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20


 

 小田切が失踪した分増えた仕事は、山瀬がカバーすることになり、
 山瀬が研究室に顔を出すのは一層減って行った。


 「山瀬先生は、本当に良い先生ですよね。あの事件の事にも触れず、

  黙って小田切先生の尻拭いをしてあげるなんて。なかなか出来ること

  じゃないですよ」


 常川は呆れたように言う。


 「お前は本当に山瀬を気に行っているんだな。老け専か?」


 「はあ? 変なこと言わないでください。私は尊敬しているだけですよ。

   そのために何年もかかってこの大学に入学したんですから。それから

   指導教官を呼び捨てにしないで下さい」


 「お前なあ。あまり理想を押しつけると、後で泣きをみるぞ」


 「常川さんみたいに、理想も何もない人間の方が可哀そうですよ。

  尊敬する人もいないでしょ?」


 「俺は俺を尊敬しているからな」


 心底うざったそうに常川の相手をする優奈。

 当然研究室内での会話なのだが、誰も会話に入ってこようとはしない。

 小田切失踪当初は、大いに動揺していた研究室だったが、

 小田切不在の研究計画を新たに練り直したのか、今では滞りなく全ての

 業務が進んでいる。

 

 偶に誰かが、「今頃どうしているのだろう?」と呟くくらいだ。

 そんな中、常川は独自に小田切の行方を探していた。


 「別に小田切の為ではない。あくまで加奈さんの為だ」と嘯く。


 小田切の失踪以来、加奈はすっかり自責の念に苛まれている。

 自分が冷たくしたせいだと落ち込み、ご飯も喉を通らない。

 幾度も着信があったのに、無視してでなかった。

 そのせいで小田切は将来を悲観して自殺しているんじゃないかと。

 義両親ともそのことで揉めていると、零していたと常川は言っていた。


 居場所を知っていそうな人間の第一候補は、佐々木だった。

 あれだけ一緒に居て、佐々木は不正経理の責を問われないだけでなく、

 今や小田切の代役まで果たしている。

 怪文書の記述が正しいのだとすると、佐々木は5年前のハラスメント事件

 にも大部分で関わっているはず。

 小田切が自分の意思で失踪したにしろ、脅迫者に攫われたにしろ

 何かを知っていると考えるのが自然だ。優奈も常川の読みには賛同する。


 だが何度聞いても佐々木は知らないと言うし、むしろ公表された

 小田切と犯人の会話のせいで、迷惑を被っていると主張したらしい。

 

 「脅していた奴の目的は果たしたんだ。これ以上小田切に危害を加えた

  ところで、リスクしか生じない」


 心当たりを全て探しても小田切が見つからず、半狂乱の加奈に、

 常川はそういって慰めていた。

 縁もゆかりもない土地で、一から人生をやり直しているのなら、

 見つけようがない。探すだけ探したら、後は小田切が連絡する

 気になるのを待って、祈ることしか加奈はできなかった。

  

 その数週間後、小田切は発見された。

 他県の山奥深く。

 登山姿のまま山道に倒れていた。


 登山客に発見された遺体は、鑑定によって小田切のものとされた。

 死因は中毒死。

 山に自生している有毒の植物を煎じた茶が、水筒に入っていて

 それを飲用したことによる中毒死だった。


 遺書もないが、争った形跡もない。

 一連の職場での不祥事や、家庭問題でも悩んでいたとの証言から、

 自殺と断定された。

 

 時は流れ、あの自殺した学生のように人々の記憶は曖昧となり、

 大学は次の候補者を探した。下で待機している候補者は山ほどいる。

 その中で結局選ばれたのは、山瀬研究室OBの佐々木が後釜に座った。

 既に学内の同じCOEの助教でもあり、山瀬の強い推薦から手続き上は

 さしたる障害もなく就任した。


 佐々木は山瀬教授の下修士、博士と学位を進めてきた女性で、

 着任と同時に、ハラスメント相談員を兼職することとなった。

 心理士ではないが、大学内について詳しいと言うことで抜擢

 されたらしい。

 

