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 週の初めの月曜日の朝。

 目が覚めてみると、昨夜の悪夢は現実のことではない

 ように思えた。

 朝食を作り、メイクを済ませ、大学へ行く。

 いつもと変わらない日々。

 芽生は少しずつ気分を回復させていった。


 出勤早々にメールをチェックする。

 これはいつもの日課だ。

 すると学部の授業以来殆ど話したこともない

 教授からメールが来ていた。


 「佐々木芽生様。先週の全学審議会であなたの名前が

  ハラスメント加害者として上げられました。本来は

  学科内で処理される問題ですが、あなたの場合は

  学生アドバイザーの職にあることから、全学審議会

  で調査されることになりました。内密に調査される

  べきことですが、今後の身の振り方を考える時間も

  必要かと思い連絡させてもらいました。これは進退の

  決し方を考える時間を教えるつもりであって、ハラス

  メント行為を助長する意思はありません」


 (何これ?)

 

  早速身に覚えがないことと、学内審議会に変えて欲しいと

  訴えても無理だと言う答えが返って来るだけだった。

  

  その教授は自分は反対したが、他の人の賛成のせいで

  この案件が全学審議会に回ったことをくどい程説明した。

  何とか他の委員に人脈を使って手を回すことは出来ないかと

  聞いても、今回に限っては無理だとクビを振った。

 

  「全学審議会で協力した人間も処罰されることが決まりました。

   ですから私もあなたに心当たりがあるのなら、協力する訳には

   いきません。冤罪であるなら、気を楽にして判断を待って下さい。

   審議会の判断は慎重です。私にはこの忠告メールが精一杯です」


  このメール以降、全く返事がなくなった。


  全学の審議委員は多種多様の学部から構成され、山瀬の力も

  及ばない。それならアドバイザーの職を辞したらどうか。

  全学審議会から、各学部の担当に戻らないのか?

  学生アドバイザー用の規約を確かめると、やはり覆すのは

  難しいようだ。

  

  この5年間で学内システムは少しずつ変わっていた。

  ハラスメント相談所で挙げられた事案が、各学部に戻されて

  処理されていたのが、初めから各学部で処理されるようになった。

  全学審議会は言ってみれば控訴審のような位置づけである。

  余程の事案でない限り、いきなり全学審議会にかけられることはない。

  少なくとも芽生が知っている事案で、いきなり全学審議会

  にかけられることなどなかった。


   ここ数年は学生お客様主義の傾向が強く、特に学部生が

  相手の場合はできるだけ穏便に済ませようと、被害者が納得

  できるだけの調査をするようになった。学部生の声をアセス

  メントして、大学運営に活かそうとする試みも活発化している。

  お客様をおざなりには出来ない。そこらへんの流れを考慮して、

  芽生は常に動いてきたはずだ。


  (じゃあ誰が私を……?)


  教授は、芽生に被害者の名前を教えてはくれなかった。

  院生は将来を掴まれているので、そもそも相談所に訴える

  事自体少ないのが現状だ。ならば学部生なのかと考えるが、

  訴えそうな学生はついぞ思い浮かばない。


  芽生は見えない敵に囲まれているような、居心地の悪さを

  急に実感する。

  そこへ来て急に昨夜の出来事が思い出される。

  あの新婦のように、絶対に逆らえないと思いこんでいた

  人間が、自分を執念深く怨んでいるとしたら。

  これからの自分の一挙手一同すら、恐ろしい。

  これをしたら誰がどんな反応をするのか。

  相手がどう捉えるのか。

  

  言葉づかい、行動、全て他人の怨みをかわぬように気を付ける。

  侮っていた相手ほど、牙を隠した恐ろしい相手に見えて恐ろしかった。


  同じメール欄に、最近では珍しく矢越から昨夜の非礼について

  謝罪するメールが届いていた。

  

