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「……ちょっと常川さん。いいですか?」


 息切れした優奈が研究室のドアの取っ手を回すのももどかしい様相で、

 部屋に飛び込んできた。常川からすれば、会社のクライアントとの

 打ち合わせの日程を調節するためのスケジュール調整をしていたところ

 なので、邪魔された形になる。


「なんだよ?」


 例にもれずここのところ毎日学校に来ている常川は、大学でも研究よりも

 仕事に追われていた。研究は待ってくれるが、ビジネスは時間が命だ。

 これはあくまで比較対象であって、もう最終学年にもなろうかという

 常川は今年中に論文を出さなければ、課程博士の学位を授与できる権利を

 失うと優奈は聞いている。


 優奈も実験動物の飼育や実験の担当がある時は、遅い時間まで残っている。

 今日も優奈は任された実験を粛々とこなしている。


「……今備品室に行ったら、変な音がするんです」


「学部生でも騒いでいるだけじゃないか?」


「そうじゃなくて……。誰かが泣いているような……。

 不気味な声なんです。しかもその声、備品室の隣の締め切りに

 なった部屋から聞こえてくるんですよ」


「怖い話でも読んだのか? 今はまだ8時だぞ」


 世間的にはまだ遅い夕食を取っている人がいてもおかしくない時間帯だ。

 飲み屋街など大いに賑わっていることだろう。院生の大半が夜型だが、

 用事がない場合は皆それぞれの所用の為帰っていく。


「怖いから付いてきて下さい」


 上目づかいで見つめる優奈。

 女性誌によると、男性に頼みごとをする時には効果的……のはずだった。

 が、常川には全く効果はなかった。


「怖いならもう行かなければいいだろう。明日になれば誰か来る」


「駄目なんです。今日中にやらないと、計画に支障がでてしまうんです。

 COEのプロジェクトだから、常川さんだって関係あるんですよ。

 私のせいで皆に迷惑なんてかけられませんよ」


「じゃあ般若心経でも唱えながら行けばいいだろう」


 前から思っていたのだが、常川は優奈と他の女子学生との扱いの差が

 ひどい。不公平だ。


「意地悪しないで付いてきて下さいよ。それに空き部屋から物音なんて

 泥棒かもしれないですよ」


「盗られる物なんか何もないだろ。否むしろ、学生同士が何か

 秘密のことをしているのかもな。見つかるか見つからないかと

 言うのが、スリルがあっていいんだよ」


 赤面する優奈。にやける常川。


「仮にそうだとして、あそこの鍵をどうして普通の学生が持っているん

 ですか?何がある部屋かは知りませんが、使われていない倉庫か何か

 なんですよね?」


「まさか備品室の隣の、廊下の突き当たりの部屋か?」


「はい……廊下の角を曲がった奥の部屋です。角が備品室になっている。

 廊下では聞こえないんですが、備品室の中だと横から聞こえるんです。

 でも、あの部屋は普段は入れないですよね?確か管理室から鍵でも持って

 こないと……」


「すぐに行くぞ」


 部屋を特定すると先程までのお茶らけた雰囲気はなりを潜め、常川は

 率先して備品室にむかった。


 足音を忍ばせて入る。

 耳を澄ませると鼻をすするような音がする気もするが、

 壁が厚いのかはっきりとは聞こえない。壁に耳を宛てていると、

 男子学生が三人部屋に入ってきた。

 優奈も名前は知らないが顔だけは見知っている、

 同じ学科の他の研究室の院生だ。

 備品室と実験施設を共有しているので、顔を合わせることも

 幾度かあるのだ。他の研究室の学生はさすがに常川の顔を見て

 不満げな表情をすることはなかった。


 「隣から変な声が聞こえてくると聞いたんだが」


 常川が尋ねると、学生の内の一人が答えた。

 

 「はい。さっき僕が備品室で実験の準備をしていたら、妙な物音がして……」


 「たぶん私が聞いたのと同じです!」

 

 なんとなく心霊現象っぽいことは言いたくなかった。

 ここは理系の研究施設だ。

 非科学的にならないよう、優奈は気を付ける。


  三人が優奈よりも前に入った時にも、誰かが泣いているような声が

  聞こえたという。それで警備員に事情を話して、戻って来たところだ

 と言った。


 少し話していると、初老の警備員がやってきて、件の部屋のドアを

 開けるべく鍵を差し込む。

 皆一旦備品室から廊下に出て、警備員の動向を見守った。

 この部屋は既に役割を果たしていないとばかりに、ガムテープが

 統一性なく、乱雑に貼られている。

 

