閉じる


<<最初から読む

44 / 139ページ

12


 「何だ、無事だったのか……。良かった……」

 喜び勇んで、小田切は警備員と他の研究室の院生たちに、
 娘が無事だったことを、自ら伝えに行く。
 幸いにして、皆が望が見つかったことを喜んでくれ、
 妻に娘を預けていたのをうっかり忘れていた人騒がせな
 男の事を快く許してくれた。結果的には事件性もなく、
 警察を呼ぶまでもなかったので、不信がられることもなかった。

 約一名を除いては‐常川だけが不審な目つきで、詰問する。

 「どうして旧劇薬保管庫に娘がいると思った? 誰から聞いた?」

 しつこく聞いてきたので、小田切は疲れていることを理由に黙殺した。
 実際、疲れがピークに達している。
 緊張の糸が切れ、安心感で一気に眠気が襲ってきた。
 望を案じて、右往左往している間にもう深夜の時間だ。

 最後の気力を振り絞って、小田切は両親に連絡をとり望の無事を
 知らせると、そのまま迎えに来てもらうことにした。
 家に帰ると、スーツのままベッドに倒れ込み、死んだように眠る。
  
 ほぼ一日中眠っただろうか。
 すっかり気分良く起きると、先日までの騒動はまるで悪夢のようだ。
 全く現実感が無い。

 また今日から仕事が始まる。
 望を奪還することは叶わなかったが、チャンスはいくらでもある。
 また機をみつければ良い。
 

 十分に睡眠欲を満たした小田切は、すっきりとした頭で大学へ出勤した。

 未だ望は加奈の保護下にあり、件の営業マンの行方も知れない。

 順調とは言えない現状。

 それでも望が無事ならば、仕切り直しが出来るはず。

 脅迫者の要求は飲んだのだから、もう不正経理については

 気にしなくて良いはずだ。


 (それにしても、あの電話の主は誰なんだ?)


 不正経理の証拠さえ押さえれば、現状で不利になることはないはず。

 だからこそ不正経理の証拠をもみ消す為に、元営業マンの行方を追って

 いたのだ。5年前のアカハラのこともどこからか聞いた噂話を恐喝の

 ネタにしようとしただけだと。

 だとしても、相手はハラスメント事件に執着している。

 取引材料以上の価値を置いていると感じる。

 

(誰か協力者がいるはずだ。5年前の事件の関係者か?それとも

 その家族か……?)


先に正体を知った方がこちらに有利な戦略を立てられる。

要求を飲む、飲まないではなく、そろそろ敵の正体を知る段階に来ている。


(今日から正体に繋がるものを探すことにするか。もうやられっぱなし

 ではいない)

 

 攻めに転じると決めると、心がいきり立つ。

 勢いのまま、小田切は新たな気持ちで、自分の研究室のドアを開ける。

 修理して以来怖くてあまり触っていないパソコンは避けて、

 自分のスマートフォンで興信所を探し始めた。


 コンコン。


 ノックがしたので、慌ててネット接続を解除しようとしていると、

 優奈が珍しく返事を待たずに部屋に入って来た。

 慌てて妙なキーを押してしまい、

 常になく慌てている小田切を見て「先生、大丈夫ですか?」と尋ねる。


 遅れて常川も入って来る。

 こちらはノックなどはなからしない。

 用件だけを述べる。


 「お前、……大変なことになっているぞ」


 意味が分からない小田切に、常川はデスクトップのスイッチを

 入れるよう促す。ネットに接続すると、常川は勝手にマウスを操作

 して、あるホームページに辿りついた。


 「何だこれ?」


 『5年前の大学アカデミック・ハラスメント事件を許さない!」

 と題されたこのページ。そこには5年前の土岐等あかりに対して

 行われた行為を、事こまかに綴ってある。さすがに実名は書いて

 ないが、イニシアルと大学の所在地情報から、関係者が見れば

 自分であることは丸分かりだ。


 そこのあるボタンを常川がクリックした。


 「やったのは……君と、僕と、……君だ」


 肝心の人名はさすがに音声処理が施されているものの、これはあの時

 犯人とおぼしき人物と小田切が交わした会話だ。犯人の声は録音時

 以上に機械的なものに置き換えられている。


 「音声朗読ソフトを使ったんだな。これでは相手の声は分からない」


  他人事のように常川が解説する。

  小田切の顔はまさに蒼白だった。

  やっと目覚めたのに、またもや悪夢に引き戻されたように、

  血の気が無い。

  相手はまだ小田切を許していない。

  いやこれが当初の目的だったのか。

 

