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 渋る小田切からパソコンと記録媒体一式を受け取ると、常川と優奈は

 情報処理学科の大学院棟へ向かった。


 「どうして田中もついて来るんだ?」


 「常川さん一人だけじゃ心配ですから。それに情報処理学科って

  前から興味あったんです」


  パソコンの技術があればいいなあと思ったことはあるので、嘘では

  ないと優奈は自己肯定した。


  情報処理研究科は比較的新しい学科なので、銀色の光沢が照り輝く

   研究棟は近未来の建物のようだ。シャープな形を組み合わせたモダンな

   建築は、優奈と常川の所属する大学院の歴史の色濃い建物とは対照的だ。


 「良く来てくれました。歓迎しますよ」


 そういうと焔は小田切のパソコン一式を自分の研究室に運び入れ

 鍵をかけると、小奇麗な共同休憩室の隅の台所で湯を沸かして、

 三人に紅茶を淹れた。
 

 一旦焔と戸川教授がパソコン内を確認して修復を試みてから、

 それでも駄目なら業者に回すと、紅茶を淹れながら焔が説明する。

 傍を通るたびに香る匂いを、優奈は嬉しそうに嗅いでいる。

 声も自然といつもより一オクターブ高い。


 皆の分の紅茶を淹れ終わると、焔は優奈が正式に研究員として認められた

 ことを教えてくれた。


 「期間は二年。色々スケジュール的に大変なこともあると思いますが、

  協力して乗り越えましょう」


 「あの、私今日いきなり決まったので、何をするかとか全く分からない

  んです……」


 焔がこれだけ書類など準備していることから、このプロジェクトはこの

 研究室では力の入ったものなのだろう。それなのに自分も常川も全く

 内容を知らないことに、優奈は申し訳なくて語尾が小さくなる。

 今は俄然やる気であることを伝えたかった。

 焔に出会った後に、決めたことだが。


 言葉を濁す優奈に、焔は優しく期間内に一定の成果をだせば、問題ない

 ので、スケジュールはそちらに任せ、研究進展を強要することはないと

 安心させた。義務と言えば、定期的に研究の進行状態を報告する位だ。


 優奈が言いだしたことではないにしろ、常川の我儘を

 聞いてくれた上、焔というオプションもある。優奈のモチベーションは

 否がおうにも高まる。

 

 「へえ。思ったよりも気楽にできそうだな」


 どこか他人事の常川に、「すみません」と常川の非礼を代りに

 優奈が謝る。


 「……今日は元々常川さんと田中さんに説明する必要があると思って、

  そちらの研究室にお邪魔したんですよ。研究室が異なるメンバーは

  どうしても、情報の共有が難しくなりますからね」


 柔らかな笑みを浮かべながら、人懐こそうに話す焔は大人を体現した

 ような人物だ。それに比べて……と常川を見ると、がぶがぶと紅茶を

 のどに流し込み、クッキーを音を立てて食べている。

 食べるのに忙しいのか、相槌すら打たない。

 常川のせいで、自分の好感度まで下がりそうで、優奈は冷や冷やしていた。

 

