閉じる


<<最初から読む

77 / 139ページ

4


 「芽生!」

 

 挨拶もしないで黙って会場を飛び出した芽生を追いかける。

 追いついたはいいが、矢越は後に続く言葉が見つからない。


「送っていくよ」


本題には触れぬまま、とりあえず車に乗せる。

泣き続ける芽生に聞きたいことは山ほどあったが、

どれを取り出すべきか今の場にふさわしいのか分からなかった。

あそこまで仕掛けてきたということは、かなり計画的だということだ。

誤解だとしても、証明するのに相当の時間がかかるだろう。

 

「あれは嘘だよな?」


 「嘘に……嘘に決まっているでしょっ」


(このままでは済まさない)


 確かに自分のやったこととはいえ、もう少し場をわきまえるべきだ。

 声には出さないが、悔しくて芽生は泣き続けていた。

 

(一年前あの女は確かに、孤立無援で何もない唯若いだけの女だったのに)


  そう踏んでいたからこそ、脅威になる前に芽生は排除したのだ。

  今までこの観察眼は確かなもので、踏み台にしても良い人間を間違えた

  ことなどなかった。初めての失敗。それもこんなに惨めたらしい形で。

  

 (認めない。絶対に認めるわけにはいかない)


  気の利いた言葉をかけられないまま、矢越は芽生を見送った。
  せめて傍にと申し出る矢越を、芽生は断った。

 「信用できない。今日のことだって、あなたも知っていたんじゃないの?
  私に恥をかかす為に。だから……もう帰って」

 せっかく仲が深まるチャンスだと思ったのに。
 とんだ番狂わせだった。
 
 (大丈夫。一晩寝て、気力が回復すればまたなんとでもなる)

 だが芽生は知らなかった。
 更なる追い打ちが待っていることを。

 
 同じころ矢越も、後味の悪い思いで自宅へ戻った。
 正直誰にも会いたくない心境だったが、帰宅しないわけにもいかない。

 先程までの険悪な雰囲気もどこ吹く風と、皆楽しそうに二次会を
 始めているのを見ると、矢越こそ誰も信じられない気持になる。
 もう参加する気も起きなくて、自室に戻ろうとすると、田勢が目ざとく
 見つけて寄って来る。

 先程の音声データを保存してあるメモリだと言って、掌に押しつけてくる。
 
 
「証拠になりますよ……婚約破棄にもいろいろ証拠はご入用でしょう」

 矢越は一瞬殴ろうと手を上げたが、結局振り下ろした。
 なんであれ、今日は田勢のめでたい門出だ。
 ここで殴ったら、事態は一層悪化する。

 「私も、あなたの婚約者が事務所に来ては偽善的な言葉を口にするたび
  そういう思いを堪えてました」

 そう言ってグラスの酒を一気に飲み干す田勢。
 良く見れば、珍しく頬が赤くなっている。
 酔っているのだなと、矢越は思った。

 「そうだったのか……ひどく惨めな気分だな」

 「一杯もらおう」とスタッフからグラスを受け取ると、
 田勢と同じく一気に呷り、そのまま矢越は自分の部屋に直行した。
 とにかく今晩は何も考えたくなかった。


5


 あの定例会議に出席して初めてのバイトの日。

 

 優奈は緊張しながら行くと、佐々木は人を殺せそうな眼光で

 睨んできたが、それ以上何も仕掛けてはこなかった。

 学部生たちは経緯を知らされていないので、あれやこれやと

 噂し合っていた。

 常川が証拠集めがてら、何か言ってくれたのか今まで佐々木に

 追従していた学生達も、気持ち悪いくらいに優奈に気を使う。


 研究室の先輩も、そして一番懸念していた山瀬までもが

 自分を気遣ってくれる。

 

 あれ程苦しんだのが嘘のようだった。

 「正直、研究室の皆さんには裏切り者扱いされると思っていました。
  佐々木先生は誰とでも上手くやっていましたから」

 その日常川と焔と誘って、少し気が早い御礼を兼ねての
 飲み会をした。少ないバイト代でやりくりしているので、
 近所の安居酒屋だが、二人は喜んでくれた。

 「良くも悪くも、あいつらは「普通」だからな。デメリットのある
  流れには乗らないさ。山瀬にしても、いくら愛弟子でも、一緒に
  罪を被りたいとは思わないだろう。自分が関与してもいないことに
  明らかにクロの人間を庇って、処罰されちゃ敵わない」