  「内容はともあれ、大勢の前で君を辱めるような方法は、適切では

   なかった。誤解だと信じている。だから気持ちが落ち着いたら今後に

   ついて話し合おう。結婚は個人の問題だ。たとえスタッフでも親でも

   結婚について、口を挟まれる謂われはない。皆が悪く言うからと言って

   俺は君をそんな人間だとは思わない。自分で確かめたい」


  何をどう説明すればいいというのか。

  昨夜のあの招待客の白眼視。

  何を言っても無駄なくらいの、完璧な証拠。

  あの時、新婦は通話記録を一束持ってきて、喫茶店にいって電話を

  貸したその日時もしっかり記録してあった。

  言い逃れはできない。  


  あの土岐等あかりも、こうだったのか。

  白眼視。

  何をいっても取りつく島の無いこの状況。

  無力感。

  

  「皆に悪く言われるってことは、あなたに非がある証拠でしょ」


  当時はそう思っていた。

  悪く言われるだけの理由があるなら、本人に非があると。

  「悪く言われていること自体が、理由になんてならない」

  矢越はそう言ってくれた。

  どうしてその時に気付かなかったのか。

  気づいていたら、良く分からない変質者に付きまとわれることも

  なかったのか。


  (矢越だけでも味方につけなければ)


  今からでも遅くはない。

  芽生は矢越に面目が立つような言い訳を探し、学内の人間には

  最高の態度を示す。

  できることをするしかなかった。


  一週間もしないうちに、芽生は自分を訴えた相手が誰だか分かった。

  皮肉なことに、それは学生運動が立て懸ける立て看板からだ。

  自分の名前がでかでかと書かれ、授業手伝いの院生に嫌がらせを

  したことがペンキで書かれている。その看板は、全学審議会が

  早く裁判を行うようにと促すものだった。


  運動をしている学生には顔は知られていない筈だが、顔を隠す

  ように自分の研究室へ戻る。信じられない気持で一杯だった。


  田中優奈が自分を怨んでいる。

  そして周囲がそれを支援している。

  とてつもない恐怖だった。


  今まで侮っていた相手が、いつのまにか自分を追い詰める程の

  力を持っていた。

  今までは自分が嫌った人間は、周りも賛同して嫌ってくれたのに。

  

  (何とかしないと)


  まだ審議されていない今なら、優奈の口から審議を取り戻すことが

  できるはずだ。佐々木はすぐに学生の研究室へ行き、優奈を

  見つけると二人で話さないかと言う。このおどおどした学生なら、

  口で丸めこむ自信はある。


  「他の人もいる場所でないと、お話しできません」


  二人が話しているのに気付いた学生達が、一斉にこちらの様子を

  伺う。その目が何かを咎めているようで、芽生は何か言い訳を

  しないとと、用意して来た言い訳を述べる。


  忠告しただけなのに、悪口と言われて悲しい。

  学生と仲良くなれるように構ってあげただけなのに、

  嫌がらせと勘違いされた。

  そんなつもりじゃなかったのに、悪者扱いされた。

  そんなに嫌がっているなら、早めに言ってくれれば良いのに。


  皆事情を常川から聞いて知っているので、反応しようがない。

  何より自分達がずっと、リアルタイムで佐々木がやってきたことを

  見てきたのだから。今更なにをと呆れていた。


 「お前がどう思っていたかなんて、関係ない。やられた方が

  どう思ったかが重要なんだ」


  言葉を更に並べたてようとする芽生に、常川が宣告する。

  そのまま顔を真っ赤にして芽生は自分の研究室へ走って行ったが、

  誰一人後を追う者はいなかった。

  

  その日から3日後。

  全学審議会から事情聴取を受ける。

  その場にいたのは全員他学科の見知らぬ教授陣らしき 

  人たちだった。こういった手続きには慣れているのか

  人の良さそうな顔で、いきなり核心を突こうとはせず、

  こちらの意見を十分に聞くと言うスタンスだった。

  

  その日に備えて学生アドバイザーをしていた頃に読んだ教本を

  参考に、襤褸を出さぬようにと、細心の注意を払って自分の行動の

  説明をする。


  「お疲れさまでした。来週には審議会で結審されると思います」


  翌週、芽生への処分が決定した。

 

