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   いきなり自分の名前が呼ばれて、優奈は思わず振り向いた。

  先輩たちの視線が、優奈に向けられている。

  皆優奈と同じく、なぜと疑問符を体現したような顔をしている。


  常川だけが、自信に満ちたどや顔だ。

  会ったばかりの優奈をなぜ指名するのか。

  常川の意図がさっぱり読めない。


 「でも、あちらは博士課程の学生を一人だけという要請ですから。

  勝手に人数を増やすことは出来ません。予算の問題もあるでしょうし。

  無理を言わないでください」


 「じゃあ、お前らの内の誰かがやれば?この条件を飲まないなら、

  俺は絶対にやらない」


 「俺たちはもう山瀬先生のプロジェクトの人間なんです!」


 「じゃあこの話は断ればいいだろ。誰もやりたくないのなら

  仕方がない」


 先輩三人は露骨に眉尻を下げて、ひそひそと話し合った後、

 一人はどこかに電話をかけ始めた。もう一人は何とか常川を説得しようと

 試みるが、常川は聞く耳を持たずパソコンの世界へと既に戻っている。

 諦めた先輩たちは、無給で常川の補助になってくれないかと優奈に

 懇願し始めた。どうしても断れない事情でもあるのだろうか。

 

 「あの、何か事情があるのなら、私はお金を頂かなくても……」


 優奈の言葉に、ほっとする先輩達。


 「それは駄目だ!」

 

 バンと乱暴にラップトップの蓋を閉めると、常川はひどく不快そうな

 顔で吐き捨てた。


 「常川さん……?」


 先程までと打って変わった態度に、不思議そうに言葉を発する優奈。

 先輩たちはむしろその言葉にあからさまにむっとした。


 「元はと言えば、常川さんが変な条件を付けるから、話がこじれている

  んですよ」


 「そもそも俺が引き受けなければ、話が進まないことが前提になって

  いるのがおかしくないか? 俺はうちの研究室のプロジェクトに

  関わる情報すらもらえなかったんだ。余所の研究室なら

  無理やりにでも関わらせるってのがもうね。信頼を損ねるよ」


  そこまで言われると、二人は悔しそうに俯いたたものの、それ以上

  何も言えなかった。それと対照的にもう一人が、嬉しそうな声を上げる。


 「本当ですか? ありがとうございます!……はい。無理を言って

  申し訳ありません。……はい。失礼します」


  電話を終えると、先輩は言った。

 

 「あちらがもう一人を付けることを検討してくれるそうです。修士学生

  でも通るように、何とか向こうの先生に打診すると言ってくれました!」


 「……随分とあちらさんは人が良いようだな」


 捨て台詞を吐きながらも、今度の常川は少し驚いていた。

 

 「これで文句はないですよね?」


 なぜか自信たっぷりに反撃を開始する先輩たちに、常川は牽制する。


 「まだ検討するだけだ。……だが、うん。まああちらさんの事は

  気にいった。おい田中!」


 「は、はい」


 いきなり名前を呼ばれて、優奈は動揺する。


 「いざとなったら、俺が個人的に雇ってやる。明日からは

  お前は俺の助手だ」


 まだ優奈は自分の意見を言っていないが、そういうことになって

 しまいそうだ。流されやすい性格なのは損だと、改めて思う。

 先輩たちも同情と安堵が入り混じった顔をしている。


 (何だか良く分からない事に巻き込まれたけれど、

  こんなに押しの強い人と上手く渡り合っていけるかな?)


 プロジェクトの内容すら分かっていないこと以上に、

 優奈は先行きが不安になった。



4


  ミーティングの後は、皆が集まったのが幸いと山瀬のプロジェクトの

  研究を進めるのが通例だ。今日もそのご多分にもれず、常川と優奈

  以外のメンバーは、実験室へ行ってしまった。特殊な機械を必要とする

  実験なので、通常使用している研究室では、実験を行うことが出来ない。

  修士二年生も参加しているプロジェクトなので、結局研究室へ戻ったのは、

  常川と優奈だけになってしまった。


 「どうして私を選んだんですか?」


 「どうして山瀬先生のプロジェクトから外されているんですか?」


 「どうして無給で働くと言ったときに、怒ったのですか?」


  いくつも聞きたいことはあったが、パソコンに目を血走らせている

  常川に、優奈はなんとなく聞きあぐねる。


 (そうだ!)


