閉じる


<<最初から読む

98 / 139ページ

10



 朋谷の事案は成立してすぐの適用、かつ他大学の人間にも適用
 しうるという前例を作ったことから、大きな注目を浴びることになった。
 もちろん賛成だけではなく、管理的になると反対の声も上がっている。
 学内自治の問題とも絡む。
 発案者の焔はその波に、必然的に立ち向かうこととなった。
 
 その日、優奈が月例の研究報告へ焔の研究室へ行くと、
 中から別のメンバーが出て来て口に人差し指を宛てて、
 静かにしろと合図をした。
 「月例報告です」とそっと書類を手渡すと、自分では分からないので
 申し訳ないが出直してくれないかとドアを閉められた。
 珍しいこともあるものだと、書類を鞄に戻す。
 ドアの向こうからは、興奮して話している男性の声がした。
 切れ切れに聞こえる声は、焔のものだ。
 
 (これは居ずらいな。締め切りはまだだし、後から行くか)

 ところどころ聞こえる内容からして、ハラスメント規定の厳格化
 について男は怒っているらしい。

 やむをえず、研究室に戻る。
 少し前にやって来た常川が、朋谷から佐々木の行方がもしかしたら
 COEの本部に連絡が行っているかもしれないから聞いておいてくれと
 言われたと面倒くさそうに言ってくる。
 朋谷自身は「いろいろ問題」がある為、聞けないのだと言う。

 「聞けと言うなら聞いてきますよ」と返すと、常川はやっぱり一緒に
  行きたいと、後を付いてきた。ちょうど小腹が空いたから、
 あそこの研究室のクッキーが食べたいそうだ。
 一時間ほど時間を潰してから、訪ねると焔が少し疲れた様子で出てきた。
 
 「さっき来てくれたのに、無駄足をさせてしまってすみません」

 声の張りはいつもと変わらない。
 さっと書類を受け取り目を通すと、「大丈夫です」といつもの型通りの
 言葉を言って、踵を返そうとする。

 「あの、さっき何かあったんですか? すごい声がしていたから。
  頼りにならないかもしれないですけれど、私の時に聞いてくれたから
  良かったら。話を聞かせてくれませんか?」

 ずうずうしいことを申し出てしまったかと、優奈は少し緊張したが
 焔は秘密にするでもなくさらっと教えてくれた。

 「例の規約のことですよ。あれが適用されると、いろいろまずい人たちが
  なんやかんや会議以外の場で、言ってくるんです。審議会に入って
  いない人たちは、自分の知り合いの伝手を頼るか、自分自身で実力
  行使するかの二択しかないですからね。必死になるのも頷けます」

 「納得している場合じゃないですよ。私よりもひどいことをされて
  いるんじゃないですか?」

 「初めから承知の上ですよ。何かを変えるには抵抗がある。当たり前
  のことですよ」

 「でも私の事件がきっかけですよね……」

 「田中さんのせいではありません。いずれ議論すべき話だとは思って
  いたんです。良い機会をもらって、礼を言わねばならないくらいですよ」

  いつものごとく紅茶をそっと入れると、例のお菓子と一緒に
  出してくれる。

 「ああいう人がまだいるんですね」

  佐々木を想像して、優奈は陰鬱な気分になる。
  
 「さっきの先生はハラスメント加害者じゃないですよ。学内の自治について
  の持論を言っていただけ。少しヒートアップしていたけれど。
  他の人ももっともらしいことを言って、要するに自分のしたことを
  隠したい人もいます。結構面白いですよ」

 黙ってクッキーを既に5つは腹に納めた常川が、流れをぶったぎって
 要件をいきなり切り出す。

 「そんで思い出した。佐々木が今どこにいるか、COEの事務局で
  分かるかな?私物を置いたまま連絡が取れないし、マンション
  にも帰って来ないから、参っているんだよ。佐々木の友人の、
  朋谷って奴、あいつも探していて、皆知らないんだよな」

 「まさか、自殺……」

 優奈は、向こうに非があるとはいえ、自責の念に駆られる。

 「あいつが自殺する性格かよ。どっかに行方くらましている
  だけだろ。でもなんかひっかかるんだよな。あいつ外面良く
  するのに命懸けているから、研究室もマンションもそのまんまって
  いうのが、解せないんだよな」