 カチ。

 

 確かに手応えはあるが、開かない。

 警備員は幾度も鍵についたタグを確認するが、間違いはない。

  もう一度挑戦してみるが、開かない。

 動揺する一同。


 鍵も合わず、ドアも開かないとなると、最終的にはドアを破壊

 するしかないわけだが、それも叶わない程に頑丈そうなドアなのだ。

 地下なので、窓を壊して侵入する訳にもいかない。


 「……鍵が間違っているんじゃないですか? それか鍵を新しく変えた

  ということはないですか?」


 優奈の言葉に、警備員は直も鍵をガチャガチャと弄りながら、

 それはないと返答する。


 「ここは随分前から使用されていないんだ。数年前に閉鎖されたままの

  状態で、物置としてすら機能していない。鍵を変える程の価値のある

  物も、中にはないんだ」


  バリッ。

 

 常川がガムテープを次々に、剥がし始める。

 

 「ちょっと、何しているんですか?常川さん!」


 常川の行動は相変わらず予測がつかない。

 皆の奇異の目を、優奈が代弁する。

 

 「鍵はちゃんと合っている。だから考えられるとしたら……あった!

  ここだ!」


 常川が剥がしたばかりのガムテープの下から、ドアの色とは異なる

 平べったい長方形の板が出てきた。

 

 「誰かが鍵を増やしたんだ」


 常川が言うには、これはドアの内側に本体がある電子錠で、

 解錠するには専用のリモコンが必要なのだと言う。

 最近似た鍵を社内に取り付けたので、見覚えがあると常川は言った。

 他の院生も、バイト先で使われているのを思い出していたので、

 その業界では有名なものなのだろう。

 

 「ぐすっ。……コホン。コホン」


 想定外の事態に一瞬静まり返ると、中から子どもの泣く声と続いて

 咳をするような音が聞こえる。

 

 「君、大丈夫か?」


 警備員さんがドアを叩きながら、中へ呼びかける。


 その時。

 階段から、誰かが駆けてくる足音が響いた。

 足がもつれかねない程の駆け足で、その人はこちらへやって来る。


 「小田切先生!」


 突然現れた小田切は、必死の形相で周囲の全員に問いかける。

 

 「望は、この中か?」


 「小田切先生のお子さんだったんですか? どうして……」
 

小田切が急かすように聞いたその場の者たちの話によると、

中から子どもの泣く声や咳をする声が聞こえると言う。

望は喘息の気がある。
 薬もなしに、中に閉じ込められていたら、どうなるか知れない。

 

(ここに来たら、すぐに助け出せると思っていたのに……!)

 

すぐに小田切は脅迫者が使用していた電話‐つまり加奈の携帯に

電話するが、幾度かけても同じアナウンスが流れるだけで繋がらない。

小田切の懊悩は増すばかりだ。

 

「皆に迷惑をかけてすまない」

 

その場に居た者には、都合の悪い部分は伏せて、娘がここに
 迷い込んだかもしれないとだけ伝えた。ここに来た理由は、

子どもの声を聞いた人から、連絡があったということにした。

 

「小さな子どもの鍵トラブルは、良くあることですよ」

 

皆をなだめるように、警備員がフォローしてくれる。

警備員も音の正体らしきものが分かって、少しほっとしたらしい。

 

「電子錠は異常事態になると止まってしまうことがあるんです。

その時に娘さんが入ってしまったのなら、自分で中から開けられなく

なる可能性も考えられます」


もちろん電子錠があらかじめ開いていたことが前提だ。

電子錠は普段は閉まらないようにセットしておいて、外出するときにだけ

施錠するように設定を変えることが出来るものがあると言う。


 警備員の説明によると、何者かによって新たに電子錠が設置されていた

 可能性があると言う。この警備員の説明なら、脅迫者の存在を告げずに、

 話を進めることができる。

「開いていた電子錠付きのドアを望が開けて入り、自分で

 締めてから出られなくなった」と筋書きを作ることが出来る。

    

そうだとしても、誰が何の為に、使われていない部屋にわざわざ電子錠を

取り付けたのかは、謎のままだ。 「学生が悪戯でやったことだろう」説に

落ち着きそうなのがせめてもの救いだ。


これで言い訳は成り立つ。

今は望の救出が最優先だ。

ハッと気が付き、小田切は知恵を募る。

 

