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 小田切夫妻は大学在学中に結婚した。小田切が修士2年生、
 加奈が
大学三年生の時だ。


 「妊娠していることが分かったので、それをきっかけに結婚したん

  です。交際期間は1年経つかどうかで、正直戸惑いました。小田切も

  すぐには返事をしませんでしたが、最終的には結婚するという結論に

  達しました。奨学金でなんとか生活している小田切と結婚するのは

  心配でしたが、幸い私も在宅で翻訳の仕事を見つけることができて、

  それなりに幸せな毎日を送っていました」


 1年ほど実家に帰って里帰り出産した後には、小田切は学会から

 学術団体の研究員として博士課程に在籍したまま給料をもらえる

 ようになり、加奈も翻訳の仕事に就いた。


 「結婚した時点で妊娠3カ月目に入っていたので、こちらにいたのは2カ月

  あるかないかでした。それで実家で出産して半年ほど実家にいてから、

  こちらに戻ってきたんです。初めは良かったんです。でもあの子が2歳に

  なったときに……」


 突然死んでしまったのだと言う。何の前兆もなく、昼寝をしていて

 起きないと思ったら、もう息がなかったのだと。


 「すぐに医者に見せました。でももう手遅れだと」


 ここで加奈が紙ナプキンで鼻をかんだ。知らせを受けた小田切はまず

 加奈を責めた。ちゃんと見ていたのかと。気が動転していたのなら、

 無理もない。加奈自身も受け入れられないくらいだ。

 傍にいなかった小田切はなおさらだと。


 だが何日過ぎても小田切は加奈のことを責めた。仕事をしているからだと

 仕事を辞めさせようともした。


 「……お前らのせいでこれまで苦労して来たのに、これでは意味が

  ないじゃないか」


  小田切は言ってはいけない禁句を言ってしまった。

  それは小さな絞り出すような声だったけれど、加奈の耳に届いてしまった。

  その時目が覚めたという。


 「あの人は義務で私たちと家族になったのだと。思い返せば

  思い当たることはいくつもあったのです」


  加奈は続ける。


  義実家に行ったときに、子どもがグラスを誤って割ってしまった時。

  小田切は子どもの怪我よりも、グラスが割ったことで叱責していた。

  子どもが熱を出した時にも、病院に連れていってやれと言うだけで、

  自分は仕事があると別の部屋に閉じこもってしまった。

  余裕があるときだけ、思い出したように子どもの相手をしてくれる。

  それが普通だと思っていた。


  でも……。


  加奈は自分とすら仕方なく結婚したのではと思うことが、

  少なからずあった。それがその時の言葉で思い知らされた。


 「……そう。私たちはあなたにとってお荷物だったわけね。

  仕方なく結婚したと思っているなら、いつだって離婚してあげるわよ。

  今日だって私はちゃんと見ていたんだから。あなたはどうなの? 

