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17

 

 久しぶりに、芽生は山瀬と眠った。

 矢越と付き合い始めてからも、その関係はずっと途切れることはなかった。

 芽生の中では、全く別の関係性なので罪悪感もない。

 それでも山瀬が芽生が婚約をしたのを機に、体裁を気にしてその

 関係はあくまで師弟関係だけになった。

 芽生の側も身辺調査などをされて、破談にでもなったらとこの時期に

 付き合いを減らすのには同意した。

 

 矢越の態度が冷えつつある今。

 誰でも良いから頼りたい。

 そう思うのは自然なはず。そう思っての誘いを、

 ちゃんと山瀬は乗ってくれた。

 

 (やはりこの人は私のことをわかってくれる)

 

 今まで小田切と二人だけの秘密にしていた、謎の脅迫者に関しても

 横たわって指を絡めたまま打ち明けた。

 

 その直後、山瀬は跳ね起きて、真剣な顔で問いただした。


 「どうして、今まで何も言わなかったんだ?」


 「だって連絡を取ったら、先生まで狙われちゃうかもしれないでしょ?」


 これは確かに理由のひとつだが、もう一つのほうが大きい。

  5年前に決着をつけた筈のアカハラ問題が再燃し、その加害者

 として自分と小田切だけが槍玉に挙げられている。

 そんな状態で山瀬に話せば、二人とも切り捨てられる。

 

 だから内々に処理して、全部終わってから報告して、反対に評価を

 上げようと小田切と画策していたのだ。

 そんな緊張感をおくびにも出さずに、さも当然のように芽生は言う。


「……そんなに私を信用していなかったのか?」


「そうじゃない。巻き込みたくなかっただけ」


「じゃあもう解決したことなんだな」


「それは……まだ。小田切君も亡くなっちゃったし。私怖くて」


「怖くて私に頼ることにしたのか。さっきの私を巻き込み

 たくないというのは嘘か」


「だって女一人で、そんな良く分からない奴に脅されているのよ。

 誰かに頼りたくもなるでしょ?」


「婚約者はどうした?」


「迷惑をかけたくないの」


 プライドが邪魔して芽生はどうしても、関係が冷え切ってきたとは

 口に出せない。


「私には迷惑をかけて良いのか?」


 そのまま起き上がろうとする山瀬。

 失言に気付いた芽生は、慌てて山瀬の腕を取る。


「ごめんなさい。本当は変な音源が矢越さんのところに、送られて

 怪しまれているの。関係も冷えてきて、結婚も危ういの」


 言っているうちに泣けてくる。

 それを冷ややかに見つめると、山瀬は冷たい目で言った。


「私との仲ももう十分すぎるほど、冷え切っている。もう分かっている

 だろう? 今日で終わりにしよう」


 そう。気づいていないふりをしていたけれど、婚約が機で距離を置く

 というのは言い訳。

 本当はかなり前から、二人の関係はぎこちなくなってきていた。

 これを機に戻せるんじゃないか。

 そんな風に心のどこかで計算していた。


「私を切るの?」


「じゃあな」


 いつの間にか服を着替えた山瀬は、振り向くことなく出て行った。

 別れの挨拶は、肯定を意味することが、痛いほど芽生には分かった。



18


 山瀬が締めたドアに枕を投げつける芽生。

 ルルルル。

 急に鳴りだしたので、携帯電話を投げつけるのを諦める。

 出てみると、またもや恨み言と、罪の告白の要求。

 

 「いい加減にしてよ!」


 今度こそ携帯電話を布団に投げつける。 

 だが落ち込んだところで、事態は変わらない。


(味方を一刻も早く確保しなければ。5年前の例の件に関わった

 人間で、連絡を取れるもの。小田切君は死に、山瀬先生には

 見捨てられた。……あとは朋谷君。同じCOEだけれど、他大学で

 講師をしているあの人なら味方になってくれるかも)


 夜遅いから早速PCメールで連絡を取ってみる。

 朋谷も既に脅迫を受けているのかもしれない。

 他にも脅迫を受けている人間がいることを知らないから、

 黙っているだけなのかも。

 そう希望的観測を持つと、少しだけ芽生は希望が湧いてきた。

 その晩は朋谷からの返事が待ち通しかった。


 「数ヶ月前から私と小田切君は、正体不明の人物に5年前の

  事件を盾に、脅されています。今更そんなことを話したところで

  意味がないので、小田切君と二人で対処していました。ですが

  ご存じのように、その最中小田切君が亡くなりました。その内

  あなたのところにも脅迫が来るかもしれません。一緒に力を

  合わせて対決しませんか? 良いお返事を待っています」

  

