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 「小田切さん、ちょっとお話があるのですが宜しいですか?」


 望を迎えに行くと、年少組を担当している担任の先生が小声で言った。

 まだ教室で遊んでいる望を気にすると、担任は副担任の若い先生に、

 しばらく加奈と話をするから遊んでいてと指示した。


 雰囲気は職場に不審電話が来た時と似ている。

 緊張して、手に変な汗をかく。

 

 (まさか保育園にまで。でも今までの経過からみると、あり得ない

  ことではない)


 不安げな顔をいち早く察した担任は、面談室の引き戸を開けると、

 穏やかな声で椅子を勧める。望の組の担任は、経験豊富な四十代の女性で、

  頼りになると父兄の間でも評判だった。


 「あの、望が何か……?」


 「望ちゃんのことではないんです。まずこれをご覧ください」

 

 差し出されたのは一通の封筒。

 表の宛名は保育園の名前が書かれ、裏に差出人の名前はなかった。

 封筒は、ごく普通の白い無地の封筒だった。


 確認するように担任の顔を見ると、静かに促した。


 「どうぞ」


 封は既に切られているので、簡単に中の紙を引き出せる。

 タイプで印字された紙は、これまたコンビニでも売られている

 よくあるA4用紙だった。


 『小田切望ちゃんのお父さんは、浮気をしています。それも仕方ない

  ことです。子育ても家事も、全部お父さんがやっているんですから。

  私は奥様に態度を改めてもらいたいのです。できないなら、私が

  望ちゃんを育てます。今後私が園に望ちゃんを送り迎えすることが

  あるかもしれません。その時は宜しくお願い致します』

 

 「何なのですか、これ?」


 一方的に加奈を批判している。

 しかも身に覚えのないことばかりだ。

 子育ても家事もほとんど全部自分がやっている。

  小田切も手伝ってくれるが、気が向いたときにきまぐれにやるだけだ。

 先程までの不安から一転、怒りが込み上げてきた。

 

 「こんなの嘘です。私はきちんと家事も子育てもこなしています」


 「ええ。それは私どももよく知っています。保育園への送迎もお母さん

  がきちんとなされていますし、遅刻だって一度もありません」


 穏やかに同意をしてもらい、加奈は少しだけ冷静を取り戻す。


 「問題は誰がこんなものを送りつけてきたのかということなのです。

  お尋ねしにくいのですが、……心当たりはありますか?」


 誹謗中傷を送りつけてくるような心当たり‐。

 そんなの一人しかいない。

 小田切の噂を流した人物。

 でもその人物の矛先は小田切ではなかったのか。

 この書き方では、ただの小田切の浮気相手としか思えない。


 「……ないこともないです。ですが、確信はできません」


 「お察しします……」


  担任は加奈が、混乱した頭を整理する時間をじっくりと待ってくれた。

  不安。怒り。言いたいこと。言い辛いこと。

  収集が付かない。


  しばらく間を置いて、ようやく加奈は口を開いた。


 「これはいつ……?」

 

 

 「つい先程。午後の便で届きました」


 「それで、望は大丈夫なんでしょうか?

  まるでいつか望を連れ去るみたいなことを書いていますよね。

  不審な人が保育園に来たりすることは、今までありませんでしたか?」


  急に不安がこみ上げて来て、衝動のままに加奈は矢継ぎ早に担任に

  質問する。だがそこはベテラン。動じることなく、用意してあった

  今までの業務日誌や付近の不審者情報を見せて、加奈が心配するような

  ことは今までなかったことを証明した。


 「ただ望ちゃんの安全の為には、しばらく園を休まれた方が良いかと」


 「それは同感です。しばらく休ませて頂きます。……申し訳ありません

  でした。園にご迷惑をかけて……」


 「迷惑だなんてとんでもない。詮索は致しませんが、小田切さんこそ

  お辛い思いをしていらっしゃるのでしょう」

     

