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20

 

 午前十時、学生相談審議会定例会議が始まった。

 一月に一度のこの会議では、全学審議会で上げられたハラスメント

 相談と各学部の審議会で上げられた問題で、全学審議会で取り上げる

 べきと判断された問題を話し合う。


 実際には各学部ごとに独自の慣行があったりして、各学部から全学部へ

 問題を上げることはほとんどない。

 全学審議会で取り上げるような学部をまたいだハラスメントなど

 めったに起こる訳もなく、事実上体制作りの見直しなど抽象的な

 議論でお茶を濁すことが多い。


 審議委員は教授職から、その窓口となる学生アドバイザーは各学科の

 教員もしくは大学院生から選抜される。全学審議会直属の学生

 アドバイザーだけ、心理学の教員のみと限定されている。

 

 相談したい学生は、まずは学生アドバイザーに相談することになる。

 その際に教員のアドバイザーに相談するのか、院生のアドバイザーに

 相談するのかは自分で決めることができる。アドバイザーには平等に

 権利があるので、アドバイザーが審議すべきと判断した事案のみを

 証拠と共に審議会に委託するというシステムだ。


 アドバイザーの任命は各学科に一任され、その訓練は全学審議会が

 定期的に外部の講師を招いて一斉に実施している。これも受ける、

 受けないはアドバイザーの意思に任されている。

 学科の自治を重んじた結果のシステムと言えるが、それゆえに機能にも

 差が大きい。


 型通りの事案報告が求められると、一際明朗な声で「はい」と挙手する

 者がいた。


 「情報処理学科の学生アドバイザーの焔と申します。今日は特殊な事案で

  あるが故に、全学審議会にかけるべきであると考えられる事案を提示します」


 優奈と常川は会議室の外側のソファで、自分の出番を待っていた。

 焔が説明する声が、ときおりこちらまで聞こえてくる。

 呼ばれるまで待てと言われたので、緊張して優奈は落ち着かない。

 これで認められなければ、佐々木にどんなことをされるのか。

 一方常川は朝食を食べ忘れたと、固形の栄養食をぼりぼりかじっていた。

 

 ガタン。


 会議室の扉が開く。

 焔が顔を出すと、手招きをする。


 (来た……!)


 緊張して手に持ったUSBメモリを落としてしまう。

 常川がさっと拾って、優奈の掌に押し付ける。


 「落ち着け。お前がしくじっても俺が説明するから大丈夫だ」


 口の端についた食べカスが何とも頼りないが、優奈は

 首を縦に振って頷くと、常川と共に会議室に向かった。


 会議室には教授陣が揃っていて、威圧感がある。

 萎縮しながらも、焔が質問することに答えるだけで良かったので

 思ったよりも楽に説明が出来た。

 第三者の意見として常川の証言と、集めた証拠が功を奏した。

 常川は自分だけの証言では弱いと、学部生の証言も録音していた。

 それに普段佐々木が研究室で先輩たちに、優奈の悪口を言っている

 内容も記録し、それが一度や二度ではなく反復して執拗にされている

 証拠も突き付けた。


 同時に優奈の勤務態度についての学部生や他の第三者の評価も提示

 することで、佐々木の評価が誤っていることも証明する。


 「この田中優奈さんの事例は、加害者が学生アドバイザーという地位を

  持っていることから、学部内でもみ消される可能性が恐れが高い。

  よって、全学審議会にかけるべきであることを提案します。賛成の

  方は挙手をお願いします」


 焔の言葉に、審議委員たちがどう反応するのか。

 優奈は怖くて目を瞑る。

 

 ぽんと常川に背を叩かれ、目を開ける。

 すると優奈の学科の教授以外、全員手を上げていた。


 その教授は最後まで公正に自分の学部で審議すると粘ったが、

 多数決により、全学審議にかけられることになった。


 「そしてもう一つ。皆様に提案します。ハラスメントの隠蔽に協力

  した者にも、処分を下すという規定を設けることです」


 焔は今回のように、学生アドバイザーなど審議と関わる者たちが

 ハラスメント加害者と昵懇だった場合について考えを巡らせた上で、

 考えついた提案だと説明した。

 これにはさすがに審議委員全員が、動揺する。

 