  佐々木の二カ月の停職処分と学生アドバイザーを懲戒解雇。

  学生アドバイザーに関しては、事前に結果を知っていたので

  依願退職し、実質上は二カ月の停職処分となった。

    


7

 


  常川が審議会の結果を伝えに、研究室の扉にぶつかるようにして

  入って来た。


  「やったな。佐々木の処分、停職2カ月だ!」


  今までに受けた心労に対する罰が与えられて、ほっとした半面、

  優奈は今後のことを考えると憂鬱でもある。狭い学会という世界で

  これから佐々木とどう折り合って生きていけばよいのか。

  この気まずい気持ちが一生涯続くのだろうかと。


  「また変な心配しているみたいだけれど、悪いのがあいつだから

   処分されたんだからな。お前は堂々としていれば良い。それより

   俺に何を奢るかの方を悩め」


  大々的に祝うのも躊躇われるのが、常川は言い出したら聞かない。

  仕方なくなるべく人目に触れない形で、祝勝会を検討していると

  佐々木本人が現れた。


  これは見物だと思ったのか、院生たちの視線がさりげなく、

  佐々木と常川に寄せられる。

  いつもは常川の事など丸無視の佐々木が、真っ直ぐに常川と優奈の

  居る方向に近づく。

  謝罪するのか。

  逆切れして罵倒するのか。

  息を飲んで皆が見守る中、芽生は常川を詰り始めた。

 

 「常川君が、晴人と組んで私と小田切君を嵌めたの?」


 「晴人って誰だ?」


 「トボケないで!良く考えたら常川君なら簡単よね。研究棟内の動きを

  知れるし、ITスキルもあるからウイルスだって作れる。小田切君の

  奥さんとも仲が良かったみたいだし」


 「またかよ。小田切と同じパターンじゃないか」


  小さく常川がため息を吐く。優奈はデジャブを見ているようだ。

  もっとも小田切バージョンを見ていない、その他の学生達には

  そこそこ興味をそそるらしく、皆固唾を飲んで見守っている。


 「全部お前らの自業自得じゃないか……。自殺までそうとは言わないが。

  それ以外の事は、人のせいにする前に、少し自分の頭で考えてから

  発言した方がいいぞ」


 「まるで私が芹沢君を殺したかのように婚約者に言うなんて、

  ひどすぎる。名誉毀損もいいところだわ!」


  行っている意味すら分からず黙っている常川に見切りをつけると、

  そこまで来て芽生は今度は優奈に歩み寄った。


 「どうせあんたが裏で糸を引いているんでしょ? 山瀬先生のことも

  私から奪っておいて」


 「……!」又殴られる。とっさにそう思った優奈は目を瞑った。

  芽生は激情に走る前に周囲の視線に気づくと、上げかけた手を下して

  捨て台詞を吐いた。


 「こうなったら山瀬先生の事も暴露してやるわ。私一人だけこんな目に

  遭うなんて冗談じゃない」


 「嘘を言って、先生を困らせるなんて最低ですよ。止めてください!」


  先程まで目を瞑って震えていた優奈が、両手を広げて前を塞ぐ。

  またもや怒りが込み上げてくる。

  山瀬を汚れないもののように崇拝しているような態度が、鼻につく。


 「やっぱりそういう事だったのね。言っておくけれど、先生の事を

  清濁全て含めて分かっているのは私だけだから。良く覚えておくことね」


 勢いづいて立ちはだかったものの、対面して睨まれると、

 優奈は今更ながら怖くなってきた。


 「おいおい、お前の相手は俺だろ。言いたいことがあるなら、俺に言えよ」


 これは面白くなってきたと、他のメンバーがちらちらと芽生を見る。

 他の研究室の人間も、騒ぎを聞きつけて集まって来た。

 さすがにこれだけの野次馬には勝てないと踏んだのか、芽生は憤懣

 やるかたない表情で、大きな音を立てて研究室から出て行った。


 残された空気は、期待はずれによる失望感。

 大事にならずに済んでほっとしてい座り込む優奈。

 常川だけはいつも通りけろりとしていた。

 