 「COEのプロジェクトでは、どんなことをするんですか?」と尋ねて

  みてはどうか。優奈は当たり障りのない質問で、会話のきっかけを

  作ることにした。これから先共に同じプロジェクトに関わるのなら、

  相手のことを少しでも知る必要がある。


 「全く知らない」


  会話終了。

  常川はまたパソコンの中の世界へと戻ってしまった。

  これ以上会話を続ける気もないようだ。

 

  仕方なく研究室内でできる実験をとりあえず進めようと、優奈は

  闇雲に手を動かす。

  時刻は既に午後一時。

   朝方の陽光が影を潜め、雨音が今にも聞こえてきそうだった。


  ルルルルル。

 

  三十分も過ぎた頃だろうか、研究室の共用電話が鳴り響いた。

  実験のため手袋をしているので、手が空いているはずの常川を見る。

  だが、常川は音が聞こえていないのか、知っていてあえて無視を

  決め込んでいるのか動く気配がない。

   仕方なく優奈が実験に使用した手袋を脱ぎ、電話に出ることにした。


  ……。


 「御親切にありがとうございました。失礼します」


  数度会話をした後、礼を言った優奈は、急いで共用パソコンの前に

  座り、キーボードを叩き始める。


 「で、何だった?」


  あれだけ電話を無視していた常川が、内容だけは気になるのか、

  相変わらずラップトップの画面を見ながら、尋ねてくる。

  今度は優奈が答えない。


  突然キーボード操作を止めた優奈は、今度はスクリーンを前に

  固まっていた。信じられないモノを見たかのように、一度クリック

   してはその内容を確認している。


 「常川さん。大変です。とんでもないことになってます……」


 「どうした?」


 「これ……」


 デスクトップの前の席を優奈に譲ってもらうと、そこには1本の

 論文が映し出されていた。名前からしてこの研究室の助手、小田切の

 ものだ。

 

 「これが?」


 論文検索サーチや大学サイトに登録あれば、論文は誰でも閲覧できる。

 最近は有料化したり、会員登録を必要とする論文もあるが、ほとんどの

 論文は無料で公開するサイトに登録されることが多い。


 「これまだ書きかけの論文なんです。それなのにネットで公開されてます。

  これだけじゃありません。小田切先生の個人的なファイルらしいものが、

  ネットに流出しているみたいです!」


 カチ、カチとクリックすると、大学の授業関係の名簿、

 研究室メンバーの住所録、一般公開講座の志願者の質問に答えた

 個人的なメールの内容までがネットから閲覧できるようになっている。

 

 「ウイルス感染ということか?」


 優奈は黙ってうなずいた。

 もし小田切が感染したパソコンで第三者にコンタクトをしていたら、

 他の人間にも影響を及ぼす可能性がある。

 現段階で小田切が管理している、学生や一般公開講座受講生の個人情報が

 漏れているのだ。

 既に大問題に発展しかけている。


 先程の電話の主は、ファイルの内容から小田切の名前と所属を発見して、

 親切にも忠告してくれたのだと、優奈は説明した。

 

