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1


 結婚式をしないと言う、田勢の一存で式は行わず、
 ハガキでのお知らせとなった。
 それでもスタッフをどうしても祝いたいという父親立っての
 望みで、矢越邸で内輪のパーティーが行われることになった。
 まだ新婦を見たことがない矢越もとても楽しみにしている。
 すると田勢が意外なことを提案する。
 
 「是非、婚約者さんも連れて来て下さい」

 あれ程矢越の婚約者、芽生との結婚を否定していたくせに
 どういった心境の変化だと、矢越は訝しんだ。
 ここ最近の芽生とのすれ違いも全て、目の当たりにしている
 というのに。

 選挙前の殺人的忙しさと、いつも以上に寡黙さに磨きがかかった
 田勢にそれ以上聞くことも出来ず。結局芽生に連絡をとり、共に
 パーティーに出席することにした。芽生は田勢のことなど全く
 覚えてはいなかったが、矢越から連絡してくれたことに喜んで
 くれた。矢越は少し胸が痛んだ。

 (本当に5年前の事件が、芽生に無関係だったとしたら……。
  自分のやってきたことは、非情に過ぎるものだったのではないか?)
 
 芽生は花嫁よりも目立たない格好で、なおかつ華やかな招待客と
 してはパーフェクトなドレス姿でやってきた。緩く巻いた髪も愛らしい。
 矢越の父親は既に芽生の事情を知っていることはおくびにも出さずに、
 婚約者の父親として普通に挨拶をしていた。
 ここら辺の腹芸は、やはり未だに矢越にはできない。
 どうしても不信感がそこかしこで出てしまう。
 つい先日までの会話などなかったかのように、芽生は話しかけてくる。
 それをぎこちなく交わしているうちに、田勢夫妻が登場する。

 「天原さん!」 

 拍手に囲まれて、登場した新婦を見て矢越も芽生も驚いた。
 つい半年前まで事務所で働いていた女性スタッフだったからだ。
 
父と母は知っていたのか、全く動揺していない。
 二人は、客に一人ずつ挨拶しながらこちらに近づいてくる。
 
 矢越は感無量になって、両手で二人と握手した。
 
 「急にいなくなったから心配したけれど、無事だったんだね。
  良かった。良かった」

 恥ずかしそうに握手をすると、花嫁は「ありがとうございます」と
 控えめに言った。

 最後に芽生の前へ来る。
 芽生の「おめでとう」の言葉に、新婦は答える。
 
 「ありがとうございます。おかげ様で生死の境を彷徨いました」

 そう言って、花嫁は芽生を睨みつける。
 芽生はその意味するところが分かったのか、顔面蒼白になった。
 


2


 「御来場の皆さまに、私どもの馴れ初めについてご紹介申し上げます」


 いつも生真面目な田勢が自分でマイクをとり、少し照れながら

 話し出す。


 「彼女は約一年前に、矢越先生の事務所にスタッフとして勤務し、

  そこで私たちは出会いました。その頃まだ二十歳そこそこなのに、

  気が利いて、どこか芯のある彼女に惹かれました」


 そこまで言うと、隣の新婦にマイクを渡す。


 「矢越先生の事務所に入る前に、私はある事情を抱えていたのです。

  それは……夫のドメスティック・バイオレンスでした」


 矢越もそれは知っていた。

 彼女は後援者の縁者で、見るに見かねた親族が父親に相談したのだ。

 矢越代議士はすぐにスタッフとして、事務所に来ないかと誘った。

 離婚するにはまず自立が必要で、その為には職がいると考えての

 ことだ。当人のプライバシーを考慮して、スタッフでもこの事情を

 知っていたのは、矢越くらいだった。


 「遠縁を頼ってこの土地に来ました。親族が矢越先生に相談したところ

  先生の御好意で、私はスタッフとして雇って頂けることになりました。

  本当に感謝しております」


 ここで新婦は代議士に向かってお辞儀をする。

 代議士はそれに向かって嬉しそうに頷く。

 

