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 「僕は研究者生命を賭けて、この告発をします。学会から追放

  される覚悟は既にできております」


  焔は演壇で堂々と宣言をした。

  今日は山瀬が中心的役割を果たす学会。
  特に今日の学会は一月後の学会長選を前にした、
  貴重な場である。全ての発表の後には、会長候補者たちが
  会長選にあたっての抱負を話すのが恒例となっており、
  今日はいつも以上に重鎮が多い。その分発表者の緊張も
  高まっているようだ。

  他学部である焔は、懇意にしている教授二人の推薦をもらい、
  学会の趣旨に沿った題目の学会発表をする予定であった。
  直前まで常川と優奈も知らなかったので、学会会場で会って
  驚いた。焔は学科が異なるし、参加するにしても公聴するだけ
  だろうと思っていたら、講演者の発表者の名前にさりげなく
  混ざっていたので、そのチャレンジ精神には感服した。
  
  初めて聞く焔の発表に期待して、第一声がこんな不穏な始まり。
  これから焔が紡ぐ言葉に戦慄すると同時に、何が起きるのかと
  期待する。周囲もこの風変わりな始まりに、驚きを隠せない。

  
焔は続ける。

  自分は他の職に就くので、もう研究者の立場は不要だ。

  これはあくまで焔自身の意思であり、指導教官には何の責任もない

  ことを念を押すように強調した。

   

 「会長選投票直前のこの学会。私の発表を聞いてから、是非

  ご自分の投票を考えて頂きたい」


  この前置きはこのような学会発表の場ではあり得ない口上で、聴衆は

  顔を見合わせる。学会内部での選挙は、狭いコミュニティなので、

  投票と言ってもほぼ決定事項。投票はパフォーマンスのようなものだ。

  今回の学長選も立候補者は山瀬ともう一人の二人だけだが、ほぼ山瀬と

  決まっている。


   ざわめく聴衆。

  皆あれは誰だと顔を見合わせるが、発表者は事前の審査を経て認可

  された内容のはず。今になって拒否することは許されない。

  嵐の訪れを予感しながらも、聴衆には大人しく聞くことを選択した。

   

  焔の報告は各研究グループの結果発表ではなく、個人の発表

  ではあるが、その内容の目新しさからか参加者は多い。

  焔の題目を事前に知らなかったのか、出席者の一人が前列から、

  出口へ向かおうとする。


 「……山瀬先生、どうしました? 聞いていかれないのですか?」


  報告者が、参加者の行動を直接咎めることは、ありえない。

  他の聴衆までもがざわめきだす。


 「他に用事がある」


 「聞いて下さい。この報告は他人事ではない。あなたは是非

  聞いていくべきだ」


 「時間がないんだ」


 「あなたの次の予定は学会長選の挨拶だけのことは確認済みです。

  言い訳は見苦しい。聞きなさい」


  一学生が教授に話す言葉供思えず、一気に会場の緊張が高まる。

  外国からの聴衆だけが、傍に居る通訳に事情を聞いている。


 「続けます。この事例は、教授が一女子学生に対して行ったハラスメント

  事例です。内容をリストアップしました」


  パワーポイントを使った詳細な事例に、聴衆からため息が出る。

  内容の悲惨さに「ひどい」「何これ、犯罪じゃない?」などと

  口々に呟く声がする。

  証拠を隠滅する周到さ、圧力でねじ伏せる傲慢なやり方は、聴衆に

  負のイメージを植え付けるのに成功したようだ。

  もちろん証拠の音声や写真、診断書も抜かりなく紹介する。


 「今日はこの場にいる主犯者の名前を、皆さまに公表します。

  これだけのことをしても大学構内で当時は無罪になったのです。

  皆さまもう一度思い出してください。今庫の発表で我々はアカデミック・

  ハラスメントに関しては、断固たる態度をとるべきことを確認しました。

  そこで私は、このハラスメント加害者の無期限追放、詳細な調査報告と

  その公表、その協力者に対する処罰を徹底することを提案します」


  この場に加害者が居ると明言され、会場内に動揺が走る。

  今までの流れから優奈は、まさかと悪い予感がした。

  予感と言うより、予測。

  おそらくこの予測は合っているが、認めたくない。

  横に居る常川は、「面白いことになってきたな」と目を輝かせ

  ながらペットボトルの茶を飲む。

 