 一息入れて、焔はCOEプロジェクトにおける常川と優奈の役割の

 具体的内容を話しだす。優奈は紅茶の残りを気にしながら、耳を傾けると、

 察した焔が湯を入れてきてくれた。


 焔が言うには、この共同研究は大学内の複数の学科にまたがる

 学際研究で、山瀬研究室の所属学科を含む4つの学科で構成されている。

 各学科から選抜された大学院生が、共通のテーマで交流する共同研究

 プロジェクトで、時折外国からも招聘研究者が招かれることもある。

 プロジェクトは更に内部で7つにチームが分かれており、各研究科の

 7人の教員が各プロジェクトの代表を務めている。


  代表者がその所属学生をプロジェクトに入れることを承諾すれば、

  所属できる。そのため元々の研究室の指導教官には制限がない。もちろん

  自分の研究室の指導教官のプロジェクトに入る方が何かと効率が良いし、

  普通はそうしている。だが常川はなぜか山瀬の研究プロジェクトには

  は所属していない。それどころか情報すらもらえなかったと言っていた。

 それが山瀬との確執なのか、単純に常川の研究テーマと関連するもの

 なのかは、優奈には分からない。


 研究室に所属している博士学生は、修士学生と違って、基本的に必修なのは

  山瀬の担当ゼミだけだ。博士学生は自分の研究を完成させるのがメインと

 なるが、その実験も山瀬の実験の一部を構成することが多い。

 更に山瀬が代表のCOEプロジェクトに参加しているともなれば、

 その関係性は一層密になる。


  常川以外は、独自研究をしている博士学生も、COEでは山瀬の担当

 プロジェクトを選択する。山瀬が常川をプロジェクトに入れることを

 許可しないのか、単に研究室の情報に疎いだけなのかは分からないが、

 外から見ると指導教官と上手くいっている印象はない。

 

  傍若無人に見える常川の立場は、意外と脆いものなのかもしれない。

 急に横に居る常川が、小さく見える。先程から常川の口数が異様に少ない

 のも気がかりだ。心もとない優奈の気持ちを知ってか知らずか、焔は

 こう締めくくった。


 「学際研究は初めての試みですが、楽しみです。これを機会にお互いの

  研究室同士の交流も深まるといいですね」

 

  「まあ宜しく」とやる気が見当たらない常川を遮るようにして、

 優奈は「はい」と元気よく賛同した。



7


 調査の結果、院生を含む学生の名簿と住所録と、一般公開講座の

 参加希望者と小田切間で交わしたメール本文と、その住所、氏名、

 電話番号、小田切がハードディスク上に保存していた文書全部、

 そして自分の名前が所有者と記された画像ファイル‐焔の短時間での

 ネット上での調査によると、これが現時点での流出情報の全てだった。


  院生のメールアドレスから院生の所属も漏れており、研究室のホーム

 ページと照らし合わせれば簡単に誰のアドレスか分かる。

 院生なので、当然自身のメールアドレスを公開している人も多いが、

 それでも一般に公開はしていない学生もいる。

 それに加えて、小田切が指導していた、まだ公表していない院生の

 研究成果も含まれる。企業との共同研究をやっていた学生などは、

 真っ青になっていた。


 そんな学生たち以上に、小田切のショックは計り知れなかった。

 何しろ常日頃から、自分はパソコンに疎いことを自覚して、

 セキュリティには細心の注意を払っているつもりだったのだ


 だからこそ個人情報の流出が度々話題になる中で、小田切は

 自分がその当事者になるとは想像もしていなかった。


 個人情報の流出と同じくらい、保存していた画像の中に、猥褻画像が

 混ざっていたのが解せない。

 私用のパソコンならともかく、大学のパソコンで、勤務時間内にそんな

 画像を見ていれば、どんな火の粉が降りかかるのか分からない。


  ネットワークに疎い小田切は、管理部門にチェックされそうで

 学内のネットワークには気を遣って、閲覧先にも細心の注意を払っていた。

 どうして自分名義でこんな画像がと、名誉を汚されたようで、

 地味に堪えている。勤務時間内に何を見ているのだと、女性たちからの

 視線は一気に冷たいものとなった。


 だがこれはあくまで小田切の私情であり、大学側からしたら最もダメージ

 となったのは、やはり個人情報の流出である。


  一般参加希望者には当然学外の人間が含まれていたので、外部から

 指摘があったこともあり、大学広報が世間に公表する運びになった。

 当然小田切には大学本部からの、叱責と信用の低下は免れない。

 それは順風万般な研究者生活を送って来た小田切にとっては、

 不名誉他ならず、他者が思う以上に心に突き刺さる。故意によるものでは

 ないので、口頭での厳重訓告だけ。民間企業に比べれば甘すぎる程の処分でも、

 小田切には大いに不満であった。

 