 それでもこの時点では、小田切はなんとかなると踏んでいた。

 数多くの人間がブログやらSNSを乱立するこの時代に、興味のない

 人間にとって退屈極まりない告発ホームページをわざわざ探し出して読む

 者がそれほど居るとは思えない。

 すぐにこの音源とホームページを管理者に言って削除させれば、

 それほど問題はないはずだ。


 「このサイト、ブログのランキングで上位に入っているんです。

  それにアカハラと関係ありそうなコミュニティに宣伝を貼りつけ

  まくっているから、少しずつ知られているみたいで。わずか数日なのに、

  かなりアクセス数を稼いでいます」


 「俺もブログやっているから、何人かに聞かれた。この内容は

  本当かってこととか、お前の普段の態度のこと聞かせろって」


 「……まだ研究室の他の皆さんは気付いていません。でも時間が経てば

  知られることです。ご自分で説明された方がいいのでは?……ここに

  書かれているのは当然嘘なんですよね? だったら堂々と言えば大丈夫

  ですよ。まずは山瀬先生に……」


  優奈は誰かに誤解を受けて中傷されていると、未だに信じていた。

  今まで届いた怪文書が何度も小田切の罪を告発しているが、

  優奈はこの1ヶ月間で実際に見た小田切の人となりを信じた。

  つきあいは短いけれど、音源に入っているようなことはするはずが

  ないと。山瀬の名前を出されて、小田切は心底困った顔をする。


  「考えさせて欲しい……」


  「過去の代償か。高くついたな」


  常川は慰めているとも、諫めているとも分からない声音で言った。

  


13


 「これは名誉毀損だ!このページを書いた奴を訴えてやる!」


 ショックを怒りで昇華しようと、息巻いて感情を吐き出す小田切に、

 常川は勝手にしろとばかり、出て行ってしまった。

 優奈は小田切の様子を伺いながらも、特に役立つことはないと

 判断したのか、気まずそうに常川の後を追う。

 

 相変わらずパソコンには疎い小田切。

 当然のごとく、ページを書いた人間にどうやって抗議するかなんて、

 やったことも、やろうとしたこともない。

 なんだかんだで、常川が手伝ってくれるものと思っていた。

 

 (知らせたのなら、責任とって教えるくらいしてくれてもいいのに)


 恨めしく思いながらも、ネットサーフィンをしながら、有益そうな情報を

 探す。探してみればそれほど難しいことではないことが分かり、小田切は

 早速サイト管理者にメールで連絡を取ることにした。

 

 メール画面を開いて、文面を推敲していると、研究室の電話が鳴る。

 自分を告発するホームページを発見した直後だ。

 緊張しながら、電話に出る。

 もし脅迫者だったら、約束が違うと、恫喝してやる。

 それくらいの気概を持って、小田切は電話に出た。


 恐怖に反して、電話の相手は、かわいらしい声の女性だった。


「小田切先生ですか?時間が空き次第、すぐに大学本部までお越しください」


 どんな用件かと言っても、女性は理由は後からと繰り返すばかりで、

 要領を得ないまま会話を終えることになった。

 午後一番に授業がある身の上なので、今すぐにでも本部へ向かうことを

 告げる。


 昨夜騒がしてしまったことが原因かもしれないと、少し気弱にある。


 (余計なことを……!)


 昨夜あれほど親身になって望を探してくれたというのに、今になって

 評価が変わる。我ながら現金なものだ。


 面倒事はさっさと処理するに限る。

 小田切はすぐに本部に向かった。

 普段は小規模な会議などに使用される部屋に通されると、

 年配の男性二人が遅れて入室する。

 二人は小田切と対面するように、隣り合って座ると、

 いきなり本題を切り出した。

 

 「小田切先生、あなたに不正経理の疑いがかかっています。

  今から事情を伺った後に、そのまま研究室へ向かってそこで

  証拠探しも行います。既に調査委員会も設置されて、今日の

  この事情聴取も研究室の調査も、委員会での決定事項です」


 小田切は昨夜と同じく、その場にへたり込んだ。


 (そんな馬鹿な……。昨晩言われた通りに話をしたのに……)


