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 「今日大学時代の友達から聞いたんだけれど、あなたの研究室で

 自殺した学生さんがいたっていうんだけれど、本当なの?」


 翌日、望が寝静まったのを確認してから、加奈は出張から帰った

 小田切に意を決して尋ねた。


 事実だけをまず確かめることにする。

 

 風呂上がりでリビングで新聞を読み、リラックスるしているのを

 狙って切り出した。

 警戒されないよう、加奈自身も雑誌を読んでいる振りをし、

 あくまで世間話であることを演出する。


 「ああ。一人自殺した学生がいた。僕たちと同級生だったから、

   覚えているよ」


 あっさりと小田切は認めた。本題から切り出さなかった効果があった。

 核心に少しずつ迫っていくことにする。


 「その人はどうして自殺したのか、知っている?」


 そこまで来て不振に思ったのか、小田切は読んでいた新聞から目を離し、

 初めてこちらを向いた。


 「……いや。どうしてそんなことに興味を持つんだ?」


 「……あなたの研究室でのことだったから、ちょっと気になっただけ。

  まさかいじめが原因で自殺とかじゃないわよね?」


 「そんなわけないだろう。……今日は疲れたからもう寝る」


 そういうと読みかけの新聞をテーブルに置いて、小田切は寝室へ向かう。

 さりげなさを装っていたが、そのタイミングが動揺を表しているようにも

 感じた。先延ばしにしていては、また電話がかかってくるかもしれない。

 塾長とも約束した。


 「逃げないで」


 「うん?」と逼迫した加奈の声に、小田切は訝しそうにこちらを見る。


 「ちゃんと答えて。私、職も信頼も失いそうなんだから……」


 今の質問と加奈の言葉の関連性が分からず、言われるがまま小田切は

 ソファーに戻る。自分もソファーに腰掛けると、加奈はテレビを消して、

 真剣に今日の昼間に塾であったことを話した。


 「……どうして初めから本当のことを話さないんだ?」


 「……ごめんなさい。あなたが本当のこと話してくれないと思って」


 「僕が嘘をつくとでも思ったのか?」


 「気づかない内に……ってこともあるじゃない。嘘を吐くとまでは

  思っていないわ」

  

 「まあいい。確かに自殺した学生はいた。確かに大学や研究室での

    いじめが原因ではあるが、そいつが被害者だったわけではない。

    むしろ加害者だった。それで退学処分を受けたのを逆恨みして、

  自殺したんだ。……ある意味確かにアカハラで死んだとは言える。

  それは正しい。だが僕たちが奴に嫌がらせをしていた訳ではない。

  それが誤って誰かに伝わったのだろう」

 

  「自殺した学生がいたことは事実なのね? それがどうしてあなたが

   追い詰めてその人が自殺したみたいな言われ方をしたのかしら?」


  「…… ひどい誤解だな。まあ事実はそういうことだ。そいつが、ある

    学生に嫌がらせを繰り返していたのを咎められて、退学処分になった。

    それからしばらくたって、 自殺した。警察が来たときに、同じ研究

    室のメンバーということで、事情聴取も受けたよ。遺書もあって

  そこには退学処分になったことを逆恨みするようなことが書いて

  あったらしい。そんな噂を流すとすれば、そいつの自殺を納得できない

  関係者としか考えられないな」


  「でも、五年も前のことでしょう?どうして今になってそんな噂が

  流れるのかしら?」


  「さあな。……ともかくその件に関しては、僕は無実だ。これで分かった

   だろう?誤解は解けたんだし、明日塾長にもそう説明しておいてくれ。

   大丈夫。誤解だと分かれば塾長も上手く対処してくれるさ」


  「……本当に誤解なのね? 信じていいのね?」


  「ああ。心配するな」


  加奈は、久しぶりにきちんと夫の目を見て話した気がした。

  誤解でほっとしたのと、張りつめいた気が抜けたので、その晩は

  ぐっすりと安眠できた。

 

  その旨を塾長に伝えると、小田切に尋ねたことを労ってくれた上で、

  たちの悪い誤解を訂正するよう力になると約束してくれた。

  塾長と天原しか知らないことらしく、他のスタッフは誰もその話題を

  知らないようだった。塾長たちの配慮のおかげで職場環境に影響なく

  仕事を続けられることに、加奈は素直に感謝した。


 (これで一段落か)