 どうしても他者による作為を感じる。悪意を。

 じゃあどうやってと言われれば、コンピュータに疎い小田切に説明が

 出来ようはずもないのだが。


 小田切は握った拳を机に叩きつけた。

 思い通りにならない状況は初めてで、感情がまとまらない。

 それでも起こってしまった以上、何とかするしかない。

 

 (大丈夫。今まで通り何とかできるはずだ)


 小田切は、幾度も自分に言い聞かせ、平常心を保とうと試みた。



8


  焔がパソコンの中身をチェックした後、外部の業者よりも学内委託

 している業者に頼む方が割引特典を使えるし、学内の規定にもいろいろ

 通じていることでメリットがあるとアドバイスを受けてから、常川と

 優奈はそのままを小田切に伝えたが、小田切は頑なに拒絶した。

 

 小田切は個人情報の詰まったパソコンを、業者に委託するくらいなら

 新しいパソコンを購入すると粘り、最終的には自費で新しいパソコンを

 購入することで落ち着いた。あれだけの騒ぎになった為、さすがに

 公費で購入する神経はなかったようだ。私用パソコンには全くウイルス

 感染が見られないと焔に太鼓判を押してもらったと伝えられた時には、

 心底ほっとした顔をしていた。


 この頃になると、ウイルス感染事件も収束に向かっていた。

 小田切は処分や弁明など、いくつかの関門がまだまだあるようだが、

 少なくとも研究室内では、その話題をあえて口に出す者は、もうほとんど

 いない。小田切と接する態度も、以前と変わらない。そこら辺は大人

 なんだなと優奈は感心している。今回被害を多少なりとも被った院生が

 いることを知っているからだ。


 各研究プロジェクトも、小田切の不始末への対応に追われ停滞していた

 ものも完全に復旧した。今日も研究室には、優奈と常川だけ。それ以外の

 院生は全て山瀬の研究プロジェクトに駆り出されている。

 少し寂しく思いながらも、優奈は実験する手を動かしていた。


 三十分程経過した後だろうか‐。

  

 コンコンとドアをノックする音がして、続いて常套句を機械的に

 告げる声が後に続く。

 常川はソファーに横たわったきり、眠りこけており、動く気配がない。

 仕方なく優奈が実験に使用した手袋を脱ぎ棄て、ドアに向かう。


 「今日の分の郵便です」


  大学構内の配達人が手紙を数枚渡してきた。

  研究室宛ての郵便は、おおむね優奈が受け取ることが多い。


  受け取ると宛名の書いてあるものは、その人の机に置き、それ以外の

  広告などは研究室共用の棚の上に置く。基本的に研究備品のカタログや

  学術雑誌関連の書類であることが多い。

  一応各研究室ごとに簡単な郵便ボックスが、研究室のドアに付いている

  のだが、中に人の気配がする時には、こうして直接渡してくれる。


  礼を言って優奈が受け取ると、今日は宛名の書いていない封筒が一枚

  混ざっていた。


 「これは……?」

 

  宛名には「山瀬研究室様」としか書いていない。勝手に開けても

  いいものだろうか。優奈は躊躇った。白い無地の便箋にをひっくり

  返しても、差出人の名前は書いていない。宛名もタイプライターで

  打ってある割には、広告であることを示す企業名もない。

  どう見ても私用に届けられた郵便物だ。

 

  優奈が考えている間に、いつのまにか起きていた常川が封筒を

  ひったくると、勝手に開けてしまう。

 

  「常川さん?起きていたんですか?」

 

  突然現れた常川に、優奈が驚きの声を上げる。

 

 「今起きた」

 

  ぼりぼりと頭を乱暴に掻き毟り、あくびを一つする。

  その乱暴な動作のまま、封筒を逆さに振ると、中からは

  更に二枚の写真が出てきた。

 

   一枚には、手鏡を後ろ向きにして、後面の模様がしっかりと

  見えるように映っている。もう一枚は少しカメラを離して、

   手鏡の全体像が分かるように撮影されている。

   それぞれ一枚に一つずつ。


  「これ、何かの広告でしょうか?」


   返事を期待せずに常川に聞く優奈。

  常川は真剣な顔で写真を見つめている。

 