 思わず全部話してしまいそうになり、ぐっと堪える。

 それ以上に涙が込み上げてきた。

 真っ赤になっているだろう鼻を隠すように、ハンカチで押さえると、

 「望が待っていますので」と席を立った。


 そこへ申し訳なさそうに、この手紙を警察に見せても良いかと聞かれた。

 他の園児たちの安全を確保する為に、見回りをお願いしたいのだとか。

 「内容が事実無根であることは、ちゃんと言いますから」と強調してくれた

 が、そんなことを言わなくても、加奈は同意するつもりだ。

 コピーをもらうのを条件に、加奈は承諾した。


 「望ちゃんが元気で登園できる日を楽しみに待っています」

 

 望に聞こえないように、小さく担任は言ってくれた。

 望は当然明日も登園するつもりで、元気で先生に挨拶している。

 

 帰りの車で、望が無邪気に保育園であったことを聞くのが

 辛くて、加奈は涙声にならないよう耐えるのが精一杯だった。



8


 疑い出すときりがない。

 昨日までは思いもつかなかったことが、わずか一日でこうも

 変わるものなのか。


 いけないことと知りつつも、欲求に抗えず加奈は小田切の私物を

 チェックする。するとおかしなことに気付いた。

 携帯に、パソコン、机の引き出しに至るまで厳重に鍵がかけられている。

 最低限のルールだと遠慮していたので、今まで知らなかった。


 (どういうこと?)


 隠し事をしているのか。

 それとも加奈が単純に信用されていないのか?

 単に小田切が用心深いだけ?


 尽きない疑問を胸に、加奈は昼食の支度をする。

 あんな手紙が来た昨日の今日なので、望は当然保育園には行かず、

 大人しく家で遊んでいる。幸運にも今日は仕事が無い日なので、

 加奈はゆったりとした時間を、望と過ごしている。

 

 二人で焼きそばを食べていると、突然玄関扉が開き、

 小田切が駆けこんできた。  


 「どうしたの。あなた?」


 時ならぬ帰宅に、加奈は驚きを隠せなかった。

 いつもなら一旦大学へ出勤した小田切は、八時以降まで帰らないのが

 常であるのに。


 言いたいことが多すぎて、加奈は小田切の突然の行動にどう反応して

 良いのか分からない。


 「お前たち、大丈夫か?何か妙なことが起こったりしてないよな?」


 「何?急にどうしたの?別に何もないわよ。それくらいのことなら、

  電話でいいのに」


 そういいながらも、加奈は久しぶりに小田切が感情を露わにして自分達を

 心配してくれたことが素直に嬉しかった。だが夫はそのまま娘の方に走り

 寄り、思い切り抱きしめると、こちらを全く見ようとはしなかった。


 「パパ。痛いよ。ふふふふふ」


 抱きしめられたまま頬ずりされた望が、擽ったそうに身を捩る。


(そうか……この人が心配なのは望だけなんだ)


 加奈の胸がちくりと痛む。小田切の言葉の一つ一つが、どうにも憎らしくて

 ならない。その原因が自分でも分からなくて、苛々する。


「……それで、何かあったの?」


 さっきまでの喜びも、みるみる萎み、棘のある聞き方になってしまった。

 それでも小田切はまったく怯まない。


 「ああ、いや別にいいんだ。ちょっと大学で妙なことが続いていてな。少し

  気になっただけだ」


 「ふうん……。大学で妙なこと……ね」


 職場の出来事が家庭にまで影響を及ぼすなんて、加奈には例の噂しか考え

 られない。その背景を、小田切の真意を問い詰めたい。薄々頭をよぎるのは、

 あの手紙の背後に潜む女の陰。でも直接は聞けなかった。


「家庭にまで影響が出るようなことって何? まさか前のアカハラ事件

 の件で、狙われているの? それで家族まで?」


「大したことじゃない。あの事件を知った奴が、便乗して何かと悪戯を

 仕掛けているようでな。大学でも妙な嫌がらせが続いていてね。

 家族にまで被害が出ていないか、確認しに戻ったところだ」


 (もう被害が出ていると何度も言ったでしょう)