 「ようやく仕事にも街にも慣れてきた頃でした。家に突然夫が訪ねて

  参りました……」


 新婦の回想が始まる。


 その日の朝、出勤しようと化粧をしていた彼女は、インターンホンの

 音に反応して、ドアスコープで確かめもせずにドアを開けてしまった。

 この半年間、平和を享受していたせいで、感覚が麻痺したことを悔やむ。

 ドアを開けると、見覚えのある男が剣呑な目つきで待ち構えていた。

 口元だけが弧を描いているのが、アンバランスだ。


 「おい、俺から逃げ遂せるとでも思ったか? 職場もとっくに

  割れているんだ!」


 言いながら部屋に入ってこようとする男に、彼女は足の竦みが止まら

 なかった。


 「やめて」


  髪を掴まれた。この感触。暴力の前戯。

  身を強張らせる。

  今までされてきたことが蘇る。


  素早くドアを閉めようとする、隙間に靴の先が押し込まれ、

  素早く男が半身を滑り込ませる。男が侵入に半ば成功したことを見て取ると、

  女は後ずさった。思い出したかのように悲鳴を上げようとする口元

  めがけて、拳で思い切り殴りつけられ、壁に吹き飛ばされる。

  口の中が鉄のさびた味がする。端から血も流れてきた。

  夫はカーテンを素早く閉め切る。男が察する前に逃げ出そうと

  彼女は一気に駆け出した。

  だが夫もさるもの。すぐに気が付き玄関脇の台所に追い詰められてしまう。

 

 「お願い。落ち着いて」

 

 「落ち着けるか。お前は俺を裏切って逃げ出したんだ。俺があんなに

  お前の為に、金をかけてやったのに。何が不満なんだ。家からも絶縁されて

  行き場もないお前を拾ってやったのは、俺だろう?二十歳過ぎたばかりの

  小娘が、今まで贅沢な生活できたのは誰のおかげだ?」


 「私は自由な生活が欲しいの。ちゃんと自分を対等に見てくれる人が欲しい」


 朝食を作る為に使った包丁を手に取ると、夫は胸の前にかざす。


 「言い訳だ。本当は男がいるんだろ。浮気を正当化するな」


 「違う!」


 「だったら俺と一緒に死んでくれ」


 「嫌! 絶対嫌よ。死ぬなら勝手に死ねばいいでしょ? 私はもうあなたの

  犠牲になるのはまっぴらだわ」


 「わあああ」


 絶叫と共に、男が抱きつくように腹に包丁を刺した。

 絶叫を残して女は倒れた。

 ドアから尋常ではない様子に心配した、近隣の住民がドアを叩いている。

 女の絶叫に、扉を開けた住民を見て取ると、男はそのまま自分の腹を刺した。


 彼女は一命を取り留めたものの、重傷を負った。

 体の傷以上に、夫がどこまでも追いかけてくるという被害妄想に悩まされた。

 夫も自分を刺す時には、さすがに躊躇いがあったのか、軽傷で済んだ男は

 医療刑務所に入れられた。

 

 その後いつか必ず出てくる男の陰に怯えながら、新婦は隠れるようにして
 生きてきた。

 「そんな事情を全て知った上で、結婚しようと言ってくれたのが
  横に居る田勢さんです」

 ここで大きな拍手が起きる。
 小さな子どもを連れた若奥さんなど、涙を流している。
 
 拍手が止むのを待って、新婦は回想を続ける。
  

 結局、新婦は矢越代議士の紹介で知り合った弁護士を雇い、

 なんとか離婚へ向けての裁判に向かった。

 医療刑務所で思うところがあったのか、夫はこれ以上は危害を

 加えようとはせず、裁判もスムーズに進んだ。


 裁判所であったときに、女は元夫に尋ねた。

 どうやって新婦の居場所を知ったのかと。


 「女が教えてくれたんだよ。どこの誰かは知らない。お前の事

  嫌っているみたいだった。せいぜい足元をすくわれないように

  気をつけるんだな」


  新婦は巻き込まないようにと、世話になっている親族以外には

  友人にも自分の居場所を伝えていなかった。

  事務所にも数人女性がいるが、いくらなんでも

  嫌がらせの為に、自分の雇い主にまで損害を与えようとする人間が

  いるとは思えない。


 「答えは一人しかいませんでした」

 そういうと真っ直ぐ指を指す。

 「佐々木芽生さん。あなたです」


3


 