 調査委員会の委員らしき男たちは、小田切の不正経理については

 既に数週間前から発覚しており、調査委員会も発覚から一週間後に

 作られた。その後は告発者の証言を取入れて、少しずつ内偵を進め、

 告発者がゴーサインを出したので、今日の事情聴取に応じたのだと。


 (そんな前から、手を打たれていたのか……)


 脅迫者は初めから、約束を守る気などなかった。

 それなのに奴の行動に一喜一憂していた自分‐。

 本当に馬鹿みたいだ、と小田切は泣き笑いのような声を出す。

 

 「それでは、告発者は誰なんです?」


 「それは言えません。あなたは聞かれたことだけに、お答えください」


 丁寧だが、あくまで引く気はない口調。

 小田切は自分が、『被疑者』として扱われていることを痛感する。  


 文句をいいたくとも、脅迫者が昨夜使用していた旧携帯電話は、

 今や小田切の手の中にある。どう連絡をつけていいのか分からない。

 一方的な関係にすぎない。


 元営業マンの消息すら掴めなかった小田切には、反駁するだけの材料はない。

 大学当局の調査に素直に応じるしか、道はなかった。



14

 

「小田切先生に、私は架空の伝票を切って金をプールするように

 頼まれました。断ると、本社に報告すると脅されました」


あれほど探していた営業マンとようやく会えた時、彼は告発者として

小田切の前に現れた。昔のおどおどと顔色を伺っていた様子は一掃され、

目は憎しみで燃えていた。


細かく計上された今までの小田切の経費の流用。

被疑者の小田切に許される発言は、全て己の弁護の為に用いるのが

精一杯で、時間をかけて用意された証拠を握りつぶすことなど

到底できなかった。


同時期に、小田切がアカハラを5年前にしたというネット情報は、

関係者の間であっという間に広まった。

学部内では公然の秘密だったその裁判についての、噂が再燃する。

これは学部にとっては黒歴史そのもの。

火消しにかかったが、一度ネット上に出回ったものを回収することは

不可能だ。


不正経費と同時に、これらの問題も取り上げざるを得なかった。

この頃になると、学内の運動家たちも、教員に相応しくないのではと

大学当局を付き上げて来るようになってきた。


不正経理に対して厳しくなってきたこの時勢に、アカハラという爆弾も

抱えている小田切は、あからさまに学部に取って不要な存在であることが

浮き彫りになった。特に山瀬にとっては、小田切の問題の監督責任を

追求され付き上げられることが増え、口には出さぬがその機嫌は日ごとに

悪くなっていく。小田切は見捨てられまいと必死になった。


 後日、小田切は再び事情聴取を求められた。


 「まずはこれを聞いてもらいます」


 用意されたパソコンから、あの日の小田切と脅迫者との会話が流れ出す。

 ネットで流れたのとは異なり、実名に処理が施されていない。

 

 「これは小田切先生の声ですね?」


 「はい……」


 まぎれもない自分の声に、小田切は否定することはできなかった。


 「これはどういう経緯で録音されたものですか?」


 「脅されたんです。娘の命を危険にさらすと。それで言わされただけです。

  本当のことではない」


 不正経理のことも露見した今、犯人を庇う意味などない。

 告発した元営業マンへのせめてもの意趣返しとばかりに、

 小田切は堂々と真実を告げた。

 あの怪文書の送り主は、この告発者と繋がりがあるはず。

 それなら娘の狂言誘拐にも一役かっているはずだ。


 「それは変ですね。奥さまの証言だと、小田切先生が奥さまの下から

  娘さんを攫ったと聞きました」


 (加奈にまで調査の手が伸びているのか!)


 加奈にまで捜査の手が伸びていることに、小田切は驚きを隠せない。

 最後の電話のテンションだったら、小田切の事をどう評したのか想像が

 つく。


 「それは……親権の為に焦って。でも、その後に娘が攫われたと脅された

  のは事実です!」


 「……ここに警備員から提出してもらった記録があります」


そこには、もちろん小田切は被害者として書かれたが、当時の挙動に

不審な点があったことが指摘されていた。


「小田切先生が娘さんを攫われたと思い込んでいた為に、不自然な対応に

 なったことは分かりました。それでは脅している相手とは誰なんですか?」


「僕を告発した奴です!」


「それはありえません」


既に予期されていた答えだったのか、その日の元営業マンの行動は、

全て男が自ら報告し、裏も取れていると告げられた。


「それ以外では?」


「……分かりません。でも5年前の事件の関係者はどうです?