 「わ、私小田切先生を呼んで来ます!」


 数分後優奈は、小田切を連れてきた。

 画面を見ると、小田切は真っ青になった。


 「そんな馬鹿な」とクリックを繰り返すが、自分の個人情報とおぼしき

 ファイルが次から次に検索結果に出てくる現実を、小田切は認めざるを

 得なかった。

 茫然自失する小田切。

 それを正気に戻したのは、常川だった。


 「落ち込んでる場合じゃない。他の人へ感染している可能性も考えろ」


 学生が教員に対する言葉としては乱暴にすぎる。

 優奈はぎょっとした。


 「まさかメールを誰かに送信したりしてないだろうな? メーリング

  リストになんて送ったら大変なことになるぞ」


 「昨日送った……。プロジェクトの重要事項だから、それには連絡先

  として各人のメールアドレスと電話番号が書いてある……」


 弱々しく答える小田切。

 常川の乱暴な口調は、気にしていないようだ。


 「誰に送った?俺が今からそいつらに絶対にメールも添付ファイルも

  見ないよう、メールする。田中は電話が捕まるやつだけでも、

  連絡しろ」


 連絡先名簿を取り出すと、すぐに優奈は電話をかけ始める。

 小田切は未だ信じられないと言うように、ぼうっとデスクトップを

 見つめている。


 それほど大所帯でない研究室の事、すぐに全員に連絡が取れた。

 中には既にファイルを開けてしまった学生も何人かいたが、今のところ

 彼らの保存した情報の漏洩は確認されなかった。

 メーリングリストに送信した時点では、ウイルス感染はしてなかった

 らしい。

 ひとまず学生に被害が出てなかったことに安堵する一同だったが、

 小田切はさすがにまだ堪えていた。


 「いつからウイルスに感染したのか、何が原因なのかを

  突き止めて、関係各所に謝罪と警告する必要があるな。この事実は

  公表した方がいいだろう」


 「それは困る。絶対に駄目だ。信用問題に関わる」


 「二次被害にあう可能性のある者のことを考えろ。もうお前一人の

  問題ではないんだ」


  いやに自信満々で諭す常川に、気弱になった小田切は弱々しく尋ねる。  

 

 「常川、お前の会社はIT系だったよな?だったらこういう問題に

  強いんじゃないか?」


 「うちはセキュリティに関しては専門の会社に一任している。

  セキュリティ・スペシャリストは数人しかいなんだ。

  システムの管理でいつも手が塞がっている。

  セキュリティの専門会社かメーカーに頼んだ方がいいだろう。

  多少高くつくが被害を拡大しないためだ」


 業者への修理依頼、これからの関係各所への謝罪、

 当然山瀬からの叱責もあるだろう。これから訪れるであろうもろもろを

 考えると、小田切は今にも倒れそうだ。


 反対に、常川はてきぱきと準備を進める。

 打ちひしがれている小田切を放置し、小田切の研究室にある

 デスクトップ型パソコンを見に行くので、ついてこいと優奈を

 連れていく。もちろん小田切の部屋の鍵が無いと開かないので、

 小田切も渋々付いてきた。


 小田切に部屋の鍵を開けさせると、常川はまずはLANケーブルを抜く。

 パソコンを学内のネットワークから切り離すことが、先決だと常川は

 ケーブルを無造作にデスクに置きながら説明する。同時に小田切に

 メーカーの保証書と取扱説明書を持って来させると、パソコンを学生用

 研究室で少し試してから、後の対処を決めようと提案した。

 問題解決の為には、インターネット上の情報も不可欠なので、学生

 研究室の他のパソコンで情報を参考にしながら、対処方法を決めると

 言う。小田切はコンピュータには不慣れなようで、常川の指示に大人しく

 従った。


 小田切のデスクトップ型パソコンは、スクリーンが大きいタイプで、

 その分重量がある。常川の独断で、常川がスクリーンを、優奈が

 キーボードを持つことが決定する。荷物持ち要員として、連れてこられた

 らしい。

 

 「とりあえずお前が私用で使っているパソコンも持ってこい。

 もしかしたらそっちからウイルスが感染した可能性もある。俺たちは

 このパソコンを研究室に持って行って業者への連絡をする。急げ」


 IT会社での経験があるらしい常川の独断場だ。

 小田切はドアを閉めると小走りで出て行った。

 研究室に戻った後も、優奈が見守る中、常川はあれこれ試したが、

 原因の特定や自力での問題解決には至らなかった。

 諦めた常川は、メーカーへ修理依頼する手順と、どこに修理を

 依頼するかを、取扱説明書と共用パソコンを使って調べ出した。


 当然門外漢の優奈はなす術もなく、邪魔にならぬよう、

 ただぼんやりと常川の行動を見守る。

 何の助けにもならぬことは分かっているが、奮闘している

 常川を無視して自分の作業に取り掛かる訳にもいかず、

 優奈は何となく気まずい時間を持て余す。

 他の学生達は、自分達にそれほど被害がないことを確認した後、

 すぐにプロジェクトに戻っている。

 綿密に役割分担が振られているようで、例え心配でもとりあえず

 プロジェクトを進行させることを選択したようだ。


 その時。

 

「お手伝いしましょう」


 第三者の到来を告げる声がした。

 


5

 