  「そこで今回は、このハラスメントの加害者であり、現在当学会の

   学会長選に立候補している山瀬教授について、その資質を問う為

   過去に犯した罪を公表しました。その善悪の是非を皆様に委ねたい」


  堪らず学界当局側から、待ったがかかる。


  「ここは、学会であって、裁判の場ではありません。そういうことは

   会議の時に……」


 「それではあなたたちは、内々に物事を進めてしまうでしょう。

  いくら体系を整備しても、絵に書いた餅では無意味なのです」


  この学会にはハラスメント加害者に対する制裁措置がないので、

  時勢に合わせて議論が始められたばかりだ。つまり現時点では

  何の措置もないことになる。


  聴衆は当日参加費を払えば、基本的に制限はないので、他大学からも

  学生や教師人が来ており、今日の学会の態度如何によっては

  大きな波紋となるのは間違いなかった。

  もちろんその余波は、焔自身にも訪れることは間違いない。

  それでも焔は全く恐れていない。

  事務を制して、自分のペースに持って行く。


 「ここに私は、5年前の女子学生殺人未遂の真犯人、山瀬教授の罪状に

  ついての大学における公開審問を願い出ます。後日警察にも告発します。

  殺人未遂ですから、5年ではまだ時効にはなりませんよね」


  会場が和琴大学キャンパス内なので、スタッフから参加者まで

  この大学の人間が多い。

  今この瞬間の山瀬の行動を、反応に目を光らせる。


 「学内では一度判決の出た事案に、再審理は認められないはずだ」


  反論はでなかったが、やはり口で言い負かすつもりか。

  そんな反応など焔の想定内だとばかりに、すらすらと焔は反論する。


 「ええ。その悪しき習慣もいずれは廃れるでしょうが。犯罪が関わって

  いますからね。再審理は世論の力を使ってでも実現させます。

  そして何より、あなたには学会からの永久追放を申請します」


  ここで焔は、山瀬に向かって指を指す。

  これに釣られて聴衆は皆山瀬の方を向く。

  その視線に居たたまれず、山瀬はせめてもと更なる反駁を行う。


 「余所者のお前に、そんな権限はない。これは名誉毀損だ。こっちこそ

  訴えてやる」


  ここで焔は両腕をバンとデスクに置いて、身を乗り出すようにして

  言った。

 

 「権限ならあります。僕はその時の被害者の一人である、当時の学部生

  嘉納宥宗です」

 

 みるみる山瀬の顔が青ざめていった。

 


2


  思わぬ展開に絶句していた山瀬だが、すぐに気を取り戻した。
 
 「あれは院生が犯人だと調べて分かったはず。本人もそう言って

  いただろう。それを苦に自殺したのは可哀そうだが、自業自得だ」


 「確かにその学生も嫌がらせに加担しました。ですが主犯格が無罪放免

  など、許されることではないでしょう」


 「こんな屈辱は初めてだ。絶対にこのままでは済まさない。その時は

  お前の指導教官も道ずれにするからな」


  ヒートアップする論戦に、ここで待ったがかかった。

 