 「賛同できないという皆さまには、是非理由をお聞かせ願いたい」


 強気の焔に、優奈の方がハラハラしてしまう。

 常川は面白そうに、にやにや笑いながら、ちゃっかりこの様子を

 録音している。

 議長は周囲の様子を察して、投票に持ち込もうと提案する。

 直接は反対しにくい案であることを考慮してのことだ。


 「私はこれに賛同します」


 焔の隣に座っている教授が、さっと立つと大きく賛成と書いた

 紙を見せ、それを折りたたむと投票箱に投じた。

 他の教授陣も中身は見せないまでも、投票用紙に記入して

 入れて行く。


 「多数決で可決となりました。今後の審議会で詳しい規定は詰めて

  行きたいと思います」

 

 その時、焔が最初に賛成票を投じてくれた教授と顔を見合わせて

 笑った顔は、優奈が今まで見た中で最上の笑顔だった。 

 

1


 結婚式をしないと言う、田勢の一存で式は行わず、
 ハガキでのお知らせとなった。
 それでもスタッフをどうしても祝いたいという父親立っての
 望みで、矢越邸で内輪のパーティーが行われることになった。
 まだ新婦を見たことがない矢越もとても楽しみにしている。
 すると田勢が意外なことを提案する。
 
 「是非、婚約者さんも連れて来て下さい」

 あれ程矢越の婚約者、芽生との結婚を否定していたくせに
 どういった心境の変化だと、矢越は訝しんだ。
 ここ最近の芽生とのすれ違いも全て、目の当たりにしている
 というのに。

 選挙前の殺人的忙しさと、いつも以上に寡黙さに磨きがかかった
 田勢にそれ以上聞くことも出来ず。結局芽生に連絡をとり、共に
 パーティーに出席することにした。芽生は田勢のことなど全く
 覚えてはいなかったが、矢越から連絡してくれたことに喜んで
 くれた。矢越は少し胸が痛んだ。

 (本当に5年前の事件が、芽生に無関係だったとしたら……。
  自分のやってきたことは、非情に過ぎるものだったのではないか?)
 
 芽生は花嫁よりも目立たない格好で、なおかつ華やかな招待客と
 してはパーフェクトなドレス姿でやってきた。緩く巻いた髪も愛らしい。
 矢越の父親は既に芽生の事情を知っていることはおくびにも出さずに、
 婚約者の父親として普通に挨拶をしていた。
 ここら辺の腹芸は、やはり未だに矢越にはできない。
 どうしても不信感がそこかしこで出てしまう。
 つい先日までの会話などなかったかのように、芽生は話しかけてくる。
 それをぎこちなく交わしているうちに、田勢夫妻が登場する。