「私は縁戚のいるこの町に来るときに、くれぐれも誰にも知られない

 ように釘を刺されました。こちらで知り合った方たちは、夫の住所と

 電話番号を知る由もありません。縁戚はといえば、夫をとても怖がって

 いたので、私の居所を教えるわけがありません。当時私は縁戚の家に

 住んでいたのですから、自分たちも危険な思いをするのに、私の居所を

 教えるわけがないんです」


 そこで思い出したのが、佐々木だと言う。


 その頃矢越代議士の好意で、澄真は定期的に新婦の遠戚宅に来たり、

 遅くなったときには事務所から送ってやったりしていた。

 当時まだ婚約はしていないものの、矢越と佐々木は付き合っていたので、

 偶々それを何回か目撃をした佐々木が誤解をしたらしい。

 

 新婦だけにそんな配慮をしていることが分かると、スタッフ間にも良くない

 噂が出てしまう。そう思った矢越は、佐々木にだけ本当のことを

 言ってもよいかと新婦に尋ねた。新婦は自分とも夫とも何の接点もない

 佐々木なら、大丈夫と判断して快くOKした。


 だが独占欲なのか、佐々木は直接二人で話したいとまで言い出す。

 矢越も相当困ったようだが、やきもちもかわいいと思える時期だったようで、

 頼み込まれてしぶしぶ新婦は佐々木と二人きりで話をした。

 といっても当然のように話題は矢越のことくらいしかなく、本当に矢越と

 はなんでもない新婦は言われたことにただ答えていた。

 尋問のような会見もネタが尽きそうになると、佐々木は携帯電話を貸して

 欲しいと言った。


 「会って見たら、ちゃんとした良い人だって分かったって電話したいの。

  私携帯電話を矢越さんに預けたままだったの忘れちゃって」


 知らない人に携帯電話を貸すのは、いささか気分が悪かったが世話に

 なっている矢越家のためと、貸した。二人での会話を聞かれるのは

 恥ずかしいからと、携帯電話ブースに移動したのまでは確認している。


 あまりじろじろ見るのはいかにも信用していないようで、新婦は傍にある

 雑誌を見て過ごした。その後携帯で連絡をもらったという矢越が来て

 二人を送ってくれた。


 「私はそのときに、佐々木さんが夫に、私のことを告げたのだと確信して

 います。夫に電話番号を告げられる女性は、あなた意外にありえないんです」


 矢越もそのときのことは覚えている。

 以外に独占欲が強いんだなと思ったことと、暴力の被害者である新婦に

 ついていくら恋人でも話してよいのか葛藤したことは未だ記憶に新しい。


 「違います。私そんなことしていません!」


 パーティー参加者の視線がいっせいに、芽生に集まる。


 「……記憶違いということはないですか?」

  

 無言の圧力に、佐々木はおずおずと自分の意見を申し出る。


 「証拠があるんですよ」


 そういうと、今まで口を出さなかった田勢が用意しておいたパソコンで、

 音源を再生する。 

 

 「……奥さんは××県の矢越議員の地方事務所で働いています」


 短い文章かつ抑え目の声音だが、明らかに芽生の声だった。


 「……元旦那さんは、新婦から電話がかかって来たらすぐに居場所を

  特定できるように、会話を録音していたんですよ。後から再生して

  背景から聞こえる音から、居場所を推測する為にね」


 田勢は元夫と交渉して、あの音源を取り上げたのか。

 だとすると心苦しい作業だっただろうなと、矢越は胸が痛んだ。


 「これ、あなたの声ですよね」


 新婦が確信を持った声で、冷ややかに言った。


 「違う。違います」

 