 「いい加減にしなさい!」


  後ろから威厳のある声が聞こえる。

  声と共に背筋をしっかりと伸ばした初老の紳士が、演台の方へ

  歩いて来る。年の頃は山瀬よりも一回り以上上だろう。

  年齢に遭わずしっかりとした物言いは、まさに紳士然としている。

  痩せた体躯はぴんと張った背中が、彼を大きく見せている。


 「お義父さん……」


  山瀬が信じられない物をみる目で、呟く。


 「私の教育が間違っていたようだ。焔君、君に送ってもらった研究書を

  読んで、省みた。もう遅いかもしれないが、私も教員時代にやってきた

  ことを、今になって反省している。多くの学生の前途を奪ってきた。

  言われるまでは気がつかなかったことを、大きく反省しているよ。

  それを当たり前のように見てきた山瀬君だから、自分の誤りを

  気付けないのだろう。これは私の責任でもある。申し訳なかった」


  老紳士はそこで焔に向かって、深々と頭を下げた。

  義理の父の登場に、山瀬は何とも居心地が悪そうにしている。


  優奈は、山瀬との会話を思い出す。

  山瀬の奥さんは、恩師の娘さんで、嫁実家には頭が上がらないと

  言っていたことを。

  ということは、あの老紳士は、この学会の重鎮ということになる。

  専攻分野なので彼の名前は、この学会に名を連ねる者なら誰でも

  知っている。確かこの学会の創設者の一人のはず。

  会場内の空気は一気に引き締まる。


  老紳士は十分すぎるほどに、頭を垂れると、向き直って山瀬の方を向く。


 「山瀬君、これはいい機会なんだ。私くらいの年齢になる前に

  気付いたことはラッキーだ。君ならまだやり直せる。間違いだと

  判断したら、直せばいい。まだ現役の君にしか出来ないことだ」


 「私は本当に何も……」


 「見苦しいぞ。君は、この状態でまさかとは思うが、まだ学会長選に

  出馬しようなどと思っている訳ではないだろうね。私が訳を話して、

  それは無効にしておいた。君はしっかり自分のした事の大きさを

  受け止めなければならない」


  助けを求めるように周囲を見るが、大重鎮の登場に逆らってまで

  山瀬に味方しようとする者はなく、山瀬は腹を括るしかなかった。


 「分かりました。学会の判断にお任せします……」


  義父であり、学会の重鎮である老紳士の言葉には逆らえず、

  山瀬は一礼すると、今度こそ会場を後にした。



3


 「山瀬先生……!」


 打ちひしがれ、会議場を後にした山瀬を追ってきたのは、優奈独りだった。

 

 「ああ、田中君か」


 心ここにあらずといった夢見るような目つきで、山瀬は優奈を振り返る。

 そこに自信にあふれた、昨日までの山瀬の姿はない。

 

 「先生」

 

 「いいよ。もういいんだ。君もあの男の話を信じるのだろう?」


 「信じ……たくなかったです」


 焔の証拠は完璧で、少なくとも5年前のアカデミック・ハラスメント

 事件を山瀬が主導していたこと。学生に責任を押しつけて、自分の

 処分を免れたこと。あかりへの殺人未遂と証拠隠滅。焔、いや嘉納への

 暴行傷害。全て優奈にとって、現実のものとは思えないものばかり。


 あかりの持病の薬を奪って、更に携帯電話を盗んでまで証拠を隠滅

 しようとした件については、衝撃的だった。

 相手が誰であろうと許せるものではない。

 

 目撃者が自分だけだったので、焔は証拠を集めるのに骨が折れたようだ。

 初めからアカハラを疑っていた焔は、あかりの携帯電話の記録を盗難に

 遭う前にしっかりと自分の携帯に移動させていた。

 倒れている間に消された記録があるかもしれないので、データの復旧も

 試みた。


 あかりの入院先の看護師や、見て見ぬふりをした学生たちの証言を

 得るのにも時間が必要だったと言っていた。

 特に大学関係者の隠蔽体質は強固で、ありとあらゆる手を使って

 証言を出させた。


 事件から5年。

 焔はおそらく今日のこの瞬間だけの為に生きてきた。

 

 接客業で覚えた人との付き合い方も。

 努力して手に入れた盗聴器や、鍵開けの技術も。

 余所の大学を卒業して、再び和琴大学大学院に入学する為

 学び続けたことも。


 全部が今日の。今日だけの為。

 他を全て捨て去り、人生を捧げる程の情熱を全て復讐に

 使ってきたのだ。

 焔をそこまで追い詰めただけの理由を創り出したのは、

 他ならぬ山瀬たちだ。

 怨嗟を育てた者たちには、それだけの責任がある。 

  

 それでも。

 優奈は山瀬を信じたかった。

 許される訳はないけれど、山瀬なりに理由があると。

 

 誰かを庇っているのではないですか?

 脅されて止むを得ずしたことではないですか?