 怒りを抑えながら加奈は、心の中で冷静に反論する。

 

「……本当は、別の理由じゃないの?」


「別の理由? 他に何があると言うんだ?」


「……」


 それ以上は続けられなかった。自分の口からは言えない。全て証拠を握って

 から、一気に攻め落としたかった。配偶者の浮気を咎めるには、気取られぬ

 よう証拠を固めて現場を押さえるのが常道だ。


「……別に。ただ他にも理由があるんじゃないかと思っただけ」



9


「私、こういうの苦手なんですけれど」

 

「でも悩んでいる女性の助けになるのは、男として当然だろ」


 常川が今日このレストランに優奈を誘ったのは、訳がある。

 小田切の奥さんが夫の浮気に悩んでいるから、相談に乗ってあげる為だ。

 小田切の奥さんというのが、常川が運営していたサークルの

 メンバーの一人だったとか。


 まめな常川は男女問わず人の相談に乗っているらしく、常にメールの

 受信を告げる携帯の着信音が鳴り響く。こちらでまだ友人が少ない優奈は

 少し羨ましくもある。


 当然優奈はは、奥さんとの面識がない。

 加えて苦手な分野の相談ごとだ。

 有益なアドバイスが出来るとは思えない。

 一度は断った。しかし常川は引き下がらない。


 「人妻と二人きりで会ったら、変な誤解をされるかもしれないだろう?

  俺はいいけれど、奥さんが可哀そうだ。それともお前は悩める女性を

  放っておけとでも言うのか? 鬼だなお前。そんな子に育てた覚えは

  ないぞ。考え直せ!今ならタダ飯も食える!」


 今後の小田切との関係を思うと、心労で気が重い。

 あくまで居るだけという条件で、優奈は渋々了承する。

 承諾した以上、常川から絞り取ってやらないと気が進まない。

 

 場所は郊外のこじゃれたイタリア料理店で、自転車しかもって

 いない優奈は、こんな機会でもなければ訪れることのない場所だ。

 奢らせることを確約させ、優奈はどんな高い料理を注文しようかと

 知恵を絞る。


 常川は妙なところでフェミニストなのだ。研究室でも女子学生に

 恭しいとも言えるほど柔らかい態度だし、それがまた男子学生の

 勘に触っているようだ。ただしなぜか優奈は例外なのは言うまでもない。 

 決して青年実業家という外見ではない、どちらかと言えば野性味あふれると

 いった形容が正しいような常川がそれなりに女子学生からの支持があるのは、

 この態度が根底にある。それも一種の処世術なのかもしれない。


 「でも意外です。常川さん、基本男子学生や先生方に嫌われて

  いるのに。小田切先生の奥さんと知り合いだったんですね。

  小田切先生、嫌がりません?」


 正直に優奈は言ってみた。あからさまに避けられている常川がいくら

 鈍感だって、それくらいは気付いているだろう。


 「あいつらツンデレなんだよ。基本俺の事大好きだから。ああやって

  俺の気を引きたがるんだよ」


 「はい」


 あえて冷たく優奈が言う。


 「加奈ちゃん、あ、小田切の奥さんね。……が俺と連絡とっていること

  あいつは知らないよ。連絡を取り始めたのだって最近だし」


 小田切の奥さんの加奈さんは、常川の後輩に当たるのだがサークル

  ではそれほど話さなかったらしい。結婚式の会場で初めて常川が旦那の

  関係者と知ったと言っていた。ここに来て最近旦那の帰りが遅くて、

  素行がおかしい。心配になり、思わず同じ研究室の常川と連絡を取った

 というのが、 常川の説明だった。


 手がけている研究の進行具合によっては、実験で帰りが遅く

 なることは、十分にありうる。そうでなくても自宅に仕事を

 持ち帰らない方針であれば、自分の研究室で遅くまで仕事を

 することもあるだろう。

 しかしここに来て不信に思うのなら、今まではそうではなかったと

 推測出来る。

 