  安堵しつつも、加奈は今度は別のことが気になって仕方ない。

  相当な怨みを小田切に抱いている誰か。

  なんでも無難にこなす小田切は、だからこそ彼に理不尽に扱われた

  人間の落胆と怒りは激しくなる。自分もそうだから加奈には、分かるのだ。

  天原が指摘したことにも、心当たりはないこともない。


  事実無根の噂を、妻である加奈の職場にあえて伝える。

  そのやり口に、底知れぬ悪意を感じる。

  このまま、相手が鞘を納めるとは到底思えなかった。

 

  そしてそれは的中する。


  加奈の担当クラスから、他の先生のクラスへの移籍を

  申し出る生徒が相次いだ。全部不登校生へのプログラムに

  我が子を通わせている保護者からの申し出だ。

  あの噂も、不登校生プログラムの履修生を中心に広まった

  ものらしい。最終的に、加奈は不登校生プログラムから

  外されてしまった。

   

  事情を知らない他の講師陣は、不思議に思って首を捻っている。

  一度広がった悪評を取り消すのには、思いの他かかりそうだった。

 

  その内に塾生たちにまで噂が広がったようだ。

  加奈をあからさまに非難する子はいないが、塾生たちに「先生、

  大丈夫?」と無垢な瞳で尋ねられるとなんともいえない気持ちになる。

  生徒自身が学校でいじめにあった経験のある子が多いので、

  加奈が家で夫にいじめられているのではと心配してくれているのだ。 


  受付嬢の天原もそうだ。

  あの一件以来、噂に関する対応など塾長と共に、尽力してくれている

  彼女には頭が上がらないが、ことあるごとに本当に家で何も被害に

  あっていないか尋ねてくるのには、困惑した。


  確かに小田切は機嫌が悪いと、無口になる傾向がある。

   それでも怒鳴りつけるよりはましだと思うし、誰だってそんな時はある。

   被害者のように扱われるのは、耐えられなかった。

  腫れ物に触るような扱いは、やはり居心地が悪いものだ。

  

  小田切は大事にするのを嫌がったが、それ以後も問い合わせの電話は

   思い出したようにかかってきたので、加奈にとっては深刻な問題だった。

 

 そうこうするうちに、加奈を取り巻く環境は悪化していった。

  今までの平穏な日々が夢のように崩れていく。

  悪夢は始まったばかりだった。

 


5


 やはり気のせいではない。

 マンションの住人と顔を合わせても、
黙って会釈をするだけで
 親しげに
話しかけてくるものはいない。遠巻きにこちらを見て
 ひそひそ話を
する者たちもいる。

 

 塾にかかって来たあの電話の内容が、ついにマンション内にまで
 広まっているのかと、加奈は暗澹たる気分になる。

 

 保育園にも容赦なく、その魔の手は迫った。

 ママ友だと思ってい た保護者たちも、妙によそよそしい態度に変貌した。

 こちらから話しかけても当たり障りのない答えをしては、すぐに

 その場を離れる。そのくせこちらの様子をじっと観察していたりもする。

 からりとした関係に、カビが生えたかのような湿り気が生じてきた。


 夫に怨みの深い人間がしたことなら、怨みの理由を教えて欲しい。

 誠心誠意謝るのに。夫の代わりに自分の出来ることがあるのなら、

 何でもする。切に加奈は願う。

 あの平穏な日々を取り戻す為ならば、何事をも厭わぬ覚悟はとっくに

 できている。

 