 一方芽生から連絡をもらった朋谷は、心底うんざりとした顔をした。

 5年前も周りがするからやむを得ず、土岐等あかりへの嫌がらせに

 加担していたが、楽しくてしたのではない。そもそもあんな女なんて

 どうだって良かったのだ。


 あれは朋谷自身にも類が及ぶのではと考えての行動だった。

 もともとは山瀬がしていたことを、腰巾着の佐々木が率先して真似を

 していたことが発端だ。佐々木といることで山瀬の評価を得ようと

 していた小田切も、地味に嫌がらせに加担していた。

 自殺した芹沢はどちらかというとこの二人にけし掛けられて仕方なく、

 嫌がらせには加担していた。

 回数的には佐々木と小田切のほうが遥かに凌いでいる。

 どうやって事実を知ったのかは知らないが、遺族に恨まれるのも

 分からないでもない。


 だが自分は違う、と朋谷は断言できる。

 数も行いも段違いに少ないはずだ。

 同類扱いしないで欲しい。

 面倒事は御免だった。


 「久しぶりの手紙ありがとうございます。私のところには今のところ

  脅迫などありません。5年前の事件が何のことかは分かりませんが、

  私よりも詳しい方とご相談することをお勧めします」


 (これで当たり障りがない文章になっただろうか?)


 これでこのメールが何らかの証拠となっても、自分は問い詰められる

 ことはないはずだ。厄介払いのつもりで、こう返信すると、朋谷は

 芽生のメールをゴミ箱に移動させた。


 これで終わった‐そのはずだった。


 だが他に縋る人間がいないのか、芽生は必死だった。

 メールに電話攻勢。

 果てはCOEの行事を餌に、何とか接触を持とうとする。


 (どうしてこういう連中は、自分の尻拭いも出来ないのか?)


 今現在も朋谷は、上司にあたる教授からアカハラのもみ消しの

 協力を頼まれている。

 その教授が学生の修士論文の内容を盗用しようとした挙句、

 盗用疑惑を払拭する為に、修士論文の論題を変更しなければ

 学位を与えないことを仄めかして、大学当局に訴えられたのだ。

 完全に自業自得なのだが、その学生との仲立ちを頼まれている。


 朋谷は正義感が強い方ではないが、自分の尻拭いを人にさせる

 奴らには常々怒りを感じていた。

 とばっちりで怨まれたのでは割に合わない。


 (いっそはっきり断れる理由があればいいのに)


 朋谷は今日幾度目か知れないため息を深くついた。 



19

  

 「教授室にいます」

 

  久しぶりの山瀬からのメールを受け取った芽生は、喜び勇んで

  山瀬の研究室へ向かった。ノックして、慣れた手つきで扉を開けると、

  優奈がいた。山瀬と仲良くお菓子を分け合っている。

 

 「あの、私にメールを……?」

 

 「そんなの出してないが。勘違いじゃないか?」

 

  そのやりとりを聞いていた優奈が確かに、嗤った気がした。

  芽生の頭にかあっと血が上る。

 

  「失礼しました」と出て行ってからも、怒りは収まらない。

  あんな小娘に馬鹿にされた。

  普段の佐々木の行動に対する仕返しのつもりなのか。

  何か意趣返しをしなくては、済まなかった。

 

  翌日学部の授業で、芽生の優奈に対する態度はいつもの3倍近く

  厳しいものだった。すっかり神経がすり減った様子の優奈が、

  おずおずと通勤簿を出す。

  

  そこに印鑑を押してもらい事務に提出して初めて、給料がもらえる。

  手伝っているのは佐々木であっても、雇っているのは大学なのだ。

  雇用に関する手続きは全て事務を通して行われる。

  だが芽生は印鑑を出すのを拒否した。

 

  「あなた昨日私にあれだけのことをしておいて、よくも平然と

   要求出来るものね。大した腹黒さだわ」

 

  「何のことですか?心当たりがありません……。でもお気を

   悪くしたのなら謝ります」

 

  そんな殊勝ぶった態度も腹が立った。

  恥をかかせてその上、人格まで否定するつもりか。

 

  山瀬にも、今度という今度は修羅場を見せてやるのも

  いいかも知れない。芽生が結婚するからヤキモチを焼いているのだ。

  確かに矢越のことは好きだが、山瀬はまた別。

  これはどうしようもない。これからも関係を続けることだって

  構わないのに。

 

  「良い子ぶって、私に見せつけたいんでしょ? いいわ

   そっちがその気なら、私も印鑑を絶対に押さない。事務には

   あなたの仕事能力が最低だからと言っておくわ」

 

  「そんな……」

 

  ヒートアップしていると、「ちょっといいかな?」とノックの音と同時に、

山瀬の声がした。教員棟は部屋が隣り合っているので、ちょっとした用事

ならメールでやり取りせずに、直接交渉する。

 

 「授業で学部生と上手くいかなくて、落ち込んでいるみたいなんです。

  それでその相談を聞いていたんです」

 

  勝手にドアを開けてはいってきた山瀬に、佐々木は取り繕う。

山瀬は素直に信じたようだ。

優奈が手にしている書類を見て、山瀬は自分も優奈に給料を払う

為には印鑑が居ることを思い出した。


「後から私も印鑑を押すから、相談が終わったら来てくれるかい?