 土岐等さんと芹沢の家族は?今になって逆恨みしている可能性が

 あるのでは……?」


小田切は主犯が元営業マンで、彼の誘いで5年前の事件の関係者が

乗せられたと推理していた。二人で協力すれば、あの誘拐事件の時間

関係者が主犯に代わって例の電話をかけることもできる。

だが誰かまでは特定できていない。


いや頭に一人の人物が思い浮かぶのだが、それはありえないはずだ。


「何か証拠はあるのですか?」


「……いえ」


ここで一旦調査委員は、警備員による続報を知らせた。

警備は今回のような悪質な悪戯を防ぐために、犯人を探そうとしたことを

告げた。警備員が後日パソコンの型番号から所有者を探すが、

その所有者はとうにそのパソコンを廃棄しており、

リサイクルショップに売り払ったと報告した。

ネット契約をするわけでもなく、レジに顧客情報を入力する機械もない

簡素な店だった為、客の足取りはつかめない。

ドアに付けられたリモコン錠も、メーカーで作成されたものだったが、

それもネットオークションで手に入れたものなのか、記録されていた

所有者には怪しい点がなかった。


「これほど周到に準備するような相手に、本当に心当たりがない

 のですか?」


力なく「はい」と肯定する小田切に、調査委員は呆れたように、

後日処分を決めるとだけ告げた。

誰が脅迫していようと、不正経理の事実は変わらない。

ここまで事態が進んでは、今更元営業マンに詰め寄った所で

益はない。


例の件は昨日全て義務は果たしたと言うのに……。

 騙されたと独りごちる小田切に目もくれず、調査委員会の委員たちは

 事情聴取が終わるや否や、すぐに小田切の研究室へと移動する。

 彼らは実に精力的に職務をこなしていく。

 研究室の前では、異変に気付いた教員たちが、その様子を遠巻きに

 眺めていた。


  調査委員が出て行ってからも、小田切はソファーに座りこんだまま

  動くことができなかった。目は正常に機能しているはずなのに、

  周囲の景色を映さない。眼下に浮かぶのは、唯在りし日に小田切が

  犯した過ちのみ。


  今更嘆いたところでどうにもならないが、あの日の自分を殴り飛ばしたい。

  どうしてもっと上手くやらない?

  どうして後の禍になることを考えない?

 

  現実を引き戻したのは、一本の電話だった。


 「お前の罪、償う時が来た」


  公衆電話からの着信だ。それでも声は相変わらずの人工的な物。

  ざまあみろと言いたいらしい。唯それだけの為に電話をかけたのか。

  それだけで済ますかと、周囲に聞こえない程の音量で小田切は叫ぶ。


 「約束は守ったはずだ。どうして裏切った!ちゃんとお前の疑問に答えた

  はずだ。どうして研究費のことを!」


 「それはSNSに自分の罪を告白した場合だ。お前はそれを無視した。

   その報いを受けたのだ。疑問に答えたから、娘は無事でいたんだろ」


 「どのみち娘は、加奈のもとにいたから、無事だった。騙したな!」


  ツー。ツー。ツー。


そのとき、唐突に気付いてしまった。


(常川が黒幕ではないか?)


 そう考えれば説明がつく。

 5年前の事件を良く知っていること。

 不正資金を調査できる立場に合って、なおかつ自分に被害が及ばない人物。

 妻と顔なじみで、携帯も入手が可能な人物。

 この研究科等に出入りして、細工してもおかしくない人物。

 全ての手掛かりが此の男を指している。


 すぐに学生研究室にいる常川の元へ急ぐ。

 

