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10


 九時にいつもの和食レストランで待ち合わせる。

 芽生はいつも以上に着飾って現れた。

 だがその表情は暗い。

 

 食事をしながら芽生は涙を見せる。

 ハンカチでそれを拭う様も計算なのではと思いながらも、

 もし本当であるなら無慈悲なことをしたと罪悪感もする。

 しゃくりあげながら芽生は近況報告をする。


 特におかしなことは起こっていないこと。

 それでも小田切の件が怖くて戸締りには気をつけていること。

 会えなくて心細かったこと。いつもメールに書いてくることを

 そのままなぞっているような内容だった。


 件のCD-ROMについて尋ねると、まるで別人のように

 感情的になった。


 「確かに私の声だけど、編集して繋げてあると思う。あんな会話

  した記憶がないもの。私は被害者なのよ。幸せをぶち壊そうと

  狙われているの。相手が誰かも分からない。怖くてたまらないの」


 前の音声データを聞いても冷静に対応した芽生とは思えない程、

 弱々しい。矢越はそれでも聞くべきことは聞かねばと、あえて心を

 鬼にして聞いてみる。


 「じゃあ、どうして警察に相談しないんだ?」


 「それは……余計なことをすると逆上させてしまいそうで……」


 矢越には理解できなかった。

 逆上した時のことを考えて、警察に行くべきだろう。

 芽生はその言葉を覆うように、急に切れ出した。


 「ずっと怖くて悩んでいるのに。それなのに私を慰めもしないで、

  こんな大変な時に距離を置くの? 自分が巻き込まれたくないから?

  前言った夫婦になる為に助け合うって嘘だったの?」


 強い調子で詰る。いつもの甘えるような猫なで声の面影はなく、

 きんきんと頭に響くがなり声に身が竦む思いがする。

 周囲の客に迷惑にならないか、矢越はひやひやした。

 実際何人かが、野次馬根性丸出しで、こちらの様子を伺っている。


 矢越が期待していた反応を見せなかったことに不満だったのか、

 芽生はぐすぐすと、しゃくりあげた。

 今までにない芽生の様子に、さすがに冷たすぎたかと反省する。

 だが一方で。

 

 (勘弁してくれよ……。どうせこれも演技なんだろ?)


 そう思ってしまう。

 あんなに矢越が幸せ唯中に居ると信じていた頃、芽生は自分を

 裏切るような発言をしていたのかもしれない。

  

 「それじゃあ誰が芽生にこんなことをするんだ? 芽生の言う通り

  だとすると、こんな悪戯相当悪質だぞ。こんなことされる

  心当たりはあるのか?」


 「……ない。ないわ」


 「じゃあ横恋慕している男でもいるのか?」


 婚約者にストーカー。

 それはそれで薄気味悪いが、今の状況から考えると

 その方がずっと気が楽だった。

 

 「何、ヤキモチ妬いていたの?」


 急に機嫌が良くなり、涙が引っ込む。

 思っていたよりも愛されていると勘違いしたようだ。

 また泣かれると困るので、話題を変えつつ、近況を探る。


 「本当に嫌がらせはしていないんだな?それじゃあ小田切君とは

  どうして度々会話をしていたんだ?何か打ち合わせでもする必要

  があったんじゃないのか?」


 音声を切り貼りしたものだとしても、全体で3時間はゆうにある内容だ。

 そういえばつい最近まで芽生はCOEの仕事を理由に、帰宅が遅かった。

 今だってCOEに入っているのに、帰りはずっと早い。

 あの時間は小田切と会っていたというのか。


 「COEの仕事で、遅くまで残っている時。昔からの知り合いだから

  話が弾むことだってあるでしょう?」


 「それはまあそうだけど。その人とは何も関係はなかったんだな?

  死んだ人の事を疑いたくはないんだけれど、一応確認のために」

 

 「それはない。絶対にない」


  笑いながら芽生は言った。

  「だってあの人結婚していたのよ」と。


  その日は結局、次の約束をさせられた。

  疑問はまだ残ったままだったが、芽生のペースにはまり

  うまく聞き出せなかった。

  議員になるには答弁の技術も必要だというのに。

  父親から及第点をもらうには、まだまだ道のりは遠そうだ。

  矢越は更なる精進を決意した。

 


11

  

  事の始まりは、山瀬の実験補助を引き受けたことに端を発する。

  一週間に一日だけ。

  しかも尊敬する山瀬教授直々に、実験を任せてもらえる。

  優奈がこれに飛びつかない訳がなかった。

  