 自分の椅子に座りこんだ優奈の頭を、常川がぐりぐりと撫でる。

 

 「よくがんばったな」


 まだ目に生気がないままだ。

 余程緊張していたのかと、常川が声をかける。


 「あの、佐々木先生の最後の言葉って……。まさか……」


 「ああ、そういう意味なんだろうな」


 「……」


 それを聞いて以降、優奈は急に無口になった。

 無口でも常川の提案を無碍にすることはできない。

 優奈は心ここにあらずの状態で、焔も招いて祝勝会を

 開いた。資金の都合で、当然前と同じ安居酒屋だ。


 「……あの、どうしたんですか、田中さん?」


 ほとんど口を聞かない優奈を見て、焔が気にかける。

 いつもなら嬉しいシチュエーションだが、今日は素直に

 喜べない。


 「ああ、失恋だよ失恋。馬鹿馬鹿しい。それよりもこいつが

  ぼけっとしている隙にガンガン頼んで、こいつに払わせよう」


 「失恋じゃなくて、精神的ショックです!そんな不潔な……」


 「俺としては長年の疑問が解けてすっきりしたな。あいつがどうして

  態度がでかいのか。だから言っただろ。夢見すぎるなって」


 「普通先生と生徒が……なんて思わないですよ!しかも山瀬先生

  ですよ。ショックです。ショック過ぎて、今日は寝られないかも

  知れません」


 「そうか。ちょうど徹夜のゲーム大会といくか。焔、お前も強制参加な」


 「いや、僕はバイトが……」


 「焔さんは、おかしいと思いませんか? あんなことを皆の前で

  言うのは名誉毀損の猥褻罪です!」


 「絡むなよ。面倒くさいな」


  その場ですうすうと優奈は眠り始めた。


 「随分と先生を慕っているようですね」


 「ああ、こいつがあちら側の人間なら、純粋に過ぎるな」


 「?」


 「これ運んでおくから、先にバイトに行って来い。遅れて減給にでも

  なったら事だからな」

 

 その言葉に甘えて、焔は二人を置いて、店に向かった。

 



 『バイト』に向かう前に、焔は一件のバーに寄って行った。

  相手は先に来て既に飲み始めている。まだ待ち合わせの時間では

  ないが、女は既に数品も注文していた。自分もワインを頼むと、

   焔は女の隣に腰を下ろした。 


 「あなたには薄情に思えるでしょうね」


 「理解は出来ない。しかし批判するほど傲慢ではないつもりだ」


 正直な男に、天原は笑う。


「良く笑うようになった」


「変わったから。何もかも。この世界も捨てたものではないと分かったら、

 好きな物が増えていった」


「……」


「あなたのおかげ。ありがとう」


「自分で掴んだ幸せだ。胸を張れ。他人の助けなんて、所詮当てに

ならないものだ」


「そうかな。私は今回たくさんの人に助けてもらったし、感謝している。

……大事な物は1つに絞る必要なんて、ないのよ」


「おまえには 関係のないことだ」



1


  久しぶりの朗報のはずだった。


  突然降りかかった、アカハラによる停職処分。

  未だに心を燻り続ける不正経理疑惑。

  そんな中、矢越の方から会って話し合いたいと持ちかけてきた。

  最近はメールすらあまり返事のなかった矢越なので、

  一抹の不安もない訳ではないが、芽生にはこれを好機に変えるしか

  残された道はなかった。


 「君たちを脅していた人物を調査依頼するつもりだ。僕もその人物から

   君たちの事を直接聞きたい。結婚はそれから考えたい」


   矢越が持ちかけた提案は、思いもよらないものだった。

  アカハラ以外の芽生の所業を既に調査報告書で知っている、

  矢越のぎりぎりの譲歩だった。


 (もし脅している人間が、本当に逆恨みで罠に嵌めたことだったら、

  自分は取り返しのつかない失敗をしてしまう)


  そう判断しての賭けだった。

 

   これがラストチャンス。

   芽生も自分の信用回復の最期の望みを託すしかない。 

   誰が自分達を脅していたのか分かれば、結婚は何とかなるかもしれない。

  芽生もすぐに賛同した。

  