  「何か紙が入っているぞ」


  言われて引っ張り出した小さな便箋の中央には、

 「オダギリミツヲ、ササキメイ。5ネンマエノツミガユルサレルト

  オモウナ。アカハラサツジンシャ」と赤字で印字されていた。


 読みにくい全てがカタカナの文章が、不気味極まりない。

 優奈は文章を小声で朗読するが、一読では意味が分からなかった。

 小田切と知らない女性の名。

 次に「5年前の罪が許されると思うな」という警告。

 

 (アカハラサツジンシャ……?)

 

  「……何でしょう、これ?」

 

   嫌がらせにしては手が込んでいる。

   常川は文面を見つめ息を飲んだ。

  何かを飲み込んだかのように、喉が鳴る。

 

  「……誰にも言うな。俺が処分しておく」


  常川は写真を元の封筒に納めると、自分の鞄の奥にさっさと

 しまった。だが内容が内容だ。優奈はせめて小田切やこのもう一人の

 名前を書かれた女性の耳には入れて上げた方がいいのではないかと

 提案したが、常川は駄目だと拒絶するだけだった。

 

  「小田切先生には言っておいた方がいいんじゃないですか?

   もしかしたら心当たりがあるかも知れません」


   逆恨みにせよ、この手紙と写真を送ってきた人物はおそらく

  小田切を憎んでいる。

   今回この手紙を勝手に処分してしまえば、無視されたと腹を立てて

   更に行為がエスカレートするかもしれない。


  「……いいから黙っておけ」


  何故か常川はそれが最善と考える。

 優奈が更に口を開こうとした時に、研究室の扉が開いた。

 珍しく早めにやってきた先輩たちの顔が覗く。

  だがその内の一人が、常川の顔を見ると「あ……」と言ってひっこんで

  しまった。他の先輩たちも共に姿を消す。だが常川が気を悪くした素振りは

  なく、全く怯まない。


  「ああ、面倒な奴らが来たな。よし田中、昼飯でも食べに行くか」


  優奈は既に家で食事を済ませてある。


  「いえ、家で食べて来ました」


  「じゃあ水でも飲めばいいだろ。行くぞ」


 右腕を掴んでそのまま研究室から引っ張られる。先程の先輩たちが

 気の毒そうに見つめる中、優奈は常川に引きずられて行った。



9

 

   既に3構目が始まっている時間だが、学生食堂は未だ賑わっている。

  構内に学食はいくつもあるが、山瀬研究室の学生たちは、大学院棟と

 渡り廊下で繋がっている学生食堂を利用することが多い。


 この食堂は学部生が演習で使う棟にも近く、比較的遅い時間まで

 営業していることもあり、自炊をしない学部生も多く利用している。

 幾度も 塗り直して修繕した外観はロッジのようで、大きな窓からは

 燦々と太陽光が降り注いで、学生の若さ溢れ明るい雰囲気に華を添える。


  メニューは基本的にカレーや麺類、季節の惣菜を基本とし、それに

  季節ごとのフェアを行う。優奈も四月には新入生歓迎フェアの

 メニューを楽しんだ。


  常川は水でも飲んでおけと言ったが、いざ食堂に来ると、空腹を

 感じる。優奈はデザートコーナーで売っているフライドポテトと

 ジュースを頼むと、先に壁側の席について常川が戻ってくるのを待った。

 常川は大盛りのかつ丼をプレートに乗せて、ほくほくとした顔で

 戻ってくる。


 いざ対面すると、何から話題を始めて良いのか分からない。そもそも

 他のメンバーと連携の取れてなさそうなこの人と行動を共にすることが、

 新入生の優奈にとってマイナスになるのではないか。

 腹黒い計算もしてしまう。


 それでも先程の手紙の件は気になる。

 言葉が生まれない時間、優奈はフライドポテトを消化することに

 専念する。


 「俺、修士を2年留年して、博士も2年留年しているんだよね。だから

  研究室では一番古株になるんだ」


  学生というにはトウが経ち過ぎているとは思っていたが、これで

   謎が解けた。下手をすると、小田切とも同級生なのかもしれない。

   