  偶にきまぐれに遊び相手をしていただけじゃない。あなたに

  そんなこと言う資格なんてないわ」


  一気に感情が爆発した。加奈は今まで負い目があったのだ。

  仕方なく結婚したのではないかと。

  結婚するまでは、それほど真剣にお互いのことを話したことは

  なかった。


  結婚しても、怖くて本心が聞き出せなかった。

  今更実はやむをえずと言われるのが怖くて、その話題を避けてきた。

  表立って意見することもなかった。


  だからこそ加奈が自分に不満をぶつけるとは想像だにしていなかったの

  だろう小田切は、相当驚いた顔をしていた。

  その怒りを小田切は、とんでもない方向に解釈した。


 「……お前、まさか虐待なんてこと……」


  あくまで加奈に責任を負わせようとする。

  小田切の本性をみた気がした。

  加奈は小田切に平手打ちをすると、その場で号泣した。

  娘の急死を悼む気持ちと、小田切の人間性への情けなさで

  頭がおかしくなりそうだった。


 「出ていって」と喚く加奈に立ち竦む小田切。医師から虐待の

  可能性は全くないことを告げられ、ようやく小田切は加奈の剣幕に

  押される形で、病室から出ていった。その後も加奈を宥めはしたが、

  謝罪の言葉はついぞその口から出ることはなかった。


 だから加奈も、その日以来謝罪に類する言葉を発したことはない。

 これでやっと小田切と対等の立場に立てた気がした。

 力関係で決して負けないことに、力を注いだ。

 愛情などはそれ以前の問題で、もはや全く期待していなかった。


 当然離婚も考えたが、両実家の両親の説得と、小田切が離婚を

 拒否したことで諦めた。離婚調停になると夫の許せない二言だけでは

 離婚事由には当たらない。それに経済的にはいつでも離婚できると思い、

 先延ばしにしているうちに第二子も生まれ、腐れ縁のようにずるずると

 結婚生活を続けている。


 派手な喧嘩もなく、表面的には穏やかで幸せな普通の夫婦に見える

 らしいと、自嘲気味に加奈は言った。


  多かれ少なかれその程度の話は、どこの夫婦にもあるだろうと思ったが、

  優奈が口を出すことはなかった。相談ごとは傾聴することが大事だ。


 「そういう経緯があったから、加奈ちゃんは小田切が嫌がらせとかも

  やりそうだと思っているんだ」


 「嫌がらせをやるというよりは……『他人が嫌がることを自分がした』

  ことを受け入れられないのです。自分の考えと違う人を理解できない。

  それは自分への自信に根ざしている考えだと思います。自分に自信が

  あること自体は良いことなのですが、例え指摘されても間違っている

  ことが理解できない。理解できないのは自分と考えの違うその人間が

  悪いと、そう考えてしまう。だから本人が意図していなくても、誰かを

  追い詰めてしまうことはありうる ……そう思います」


  優奈は小田切のあの人の良さそうな、丸っこい顔を思い浮かべて、

  加奈も多少は被害妄想の気があるのではと感じた。

  小田切との付き合いはごく短いし、夫婦間のことは分からない。

  それでも加奈がそこまで人格を疑うほどの、性悪な人間には到底

  思えなかった。


   それを差っぴいても本当であれば、語るも涙のエピソードを淡々と

  感情を交えず、あくまで客観的に評する加奈の話は、真実味がある。


  グラタンを完食した優奈は、しっかりと聞く体制になる。

  常川はもともと早食いなので、じっくり聞きながらも箸を

  持つ手は休めず、こちらもほぼ完食。

  紅茶しか頼んでいない加奈だけが、そっと湯を自分のカップに

  継ぎ足す。


  ここで一旦紅茶で喉を潤すと、加奈は回想を続ける。


  感想は全て話し終えてからと、決めているようなので、

  優奈と常川はそれに従い、余計な口は挟まない。
 

  次の話は、小田切の性格を表すエピソードだった。



11


 「綾子。久しぶりだな」

 

  そういって小田切に声を掛けられた女性は茫然としていた。


  加奈を隣に、親しく声をかける小田切が言葉を並べるのを途中で遮ると、

  女は冷たい目でこう言った。


 「良く声がかけられたものね。あんたのせいで、どれだけ

  私が傷ついたのか分かっているの? それで今度は嫁自慢?最悪。

   全然変わってないよ」


  加奈は絶句した。そう言った女性は小ざっぱりとした身なりの、

  しっかりとした印象の女性で、その話し方から出鱈目を言っているとは

 思えなかった。

 話の流れからして、昔付き合っていた女性だと加奈は推測した。

 そうだとしたら、結婚したばかりの妻に紹介するのは少し無神経

 ではないか。

  さらに唖然としたことは、小田切の返した言葉だ。


 「そんな昔のこといつまでもしつこく気にするなよ。だからお前

   ふられるんだよ」


  そういってへらっと笑った。

  だがその眼光は明らかに、目の前の女性を下に見る侮蔑に満ちた

  光を帯びていた。


 「あんたが私にしたことを、奥さんの前で全部言ってもいいのね?」


  小田切の許可を待つつもりなど初めからなかったのか、女はつらつらと

  小田切にされた仕打ちを語り始める。

 