 戸がいつのまにか開け放たれ、見知らぬ男が立っている。


  ボディービルでもやっているのか、筋肉質な体が服の上からでも分かる。

  いわゆる細マッチョ体系だ。目立たない程度にダークブラウンに

 染めた髪を長め伸ばしワックスで毛先を遊ばせている。仕立ての良い黒の

 シャツとパンツで覆った体躯は、ほど良い筋肉のかげでシルエットが映える。

 傍を通ると男性用香水の匂いがふわと香った。

 常川とは違う意味で、院生らしくない。


 「誰だ、お前?」


 常川の礼儀の欠片もない挨拶を気にすることなく、男は丁重に接する。

 

 「申し遅れました。情報処理研究科所属、戸山研究室の焔と申します。

  こちらとの共同プロジェクトの一員ですよ」 


 朝に揉めたCOEプロジェクトの研究員ということかと、優奈は

 合点した。


 だがどうしてここにと不思議がっていると、男はCOEプロジェクトの

 共同研究者として必要な書類を持って来たのだと答えた。

 

 「ちょっと失礼します」

 と断ると、共用パソコンに近づき、常川にどんな被害が出ている

 のかを尋ねる。


 常川に席を代ってもらうと、マウスを忙しく動かし、時折キーボードを

 叩く。パソコン系は最低限の知識しかない優奈は、ただただ見守っている。


 「このファイルが感染源となって、皆のパソコンに送られたんですね。

  これは暴露型ウイルスです。ハードディスクだけでなくコンピューター

  内の情報を漏らし、情報は半永久的にネットの海を彷徨うことになります」


 プライベートまでも曝け出されては、小田切もたまったものではない

 だろう。動揺する優奈に対して、常川は知識がある分予想の範囲内の

 答えだったのかさもありなんと頷くだけだった。

 

 実際的な解決方法として、全ての記録媒体をチェックして感染源を

 チェックする必要があると、焔は忠告した。

 USBなどの記録媒体が感染源になることもあるのだという。

 すぐさまその旨を携帯メールで、小田切に送る常川。

 返事がないところを見ると、小田切はまだ車中の人なのだろう。


 「気付かずとはいえ、発生源となった以上、小田切先生には全ての

  記録媒体を提出して頂く必要があります。僕の所属する研究室では、

  最新型のウイルスに関する研究をしている戸川先生と、ウイルス

  セキュリティの専門企業との連携もありますので、現物さえ提出して

  頂ければ、現段階までの被害に留めることが出来ます」


 「大がかりになるが、止むを得ないな。他の者もウイルスが潜伏して

  いる可能性があるから、疑わしいファイルはチェックしてもらった方が

  いいかもしれない」

 

 「そうですね。できればお願いします。では僕は戸川先生に事情を

  話してきますので、後から小田切先生のパソコンと記録媒体を持って

  きて頂けますか?」


  丁寧な口調でそう指示すると、そういうと、焔は颯爽と帰って行った。

 

   その後ろ姿を優奈はほうとため息をつきながら見守る。

  問題解決をさっとする有能さ、清潔感漂う外見、何より常川と比較

  してだからかもしれないが、人当たりの良さ等、優奈にとって今まで

  会ったことの無い種類の人間だった。

  どれか一つでもこれらの美点があれば、それが傲慢さを生みだし、

  他の一つは欠けていくものだと思い込んでいた。


 「ああいう人もいるんですねえ」


  うっとりと優奈が言うと、常川は呆れたように「なんだお前ああいう

  タイプが好きなのか」とつまらなそうに言う。

  大して興味がなさそうなのも気に入らない。

 

  何か言い返す言葉を考えていると、どこかで聞いたことのある電子音が

  鳴った。遠い昔に歌っていた子ども用アニメの主題歌だ。

  なぜこんな曲がと不思議に思うと、常川が平然と携帯電話を

  手にしていた。どうやら常川の携帯の着信音だったらしい。

  選曲の基準、感性など突っ込みどころが多いが、緊急事態なので

  あえて触れない。


  興奮した調子の大声が受話器の外まで響く。

  相手は小田切のようだ。

 

 「全部か? だが家に置いてある媒体まではいいだろう? 