 それでも敵は姿を見せず、当の本人である小田切に現状を訴えても、

 逆に、加奈の説明の仕方が悪いせいだと怒られるだけだった。

 噂では小田切が加害者扱いされているのだから、怒りは当然だが、

 加奈だって自身に関係のないことで生活を危うくされているのだ。

 望にまで被害が及んだらどうするのかと、心配で夜も眠れない。


 粛々と日常の業務をこなしてはいるが、ともすると崩れ落ちそうになる。

 望がいなければ、とうに心が折れそうだった。 


 何よりも夫が加奈の心労を労わるどころか、気持ちを告げる度に苛々

 するのが悲しかった。職場でも何か問題があるのか、このところ

 小田切の機嫌がすこぶる悪い。以前から怒ると無視を決め込む小田切は、

 口数が極端に減った。それでも態度が小田切の苛々する内心を露呈していて、

 いつ暴発するのかと、加奈は内心びくびくしていた。


 孤立無援。


 実家から離れたこの地で、加奈はその文字を噛みしめる。

 週に一度実家に電話するいつもの習慣も苦痛に変わった。

 ともすると感情が零れそうになる。

 本音を言えば、ここから逃げ出したい。


 それでも楽しそうに保育園に通う望を見ていると、別居を切り出す

 こともできない。今のところ、望にまでは被害が及んでいない

 らしいことだけが、唯一の救いなのだ。

 

 それに実家に逃げたところで、その犯人は自分を、小田切の

 妻を許してくれるのか。また同じことが起こるのではないか。

 

 「はあ」

 

 職場であることも忘れ、大きなため息をついてしまった。

 慌てて周りを見回すと、今は授業時間なので他の講師は既に

 出ていた。いるのは次の授業の予習をしている加奈だけ。

 聞かれなかったとほっとすると、後ろから「どうぞ」と声がする。

 

 「小田切さん、元気出してください。お母さんがそんな顔じゃ、

  娘さんだって悲しみますよお」


 相変わらず能天気な声で、天原は言うと、手にしていたチョコを

 「はい」と渡してきた。

 それが妙に勘に触る。

 自分の気持ちなど、分からないくせに。


 「人の噂も75日って言いますし、直ぐにみんな忘れますよ」

 

 「もともと小田切さんが悪い訳じゃないですし」


 「旦那さんも誤解だって言ったのなら、冤罪だったわけだから

  堂々としていればいいんですよお。それに小田切さんの事

  支えてくれてるだから、大丈夫ですよお」


  天原なりに考えての発言だとは分かっているが、どうしても

  腹が立つのが止められなかった。

  前提とされている小田切なんて、自分を責めるばかりだと言うのに。


 「適当なこと言わないで!」 

 

  思わず声を荒げてしまう。

 

  だがここ数日の出来事に、気持ちが溢れ出してしまう。

  ここは職場だと言うのに。

  自分の境遇を誰かに理解して欲しい。

  加奈は堰を切ったように、感情の赴くままここ数日の家での

  様子を語る。言葉が止まらない。

  どこかで冷静な自分が、こんなこと他人に話したところで

  どうにもなるものではないと警告を鳴らす。

  それでもやめられない。


  噂は止むどころか、どんどん広まっていること。

  生徒に動揺を与えて、生徒にも塾長にも申し訳ないと思っていること。

  小田切には支えられるどころか、責められていること。

  居場所がなくて辛いと言うこと。


  呆気にとられていた天原の顔を見て、「ああ、終わったな」と

  加奈は理解した。

  最近ではこの職場だけが、一番気が置けない場所だったのに。


  妙な噂が来たのは確かにここから。

  でも塾長も天原も、事情を知った上で、励ましてくれる。

  特別扱いをしないで、普通に接してくれる。

  でもこんな場面を見せてしまったら‐。

  それも変わってしまうのではないか。

 

 「それでいいんですよ」


  天原が低く落ち着いた声で言った。


 「その気持ちを旦那さんに、ぶつければ」


 「……」


 「小田切さん、旦那さんの前だと遠慮しているんじゃないですか?