  ビールをグイッと飲み干すと、常川は一気に捲し立てた。

 「あんたの共犯処罰規定が効いたな」

  常川が珍しく焔を労う。

 「本来ならずっと前に出来ていなければならない、規定です」

  酒を飲んでも全く顔色を変えない焔が、さらっと返す。
  そのグラスにビールを注ぎながら、優奈は尋ねる。

 「でも、あの規定を投票した時は、何だかおかしな雰囲気でした
  よね。どうして皆躊躇ってたんですか?」

 「どこまでも拡張していくと強権的になるからな。常に監視されている
  みたいになるだろう。それに冤罪も増える可能性がある。
  まあ、アカハラ隠蔽を無くすためには必要不可欠だけど、いずれに
  しても教員にとっちゃあ、もろ刃の剣ともなるわけさ」

 「反対にこの規定を理由に、したくもないアカハラ隠蔽を断ることも
  できます。強圧的にしない為には、これからどう規定を育てていく
  かにかかっていると思います」

 「にしても、良く言えたよな。お前、学生だから立場弱いんじゃないの
  か? あの後疎まれたりしてないのか?」

 「特には。僕の指導教官はそういったことには、先進的考えを
  持っていますからね。ほら、初めに賛成票を投じてくれた先生です。
  先生はご自身の考えをしっかりお持ちの人ですから。たとえ僕が
  先生と正反対の意見を言ったところで、それを理由に嫌がらせを
  するなんて、思いつきもしないですよ」

 「焔さんのところの先生も、山瀬先生みたいに素敵なんですね」

 「……」

 「そりゃ焔も黙るだろ。お前恋する乙女か。気色悪過ぎだぞ」

  常川を無視して、優奈は続ける。

 「私は他大学に通ってましたから、皆が皆素晴らしい先生とは思って
  いません。でも今回はひどすぎてかなりショックです。だって教員が
  学生に嫌がらせするなんて。5年前の事件だって本当のことかもしれない」

 「田中!」

  相変わらず常川は、この件を外部に漏らすことを嫌う。
  加害者とされる小田切や佐々木に、この件について一対一で意見する
  ことには積極的なのに、外に広がることを嫌がり、研究室ではあまり
  この件について触れようとはしない。
  
 「5年前の事件……ですか?」

 「5年前にも、佐々木先生と他の人たちが、病気の女子学生に
  アカハラした事件です。女子学生は最後には亡くなってしまったのに、
  その事件で処分を受けたのは、一人の院生だけだったんです。
  今回みたいなことがあると、
  あの先生ならやりかねないって思えますよ。本当に」

  小田切を脅していた脅迫者が作成したブログは、山瀬研究室内でも
  既に知られるようになった。山瀬からは内容は事実無根だから
  気にしないようにと御達しが出ているので表面化することはないが、
  元々都市伝説のように知られていた事件。
  佐々木の今回のアカハラ事件で、そのブログの
  おかげで噂が陰で再燃している。

 「飲み過ぎだぞ。その辺にしておけ」

  常川が優奈のグラスを取り上げる。
  
 「その話なら、学生アドバイザーの中でも話題に出たことがあります。
  学内で議題にするには時効を迎えた事件だったので、追求する人は
  いませんでしたが。佐々木先生が学生アドバイザーに就任したのは、
  その時の罪滅ぼしではないかと、囁く人はいます」

  今回の件で例のブログの存在も発覚し、学校側も現在対応に
  苦慮していると言った。

 「そこまでもう広まっているのか……。それで、ブログの作成者は
  特定されたのか?」

 「それはまだです。昔の事件ですし、人物名や大学名もイニシアルになって
  います。見る人が見れば一発で分かりますが、無関係の人には分かりにくい
  ものですからね。名誉毀損に当たるのかギリギリのラインです。それに
  大事にすれば、沈静化していた噂が再燃してしまう恐れもあります。
  大学当局も今のところは様子見と決めたようです」