 印鑑を用意しておくよ。あまり思いつめないようにね」


言い置くと、帰って行った。

 

  その言葉が優奈を擁護しているように感じて、反射的に芽生は

優奈の頬をひっぱたいた。

 

 「色目を使ったのね」

 

 「……何のことですか?」


 叩かれた頬を抑えながら、涙目で優奈は何とか冷静に努めた。

 

 「白々しい! 妙な脅迫状を送っているのも、本当はあんたなんでしょ?


「違います!……どうして私がそんなことを」


佐々木が激怒するスイッチを教えてしまったことを自覚した優奈は、

これ以上いても印鑑がもらえないと悟り、一旦退出することにした。

 「出直します」と優奈が帰ろうとする。

 

 「このまま山瀬先生のところに、行くの?」

 

 「はい。先生に声をかけて頂きましたから」

 

  頬は痛むが、釣られて気分を高揚させては駄目だとあくまで冷静に

  優奈は答える。

  すると不機嫌そのものの表情で、芽生は言い捨てる。

 

 「余計なことは言わないでよ。仕事の能力がましになったら、印鑑だって

  なんだって押してやるんだから。頭を冷やして反省しなさい」

 

 山瀬に密告されると警戒したのだろう。

 言い訳がましく、釘を刺す。

 

 「……失礼します」

 

 優奈は一言だけ挨拶を残し、この最悪な会見を終わらせた。



20

 

 午前十時、学生相談審議会定例会議が始まった。

 一月に一度のこの会議では、全学審議会で上げられたハラスメント

 相談と各学部の審議会で上げられた問題で、全学審議会で取り上げる

 べきと判断された問題を話し合う。


 実際には各学部ごとに独自の慣行があったりして、各学部から全学部へ

 問題を上げることはほとんどない。

 全学審議会で取り上げるような学部をまたいだハラスメントなど

 めったに起こる訳もなく、事実上体制作りの見直しなど抽象的な

 議論でお茶を濁すことが多い。


 審議委員は教授職から、その窓口となる学生アドバイザーは各学科の

 教員もしくは大学院生から選抜される。全学審議会直属の学生

 アドバイザーだけ、心理学の教員のみと限定されている。

 

 相談したい学生は、まずは学生アドバイザーに相談することになる。

 その際に教員のアドバイザーに相談するのか、院生のアドバイザーに

 相談するのかは自分で決めることができる。アドバイザーには平等に

 権利があるので、アドバイザーが審議すべきと判断した事案のみを

 証拠と共に審議会に委託するというシステムだ。


 アドバイザーの任命は各学科に一任され、その訓練は全学審議会が

 定期的に外部の講師を招いて一斉に実施している。これも受ける、

 受けないはアドバイザーの意思に任されている。

 学科の自治を重んじた結果のシステムと言えるが、それゆえに機能にも

 差が大きい。


 型通りの事案報告が求められると、一際明朗な声で「はい」と挙手する

 者がいた。


 「情報処理学科の学生アドバイザーの焔と申します。今日は特殊な事案で

  あるが故に、全学審議会にかけるべきであると考えられる事案を提示します」


 優奈と常川は会議室の外側のソファで、自分の出番を待っていた。

 焔が説明する声が、ときおりこちらまで聞こえてくる。

 呼ばれるまで待てと言われたので、緊張して優奈は落ち着かない。

 これで認められなければ、佐々木にどんなことをされるのか。

 一方常川は朝食を食べ忘れたと、固形の栄養食をぼりぼりかじっていた。

 

 ガタン。


 会議室の扉が開く。

 焔が顔を出すと、手招きをする。


 (来た……!)


 緊張して手に持ったUSBメモリを落としてしまう。

 常川がさっと拾って、優奈の掌に押し付ける。


 「落ち着け。お前がしくじっても俺が説明するから大丈夫だ」


 口の端についた食べカスが何とも頼りないが、優奈は

 首を縦に振って頷くと、常川と共に会議室に向かった。


 会議室には教授陣が揃っていて、威圧感がある。

 萎縮しながらも、焔が質問することに答えるだけで良かったので

 思ったよりも楽に説明が出来た。

 第三者の意見として常川の証言と、集めた証拠が功を奏した。

 常川は自分だけの証言では弱いと、学部生の証言も録音していた。

 それに普段佐々木が研究室で先輩たちに、優奈の悪口を言っている

 内容も記録し、それが一度や二度ではなく反復して執拗にされている

 証拠も突き付けた。


 同時に優奈の勤務態度についての学部生や他の第三者の評価も提示

 することで、佐々木の評価が誤っていることも証明する。


 「この田中優奈さんの事例は、加害者が学生アドバイザーという地位を

  持っていることから、学部内でもみ消される可能性が恐れが高い。

  よって、全学審議会にかけるべきであることを提案します。賛成の

  方は挙手をお願いします」


 焔の言葉に、審議委員たちがどう反応するのか。

 優奈は怖くて目を瞑る。

 

