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 翌日は、優奈は常川に連れられて、加奈に会いに行った。


 望を連れた加奈は、以前よりどこか吹っ切れたように見える。

 髪型が短くなってきりっとしたせいかもしれない。


「久しぶり。どう、調子は?」


「はい。おかげさまで、小田切とも思い切って別居してからは、

 何だかすっきりしました」


「望ちゃんがいなくなったって、小田切大騒ぎだったんだぞ」


 加奈の膝の上で、絵本を読んでいる望の頭を撫でながら

 常川は言う。


「大騒ぎって……良く言いますよ。私から望を連れ去ろうとしていた

 くせに。そのくせ、望がいなくなったと分かっても電話もしようと

 しなかったんですもの。自分勝手な人だと言うことが良く分かりました」


 加奈は小田切が、望を連れて別居した加奈から、何とか親権を奪い取る

 為に望を連れ去ろうとしたことを話した。


「それで、望ちゃんは一体どこにいたんだい?」


「親切な方が連れて来てくださったんです」


 加奈はその日の事を話してくれた。


 塾で授業が終わってのんびりしていると、小田切から「望をこちらで

 預かる」というメールが届いた。確認の為すぐに電話をかけると、望を

 義実家で預かると一方的に通告して、切られてしまった。


 慌てた加奈が車へ向かうと、天原から電話が入り、塾に小さな女の子を

 連れた人が加奈を探していると告げられて、急いで引き返したそうだ。

 戻ると、スーツを着た若い男が望の手を引いて、事情を話してくれたという。


「この娘さんが、駐車場の車内に一人でいたんです。どうも様子がおかしい

 ので、ドアをあけるとキーが掛かっていなかったのか、すぐに開きました。

 それで『ママに会いたい』と何度も言っていたので、誘拐の可能性もあると

 思い、差し出がましいかもしれませんが、すぐにそのまま自分の車に

 乗せて、望ちゃんの持っていたバッグからあなたの場所を探しだした

 というわけです」


 その男は爽やかに笑う。恰好は夜の男だが、良い人そうだ。

 その車の特徴を聞くと、どうやら義両親の車に乗せられていたようだ。

 先程の電話での応対といい、小田切が勝手に連れ去ろうとしていたのを

 了解した上で、協力したのだろう。

 小田切からいつか望をとられてしまうのではないか。

 不安で苦しくて、望を抱きしめながら泣いてしまった。

 つい先頃まで愛人らしき女からの、電話も止むことがなかったのだ。

 

 驚いた男性は、ハンカチを差し出してくれた。

 清潔感のある男性のハンカチが、小田切と比べて新鮮だったのを覚えて

 いる。


 望は疲れてしまったのか、さっきまではしゃいでいたのがすっかり

 眠りこけている。仕方なく移動させる。礼がしたかったので、ささやか

 ではあるが食事に招待した。仕事終わりの天原も一緒だし、誤解される

 こともないだろう。


「宜しかったら、どうぞ。一週間程気分転換されてはいかがですか?」


 そう言われて出されたのが、ホテルの宿泊券だった。大人二人分だ。


3歳以下の御子さんなら無料で同伴できますし、設備もあるはずですよ。

 もしお時間があるというのなら、そちらのお嬢さんと一緒に行かれても

 よろしいですし。相手が急にいけなくなってしまったので、払い戻しを

 しようと思っていたんです。せっかくなので使ってみてはいかがですか?」


「うわあ、ここ高いホテルじゃないですか?行かないなら私がもらいますよ!」


 このまま家にいたら、居場所が知られている以上、またいつ望を連れ

 去られるのか分からない。もうあの家の人間は信用できない。

 愛人らしき女にも狙われている今、保育園にも預けられない。

 仕事もあるし、と心配する。

 場所は街から程良く離れた海辺で、来るまで一時間ほどの場所。

 通勤する分にはそれほど大変ではない。

 ホテルのパンフレットを見ると、子どもを預ける場所もある。


「子どもを預かる場所もありますし、どうでしょう?」


 まさに渡りに船。

 躊躇しないわけでもない。

 タイミングが良すぎはする。

 でも断る理由はなかった。


 「できすぎているな」


 話を聞き終えた常川の感想だ。

 優奈もなんだか腑に落ちない。

 ちょうど義両親の車に居合わせた。

 ちょうど大人二人分のホテル券を持っていた。

 うさんくさい。

 意図的なものを感じる


 「どんなやつなんだ?その男は?」


 「すっごく素敵な人。明るくて気さくで。見た目ももちろん良いん

  だけれど、まあそれにも増してトークがたつの。話していて全く

  飽きないわ」



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「あと数日で君の処分が決まる。先に大学に知れただけ儲けものだ。

  今ならやり方次第でダメージを減らすことができる。小田切君、

  退くのも勇気だよ」


 山瀬の忠実なる部下の田淵がアドバイスをしかけてきた。

 田淵に一斉送信以外のメールをもらったのは、何年前だろうか?

