閉じる


<<最初から読む

75 / 139ページ

2


 「御来場の皆さまに、私どもの馴れ初めについてご紹介申し上げます」


 いつも生真面目な田勢が自分でマイクをとり、少し照れながら

 話し出す。


 「彼女は約一年前に、矢越先生の事務所にスタッフとして勤務し、

  そこで私たちは出会いました。その頃まだ二十歳そこそこなのに、

  気が利いて、どこか芯のある彼女に惹かれました」


 そこまで言うと、隣の新婦にマイクを渡す。


 「矢越先生の事務所に入る前に、私はある事情を抱えていたのです。

  それは……夫のドメスティック・バイオレンスでした」


 矢越もそれは知っていた。

 彼女は後援者の縁者で、見るに見かねた親族が父親に相談したのだ。

 矢越代議士はすぐにスタッフとして、事務所に来ないかと誘った。

 離婚するにはまず自立が必要で、その為には職がいると考えての

 ことだ。当人のプライバシーを考慮して、スタッフでもこの事情を

 知っていたのは、矢越くらいだった。


 「遠縁を頼ってこの土地に来ました。親族が矢越先生に相談したところ

  先生の御好意で、私はスタッフとして雇って頂けることになりました。

  本当に感謝しております」


 ここで新婦は代議士に向かってお辞儀をする。

 代議士はそれに向かって嬉しそうに頷く。

 

 「ようやく仕事にも街にも慣れてきた頃でした。家に突然夫が訪ねて

  参りました……」


 新婦の回想が始まる。


 その日の朝、出勤しようと化粧をしていた彼女は、インターンホンの

 音に反応して、ドアスコープで確かめもせずにドアを開けてしまった。

 この半年間、平和を享受していたせいで、感覚が麻痺したことを悔やむ。

 ドアを開けると、見覚えのある男が剣呑な目つきで待ち構えていた。

 口元だけが弧を描いているのが、アンバランスだ。


 「おい、俺から逃げ遂せるとでも思ったか? 職場もとっくに

  割れているんだ!」


 言いながら部屋に入ってこようとする男に、彼女は足の竦みが止まら

 なかった。


 「やめて」


  髪を掴まれた。この感触。暴力の前戯。

  身を強張らせる。

  今までされてきたことが蘇る。


  素早くドアを閉めようとする、隙間に靴の先が押し込まれ、

  素早く男が半身を滑り込ませる。男が侵入に半ば成功したことを見て取ると、

  女は後ずさった。思い出したかのように悲鳴を上げようとする口元

  めがけて、拳で思い切り殴りつけられ、壁に吹き飛ばされる。

  口の中が鉄のさびた味がする。端から血も流れてきた。

  夫はカーテンを素早く閉め切る。男が察する前に逃げ出そうと

  彼女は一気に駆け出した。

  だが夫もさるもの。すぐに気が付き玄関脇の台所に追い詰められてしまう。

 

 「お願い。落ち着いて」

 

 「落ち着けるか。お前は俺を裏切って逃げ出したんだ。俺があんなに

  お前の為に、金をかけてやったのに。何が不満なんだ。家からも絶縁されて

  行き場もないお前を拾ってやったのは、俺だろう?二十歳過ぎたばかりの

  小娘が、今まで贅沢な生活できたのは誰のおかげだ?」


 「私は自由な生活が欲しいの。ちゃんと自分を対等に見てくれる人が欲しい」


 朝食を作る為に使った包丁を手に取ると、夫は胸の前にかざす。


 「言い訳だ。本当は男がいるんだろ。浮気を正当化するな」


 「違う!」


 「だったら俺と一緒に死んでくれ」


 「嫌! 絶対嫌よ。死ぬなら勝手に死ねばいいでしょ? 私はもうあなたの

  犠牲になるのはまっぴらだわ」


 「わあああ」


 絶叫と共に、男が抱きつくように腹に包丁を刺した。

 絶叫を残して女は倒れた。

 ドアから尋常ではない様子に心配した、近隣の住民がドアを叩いている。

 女の絶叫に、扉を開けた住民を見て取ると、男はそのまま自分の腹を刺した。


 彼女は一命を取り留めたものの、重傷を負った。

 体の傷以上に、夫がどこまでも追いかけてくるという被害妄想に悩まされた。

 夫も自分を刺す時には、さすがに躊躇いがあったのか、軽傷で済んだ男は

 医療刑務所に入れられた。

 