「電子錠なら、電気を消したら解錠されるかもしれません」

 

思いついた若い警備員が電気制御盤のブレーカーを落とす。

 真っ暗の廊下で、勢い込んで院生たちでドアを押したり引いたり

  してみるが、びくともしない。

  期待した分、皆落胆してしまった。

 「すみません……」項垂れる若い警備員を、先輩警備員が慰める。

 

  年長の警備員が言うには、電子錠には停電時に施錠されるタイプと、

  解錠されるタイプに分かれる。このタイプは、偶々施錠されるタイプ

  だっただけのこと。だから考えの筋としては良いと、フォローする。

 

先輩警備員は後輩をフォローすると同時に、中の子どもをいち早く

助ける緊急性を理解し、救急に連絡をとってドアを壊してもらって

救出することを提案した。

しかし小田切はその申し出を渋る。


口止めはされていないが、脅迫者を刺激しない為には、

あくまで事件性がないように振る舞う必要がある。

機嫌を損ねて、せっかく居場所が分かったのに、望を危険な

目に晒すことはしたくなかった。


「子どものしたことだ。大げさにしてもらっては困る」

 

不審に思われないだけの上手い言い訳が思いつかず、小田切は

拗ねるような理由を付ける。

そう言われても他に出来ることは、鍵屋を呼ぶか、工務店に連絡する

くらいだ。工務店は終わっている時間なので、警備員が仕方なく

鍵屋を調べに詰所へ向かおうとする。


 その時だった。

 「ぎいあああああああああ」
 
 と、急に部屋から断末魔の
ような悲鳴が聞こえた。
 その高い声からおそらく子どものもの。

 一瞬にして場の緊張感が高まった。

 


9

  

「救急なら応急措置もしてくれる。早く119番しろ」

 

只ならぬ悲鳴の後だ。

 一刻も争う余地が無い。

「駄目だ。できない」

これ程取り乱しているのに、頑なに救急を拒否する小田切に対処

しかねて、警備員は携帯電話で詰め所に居る同僚を呼び、相談する。

 

こうして迷っている間にも、望は衰弱しているかもしれない。
 小田切は警備員の申し出を自分で断っておいて、望が心配でならない。

しかし理由を周囲に伝える訳にも行かず、ひどく狼狽していた。

人命がかかっているので警備員たちも必死で小田切を説得するが、

小田切は苦々しい表情を見せつつも、どうしても首を縦には振らない。

 

いつまでも決断しない小田切に見切りをつけたのか、ちっと

舌打ちすると常川はどこかへ走って行く。

優奈はそれに気付いたが、警備員と一緒に小田切の説得をするのに

忙しくてそれどころではなかった。

他の院生3人は、中の子どもに向けて、懸命に呼び掛けている。

 

「チェーンソー持って来たぞ!」

 

 常川が誇らしげに、チェーンソーを掲げて見せる。

 後ろには高校生くらいの男の子が、居心地が悪そうに付いてきている。

常川に無理強いされたことが、簡単に見て取れた。

 

 地下では窓もなく、外から工事用機械で壊すことも出来ない。

 そして厚いドア板。

 確かにチェーンソーで少しずつ削るしか、手はなかった。


「これで文句はないだろう!」


「それは駄目です!絶対に許可することはできません!」


 警備員は真っ青な顔で反対する。

 素人がチェーンソーでドアを開けて、中の人間に怪我を負わせる

リスクを考えれば、とてもゴーサインを出すことはできない。


「あんた、人の親だろう!何か事情があるみたいだけれど、子どもの

 命よりも大事なものがあるのか?」


 初老の警備員が、いつまで経っても最善の手段を取ろうとしない

 小田切にしびれを切らして、怒鳴りつけた。


 救急に頼もうとしない小田切に、疑問を含んだ視線が寄せられる。

 小田切はひたすら視線の意味に気付かない振りをする。

 小田切から脅迫者に発信をすることはできないのだから、ただ守りに

 徹するしかない。


 小田切の行動は、全てを把握した上で口を噤むことに決めたのだ。

 当然望のことは心配だ。

 喘息の発作で病院に運ばれたのはついこの間の事だ。
 薬も吸入器もなしで、カビ臭い部屋に閉じ込められたらどうなるか

 知れない。


 それでも何も言わない小田切に、もはや呆れかえった警備員は

 「鍵屋を呼ぶしかないでしょう。すぐにでも電話しましょう」と

 次善の策を提案する。

 そこまで来てやっと小田切は口を開いた。


 「救急をお願いします……」


 蚊の泣くように小さな声だったが、警備員は「良く決断してくれました」

 と小田切の勇気を労い、すぐに119番して事情を説明した。

  