 山瀬の覚えがめでたい頃には、小田切の事を褒めちぎっていたくせに、

 現金なものだ。いやもしかしたら山瀬が言わせているのかもしれない。


 あの件以来目に見えて機嫌の悪い山瀬に、小田切自身迷惑をかけている

 負い目で遠慮していることもある。メールも電話でも相談して見たものの、

 全く返事はない。完全に切り捨てられたと言うことか。


 脅迫者に脅されても山瀬の関与を否定したと言うのに、この仕打ち。

 こんなことなら一蓮托生にするべきだった。

 小田切は自分の忠誠を悔やむ。


 (今辞職してダメージを最小限にするか?それでも刑事罰は免れまい。

   それに今まで僕がやって来たことは、この職にしがみつくことでは

   なかったのか。懲戒解雇処分が出ない限り、粘っていれば、また日の目を

   見ることもあるはずだ)


 小田切に処分が下ったのはそれから数日後のことだった。

 

 停職2ヶ月。

   山瀬は管理責任を取って、同じく訓告処分を受けた。

 なぜか佐々木の責任は不問。 

   今回の不正経理事件は、全て小田切一人の責任となり、幕引きとなった。


  やはり民間企業と比べると、少ない位だが、小田切にはそれなりに利いた。

  履歴書から消えない汚点。

 出世の為には、大きな障害になるだろう。

 

 それでも。

  それでも、これで全部終わった。

  処分が出て、むしろ小田切はほっとした。


  長い休みと捉え、この時間に加奈との関係をはっきりさせる。

  終わってしまったことは、取り返しがつかない。

  だが夫婦関係のひび割れはまだ修復できる。

  前回の騒動で、夫婦関係の歪みで他人を巻き込んだ人間だと

  思われている醜聞だけでも消すのだ。

  

 家族関係を盤石にしていないから、今回の失態を起こしたとも言える。

 

  修復できれば最上、できなくても望はもらう。

  決意して自宅に帰る。


  電気は暗く誰もいなかった。

  一度だけ通じた携帯電話にかけているが、あれ以降全く出てくれない。

  加奈の本気の怒りを感じる。


(もう取り戻すことは出来ないのか……。こういうときこそ助け合うのが

  夫婦というものだろう。都合が悪いからと言って、捨てるなんて。所詮

  その程度の人間だったのか)


  家の中は荒らされていた。

  自宅に届けられた不審な手紙や、保育園に届けられた怪文書まで、机の上に

  出されている。家探しでもしたかのような、荒れようだ。


(これは、加奈がやったのか?)


  心がすさんで望に危害でも加えていたら一大事だ。

  慌ててどこかに加奈か望がいないかと、探しまわる。


「ようやく会えたな」


  振り向く前に小田切の視界は暗転し、その場に崩れ落ちる。

 

 翌日以降、小田切の姿を見た者はいなかった。 



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「これからどうするんですか?」


 ホテルのラウンジで待ち合わせた男と、加奈はお茶を飲んでいた。

 望もプリンを食べてご満悦な顔をしている。


「しばらく実家に帰ります」


「確か遠方だったとか……」


「ええ。でも小田切の元にはもういられません。望のことも

 そうですが、一度家に戻った時に、家の中がしっちゃかめっちゃかに

 なっていたんです。例の事件の事に関する書類だけが机の上に乗って

 いて、それ以外は本当に家探しでもしたかのように。あんな状態の

ところへ戻るなんて、怖くてできません」


望の事で怒り心頭だった加奈だったが、さすがに不祥事がぼろぼろと

出てきた小田切を哀れに思い、一旦家に帰って小田切に一時休戦を

申し込もうとしたらしい。

しばらく留守にしていたので、掃除をして好物でも作ってやろうと

部屋に入ると、そこはカオスであったと。


合いカギはいつも所定の位置に隠してあるので、小田切はいつでも

入ることが出来る。家に帰った小田切が気持ちに任せて一人暴れていた

としたら、その矛先は加奈たちにもいずれ向かうかもしれない。


そう考えると、一気に哀れみも、引っ込んだ。

それ以降も小田切からは、助けを請いたいのか、よりを戻したいのか

何度も着信があるが、気味が悪くて出られない。

感情をぶつける相手が欲しいだけなのではと、恐ろしくなると

加奈は言った。


「そういうときこそ佐々木さんを頼ればいいのに」


吐き捨てるように、加奈は言う。


小田切と佐々木がしばしば近所で目撃され、近隣で噂の的に

なっていた。近隣や保育園での保護者の様子がおかしかった原因は、

それだったのかと知ったばかりなので、無理もない。

周囲の様子がおかしかったのは、余所様の家庭に口を出すのを遠慮

していただけだった。別居したのを見て、既に浮気の事実を突き止めたと

判断した隣人たちが打ち明けてくれた。


(あの噂のせいではなかったんだ……)