 アカデミック・ポストを狙っているポスドクはいっぱいいるので、

 佐々木は相当運が良い。後継者を迎え、時は何事もなかったかの

 ように流れていく。

 

 新緑の季節は深まり、すこしずつ季節は巡っていく。新たな季節が

 始まろうとしていた。



21


 老人が柄杓と桶を、墓場に続く細道を歩く。

 いつものように既に墓には花が生けてあり、焼け落ちた線香の残骸が

 残っていた。墓の周囲の草も綺麗に抜かれている。

 また来てくれたのだなと、老人は頬を緩めた。


  その日の夜-。


 明るすぎる太陽が眠りにつく頃を盛りとする、夜の社交場では、

 今日も嬌声がそこかしこから聞こえる。

 焔はオーナーだが、店が忙しかったり、昔の馴染みから指名されれば、

 フロアに顔を出すこともある。


 「ねえ、前のどうだった? 好評だった?」


 グラスで乾杯をした後に、女は急かすように問う。

 当然答えは、一つしか認めないつもりだけれど。

 

 「ええ。大好評でした。やはりサヤカさんに頼んで良かった」


 目をじっと見つめて言うと、女は頬を染めて下を向く。

 

 「そっか。良かった」


 気合いを入れた服が、通い慣れた客でないことを示している。

 

 「ちょっと電話が。失礼します」


 「女の人?」


 「まさか仕事の相手ですよ」


 むくれるサヤカに苦笑しながら、焔は代わりにと新顔を紹介する。

 

 「彼は元々営業畑にいたのを、僕がスカウトしたんです」


 慣れない仕草で名刺を渡したのは、紛れもなく大学の調査委員会で

 小田切を告発した男だ。今は焔に誘われ、夜の繁華街で第二の人生を

 歩んでいる。

 情けないだの散々罵られた顔は、繊細な顔として、女性客からの

 人気も上々だ。


 サヤカも直ぐに気に入ったらしく、すぐに隣に座らせた。

 二人が話し始めるのを見届けると、焔は自室へ移動した。 

   

 「上手くいきましたね」

 

  自室のソファーに座って、ナンバーを確認するとかかって来た

  電話は、天原からだった。

  誰もいない自室だが、念のため声を潜める。

  自室に営業スマイルは必要ない。

  本来の仏頂面に戻る。


 「お前の番はこれからだ」


  最小限の一言で切ろうとすると、珍しく天原は食い下がる。


 「あの人には会わせてくれないの?」


 「必要が無い。必要以上の接触はトラブルの元だ」


 「……そういうことにしておきましょう」


 「油断するな」


 「はいはい。そっちこそ盗聴器の回収は終わったんでしょうね?」


 「当たり前だ」


  押し殺したような笑い声が、なんだかむず痒くて、焔は今度こそ

  携帯電話を切った。

  そして天原と初めて会った時のことを思い出す。

  ただ天井だけ見ていた頃の面影は、今はない。

  口には出さないが、焔は天原の強さには一目置いている。


 (あれが笑うようになるとは)


  感慨深いものを感じながら、ポケットに携帯を仕舞うと

  待ち人に会いに向かった。


  今日もまだまだ夜は長い。



1


 その日も後援会を回っていると、いつもと同じく十時までかかって
 しまった。選挙を控えたこの時期は、東京での業務の忙しい父親の
 名代として、矢越が代役を買って出ることは恒例となっていた。
 もちろん将来の来るべき立候補も視野に入れている為、自分の名前を
 売ることも忘れない。自分にとっても、父親にとっても重要な仕事だ。
 
 勧められた酒のおかげで、良い具合にほろ酔い気分で事務所に帰ると、
 最後まで残っていたのは、矢越と同じく秘書の田勢だった。
 矢越よりも2歳ほど年若い田勢は、民間企業から移転して来た変わり種だ。
 その分仕事を覚えようと人一倍仕事をしている。