 その後いつか必ず出てくる男の陰に怯えながら、新婦は隠れるようにして
 生きてきた。

 「そんな事情を全て知った上で、結婚しようと言ってくれたのが
  横に居る田勢さんです」

 ここで大きな拍手が起きる。
 小さな子どもを連れた若奥さんなど、涙を流している。
 
 拍手が止むのを待って、新婦は回想を続ける。
  

 結局、新婦は矢越代議士の紹介で知り合った弁護士を雇い、

 なんとか離婚へ向けての裁判に向かった。

 医療刑務所で思うところがあったのか、夫はこれ以上は危害を

 加えようとはせず、裁判もスムーズに進んだ。


 裁判所であったときに、女は元夫に尋ねた。

 どうやって新婦の居場所を知ったのかと。


 「女が教えてくれたんだよ。どこの誰かは知らない。お前の事

  嫌っているみたいだった。せいぜい足元をすくわれないように

  気をつけるんだな」


  新婦は巻き込まないようにと、世話になっている親族以外には

  友人にも自分の居場所を伝えていなかった。

  事務所にも数人女性がいるが、いくらなんでも

  嫌がらせの為に、自分の雇い主にまで損害を与えようとする人間が

  いるとは思えない。


 「答えは一人しかいませんでした」

 そういうと真っ直ぐ指を指す。

 「佐々木芽生さん。あなたです」


3


 

「私は縁戚のいるこの町に来るときに、くれぐれも誰にも知られない

 ように釘を刺されました。こちらで知り合った方たちは、夫の住所と

 電話番号を知る由もありません。縁戚はといえば、夫をとても怖がって

 いたので、私の居所を教えるわけがありません。当時私は縁戚の家に

 住んでいたのですから、自分たちも危険な思いをするのに、私の居所を

 教えるわけがないんです」


 そこで思い出したのが、佐々木だと言う。


 その頃矢越代議士の好意で、澄真は定期的に新婦の遠戚宅に来たり、

 遅くなったときには事務所から送ってやったりしていた。

 当時まだ婚約はしていないものの、矢越と佐々木は付き合っていたので、

 偶々それを何回か目撃をした佐々木が誤解をしたらしい。

 

 新婦だけにそんな配慮をしていることが分かると、スタッフ間にも良くない

 噂が出てしまう。そう思った矢越は、佐々木にだけ本当のことを

 言ってもよいかと新婦に尋ねた。新婦は自分とも夫とも何の接点もない

 佐々木なら、大丈夫と判断して快くOKした。


 だが独占欲なのか、佐々木は直接二人で話したいとまで言い出す。

 矢越も相当困ったようだが、やきもちもかわいいと思える時期だったようで、

 頼み込まれてしぶしぶ新婦は佐々木と二人きりで話をした。

 といっても当然のように話題は矢越のことくらいしかなく、本当に矢越と

 はなんでもない新婦は言われたことにただ答えていた。

 尋問のような会見もネタが尽きそうになると、佐々木は携帯電話を貸して

 欲しいと言った。


 「会って見たら、ちゃんとした良い人だって分かったって電話したいの。

  私携帯電話を矢越さんに預けたままだったの忘れちゃって」


 知らない人に携帯電話を貸すのは、いささか気分が悪かったが世話に

 なっている矢越家のためと、貸した。二人での会話を聞かれるのは

 恥ずかしいからと、携帯電話ブースに移動したのまでは確認している。


 あまりじろじろ見るのはいかにも信用していないようで、新婦は傍にある

 雑誌を見て過ごした。その後携帯で連絡をもらったという矢越が来て

 二人を送ってくれた。


 「私はそのときに、佐々木さんが夫に、私のことを告げたのだと確信して

 います。夫に電話番号を告げられる女性は、あなた意外にありえないんです」


 矢越もそのときのことは覚えている。

 以外に独占欲が強いんだなと思ったことと、暴力の被害者である新婦に

 ついていくら恋人でも話してよいのか葛藤したことは未だ記憶に新しい。


 「違います。私そんなことしていません!」


 パーティー参加者の視線がいっせいに、芽生に集まる。


 「……記憶違いということはないですか?」

  