  芽生は候補になりそうな人物像を推理する。元業者の男は共犯として

 リストアップしておく。

 5年前のアカハラ事件に執着のある人物。

 

 一番に考えられるのが、アカハラ被害者の土岐等の関係者。

 

 実際に学内で山瀬と非公式の話し合いまでした。

 結果は土岐等の家族には納得の出来るものではなかった為、

 怒りを露わにされて困ったと山瀬が言っていた。

 未だに恨んでいることは十分に考えられる。

 

 二番目にアカハラの責を一身に負った芹沢の関係者。

 芹沢は全ての責任を負ったとはいえ、事実アカハラを行っていた加害者だ。

 家族はそれに負い目を感じていることは、葬式で確認済みだが、

 それ以降に何か事情があって心境が変化したというのなら、

 話は違ってくる。

 

 一週間後、調査結果が出る。

 芹沢家では、母親は専業主婦で時間的に余裕はあるものの、脅迫をする

 どころか、研究室に感謝をしていること。父親は退職後は、念願の喫茶店

 経営を始め、毎日忙しくて家にいない。喫茶店の従業員数や休業日を見る限り、

 とても小田切や自分を脅している時間的余裕はないとのことだった。


 (やはり土岐等家の人間の仕業か……)


 土岐等家の調査結果を見る。

 土岐等家の祖父母は、年金暮らし。祖父は趣味の郷土史の編纂を、

 祖母はもともと農家なので、そのまま農業を続けては、農作物を

 売買している。

 趣味とはいえ、本まで出している。ここ数年は途切れることなく

 執筆活動に邁進しており、定期的に郷土史をカルチャーセンターで

 教えている。

 母親は以前から勤めていた中規模の会社に勤めており、現在は

 役職にまで付いていると言う。


 「両家ともあなたを脅迫するような時間的余裕などありません」


 「……そんなはずは」


 焦燥と放心の交錯する表情を見て、矢越はもう無理だと悟った。

 ついにここまでの間、芽生の口から謝罪は一切聞かれなかった。


 「結局誰も出て来なかったな」


 できれば第三者と話してみたかった矢越だが、本人も心当たりがないよう

 であれば仕方が無い。結論を出すのは次回に回すことにした。



2



 「矢越さん、ちょっと」

 生気を無くした芽生がよろよろと家に帰って行く後ろに、
 続こうとすると、調査員に呼びとめられた。

 「怨みを持つ可能性がある人物は見つけました」

 依頼された両家ではなかったので、芽生には告げなかったらしい。
 それに芽生には犯罪交じりのところがあるから、教えて厄介なことに
 巻き込まれては迷惑だと言う気持ちも働いたんだと思う。

 「  」

 耳元に口を寄せて、そっと教えてくれた名前に、聞き覚えはなかった。
 調査員によると、親族で「偶々」同じ和琴大学関係者は、一人だけだという。
 その人物についてのプロフィールをそっと手渡す。
 
 「もしかしたら……ひょっとするかもしれません」

 慌てて追加料金を払おうとすると、調査員は断った。

 「サービスで良いですよ。矢越さんもこれからいろいろ大変でしょうから」
 
 既に矢越の決意を知っているかのようにスマートに断ると、身を翻して
 どこかに行ってしまった。

 矢越は罪悪感に苛まれていた。

 芽生がしてきたことには、全く同情の余地はない。
 自分に対する侮辱への怒りもあった。
 
 それでも興信所の調査結果と芽生からのメールから、
 第三者の悪意を感じずにはいられなかった。
 今の時点では、芽生とは別れるつもりだし、復縁するつもりもない。
 ただ一度はそい遂げようと思った人が、転落していくのを黙って
 見物するほど、心を鬼にはできなかった。
 
 全部ではないかもしれないが、これまでの経緯から、芽生が
 一方ならぬ怨みをかっているのは理解できる。
 それが逆恨みではなく、合理的だと言うことも。
 おそらくもう芽生本人の力では、もうその怨嗟を解きほぐすことは
 できない。
  