 「天原さん!」 

 拍手に囲まれて、登場した新婦を見て矢越も芽生も驚いた。
 つい半年前まで事務所で働いていた女性スタッフだったからだ。
 
父と母は知っていたのか、全く動揺していない。
 二人は、客に一人ずつ挨拶しながらこちらに近づいてくる。
 
 矢越は感無量になって、両手で二人と握手した。
 
 「急にいなくなったから心配したけれど、無事だったんだね。
  良かった。良かった」

 恥ずかしそうに握手をすると、花嫁は「ありがとうございます」と
 控えめに言った。

 最後に芽生の前へ来る。
 芽生の「おめでとう」の言葉に、新婦は答える。
 
 「ありがとうございます。おかげ様で生死の境を彷徨いました」

 そう言って、花嫁は芽生を睨みつける。
 芽生はその意味するところが分かったのか、顔面蒼白になった。
 


2


 「御来場の皆さまに、私どもの馴れ初めについてご紹介申し上げます」


 いつも生真面目な田勢が自分でマイクをとり、少し照れながら

 話し出す。


 「彼女は約一年前に、矢越先生の事務所にスタッフとして勤務し、

  そこで私たちは出会いました。その頃まだ二十歳そこそこなのに、

  気が利いて、どこか芯のある彼女に惹かれました」


 そこまで言うと、隣の新婦にマイクを渡す。


 「矢越先生の事務所に入る前に、私はある事情を抱えていたのです。

  それは……夫のドメスティック・バイオレンスでした」


 矢越もそれは知っていた。

 彼女は後援者の縁者で、見るに見かねた親族が父親に相談したのだ。

 矢越代議士はすぐにスタッフとして、事務所に来ないかと誘った。

 離婚するにはまず自立が必要で、その為には職がいると考えての

 ことだ。当人のプライバシーを考慮して、スタッフでもこの事情を

 知っていたのは、矢越くらいだった。


 「遠縁を頼ってこの土地に来ました。親族が矢越先生に相談したところ

  先生の御好意で、私はスタッフとして雇って頂けることになりました。

  本当に感謝しております」


 ここで新婦は代議士に向かってお辞儀をする。

 代議士はそれに向かって嬉しそうに頷く。

 

 「ようやく仕事にも街にも慣れてきた頃でした。家に突然夫が訪ねて

  参りました……」


 新婦の回想が始まる。


 その日の朝、出勤しようと化粧をしていた彼女は、インターンホンの

 音に反応して、ドアスコープで確かめもせずにドアを開けてしまった。

 この半年間、平和を享受していたせいで、感覚が麻痺したことを悔やむ。

 ドアを開けると、見覚えのある男が剣呑な目つきで待ち構えていた。

 口元だけが弧を描いているのが、アンバランスだ。


 「おい、俺から逃げ遂せるとでも思ったか? 職場もとっくに

  割れているんだ!」


 言いながら部屋に入ってこようとする男に、彼女は足の竦みが止まら

 なかった。


 「やめて」


  髪を掴まれた。この感触。暴力の前戯。

  身を強張らせる。

  今までされてきたことが蘇る。


  素早くドアを閉めようとする、隙間に靴の先が押し込まれ、

  素早く男が半身を滑り込ませる。男が侵入に半ば成功したことを見て取ると、

  女は後ずさった。思い出したかのように悲鳴を上げようとする口元

  めがけて、拳で思い切り殴りつけられ、壁に吹き飛ばされる。

  口の中が鉄のさびた味がする。端から血も流れてきた。

  夫はカーテンを素早く閉め切る。男が察する前に逃げ出そうと

  彼女は一気に駆け出した。

  だが夫もさるもの。すぐに気が付き玄関脇の台所に追い詰められてしまう。

 

 「お願い。落ち着いて」

 

 「落ち着けるか。お前は俺を裏切って逃げ出したんだ。俺があんなに

  お前の為に、金をかけてやったのに。何が不満なんだ。家からも絶縁されて

  行き場もないお前を拾ってやったのは、俺だろう?二十歳過ぎたばかりの

  小娘が、今まで贅沢な生活できたのは誰のおかげだ?」


 「私は自由な生活が欲しいの。ちゃんと自分を対等に見てくれる人が欲しい」


 朝食を作る為に使った包丁を手に取ると、夫は胸の前にかざす。


 「言い訳だ。本当は男がいるんだろ。浮気を正当化するな」


 「違う!」


 「だったら俺と一緒に死んでくれ」


 「嫌! 絶対嫌よ。死ぬなら勝手に死ねばいいでしょ? 私はもうあなたの

  犠牲になるのはまっぴらだわ」


 「わあああ」


 絶叫と共に、男が抱きつくように腹に包丁を刺した。

 絶叫を残して女は倒れた。

 ドアから尋常ではない様子に心配した、近隣の住民がドアを叩いている。

 女の絶叫に、扉を開けた住民を見て取ると、男はそのまま自分の腹を刺した。


 彼女は一命を取り留めたものの、重傷を負った。

 体の傷以上に、夫がどこまでも追いかけてくるという被害妄想に悩まされた。

 夫も自分を刺す時には、さすがに躊躇いがあったのか、軽傷で済んだ男は

 医療刑務所に入れられた。

 