  事情通の焔が、流れるように説明する。
  優奈はそんなところも、また頼もしく思えて、酒で紅潮した頬を
  ますます赤らめた。

 「できれば、特定しないでやって欲しい……。俺も誰か探しては
  いるんだ。そいつを責めたいんじゃない。会ってどうしても
  言いたいことがあるんだ」

  またもや手酌で自分のグラスに酒を注ごうとする優奈から、酒瓶を
  隔離すると常川は、顔をグラスの方へ俯けて言う。
  語尾の歯切れが悪く、珍しく頼りない。
  
 「間の悪い常川さんは、大学を休学していたから思うところが
  あるんでしょうね」

  酔って歯に絹を着せない優奈は、常川の様子を気にかけず、
  ばっさりと言う。困った顔をしながらも、核心をついた部分も
  あるのか、常川が呟くように言う。

 「全員顔見知りではあるがな。俺が休んでいた間に起こった
  ことは詳しくは知らない。その被害者の女子学生はもともと
  体が弱かったのは記憶にあるよ。佐々木もその頃から他人を
  見下すような奴だったな。顔がいいから辛口とか言われて
  持て囃されていた。今思えば、誰かがそこでストップをかける
  べきだった。まあ今回のことは良い薬だ」

  しばらく今回の成果を報告し合った後、なんとなくCOE関連の
  話しに移行した。

  「僕、そろそろ約束があるので失礼します」

  焔が帰ると言うので、常川も俺もと帰ることになり、結局3人で
  帰ることになった。常川はさっさと帰り、焔が送ってくれることに
  なった。開けてくれた車はどこか大人の匂いがして、初めて焔の
  私的な部分を解放してくれたようで、嬉しさに顔に熱が集まる。
 
  「焔さんの、約束はいいんですか?」

  「ええ。まだ間に合います」

  「どんな用事か聞いてもいいですか?」

  「……接客業です。随分元気になったようですね?」

  「はい。本当に焔さんのおかげです。あの、これ良かったら」

  そう言って渡したのは、銀色の指輪に紐を通したネックレスだった。
  
  「これ、母の形見なんです。若いころに好きな人にもらったもので、
   いつも大事にしていたものです。私、今貧乏で何も御礼できる
   ものがないから、せめて」

  「気持ちだけ受けておきます」

  「それじゃあ、私の気持ちが済みません。それに……その別の意味も
   入っていますし」

  「? そこまで言ってくれるなら、頂きましょう。大事にしますよ」

  送ってくれた跡には、ふわっと大人っぽい香水の匂いがして
  気分が浮き立った。  
   
  数日後、立て看板に優奈の事案が書かれるようになる。
  常川の仕業らしい。
  
 「結構パンクな感じだろ。これで審議も早まるぜ」

  常川の予言通り、審議の結果は翌週出た。
 


6


 週の初めの月曜日の朝。

 目が覚めてみると、昨夜の悪夢は現実のことではない

 ように思えた。

 朝食を作り、メイクを済ませ、大学へ行く。

 いつもと変わらない日々。

 芽生は少しずつ気分を回復させていった。


 出勤早々にメールをチェックする。

 これはいつもの日課だ。

 すると学部の授業以来殆ど話したこともない

 教授からメールが来ていた。


 「佐々木芽生様。先週の全学審議会であなたの名前が

  ハラスメント加害者として上げられました。本来は

  学科内で処理される問題ですが、あなたの場合は

  学生アドバイザーの職にあることから、全学審議会

  で調査されることになりました。内密に調査される

  べきことですが、今後の身の振り方を考える時間も

  必要かと思い連絡させてもらいました。これは進退の

  決し方を考える時間を教えるつもりであって、ハラス

  メント行為を助長する意思はありません」


 (何これ?)

 

  早速身に覚えがないことと、学内審議会に変えて欲しいと

  訴えても無理だと言う答えが返って来るだけだった。

  

  その教授は自分は反対したが、他の人の賛成のせいで

  この案件が全学審議会に回ったことをくどい程説明した。

  何とか他の委員に人脈を使って手を回すことは出来ないかと

  聞いても、今回に限っては無理だとクビを振った。

 

  「全学審議会で協力した人間も処罰されることが決まりました。

   ですから私もあなたに心当たりがあるのなら、協力する訳には

   いきません。冤罪であるなら、気を楽にして判断を待って下さい。

   審議会の判断は慎重です。私にはこの忠告メールが精一杯です」


  このメール以降、全く返事がなくなった。


  全学の審議委員は多種多様の学部から構成され、山瀬の力も

  及ばない。それならアドバイザーの職を辞したらどうか。

  全学審議会から、各学部の担当に戻らないのか?