 だが第三者の矢越なら。
 その人物も耳を傾けてくれるかもしれない。
 第三者が知っていることで、行動がエスカレートすることを
 抑止することが出来るかもしれない。
 
 芽生と一緒にいろいろな人物を疑って調べているよりは
 余程身になるはずだ。
 
 矢越は希望的観測の下に、その人物に会いに行った。
 
 「初めまして。改めて自己紹介申し上げます。私は矢越事務所で
  政策秘書をやっております、矢越澄真と申します」

 そう言って、名刺を取り出すと、机の上に置いた。
 場所は大学からほど近い、少し高級なレストラン。
 個室があるので、商談などにも利用される。

 「よく来て頂けました‐野坂さん」

 相手の女は飲み物も口をつけず、ただ黙って矢越を見やる。
 怒りがほとばしる緊張感が、彼女の雰囲気を清廉な物に見せる。

 「あなたは既に私のことを調べ上げたようですから、やむをえず
  来ただけです。来たくて来た訳ではありません」

 「これはまた手厳しいですね」

  矢越は愛想笑いをして場を和ませようとしたが、野坂には
  通用しないようだった。一気に本題に入ることにする。

 「失礼ですが、野坂さんには甥御さんがいらっしゃいましたよね?
  5年前に投身自殺された、和哉さん」

 「最近の議員事務所はプライバシーの侵害を平気でするんですね。
  不愉快です」

 「まあまあ、今日は事務所の意向で来た訳ではないのですよ。
  その甥御さんが亡くなられたことに、野坂さんは何か疑問が
  おありなんじゃないですか?」

 「何が言いたいんです?」

 「和哉さんが亡くなる直前まで所属していたのは、大学の山瀬研究室。
  そこで和哉さんは、院生をされていた。当時のメンバーには、佐々木
  芽生、小田切、朋谷、……それと土岐等あかり」

 わずかだが、野坂が息を飲むのが分かった。

 「土岐等あかりさんは、その研究室でひどいハラスメント行為を
  受けていて、その加害者は和哉さんだと審議された。それが原因で
  和哉さんは大学を退学処分となり、それを苦にして自殺をした。
  でも実際は和哉さん以外の院生も、それに加担していた。それを
  和哉さん一人に押しつけて、自分達はのうのうと普通の研究者生活を
  続けている。……そうですよね?」

 「……」

 「もしこれが本当なら、許せない気持ちも良く分かります」

  ここで矢越は席をたって、深々と頭を下げた。

 「何のつもりですか?」

 「申し訳ありません。佐々木芽生は、私の婚約者です。今は
  もう婚約解消寸前の状態ですが、この度の事心から申し訳なく思います。
  本当に申し訳ありませんでした」

 「あなたに謝ってもらっても……」

 「もしあなたが実際に芽生が憎くて行動を起こしていたとしても、
  仕方のないことです。それほどのことを芽生はしました。告発したり
  する身の上ではないと承知しています。私どもが責任を持って謝罪と
  償いをさせますので、もし芽生に対して更なる制裁を考えていらっしゃる
  のならご勘弁願えないでしょうか? お願いします」

 再び頭を下げる矢越。
 躊躇いつつも、野坂は静かに答えた。
  
 「あなたのお気持は分かりました。……ですが本当に私は、
  芽生さんや小田切さんを脅したりなどしていません」

 「そうですよね……」

 明らかに無念そうな顔をして見せる矢越。
 野坂は、それが意図的なのか、純粋に出たものか判じかねた。

 「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありませんでした。
  まあ、せっかくいらしたのですから、ご飯だけでも召しあがって
  頂けませんか?」

 そう言うと、矢越は寂しそうに笑った。
 さすがに情が届いたのか、野坂は口を開いた。

 「もうそこまでお調べになったのなら、隠しても仕方がない。
  私は確かにあの子が亡くなってから、ずっと怒りを堪えて来ました」

 当時学生相談室で、土岐等あかりを担当していた野坂は、当然
 誰が本当の加害者なのかを把握していた。その中に甥がいたと言う。
 和哉は姉の息子なので、義兄の名字を名乗っている。
 だから野坂と血縁であることを知っている人間は、ほとんどいなかった。
 院生とハラスメント相談所というのも、通常はそれほど接点がない。
 