「これで意趣返しのつもりか?とんでもないことをしてくれたな……。

 お前が仕組んだんだろう?そう考えればつじつまが合う。

 妻とも面識があるし、ずっと傍で俺のことをほくそ笑んで

 いたんだろう。最近になって大学に来るようになったのも

 小細工する為だったんだな」


「……お前らがCOEを押しつけたんだろうが。それに俺は今年

 最終学年だぞ。なりゆきとはいえ、学位くらいは取っておきたいからな」


 癇癪を起した子どもを宥めるように、落ち着いた返事をする常川。

 その余裕ある態度がさらに火を付けたのか、小田切は尚も続ける。


「こんなことをしたところで、今更何も変わらない。

 ハラスメントに関しては、誰も罰せないし、反省もさせられない。

 死んだ人間は戻ってこないし、失った時も帰ってこない。

 お前のしたことは全くの無駄だ」


「何を勘違いしているのか大体分かるが、俺じゃない」


「お前は他に逃げる場所があるから、そう言えるんだ。逃げ場のない

 人間はそこにしがみつくしかない。……お前みたいなきれいごと

 だけではやっていけないんだよ」


 黙って聞いていた常川は、珍しい生き物を見るかのように小田切が

 話すのを見ていた。あらかたの主張を聞き終えると、ただ一言

 ぽつりと言った。


「お前、可哀そうな奴だな」

 


15


 翌日は、優奈は常川に連れられて、加奈に会いに行った。


 望を連れた加奈は、以前よりどこか吹っ切れたように見える。

 髪型が短くなってきりっとしたせいかもしれない。


「久しぶり。どう、調子は?」


「はい。おかげさまで、小田切とも思い切って別居してからは、

 何だかすっきりしました」


「望ちゃんがいなくなったって、小田切大騒ぎだったんだぞ」


 加奈の膝の上で、絵本を読んでいる望の頭を撫でながら

 常川は言う。


「大騒ぎって……良く言いますよ。私から望を連れ去ろうとしていた

 くせに。そのくせ、望がいなくなったと分かっても電話もしようと

 しなかったんですもの。自分勝手な人だと言うことが良く分かりました」


 加奈は小田切が、望を連れて別居した加奈から、何とか親権を奪い取る

 為に望を連れ去ろうとしたことを話した。


「それで、望ちゃんは一体どこにいたんだい?」


「親切な方が連れて来てくださったんです」


 加奈はその日の事を話してくれた。


 塾で授業が終わってのんびりしていると、小田切から「望をこちらで

 預かる」というメールが届いた。確認の為すぐに電話をかけると、望を

 義実家で預かると一方的に通告して、切られてしまった。


 慌てた加奈が車へ向かうと、天原から電話が入り、塾に小さな女の子を

 連れた人が加奈を探していると告げられて、急いで引き返したそうだ。

 戻ると、スーツを着た若い男が望の手を引いて、事情を話してくれたという。


「この娘さんが、駐車場の車内に一人でいたんです。どうも様子がおかしい

 ので、ドアをあけるとキーが掛かっていなかったのか、すぐに開きました。

 それで『ママに会いたい』と何度も言っていたので、誘拐の可能性もあると

 思い、差し出がましいかもしれませんが、すぐにそのまま自分の車に

 乗せて、望ちゃんの持っていたバッグからあなたの場所を探しだした

 というわけです」


 その男は爽やかに笑う。恰好は夜の男だが、良い人そうだ。

 その車の特徴を聞くと、どうやら義両親の車に乗せられていたようだ。

 先程の電話での応対といい、小田切が勝手に連れ去ろうとしていたのを

 了解した上で、協力したのだろう。

 小田切からいつか望をとられてしまうのではないか。

 不安で苦しくて、望を抱きしめながら泣いてしまった。

 つい先頃まで愛人らしき女からの、電話も止むことがなかったのだ。

 

