 そのまま踵を返すあかり。

 これまでにない焦燥感。

 防衛本能のまま、山瀬は行動した。

 芹沢に電話を。

 

 「私はこの時点で、芹沢君が殺人犯だということを知っていた」



11


 実は劇薬が少しずつ減少している異変に、土岐等よりも前に気付いた

 者がいたのだと、山瀬は呻くように言った。


 「塔堂君だ」


 常川が広めた噂話はあながち嘘ではなく、塔堂が殺人現場に

 肝試しに行ったことが発端だったという。


 「その時のことは俺の方が良く知っている。塔堂と俺は、研究室の

  外では意外と仲が良かったんだ」


  肝試しに行くと行った時も、その実況をネットに上げた方が

  面白かろうと提案したのも常川だった。その肝試し実況は

  中々好評だったが、結局何も起こらなかったことで文句を言われ、

  お調子者の塔堂は、他の殺人現場まで足を延ばしてしまった。


 「そして途中で更新が途切れた」


  その類のネット実況では、面白がられる展開に、「あいつやるなあ」

  と常川はその演出に素直に感心していた。何人かのネット閲覧者は

  本気で塔堂を案じて、ネット内で待機している。

  半日経っても戻ってこないので、さすがに電話して見ると、

 

  「俺、とんでもないものを見てしまったかもしれない」


  何を見たのか聞いても、間違いかもしれないから、今は言えない。

  証拠が必要だとしか言わない。


  それから連絡の取れない時期が続き、

  最後のメールを最後に完全に消息が途絶えた。


  「確認した。劇薬保管庫で話をつける」


  そのメールを最後に、塔堂は姿を消した。

  ずっとその日に起こった真実を知りたかったと、常川は唇を噛みしめる。


  その続きを山瀬は知っていた。


  「塔堂君も、土岐等さんのように私に劇薬が少しずつ減少しているようだ

   と報告してくれた。その時も私はしばらくは伏せておくようにと

   指示した」


  焔のあからさまな侮蔑の視線に、山瀬は言い繕う。


  「勘違いかもしれないし、良く調査してからでも、遅くはないと

   判断したんだ。塔堂君も、調べるのに協力してくれると約束してくれた」


  これが悲劇の切っ掛けになった。

  

  「連絡を受けて劇薬保管庫に行った時には、塔堂君は冷たくなっていた。

   横には芹沢君が、平気な顔をして立っていた……」


  思い出すだけで戦慄するのか、山瀬は震えている。


  その日は遅くまで実験のある日で、研究棟に残っていたのは

  佐々木と小田切、芹沢、塔堂、朋谷だけだった。

  備品を取りに行った芹沢。

  トイレ休憩のはずの塔堂。

  実験は佳境を迎えており、山瀬達3人は手を休めなかった。

  その時に山瀬の携帯にメールが受信された。


  「芹沢の仕業。今確認」


  メールを受け取った山瀬がすぐに、塔堂の意図していることを

  察すると、実験に関わっていた全員で見に行く。

  しかし着いた時にはもう。

  芹沢が獲物を屠った後だった。

  ぐったりとした塔堂の横で、冷酷な笑みさえ浮かべている芹沢は、

  その華奢な顔つきが月明かりに照らされて、場違いに美しかった。


  「それで皆さん、どうします?」

  

  芹沢は今話題の連続殺人の犯人であることを、得意げに自ら告白した。

  どのみち現行犯で塔堂を殺したのだ。言い逃れはできまい。

  犯行を見られ言い逃れできなくて怯えるなどということはなく、

  芹沢は取引を持ちかけた。


  自分の要求を飲めば、今ここから生きて返してやると。


  彼の地位はこの時を境に一変した。
  その場を切り抜けても、芹沢は自分の存在自体が皆の枷となることを
  よく理解していた。

  「芹沢君の要求は唯一つ。自殺を偽装して、死んだ人間になりすます
   ことだった」

  土岐等も気づいたことで、山瀬に降ってわいたアイデアが、
  ハラスメント事案の責任を被ってもらうことで、代わりに自殺を
  偽装する両者が納得する筋書きだった。

  5年前から全く連絡は取っておらず、今どこで何をしているのか
  すら分からないという。

  「それが、
それがお前たちが余計な過去を穿り出したせいで、
   警察が嗅ぎつけたと感じて、証人を殺して回っているんだ。

   余計なことをしてくれた。寝た子を起こしてしまったんだ」



12

 
 「全部お前の自己保身が招いたことだ。同情の余地はない」

 冷たく言い放つと、焔はまだ地べたに座り込んでいる山瀬の
 顎を持ちあげて、警告する。

 「散々その地位を利用して嫌がらせを繰り返した揚句に、
  芹沢の件が露見しそうだからと、無実のあかりさんを死に
  追いやった」

 激昂する訳でもなく、冷静な言葉の端々に本気の怒りを
 滲ませる。

 
「すまない。申し訳ない。本当に悪かったと思っている」
 
 軽蔑と怒りを宿した焔の目に恐怖を感じて、山瀬は再び土下座する。
 もう人目を気にしている余裕はなかった。

 「今更謝罪だけで済むと思うな。お前のその場限りの謝罪に
  何の効力も信憑性もない」

 ぐいっと山瀬の襟元を持つ手に力を込める。

 「足りないな」

 「どうすれば許してくれる?どう償えば満足する?私に死ねとでも
  言うのか?」

 焔は土下座する山瀬の頭を思い切り、足で踏みつける。
 
 「お前のようなクズが、死のうが何の感情も湧かない。
  たとえようもなく不幸になれ。惨めったらしく生地獄を
  のたうちまわれ。それが僕の、お前の被害者の生きる糧となる」
 