  学生アドバイザー用の規約を確かめると、やはり覆すのは

  難しいようだ。

  

  この5年間で学内システムは少しずつ変わっていた。

  ハラスメント相談所で挙げられた事案が、各学部に戻されて

  処理されていたのが、初めから各学部で処理されるようになった。

  全学審議会は言ってみれば控訴審のような位置づけである。

  余程の事案でない限り、いきなり全学審議会にかけられることはない。

  少なくとも芽生が知っている事案で、いきなり全学審議会

  にかけられることなどなかった。


   ここ数年は学生お客様主義の傾向が強く、特に学部生が

  相手の場合はできるだけ穏便に済ませようと、被害者が納得

  できるだけの調査をするようになった。学部生の声をアセス

  メントして、大学運営に活かそうとする試みも活発化している。

  お客様をおざなりには出来ない。そこらへんの流れを考慮して、

  芽生は常に動いてきたはずだ。


  (じゃあ誰が私を……?)


  教授は、芽生に被害者の名前を教えてはくれなかった。

  院生は将来を掴まれているので、そもそも相談所に訴える

  事自体少ないのが現状だ。ならば学部生なのかと考えるが、

  訴えそうな学生はついぞ思い浮かばない。


  芽生は見えない敵に囲まれているような、居心地の悪さを

  急に実感する。

  そこへ来て急に昨夜の出来事が思い出される。

  あの新婦のように、絶対に逆らえないと思いこんでいた

  人間が、自分を執念深く怨んでいるとしたら。

  これからの自分の一挙手一同すら、恐ろしい。

  これをしたら誰がどんな反応をするのか。

  相手がどう捉えるのか。

  

  言葉づかい、行動、全て他人の怨みをかわぬように気を付ける。

  侮っていた相手ほど、牙を隠した恐ろしい相手に見えて恐ろしかった。


  同じメール欄に、最近では珍しく矢越から昨夜の非礼について

  謝罪するメールが届いていた。

  

  「内容はともあれ、大勢の前で君を辱めるような方法は、適切では

   なかった。誤解だと信じている。だから気持ちが落ち着いたら今後に

   ついて話し合おう。結婚は個人の問題だ。たとえスタッフでも親でも

   結婚について、口を挟まれる謂われはない。皆が悪く言うからと言って

   俺は君をそんな人間だとは思わない。自分で確かめたい」


  何をどう説明すればいいというのか。

  昨夜のあの招待客の白眼視。

  何を言っても無駄なくらいの、完璧な証拠。

  あの時、新婦は通話記録を一束持ってきて、喫茶店にいって電話を

  貸したその日時もしっかり記録してあった。

  言い逃れはできない。  


  あの土岐等あかりも、こうだったのか。

  白眼視。

  何をいっても取りつく島の無いこの状況。

  無力感。

  

  「皆に悪く言われるってことは、あなたに非がある証拠でしょ」


  当時はそう思っていた。

  悪く言われるだけの理由があるなら、本人に非があると。

  「悪く言われていること自体が、理由になんてならない」

  矢越はそう言ってくれた。

  どうしてその時に気付かなかったのか。

  気づいていたら、良く分からない変質者に付きまとわれることも

  なかったのか。


  (矢越だけでも味方につけなければ)


  今からでも遅くはない。

  芽生は矢越に面目が立つような言い訳を探し、学内の人間には

  最高の態度を示す。

  できることをするしかなかった。


  一週間もしないうちに、芽生は自分を訴えた相手が誰だか分かった。

  皮肉なことに、それは学生運動が立て懸ける立て看板からだ。

  自分の名前がでかでかと書かれ、授業手伝いの院生に嫌がらせを

  したことがペンキで書かれている。その看板は、全学審議会が

  早く裁判を行うようにと促すものだった。


  運動をしている学生には顔は知られていない筈だが、顔を隠す

  ように自分の研究室へ戻る。信じられない気持で一杯だった。


  田中優奈が自分を怨んでいる。

  そして周囲がそれを支援している。

  とてつもない恐怖だった。


  今まで侮っていた相手が、いつのまにか自分を追い詰める程の

  力を持っていた。

  今までは自分が嫌った人間は、周りも賛同して嫌ってくれたのに。

  