  今まで担当していた先輩が、好条件で就職することになり立った

  白羽の矢。

  周囲の学生達は既に様々な職についているので、入学したての

  優奈にもチャンスが回って来た。その内容を聞くなり、優奈はすぐに

  承諾した。


  普段から山瀬への尊敬の情を隠さない優奈には、山瀬もご満悦のようで

  優奈はその日をいつも楽しみにしていた。業務もそれほど難しいもの

  ではなく、COEの仕事にも差し支えることはない。

  仕事のある日は、山瀬が昼食を奢ってくれる慣行もあるようで、

  一気に距離が縮まった気がして、優奈にとっては理想の職場環境だ。

    

  仕事が始まって三回目くらいの頃だろうか。

  山瀬と学生食堂でご飯を食べていると、佐々木がトレイを持って

  混ざって来た。そして二人が中が良くて羨ましいと優奈を嬉しがらせた

  上で、佐々木は提案した。

 

  「先生、この子に私の授業の手伝いもお願いしていいかしら?」


  COEの仕事もあるので一旦は断ったものの、佐々木は「労働時間は

  それ程多くないからと強引に誘い、山瀬もそこまで言うのならどうか

  などと言うので、成り行きで引き受けることになってしまった。


  後で常川に聞くと、時間単位の給料は高いが、定期的に拘束される

  ことと他の職種の方が割がいいことで誰もやりたがらないバイトだ

  と言う。山瀬の前で良い恰好をするのではなかったと、早くも優奈は

  後悔し始める。


  業務内容は主に佐々木の授業の補助。授業にも出席して授業の進行を

  手伝ったり、学生の相談を請け負ったりもする。

  話を聞く限り、気抜けする程やることは少ない。

  時間も少なく、COE仕事に影響することもなさそうだ。


 (先生たちの信頼が買えたと思えば、悪くはないか……)


  そう思いなおした。

  自分の勉強にもなり一石二鳥のはずなのだが、すぐに苦痛になって来た。

  原因は佐々木の態度の急変だ。

  


12


それはアルバイト初日から始まった。


あまり話したこともなかったこともあり、緊張しながら授業が

行われる教室に行った。時計で確かめると、授業の始まる10分前。

念のため持って来たのは筆記用具と、時計、プリントなどを取り

まとめるホッチキス。実験をする授業ではないと聞いていたので、

これだけ準備してあれば大丈夫と踏んでのことだ。


 佐々木がそろそろ来たので、お辞儀をすると、昨日とは打って

 変わった渋い表情。何か悪いことをしたのかと不安に思っていると、

「鍵は?」と言われた。


山瀬の前では、詳しいことは明日から説明するから何も準備しなくても

良いと言われていた。大学では教室を使用した後に施錠する決まりに

なっているので、その時間ごとに教室を予約して鍵を取って来るのが決まり。

言わなくてもやるべきだろうとやっておいた。事務局の側でも他に教室を

使う人もいなかったし、間違いないと確認した上でのことだった。


「どうぞ」


 そう答えると、あきれ果てたとでも言いたげな短い嘆息をすると、

 手元から鍵を出した。


 「それじゃない。今日はいつもと違う教室でやるの。今日は私が持って

  来たからいいものの、次からは気を付けてよね」


 「……」

 

 佐々木が苛々しながら説明するには、教室が代ったのは前回の授業中に

 決まったことで、いちいちメーリングリストでは連絡していないとの

 ことだった。それ位は言わなくても確認しておけと小言を加えた後で、

 吐き捨てるように、言う。


 「それから、その鍵他の人が困るから、早く返しに行って」

 

 確かにそうだと急いで鍵を事務に返しに行きながらも、佐々木の前回

 とのあまりの態度の違いに戸惑いを禁じえなかった。

その予感を裏切らないかのように、教室に戻っても佐々木の不機嫌は

治らない。優奈に対してだけ。

学生には笑顔を振りまいて授業をするのに、ぼそっと優奈に対してだけ

きつめの言葉を呟く。


「パソコンとスクリーンの用意は?」


もちろんこの指示も今まで言われていない。


「すみません、すぐやります」


言われて、慌てて準備しようとすると、またもや馬鹿にしたようにに言う。


「それくらい言わなくても、普通分かるでしょ?」


小さな声で吐き捨てる。

学生に愛想が良い分、その落差が身にしみる。


何が気に障ったのだろうか‐ 優奈はその授業中これ以上怒られない

ようにすることだけに集中した。

 