 懸命に芽生が無実を主張するも、参加者はしらけた目で芽生を

 眺めるだけだ。否定する声そのものが、真実だと告げている。


 田勢は数枚の紙を纏めたものを持って、矢越代議士に渡した。


 「澄真さんが代議士になるのであれば、佐々木芽生さんと結婚することに、

  スタッフ一同反対します。これは皆の署名です。我々はその女性を

  代議士夫人として守り立てることはできません」


 悔し涙でぼやけた視界の中、敵意を放つ視線の直中で、

 芽生は独りだけ一際険しい目でこちらを睨む男の姿が見えた。



4


 「芽生!」

 

 挨拶もしないで黙って会場を飛び出した芽生を追いかける。

 追いついたはいいが、矢越は後に続く言葉が見つからない。


「送っていくよ」


本題には触れぬまま、とりあえず車に乗せる。

泣き続ける芽生に聞きたいことは山ほどあったが、

どれを取り出すべきか今の場にふさわしいのか分からなかった。

あそこまで仕掛けてきたということは、かなり計画的だということだ。

誤解だとしても、証明するのに相当の時間がかかるだろう。

 

「あれは嘘だよな?」


 「嘘に……嘘に決まっているでしょっ」


(このままでは済まさない)


 確かに自分のやったこととはいえ、もう少し場をわきまえるべきだ。

 声には出さないが、悔しくて芽生は泣き続けていた。

 

(一年前あの女は確かに、孤立無援で何もない唯若いだけの女だったのに)


  そう踏んでいたからこそ、脅威になる前に芽生は排除したのだ。

  今までこの観察眼は確かなもので、踏み台にしても良い人間を間違えた

  ことなどなかった。初めての失敗。それもこんなに惨めたらしい形で。

  

 (認めない。絶対に認めるわけにはいかない)


  気の利いた言葉をかけられないまま、矢越は芽生を見送った。
  せめて傍にと申し出る矢越を、芽生は断った。

 「信用できない。今日のことだって、あなたも知っていたんじゃないの?
  私に恥をかかす為に。だから……もう帰って」

 せっかく仲が深まるチャンスだと思ったのに。
 とんだ番狂わせだった。
 
 (大丈夫。一晩寝て、気力が回復すればまたなんとでもなる)

 だが芽生は知らなかった。
 更なる追い打ちが待っていることを。

 
 同じころ矢越も、後味の悪い思いで自宅へ戻った。
 正直誰にも会いたくない心境だったが、帰宅しないわけにもいかない。

 先程までの険悪な雰囲気もどこ吹く風と、皆楽しそうに二次会を
 始めているのを見ると、矢越こそ誰も信じられない気持になる。
 もう参加する気も起きなくて、自室に戻ろうとすると、田勢が目ざとく
 見つけて寄って来る。

 先程の音声データを保存してあるメモリだと言って、掌に押しつけてくる。
 
 
「証拠になりますよ……婚約破棄にもいろいろ証拠はご入用でしょう」

 矢越は一瞬殴ろうと手を上げたが、結局振り下ろした。
 なんであれ、今日は田勢のめでたい門出だ。
 ここで殴ったら、事態は一層悪化する。

 「私も、あなたの婚約者が事務所に来ては偽善的な言葉を口にするたび
  そういう思いを堪えてました」

 そう言ってグラスの酒を一気に飲み干す田勢。
 良く見れば、珍しく頬が赤くなっている。
 酔っているのだなと、矢越は思った。

 「そうだったのか……ひどく惨めな気分だな」

 「一杯もらおう」とスタッフからグラスを受け取ると、
 田勢と同じく一気に呷り、そのまま矢越は自分の部屋に直行した。
 とにかく今晩は何も考えたくなかった。


5


 あの定例会議に出席して初めてのバイトの日。

 