10


 救急の行動はその道のプロだけあって、迅速だった。

 すぐに駆けつけた救急救命士4人は、ドアが開けないことを事前に

 知らせてあったため、特殊な機材を搬入していた。

 エンジンカッターと言われるその大型の機材は電子音を唸らせ、

 厚いドアを少しずつ破壊していく。


 集中する救命士の傍で、皆は中にいる子どもに向けて声をかける。

 

 「開いたぞ!」


 勇んで駆けこむように中に入った小田切と救命士。

 中に居たのは‐ヒトではなかった。

 

 開いた中には……パソコンが一台点滅しているだけだった。

 

 それ以外は、ごく僅かの機材を残して、全ての設備が撤去されている。

 その端には、ぽつんと置かれたパソコンが一台。

 それが泣き声の正体だったらしい。

 

 院生たちは呆気に取られ、救命士たちはタチの悪いいたずらだと

 激昂する。

 小田切は床に座り込んでしまった。

 ここに望はいなかった‐。

 では犯人はどうやって望を返してくれるというのか‐。

 

 小田切はすっかり放心状態に陥っていた。

 望が帰ってこないまま、自分の弱みを晒しあげてしまった。

 これからは佐々木も味方にはなってくれないだろう。

 どうすればいいのか。

 

 「小田切先生、魂が抜けたみたいですね。無理もないけれど」

 

 「さっさと消防か警察に言えば良かったんだ。どうせ通報したら殺すって

脅すのは唯の威嚇なんだから。自分の体裁ばかりを考えたあげく

こうなっても自業自得だ」

 

 相変わらず小田切に冷たい常川だが、娘の事はこれでも心配している

 ようだ。

  

 悪戯と分かった後は、当然のように小田切に警察に通報するよう、

またもや一同で説得する。


小田切によると、娘を大学に連れて来てから行方が分からなく

なったと言う。それなら事件ではなくても、どこかで不慮の事故に

あって動けなくなっているかもしれない。

それに喘息もちだったら、どこかで倒れている可能性もある。


だがいくら説得しても一層頑なに通報することを拒む。

事情はおろか、いつどこで娘がいなくなったのかさえ、口を噤んでいる。

何か訳ありなのだろうとは推測出来るが、公共機関の助けを

一切借りないと言い張られては助けようもない。


かといって放っておくわけにも行かず、警備員は館内を巡回しながら

子どもを探す。気が変わったら詰め所に連絡してくれと言った。

あくまで警察に頼むことが一番だと警備員は何度も、小田切に噛んで

含めるように伝えた。院生たちも大学院棟内を調べに行く。


今日のメンツはどうやら面倒見の良い人間が集まったようだ。

当然常川も優奈も探すことにする。

放心し何も話そうとしない小田切を見限って、警備員や他の院生が

調べていない場所を、考える。


小田切自身は学校で望とはぐれたかのように、説明したが、実際は

大学から離れた駐車場内でいなくなったことを知っている。だから

小田切は本気で大学構内で望が見つかると信じていた訳ではない。

一人取り残された小田切は、脳をフル回転させて考えた。


それならどこを探したらいいのか? 


相手が車に望を載せてどこかへ移動したとするなら、

もうどこだか分からない。


 ピピピピ。

 悲嘆にくれた小田切の耳に響く場違いな電子音が。

 小田切の携帯にメールが入ったことを告げる音。


 小田切は吉と出るか、凶と出るか恐る恐る画面をチェックする。

 送信者は加奈。


(さっきまで電話しても着信拒否していたのに……)


 そこには携帯メールで、『研究室のメールボックス』とだけ書かれていた。

 見るや否や小田切は自分の研究室へ向かって、走り出した。

 その様子に優奈と常川も、後を追う。


 普段では考えられない早さで猛ダッシュをした小田切に、

 ようやく追いついたのは、小田切の研究室前だった。

 小田切はメールボックスから、長方形の物体の入った小さな封筒を

 手にしている。


 「おい、何だよそれ?」

 

 常川の問いを無視して小田切が封を開けると、そこには携帯電話が

 入っていた。


 「これは加奈の携帯……!」


 ずっと着信拒否にされていた加奈の携帯電話だった。

 あの脅迫電話も、この電話からかかって来たことになる。


 驚いていることから、常川と優奈は、封筒の中身を事前に

 小田切は知らなかったことが、見て取れた。

 