  一方だけが我慢する関係は、長くは続きませんよ。時には自分の

    気持ちを理解してもらう努力をしなくては。言わないと分からない

    ことって、結構ありますよ」


 分かった風な口を。

 そう思いつつも、振り返れば加奈はいつも折れていた。

 年上の小田切が言うことは正しいのだと最後には謝っていた。

 

 「今だからこそ、必要なことです」


 そう微笑む天原は、得体の知れない修羅場をくぐったような

 強さがあって説得力があった。



6


 翌日の晩-小田切は客を連れてきた。

 スーツをぴしっと着こみ、薄いがきっちりとメイクした女性だ。

 大学院時代の同級生で、佐々木と名乗った。

 ということは、結婚式にも会ったのだろう。あまり覚えていなかったが、

 出席していたらしい。


 二人が来る二時間前に訪問を告げられたので、急いで用意したものの、

 急ごしらえになってしまい、贅を凝らしたものにはならなかった。

 もっと早めに教えてくれればいいのにと、喉まで出かかったが客の手前

 黙らざるをえない。


 残り物をフル活用して、何とか体裁だけは整えた。

 佐々木は幾つかのおかずを食べられないと言ってまるまる残し、

 感想は一切言わなかった。


 「婚約者に電話したいから携帯貸してくれませんか? バッテリーが

  切れちゃって」


 当然のように携帯を借りようとする佐々木の態度が、料理を残した

 ことと合わさって何とも非常識に思えた。そもそも今日こそ小田切に

 本音をぶつけようと思っていたのに、台無しにされたのだ。


 「どうして私の携帯を?」


 努めて冷静を装ったが、声に怒りが滲み出る。


 「僕の携帯や、家の電話だと、妙な誤解を受けるかも知れない

  じゃないか」


 「……」


 「ああごめん、気が効かなくて。はい」

 

 小田切が勝手に加奈の携帯電話を貸すと、女は鼻からふっと息を吐き、

 「じゃあ借りますね」と遠慮なく持って行った。それが嘲笑に聞こえて

 加奈はやりきれない思いになった。


 追い打ちをかけるように、内密の話だからと、小田切は加奈を二階に

 追いやった。二階で望と遊び相手をしながらも、一階の動向を気にして

 いると、二人は小田切の書斎に入ったまま出てこない。

 加奈は惨めな気分になった。


 望が遊び疲れて眠った三十分後くらいに、佐々木は帰って行った。

 呼ぶまで下りてくるなと小田切に言われていたので、待っていたが

 呼ばれないまま佐々木は帰って行ってしまった。

 そのドアが閉じられて五分ぐらい経過した後に、ようやく小田切は

 加奈を呼んだ。その瞳はいつになく冷たい光を宿している。


 「今日は恥をかいたよ。本当に気が効かないな。佐々木さんも、

  きっと呆れていたぞ。俺の評価に関わるんだ」


 「あの人の方が非常識だわ。人の家に来て料理にけちつけて、

  電話も借りて、礼もしない。挨拶すらしないで帰ったのよ。

  どうしてそんな人の御機嫌を取らなきゃいけないの!」


 「自分の非礼を棚に上げて、随分と偉い身分になったものだな。

  お前に社会常識がないのを教えてやっているのに」


 「常識がないのは、あの人でしょ? 今何時か分かっているの?」


 「大事な話をしていたんだ」


 「だったら飲み屋さんですればいいでしょう。直前に連絡もらって

  準備するこちらの身にもなってよ。迷惑だわ」


 「ここは俺の家だぞ。ほとんど俺の給料でやりくりしているくせに

  偉そうなことを言うな」


 「……」


 この人はこんなことを言う人だったか。

 最近は上手くいってなかったけれど、それでも普段は温厚だったのに。

 この言葉は想像以上に加奈の心を打ち砕いた。

 同時にフラッシュバックのように、過去にひっかかった小田切の行動が

 思い出される。


 今はナーバスになっているだけ。

 きっかけは些細なことで、しかも良くあること。

 気にするまでもない。

 売り言葉に買い言葉。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 暴れ出しそうな心を、懸命に諭す。

 そんな加奈の努力を知ってか知らずか、小田切は朝が早いと

 言って、さっさと寝室に引き上げて行った。


 結局その日は、自分の本音を打ち明けるどころではなかった。

 小田切との関係を根本から見直す必要を、加奈は感じていた。 


 翌日に塾へ行っても、加奈の気分は晴れなかった。

 夫が悪い方へ変わって言っている気がして、環境の変化とあいまって

 先行きが不安で仕方なかった。

 