 優奈は緊張しながら行くと、佐々木は人を殺せそうな眼光で

 睨んできたが、それ以上何も仕掛けてはこなかった。

 学部生たちは経緯を知らされていないので、あれやこれやと

 噂し合っていた。

 常川が証拠集めがてら、何か言ってくれたのか今まで佐々木に

 追従していた学生達も、気持ち悪いくらいに優奈に気を使う。


 研究室の先輩も、そして一番懸念していた山瀬までもが

 自分を気遣ってくれる。

 

 あれ程苦しんだのが嘘のようだった。

 「正直、研究室の皆さんには裏切り者扱いされると思っていました。
  佐々木先生は誰とでも上手くやっていましたから」

 その日常川と焔と誘って、少し気が早い御礼を兼ねての
 飲み会をした。少ないバイト代でやりくりしているので、
 近所の安居酒屋だが、二人は喜んでくれた。

 「良くも悪くも、あいつらは「普通」だからな。デメリットのある
  流れには乗らないさ。山瀬にしても、いくら愛弟子でも、一緒に
  罪を被りたいとは思わないだろう。自分が関与してもいないことに
  明らかにクロの人間を庇って、処罰されちゃ敵わない」

  ビールをグイッと飲み干すと、常川は一気に捲し立てた。

 「あんたの共犯処罰規定が効いたな」

  常川が珍しく焔を労う。

 「本来ならずっと前に出来ていなければならない、規定です」

  酒を飲んでも全く顔色を変えない焔が、さらっと返す。
  そのグラスにビールを注ぎながら、優奈は尋ねる。

 「でも、あの規定を投票した時は、何だかおかしな雰囲気でした
  よね。どうして皆躊躇ってたんですか?」

 「どこまでも拡張していくと強権的になるからな。常に監視されている
  みたいになるだろう。それに冤罪も増える可能性がある。
  まあ、アカハラ隠蔽を無くすためには必要不可欠だけど、いずれに
  しても教員にとっちゃあ、もろ刃の剣ともなるわけさ」

 「反対にこの規定を理由に、したくもないアカハラ隠蔽を断ることも
  できます。強圧的にしない為には、これからどう規定を育てていく
  かにかかっていると思います」

 「にしても、良く言えたよな。お前、学生だから立場弱いんじゃないの
  か? あの後疎まれたりしてないのか?」

 「特には。僕の指導教官はそういったことには、先進的考えを
  持っていますからね。ほら、初めに賛成票を投じてくれた先生です。
  先生はご自身の考えをしっかりお持ちの人ですから。たとえ僕が
  先生と正反対の意見を言ったところで、それを理由に嫌がらせを
  するなんて、思いつきもしないですよ」

 「焔さんのところの先生も、山瀬先生みたいに素敵なんですね」

 「……」

 「そりゃ焔も黙るだろ。お前恋する乙女か。気色悪過ぎだぞ」

  常川を無視して、優奈は続ける。

 「私は他大学に通ってましたから、皆が皆素晴らしい先生とは思って
  いません。でも今回はひどすぎてかなりショックです。だって教員が
  学生に嫌がらせするなんて。5年前の事件だって本当のことかもしれない」

 「田中!」

  相変わらず常川は、この件を外部に漏らすことを嫌う。
  加害者とされる小田切や佐々木に、この件について一対一で意見する
  ことには積極的なのに、外に広がることを嫌がり、研究室ではあまり
  この件について触れようとはしない。
  
 「5年前の事件……ですか?」

 「5年前にも、佐々木先生と他の人たちが、病気の女子学生に
  アカハラした事件です。女子学生は最後には亡くなってしまったのに、
  その事件で処分を受けたのは、一人の院生だけだったんです。
  今回みたいなことがあると、
  あの先生ならやりかねないって思えますよ。本当に」

  小田切を脅していた脅迫者が作成したブログは、山瀬研究室内でも
  既に知られるようになった。山瀬からは内容は事実無根だから
  気にしないようにと御達しが出ているので表面化することはないが、
  元々都市伝説のように知られていた事件。
  佐々木の今回のアカハラ事件で、そのブログの
  おかげで噂が陰で再燃している。