 (ということは今の加奈は、新しい携帯電話を持っているのか)


 加奈は持病を持っている望と自分の体調管理に、毎日携帯電話の

 アプリを利用している。加奈にとって、携帯電話は日常生活の

 マストアイテムなのだ。ということは。


 ゆっくりと宝物を扱うように、唯一残された手掛かりを扱う。

 わざわざ送って来たということは、何か意味があるはずだ。

 細心の注意を払って、携帯電話を調べる。 

 アドレス帳を確認すると、『新しい携帯電話』と書かれた欄がある。

 

 (これだ!)


 小田切はその電話番号に、かけてみた。   



11

 

 小田切が祈るような気持ちで思い切って電話をかけてみると、

 「もしもし」と呑気な声をした加奈が出た。


 相手が小田切だと分かると、烈火のごとく怒りだす。


 「どうして私の携帯電話を持っているの? あなたが盗み出したのね?

  警察にも盗難届を出したのに。あなたって言う人は、望を実家から

  どこかへ連れ去ろうとしただけではなく、私にまで嫌がらせを

  しようっていうの?全部犯罪になるのよ。全部警察で話してくる!」


 堰を切ったように怒りをぶつける加奈に、小田切は唖然としながらも

 不思議な事に気付いた。


 (なぜ加奈は自分が望を連れ去ろうとしたことを知っているのか?)


 小田切は望を預かるとは言ったが、預かり先は自分の実家と思わせる

 ニュアンスで言った。実際は祖母の家にしばらく匿う予定だったが、

 それについて一言も言っていないし、両親にも口止めをした。


 (おかしい)


 その時電話の向こうで、ずっと焦がれていた声がした。


 「ママ、パパとお話ししてるの?変わって!」


 随分あっさりと探し人が見つかり、安堵のため息が出る。

 一時は最悪の事態も想定していたのだ。


 「望がそこにいるのか?どういうことだ?」


 「ずっと私が預かっているわ。当てが外れて残念ね」


 「お前が望を誘拐したのか? いや初めから犯人グループとグル

  だったんだな?」


 「何言っているの。誘拐犯はあなたたちでしょ!そもそも誘拐された

  と思っていたなら、どうして私に連絡しようとしなかったの?どうせ

  親権を争う時に不利になるとでも考えていたんでしょ? 今度のことで

  完全に愛想が尽きた!離婚します。あなたが同意しないなら裁判を

  してでも。それじゃあ離婚届はあなたの実家に送るわね。それじゃ」


  捲し立てるように話す加奈に、すっかり圧倒される。

  ともあれ望が無事だったことで、小田切は気が抜けてその場にへたり

  込んでしまった。

  


12


 「何だ、無事だったのか……。良かった……」

 喜び勇んで、小田切は警備員と他の研究室の院生たちに、
 娘が無事だったことを、自ら伝えに行く。
 幸いにして、皆が望が見つかったことを喜んでくれ、
 妻に娘を預けていたのをうっかり忘れていた人騒がせな
 男の事を快く許してくれた。結果的には事件性もなく、
 警察を呼ぶまでもなかったので、不信がられることもなかった。

 約一名を除いては‐常川だけが不審な目つきで、詰問する。

 「どうして旧劇薬保管庫に娘がいると思った? 誰から聞いた?」

 しつこく聞いてきたので、小田切は疲れていることを理由に黙殺した。
 実際、疲れがピークに達している。
 緊張の糸が切れ、安心感で一気に眠気が襲ってきた。
 望を案じて、右往左往している間にもう深夜の時間だ。

 最後の気力を振り絞って、小田切は両親に連絡をとり望の無事を
 知らせると、そのまま迎えに来てもらうことにした。
 家に帰ると、スーツのままベッドに倒れ込み、死んだように眠る。
  
 ほぼ一日中眠っただろうか。
 すっかり気分良く起きると、先日までの騒動はまるで悪夢のようだ。
 全く現実感が無い。

 また今日から仕事が始まる。
 望を奪還することは叶わなかったが、チャンスはいくらでもある。
 また機をみつければ良い。
 

 十分に睡眠欲を満たした小田切は、すっきりとした頭で大学へ出勤した。

 未だ望は加奈の保護下にあり、件の営業マンの行方も知れない。

 順調とは言えない現状。

 それでも望が無事ならば、仕切り直しが出来るはず。

 脅迫者の要求は飲んだのだから、もう不正経理については

 気にしなくて良いはずだ。


 (それにしても、あの電話の主は誰なんだ?)