 「う~ん、僕たちの研究グループは、佐々木先生とは違いますからね。
  どちらかと言えば、山瀬先生のグループの方の方がご存じなのでは?
  もし正式に住所を変えられたのであれば、COE本部にも住所変更の
  連絡が必要ですし、事務方も連絡を取ろうとする筈ですよ。この
  番号ですから、電話してみてください」

  そういうと、研究室に戻って電話番号のはいった書類をファイルから
  取り出すと、前に置いた。常川は早速電話してみる。
  時刻は午後四時三十分。
  結構ぎりぎりだ。
  その間に、優奈は焔に話しかける。

 「そういえば、婚約者さんも一度来たことがありましたね。山瀬先生も
  毎日のように心配されています……」

  優奈はいかにも自信にあふれたスーツ姿の男性を思い出している。
  佐々木の婚約者なんて、どれだけ怖い人なんだろうと想像していたが、
  会って見たその人は、礼儀正しく穏やかな人だった。
 
 「そうですか。はやく見つかるといいですね……本当に」

  「本当に」と言った時の焔の目が意味深で、優奈は一瞬びくっとする。  
   得体の知れない不安が湧きあがる。

 「知らないってよ。全くヒントとかなしかよ」

  常川の言葉で我に帰った。


11


 芽生の遺体が見つかった。

 

 絶景で有名な寺院のふもとに位置する崖の下だった。

 行楽シーズンに備えて、崖の傍には転落防止の柵が張り巡らされており、

 万が一落下した時の為に、救命用の網も用意されているのだが、

 有名ポイントを外しての落下だった。


 紅葉を見る観光客も落ち着いてきた頃だったので、目撃者はなく、

 場所も観光ポイントからは外れていたので、事故死として処理された。

 大学にも一応警察が調べに来たのだが、一連の不祥事に関与していると

 分かってからは、自殺であろうと、事故死であろうと同じであろうと

 判断したのであろう。


 観光客への注意を踏まえて、新聞にごく小さく掲載されたこのニュースに、

 朋谷は震え上がった。

 転落死として処理されたことが信じられない。

 

 たった半年の間に、一つの研究室から死人が2人も出ている。

 そして皆二人とも脅迫を受けていた。

 それにはどうやら5年前の事件が関わっているらしい。

 これほど怪しい条件が揃っているのに、周囲をスキャンダルで固められて

 自殺をしてもおかしくはないという舞台を用意されている。

 

 誰かが絶対に裏で暗躍している。

 思い浮かんだ人物は‐。

 

 (ありえない。そうならない為に、俺たちは‐)


 教え子が二人も命を落としても、山瀬は 動かなかった。

 脅迫について知らないのだろうか。

 まだ脅迫が届いていないのかもしれない。

 朋谷よりは山瀬に対しての怨みの方がはるかに深いはずだ。

 それは自信を持って言えるが。

 誰をどんな順序で仕留めるのかは、それこそ脅迫者の自由。

 自分の身は自分で守るしかない。


 朋谷は行動を開始した。

 やられる前にやらなくては。

 朋谷は警察に出頭して、全てを告白することを 決意した。

 もう大学でのハラスメント行為も甘んじて引き受けた後だ。

 今すら何を怖がる必要がある。

 

 朋谷は脅迫に屈しない決意をした。

 


12


 5年前の事件。

 元はと言えば山瀬が自己保身のためにやったこと。

 小田切も佐々木も自分達の罪が露見するのを恐れていたみたいだが、

 自分の命にかかわるのならそんなこと微細な問題だ。

 手をこまねいている場合ではない。

  

 否そうではない。

 本当の闇は他にある。

 常川など部外者は、さっさと罪を認めよと他人事だからこそ

 訳知り顔にふるまえる。

 真実をしったら、それこそそんな涼しい顔はしていられないくせに。

 

 妙に聡い連中が警察を呼び、それが一時露見しそうになった。

 あの時にいっそ全てが白日の下に晒されていれば、今の状態は

 招かなかったのかもしれない。

 重い過去と引き換えに手に入れたのは、今も尚業を引き受ける

 因果な家業。実に馬鹿らしい対価だ。


 (もう自由になりたい)

 
 
山瀬にメールを送信する。
 またもや無視されるのかもしれない。

 願うような気持ちで。

 それでも山瀬自身分かっているはずだ。

 ずっと無視を続けていればやり過ごせる相手ではないと言うことに。


 その時メールの着信を知らせる音がした。

 意外な相手からだった。


 