  あれは無関係のはずだ」


 「全部だ。気になるなら、中身を消してもいい。だが余計なことを

  すると、関係の無いファイルまで影響があるかもしれない。全部だ。

  これはもうお前独りの問題ではないんだ」


 なぜか渋る小田切に、常川は追い打ちをかける。

 だが事態がこうも逼迫してしまっては仕方がない。

 小田切は最終的には首を縦に振らざるをえなかった。

 


6

 

 渋る小田切からパソコンと記録媒体一式を受け取ると、常川と優奈は

 情報処理学科の大学院棟へ向かった。


 「どうして田中もついて来るんだ?」


 「常川さん一人だけじゃ心配ですから。それに情報処理学科って

  前から興味あったんです」


  パソコンの技術があればいいなあと思ったことはあるので、嘘では

  ないと優奈は自己肯定した。


  情報処理研究科は比較的新しい学科なので、銀色の光沢が照り輝く

   研究棟は近未来の建物のようだ。シャープな形を組み合わせたモダンな

   建築は、優奈と常川の所属する大学院の歴史の色濃い建物とは対照的だ。


 「良く来てくれました。歓迎しますよ」


 そういうと焔は小田切のパソコン一式を自分の研究室に運び入れ

 鍵をかけると、小奇麗な共同休憩室の隅の台所で湯を沸かして、

 三人に紅茶を淹れた。
 

 一旦焔と戸川教授がパソコン内を確認して修復を試みてから、

 それでも駄目なら業者に回すと、紅茶を淹れながら焔が説明する。

 傍を通るたびに香る匂いを、優奈は嬉しそうに嗅いでいる。

 声も自然といつもより一オクターブ高い。


 皆の分の紅茶を淹れ終わると、焔は優奈が正式に研究員として認められた

 ことを教えてくれた。


 「期間は二年。色々スケジュール的に大変なこともあると思いますが、

  協力して乗り越えましょう」


 「あの、私今日いきなり決まったので、何をするかとか全く分からない

  んです……」


 焔がこれだけ書類など準備していることから、このプロジェクトはこの

 研究室では力の入ったものなのだろう。それなのに自分も常川も全く

 内容を知らないことに、優奈は申し訳なくて語尾が小さくなる。

 今は俄然やる気であることを伝えたかった。

 焔に出会った後に、決めたことだが。


 言葉を濁す優奈に、焔は優しく期間内に一定の成果をだせば、問題ない

 ので、スケジュールはそちらに任せ、研究進展を強要することはないと

 安心させた。義務と言えば、定期的に研究の進行状態を報告する位だ。


 優奈が言いだしたことではないにしろ、常川の我儘を

 聞いてくれた上、焔というオプションもある。優奈のモチベーションは

 否がおうにも高まる。

 

 「へえ。思ったよりも気楽にできそうだな」


 どこか他人事の常川に、「すみません」と常川の非礼を代りに

 優奈が謝る。


 「……今日は元々常川さんと田中さんに説明する必要があると思って、

  そちらの研究室にお邪魔したんですよ。研究室が異なるメンバーは

  どうしても、情報の共有が難しくなりますからね」


 柔らかな笑みを浮かべながら、人懐こそうに話す焔は大人を体現した

 ような人物だ。それに比べて……と常川を見ると、がぶがぶと紅茶を

 のどに流し込み、クッキーを音を立てて食べている。

 食べるのに忙しいのか、相槌すら打たない。

 常川のせいで、自分の好感度まで下がりそうで、優奈は冷や冷やしていた。

 