「田中さん、バイトと言ってもお金もらっている訳だから、きちんと

 準備しないと駄目だよ」


あまり言葉を交わしたことのない先輩から、突然優奈は忠告された。

なんのことか分からず、単純にバイトへの心構えだと思い

「気を付けます」と答えたが相手の薄い反応に嫌な気配がした。


自分の反応が気に入らなかったのか、明らかに不愉快だと言いたげな

表情が、嫌な予感をもたらす。

 その日から研究室の様子が変わっていった。

 挨拶はしてくれる。でも何かが違う。昨日までの関係性が決定的に違う。

 それが何かは、分からないけれど。


 僅かな雰囲気の違い。


 些細な変化だからこそ、理由を聞くことができない。

 

「お前、大丈夫か?」


 誰もいなくなった研究室で、常川が唐突に尋ねてくる。


「何がですか?いつもと変わりませんよ」


 核心を疲れた気がして、つい苛立ってしまう。

 口にしたら真実になりそうで、絶対にそれを漏らしたくはなかった。


(気のせいだ。なんでもない。今になって少しホームシックなだけだ)


「あまり無理するなよ。愚痴があるなら聞いてやらないでもない。

 ただしお前のおごりで」


「何でもないです。しつこいですよ」


 常川だけはいつもと変わらない。

 でもそれも今のところ。明日になったら常川も変わってしまうかも

 しれない。常川は他につるんでいる者もいないと安心していたけれど、

 一番の古株。謎のネットワークを学内に持っている。


 常川すら疑わしく感じる今、山瀬と居る時だけは前と同じでいることが

 出来た。佐々木のバイトを疎かにはしなかったけれど、山瀬と居る

 時間が自然と多くなっていた。山瀬の傍で嫌なことを言う人はいない。

 研究室で人目に触れぬ場所で、違和感に触れる方がずっと

 嫌だった。

 

 佐々木の授業がある日は本当に憂鬱だった。

 初日の失敗は慣れてないゆえの失敗であり、自分にも原因があると考え、

 丁寧にメモを取っては、同じ失敗をしないように、優奈は気を付けた。

 佐々木が教員になってから初めての授業補助とは言え、配慮の足りない

 自分が悪いと反省して、毎回万事に備えた。

 

 だが万全に備えて授業の運営に関して、何も言うことがなくなると、

 それ以外のことで文句を付けるようになった。

 

 丁寧に機材を扱えば、「やることが遅い」と怒られる。

 練習して手早く操作すれば、「いい加減に操作するな」と小言を言われる。

 授業の内容を記録するのも優奈の仕事なのだが、それも毎回言われた

 ことを直しても、なんだかんだ言ってケチを付けられる。指示が正反対の

 こともしばしばで、何を信じて良いのか分からない。

 

 それでいて山瀬や他の院生の前では、優奈と仲の良い振りをする。

 その一方で、陰で優奈への不満を誇張して言いふらしているらしくて、

 一方的に悪く思われている。優奈自身入学してまだ間が無いので、今までの

 信頼の貯蓄で矛先を逸らすことができない。

 

 佐々木が何を意図しているのか全く分からなくて、優奈は佐々木にひたすら

 恐怖を感じていた。



13


  佐々木が優奈に対して理不尽なまでに厳しく当たってくる。

  いろいろ理由を付けてくるが、一貫性がなく優奈に八つ当たりをして

  鬱憤を晴らすことが目的としか思えない。


  社会に出たらそういうこともあるだろうと我慢していたが、

  ゼミ学生まで便乗してくるようになり、優奈の気は重くなるばかり

  だった。


  佐々木は事あるごとに優奈を引き合いに出しては嘲笑したり、義務では

  ない労働を押しつけたりしている。かわいらしい声音で、明るめのトーンで

  言っているので、それほど深刻な雰囲気にはならないが、

  本人的にはかなり堪える。

  その落ち込んでいる姿を見て、また「これくらいのことで落ち込む

  なんて」と追い打ちをかけてくる。

  見かねた一部の良心的な学部学生がやると申し出ても、

  これも仕事内容の一部だと言い張って、やらせる。

 

 「いくら入学したばかりと言っても、こんな簡単な質問にも答えられない

  ようだとゼミの運営に支障を来すんだけれど。さすが学部の入学試験では

  入れなかっただけあるわね」


  授業終了後、学部生が帰って行ったのを見計らって、佐々木はいつもの

  ように決定的に底意地の悪いことは学部生に聞こえないように、

  細心の注意を払って優奈にだけ聞こえるように言う。

  アカハラに厳しくなってきた昨今、やり過ぎると第三者に証拠として

  言われてしまうことを理解しての行動だ。


 「ちゃんと授業内容に関する質問には答えています。勉強不足は

  謝りますが、答えられないのは授業と関係の無い質問ばかり

  じゃないですか。学部生の前で馬鹿にするのは止めてください。

  それこそ授業の雰囲気が悪くなりますから」

 
  この言葉が佐々木の
気に触った。
  いつもなら黙って何も言い返せないのに。生意気だ。
  優奈も一度ははっきり言うべきことだと思っていたので、思い切って
  言ってはみたものの、その後の佐々木の反応に戦々恐々とした。