  途端に形勢不利と見たのか、小田切は何一つ言い返しもせず、

  加奈の手を引いて彼女から逃げ出した。女が追ってくることはなかったが、

  逃げ出す時に言った言葉を今でも加奈は覚えている。


 「あんたもそのうち分かるわよ」


  その声に狂気はなく、押し殺した気持ちが込められていた。

  人通りの多い商店街まで来ても小田切はまだ辺りを気にしていた。

  女が自分の罪状を読みあげている時にも、傍に知り合いがいないか

  ばかりを気にしていた。


  加奈はまだショックが大きかった。自分の夫が一人の人にあれほど怨まれる

  ようなことをした‐。あの女がいつも監視している気がして怖くなった。


「あの人、どうしてあんなにあなたのこと怨んでいるの?」


  そう聞くと、真剣な声で小田切は言った。


「被害妄想じゃないか。いちいち覚えていないよ」


  第一子が亡くなった時、一瞬この女の呪いではないかと思った程だ。


  それぐらいインパクトがあった。小田切の過去よりも、自分を

  怨んでいる人を知ってもなお正面から向き合わず、馬鹿にして素知らぬ

  ふりをするその態度に恐怖を覚えた。


  小田切が過去に撒き散らした怨嗟の種に、いつ自分が巻き込まれる

  のかと、しばらくは戦々恐々と暮らしていた。それでも二人きりの時には

  相応に御機嫌をとり、暴言や無視をするということはなかった。

  外から見れば、ごく普通の夫婦生活。


  だがこの事件と第一子を失った時点で、溝は確実に広がっていった。


 「あの一人目の子どもが亡くなってから小田切は、子どもへの接し方は

 変えてくれました。最近は本当に二人目の子どもに愛情を注いでいます。

 だから子どもも懐いている。子どもが望むのなら結婚を続けようと

 思ってはいるのですが……。正直一緒にやっていく自信がなくなって

 きました。

 今になっても、これほど誰かに怨まれてもしらをきり通して済ませようと

 しているのであれば。そして、誰かと一緒になって嫌がらせをして自殺に

 まで追い込んだという噂が中傷でなく本当のことで、それでも本気で自分の

 愚行を自覚していないというのであれば、価値観が違いすぎます。子どもに

 悪影響なので、即刻離婚します。だから真実が知りたいのです」



12


  加奈の回想が終わった。


 夫婦で築き上げていく生活には、時には風雨も入れば、地鳴りもある。

 屋台骨さえしっかりしていれば乗り越えられるものだ。

 真っ直ぐな柱だけで建てられた生活こそ、面白味がない。

 それでも小田切家は、柱の内部から侵食されてきている。

 優奈はそんな印象を持った。


 ここまで話し終えて、加奈が化粧室に行く為に席を立ったので、

 優奈は例の怪文書について、加奈に教えるべきではないかと

 常川に打診してみる。

 

 何かヒントになるような有益な情報と言えば、それくらいしかない。

 手紙の差出人と、保育園に手紙を送った人物、ひいては加奈の職場へ

 噂を流したのが同一人物の可能性は大いにある。


 「……ここまで来てしまったら仕方がないだろうな。だが……」


 いつになく歯切れが悪い。

 

 「学校だけでなく、自宅や奥さんの職場にまで迷惑をかけるなんて、

  普通じゃないですよ。私、あの怪文書の事言ってもいいですよね?」


 「……そうだな」


 はっきりしない常川に発破をかけていると、加奈が戻って来た。

 

 これ以上悲しませるのも辛かったが、加奈は真実を知りたがっている。

 優奈はなるべく加奈を傷つけないように配慮しながら、小田切と

 佐々木を名指しする怪文書が届いたことを話した。常川は黙ったままだ。


  加奈は目を丸くしてから、ため息を吐いた。

 大学で嫌なことがあったと小田切から聞いていたけれど、理由が

 分かってほっとしたと、疲れた顔で言った。


 「それで、本当に自殺した人と小田切には何の関係もなかったんですか?」


 「……それは小田切の口から聞かないと意味がない。少なくとも

  死人は出た。それも一人じゃない。それが小田切と関係があるのかは、

  本人に聞かないとな」


  5年前のアカハラ事件については、優奈も断片的にしか知らない。

 怪文書として届いたアカハラ事件の概要も、ちらりと読んだだけ。

 常川も進んで話そうとはしないから、今日の加奈の話で、初めて

 大枠の内容が分かったくらいだ。


 小田切を憎んでいる人物の主張が事実とすると、 

 小田切と佐々木を含む院生たちが5年前に、一人の女子院生に
 嫌がらせの
限りをした挙句、一人の院生の仕業に仕立て
 退学処分にさせた。
その学生はそれを苦に自殺したことになる。

 