 「よお。まさかお前が招いてくれるとはな。他に人も連れて

  来たけれど、まあ構わないだろ。おじゃましまあす!」


 常川が連れてきたのは、大人しそうな年上の女性だった。

 和琴大学でハラスメント相談所の職員をしていると自己紹介をする。


 誰かが自分を狙っている以上、外に出るのは危険だった。

 話の内容を聞かれるのもまずい。

 そうなると必然的に、芹沢は常川たちを招くしかなかった。

 奴らも、佐々木と小田切と順番に死んだことと、5年前の事件とに

 関連には、前々から気付いていたらしい。


 佐々木の婚約者との繋がりで知り合ったと言う女性は、

 野坂と名乗った。


 「とりあえず酒でも出してくれ。あ、そいつは酒癖悪いから

  水な」

 

 そういうと常川はどかっとソファに腰を下ろした。

 当の野坂はというと、慣れているのか少しも気にする仕草もなく、

 ソファーの端っこに座った。


 「この写真を見て下さい」


 朋谷はその写真を見るなり、様子が変わった。

 弾き飛ばされる写真。

 とっさに優奈が拾った写真には、古ぼけた手鏡が映っていた。


 「お前、芹沢が死んだ時、その場に居たな?」


 「何言っているんだ。あいつはフェリーから飛び降りてで自殺したん

  だぞ。その時もう大学を退学していた。

  どうして俺が……」


 「それじゃあどうしてそんなに怯える? これは小田切が初めて

  受け取った手紙に同封されていたものだ。自殺件場に置かれていた

  ものなんだ。知っていること言うことは、その自殺に関与している

  ことを意味するんだぞ」


  写真の手鏡は、芹沢の祖母の形見で、普段は机の引き出しに大事に

  閉まわれていたと言う。死亡後は芹沢を可愛がっていた叔母が、

  つい最近まで保管していたと言う。今では仏壇の前に供えられているが、

  


  「自殺後にこの手鏡を知っている可能性は3つしかない。

   1つは、芹沢が生きている間に、見せてもらった。

   2つ目は、自殺した時点のことを知っていた。

   3つ目は、つい最近芹沢家にお参りに行った場合。

   お前の場合は、2つ目しか可能性はありえない」


  静かに座っていた女が、野坂がここで口を開いた。


  「和哉は、その鏡をそれは大事にしていましたから、生前に

   見せることはありえません。つい最近にお参りに来た友人が

   来たらしいですけれど、その方はあなたとは全く異なる外見

   だったとのことですし。それ以外で、仏前であの手鏡を見た方は

   いないはずです」


  「……」


  反論できないのか、朋谷は押し黙った。

  同時に手鏡の事を詳しく知る野坂は、何者なのかといぶかしむ。

  