 止むに止まれぬ、高尚な理由が。

 それを堂々と反論してほしかった。


 無言で丘を下る小道を急ぐ、山瀬。

 その背中は、はっきりと優奈を。人を拒絶している。

 それでも。

 今日は小さく見える背中を支えたくて、優奈は追いかける。

 

 「理由が。何か大きな理由があるんじゃないですか?」


 「君の想像しているような、きれいな理屈ではないが。

  少し昔話に付き合ってもらえるか?」


 さすがの山瀬も、慰めが欲しかったのか、意外と素直に

 口を開いた。示されて、小道の脇のベンチに座る。

 今日は土曜日なので、道行く人もほとんどいない。


 雲が2,3個流れて行く静かな空を眺めながら、山瀬は

 苦い思い出が結晶となる物語を始めた。

 


4


 「先生、今度の飲み会なんですけど、趣向を変えてロシア

  レストランにしようかと思うんです。予算は1500円くらい

  だから、そんなに高くないし。それで初めてなので、下見に

  行こうと思うんです。一緒に付いてきてくれますよね?」


  二十年前、まだ助教授だった頃の山瀬は、社交的で若く

  独身ということもあって、当時は女子学生の間でも人気があった。

  几帳面な性格もあって身ぎれいな装いに、自信に満ちた講義は

  学内外からの評価も高かった。それに加え、元指導教官からも

  内外に後継者としてのお墨付きを半ば公認で与えられていた為、

  その権勢は学内で比類ないものであった。


  自信は傲慢さを、堂々たる態度に、軽薄な心根を親しみやすいと

  好意的に転換してもらえた。いずれも若者にはよくある症状であるし、

  妬む人々が口を極めても、ものともしない程の基盤もあった。


  まさにわが世の春。

  後は結婚のみが関心事項といったところ。

  当然玉の輿を目指す女子学生たちは血眼になってその座を

  競いあった。それを高見の見物している山瀬を、疎ましく思う

  男子学生も多数いたが、それすらも女子学生からしたら只の

  僻みと見なされるだけだった。


  とりわけ今山瀬を誘った女子学生、正射結衣は積極的だった。

  意思の強さを体現したように眉毛を濃い目に描いた大ぶりの瞳と、

  筋の通った整った小ぶりの鼻は、顔立ちを派手に魅せる。

  対照的に服装は清楚なお嬢さんというように、ワンピースを

  基調としている。

  

  友人同士で話す時には、高く柔らかな声を楽しげに張り上げて、

  常に人生を謳歌しているかのようだった。

  良くも悪くも今時のお嬢さんで、我慢するくらいなら、

  自己主張を通そうとするが、その愛嬌ゆえに誰からも悪くは

  言われない。

  そんな学生だった。


 他の女子学生もなんだかんだと理由を付けては繋がりを持とうと

 していたので、彼女だけが特別な訳ではない。その中には大人しい

 なりにアタックしてくる事務員もいれば、派手な交友関係をバックに

 繋がりを持とうとしようとする業者の女性もいた。


 山瀬自身この状況を楽しんでおり、気分しだいで適当に付き合う。

 ただ結衣の積極的な態度には、いささか辟易していた。

 余程自信があるのか、無理に機会を作っては、隠すどころかそれを

 アピールする。少し距離を取った方が良い。そう考えていた矢先の

 誘いだった。


 「そのレストランなら、帰路にある。自分で見てくるよ」


 「私も見てみたいんです。幹事なんだから、どんなところか把握しておく

  必要があります」


  それではどうしていつもの飲み屋から変えたのだと思うのだが、

  その辺の事情は後付けなのだろう。飲み屋を開拓したいというのが、

  結衣の表向きの理由だ。


 「でもなあ。女子学生と二人きりというのは誤解されると良くない」


 「いいですよ。誤解されても。というか誤解でなくすれば

  いいんじゃないですか?」


 「……困ったことを言うな、君は」


  女子学生に慕われて、満更でもなかったが、一線を超える勇気はなかった。

  遊びくらいなら良いが、当時の山瀬には交際に発展しそうな女性がいた。

  恩師の次女の芙美だ。

  度々自宅を訪問する内に、自然とそうなっていた。

 

  交際し始めたのはごく最近で、明確にお互いに意思表示をして

  なかったので、正直山瀬自身交際していると明言して良いのか、

  良く分からなかった。

  