 にわかには信じられない内容だ。 

 今の穏やかな研究室に、そんな時代があったなんて、未だに想像できない。

 しかも一人ではないのであれば……。


 「もっと死者がいるということですか?」


 裏返った声で驚く優奈に、しっと口止めする

  常川。周囲の客が一瞬会話を辞めて、こちらをみる。


 「……これ以上は俺も言えない」


 「知っているのなら、もったいぶらないで教えて下さいよ」


 「その時、俺は休学していたからな。ほとんど事情を知らんのよ」


  そう言えばこの人は限界まで休学しまくっていた。

  いなかったほうが多いのだ。


 「つっかえない人ですね。間が悪すぎます」


 デザートのパフェを運びながら、優奈が罵る。

 途端に、常川がパフェのグラスを自分の方に引き寄せようとして、

 取り合いになる。

 それが目に入っていないのか、加奈はため息交じりで話を続ける。


 「小田切は5年前の事件には、自殺した学生が一人でしたことで、

  自分はそれを諫めただけだと繰り返すだけなんです。もう亡くなった

  方から事情を聞く訳にもいきませんし。」


 少し考えてから、小田切は慎重に言葉を選んで言った。


 「5年前に自殺した人間の他に、もう一人死者がいるはずだと

  旦那に聞いてみて。もしかしたら思い出すかもな」


  加奈は真剣な顔でそれをメモをする。


 「でもなあ。知らない方が良いってこともある……」


 「覚悟は出来てます」


 「まあ、無理はしないように。何か不審なことがあったら、

  俺にも電話して。これでも顔は広いんだ」


 「あ、えっと私も協力します。できることなら……」


  優奈の言葉はいかにも付け足したようで格好悪いが、

 嬉しそうに加奈は微笑んでくれた。

 

  一段落すると加奈は、すっきりした顔で、手帳をハンドバックに詰め込むと

  娘を保育園に迎えに行く時間なので、今日はこの辺でと言った。

 

 「それじゃあ、話を聞いてくれてありがとうございました!」


   そう締めくくると、加奈は来た時よりも明るい顔で帰って行った。

  多少は役に立てたようだと、優奈は胸をなでおろす。

   こちらが示した情報は、「5年前に自殺した学生が一人、何らかの

  理由で亡くなった学生が一人いたこと」、「小田切と佐々木を名指しする

  怪文書が研究室宛てに届いたこと」と「小田切の帰りが遅いのは

   プロジェクトの仕事の為だが、なぜか佐々木がいつも組んでいること」

   だけ。

 

   後は加奈が夫に聞きだす手腕にかかっている。

   男女関係に疎い優奈は、不思議に思った。

  

 「小田切先生も、初めから奥さんと腹を割って、話合えば

  良かったことかも知れませんね」


  誤魔化そうとするから、後から襤褸が出て、新たな疑惑を呼ぶ。

  悪循環だ。

 

  「信頼してほしい相手だからこそ、言えないこともある。お前には

  まだ早いか。彼氏いなそうだもんな」


  優奈は反論しようとしたが、事実なので言葉に詰まった。

  学部時代から付き合っている人がいると言おうとしたが、

  今更嘘をつくのもあまりに自分が悲しいので「常川さん

  だけには言われたくない」と言い返すに止めておいた。

 


13


「望の発作が起きて、薬を飲んでも中々良くならないの」


 常川達と話し終えた後、車で義両親の元へ向かった加奈は、

 真っ青になった。

 

 夫の愛人らしき人物からの怪文書が保育園に届いて以降、

 望は保育園を休んでいた。小田切は毎日出勤するので、

 用事がある時には、義両親に預けさせてもらうことにした。

 

 理由をまだ小田切には打ち明けていないので、義両親へは

 今日は保育園が無い日だが、用事があるので預かってくれないか

 と頼んだら二つ返事で引き受けてくれた。


 おかげで常川達に相談もでき、情報とアドバイスをもらえた。

 しかしその引き換えがこれでは……。


 一旦駐車したコンビニの駐車場で、加奈は行きつけの病院の

 名前と場所を告げてそこに望を連れていくよう頼んだ後、

 急いで病院に直行した。

 

 病院へ着いた時には、既に望の処置は終わったところだった。

 駐車場で義両親の車へ向かう望が見える。

 義父と手を繋いで、きちんと自分の足で歩いている。


 「望……!」


 駆けよって抱きしめようとすると、その間を小田切が遮った。


 「何をやっていたんだ!」


 義両親から連絡を受けた小田切の方が、先に病院に着いていた。

 すぐに加奈から、望を引き離すと、怒りに満ちた眼で睨んだ。


 「用事ってなんだ?」


 常川達と小田切の浮気や過去の事件について、相談していたとは

 義両親の手前言えず、加奈は黙り込んでしまう。

 それを疾しいことがあるから答えられないと捉えた小田切は、

 感情が高ぶる。


 「子どもを放っておいて、遊びに行っていたのか?」


 「違う!大事な用事があったの!子どもを連れていけるような

  場所じゃなかったし」


 「どこだ?職場じゃないよな?職場には今連絡して、今日は勤務日

  ではないことを確認したよ。だったらどこだ?なぜ保育園に

  預けていないんだ?」


  一方的に批判されるのに腹が立って、加奈もさすがに反論する。


 「……あなたの浮気相談よ。毎日佐々木さんと遅くまで実験している

  時間はあるのに、私が悩んでいることには耳も貸さないで!