ほっとすると同時に加奈は激怒した。


当時は塾への妙な電話のせいで疑心暗鬼になって、周囲が敵だとばかり

思っていたけれど、敵は小田切一人だったのだ。

例の噂だって小田切の行為あってこそ。


思い出して腹が立って来たのか、眉間を寄せて加奈は唇を噛みしめる。


 男は静かに相槌を打ちながら、その話を聞いている。


 そうしている間にも、加奈の携帯が鳴る。

 うんざりした顔で、さっさと電源ボタンを二度押しする。


 「自分がピンチの時だけ、助けを求めるなんて、都合が良すぎるのよ」



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「失礼します。学内新聞なんですけれど、取材お願いしてもいいですかあ?」


 学部生らしい女子が二人程、研究室にやってきた。

 皆何事だと彼女たちの説明を聞いてみると、現在学内新聞で夏の心霊

 特集の記事集めをしていて、例の開かずの部屋のことが話題になったという。


 あの場にいた大学院生が口を滑らせたのだろうか。それとも既に学内では

 話題になっていたことなのか。いずれにしろ迷惑なことだ。


「それで、つい最近も小田切先生が開かずの部屋に入って、

 行方が分からなくなったと聞いたので、本当か聞きに来ました!」


 皆顔を見合わせる。


 小田切が失踪して既に一週間が過ぎた。

 小田切の両親からの問い合わせで、失踪が分かったが経緯が経緯なので

 自分の意思で失踪したと思われていた。

 不正経理の件では国税局も動き出している。


 これ以上の不祥事は困ると、大学としては失踪の件を外部に

 漏らさないようにお達しがでているのだ。

 失踪したところで調査を免れる訳ではないが、それを苦に

 身柄の拘束を恐れて逃亡したとは考えられる。

 いずれにしろ外聞の悪いことであり、既に周囲には知られてしまって

 いるが、勧んで広めて良い話ではない。


「……今現在失踪している人がいるんです。無遠慮に尋ねてもいい

 話題ではありませんよ」


 ややきつすぎると思ったが、それでもこれ以上詮索されたら面倒なこと

 になる。この言葉に、彼女たちは黄色い悲鳴を出して、むしろ喜んだ。


 「じゃあ、本当だったんですね。うわあこれ、記事になりますよ。

  大スクープです!」


 「いや、説明はできないって」

 

 「いなくなったことが本当なら、まずはOKです。それで、こっちが本題

  なんですけれど、何年か前にこの研究室で、居なくなった人いましたよね?

  あそこの開かずの部屋に入ってから。あれってここの研究室の院生だって

  聞きましたけど。本当ですかあ?」


 「院生なんて、すぐに居なくなる生き物だからな。誰の事言ってんだ?」

 

  常川が代わりに答える。

  答えられないのか、面倒なのかスポークスマンの役割をさっさと任せて

  他の院生は自分の持ち場に戻ってしまった。

  横に居た別の女の子が、メモを見ながら答える。


 「何年か前に、肝試しをしてから、様子がおかしくなって、その後あの

  部屋に入って出てこなくなったとか」


 「ああ、塔堂のことか。良く調べたなあ。確かにそいつなら、俺が休学

  から戻ったら、居なくなっていたな。その時誰かがそんなこと言って

  いた。確かにその頃にそいつの両親からも電話かかってきたから

    覚えているよ」


 「随分長く、大学いるんですねえ。詳しく教えてもらってもいいですかあ?」


 「長く」と言う言葉に若干反応した常川だったが、まあ昔のことだしと

  話し出した。


  その学生は数年前に山瀬研究室の大学院生だった。

  お調子者で周りの反応を読むのが上手い学生。

  そいつがある日話題作りの為に、一人で殺人現場に肝試しに

  行ったんだ。


    当時この辺りでは連続殺人事件が起こっていてな。
  そのうちの一つが、ある別荘での集団殺人だった。
  期間はそれほど近くない。
  手口もバラバラ。ただ殺される理由が見当たらない人間ばかりが
  殺されている点で、共通していた。
  