  (何とかしないと)


  まだ審議されていない今なら、優奈の口から審議を取り戻すことが

  できるはずだ。佐々木はすぐに学生の研究室へ行き、優奈を

  見つけると二人で話さないかと言う。このおどおどした学生なら、

  口で丸めこむ自信はある。


  「他の人もいる場所でないと、お話しできません」


  二人が話しているのに気付いた学生達が、一斉にこちらの様子を

  伺う。その目が何かを咎めているようで、芽生は何か言い訳を

  しないとと、用意して来た言い訳を述べる。


  忠告しただけなのに、悪口と言われて悲しい。

  学生と仲良くなれるように構ってあげただけなのに、

  嫌がらせと勘違いされた。

  そんなつもりじゃなかったのに、悪者扱いされた。

  そんなに嫌がっているなら、早めに言ってくれれば良いのに。


  皆事情を常川から聞いて知っているので、反応しようがない。

  何より自分達がずっと、リアルタイムで佐々木がやってきたことを

  見てきたのだから。今更なにをと呆れていた。


 「お前がどう思っていたかなんて、関係ない。やられた方が

  どう思ったかが重要なんだ」


  言葉を更に並べたてようとする芽生に、常川が宣告する。

  そのまま顔を真っ赤にして芽生は自分の研究室へ走って行ったが、

  誰一人後を追う者はいなかった。

  

  その日から3日後。

  全学審議会から事情聴取を受ける。

  その場にいたのは全員他学科の見知らぬ教授陣らしき 

  人たちだった。こういった手続きには慣れているのか

  人の良さそうな顔で、いきなり核心を突こうとはせず、

  こちらの意見を十分に聞くと言うスタンスだった。

  

  その日に備えて学生アドバイザーをしていた頃に読んだ教本を

  参考に、襤褸を出さぬようにと、細心の注意を払って自分の行動の

  説明をする。


  「お疲れさまでした。来週には審議会で結審されると思います」


  翌週、芽生への処分が決定した。

 

  佐々木の二カ月の停職処分と学生アドバイザーを懲戒解雇。

  学生アドバイザーに関しては、事前に結果を知っていたので

  依願退職し、実質上は二カ月の停職処分となった。

    


7

 


  常川が審議会の結果を伝えに、研究室の扉にぶつかるようにして

  入って来た。


  「やったな。佐々木の処分、停職2カ月だ!」


  今までに受けた心労に対する罰が与えられて、ほっとした半面、

  優奈は今後のことを考えると憂鬱でもある。狭い学会という世界で

  これから佐々木とどう折り合って生きていけばよいのか。

  この気まずい気持ちが一生涯続くのだろうかと。


  「また変な心配しているみたいだけれど、悪いのがあいつだから

   処分されたんだからな。お前は堂々としていれば良い。それより

   俺に何を奢るかの方を悩め」


  大々的に祝うのも躊躇われるのが、常川は言い出したら聞かない。

  仕方なくなるべく人目に触れない形で、祝勝会を検討していると

  佐々木本人が現れた。


  これは見物だと思ったのか、院生たちの視線がさりげなく、

  佐々木と常川に寄せられる。

  いつもは常川の事など丸無視の佐々木が、真っ直ぐに常川と優奈の

  居る方向に近づく。

  謝罪するのか。

  逆切れして罵倒するのか。

  息を飲んで皆が見守る中、芽生は常川を詰り始めた。

 