 研究室内での付きあいも限定されたものだ。

 飲み会などは定期的にあるが、毎日のようにあるものではない。

 小田切自身の付き合いも考慮するべきだが、それこそ研究室内よりも

 もっと少ないはずだ。あるとしても大きなイベントの時くらいだろう。


 「常川さんこそ、普段の素行が怪しいんですから気を付けた方が

  いいですよ。それこそ加奈さんとの浮気を疑われる可能性大です」


 常川と小田切。どちらが浮気しそうかと言えば確実に常川だろう。

  小田切はリスクを冒すようなことはしなそうだ。


 「ああいう奴ほど浮気をすると、のめり込むんだよ。……おっ。来た来た」


 「お待たせしてすみません」


 清楚な雰囲気の女性がやってきた。

 制服を着ておらず、服もラフだがおしゃれに心配りをしたものだ。


 「ああ、来たね。久しぶり! 好きな物を頼んで。俺のおごりだから」


 「あ、いえ、私が呼んだんだから私が払います。えっと……」


 「こいつは田中。ぴかぴかの修士1年生」


 少し眉尻を下げて訝しそうな顔をする女性。だが自分達が浮気だと勘違い

 されないようにする為だの、こいつは人脈がないから漏れる心配はないだの、

 研究室の事を探るにはもう一人いた方が良いなどと説得されて、諦めて

 自己紹介を始めた。


 「私、小田切加奈と申します。小田切がいつもお世話になっております」


 加奈は奥さんというよりも、女子大生に見える。ライトブラウンに

 染め上げた髪をセミロングに切りそろえたのが、細面の顔に良く似合う。

 耳元に小さく光るピアスも若々しさを演出している。平べったい鼻と

 少し上向きの唇は、ごくごく平凡な顔立ちだが、きっちりとメイクする

 ことで、清潔感溢れる印象に纏められている。


 コーヒーを頼むと、常川が優奈を指して「もっと頼んで良いよ、

 こいつなんて全く遠慮しない」と言っても、食欲がないと言って

 ゆるく笑って断った。


 一息つくと、常川は本題に入る。

 

「……で、どうして小田切が浮気していると思ったの?」

 

「娘の通っている保育園に、こんな手紙が届いたんです」


 差し出された手紙を常川は、何のためらいもなく読む。

 優奈は遠慮しようとしたが、「お前も読め」と押しつけられたので

 正直好奇心がないわけでもなかったので、渋々従うふりをして読んだ。


 「確かに、いかれた愛人の仕業って感じだな」


 先に読み終えた常川が、感想を漏らす。

 それは同感だが、優奈には疑問がいくつかあった。

 

 「でもどうして自宅じゃなくて、保育園に送ったんでしょうかね?

  普通こういうのって自宅に送るものじゃないですか?……その

  正妻への牽制という意味で」


 「まあ確かにな。保育園経由で、小田切が不倫しているという噂を

  広めるのが目的か?不特定多数に中傷ビラを巻くよりは効果的

  だろうからな。で、他に小田切が浮気をしている兆候らしきものは

  あるのかい?」


 「携帯やパソコンにロックをかけるようになりました。それに最近

  帰りが遅い日が続いているんです。本人はCOEプロジェクトが

  忙しいと理由を付けているんですが、……本当にそうなんですか?」


 「答えてあげたいけれど、俺達小田切とは違うグループに追放された

  身の上だからなあ」


 悪びれもせず常川が答えるので、優奈は慌てて訂正する。


 「ちょっと私まで巻き込まないで下さいよ。私は常川さんに言われて

  仕方なくです。追放されたのは常川さんだけ……ああそうだ! 