 その後いつか必ず出てくる男の陰に怯えながら、新婦は隠れるようにして
 生きてきた。

 「そんな事情を全て知った上で、結婚しようと言ってくれたのが
  横に居る田勢さんです」

 ここで大きな拍手が起きる。
 小さな子どもを連れた若奥さんなど、涙を流している。
 
 拍手が止むのを待って、新婦は回想を続ける。
  

 結局、新婦は矢越代議士の紹介で知り合った弁護士を雇い、

 なんとか離婚へ向けての裁判に向かった。

 医療刑務所で思うところがあったのか、夫はこれ以上は危害を

 加えようとはせず、裁判もスムーズに進んだ。


 裁判所であったときに、女は元夫に尋ねた。

 どうやって新婦の居場所を知ったのかと。


 「女が教えてくれたんだよ。どこの誰かは知らない。お前の事

  嫌っているみたいだった。せいぜい足元をすくわれないように

  気をつけるんだな」


  新婦は巻き込まないようにと、世話になっている親族以外には

  友人にも自分の居場所を伝えていなかった。

  事務所にも数人女性がいるが、いくらなんでも

  嫌がらせの為に、自分の雇い主にまで損害を与えようとする人間が

  いるとは思えない。


 「答えは一人しかいませんでした」

 そういうと真っ直ぐ指を指す。

 「佐々木芽生さん。あなたです」


3


 

「私は縁戚のいるこの町に来るときに、くれぐれも誰にも知られない

 ように釘を刺されました。こちらで知り合った方たちは、夫の住所と

 電話番号を知る由もありません。縁戚はといえば、夫をとても怖がって

 いたので、私の居所を教えるわけがありません。当時私は縁戚の家に

 住んでいたのですから、自分たちも危険な思いをするのに、私の居所を

 教えるわけがないんです」


 そこで思い出したのが、佐々木だと言う。


 その頃矢越代議士の好意で、澄真は定期的に新婦の遠戚宅に来たり、

 遅くなったときには事務所から送ってやったりしていた。

 当時まだ婚約はしていないものの、矢越と佐々木は付き合っていたので、

 偶々それを何回か目撃をした佐々木が誤解をしたらしい。

 

 新婦だけにそんな配慮をしていることが分かると、スタッフ間にも良くない

 噂が出てしまう。そう思った矢越は、佐々木にだけ本当のことを

 言ってもよいかと新婦に尋ねた。新婦は自分とも夫とも何の接点もない

 佐々木なら、大丈夫と判断して快くOKした。


 だが独占欲なのか、佐々木は直接二人で話したいとまで言い出す。

 矢越も相当困ったようだが、やきもちもかわいいと思える時期だったようで、

 頼み込まれてしぶしぶ新婦は佐々木と二人きりで話をした。

 といっても当然のように話題は矢越のことくらいしかなく、本当に矢越と

 はなんでもない新婦は言われたことにただ答えていた。

 尋問のような会見もネタが尽きそうになると、佐々木は携帯電話を貸して

 欲しいと言った。


 「会って見たら、ちゃんとした良い人だって分かったって電話したいの。

  私携帯電話を矢越さんに預けたままだったの忘れちゃって」


 知らない人に携帯電話を貸すのは、いささか気分が悪かったが世話に

 なっている矢越家のためと、貸した。二人での会話を聞かれるのは

 恥ずかしいからと、携帯電話ブースに移動したのまでは確認している。


 あまりじろじろ見るのはいかにも信用していないようで、新婦は傍にある

 雑誌を見て過ごした。その後携帯で連絡をもらったという矢越が来て

 二人を送ってくれた。


 「私はそのときに、佐々木さんが夫に、私のことを告げたのだと確信して

 います。夫に電話番号を告げられる女性は、あなた意外にありえないんです」


 矢越もそのときのことは覚えている。

 以外に独占欲が強いんだなと思ったことと、暴力の被害者である新婦に

 ついていくら恋人でも話してよいのか葛藤したことは未だ記憶に新しい。


 「違います。私そんなことしていません!」


 パーティー参加者の視線がいっせいに、芽生に集まる。


 「……記憶違いということはないですか?」

  

 無言の圧力に、佐々木はおずおずと自分の意見を申し出る。


 「証拠があるんですよ」


 そういうと、今まで口を出さなかった田勢が用意しておいたパソコンで、

 音源を再生する。 

 