 「もちろん倫理規定がありますから、誰がどんな相談に来ているかは
  甥であっても口外はしていません。今もお話しできません。ですが
  叔母としてはやはり気になるので、世間話の一環として時折和哉に
  尋ねていました」

  相談員の立場と、かわいい甥の進路に、野坂はひどく迷ったのだろう。
  その職務故に知ってしまうことは、時にひどく残酷でもある。

 「あなたのご指摘通り、和哉の他にもハラスメント加害者がいるはずだと
  ずっと憤っていました。今はもっと怒りが強くなっています。この怒りは
  単なる義憤ではありません」
 
  ここで野坂は息をすった。

  「和哉は、殺されたのかもしれないんです」


3



  (おかしい。絶対におかしい)


 一度にこれだけの事が、起こるのは明らかに不自然だ。

 明確な意思をもって、背後で誰かが手を糸を引いている。


 小田切に攻撃が集中していた時は、不正経理の疑惑を逸らすことに

 集中していて、いるかも知れない共犯者のことは二の次だった。

 小田切もその考えに賛成だったが、先手を打たれてしまった後では、

 先に相手を特定しておくべきであったと悔やまれる。

 

 不正取引。

 5年前の事件。

 小田切との会話。

 アカハラ。


 全てが露見した今では、変えようもない過去であり、事実だ。

 初めから場当たり的対処ではなく、相手を特定した上で対処しておけば

 良かったのだ。


 これほどまでに執拗に5年前の事件に拘る人物。

 それも関係者の家族ではない。

 他の関係者まで思いを巡らせたときに、芽生は一人思い至った。

 

 (まさか。でも……考えられないことではない。だとしたら、

  このままでいれば、破滅しか考えられない)


 思い立った芽生は、早速朋谷に電話した。

 

 「あの学部生が犯人よ……。それ以外考えられない。私に逆恨みして、

  こんな罠まで仕掛けて。警察に脅迫罪で訴えてやるわ」


 「学部生……。誰だそれ?」


 「忘れたの?土岐等さんを慕っていた田淵研究室の学生よ。孤立無援

  だった土岐等さんに、山瀬先生に立てついて一人だけ味方をして

  退学処分になった学生がいたでしょう?院生じゃないし、うちの

  研究室の学生じゃないから、候補から外していたけれど。血縁でも

  ないのに、そこまでして忠義立てるなんて馬鹿らしいと思っていたけれど、

  最後まで抵抗したところから、今までどうして気付かなかったのか

  不思議なくらいだわ」


  言われて朋谷は思い出した。

  まだ幼い顔をした学生を皆で取り囲んで、証拠を潰そうとした光景を。

  

  これも恥ずかしい過去だ。

  あんな詰まらないマネをして、朋谷には何のメリットもない。


 (こいつらは本当に学習しない……)


  せっかく現時点でターゲットと見なされていないのに、

  佐々木と行動を共にすることで、自らターゲットに立候補するのは

  割に合わない。朋谷はいい加減巻き込まれるのはうんざりだった。


 「心当たりがあるのなら、自分で興信所を使うなりして探してくれ。

  山瀬先生なら、またいつも通り君の力になってくれるだろう。

  俺もこっちでいろいろ忙しいんだ。悪いけれど、力にはなれない。

  大変だと思うが、自力でなんとかがんばってくれ。それじゃあ」


 一方的に話して、相手の反応を待たずに朋谷は電話を切った。

 

 (学生が実力行使で復讐か……)


 アカハラの被害者は、大学が解決に尽力してくれない場合、

 適当な理由を付けて大学から追放されざるを得ない状況に置かれる。

 更に対抗するには裁判くらいしかなかった。

 

 (時代は変わったな)


 朋谷は今現在揉み消そうとしているアカハラの被害学生が、

 そんな気概を持っていないことを願った。  




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