 「そんなに文句があるなら、バイト辞めれば?」


  辞められるものならとっくに辞めている。

  そもそも佐々木自らが、優奈を任命したのではないか。

  一旦は気に入ったが、宛てが外れたと落胆させたのだろうか。

  優奈には、佐々木の考えていることがさっぱり理解できない。

  それに一旦手続きをしてしまった以上、契約終了の一学期間は

  辞められない。

    

 「規約で辞められないんです。能力不足というのなら、事前に勉強する

  べき内容を教えてください。」


  常よりも口数が多いのも腹がたった。

  持っていたペンを、思い切り優奈に向かって投げつける。


 「質問を予測して勉強するのもゼミの勉強の一つなの。あえて勉強させて

  あげているのに。そんなことも分からないの? ありがたく思って

  欲しいくらいのに、恩を仇で返された気分だわ」


 「毎日指示が違うのも戸惑います。統一してくれないと、理解できません」


 「毎回あなたが違うミスを犯すからでしょ! 特別に教えてあげて

  いるのに。でも、まあこの調子じゃあ、給料分の能力があるとは

  言えないわね。事務にいって今までのあなたの失態を知ってもらう。

  もちろん今の生意気な会話も含めてね。時間が出来そうだし、休学

  して留年したほうがいいんじゃない?」


 「脅す気ですか? お金はともかく能力不足でバイトをクビとなったら

  私の将来にどれほどマイナスになるのか分かって言っているのですか?」


 「クビになりたくなければ文句を言わずに、私の指示に従うのね」


 ここまできて優奈の目が潤み始めた。周囲には人影はいないが、

 廊下の窓の外に同じ研究科の教授が通るのが見える。まずいと判断した

 佐々木はすぐにその場から離れた。

 


14


 「本当に女って怖いな。ああいう二面性のある奴が、一番性質が悪い」


  常川は階段の手すりにもたれかかり、下の階で涙目の優奈に向かって

  話しかけた。まさか常川がいるとは思ってもいなかったので、乱暴な

  仕草で涙をふく。


 「お前の様子がおかしいんで、来てみたんだ」


  恥ずかしいところを見られて気まずいような、心配してくれて

  嬉しいような。とにかく優奈は、常川の顔をまともに見られなかった。

    最近は会ってもあまり話していない。

  疑心暗鬼の優奈が、一方的に距離を取っていた。

  それなのに。

  話すとしゃくり上げそうで黙っていると、常川は了解したのか一人で

  話し始めた。


 「研究室の皆も、お前には同情している。でもなあ、悲しいかな

  院生は将来を握られているから、表立って反抗するのは難しいんだ」


  全院生に平等に迷惑をかけているのであれば、堂々と告発できる。

  だが一人だけ集中攻撃されている場合には、自分がリスクを背負ってまで

  味方になる奴はいないと。


 「ま、俺には関係ないことだ。とことんお前の味方するから覚悟しろ」


  そいうと常川は先程から手に持っていた小さな機械のボタンを押す。

  すると先程までの優奈と佐々木の会話が再生された。

  

  「おっし、ちゃんと録れているな。これハラスメント相談室に

   もっていこうぜ。これで一発アウトだ」


   常川は抜かりなくICレコーダーに録音していたのだ。

   金に飽かせて無駄に高性能なのが、幸いと言うか不幸というか。

   優奈は自分の問題であるにも関わらず、面倒なことになったと

   心配になる。


   学部生と違って、院生はハラスメントが解決したから「はい終わり」

    では済まされない。専攻を変えない限り、ずっと人間関係は続いていく。

    社会人学生の常川にはその辺りの機微が分からないのだろうか。


  「ちょ、常川さん? そんな簡単に……。すごい騒ぎになりますよ。

   最近小田切先生が妙な亡くなり方をしたばかりなのに」


  「そうだな。昔は所属学科で一旦審議してから、全学審議会で再審査

   していたから、もみ消せたけれど今はもう無理だからな。いきなり

   全学審議会へ持っていける。相当な騒ぎになるだろうな。自業自得だ」


  どこか嬉しそうに常川は、レコーダを振り回した。

  優奈はこれから起こるであろう騒ぎを予感して、めまいがした。

  



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