 一息入れて、焔はCOEプロジェクトにおける常川と優奈の役割の

 具体的内容を話しだす。優奈は紅茶の残りを気にしながら、耳を傾けると、

 察した焔が湯を入れてきてくれた。


 焔が言うには、この共同研究は大学内の複数の学科にまたがる

 学際研究で、山瀬研究室の所属学科を含む4つの学科で構成されている。

 各学科から選抜された大学院生が、共通のテーマで交流する共同研究

 プロジェクトで、時折外国からも招聘研究者が招かれることもある。

 プロジェクトは更に内部で7つにチームが分かれており、各研究科の

 7人の教員が各プロジェクトの代表を務めている。


  代表者がその所属学生をプロジェクトに入れることを承諾すれば、

  所属できる。そのため元々の研究室の指導教官には制限がない。もちろん

  自分の研究室の指導教官のプロジェクトに入る方が何かと効率が良いし、

  普通はそうしている。だが常川はなぜか山瀬の研究プロジェクトには

  は所属していない。それどころか情報すらもらえなかったと言っていた。

 それが山瀬との確執なのか、単純に常川の研究テーマと関連するもの

 なのかは、優奈には分からない。


 研究室に所属している博士学生は、修士学生と違って、基本的に必修なのは

  山瀬の担当ゼミだけだ。博士学生は自分の研究を完成させるのがメインと

 なるが、その実験も山瀬の実験の一部を構成することが多い。

 更に山瀬が代表のCOEプロジェクトに参加しているともなれば、

 その関係性は一層密になる。


  常川以外は、独自研究をしている博士学生も、COEでは山瀬の担当

 プロジェクトを選択する。山瀬が常川をプロジェクトに入れることを

 許可しないのか、単に研究室の情報に疎いだけなのかは分からないが、

 外から見ると指導教官と上手くいっている印象はない。

 

  傍若無人に見える常川の立場は、意外と脆いものなのかもしれない。

 急に横に居る常川が、小さく見える。先程から常川の口数が異様に少ない

 のも気がかりだ。心もとない優奈の気持ちを知ってか知らずか、焔は

 こう締めくくった。


 「学際研究は初めての試みですが、楽しみです。これを機会にお互いの

  研究室同士の交流も深まるといいですね」

 

  「まあ宜しく」とやる気が見当たらない常川を遮るようにして、

 優奈は「はい」と元気よく賛同した。



7


 調査の結果、院生を含む学生の名簿と住所録と、一般公開講座の

 参加希望者と小田切間で交わしたメール本文と、その住所、氏名、

 電話番号、小田切がハードディスク上に保存していた文書全部、

 そして自分の名前が所有者と記された画像ファイル‐焔の短時間での

 ネット上での調査によると、これが現時点での流出情報の全てだった。


  院生のメールアドレスから院生の所属も漏れており、研究室のホーム

 ページと照らし合わせれば簡単に誰のアドレスか分かる。

 院生なので、当然自身のメールアドレスを公開している人も多いが、

 それでも一般に公開はしていない学生もいる。

 それに加えて、小田切が指導していた、まだ公表していない院生の

 研究成果も含まれる。企業との共同研究をやっていた学生などは、

 真っ青になっていた。


 そんな学生たち以上に、小田切のショックは計り知れなかった。

 何しろ常日頃から、自分はパソコンに疎いことを自覚して、

 セキュリティには細心の注意を払っているつもりだったのだ


 だからこそ個人情報の流出が度々話題になる中で、小田切は

 自分がその当事者になるとは想像もしていなかった。


 個人情報の流出と同じくらい、保存していた画像の中に、猥褻画像が

 混ざっていたのが解せない。

 私用のパソコンならともかく、大学のパソコンで、勤務時間内にそんな

 画像を見ていれば、どんな火の粉が降りかかるのか分からない。


  ネットワークに疎い小田切は、管理部門にチェックされそうで

 学内のネットワークには気を遣って、閲覧先にも細心の注意を払っていた。

 どうして自分名義でこんな画像がと、名誉を汚されたようで、

 地味に堪えている。勤務時間内に何を見ているのだと、女性たちからの

 視線は一気に冷たいものとなった。


 だがこれはあくまで小田切の私情であり、大学側からしたら最もダメージ

 となったのは、やはり個人情報の流出である。


  一般参加希望者には当然学外の人間が含まれていたので、外部から

 指摘があったこともあり、大学広報が世間に公表する運びになった。

 当然小田切には大学本部からの、叱責と信用の低下は免れない。

 それは順風万般な研究者生活を送って来た小田切にとっては、

 不名誉他ならず、他者が思う以上に心に突き刺さる。故意によるものでは

 ないので、口頭での厳重訓告だけ。民間企業に比べれば甘すぎる程の処分でも、

 小田切には大いに不満であった。

 

 どうしても他者による作為を感じる。悪意を。

 じゃあどうやってと言われれば、コンピュータに疎い小田切に説明が

 出来ようはずもないのだが。


 小田切は握った拳を机に叩きつけた。

 思い通りにならない状況は初めてで、感情がまとまらない。

 それでも起こってしまった以上、何とかするしかない。

 

 (大丈夫。今まで通り何とかできるはずだ)


 小田切は、幾度も自分に言い聞かせ、平常心を保とうと試みた。




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