  ちょっと待って下さい」


 優奈はスマートフォンを慣れた手つきで操作する。

 研究室のウェブ画面を呼び出して見せる。山瀬研究室のCOE

 プロジェクトと研究室独自のプロジェクトの詳細な日程が示されている。

  これは研究室のメンバーに配られたパスワード無くしては、

 入れないウェブページだ。

 加奈はハンドバックからメモを取り出して、すぐに熱心にメモをとる。


 「研究室のプロジェクトには私も参加しているので、思い出したんです」

  

 「早速役に立ったな!やっぱり連れてきて良かった!」


 親指を立てて良い笑顔をして見せる常川。

 それにうなずいて同意する加奈。

 少しだけ優奈は満更でもない気がした。


 「小田切先生、確かに遅くまで仕事があるみたいですね」


 明るいニュースを口に出したと言うのに、加奈のペンを握る

 手は止まり俯いた。常川はその理由を察した。


 「固定メンバーが多いな。特に佐々木。ほとんど毎回小田切と

  組んでいるな」


 常川の言葉に、加奈が敏感に反応する。


 「佐々木さんを御存じなんですか?」


 「え?ああ。一応あいつもOBだからな。ああ田中、佐々木って

  言うのはうちの研究室のOBで、今はCOEの助教やっている

  奴だ」 

 

 事情に疎い優奈にも、すかさずフォローを入れてくれる。

 きめ細かい配慮はありがたいが、何だか話題がきな臭くなってきた。

 場をやり過ごす為に、優奈は食事に専念することにした。


 「佐々木さんって……どういう人なんですか?」


 「気が強い、見栄っ張り女。以上」


 失礼な人物紹介を披露すると、常川は加奈の質問の意図に気付いた。

 おかげで優奈は、常川の非礼を嗜める機会を失った。


 「もしかして、佐々木のこと浮気相手だと思っているの?」


 「確信があるわけではないんですけれど……はい。疑っています」


 「じゃあいいニュース。それはないよ。あいつ今婚約しているもの」


 「それは知ってます。婚約者に電話をかける為に、携帯貸したこと

  ありますから。でも……」


 加奈は何か思い当たる節でもあるらしく、言葉を濁した。

 

 「女の勘、ですか?」


 「というか、私が彼女に良くない感情をもっているだけかも

  しれません……。ただ佐々木さん以外で、思いつく人がいなくて。

  私が知らないだけかもしれませんが」


 そう言って、加奈は先日の佐々木の来訪時の態度について、

 話した。非礼な佐々木を庇うがごとく、加奈を責めた小田切。

 それに違和感を感じたと。


 「うーん、小田切と佐々木かあ。考えにくいと思うけれど。

  深い関係があるから庇ったわけじゃなくて、学会関係の

  立場を慮っただけだろう。あいつ態度がでかいせいか、謎の

  影響力をもっているんだよな。まあ注意しておくよ」


 優奈は佐々木と面識がないので、何ともコメントのしようがない。

 エビグラタンを黙って口に運ぶ。


 「佐々木に限らず、もし小田切が誰かと浮気をしていたとしたら、

  加奈ちゃんはどうするつもりなの?」


 「それはまだ……。というか実を言うと、浮気をしているかどうか

  が問題ではないんです。浮気相手が誰かが問題なんです‐」


 加奈はここ一連の奇妙な出来事を話した。

 そして誹謗中傷のネタをばら撒いているのが、小田切の浮気相手

 ではないかと推測していること。だから今はその犯人探しをしたい

 ということ。


 優奈は、研究室に届いた怪文書を思い出した。

 あれにも佐々木の名前が書いてあった。

 同一人物の仕業で、それが佐々木のしたことだとしたら、どうして

 自分の名前を書く必要がある?


 非日常としか思えないそれらの出来事に、不謹慎ながらまたもや

 高揚していた。我ながら懲りない性格だ。

 