  必然的に一緒に過ごすことが多くなった。

 仕事が遅くなった時には、矢越が田勢を駅まで送ってやっている。

 仕事熱心な田勢は、そんな時までも仕事の話だ。

 ほろ酔いとは言え、自身もワーカホリックな矢越はこの会話すらも

 楽しめる。神経質で仕事熱心だが、仕事以外では抜けているところもあり、

 一緒にいるのは楽しい。歳が近いせいかもしれない。


  今も荷物を取りに来たついでに来ただけのつもりが、他愛もない

 話題で話し込んでしまう。

 携帯が鳴らなかったら、もう少し続けていただろう。

 着信を告げるメロディに、急いで相手を確認すると芽生だった。


 半年後の結婚式の衣装合わせについての相談だ。


 矢越にとっては瑣末なことに過ぎなかったが、女性にとって

 どれほどの意味があるのか分からないほど無知ではない。

 次の日曜日に、ウエディングドレスの衣装合わせに行くことを

 約束して、電話を切った。


「……婚約者さんから、ですか?」


「ああ。結婚式の衣装合わせに付き添えってさ。面倒だけれど」


 そう言いながらも矢越は嬉しそうだった。

 ドレスなんて全部似合うに決まっている。それよりも結婚すると言う

 事実の方が重要だった。


「結婚、本当にするんですか?」


 矢越の言葉を遮るように田勢が尋ねる。


「……うん? ああ。当たり前だろ」


「澄真さんは、本当にその人のことを知っていますか?」


 「矢越さん」と名字で呼ぶと、父親と混同して紛らわしいので、

 事務所では下の名前「澄真(とうま)」と呼ばれている。


「……何のことだ?」


「もう一度よく考えた方がいいかもしれません」


「お前が芽生の何を知っているんだ?」


 思わず怒鳴りつけてしまった。職場で滅多に声を荒げる事などないのに。

 だが芽生は婚約者だ。婚約者を侮辱されて黙っている男などいるだろうか?


「……一般論ですよ」


 だが田勢は少しも怯まない。


「僕ももうすぐ結婚するんです。式は挙げませんがね」


  先程までの朗らかな雰囲気はどこへやら、田勢はそれだけ言い捨てると、

 「失礼します」とやけに他人行儀な科白を残して、さっさと帰ってしまった。


  いきなり途切れた歓談の場に、矢越は気分を害したというよりも、

 狐に包まれた気分になる。

 田勢はあまり感情を表に出すタイプではないのだ。

 いやそれ以上に、結婚するという報告に驚いた。

 全く浮いた話がなかったのに。

 色々な意味で衝撃的で、ふわふわとした頭のまま、矢越は帰路についた。

 

  帰宅してメールをチェックすると、芽生から2通メールを受信していた。

  衣装合わせが楽しみだということ。

  最近仕事で忙しくて会えないから、結婚して毎日会いたいということ。

  絵文字を使った文章に、添付ファイルで今日作ったという煮物の写真も

 送ってくれている。


(後悔なんてするはずがない)


 矢越は改めてそう思った。

 


2


 田勢も気まずかったのだろう。

  翌日、田勢は自分と他のスタッフ一人で残業をすると言い張り、

  半ば強引に帰るよう押し切られた。

 納得しにくい理由だが、素直にその日は早めに帰ることにして、

 矢越は久しぶりに芽生の家に行くことにした。


 芽生の家は事務所のある街の中心部から、歩いて三十分ほどの

 マンションで独り暮らしをしている。

 芽生は今月から既にアカデミックのポストに着任し、

 引き続きCOEプロジェクトに参加しているのでそこそこ多忙だが、

 事前にスケジュールが決まっている。

 不規則な矢越のスケジュールに彼女が合わせてくれたほうが、

 効率が良いので、今日の急な来訪にも芽生は嫌な顔をしなかった。


「初めて作るからあんまり自信がないけれど、どうぞ!」


 謙虚なことを言いながらも、言葉の調子だけは威勢が良い。

「悪くないよ」と返す。大げさに喜んだ芽生は、そのまま最近

 あったことなどをとりとめなく話し続けた。

 それに織り交ぜるように、さりげなく尋ねてみる。


「……芽生は、本当の俺のことを知っている?」


「うん!? 何それ?」


 出会って三年。お互い交友関係は広いので、それを辿って

 紹介されているうちに知り合った。初めはノリがあって一緒に

 いると楽しくて。何度か会ううちにどちらともなく二人だけで会う

 回数が増えていった。

 