 無言の圧力に、佐々木はおずおずと自分の意見を申し出る。


 「証拠があるんですよ」


 そういうと、今まで口を出さなかった田勢が用意しておいたパソコンで、

 音源を再生する。 

 

 「……奥さんは××県の矢越議員の地方事務所で働いています」


 短い文章かつ抑え目の声音だが、明らかに芽生の声だった。


 「……元旦那さんは、新婦から電話がかかって来たらすぐに居場所を

  特定できるように、会話を録音していたんですよ。後から再生して

  背景から聞こえる音から、居場所を推測する為にね」


 田勢は元夫と交渉して、あの音源を取り上げたのか。

 だとすると心苦しい作業だっただろうなと、矢越は胸が痛んだ。


 「これ、あなたの声ですよね」


 新婦が確信を持った声で、冷ややかに言った。


 「違う。違います」

 

 懸命に芽生が無実を主張するも、参加者はしらけた目で芽生を

 眺めるだけだ。否定する声そのものが、真実だと告げている。


 田勢は数枚の紙を纏めたものを持って、矢越代議士に渡した。


 「澄真さんが代議士になるのであれば、佐々木芽生さんと結婚することに、

  スタッフ一同反対します。これは皆の署名です。我々はその女性を

  代議士夫人として守り立てることはできません」


 悔し涙でぼやけた視界の中、敵意を放つ視線の直中で、

 芽生は独りだけ一際険しい目でこちらを睨む男の姿が見えた。



4


 「芽生!」

 

 挨拶もしないで黙って会場を飛び出した芽生を追いかける。

 追いついたはいいが、矢越は後に続く言葉が見つからない。


「送っていくよ」


本題には触れぬまま、とりあえず車に乗せる。

泣き続ける芽生に聞きたいことは山ほどあったが、

どれを取り出すべきか今の場にふさわしいのか分からなかった。

あそこまで仕掛けてきたということは、かなり計画的だということだ。

誤解だとしても、証明するのに相当の時間がかかるだろう。

 

「あれは嘘だよな?」


 「嘘に……嘘に決まっているでしょっ」


(このままでは済まさない)


 確かに自分のやったこととはいえ、もう少し場をわきまえるべきだ。

 声には出さないが、悔しくて芽生は泣き続けていた。

 

(一年前あの女は確かに、孤立無援で何もない唯若いだけの女だったのに)


  そう踏んでいたからこそ、脅威になる前に芽生は排除したのだ。

  今までこの観察眼は確かなもので、踏み台にしても良い人間を間違えた

  ことなどなかった。初めての失敗。それもこんなに惨めたらしい形で。

  

 (認めない。絶対に認めるわけにはいかない)


  気の利いた言葉をかけられないまま、矢越は芽生を見送った。
  せめて傍にと申し出る矢越を、芽生は断った。

 「信用できない。今日のことだって、あなたも知っていたんじゃないの?
  私に恥をかかす為に。だから……もう帰って」

 せっかく仲が深まるチャンスだと思ったのに。
 とんだ番狂わせだった。
 
 (大丈夫。一晩寝て、気力が回復すればまたなんとでもなる)

 だが芽生は知らなかった。
 更なる追い打ちが待っていることを。

 
 同じころ矢越も、後味の悪い思いで自宅へ戻った。
 正直誰にも会いたくない心境だったが、帰宅しないわけにもいかない。

 先程までの険悪な雰囲気もどこ吹く風と、皆楽しそうに二次会を
 始めているのを見ると、矢越こそ誰も信じられない気持になる。
 もう参加する気も起きなくて、自室に戻ろうとすると、田勢が目ざとく
 見つけて寄って来る。