 驚いた男性は、ハンカチを差し出してくれた。

 清潔感のある男性のハンカチが、小田切と比べて新鮮だったのを覚えて

 いる。


 望は疲れてしまったのか、さっきまではしゃいでいたのがすっかり

 眠りこけている。仕方なく移動させる。礼がしたかったので、ささやか

 ではあるが食事に招待した。仕事終わりの天原も一緒だし、誤解される

 こともないだろう。


「宜しかったら、どうぞ。一週間程気分転換されてはいかがですか?」


 そう言われて出されたのが、ホテルの宿泊券だった。大人二人分だ。


3歳以下の御子さんなら無料で同伴できますし、設備もあるはずですよ。

 もしお時間があるというのなら、そちらのお嬢さんと一緒に行かれても

 よろしいですし。相手が急にいけなくなってしまったので、払い戻しを

 しようと思っていたんです。せっかくなので使ってみてはいかがですか?」


「うわあ、ここ高いホテルじゃないですか?行かないなら私がもらいますよ!」


 このまま家にいたら、居場所が知られている以上、またいつ望を連れ

 去られるのか分からない。もうあの家の人間は信用できない。

 愛人らしき女にも狙われている今、保育園にも預けられない。

 仕事もあるし、と心配する。

 場所は街から程良く離れた海辺で、来るまで一時間ほどの場所。

 通勤する分にはそれほど大変ではない。

 ホテルのパンフレットを見ると、子どもを預ける場所もある。


「子どもを預かる場所もありますし、どうでしょう?」


 まさに渡りに船。

 躊躇しないわけでもない。

 タイミングが良すぎはする。

 でも断る理由はなかった。


 「できすぎているな」


 話を聞き終えた常川の感想だ。

 優奈もなんだか腑に落ちない。

 ちょうど義両親の車に居合わせた。

 ちょうど大人二人分のホテル券を持っていた。

 うさんくさい。

 意図的なものを感じる


 「どんなやつなんだ?その男は?」


 「すっごく素敵な人。明るくて気さくで。見た目ももちろん良いん

  だけれど、まあそれにも増してトークがたつの。話していて全く

  飽きないわ」



16


「あと数日で君の処分が決まる。先に大学に知れただけ儲けものだ。

  今ならやり方次第でダメージを減らすことができる。小田切君、

  退くのも勇気だよ」


 山瀬の忠実なる部下の田淵がアドバイスをしかけてきた。

 田淵に一斉送信以外のメールをもらったのは、何年前だろうか?

 山瀬の覚えがめでたい頃には、小田切の事を褒めちぎっていたくせに、

 現金なものだ。いやもしかしたら山瀬が言わせているのかもしれない。


 あの件以来目に見えて機嫌の悪い山瀬に、小田切自身迷惑をかけている

 負い目で遠慮していることもある。メールも電話でも相談して見たものの、

 全く返事はない。完全に切り捨てられたと言うことか。


 脅迫者に脅されても山瀬の関与を否定したと言うのに、この仕打ち。

 こんなことなら一蓮托生にするべきだった。

 小田切は自分の忠誠を悔やむ。


 (今辞職してダメージを最小限にするか?それでも刑事罰は免れまい。

   それに今まで僕がやって来たことは、この職にしがみつくことでは

   なかったのか。懲戒解雇処分が出ない限り、粘っていれば、また日の目を

   見ることもあるはずだ)


 小田切に処分が下ったのはそれから数日後のことだった。

 

 停職2ヶ月。

   山瀬は管理責任を取って、同じく訓告処分を受けた。

 なぜか佐々木の責任は不問。 

   今回の不正経理事件は、全て小田切一人の責任となり、幕引きとなった。


  やはり民間企業と比べると、少ない位だが、小田切にはそれなりに利いた。

  履歴書から消えない汚点。

 出世の為には、大きな障害になるだろう。

 

 それでも。

  それでも、これで全部終わった。

  処分が出て、むしろ小田切はほっとした。


  長い休みと捉え、この時間に加奈との関係をはっきりさせる。

  終わってしまったことは、取り返しがつかない。

  だが夫婦関係のひび割れはまだ修復できる。

  前回の騒動で、夫婦関係の歪みで他人を巻き込んだ人間だと

  思われている醜聞だけでも消すのだ。

  

 家族関係を盤石にしていないから、今回の失態を起こしたとも言える。

 

  修復できれば最上、できなくても望はもらう。

  決意して自宅に帰る。


  電気は暗く誰もいなかった。

  一度だけ通じた携帯電話にかけているが、あれ以降全く出てくれない。

  加奈の本気の怒りを感じる。


(もう取り戻すことは出来ないのか……。こういうときこそ助け合うのが

  夫婦というものだろう。都合が悪いからと言って、捨てるなんて。所詮

  その程度の人間だったのか)


  家の中は荒らされていた。

  自宅に届けられた不審な手紙や、保育園に届けられた怪文書まで、机の上に

  出されている。家探しでもしたかのような、荒れようだ。


(これは、加奈がやったのか?)


  心がすさんで望に危害でも加えていたら一大事だ。

  慌ててどこかに加奈か望がいないかと、探しまわる。


「ようやく会えたな」


  振り向く前に小田切の視界は暗転し、その場に崩れ落ちる。

 

 翌日以降、小田切の姿を見た者はいなかった。 




読者登録

Lavendulaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について