 「お前たちが都合の悪い事実を被せて、和哉を殺したってことも

  考えられるんだよ」


 「違う。それは絶対に違う!」


 「小田切と佐々木が脅されていたのは、俺と田中もずっとその経緯を

  見ていたから事実だ。相手が持ち出すのは5年前のアカハラ事件に

  関係していたことを、認めさせることだった。お前には本当に何も

  脅されていないのか? もしそうなら同じ内容か?」


 「そうだ。でも俺は今ちょうどそのことを警察に、告白しようと

  思ったところだ。アカハラは警察の管轄外だが、身辺の

  保護をしてもらう必要がある」


 「脅迫がここまで来たんだな」


 「ああ。俺はこのままやられたくはない。アカハラだってやりたくて

  やったんじゃない。ここまできて山瀬先生も知らんぷりを

  決め込んでいる。

  だから言われた通りの事をやって、一人だけでも助かりたい」


 「なんて脅されているんですか?」


 「アカハラの事実を認めて、関係者を特定すること。芹沢を殺したなら、

  自首すること。そうでないなら自殺事件をもう一度、殺人の観点で

  再捜査をお願いできる程度の証拠を提示すること」


 一度確定された以上、簡単にそれを覆すことはできない。

 噂程度では駄目なのだ。

 確固とした証拠。もしくは自供が必要だ。


 「本当に俺たちは、芹沢を殺していない」


 「土岐等あかりさんの件は? 誰の指示によって行われたんですか?」


 「あれは確かに俺達が追い詰めた。でも初めにやりだしたのは

  山瀬先生だ。段々、ゼミの中でもそういう立場でいいんだっていう

  雰囲気が出来て来て、孤立しないでいる為には、それに多少は関与

  しないとやっていけなかった。

  自分の将来を投げ打ってまで、身を呈して助けるなんて普通は無理だ。

  そんな人間はいないんだよ。お前だって分かっているだろう?」


 「山瀬先生がそんなことする訳がありません!」


  今まで静かにしていた優奈が、叫ぶ。

  今まで佐々木や小田切に送られてきた怪文書にも、山瀬の責任を

  問う文面はなかった。

  優奈は到底納得できないという態度だったが、他の二人は

  そんなことは了承事項だと、優奈の反論を無視して話を続ける。   


  「佐々木と小田切が口封じで殺されたとしたら、お前は本当に

   大丈夫だと言えるか?」


  「もちろんだ」


  野坂も畳みかけるように、問いかける。


  「真実がどうではなくて、その犯人にあなたがどう思われている

   のかが大事なんですよ」


  「まさか山瀬先生が口封じで殺して回っているとでも

  言いたいのですか?」


  「その可能性はありますが、同じくらいの確率で、あなたが犯人で

  ある可能性もあります」


  野坂の視線が鋭くなる。手元の携帯をぐっと握る。


  「違うなら違うと、その理由をお聞かせ下さい」


  「……警察で話します。身の安全を確保されないと話せないんです」



13


 

 「それと、もう一つだけ質問に答えて。当時在学していた学生さんで

  もう一人ハラスメント行為を受けた学生がいたはずです。その方に

  対するハラスメント行為も明らかにするべきだわ」


  怒りで顔を紅潮させながら、野坂は言った。

  ハラスメントを取り締まる側の、人間なのでアカハラ事件の話題自体

  許せないのだろう。


 「少なくとも俺は知らない。常川、お前は知っているか?」


 「いや。だが塔堂に対するアカハラはあったかもしれないと疑っている。

  どうなんだ?そこら辺はお前の方が詳しいだろう?」


  塔堂のお調子者の性格は、加害者にも被害者にもなりうる両極端の

  可能性がある。被害者側なら、失踪して復讐の機会を狙っている

  可能性がある。加害者なら、もっと大きな罪を犯して隠れている

  かもしれないと、常川は推理する。


 「例えば、芹沢を自殺に見せかけて殺したとか……」


  野坂は息を飲む。

  

 「違います。その人は被害者です」


  やけに力説する野坂。

  

 「それはない」負けじと朋谷も断言する。


 「探しても見つからない。見つかる訳が無い」

 

 やけに確信をもって朋谷は言った。


 「お前、奴の居場所を知っているのか?」


 「……もうよせ。変に嗅ぎまわると後悔することになるぞ」

 

 「私はその方が、生きていることを知っています」


 この会話は、野坂の持参した盗聴器を通じて、「協力者」に伝えられる。

 野坂は自分が「協力者」に貢献できて、誇らしく思う。

 

 「厄介なことをしてくれた……」


 だが野坂の正義感は、「協力者」の正体を晒す危険な物に他ならない。

 盗聴器からの音源を確認しながら、舌打ちする「協力者」の存在など

 想像すらしていない、野坂は得意げに重要情報を聞いた「敵」の反応を

 楽しむ。


 「もし生きているとしたら、それは……。いやそれより、あんたは

  誰なんだ?ただの大学の職員だからって、来た訳ではないだろう?」


 野坂が、芹沢の叔母だと打ち明けると、朋谷は驚きを隠せなかった。


 「本当に犯人を探しているんですか? あなたは別に狙われていないでしょう?」


 「犯人を探しているのではありません。私は真実を知りたいだけ」


 「どうせ警察で話すことだ。良いだろう。……塔堂なら死んだ」


 「どうしてお前が知っている?遺体が見つかっていないんだぞ」


 「殺されたんだ」


 「……」


 野坂は訝しそうな目で、朋谷を見る。

視線を感じた朋谷は、野坂の視線を避けるように顔を逸らした。


 「誰に?」


 「それは警察で言う」


 もしもの時の為に、自分の知っていることを伝える目的は果たした。

 もうこの珍客たちは用済みだとばかり、朋谷はあからさまに帰宅を

 促した。家主に急かされては仕方がない。三人は気まづい雰囲気のまま

 帰路に着いた。


 野坂は自分の軽自動車で、常谷は優奈を助手席に乗せて来た、

 三人で駐車上へ向かう時、野坂はぽつりと言った。

 