 「常川君が、晴人と組んで私と小田切君を嵌めたの?」


 「晴人って誰だ?」


 「トボケないで!良く考えたら常川君なら簡単よね。研究棟内の動きを

  知れるし、ITスキルもあるからウイルスだって作れる。小田切君の

  奥さんとも仲が良かったみたいだし」


 「またかよ。小田切と同じパターンじゃないか」


  小さく常川がため息を吐く。優奈はデジャブを見ているようだ。

  もっとも小田切バージョンを見ていない、その他の学生達には

  そこそこ興味をそそるらしく、皆固唾を飲んで見守っている。


 「全部お前らの自業自得じゃないか……。自殺までそうとは言わないが。

  それ以外の事は、人のせいにする前に、少し自分の頭で考えてから

  発言した方がいいぞ」


 「まるで私が芹沢君を殺したかのように婚約者に言うなんて、

  ひどすぎる。名誉毀損もいいところだわ!」


  行っている意味すら分からず黙っている常川に見切りをつけると、

  そこまで来て芽生は今度は優奈に歩み寄った。


 「どうせあんたが裏で糸を引いているんでしょ? 山瀬先生のことも

  私から奪っておいて」


 「……!」又殴られる。とっさにそう思った優奈は目を瞑った。

  芽生は激情に走る前に周囲の視線に気づくと、上げかけた手を下して

  捨て台詞を吐いた。


 「こうなったら山瀬先生の事も暴露してやるわ。私一人だけこんな目に

  遭うなんて冗談じゃない」


 「嘘を言って、先生を困らせるなんて最低ですよ。止めてください!」


  先程まで目を瞑って震えていた優奈が、両手を広げて前を塞ぐ。

  またもや怒りが込み上げてくる。

  山瀬を汚れないもののように崇拝しているような態度が、鼻につく。


 「やっぱりそういう事だったのね。言っておくけれど、先生の事を

  清濁全て含めて分かっているのは私だけだから。良く覚えておくことね」


 勢いづいて立ちはだかったものの、対面して睨まれると、

 優奈は今更ながら怖くなってきた。


 「おいおい、お前の相手は俺だろ。言いたいことがあるなら、俺に言えよ」


 これは面白くなってきたと、他のメンバーがちらちらと芽生を見る。

 他の研究室の人間も、騒ぎを聞きつけて集まって来た。

 さすがにこれだけの野次馬には勝てないと踏んだのか、芽生は憤懣

 やるかたない表情で、大きな音を立てて研究室から出て行った。


 残された空気は、期待はずれによる失望感。

 大事にならずに済んでほっとしてい座り込む優奈。

 常川だけはいつも通りけろりとしていた。

 

 自分の椅子に座りこんだ優奈の頭を、常川がぐりぐりと撫でる。

 

 「よくがんばったな」


 まだ目に生気がないままだ。

 余程緊張していたのかと、常川が声をかける。


 「あの、佐々木先生の最後の言葉って……。まさか……」


 「ああ、そういう意味なんだろうな」


 「……」


 それを聞いて以降、優奈は急に無口になった。

 無口でも常川の提案を無碍にすることはできない。

 優奈は心ここにあらずの状態で、焔も招いて祝勝会を

 開いた。資金の都合で、当然前と同じ安居酒屋だ。


 「……あの、どうしたんですか、田中さん?」


 ほとんど口を聞かない優奈を見て、焔が気にかける。

 いつもなら嬉しいシチュエーションだが、今日は素直に

 喜べない。


 「ああ、失恋だよ失恋。馬鹿馬鹿しい。それよりもこいつが

  ぼけっとしている隙にガンガン頼んで、こいつに払わせよう」


 「失恋じゃなくて、精神的ショックです!そんな不潔な……」


 「俺としては長年の疑問が解けてすっきりしたな。あいつがどうして

  態度がでかいのか。だから言っただろ。夢見すぎるなって」


 「普通先生と生徒が……なんて思わないですよ!しかも山瀬先生

  ですよ。ショックです。ショック過ぎて、今日は寝られないかも

  知れません」


 「そうか。ちょうど徹夜のゲーム大会といくか。焔、お前も強制参加な」


 「いや、僕はバイトが……」


 「焔さんは、おかしいと思いませんか? あんなことを皆の前で

  言うのは名誉毀損の猥褻罪です!」


 「絡むなよ。面倒くさいな」


  その場ですうすうと優奈は眠り始めた。


 「随分と先生を慕っているようですね」


 「ああ、こいつがあちら側の人間なら、純粋に過ぎるな」


 「?」


 「これ運んでおくから、先にバイトに行って来い。遅れて減給にでも

  なったら事だからな」

 

 その言葉に甘えて、焔は二人を置いて、店に向かった。

 