「小田切本人には、相談してみたの?」


「ええ。もちろんです。でも、事実無根の中傷なんて気にするなとしか。

 心当たりも全くないと言い張っています」


「じゃあ、奥さんなんだから加奈ちゃんは、それを信じてあげなくちゃ。

 ここで俺が噂が正しいと言っても、加奈ちゃんは旦那の方を信じるだろ?」


「……」


「……それだけじゃないでしょ? 加奈ちゃんは人の噂ぐらいで、そこまで

 考えるほど思慮が浅くない筈だ。何か今までもあったんじゃない?」


「……」


 加奈は押し黙ってしまった。ここまで聞いたらプライバシーの侵害だ。

 優奈は慌てて止めさせようとする。人の家のことなど首を突っ込んでも、

 火の粉を浴びるだけだ。


「もういいじゃないですか。人様の家のことをあれこれ詮索するのは良くない

 ですよ」


「ありうるかもしれない。そう思っています……」


 重苦しい雰囲気のまま加奈は言った。優奈は目を見張った。

 常川はまだしも、初対面の人間である自分まで家の内情を聞いてしまって

 良いものなのだろうかと。


「込み入った話なら、私はこれで」と優奈が席を外そうとすると、

「おい、逃げるな」と常川が袖を掴んで行かせまいとする。

 気を使っているのか使っていないのか分かったものではない。

 様子を見て加奈も引きとめる。


「……この際、第三者の方に判断してもらった方が、客観的な

 物の見方が出来るかもしれません。田中さん聞いては頂けないでしょうか?

 夫の人間性を責めているのではないんです。ただもしそれが本当なら、

 私のせいなのではないかと……」


 当人がそこまで言うのに拒絶はできなかった。

 つくづく意気地がないと、優奈は不甲斐なく思う。

 いやそれよりも加奈の様子が気になったのだ。夫が嫌がらせをするかも

 知れないと考えてしまうような、結婚生活を送っているのかと。


「私たち夫婦は学生結婚なんです」


 加奈の回想が始まった。



10


 小田切夫妻は大学在学中に結婚した。小田切が修士2年生、
 加奈が
大学三年生の時だ。


 「妊娠していることが分かったので、それをきっかけに結婚したん

  です。交際期間は1年経つかどうかで、正直戸惑いました。小田切も

  すぐには返事をしませんでしたが、最終的には結婚するという結論に

  達しました。奨学金でなんとか生活している小田切と結婚するのは

  心配でしたが、幸い私も在宅で翻訳の仕事を見つけることができて、

  それなりに幸せな毎日を送っていました」


 1年ほど実家に帰って里帰り出産した後には、小田切は学会から

 学術団体の研究員として博士課程に在籍したまま給料をもらえる

 ようになり、加奈も翻訳の仕事に就いた。


 「結婚した時点で妊娠3カ月目に入っていたので、こちらにいたのは2カ月

  あるかないかでした。それで実家で出産して半年ほど実家にいてから、

  こちらに戻ってきたんです。初めは良かったんです。でもあの子が2歳に

  なったときに……」


 突然死んでしまったのだと言う。何の前兆もなく、昼寝をしていて

 起きないと思ったら、もう息がなかったのだと。


 「すぐに医者に見せました。でももう手遅れだと」


 ここで加奈が紙ナプキンで鼻をかんだ。知らせを受けた小田切はまず

 加奈を責めた。ちゃんと見ていたのかと。気が動転していたのなら、

 無理もない。加奈自身も受け入れられないくらいだ。

 傍にいなかった小田切はなおさらだと。


 だが何日過ぎても小田切は加奈のことを責めた。仕事をしているからだと

 仕事を辞めさせようともした。


 「……お前らのせいでこれまで苦労して来たのに、これでは意味が

  ないじゃないか」


  小田切は言ってはいけない禁句を言ってしまった。

  それは小さな絞り出すような声だったけれど、加奈の耳に届いてしまった。

  その時目が覚めたという。


 「あの人は義務で私たちと家族になったのだと。思い返せば

  思い当たることはいくつもあったのです」


  加奈は続ける。


  義実家に行ったときに、子どもがグラスを誤って割ってしまった時。

  小田切は子どもの怪我よりも、グラスが割ったことで叱責していた。

  子どもが熱を出した時にも、病院に連れていってやれと言うだけで、

  自分は仕事があると別の部屋に閉じこもってしまった。

  余裕があるときだけ、思い出したように子どもの相手をしてくれる。

  それが普通だと思っていた。


  でも……。


  加奈は自分とすら仕方なく結婚したのではと思うことが、

  少なからずあった。それがその時の言葉で思い知らされた。


 「……そう。私たちはあなたにとってお荷物だったわけね。

  仕方なく結婚したと思っているなら、いつだって離婚してあげるわよ。

  今日だって私はちゃんと見ていたんだから。あなたはどうなの? 