7


 「小田切さん、ちょっとお話があるのですが宜しいですか?」


 望を迎えに行くと、年少組を担当している担任の先生が小声で言った。

 まだ教室で遊んでいる望を気にすると、担任は副担任の若い先生に、

 しばらく加奈と話をするから遊んでいてと指示した。


 雰囲気は職場に不審電話が来た時と似ている。

 緊張して、手に変な汗をかく。

 

 (まさか保育園にまで。でも今までの経過からみると、あり得ない

  ことではない)


 不安げな顔をいち早く察した担任は、面談室の引き戸を開けると、

 穏やかな声で椅子を勧める。望の組の担任は、経験豊富な四十代の女性で、

  頼りになると父兄の間でも評判だった。


 「あの、望が何か……?」


 「望ちゃんのことではないんです。まずこれをご覧ください」

 

 差し出されたのは一通の封筒。

 表の宛名は保育園の名前が書かれ、裏に差出人の名前はなかった。

 封筒は、ごく普通の白い無地の封筒だった。


 確認するように担任の顔を見ると、静かに促した。


 「どうぞ」


 封は既に切られているので、簡単に中の紙を引き出せる。

 タイプで印字された紙は、これまたコンビニでも売られている

 よくあるA4用紙だった。


 『小田切望ちゃんのお父さんは、浮気をしています。それも仕方ない

  ことです。子育ても家事も、全部お父さんがやっているんですから。

  私は奥様に態度を改めてもらいたいのです。できないなら、私が

  望ちゃんを育てます。今後私が園に望ちゃんを送り迎えすることが

  あるかもしれません。その時は宜しくお願い致します』

 

 「何なのですか、これ?」


 一方的に加奈を批判している。

 しかも身に覚えのないことばかりだ。

 子育ても家事もほとんど全部自分がやっている。

  小田切も手伝ってくれるが、気が向いたときにきまぐれにやるだけだ。

 先程までの不安から一転、怒りが込み上げてきた。

 

 「こんなの嘘です。私はきちんと家事も子育てもこなしています」


 「ええ。それは私どももよく知っています。保育園への送迎もお母さん

  がきちんとなされていますし、遅刻だって一度もありません」


 穏やかに同意をしてもらい、加奈は少しだけ冷静を取り戻す。


 「問題は誰がこんなものを送りつけてきたのかということなのです。

  お尋ねしにくいのですが、……心当たりはありますか?」


 誹謗中傷を送りつけてくるような心当たり‐。

 そんなの一人しかいない。

 小田切の噂を流した人物。

 でもその人物の矛先は小田切ではなかったのか。

 この書き方では、ただの小田切の浮気相手としか思えない。


 「……ないこともないです。ですが、確信はできません」


 「お察しします……」


  担任は加奈が、混乱した頭を整理する時間をじっくりと待ってくれた。

  不安。怒り。言いたいこと。言い辛いこと。

  収集が付かない。


  しばらく間を置いて、ようやく加奈は口を開いた。


 「これはいつ……?」

 

 

 「つい先程。午後の便で届きました」


 「それで、望は大丈夫なんでしょうか?

  まるでいつか望を連れ去るみたいなことを書いていますよね。

  不審な人が保育園に来たりすることは、今までありませんでしたか?」


  急に不安がこみ上げて来て、衝動のままに加奈は矢継ぎ早に担任に

  質問する。だがそこはベテラン。動じることなく、用意してあった

  今までの業務日誌や付近の不審者情報を見せて、加奈が心配するような

  ことは今までなかったことを証明した。


 「ただ望ちゃんの安全の為には、しばらく園を休まれた方が良いかと」


 「それは同感です。しばらく休ませて頂きます。……申し訳ありません

  でした。園にご迷惑をかけて……」


 「迷惑だなんてとんでもない。詮索は致しませんが、小田切さんこそ

  お辛い思いをしていらっしゃるのでしょう」

     

 思わず全部話してしまいそうになり、ぐっと堪える。

 それ以上に涙が込み上げてきた。

 真っ赤になっているだろう鼻を隠すように、ハンカチで押さえると、

 「望が待っていますので」と席を立った。


 そこへ申し訳なさそうに、この手紙を警察に見せても良いかと聞かれた。

 他の園児たちの安全を確保する為に、見回りをお願いしたいのだとか。

 「内容が事実無根であることは、ちゃんと言いますから」と強調してくれた

 が、そんなことを言わなくても、加奈は同意するつもりだ。

 コピーをもらうのを条件に、加奈は承諾した。


 「望ちゃんが元気で登園できる日を楽しみに待っています」

 