  そういえばと、「お前の会社IT系だろ」と言っていた小田切の

  言葉を思い出した。

 

 「IT系の会社で、働いていたんですか?」  

 

  ポテトを口に含みながら、優奈は会話を続けるためだけに口を開く。

  それほど関心がある訳でもない。


  「そうそう。俺の本業はそっちだからさ。そっちが忙しくて、

  あんまり研究室には来ていなかったんだ。俺、こう見えても

  社長やってるの」


 「社長さんですか?」


   驚いて常川を見直す。その割に服装はなんとも安っぽい。

  

  あの言葉は、ここから来た話だったのだなと、優奈は納得した。

  

  「ああ。結構儲かっている。大学院は会社が軌道に乗るまでの居場所

    として居させてもらっていたんだ。俺にとって研究は趣味の延長

  みたいなものでな。メインは金もうけ」


  悪びれもせず、そう言い切る常川。これでは研究室の他のメンバーの

   不興を買うはずだ。奨学金やバイトでかつかつで研究を続けている

   学生にとっては、不愉快極まりない話だ。下手に返事をしたら言質を

   取られそうで、優奈は言葉が出てこない。愉快そうに話していたが、

  ふっと声を潜めて言う。


  「だから俺は研究室には染まっていない。中立の立場だ」


  「はあ……」


  話が急に飛んだ気がする。だが常川にとっては十分話は繋がって

  いるようだ。常川がそれ以上言葉を継ぐことはなかった。

  優奈は自分から、話題を提供することにする。

  先程届いた封筒。あれを見て常川の態度は明らかに変わった。

  それに関して、何か知っていることがあるはずだ。


  「さっき書かれていた名前の人……常川さんは小田切先生じゃない方

  の人も知っているんですか?」


  「ああ。今はうちのCOEの助教をしている。研究室のOBで、

   小田切とは同級生になるな」


   食べながら常川は言った。


 「もしかしてあの二人……。それで小田切先生の奥さんか、

  その女の人の旦那さんが怒って。そういうのもありえますよね?」


 非日常の予感に不謹慎にも興奮を抑えきれない優奈。

 その様子を呆れたように眺める常川も、自分の説を披露し始めた。


 「そういう関係とは思えんがな。だが差出人にとって、この組み合わせに

  何がしかの意味があることは確かだろうな」


 「便箋に書いてあった言葉に、何かヒントがあるんじゃないですか?」


 確かあの文面には、「5年前のことを許されると思うな」とあった。

 あの手鏡には何の意味があるのか?


 「罪が何を示しているのかで、差出人の見当がつくかもしれませんね」


 まだ知り合って日が浅い小田切の行動を思い起こし、素人推理を頭の中で

 巡らす。呆れたように常川が見ている。


 まだ入学して一月の優奈であるが、小田切と顔を合わせることは存外に

 多かった。山瀬に書類仕事の大部分や学生への実験指導を一任している

 為、顔を合わせる機会は多い。

 