 

 もう十分だと軽く山瀬の頭を蹴飛ばすと、表情を変えることもなく、

 歩を進める。数歩進んだ先で一度立ち止まり、念を押すように言った。

 

 「……死んだくらいで、許されると思うな」


 頭上から響く声に、おずおずと顔を上げた山瀬は、焔の底冷えするような

 双眸に肝を冷やして、顔を情けなく歪める。

 

 「これからだ」


 泣きそうな顔で哀願するその顔は、焔に充実感しかもたらさない。

 勝ち誇った顔で焔は告げる。


 「これからお前の本当の地獄が始まる」


 これから何が起こってしまうのか。
 これ以上山瀬を追い詰めるようなら、そろそろ助けに動かないと。
 戦々恐々と見ていた優奈だが、焔はもう気が済んだのか、
 振り向くこともなくその場を去った。

 常川も優奈に帰ろうと促す。
 優奈は山瀬が心配で迷ったが、山瀬自身もこれ以上惨めな姿を、
 教え子の前で晒したくないだろうと常川に諭されて、
 その場を後にする決心がついた。

 山瀬はしばらくその場に座り込んでいたが、周囲から人影が
 なくなると、漸くよろよろと帰路についた。

 圧倒的な憎悪を直接ぶつけられ、山瀬は消耗しきっていた。
 
自分の不幸を本気で願う人間の存在。
 数年かけても萎えないその怨嗟に、恐怖を感じる。
 
厳しく断罪された経験のない山瀬にとっては、衝撃だった。

 だが本当の地獄は、まさにこれからだった。
 
 連日の大学からの呼び出し。
 ネット経由で、今までのアカハラの内容が晒されているらしく、
 公表している研究室の電話番号には、内外から批判の電話が
 鳴り響いた。
 厳しくなったアカハラに対する処罰規定により、
 退職を前にして懲戒免職の危機にあるのも屈辱的だ。
 警察からも事情聴取を要請される。
 今まで金魚のフンのように付いてきた者たちは、
 態度を一転させ、口を極めて人格攻撃をしてくる。

 それでも山瀬は謝罪をするつもりはなかった。
 謝罪をしてしまえば、認めたことになる。
 すなわち負けを認めることだ。
 絶対に受け入れる訳にはいかなかった。

 膠着状態が続いた末に、山瀬は殺人容疑で立件される
 可能性が出て来た。大学側は当然のように自首を奨めるが、
 山瀬はこれも当然のように拒否した。

 (ついに、殺人犯扱いか……)
 
 動揺冷めやらぬまま、車を運転するハンドルを切る。
 自宅駐車場になんとか車を停める段になって、
 ようやく山瀬は落ち着きを取り戻してきた。

 目を閉じ、深呼吸をする。
 週末なのだから、その間に調子を取り戻し、策を練れば
 まだ戦うことは出来る筈だ。
 山瀬の力はそれほど脆弱なものではない。
 
  プラスのイメージ・トレーニングをすると少しだけ自信が
 戻って来る。車を降り、駐車場の鍵を閉める。
 いつもの動作が家庭での安心感を与えてくれる。
 山瀬が自宅の玄関の戸に手をかけると、「先生」と後ろから
 控えめな声がした。

 田中優奈だ。

 実験補助のバイトを、楽しそうにしてくれる女子学生。
 佐々木のように、見返りを要求しない。
 妻のように、必要なことをさっとこなすだけではない。
 田中の純粋すぎる程の尊敬の念は、まぶし過ぎるくらいで。
 それに応えなくてはと、倫理の圧力すら生み出す。
 先程の過去の告白を最後まで聞いたのであるなら、山瀬に
 さぞかし幻滅したのだろうと、顔を真っ直ぐに見ることが
 できない。

 今、一番会いたくない人物。

 そんな山瀬の心境を知ってか知らずか、
 いつも以上に田中は遠慮がちだ。

 田中は何とか山瀬と話し合って、自首を勧めたいと
 いう一心で迷惑を承知でやってきたと、なぜか
 頭を下げながら言い訳した。
 間違えたら謝ってやり直せば良いと。
 まぶし過ぎる言葉で、一生懸命かき口説く。
 
 そういうのは逆効果だ。
 山瀬は反省も後悔もしていない。
 ただ面倒な相手に捕まってしまった己の運の悪さを、嘆くだけだ。
 格下と舐めていた人間からの思わぬ逆襲に驚いただけ。
 
 響くはずもない正論を吐く田中の声は、興奮して大きく
 なっていく。内容からしてこれはまずいと判断した山瀬は、
 仕方なく家に上げることにした。
 
 今日は娘も早めに帰ってきて、妻も家に居る。
 今までのことをどう説明していいのか、
 頭が痛いことばかりが続く厄日だ。

 田中に聞こえないように、山瀬はため息を吐いた。
 



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