 望に聞こえないように、小さく担任は言ってくれた。

 望は当然明日も登園するつもりで、元気で先生に挨拶している。

 

 帰りの車で、望が無邪気に保育園であったことを聞くのが

 辛くて、加奈は涙声にならないよう耐えるのが精一杯だった。



8


 疑い出すときりがない。

 昨日までは思いもつかなかったことが、わずか一日でこうも

 変わるものなのか。


 いけないことと知りつつも、欲求に抗えず加奈は小田切の私物を

 チェックする。するとおかしなことに気付いた。

 携帯に、パソコン、机の引き出しに至るまで厳重に鍵がかけられている。

 最低限のルールだと遠慮していたので、今まで知らなかった。


 (どういうこと?)


 隠し事をしているのか。

 それとも加奈が単純に信用されていないのか?

 単に小田切が用心深いだけ?


 尽きない疑問を胸に、加奈は昼食の支度をする。

 あんな手紙が来た昨日の今日なので、望は当然保育園には行かず、

 大人しく家で遊んでいる。幸運にも今日は仕事が無い日なので、

 加奈はゆったりとした時間を、望と過ごしている。

 

 二人で焼きそばを食べていると、突然玄関扉が開き、

 小田切が駆けこんできた。  


 「どうしたの。あなた?」


 時ならぬ帰宅に、加奈は驚きを隠せなかった。

 いつもなら一旦大学へ出勤した小田切は、八時以降まで帰らないのが

 常であるのに。


 言いたいことが多すぎて、加奈は小田切の突然の行動にどう反応して

 良いのか分からない。


 「お前たち、大丈夫か?何か妙なことが起こったりしてないよな?」


 「何?急にどうしたの?別に何もないわよ。それくらいのことなら、

  電話でいいのに」


 そういいながらも、加奈は久しぶりに小田切が感情を露わにして自分達を

 心配してくれたことが素直に嬉しかった。だが夫はそのまま娘の方に走り

 寄り、思い切り抱きしめると、こちらを全く見ようとはしなかった。


 「パパ。痛いよ。ふふふふふ」


 抱きしめられたまま頬ずりされた望が、擽ったそうに身を捩る。


(そうか……この人が心配なのは望だけなんだ)


 加奈の胸がちくりと痛む。小田切の言葉の一つ一つが、どうにも憎らしくて

 ならない。その原因が自分でも分からなくて、苛々する。


「……それで、何かあったの?」


 さっきまでの喜びも、みるみる萎み、棘のある聞き方になってしまった。

 それでも小田切はまったく怯まない。


 「ああ、いや別にいいんだ。ちょっと大学で妙なことが続いていてな。少し

  気になっただけだ」


 「ふうん……。大学で妙なこと……ね」


 職場の出来事が家庭にまで影響を及ぼすなんて、加奈には例の噂しか考え

 られない。その背景を、小田切の真意を問い詰めたい。薄々頭をよぎるのは、

 あの手紙の背後に潜む女の陰。でも直接は聞けなかった。


「家庭にまで影響が出るようなことって何? まさか前のアカハラ事件

 の件で、狙われているの? それで家族まで?」


「大したことじゃない。あの事件を知った奴が、便乗して何かと悪戯を

 仕掛けているようでな。大学でも妙な嫌がらせが続いていてね。

 家族にまで被害が出ていないか、確認しに戻ったところだ」


 (もう被害が出ていると何度も言ったでしょう)


 怒りを抑えながら加奈は、心の中で冷静に反論する。

 

「……本当は、別の理由じゃないの?」


「別の理由? 他に何があると言うんだ?」


「……」


 それ以上は続けられなかった。自分の口からは言えない。全て証拠を握って

 から、一気に攻め落としたかった。配偶者の浮気を咎めるには、気取られぬ

 よう証拠を固めて現場を押さえるのが常道だ。


「……別に。ただ他にも理由があるんじゃないかと思っただけ」




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