 「あの人は嘘を言っています。私は塔堂さんが生きていることを

  知っています」


 「ど、どうして知っているんですか?」


 優奈は驚いて尋ねる。

 優奈だって、山瀬がアカハラに関与しているとは思いたくないが、

 反論するだけの証拠は今ここにない。


 「誘われたんです。一緒に復讐をしないかと」


 場合によっては脅迫罪に加担したことにもなりかねない内容を

 あっさりと野坂は打ち明ける。


 「ですから少なくともその人は生きています。

 ……ひどくアカハラ加害者の方たちを怨んでいることは確かです」

 

 野坂もその復讐に手を貸した以上、不安で告白できなかったと伝えた。

 朋谷もその一人である以上、口にできなかったと言う。


「信用できません。警察に何を言うつもりか分かりませんが、嘘をついて

 いるのかも。あのハラスメント加害者として、名前が出ていたのが2人

 だけというのも、おかしくないですか?どうしてあの男は入っていない

 のです?」


 野坂が言うには、朋谷は犯人と一緒になって仲間を粛清していったが、

 最後に仲間割れを起こして、自棄になっているだけだと推理した。


「でも、それだと自分のやったことまで警察でばれてしまいますよ」


「警察に殺人罪で捕まるよりはいいのでしょう」


 野坂は自分の推理に絶対的な自信をもっているようだった。



14


 あの晩のことは忘れもしない。


 深夜2時に鳴り響く携帯の音。

 要領が良く泣き言等一度も言ったことのない姉の、泣きじゃくる声。

 第一報は、甥が投身自殺を図った可能性があるというものだった。


 場所はフェリーで、甲板の上に遺書と靴、そして大事にしていた

 鏡が落ちていたという。

 遺留品の中に和哉のものとおぼしき学生証が出てきたことや、

 自宅に帰って来ていないことから断定されたと言う。

 最近は以前ほど頻繁には会っていないと言っても、

 自分の息子のように可愛がっていた甥だ。

 相当のショックだった。


 更にショックを与えたのは、和哉がアカデミック・ハラスメントを

 後輩にしていて、その後輩は。それを責められて退学処分をされていた

 ということだ。学生証の返還も要求されていたらしい。


 だが大学側は知らなかったのだ。野坂が和哉の叔母であることを。

 一連のアカデミック・ハラスメントの実情を把握していることを。

 もちろん和哉がハラスメントに関わっていたのは事実だ。

 だがなぜ和哉だけが死ななくてはならない?

 他の加害者は。一番の加害者の人間はのうのうと生きていると言うのに。


 新しく室長となった山瀬に会うたびに、憎しみを抑えるのに精いっぱいだ。

 和哉が亡くなったのは、アカハラ被害者とされる女性の家族が学校側と

 対談してから数週間後のこと。それまでには証拠は改ざんはしなかったものの、

 都合の悪いものは全て廃棄させられた。野坂は甥が関わっていることもあって、

 率先してその作業をした。数週間後に後悔するなどとは知らず。

 それでも表立っては立てつけなかった。このご時世心理士として

 職に就くのは至難の業だ。経験がいくらあっても、職を賭してまで

 山瀬に立てつくことはできなかった。姉夫婦も和哉自身が原因となった

 ことなら、文句を言える立場ではないと腹をくくったようだ。


 長いものには巻かれろ。理不尽でも頭を下げて事が終わるなら、

 事を大仰にするべきではない。

 学部生ならまだしも、大学院生は将来を教員陣に握られている。

 いくらその罪を訴えても、一時的なカタルシスが得られるだけ。

 訴えられるような人間はそもそも倫理規定など守る気すらない。

 勝手な言い分をでっちあげて、その学生を学界から追い出すだけだ。

 全てその学生に罪を圧しつけて。大学側も面倒事を起こす学生の追放には

 協力的だ。だから処世術として野坂は、保身を勧めてきた。

 学生の気持ちに寄り添う努力はした。でも上手くやれない人間が悪いと

 心の片隅で思っていた。実際あくまでそれに応じない者は皆大学を去る

 しかなかった。それは間違いではなかったと今でも思う。処世術は社会に

 出ても重要なこと。

 

 それでも山瀬の顔を見るたびに、己の無力さに腹が立つ。

 本当は怒鳴りつけてやりたいほどなのに。

 でも一番許せないのは、こんなに許せないのに愛想笑いをして

 その場をやり過ごして保身を図っている野坂自身。

 フラストレーションは汚泥となりその域を拡大して、

 野坂は身動きが取れなかった。




読者登録

Lavendulaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について