  だが結婚を拒む理由もなかったし、むしろメリットしかない女性。

  漠然とこのまま結婚するのだろうと思っていた。余計な誤解は受けたくない。


  だが結局結衣に押されて、行くことになってしまった。

  自分が断られるなんて夢にも思っていない若い女は、とても積極的だ。

  それにゼミの学生の中心的人物となっている女を無碍に扱うことは、

  ゼミ運営の在り方にも関わる。止むを得ず仕事の一環と割り切る。


 「つまらなそうですね」


 「……そんなことはないよ」


  ここら辺は芙美の職場と近い。

  余計な詮索をされても面倒だと思ったのだ。

  視線が定まらない。結衣は目聡く山瀬の態度を評する。


 「何をそんなに気にしているんですか?」


 「気にしてないよ。ただ明日は早いから今日は早めに帰るよ。

  さっさと食べて帰ろう」


 「……先生、私、先生の事……」


 「ああ注文が来た。おいしそうだな」


  あえてその間を壊す。これ以上聞いてはいけない。

  かといってはっきりと断ってしまえば、面倒なことになる。

  とにかくもめごとは嫌だ。せっかく手に入れたこの輝かしい未来を

  詰まらないスキャンダルごときで、潰されてたまるか。


  とにかく相手に話をする隙を与えぬよう、山瀬はとにかく話し続けた。

 「じゃあ、気を付けて帰るんだよ」


 「送って行ってくれないんですか?」


  時刻は九時。遅いと言えば遅いが。それでも結衣は甘えていると感じた。

  先程の話を蒸し返されても困る。

  これ以上付きまとわれても困る。

  早めに諦めさせるのが良いのかもしれない。

  お互いに。


  翌日、登校した結衣を待ちうけていたのは、山瀬が結婚を前提に

  交際している女がいるという噂話だった。

  残念がる女子学生もいたが、そこまで真剣だったものは皆無だった

  ようで、ぶつくさ恨み事を言いながらも、現状を受け入れていた。


  結衣以外は‐。

 


5


 「先生、本当なんですか?結婚する相手がいるなんて」


  恒例のゼミ終了後の飲み会で、酔狂な会話の切れ間に、

   打って変わって重苦しい雰囲気で、結衣が恨み事を告げる。


 「ああ。気恥しくて、皆には言っていなかったが。いずれは

   結婚するつもりだ」

 

  男子学生が狙っていた女子学生にこれで、アタックできると

   安堵したのか、冷やかし半分の声を浴びせる。だが結衣の表情

  だけが場違いに真剣そのものだ。


 「……そんなこと今まで言わなかったじゃないですか?」


  普段と違い、心細げに呟く結衣。


 「誰も私のプライベートを知りたいと言う物好きがいるとは

  思わなくてね」


  あくまでも受け流す山瀬。

  

  昨夜の一件を良い機会と、正式に芙美と付き合いたいと

  言ったのは、昨夜の事。曖昧な関係に一応の蹴りを付けた。

  結婚したいというのは本心だが、婚約の手順は未だ踏んでいない。


  今までの女性との付き合いは短期間で終了する傾向にあった。

  その中でも芙美は例外的に長続きしている。

  芙美はあまり自分から求めない。

  意思がないのではなく、人を自分の理想像という型に嵌めようと

  強要しようとはしない。常識的でおっとりしているようで、

  外出の際 には下調べをしっかりし、曖昧な注文を的確に処理してくれる。

  それでいて押しつけがましくない。気遣いの出来る人だ。


  外見は今まで付き合ってきた女性たちと比べると、いささか地味だが

  贅沢ではないところも好ましく思う。その父親と言い、自分には

   最高の縁談だろう。結婚のタイミングと言うのは、案外こういうもの

   なのだなと自分で納得していた。

 

  酔いのまわった顔をまだ冷たい夜風が、酒精を運ぶ。

  浮き立つその香りが山瀬の前途を祝福してくれている。

  珍しく山瀬は二次会まで、顔を出しほろ酔い気分を楽しんだ。

 

  その頃、帰路では酔いつぶれた結衣が、同級生の女子学生に介抱されていた。

  いつもは介抱する側の結衣がめちゃくちゃな飲み方をするのは珍しい。


 「大丈夫?私結衣ちゃんがこんな酔い方するのは初めて見た……。

  どうしたの?何かあった?」


  いつもは門限だの何だと煩い結衣が、今日に限ってはそんなことも意に

  返さないようだった。そして突然しゃくりあげる。突然の泣き上戸に

  女子学生は、戸惑いを隠せない。

 

 「実はね……」

 

   結衣は重々しく口を開いた。



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