 先程の音声データを保存してあるメモリだと言って、掌に押しつけてくる。
 
 
「証拠になりますよ……婚約破棄にもいろいろ証拠はご入用でしょう」

 矢越は一瞬殴ろうと手を上げたが、結局振り下ろした。
 なんであれ、今日は田勢のめでたい門出だ。
 ここで殴ったら、事態は一層悪化する。

 「私も、あなたの婚約者が事務所に来ては偽善的な言葉を口にするたび
  そういう思いを堪えてました」

 そう言ってグラスの酒を一気に飲み干す田勢。
 良く見れば、珍しく頬が赤くなっている。
 酔っているのだなと、矢越は思った。

 「そうだったのか……ひどく惨めな気分だな」

 「一杯もらおう」とスタッフからグラスを受け取ると、
 田勢と同じく一気に呷り、そのまま矢越は自分の部屋に直行した。
 とにかく今晩は何も考えたくなかった。


5


 あの定例会議に出席して初めてのバイトの日。

 

 優奈は緊張しながら行くと、佐々木は人を殺せそうな眼光で

 睨んできたが、それ以上何も仕掛けてはこなかった。

 学部生たちは経緯を知らされていないので、あれやこれやと

 噂し合っていた。

 常川が証拠集めがてら、何か言ってくれたのか今まで佐々木に

 追従していた学生達も、気持ち悪いくらいに優奈に気を使う。


 研究室の先輩も、そして一番懸念していた山瀬までもが

 自分を気遣ってくれる。

 

 あれ程苦しんだのが嘘のようだった。

 「正直、研究室の皆さんには裏切り者扱いされると思っていました。
  佐々木先生は誰とでも上手くやっていましたから」

 その日常川と焔と誘って、少し気が早い御礼を兼ねての
 飲み会をした。少ないバイト代でやりくりしているので、
 近所の安居酒屋だが、二人は喜んでくれた。

 「良くも悪くも、あいつらは「普通」だからな。デメリットのある
  流れには乗らないさ。山瀬にしても、いくら愛弟子でも、一緒に
  罪を被りたいとは思わないだろう。自分が関与してもいないことに
  明らかにクロの人間を庇って、処罰されちゃ敵わない」

  ビールをグイッと飲み干すと、常川は一気に捲し立てた。

 「あんたの共犯処罰規定が効いたな」

  常川が珍しく焔を労う。

 「本来ならずっと前に出来ていなければならない、規定です」

  酒を飲んでも全く顔色を変えない焔が、さらっと返す。
  そのグラスにビールを注ぎながら、優奈は尋ねる。

 「でも、あの規定を投票した時は、何だかおかしな雰囲気でした
  よね。どうして皆躊躇ってたんですか?」

 「どこまでも拡張していくと強権的になるからな。常に監視されている
  みたいになるだろう。それに冤罪も増える可能性がある。
  まあ、アカハラ隠蔽を無くすためには必要不可欠だけど、いずれに
  しても教員にとっちゃあ、もろ刃の剣ともなるわけさ」

 「反対にこの規定を理由に、したくもないアカハラ隠蔽を断ることも
  できます。強圧的にしない為には、これからどう規定を育てていく
  かにかかっていると思います」

 「にしても、良く言えたよな。お前、学生だから立場弱いんじゃないの
  か? あの後疎まれたりしてないのか?」

 「特には。僕の指導教官はそういったことには、先進的考えを
  持っていますからね。ほら、初めに賛成票を投じてくれた先生です。
  先生はご自身の考えをしっかりお持ちの人ですから。たとえ僕が
  先生と正反対の意見を言ったところで、それを理由に嫌がらせを
  するなんて、思いつきもしないですよ」

 「焔さんのところの先生も、山瀬先生みたいに素敵なんですね」

 「……」

 「そりゃ焔も黙るだろ。お前恋する乙女か。気色悪過ぎだぞ」

  常川を無視して、優奈は続ける。

 「私は他大学に通ってましたから、皆が皆素晴らしい先生とは思って
  いません。でも今回はひどすぎてかなりショックです。だって教員が
  学生に嫌がらせするなんて。5年前の事件だって本当のことかもしれない」

 「田中!」

  相変わらず常川は、この件を外部に漏らすことを嫌う。
  加害者とされる小田切や佐々木に、この件について一対一で意見する
  ことには積極的なのに、外に広がることを嫌がり、研究室ではあまり
  この件について触れようとはしない。
  
 「5年前の事件……ですか?」

 「5年前にも、佐々木先生と他の人たちが、病気の女子学生に
  アカハラした事件です。女子学生は最後には亡くなってしまったのに、
  その事件で処分を受けたのは、一人の院生だけだったんです。
  今回みたいなことがあると、
  あの先生ならやりかねないって思えますよ。本当に」