  殺される前に何か異変が生じていた訳でもなく。
  人間関係のしがらみも、周囲の証言では見当たらない。
  人生で不遇な状況下にあったわけでもない。

  だから警察もそれぞれが通り魔的な単独犯の場合と、模倣犯を

  含めた複数による犯行とで区別して捜査していた。

  
  で、そいつがそこから帰って来てから、様子がおかしくてなった。
  異常に怯えているんだよ。誰かに見られている気がする。

  そんなことをいつも言うようになった。

  でもそいつがお調子者っていうのは皆知っていたから、雰囲気を

  出して、怖い話っぽくしたがっただけなんだろうと。
  だからあまり皆気にしなかったらしい。
  気が引きたいだけなんだと、そう思っていたという。
  
  そしてあの部屋に入った‐。

  「本当にそれ以降、姿が見られないんですか?」

  「それは本当だ。アパートにも帰っていないようだと

   両親から大学に問い合わせがあったからな」

  「それでその人は……」

  「退学になったかな? 休学届を期間全部使うまで待っていたんだが、
   結局帰ってこなかった。ご両親もいないのに授業料を払っても仕方
   ないからと、退学したよ」

 「その人は未だに見つかっていないんですか?」


 「さあな休学してから退学したからな。そこまでは知らん」

   

  これだけの情報でも彼女たちにとっては満足するに値するものだった

  らしく、ほくほくと帰って行った。

  一方で機嫌よく話していた常川は、憑かれたかのように物想いに

  ふけっていた。

                            

 


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 「俺はあの部屋が、5年前のハラスメント事件の鍵になって

  いると思っている」


  新聞部の学生達が帰って三十分ほど経過した頃、常川は

  優奈以外いなくなった研究室で、ぽつりと言った。


  怪談に登場する院生が失踪したのも、ハラスメント事件で

  土岐等が入院する直前のことだという。

   常川はその学生も良く知っていた。


  今回小田切に5年前の事件を公表せよと迫った犯人も、

  開かずの間に娘がいると、詐称した。

  これは偶然なのか、あの部屋であることに意味があるのか‐。

  
  「あの当時うちの研究室に所属していて、ハラスメントに

   関わっていない訳がない。加害者か被害者かは分からないけれど。

   そういう雰囲気だった。あいつはどっちにもなる可能性のあった

   奴だ。だからもし被害者だとしたら、いなくなった理由も……」


  「嫌がらせから逃れる為に、失踪した可能性があると……」

   

  「普通なら、そんな状態なら退学した方がいいだろう。

   借金をしているわけでもなし。あえてその道を選んだのだとしたら

   復讐に人生を賭けることもことも考えられないわけでもない。

   ……いや最悪の場合、いやさすがにこれはあり得ないか」


   常川が最後に漏らした言葉の意図は分からなかったが、

   もしその人物が復讐に回ったのだとしたら、説明が付く気が

   した。


  「じゃあ、その人が失踪してどこかにいて、小田切先生を脅していた

   と言うんですか? でも、流された噂では、土岐等さんと芹沢さんの

   ことしか聞いていませんでしたよ? もし復讐したいのなら、自分に

   したことへの言及をまずは要求するんじゃないですか?」


  「犯人は5年前の事件の真相を知り、その上でその内容を広めたがっている。

   この条件に合う人間の一人に過ぎないというだけだ。思った以上に闇の

   深い事件かもな」


   小田切への攻撃は単なる序章にすぎないのかもしれない。

   常川は空恐ろしい宣託をする。


  「ま、なんにしろ、成功だったな」

  

  急にくだけた口調で小田切は言う。


 「?」


 不思議そうな顔をして見せると、常川は馬鹿にした目つきで言う。


  「まだ分からないのか? この怪談噺を作ったのは俺なんだよ」


  「はあ?」


  驚きが怒りに変わる優奈。

  それではさっきの取材に常川オリジナルの捏造話をしたということか。

  瑣末な記事だが、それでも嘘は駄目だろう。

  優奈が咎める視線を寄こすと、常川は慌てて否定する。


 「嘘じゃない。本当にあそこの部屋に入ってから、そいつは消えたんだ。

  それだけだと皆の記憶から忘れられるだけだ。だから怪談話に仕立てて

  忘れられないようにしたんだよ」


 「怪談として残しておけば、ずっと忘れないで伝わって行くだろ。

  そうしたら誰かが真実を解明しようとするかもしれない。

  そう思った。例え自分が解決できなくても」


 常川は満足そうに、そう告白した。




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