  小田切はポスドク氷河期時代に、博士課程を卒業後すぐに助手になれた

  運の良い人間だ。それも山瀬の後ろ盾あってのことであるのは明白だ。

  丸っこい鼻と細い目を眼鏡でカバーした容貌は、地味ながら誠実さを

  出しているように感じる。事務仕事や日常のこまごまとしたことは着実に

  こなしてくれる。研究者としての力量はそれほど目立っていないが、

  単位についてもそれほど厳しくないことから、学生受けも可もなく

 不可もなくという平均的な人間だ。悪く言われることはまずない。

 事務関係に関してはそつがない分、信頼に足る人間であると言えよう。


 とすると何か犯人に関わるトラブルに関わっているということか。


 「第一候補が浮気で、後は逆恨みしている山瀬研究室の元関係者ですかね。

  学部の授業やゼミも含めると容疑者は膨大な数になります。どうやって

  犯人を絞りましょうか……」


 「おい、妙なおせっかいはやめておけよ」


  今しがた食べ終わり箸をタンとプレートに置くと、常川は言った。


 「……不審な手紙が来るぐらい、そう珍しいことでもないだろう。

  いちいち警察に行っても相手にしてもらえないぞ。文字は物騒だが、

  何か脅迫されている訳でも、強要されているわけでもない。

  被害は今のところ何もないんだ」


 「でも、万が一何かあったらどうするんですか。巻き添えで山瀬先生

  にも、迷惑がかかるかもしれない」


  冷たく感じる常川の言葉に興奮した優奈は、両手を机の上に置き

  身を乗り出す。

  振動でコップが揺れ、倒れた。

    水が手にかかり、優奈は我に返る。
 罰が悪そうに「すみません」と謝る優奈に、呆れたように常川が
 追い打ちをかける。

 「お前さあ、どんな幻想抱いてこの研究室に来たのか分からないけれど、

   そんなに接触もないおっさんのこと、良くそんなに心配できるよな。

   恨みを持たれるなら、それなりに理由があるんだろ。だったら殺され

   ようが、知ったことか」


 「だったらせめて怨まれている事だけでも教えてあげましょうよ」


  馬鹿にされたように感じた優奈は、必死で食い下がる。


 「いたずらだ。大事にするな。……それに奴らも、何とも思わないはずだ。

   言うだけ無駄なんだよ」


  常川は最後の言葉を特段大きな声で言った。


 「そんなの常川さんにどうして分かるんですか!」


 「……分かるさ。良く知っているんだ。あいつらのことはな」

 

 「犯人探しのようなことは、やめておけ。こいつらに心当たりがあるのなら、

  普段から自分の身を律すればいいだけのことだ。それが出来ない

  人間ならこの手紙の事を知ったところで、何も行動しないだろうよ」


 「知らずに人を傷つけている人だっています。言われないと

   分からない人もいるんですよ」


 「だとしてもそれを含めて自己責任だ。忘れろ」

 

 常川はそれ以上、この件に関して何も言わなかった。

  


10


  今度は不思議そうな顔をして、常川が聞き返した。


 「お前一体なんだってそんなに山瀬たちのことを心配するんだ?そんな奴

   うちの研究室でもほとんどいないぞ」


  それは常川が非常識なだけで、他の院生だってあの手紙を見れば、

 きっと心配するはずだ。そう信じている優奈はこの常川の言葉を黙殺した。

 だが常川は気にせずまた質問する。


 「お前そもそもどうしてうちの研究室に来たんだ?周りから止められ

   なかったのか?」


  家族は喜んで送り出してくれたし、友人も望みが叶って良かったと

 共に喜んでくれた。やましいことは何もない。

 だから優奈は胸を張ってその通りに申告する。

 すると目を丸くして常川は言った。


 「お前、外部からだったな。それじゃあ知るわけがないか」


  見込み違いだと言うように、大声を出した。

  その態度に優奈はますますむっとする。


 「外部からではいけませんか?」


   外部からというので、疎外感を感じることも稀にある。余所から

   来たからと言って、いろいろ言われるのは当事者からすれば

   傷つくものなのだ。


 「ああ、ごめん。悪く取らないでくれ。……それなら、そうだな。

   これは先輩としての俺からのアドバイスだが」


  そう前置きすると、おもむろに


 「無難に乗り切ることだけを考えろ。妙な正義感は身を滅ぼす。

   媚びても駄目だ。ただ課程を終えることだけを考えろ」


 「だったら、常川さんはなぜそんな研究室に居続けるのですか?

   辞めればいいじゃないですか」


  出世コースを外されて妬んでいるのかもしれない。そもそも社長だと

  いうのも自己申告に過ぎない。怪しい。


 「俺は存在自体が奴らにとって脅威になる」


  周囲の晴れ晴れとした景色と比較して、なんとも形容しがたい

 空気がまとわりつく。


「それだけだ。俺がここの院生を続ける意義はな」

 



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