  小田切を脅していた脅迫者が作成したブログは、山瀬研究室内でも
  既に知られるようになった。山瀬からは内容は事実無根だから
  気にしないようにと御達しが出ているので表面化することはないが、
  元々都市伝説のように知られていた事件。
  佐々木の今回のアカハラ事件で、そのブログの
  おかげで噂が陰で再燃している。

 「飲み過ぎだぞ。その辺にしておけ」

  常川が優奈のグラスを取り上げる。
  
 「その話なら、学生アドバイザーの中でも話題に出たことがあります。
  学内で議題にするには時効を迎えた事件だったので、追求する人は
  いませんでしたが。佐々木先生が学生アドバイザーに就任したのは、
  その時の罪滅ぼしではないかと、囁く人はいます」

  今回の件で例のブログの存在も発覚し、学校側も現在対応に
  苦慮していると言った。

 「そこまでもう広まっているのか……。それで、ブログの作成者は
  特定されたのか?」

 「それはまだです。昔の事件ですし、人物名や大学名もイニシアルになって
  います。見る人が見れば一発で分かりますが、無関係の人には分かりにくい
  ものですからね。名誉毀損に当たるのかギリギリのラインです。それに
  大事にすれば、沈静化していた噂が再燃してしまう恐れもあります。
  大学当局も今のところは様子見と決めたようです」

  事情通の焔が、流れるように説明する。
  優奈はそんなところも、また頼もしく思えて、酒で紅潮した頬を
  ますます赤らめた。

 「できれば、特定しないでやって欲しい……。俺も誰か探しては
  いるんだ。そいつを責めたいんじゃない。会ってどうしても
  言いたいことがあるんだ」

  またもや手酌で自分のグラスに酒を注ごうとする優奈から、酒瓶を
  隔離すると常川は、顔をグラスの方へ俯けて言う。
  語尾の歯切れが悪く、珍しく頼りない。
  
 「間の悪い常川さんは、大学を休学していたから思うところが
  あるんでしょうね」

  酔って歯に絹を着せない優奈は、常川の様子を気にかけず、
  ばっさりと言う。困った顔をしながらも、核心をついた部分も
  あるのか、常川が呟くように言う。

 「全員顔見知りではあるがな。俺が休んでいた間に起こった
  ことは詳しくは知らない。その被害者の女子学生はもともと
  体が弱かったのは記憶にあるよ。佐々木もその頃から他人を
  見下すような奴だったな。顔がいいから辛口とか言われて
  持て囃されていた。今思えば、誰かがそこでストップをかける
  べきだった。まあ今回のことは良い薬だ」

  しばらく今回の成果を報告し合った後、なんとなくCOE関連の
  話しに移行した。

  「僕、そろそろ約束があるので失礼します」

  焔が帰ると言うので、常川も俺もと帰ることになり、結局3人で
  帰ることになった。常川はさっさと帰り、焔が送ってくれることに
  なった。開けてくれた車はどこか大人の匂いがして、初めて焔の
  私的な部分を解放してくれたようで、嬉しさに顔に熱が集まる。
 