 ぽんと常川に背を叩かれ、目を開ける。

 すると優奈の学科の教授以外、全員手を上げていた。


 その教授は最後まで公正に自分の学部で審議すると粘ったが、

 多数決により、全学審議にかけられることになった。


 「そしてもう一つ。皆様に提案します。ハラスメントの隠蔽に協力

  した者にも、処分を下すという規定を設けることです」


 焔は今回のように、学生アドバイザーなど審議と関わる者たちが

 ハラスメント加害者と昵懇だった場合について考えを巡らせた上で、

 考えついた提案だと説明した。

 これにはさすがに審議委員全員が、動揺する。

 

 「賛同できないという皆さまには、是非理由をお聞かせ願いたい」


 強気の焔に、優奈の方がハラハラしてしまう。

 常川は面白そうに、にやにや笑いながら、ちゃっかりこの様子を

 録音している。

 議長は周囲の様子を察して、投票に持ち込もうと提案する。

 直接は反対しにくい案であることを考慮してのことだ。


 「私はこれに賛同します」


 焔の隣に座っている教授が、さっと立つと大きく賛成と書いた

 紙を見せ、それを折りたたむと投票箱に投じた。

 他の教授陣も中身は見せないまでも、投票用紙に記入して

 入れて行く。


 「多数決で可決となりました。今後の審議会で詳しい規定は詰めて

  行きたいと思います」

 

 その時、焔が最初に賛成票を投じてくれた教授と顔を見合わせて

 笑った顔は、優奈が今まで見た中で最上の笑顔だった。 

 

1


 結婚式をしないと言う、田勢の一存で式は行わず、
 ハガキでのお知らせとなった。
 それでもスタッフをどうしても祝いたいという父親立っての
 望みで、矢越邸で内輪のパーティーが行われることになった。
 まだ新婦を見たことがない矢越もとても楽しみにしている。
 すると田勢が意外なことを提案する。
 
 「是非、婚約者さんも連れて来て下さい」

 あれ程矢越の婚約者、芽生との結婚を否定していたくせに
 どういった心境の変化だと、矢越は訝しんだ。
 ここ最近の芽生とのすれ違いも全て、目の当たりにしている
 というのに。

 選挙前の殺人的忙しさと、いつも以上に寡黙さに磨きがかかった
 田勢にそれ以上聞くことも出来ず。結局芽生に連絡をとり、共に
 パーティーに出席することにした。芽生は田勢のことなど全く
 覚えてはいなかったが、矢越から連絡してくれたことに喜んで
 くれた。矢越は少し胸が痛んだ。

 (本当に5年前の事件が、芽生に無関係だったとしたら……。
  自分のやってきたことは、非情に過ぎるものだったのではないか?)
 
 芽生は花嫁よりも目立たない格好で、なおかつ華やかな招待客と
 してはパーフェクトなドレス姿でやってきた。緩く巻いた髪も愛らしい。
 矢越の父親は既に芽生の事情を知っていることはおくびにも出さずに、
 婚約者の父親として普通に挨拶をしていた。
 ここら辺の腹芸は、やはり未だに矢越にはできない。
 どうしても不信感がそこかしこで出てしまう。
 つい先日までの会話などなかったかのように、芽生は話しかけてくる。
 それをぎこちなく交わしているうちに、田勢夫妻が登場する。

 「天原さん!」 

 拍手に囲まれて、登場した新婦を見て矢越も芽生も驚いた。
 つい半年前まで事務所で働いていた女性スタッフだったからだ。
 
父と母は知っていたのか、全く動揺していない。
 二人は、客に一人ずつ挨拶しながらこちらに近づいてくる。
 
 矢越は感無量になって、両手で二人と握手した。
 
 「急にいなくなったから心配したけれど、無事だったんだね。
  良かった。良かった」

 恥ずかしそうに握手をすると、花嫁は「ありがとうございます」と
 控えめに言った。

 最後に芽生の前へ来る。
 芽生の「おめでとう」の言葉に、新婦は答える。
 
 「ありがとうございます。おかげ様で生死の境を彷徨いました」

 そう言って、花嫁は芽生を睨みつける。
 芽生はその意味するところが分かったのか、顔面蒼白になった。
 



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