 「……奥さんは××県の矢越議員の地方事務所で働いています」


 短い文章かつ抑え目の声音だが、明らかに芽生の声だった。


 「……元旦那さんは、新婦から電話がかかって来たらすぐに居場所を

  特定できるように、会話を録音していたんですよ。後から再生して

  背景から聞こえる音から、居場所を推測する為にね」


 田勢は元夫と交渉して、あの音源を取り上げたのか。

 だとすると心苦しい作業だっただろうなと、矢越は胸が痛んだ。


 「これ、あなたの声ですよね」


 新婦が確信を持った声で、冷ややかに言った。


 「違う。違います」

 

 懸命に芽生が無実を主張するも、参加者はしらけた目で芽生を

 眺めるだけだ。否定する声そのものが、真実だと告げている。


 田勢は数枚の紙を纏めたものを持って、矢越代議士に渡した。


 「澄真さんが代議士になるのであれば、佐々木芽生さんと結婚することに、

  スタッフ一同反対します。これは皆の署名です。我々はその女性を

  代議士夫人として守り立てることはできません」


 悔し涙でぼやけた視界の中、敵意を放つ視線の直中で、

 芽生は独りだけ一際険しい目でこちらを睨む男の姿が見えた。



4


 「芽生!」

 

 挨拶もしないで黙って会場を飛び出した芽生を追いかける。

 追いついたはいいが、矢越は後に続く言葉が見つからない。


「送っていくよ」


本題には触れぬまま、とりあえず車に乗せる。

泣き続ける芽生に聞きたいことは山ほどあったが、

どれを取り出すべきか今の場にふさわしいのか分からなかった。

あそこまで仕掛けてきたということは、かなり計画的だということだ。

誤解だとしても、証明するのに相当の時間がかかるだろう。

 

「あれは嘘だよな?」


 「嘘に……嘘に決まっているでしょっ」


(このままでは済まさない)


 確かに自分のやったこととはいえ、もう少し場をわきまえるべきだ。

 声には出さないが、悔しくて芽生は泣き続けていた。

 

(一年前あの女は確かに、孤立無援で何もない唯若いだけの女だったのに)


  そう踏んでいたからこそ、脅威になる前に芽生は排除したのだ。

  今までこの観察眼は確かなもので、踏み台にしても良い人間を間違えた

  ことなどなかった。初めての失敗。それもこんなに惨めたらしい形で。

  

 (認めない。絶対に認めるわけにはいかない)


  気の利いた言葉をかけられないまま、矢越は芽生を見送った。
  せめて傍にと申し出る矢越を、芽生は断った。

 「信用できない。今日のことだって、あなたも知っていたんじゃないの?
  私に恥をかかす為に。だから……もう帰って」

 せっかく仲が深まるチャンスだと思ったのに。
 とんだ番狂わせだった。
 
 (大丈夫。一晩寝て、気力が回復すればまたなんとでもなる)

 だが芽生は知らなかった。
 更なる追い打ちが待っていることを。

 
 同じころ矢越も、後味の悪い思いで自宅へ戻った。
 正直誰にも会いたくない心境だったが、帰宅しないわけにもいかない。

 先程までの険悪な雰囲気もどこ吹く風と、皆楽しそうに二次会を
 始めているのを見ると、矢越こそ誰も信じられない気持になる。
 もう参加する気も起きなくて、自室に戻ろうとすると、田勢が目ざとく
 見つけて寄って来る。

 先程の音声データを保存してあるメモリだと言って、掌に押しつけてくる。
 
 
「証拠になりますよ……婚約破棄にもいろいろ証拠はご入用でしょう」

 矢越は一瞬殴ろうと手を上げたが、結局振り下ろした。
 なんであれ、今日は田勢のめでたい門出だ。
 ここで殴ったら、事態は一層悪化する。

 「私も、あなたの婚約者が事務所に来ては偽善的な言葉を口にするたび
  そういう思いを堪えてました」

 そう言ってグラスの酒を一気に飲み干す田勢。
 良く見れば、珍しく頬が赤くなっている。
 酔っているのだなと、矢越は思った。

 「そうだったのか……ひどく惨めな気分だな」

 「一杯もらおう」とスタッフからグラスを受け取ると、
 田勢と同じく一気に呷り、そのまま矢越は自分の部屋に直行した。
 とにかく今晩は何も考えたくなかった。



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