 何事にも手を抜かないその姿勢にも共感できた。

 芽生は、大抵のことは要領よく何でも人並みにこなす。

 だから料理も決してまずくなることはない。


「知っているよ。それとも何か秘密でもあるの?」


「そうじゃないけれど。……芽生はどうなんだ?」


「実は……」


 いきなり深刻そうに俯く芽生。


「まさか……」


「なんてね。何もないよ。残念だけれど。毎日あったことを

 話しているじゃない」


 やはり田勢は自分を妬んでいるだけだったんだ。安堵の余り芽生を

 抱きしめる。

 鼻先をかすめる髪からは甘い香りがした。


 ピピピピピ。


 芽生の携帯電話が鳴った。芽生は送信相手を確認すると、隠す

 ように携帯を無造作にハンドバックに突っ込んだ。


「ごめん。学部の学生の子。さっき話したでしょ? 私今学期から

 学生のハラスメント相談員を担当しているの」


 先ほどまでの雰囲気はどこへやら、芽生はさっさと外出の支度を始める。


「それでもこんな時間にまで携帯電話で、相談をもちかけるなんて

 非常識じゃないか?」


 時刻は既に十一時を指そうとしていた。

 

「本当にごめんなさい。緊急なの。この埋め合わせはまた今度」


 その後姿を見て、矢越は芽生の将来どんな教師になるのか見える

 気がした。

 


3


芽生のマンションで食事をしてから数日後。


 いつもと同じ朝。

 変わらない職場。

 それが一変した発端は、田勢の挨拶からだった。 


「おはようございます。先生が応接室でお待ちです」


 いつも通りの澄ました声で、田勢が要件を告げる。

 今でも矢越は忘れない。

 ドアの向こうに覗いた世界は、不信と悪意が渦巻く世界への

 入口であったと。


  入室して早々に、父親は開口一番切り出した言葉に、

 矢越は驚いた。


「お前は芽生さんがどういう人間かちゃんと分かっているのか?」


 意味が分からず戸惑っていると、父親はドアを開けて田勢を

 部屋に呼んだ。数日前の帰りに田勢が言った言葉が蘇る。


「本当にその人のことを知っていますか」


 芽生が何をしたと言うのか。

 芽生は自身が職業を持っているので、事務所の仕事を手伝うことは

 稀だ。それでも結婚したらきちんと支えてくれるだろうし、

 そう信じている。それが不服とでもいうのか。

 矢越の不安を余所に、田勢は予め用意をしてあったUSBメモリを

 パソコンにセットする。


 音声だけが再生された。

 内容は二人の男による質疑応答で、二人の役割は固定していた。

 答える役割の男の声で語られるのは、一人の女子院生に対する

 ハラスメントの数々。

 ハラスメントの加害者であることを認めた男は、他の加害者の一人

 として芽生の名前を挙げた。


 「こんなの唯の中傷ですよ。誰だか知らないけれど、この男が自分だけ

  罪を被るのが嫌で、無理やり芽生を巻きこんだに違いない。こんな

  酷いことをする訳がない。お父さんだって芽生に会ったことがあるの

  だから分かるはずです。だから結婚を許してくれたんでしょう?」


 「賢く立ち回れるし、外見も悪くない。いささか表に出過ぎる

  嫌いはあったが、お前の選んだ相手だし無難な選択だと思ったんだが。

  これは良くない。意味は分かるな?」


  椅子のアームにおいた指を、人差し指だけ上下に動かしている。

  苛々している父の癖だ。

  相当不機嫌なことを、矢越は理解した。


 「……本当だったとしたら、確かに問題です。でもそもそもこれは

  どこから手に入れたんですか? 信頼できる情報なんでしょうか?」


  父が合図をすると、田勢が小さな白い封筒を応接机の前に置く。

  父親の東京の議員会館に届いたと説明を受ける。

  封筒を宛名だけで、差出人は書いていなかった。

  