  「焔さんの、約束はいいんですか?」

  「ええ。まだ間に合います」

  「どんな用事か聞いてもいいですか?」

  「……接客業です。随分元気になったようですね?」

  「はい。本当に焔さんのおかげです。あの、これ良かったら」

  そう言って渡したのは、銀色の指輪に紐を通したネックレスだった。
  
  「これ、母の形見なんです。若いころに好きな人にもらったもので、
   いつも大事にしていたものです。私、今貧乏で何も御礼できる
   ものがないから、せめて」

  「気持ちだけ受けておきます」

  「それじゃあ、私の気持ちが済みません。それに……その別の意味も
   入っていますし」

  「? そこまで言ってくれるなら、頂きましょう。大事にしますよ」

  送ってくれた跡には、ふわっと大人っぽい香水の匂いがして
  気分が浮き立った。  
   
  数日後、立て看板に優奈の事案が書かれるようになる。
  常川の仕業らしい。
  
 「結構パンクな感じだろ。これで審議も早まるぜ」

  常川の予言通り、審議の結果は翌週出た。
 


6


 週の初めの月曜日の朝。

 目が覚めてみると、昨夜の悪夢は現実のことではない

 ように思えた。

 朝食を作り、メイクを済ませ、大学へ行く。

 いつもと変わらない日々。

 芽生は少しずつ気分を回復させていった。


 出勤早々にメールをチェックする。

 これはいつもの日課だ。

 すると学部の授業以来殆ど話したこともない

 教授からメールが来ていた。


 「佐々木芽生様。先週の全学審議会であなたの名前が

  ハラスメント加害者として上げられました。本来は

  学科内で処理される問題ですが、あなたの場合は

  学生アドバイザーの職にあることから、全学審議会

  で調査されることになりました。内密に調査される

  べきことですが、今後の身の振り方を考える時間も

  必要かと思い連絡させてもらいました。これは進退の

  決し方を考える時間を教えるつもりであって、ハラス

  メント行為を助長する意思はありません」


 (何これ?)

 

  早速身に覚えがないことと、学内審議会に変えて欲しいと

  訴えても無理だと言う答えが返って来るだけだった。

  

  その教授は自分は反対したが、他の人の賛成のせいで

  この案件が全学審議会に回ったことをくどい程説明した。

  何とか他の委員に人脈を使って手を回すことは出来ないかと

  聞いても、今回に限っては無理だとクビを振った。

 

  「全学審議会で協力した人間も処罰されることが決まりました。

   ですから私もあなたに心当たりがあるのなら、協力する訳には

   いきません。冤罪であるなら、気を楽にして判断を待って下さい。

   審議会の判断は慎重です。私にはこの忠告メールが精一杯です」


  このメール以降、全く返事がなくなった。


  全学の審議委員は多種多様の学部から構成され、山瀬の力も

  及ばない。それならアドバイザーの職を辞したらどうか。

  全学審議会から、各学部の担当に戻らないのか?

  学生アドバイザー用の規約を確かめると、やはり覆すのは

  難しいようだ。

  

  この5年間で学内システムは少しずつ変わっていた。

  ハラスメント相談所で挙げられた事案が、各学部に戻されて

  処理されていたのが、初めから各学部で処理されるようになった。

  全学審議会は言ってみれば控訴審のような位置づけである。

  余程の事案でない限り、いきなり全学審議会にかけられることはない。

  少なくとも芽生が知っている事案で、いきなり全学審議会

  にかけられることなどなかった。


   ここ数年は学生お客様主義の傾向が強く、特に学部生が

  相手の場合はできるだけ穏便に済ませようと、被害者が納得

  できるだけの調査をするようになった。学部生の声をアセス

  メントして、大学運営に活かそうとする試みも活発化している。

  お客様をおざなりには出来ない。そこらへんの流れを考慮して、

  芽生は常に動いてきたはずだ。


  (じゃあ誰が私を……?)


  教授は、芽生に被害者の名前を教えてはくれなかった。

  院生は将来を掴まれているので、そもそも相談所に訴える

  事自体少ないのが現状だ。ならば学部生なのかと考えるが、

  訴えそうな学生はついぞ思い浮かばない。


  芽生は見えない敵に囲まれているような、居心地の悪さを

  急に実感する。

  そこへ来て急に昨夜の出来事が思い出される。

  あの新婦のように、絶対に逆らえないと思いこんでいた

  人間が、自分を執念深く怨んでいるとしたら。

  これからの自分の一挙手一同すら、恐ろしい。

  これをしたら誰がどんな反応をするのか。

  相手がどう捉えるのか。

  

  言葉づかい、行動、全て他人の怨みをかわぬように気を付ける。

  侮っていた相手ほど、牙を隠した恐ろしい相手に見えて恐ろしかった。


  同じメール欄に、最近では珍しく矢越から昨夜の非礼について

  謝罪するメールが届いていた。

  