  保育園なんか当分行けないわよ!あなたの愛人らしい人が出した、

  妙な手紙のせいでね!お義父さんとお義母さんの手前だから黙っていた

  けれど、もうたくさん!あなたが私と望の人生を滅茶苦茶にして

  いるの。いい加減気付いてよ!」


  言うだけ言うと、加奈は保育園に届いた手紙を、義両親に渡した。

  小田切も「愛人」の言葉に気がかりの事があるのか、

  一緒に文面を見ている。


 「満夫これは……?」


  義両親にはさすがに動揺が走ったが、小田切はそれをくしゃくしゃに

  丸めた。


  「また嫌がらせとでも言うのか?」


  「何よ。……何なのよ、その目は」


  「言い訳はいい! いくら最近物騒だからと言って、誰でも彼でも

    疑うのはどうかと思うぞ。望まで人間不信になったらどうするんだ!」


   「私はただ望が心配で……。それ以上に『望まで』って何?私が

     人間不信で望に悪影響だって言うの?」


   「最近のお前は異常だよ。昔のことをしつこく穿り返して」


  「……」

 

  言葉が全く伝わらない。

  意味をなしているはずなのに、加奈と小田切との間には

  決定的な断層がある。


   そのまま小田切は自分の車に望を乗せると、義両親の家に

  帰って行った。

   独り家に帰り、加奈は心細さと怒りと、無力感の混じった気持ちを

    持て余す。気分の高揚が収まらず、ソファに突っ伏した。

 

   (私がおかしいのだろうか?)


  もう自分を含めて誰を信じていいのか、加奈には分からなかった。



14

 

 「本当なんですか?」


  加奈は受話器を取り落としそうになった。

  時刻は午後八時。

  その時加奈は一人で夕食をとって、塾で生徒から返された答案を

  採点していた。


  望が義実家で発作を起こして既に一週間が立っていたが、未だ

  小田切は加奈を許す気持ちが収まることはなく、小田切が遅い時は

  義母の家に預けられていた。


  心配している割には、小田切の帰りが遅い日が続いた。

  帰宅時に受けた電話と話している時に、漏れ聞こえた声から、

  相手が佐々木であることがすぐに分かった。


  尋ねてもはぐらかすので、悪いとは思いながらも携帯電話の画面を

  盗み見した。だがやはりロックがかかっていて、中身を見ることは

 できない。悶々としたまま、惰性で日々を送っていた。


  その電話が鳴ったのはそんなときだった。

  この頃は無言電話も、なぜかあまり鳴らなくなっていたのと、

  連日の出来事に気を取られていて、特に躊躇しないで電話に出た。


 「あなたの旦那さんは、人殺しです」


  相手の第一声がそれだった。

  相手の声は確かに女の声だったが、複数の女の声を切り貼りした

  ような統一感の欠けたものだった。

  驚いたものの、すぐにあの噂と結びついた。

  冷静に対処して、可能なら噂を消さなくては。


 「失礼ですが、どちらさまでしょうか? おかけ間違いでは……」


  加奈の声に被せるように、電話の相手は言った。


 「あなたも殺されますよ」


  ガチャ。ツーツー。

 

  もう限界だった。

  加奈は小田切に電話した。

  仕事を邪魔してはいけないといつもは遠慮しているが、

  気にしてなどいられなかった。


 「あなた、私。今変な電話があって……」


 「今大事な話をしているところなんだ。いつもの無言電話か?」


  周囲に人がいるのか、あくまで表面上は愛想良く答えるが、不機嫌な

  気持ちが滲み出ている。いつもは完璧なまでに良い人を演じている

  小田切にしては珍しい。


 「違うの。あなたのこと、『人殺し』だって……」


  それを聞いた途端、小田切の声が荒いものに変わった。

 

 「そんなわけないだろう」


 「……それは分かっている。でも変な電話が自宅まで来るなんて、

   私怖くて」


 恐怖を訴えるが、受話器の向こうからはざわざわと周囲の音が

  妙に聞こえる。小田切が受話器を耳から話しているのか。

  小さな声も聞こえる。

 

 「もしもし、ちゃんと聞いてる? 私もう怖くて……」


 「君の仕事はつまらない噂を消すことだろう。ちゃんと毅然とした態度で

  噂を否定したんだろうな?」


 「それは……」


 「君は一児の母親だぞ。しっかりしてくれないと困る」


  あやすような声を出す。

  明らかに周囲に会話を聞かれていることを意識している。


 (ごめん、遅れちゃって)


  冷静な声が受話器越しに聞こえる。

  あの女の声だ。


 (やっぱり一緒に居るんだ)


  この瞬間、加奈の心の中で小田切の存在が劇的に変わった。

 

  思い出は浪費した時間。

  浮気は取引材料へと。




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