 「これだけではない。他にもある」 

 

  父の言葉を受けて、田勢が無言のままパソコンを操作すると、

  個人用ブログの画面が出てきた。

  今聞いたばかりの、5年前のアカハラを追求するのを目的とし、

  その細かい経緯が掲載されている。

  加害者として告発されている小田切、佐々木、芹沢の犯した

  ハラスメント行為とその経緯を、時系列を追って書かれている。

    

 「このブログにも、同様の音源があり、誰でもダウンロードできる

  ようになっています。ただしネットの方は、個人名や大学名などは

  音声処理されております」


  名誉毀損で告発されることを恐れて、ぎりぎりの線で

  告発しているのでしょうと、田勢が説明する。


 「インターネットの情報だけでは、怪しいものですよ。偽の情報を

  ネットで流す愉快犯だっています。これだけで決めつけるなんて、

  お父さんらしくありませんよ!」


 「そこまで言うなら、お前が嘘だと証明しなさい。それが出来るまでは

  結婚は延期だ」


 「選挙前にご迷惑をおかけして申し訳なく思います。ですが、

  いくらお父さんでも僕の結婚にまで口を出されるのは……」


 「選挙のことはこの際いい。本当だったとしても、反省している

  ならそれで良い。過去ではなく、今がちゃんとしていれば何も

  恥じることはない。だがもし真実かつ反省もしていないようなら、

  私は……その人間を心から軽蔑する」


  父親は真っ直ぐな性格故に、若い頃は世の中の汚れた部分を受け入れ

  られず、随分と苦労した。年齢を重ね、ある程度の折り合いを付けられる

  ようになっても、根っこの部分は変わらない。

  こんなに感情的になっているところを見るのは、久しぶりだ。

   

  「真実かどうかが問題じゃない。こんな噂が流れること自体が

   問題なんだ。結婚したいのなら自分で解決しろ」


  幸せから一転、矢越は窮地に立たされることになった。

  今日は国会議員の父親自ら後援会回りをやるので、付き添う必要が

  ある。父親の監視の下、その音源について触れられないかびくびく

  しながら後援会回りをした。


  いつも正々堂々と生きてきた矢越にとって、後ろめたい気持ちで

  他人に接するだけですっかり疲れ切ってしまった。


  家に帰っても父親がいると思うと憂鬱で、事務所で伸びていると、

  田勢が帰って来た。

 

 「今日も残業か?」


 「ええ。やることはいくらでもありますから。それよりも家に帰ったら

  どうですか? 久しぶりの親子水入らずでしょう」


 「いいよ。あんな話聞かされた後じゃ、水入らずも何もない」


 「そんなに気になるのなら婚約者さんに、直接尋ねればいいのでは?」


 「明日会う予定だから、その時に聞くよ」


 「信じてはいらっしゃらない?」


 「そうじゃない。ただの中傷だ。そう思っている。その後の処理だよ。

  自分のことならともかく、他人の事だ。どんな背景があるか、どんな

  考えをもっているのか。そこから始めないといけない。この忙しい

  時期に。タイミングも最悪だ」


  珍しく愚痴を吐く矢越に、目を丸くする田勢。

  その顔を見て、何事か思い出した矢越はバツが悪そうに謝る。


 「……この間は悪かった。田勢はあの音源の事知っていたんだな。

  それで俺に忠告してくれていたんだ。知らなかったとはいえ

  怒鳴ったりして悪かったよ」


 「いえ。お気になさらず」


 機械のように、作業を開始する田勢。

 こいつは本当に感情がない奴だな。

 そういえばもうすぐ結婚すると言っていた。

 そのことを尋ねると、少し恥ずかしそうに「そうです」と言った。

 

 「相手は誰なんだ。俺の知っている人か?」


 「秘密です」


 「なんだよ。教えろよ」


 友人同士でふざける調子で詰め寄ると、田勢は言った。

 

 「また前と同じ失敗は繰り返したくないんですよ」


 何かを決意したかのように田勢はそう言った。 




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