 『バイト』に向かう前に、焔は一件のバーに寄って行った。

  相手は先に来て既に飲み始めている。まだ待ち合わせの時間では

  ないが、女は既に数品も注文していた。自分もワインを頼むと、

   焔は女の隣に腰を下ろした。 


 「あなたには薄情に思えるでしょうね」


 「理解は出来ない。しかし批判するほど傲慢ではないつもりだ」


 正直な男に、天原は笑う。


「良く笑うようになった」


「変わったから。何もかも。この世界も捨てたものではないと分かったら、

 好きな物が増えていった」


「……」


「あなたのおかげ。ありがとう」


「自分で掴んだ幸せだ。胸を張れ。他人の助けなんて、所詮当てに

ならないものだ」


「そうかな。私は今回たくさんの人に助けてもらったし、感謝している。

……大事な物は1つに絞る必要なんて、ないのよ」


「おまえには 関係のないことだ」



1


  久しぶりの朗報のはずだった。


  突然降りかかった、アカハラによる停職処分。

  未だに心を燻り続ける不正経理疑惑。

  そんな中、矢越の方から会って話し合いたいと持ちかけてきた。

  最近はメールすらあまり返事のなかった矢越なので、

  一抹の不安もない訳ではないが、芽生にはこれを好機に変えるしか

  残された道はなかった。


 「君たちを脅していた人物を調査依頼するつもりだ。僕もその人物から

   君たちの事を直接聞きたい。結婚はそれから考えたい」


   矢越が持ちかけた提案は、思いもよらないものだった。

  アカハラ以外の芽生の所業を既に調査報告書で知っている、

  矢越のぎりぎりの譲歩だった。


 (もし脅している人間が、本当に逆恨みで罠に嵌めたことだったら、

  自分は取り返しのつかない失敗をしてしまう)


  そう判断しての賭けだった。

 

   これがラストチャンス。

   芽生も自分の信用回復の最期の望みを託すしかない。 

   誰が自分達を脅していたのか分かれば、結婚は何とかなるかもしれない。

  芽生もすぐに賛同した。

  

  芽生は候補になりそうな人物像を推理する。元業者の男は共犯として

 リストアップしておく。

 5年前のアカハラ事件に執着のある人物。

 

 一番に考えられるのが、アカハラ被害者の土岐等の関係者。

 

 実際に学内で山瀬と非公式の話し合いまでした。

 結果は土岐等の家族には納得の出来るものではなかった為、

 怒りを露わにされて困ったと山瀬が言っていた。

 未だに恨んでいることは十分に考えられる。

 

 二番目にアカハラの責を一身に負った芹沢の関係者。

 芹沢は全ての責任を負ったとはいえ、事実アカハラを行っていた加害者だ。

 家族はそれに負い目を感じていることは、葬式で確認済みだが、

 それ以降に何か事情があって心境が変化したというのなら、

 話は違ってくる。

 

 一週間後、調査結果が出る。

 芹沢家では、母親は専業主婦で時間的に余裕はあるものの、脅迫をする

 どころか、研究室に感謝をしていること。父親は退職後は、念願の喫茶店

 経営を始め、毎日忙しくて家にいない。喫茶店の従業員数や休業日を見る限り、

 とても小田切や自分を脅している時間的余裕はないとのことだった。


 (やはり土岐等家の人間の仕業か……)


 土岐等家の調査結果を見る。

 土岐等家の祖父母は、年金暮らし。祖父は趣味の郷土史の編纂を、

 祖母はもともと農家なので、そのまま農業を続けては、農作物を

 売買している。

 趣味とはいえ、本まで出している。ここ数年は途切れることなく

 執筆活動に邁進しており、定期的に郷土史をカルチャーセンターで

 教えている。

 母親は以前から勤めていた中規模の会社に勤めており、現在は

 役職にまで付いていると言う。


 「両家ともあなたを脅迫するような時間的余裕などありません」


 「……そんなはずは」


 焦燥と放心の交錯する表情を見て、矢越はもう無理だと悟った。

 ついにここまでの間、芽生の口から謝罪は一切聞かれなかった。


 「結局誰も出て来なかったな」


 できれば第三者と話してみたかった矢越だが、本人も心当たりがないよう

 であれば仕方が無い。結論を出すのは次回に回すことにした。




読者登録

Lavendulaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について