 「飲み過ぎだぞ。その辺にしておけ」

  常川が優奈のグラスを取り上げる。
  
 「その話なら、学生アドバイザーの中でも話題に出たことがあります。
  学内で議題にするには時効を迎えた事件だったので、追求する人は
  いませんでしたが。佐々木先生が学生アドバイザーに就任したのは、
  その時の罪滅ぼしではないかと、囁く人はいます」

  今回の件で例のブログの存在も発覚し、学校側も現在対応に
  苦慮していると言った。

 「そこまでもう広まっているのか……。それで、ブログの作成者は
  特定されたのか?」

 「それはまだです。昔の事件ですし、人物名や大学名もイニシアルになって
  います。見る人が見れば一発で分かりますが、無関係の人には分かりにくい
  ものですからね。名誉毀損に当たるのかギリギリのラインです。それに
  大事にすれば、沈静化していた噂が再燃してしまう恐れもあります。
  大学当局も今のところは様子見と決めたようです」

  事情通の焔が、流れるように説明する。
  優奈はそんなところも、また頼もしく思えて、酒で紅潮した頬を
  ますます赤らめた。

 「できれば、特定しないでやって欲しい……。俺も誰か探しては
  いるんだ。そいつを責めたいんじゃない。会ってどうしても
  言いたいことがあるんだ」

  またもや手酌で自分のグラスに酒を注ごうとする優奈から、酒瓶を
  隔離すると常川は、顔をグラスの方へ俯けて言う。
  語尾の歯切れが悪く、珍しく頼りない。
  
 「間の悪い常川さんは、大学を休学していたから思うところが
  あるんでしょうね」

  酔って歯に絹を着せない優奈は、常川の様子を気にかけず、
  ばっさりと言う。困った顔をしながらも、核心をついた部分も
  あるのか、常川が呟くように言う。

 「全員顔見知りではあるがな。俺が休んでいた間に起こった
  ことは詳しくは知らない。その被害者の女子学生はもともと
  体が弱かったのは記憶にあるよ。佐々木もその頃から他人を
  見下すような奴だったな。顔がいいから辛口とか言われて
  持て囃されていた。今思えば、誰かがそこでストップをかける
  べきだった。まあ今回のことは良い薬だ」

  しばらく今回の成果を報告し合った後、なんとなくCOE関連の
  話しに移行した。

  「僕、そろそろ約束があるので失礼します」

  焔が帰ると言うので、常川も俺もと帰ることになり、結局3人で
  帰ることになった。常川はさっさと帰り、焔が送ってくれることに
  なった。開けてくれた車はどこか大人の匂いがして、初めて焔の
  私的な部分を解放してくれたようで、嬉しさに顔に熱が集まる。
 
  「焔さんの、約束はいいんですか?」

  「ええ。まだ間に合います」

  「どんな用事か聞いてもいいですか?」

  「……接客業です。随分元気になったようですね?」

  「はい。本当に焔さんのおかげです。あの、これ良かったら」

  そう言って渡したのは、銀色の指輪に紐を通したネックレスだった。
  
  「これ、母の形見なんです。若いころに好きな人にもらったもので、
   いつも大事にしていたものです。私、今貧乏で何も御礼できる
   ものがないから、せめて」

  「気持ちだけ受けておきます」

  「それじゃあ、私の気持ちが済みません。それに……その別の意味も
   入っていますし」

  「? そこまで言ってくれるなら、頂きましょう。大事にしますよ」

  送ってくれた跡には、ふわっと大人っぽい香水の匂いがして
  気分が浮き立った。  
   
  数日後、立て看板に優奈の事案が書かれるようになる。
  常川の仕業らしい。
  
 「結構パンクな感じだろ。これで審議も早まるぜ」

  常川の予言通り、審議の結果は翌週出た。
 



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