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 爽やかな朝風の中を、鼻歌交じりに優奈は歩いている。

 大学近くにはまだ緑がたくさん残っているので、朝に散歩するには

  うってつけだ。


 「田中さんがやったのでしょう?」


 いつのまにか後ろにいた焔が尋ねた。

 

 「……」

 

 歩みを止めたものの、前を向いたまま、優奈は何も語らない。


「どうして?」


 確信していたのか、焔は答えを待たずして尋ねる。


「大事な人だから」


 そう言って優奈は、振り向いた。

 好物を尋ねられて応えるかのように、その目に曇りはない。

 あたかもそうすることが必然のように。


 近くの境界から讃美歌が聞こえる清浄な空気の中、それは行われた。

 その時山瀬と優奈は、どこか人里離れた建物の地下に監禁されていた。

 どこからか讃美歌をうたう声がしたのをよく覚えている。人は以外にも

 近くにいるのかもしれないとうっすら思った。


 殺意が生まれたのは、芽生のことを聞いてから。


「許せなかった。一途であることを尊敬していたのに。それを一番汚い

 やり方でぶち壊した」


 優奈は思い出す。


 父親が不在がちなのをいいことに、男を連れ込んでいる母。

 それでもいつも心にあるのは一人だけ。その男の話を寝物語に

 聴かせてくれた。

 物語のその男は、いつも自信に充ち溢れ、余裕があって、

 何より一途だった。

 だからこそ母は振られてしまったのだろうけれど、それでも

 母は彼の話を辞めることはない。むしろ誇らしく繰り返す。

 

 その男は、きっと父親の若い頃だと信じていた。

 今の父は、他の母の男友達と同じ。

 皆その場凌ぎの日和見主義者。

 芯がない。

 

 でも物語の男には、確固とした信念がある。

 信念を守ることが、男を磨き、それが自信となっている。

 母が、唯一心から愛した人間。

 こんなに母が愛している男が、きっと優奈の父親の本当の姿

 なんだとずっと思っていた。

 そういうと、母はいつだってめったに見せない笑顔で、

 「そうだ」と答えてくれる。だから信じた。


 でも成長して知ったのは、残酷な真実。


 「お母さんはね、理想の王子様に捨てられて、ずっと

  待ち続けている哀れな村娘なんだよ。王子様は

  とっくに幸せにお姫様と暮らしているのにね」


 それでも優奈の思いは変わらなかった。

 哀れだなんて思わない。

 そこまで思われるような良い男なのだと思った。

 

 それが芽生の存在で一度に、ひっくり返った。

 妻子がありながら浮気をし、学生に嫌がらせをした上げく

 殺してしまうなどと。

 王子様を。

 山瀬を目標に生きていた自分の人生を否定された気がした。


 だから‐。

 これ以上の汚濁を恐れた。


 警察の手に渡ってしまったら。


 あの殺人犯の手によって死ねば被害者として、その過去が

 暴かれてしまう。

 生きて戻れば、孤独と厳しい世間の目に晒されて生き地獄の

 檻に捕らわれる。


 それならいっそのこと自然死。事故死にすれば。

 それ以上詮索されることはない。

 ましてや過去のゴシップなど。

 

 だから手を‐離した。


 これ以上の汚れを纏わぬように。

 美しいままで。


 未だ聞こえる讃美歌が、優奈の不浄なる行為を洗い流して行った。

 


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 焔には分かってしまうと、予感はしていた。
 優奈は全く動じない。

 

 「私もこちら側に来てしまいました」


 無邪気に微笑む優奈の、その顔に嘘はない。

 だから‐焔も仮面を脱ぎ、偽りのない素顔を露わにする。


 「……全力で憎め。僕はそれだけのことをした」


 「言われなくとも。あなたは、私の目標を、人生を奪ったんです」


 優奈の笑みは消え、いつもの控えめな物言いではなく、淡々と決意を

 表明する。瞳は真剣そのものだ。

 今までで一番明朗とした、物言い。

 これが本来の優奈の姿なのだろう。

 憎しみが自分の力を最大限に引き出す活力となる。

 どんな理屈よりも、それを救いとするのは必ずしも悪ではない。 

 

 そのまま真っ直ぐに歩いて来る優奈。

 眼前50cmの距離まで近づくと、見上げる。

 次の動作を予測して、焔は目を閉じる。


 だが、優奈が動くことはなかった。


 「何もしやしませんよ」


 言われて目を開けると、以前に焔が上げたネックレスを

 掲げている。

 導かれるまま焔は右手を差し出す。

 優奈は両手ではさみこむようにネックレスを掌の上に置くと、

 自分の手で蓋をした。


 「これはもう、私には必要のないものです」


 そのままくるりと後ろを向くと、言った。

 焔は優奈の表情を読むことが出来ない。


 「私は決して自首することはないし、あなたのしてきたことを

  訴えることもしない。代わりに、あなたは一度も罰を受ける

  ことなく、自分の罪に苛まれ続ける。未来永劫。死ぬまで。

  それが私の復讐です」


 「思い知らせてやりたいとは思わないのか」


 「あなたが自分のしたことにどう決着を付けるのか。私は残りの人生

  全てをかけて、見届けさせてもらう。あなたは聡い人だから、それが

  一番堪えるでしょう」


 「もとより告発する資格などない。……長い闘いになるな」


 「覚悟の上です」


 「生殺しとも言える」


 「あなた次第でしょう」


 時は二人の出会いから既に一巡している。

 それを示すかのように、薄く色づいた山桜が風にそよいだ。

  

 これからまた、澱となった情念は新しく形を変え、続いていく。

 来るべき浄化の日の為に。 

 


この本の内容は以上です。


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