  偶にきまぐれに遊び相手をしていただけじゃない。あなたに

  そんなこと言う資格なんてないわ」


  一気に感情が爆発した。加奈は今まで負い目があったのだ。

  仕方なく結婚したのではないかと。

  結婚するまでは、それほど真剣にお互いのことを話したことは

  なかった。


  結婚しても、怖くて本心が聞き出せなかった。

  今更実はやむをえずと言われるのが怖くて、その話題を避けてきた。

  表立って意見することもなかった。


  だからこそ加奈が自分に不満をぶつけるとは想像だにしていなかったの

  だろう小田切は、相当驚いた顔をしていた。

  その怒りを小田切は、とんでもない方向に解釈した。


 「……お前、まさか虐待なんてこと……」


  あくまで加奈に責任を負わせようとする。

  小田切の本性をみた気がした。

  加奈は小田切に平手打ちをすると、その場で号泣した。

  娘の急死を悼む気持ちと、小田切の人間性への情けなさで

  頭がおかしくなりそうだった。


 「出ていって」と喚く加奈に立ち竦む小田切。医師から虐待の

  可能性は全くないことを告げられ、ようやく小田切は加奈の剣幕に

  押される形で、病室から出ていった。その後も加奈を宥めはしたが、

  謝罪の言葉はついぞその口から出ることはなかった。


 だから加奈も、その日以来謝罪に類する言葉を発したことはない。

 これでやっと小田切と対等の立場に立てた気がした。

 力関係で決して負けないことに、力を注いだ。

 愛情などはそれ以前の問題で、もはや全く期待していなかった。


 当然離婚も考えたが、両実家の両親の説得と、小田切が離婚を

 拒否したことで諦めた。離婚調停になると夫の許せない二言だけでは

 離婚事由には当たらない。それに経済的にはいつでも離婚できると思い、

 先延ばしにしているうちに第二子も生まれ、腐れ縁のようにずるずると

 結婚生活を続けている。


 派手な喧嘩もなく、表面的には穏やかで幸せな普通の夫婦に見える

 らしいと、自嘲気味に加奈は言った。


  多かれ少なかれその程度の話は、どこの夫婦にもあるだろうと思ったが、

  優奈が口を出すことはなかった。相談ごとは傾聴することが大事だ。


 「そういう経緯があったから、加奈ちゃんは小田切が嫌がらせとかも

  やりそうだと思っているんだ」


 「嫌がらせをやるというよりは……『他人が嫌がることを自分がした』

  ことを受け入れられないのです。自分の考えと違う人を理解できない。

  それは自分への自信に根ざしている考えだと思います。自分に自信が

  あること自体は良いことなのですが、例え指摘されても間違っている

  ことが理解できない。理解できないのは自分と考えの違うその人間が

  悪いと、そう考えてしまう。だから本人が意図していなくても、誰かを

  追い詰めてしまうことはありうる ……そう思います」


  優奈は小田切のあの人の良さそうな、丸っこい顔を思い浮かべて、

  加奈も多少は被害妄想の気があるのではと感じた。

  小田切との付き合いはごく短いし、夫婦間のことは分からない。

  それでも加奈がそこまで人格を疑うほどの、性悪な人間には到底

  思えなかった。


   それを差っぴいても本当であれば、語るも涙のエピソードを淡々と

  感情を交えず、あくまで客観的に評する加奈の話は、真実味がある。


  グラタンを完食した優奈は、しっかりと聞く体制になる。

  常川はもともと早食いなので、じっくり聞きながらも箸を

  持つ手は休めず、こちらもほぼ完食。

  紅茶しか頼んでいない加奈だけが、そっと湯を自分のカップに

  継ぎ足す。


  ここで一旦紅茶で喉を潤すと、加奈は回想を続ける。


  感想は全て話し終えてからと、決めているようなので、

  優奈と常川はそれに従い、余計な口は挟まない。
 

  次の話は、小田切の性格を表すエピソードだった。



11


 「綾子。久しぶりだな」

 