 不正経理の証拠さえ押さえれば、現状で不利になることはないはず。

 だからこそ不正経理の証拠をもみ消す為に、元営業マンの行方を追って

 いたのだ。5年前のアカハラのこともどこからか聞いた噂話を恐喝の

 ネタにしようとしただけだと。

 だとしても、相手はハラスメント事件に執着している。

 取引材料以上の価値を置いていると感じる。

 

(誰か協力者がいるはずだ。5年前の事件の関係者か?それとも

 その家族か……?)


先に正体を知った方がこちらに有利な戦略を立てられる。

要求を飲む、飲まないではなく、そろそろ敵の正体を知る段階に来ている。


(今日から正体に繋がるものを探すことにするか。もうやられっぱなし

 ではいない)

 

 攻めに転じると決めると、心がいきり立つ。

 勢いのまま、小田切は新たな気持ちで、自分の研究室のドアを開ける。

 修理して以来怖くてあまり触っていないパソコンは避けて、

 自分のスマートフォンで興信所を探し始めた。


 コンコン。


 ノックがしたので、慌ててネット接続を解除しようとしていると、

 優奈が珍しく返事を待たずに部屋に入って来た。

 慌てて妙なキーを押してしまい、

 常になく慌てている小田切を見て「先生、大丈夫ですか?」と尋ねる。


 遅れて常川も入って来る。

 こちらはノックなどはなからしない。

 用件だけを述べる。


 「お前、……大変なことになっているぞ」


 意味が分からない小田切に、常川はデスクトップのスイッチを

 入れるよう促す。ネットに接続すると、常川は勝手にマウスを操作

 して、あるホームページに辿りついた。


 「何だこれ?」


 『5年前の大学アカデミック・ハラスメント事件を許さない!」

 と題されたこのページ。そこには5年前の土岐等あかりに対して

 行われた行為を、事こまかに綴ってある。さすがに実名は書いて

 ないが、イニシアルと大学の所在地情報から、関係者が見れば

 自分であることは丸分かりだ。


 そこのあるボタンを常川がクリックした。


 「やったのは……君と、僕と、……君だ」


 肝心の人名はさすがに音声処理が施されているものの、これはあの時

 犯人とおぼしき人物と小田切が交わした会話だ。犯人の声は録音時

 以上に機械的なものに置き換えられている。


 「音声朗読ソフトを使ったんだな。これでは相手の声は分からない」


  他人事のように常川が解説する。

  小田切の顔はまさに蒼白だった。

  やっと目覚めたのに、またもや悪夢に引き戻されたように、

  血の気が無い。

  相手はまだ小田切を許していない。

  いやこれが当初の目的だったのか。

 

 それでもこの時点では、小田切はなんとかなると踏んでいた。

 数多くの人間がブログやらSNSを乱立するこの時代に、興味のない

 人間にとって退屈極まりない告発ホームページをわざわざ探し出して読む

 者がそれほど居るとは思えない。

 すぐにこの音源とホームページを管理者に言って削除させれば、

 それほど問題はないはずだ。


 「このサイト、ブログのランキングで上位に入っているんです。

  それにアカハラと関係ありそうなコミュニティに宣伝を貼りつけ

  まくっているから、少しずつ知られているみたいで。わずか数日なのに、

  かなりアクセス数を稼いでいます」


 「俺もブログやっているから、何人かに聞かれた。この内容は

  本当かってこととか、お前の普段の態度のこと聞かせろって」


 「……まだ研究室の他の皆さんは気付いていません。でも時間が経てば

  知られることです。ご自分で説明された方がいいのでは?……ここに

  書かれているのは当然嘘なんですよね? だったら堂々と言えば大丈夫

  ですよ。まずは山瀬先生に……」


  優奈は誰かに誤解を受けて中傷されていると、未だに信じていた。

  今まで届いた怪文書が何度も小田切の罪を告発しているが、

  優奈はこの1ヶ月間で実際に見た小田切の人となりを信じた。

  つきあいは短いけれど、音源に入っているようなことはするはずが

  ないと。山瀬の名前を出されて、小田切は心底困った顔をする。


  「考えさせて欲しい……」


  「過去の代償か。高くついたな」


  常川は慰めているとも、諫めているとも分からない声音で言った。

  



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