  「内容はともあれ、大勢の前で君を辱めるような方法は、適切では

   なかった。誤解だと信じている。だから気持ちが落ち着いたら今後に

   ついて話し合おう。結婚は個人の問題だ。たとえスタッフでも親でも

   結婚について、口を挟まれる謂われはない。皆が悪く言うからと言って

   俺は君をそんな人間だとは思わない。自分で確かめたい」


  何をどう説明すればいいというのか。

  昨夜のあの招待客の白眼視。

  何を言っても無駄なくらいの、完璧な証拠。

  あの時、新婦は通話記録を一束持ってきて、喫茶店にいって電話を

  貸したその日時もしっかり記録してあった。

  言い逃れはできない。  


  あの土岐等あかりも、こうだったのか。

  白眼視。

  何をいっても取りつく島の無いこの状況。

  無力感。

  

  「皆に悪く言われるってことは、あなたに非がある証拠でしょ」


  当時はそう思っていた。

  悪く言われるだけの理由があるなら、本人に非があると。

  「悪く言われていること自体が、理由になんてならない」

  矢越はそう言ってくれた。

  どうしてその時に気付かなかったのか。

  気づいていたら、良く分からない変質者に付きまとわれることも

  なかったのか。


  (矢越だけでも味方につけなければ)


  今からでも遅くはない。

  芽生は矢越に面目が立つような言い訳を探し、学内の人間には

  最高の態度を示す。

  できることをするしかなかった。


  一週間もしないうちに、芽生は自分を訴えた相手が誰だか分かった。

  皮肉なことに、それは学生運動が立て懸ける立て看板からだ。

  自分の名前がでかでかと書かれ、授業手伝いの院生に嫌がらせを

  したことがペンキで書かれている。その看板は、全学審議会が

  早く裁判を行うようにと促すものだった。


  運動をしている学生には顔は知られていない筈だが、顔を隠す

  ように自分の研究室へ戻る。信じられない気持で一杯だった。


  田中優奈が自分を怨んでいる。

  そして周囲がそれを支援している。

  とてつもない恐怖だった。


  今まで侮っていた相手が、いつのまにか自分を追い詰める程の

  力を持っていた。

  今までは自分が嫌った人間は、周りも賛同して嫌ってくれたのに。

  

  (何とかしないと)


  まだ審議されていない今なら、優奈の口から審議を取り戻すことが

  できるはずだ。佐々木はすぐに学生の研究室へ行き、優奈を

  見つけると二人で話さないかと言う。このおどおどした学生なら、

  口で丸めこむ自信はある。


  「他の人もいる場所でないと、お話しできません」


  二人が話しているのに気付いた学生達が、一斉にこちらの様子を

  伺う。その目が何かを咎めているようで、芽生は何か言い訳を

  しないとと、用意して来た言い訳を述べる。


  忠告しただけなのに、悪口と言われて悲しい。

  学生と仲良くなれるように構ってあげただけなのに、

  嫌がらせと勘違いされた。

  そんなつもりじゃなかったのに、悪者扱いされた。

  そんなに嫌がっているなら、早めに言ってくれれば良いのに。


  皆事情を常川から聞いて知っているので、反応しようがない。

  何より自分達がずっと、リアルタイムで佐々木がやってきたことを

  見てきたのだから。今更なにをと呆れていた。


 「お前がどう思っていたかなんて、関係ない。やられた方が

  どう思ったかが重要なんだ」


  言葉を更に並べたてようとする芽生に、常川が宣告する。

  そのまま顔を真っ赤にして芽生は自分の研究室へ走って行ったが、

  誰一人後を追う者はいなかった。

  

  その日から3日後。

  全学審議会から事情聴取を受ける。

  その場にいたのは全員他学科の見知らぬ教授陣らしき 

  人たちだった。こういった手続きには慣れているのか

  人の良さそうな顔で、いきなり核心を突こうとはせず、

  こちらの意見を十分に聞くと言うスタンスだった。

  

  その日に備えて学生アドバイザーをしていた頃に読んだ教本を

  参考に、襤褸を出さぬようにと、細心の注意を払って自分の行動の

  説明をする。


  「お疲れさまでした。来週には審議会で結審されると思います」


  翌週、芽生への処分が決定した。

 

  佐々木の二カ月の停職処分と学生アドバイザーを懲戒解雇。

  学生アドバイザーに関しては、事前に結果を知っていたので

  依願退職し、実質上は二カ月の停職処分となった。

    



読者登録

Lavendulaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について