  そういって小田切に声を掛けられた女性は茫然としていた。


  加奈を隣に、親しく声をかける小田切が言葉を並べるのを途中で遮ると、

  女は冷たい目でこう言った。


 「良く声がかけられたものね。あんたのせいで、どれだけ

  私が傷ついたのか分かっているの? それで今度は嫁自慢?最悪。

   全然変わってないよ」


  加奈は絶句した。そう言った女性は小ざっぱりとした身なりの、

  しっかりとした印象の女性で、その話し方から出鱈目を言っているとは

 思えなかった。

 話の流れからして、昔付き合っていた女性だと加奈は推測した。

 そうだとしたら、結婚したばかりの妻に紹介するのは少し無神経

 ではないか。

  さらに唖然としたことは、小田切の返した言葉だ。


 「そんな昔のこといつまでもしつこく気にするなよ。だからお前

   ふられるんだよ」


  そういってへらっと笑った。

  だがその眼光は明らかに、目の前の女性を下に見る侮蔑に満ちた

  光を帯びていた。


 「あんたが私にしたことを、奥さんの前で全部言ってもいいのね?」


  小田切の許可を待つつもりなど初めからなかったのか、女はつらつらと

  小田切にされた仕打ちを語り始める。

 

  途端に形勢不利と見たのか、小田切は何一つ言い返しもせず、

  加奈の手を引いて彼女から逃げ出した。女が追ってくることはなかったが、

  逃げ出す時に言った言葉を今でも加奈は覚えている。


 「あんたもそのうち分かるわよ」


  その声に狂気はなく、押し殺した気持ちが込められていた。

  人通りの多い商店街まで来ても小田切はまだ辺りを気にしていた。

  女が自分の罪状を読みあげている時にも、傍に知り合いがいないか

  ばかりを気にしていた。


  加奈はまだショックが大きかった。自分の夫が一人の人にあれほど怨まれる

  ようなことをした‐。あの女がいつも監視している気がして怖くなった。


「あの人、どうしてあんなにあなたのこと怨んでいるの?」


  そう聞くと、真剣な声で小田切は言った。


「被害妄想じゃないか。いちいち覚えていないよ」


  第一子が亡くなった時、一瞬この女の呪いではないかと思った程だ。


  それぐらいインパクトがあった。小田切の過去よりも、自分を

  怨んでいる人を知ってもなお正面から向き合わず、馬鹿にして素知らぬ

  ふりをするその態度に恐怖を覚えた。


  小田切が過去に撒き散らした怨嗟の種に、いつ自分が巻き込まれる

  のかと、しばらくは戦々恐々と暮らしていた。それでも二人きりの時には

  相応に御機嫌をとり、暴言や無視をするということはなかった。

  外から見れば、ごく普通の夫婦生活。


  だがこの事件と第一子を失った時点で、溝は確実に広がっていった。


 「あの一人目の子どもが亡くなってから小田切は、子どもへの接し方は

 変えてくれました。最近は本当に二人目の子どもに愛情を注いでいます。

 だから子どもも懐いている。子どもが望むのなら結婚を続けようと

 思ってはいるのですが……。正直一緒にやっていく自信がなくなって

 きました。

 今になっても、これほど誰かに怨まれてもしらをきり通して済ませようと

 しているのであれば。そして、誰かと一緒になって嫌がらせをして自殺に

 まで追い込んだという噂が中傷でなく本当のことで、それでも本気で自分の

 愚行を自覚していないというのであれば、価値観が違いすぎます。子どもに

 悪影響なので、即刻離婚します。だから真実が知りたいのです」




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